ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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45章「人間主義(その3)」

◆ ◆ ◆

 

フォークスの歌はそっと余韻を残してから消えた。

 

冬のしなびた草のうえに寝かされていたハリーは起きあがり、フォークスがまだ自分の肩に乗っているのを見た。

 

まわりで、いっせいに息を吸う音がした。

 

「ハリー……」とシェイマスが震える声で言う。「大丈夫か?」

 

不死鳥がもたらす平穏はまだハリーのなかにあり、フォークスが乗る肩からぬくもりがからだのなかに流れこんでいる。それとともに、歌の記憶がよみがえる。 自分の身に起きたおそろしいできごと、自分のなかに流れたおそろしい思考。もどるはずのなかった記憶がもどったこと。ディメンターのせいでその記憶をみずから汚したこと。 奇妙なことばがひとつ、こころのなかでこだまする。 だがそのどれも、あとまわしでいい。落ちかけた太陽の光をあびて赤と黄金色にきらめく不死鳥がここにいるあいだは。

 

フォークスがカーと一鳴きした。

 

「ぼくがすべきことがある? なんのこと?」とハリーはフォークスに聞いた。

 

フォークスはくびを上下に振ってディメンターの方向を指した。

 

ハリーは檻のなかにいる不可視の怪物のほうを見て、不死鳥に視線をもどし、困惑した。

 

「ミスター・ポッター……」とミネルヴァ・マクゴナガルの声が後ろからした。「ほんとうに大丈夫ですか?」

 

ハリーは立ちあがって、ふりむいた。

 

ミネルヴァ・マクゴナガルはとても心配そうにハリーを見ている。 アルバス・ダンブルドアはそのとなりから、ハリーをじっと観察している。 フィリウス・フリトウィックは危機が去ってほっとしたというような表情だ。 ほかの生徒たちはただじっと、こちらを見ている。

 

「はい、マクゴナガル先生。」とハリーは落ちついた声で言った。 あやうく『ミネルヴァ』と言いそうになってしまったが、思いとどまった。 すくなくともフォークスが肩にいるかぎりは、大丈夫だ。 フォークスが飛びたった瞬間に倒れてしまうのかもしれないが、そういった心配をすることがなぜか重要ではない気がした。 「大丈夫だと思います。」

 

歓声や安堵のためいきかなにかがあってもよさそうなものだが、だれ一人、言うべきことばが見つからないようだった。

 

不死鳥がもたらす平穏の余韻がつづく。

 

ハリーは後ろをむいて、「ハーマイオニー?」と言った。

 

恋の才能のかけらくらいはある人たちがいっせいに息をひそめた。

 

「どうお礼を言っていいかわからない。」とハリーは静かに言う。「どう謝ればいいかわからなかったのと同じくらい、わからない。 ただ、もしあれをしたのが正しかったかどうか迷ってるなら、正しかったと思ってほしい。」

 

少年と少女はおたがいの目をのぞきこんだ。

 

「それで、このあとは大変な展開になると思うけど、 なにかぼくにできることがあれば——」

 

「ない。でも、気にしないで。」とこたえて、 ハーマイオニーはハリーに背をむけ、ホグウォーツ城の門につづく道を歩いていった。

 

何人もの女子がハリーに怪訝そうな視線をむけてから、ハーマイオニーのあとを追った。 追いつくまえから、質問ぜめがはじまるのが聞こえた。

 

ハリーはそれを見送って、ほかの生徒のほうに向きなおった。 自分が地面に倒れ、悲鳴をあげるすがたをその全員に見られたと思うと……

 

フォークスが鼻でハリーのほおをなでた。

 

……〈死ななかった男の子〉でも傷つき、みじめなすがたを晒すことがあるんだということを知って、ほかの生徒はいい勉強になっただろう。 いつか自分自身が傷つき、みじめなすがたになったとき、のたうちまわるハリーの姿を思いだせば、自分の苦境はそれほど大したことがない、と思えるだろう。 総長はそこまで計算して、ほかの生徒があそこから見つづけるのを許したのだろうか?

 

ハリーの目が、ぼんやりと背の高いぼろぼろのマントのほうを向き、ハリーは自分でもなにを言いだすか知らずに、こう言った。 「あれは存在しちゃいけない。」

 

「ああ……」と乾いた明瞭な声が言う。「きみならそう言うのではないかと思っていた。 ミスター・ポッター、残念なお知らせだが、ディメンターは殺せない。 挑戦した人はたくさんいるが。」

 

「そうなんですか? どんな方法を試したんですか?」とハリーはまだぼんやりとしながら言った。

 

「きわめて危険で破壊力ある呪文がひとつある。 ここで名前を言うつもりはないが、呪いの炎の呪文だ。 〈組わけ帽子〉のような、いにしえの魔法具を破壊するときに使う呪文だが、 それもディメンターには効果がない。 ディメンターは不死なのだ。」

 

「不死ではない。」と総長が口をはさんだ。ことばはおだやかだが、視線は厳しい。 「ディメンターに永遠の生命はない。 ディメンターは世界の傷ぐちなのじゃ。傷ぐちをいくら攻撃しても、傷ぐちを広げることになるだけ。」

 

「うーん。太陽に投げこんだらどうでしょう? 破壊できますか?」とハリー。

 

()()()()()()()()?」とフリトウィック先生が悲鳴をあげた。そのまま卒倒しそうないきおいだった。

 

クィレル先生が乾いた声でこたえる。「いや、まず無理だろう。 なにせ太陽はとても大きい。 ディメンターを投げこんでも、ほとんどなんの影響もあたえることはできまい。 とはいえ、万一の可能性を考えて、わたしなら実験しようとも思わない。」

 

「そうですか。」

 

フォークスが最後にもう一鳴きして、つばさを広げハリーのあたまにかぶさるようにしてから、まっすぐにディメンターにむかって飛びたった。 つんざくような声をあたりにひびかせながら、果敢に飛んでいく。 そしてだれ一人反応できないうちに、炎がぱっと燃えあがり、フォークスは消えた。

 

平穏がすこし弱まった。

 

ぬくもりがすこし弱まった。

 

ハリーは深く息をすい、はいた。

 

「よし。まだ生きてる。」

 

静寂がもどった。やはり歓声はない。どう対応していいか、だれも分からないようだった——

 

「ミスター・ポッター、きみがこうして完全に回復したことはよろこばしい。」  クィレル先生はきっぱりとした口調で、回復していないという可能性は認めない、とでも言いたげだった。 「さて、つぎはミス・ランザムの番では?」

 

そこからすこし口論になったが、クィレル先生だけが正論でほかはすべて間違いだった。 みなの感情的な反応は無理もないが、あれと似たような事故が起きる可能性はかぎりなく小さい、というのが〈防衛術〉教授の意見だった。 杖に関しては対策できることが分かったのだから、以前より安全になってさえいる。 いっぽうで、のこりの生徒たちも〈守護霊の魔法〉をかける絶好の機会をのがすべきではないし、すくなくともディメンターに近づいたときの感覚を知り、自分のもろさを知って、逃げられるようにする訓練にはなる……

 

結局、ディーン・トマスとロン・ウィーズリーの二人のほか、いまからディメンターのまわりに近づこうという生徒はいないことがわかり、話は簡単になった。

 

ハリーはディメンターの方向をちらりと見た。 すると、またおなじことばが、こころのなかにこだました。

 

よし。では、ディメンターが謎かけ(リドル)だとしよう。答えは何になる? とハリーは自問する。

 

たったそれだけのことで、答えは明らかになった。

 

汚れて、すこしさびついた檻にハリーは目をやる。

 

長いぼろぼろのマントの下にあるものを見る。

 

やっぱりそうだ。

 

マクゴナガル先生がハリーに声をかけにきた。 彼女は最悪の瞬間を見ていないので、涙はかすかに見える程度だった。 ハリーはまえから気になっていた質問をしたいから、あとで話がしたいが、いそがしければすぐでなくてもいい、と言った。 彼女には、なにか重要なことを放置してここに来ている、というような素振りがあった。ハリーは、もしそうだったら、ここにいられないことを申し訳なく思う必要はない、と言った。 そう聞いて彼女はきつい視線を返したが、あとで話しましょう、と約束して、足ばやにその場を去った。

 

ディーン・トマスはディメンターがいるまえでもまた、白いクマを出現させることができた。 ロン・ウィーズリーは、きらきらとした霧でそれなりの防壁をつくることができた。 それで、ハリー以外から見れば練習はひととおり終わったので、フリトウィック先生は生徒たちをホグウォーツ城のなかへ誘導しはじめた。 ハリーが動かないつもりであることがはっきりすると、フリトウィック先生はいぶかしげな視線をよこした。 ハリーは意味ありげにダンブルドアのほうを見た。 寮監フリトウィック先生はそれをどういう意味で受けとったのか、警告するようなするどいまなざしをして、去った。

 

残されたのは、ハリーとクィレル先生とダンブルドア総長、それに〈闇ばらい〉の三人組。

 

この三人組にまずいなくなってほしいところだが、追いはらう口実が思いつかない。

 

「よし。では、撤収だ。」と〈闇ばらい〉のコモドが言った。

 

「ちょっといいですか。もう一回、ディメンターとやらせてもらいたいんですが。」

 

◆ ◆ ◆

 

そう頼むハリーに対して、かなりの反対意見が出た。どれも『おまえはどうみても狂っている』という趣旨の意見だったが、はっきりと口に出してそう言ったのは〈闇ばらい〉ブトナルだけだった。

 

「フォークスにそう言われたので。」とハリーは言った。

 

ダンブルドアはそれを聞いてショックの表情をした。しかし反対をすべてしりぞける効果はなかった。 口論はつづき、ハリーは不死鳥がくれた平穏を使いはたしつつあり、ほんのすこしだけだが、いらっとした。

 

「ちょっといいですか。ぼくはさっきどこを間違えていたのか、かなり自信を持ってわかっています。 ひとによって、必要なぬくもりと幸せのイメージはちがうんです。 だからとにかく、試させてもらえません?」

 

この説得も通用しなかった。

 

時間をおいて、クィレル先生が口をひらき、ハリーにきつい視線をむける。 「こうして適切な監督下で挑戦する機会をとりあげてしまうと、彼ならそのうち、こっそり自力でディメンターを探しにいきかねない。 これはわたしの言いがかりにすぎないか、ミスター・ポッター?」

 

一同が愕然として、会話がとまった。 切り札をだすならこのタイミングだ。

 

「総長の〈守護霊〉は出したままでもかまいません。」 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

それを聞いてみなが困惑し、クィレル先生でさえ当惑した。 だが総長は最終的に受けいれた。〈守護霊〉四体を乗りこえて、ハリーに害がおよぶことはまずないだろう、という判断だった。

 

もしディメンターがなんらかの意味であなたの〈守護霊〉を乗りこえることができないのなら、アルバス・ダンブルドア、あなたも痛ましい裸の男を見ることはないはずでしょう……

 

無論、ハリーはそれを声にだしては言わない。

 

一同がそろってディメンターのほうへ歩いていく。

 

「質問です。レイヴンクロー寮の扉が、ディメンターの中心にあるものはなにか、という謎かけをしてきたとします。 総長ならなんとこたえますか?」

 

「恐怖。」と総長はこたえた。

 

引っかかりやすい間違いだ。 ディメンターが近づくと、人は恐怖におそわれる。 恐怖は苦しい。自分のちからがしぼむように感じる。だから恐怖に去ってほしいと思う。

 

恐怖こそが元凶だと考えるのは自然なことだ。

 

そして、ディメンターは純粋な恐怖でできた生きものだ、と考えてしまう。恐怖そのもの以外に恐れるべきものはない。自分が怖がらなければ、ディメンターも手出しできない、と……

 

でも……

 

『ディメンターの中心にあるものはなにか?』

 

『恐怖。』

 

『精神が見ることをこばむほど、おぞましいものとはなにか?』

 

『恐怖。』

 

『殺すことができないものとはなにか?』

 

『恐怖。』

 

……考えてみれば、あまりぴったりくる答えではない。

 

とはいえ、この答えを最初に思いついたら、それ以上のことを考えたくなくなる人が多いのもわかる。

 

恐怖ならだれもが()()している。

 

恐怖に対してはどう()()すればいいかも、わかっている。

 

だからディメンターと対峙するとき、そのつぎの問いを考える気にはなかなかなれないのだ。 『この恐怖は副作用にすぎないとしたら? 恐怖がそもそもの元凶ではなかったら?』

 

一同は〈守護霊〉四体に守られて、ディメンターの檻のすぐそばまで来た。〈闇ばらい〉三人とクィレル先生はすばやく息をのんだ。 全員がディメンターのほうを向いて、なにかを聞きとろうとしている。〈闇ばらい〉ゴリアノフが恐怖の表情をした。

 

クィレル先生は顔をあげて、険のある表情をして、ディメンターのほうにつばを吐いた。

 

「どうやら、えさを取りあげられたのが気にくわなかったらしい。」とダンブルドアが言う。 「クィリナス。もし必要とあれば、いつでもホグウォーツ内に避難場所を用意するぞ。」

 

「ディメンターがなにか言いましたか?」

 

ハリーの声に、全員がぱっと顔をむけた。

 

「聞こえなかったのかね……?」とダンブルドア。

 

ハリーはくびを振った。

 

「おまえのことは知っているぞ、いつか襲いにいくから待っていろ、どこに隠れても無駄だ、とわたしに言っていたのだ。」 クィレル先生の表情はかたく、おびえた様子はなかった。

 

「ああ、そのことは心配しなくていいと思いますよ、クィレル先生。」  ディメンターが実際にしゃべったり考えたりできるわけがない。ディメンターが持つ構造は、相手の精神や予断を借りたものにすぎない……

 

こんどは全員が()()()怪訝そうな視線を送ってきた。 〈闇ばらい〉の三人は不安げに、おたがいとディメンターとハリーを見くらべた。

 

そして全員がディメンターの檻のすぐまえに来た。

 

「ディメンターは世界の傷ぐち。当てずっぽうですが、そう言った人物は多分、ゴドリック・グリフィンドールじゃありませんか。」

 

「そのとおり……なぜわかった?」とダンブルドア。

 

よく誤解されることだが、合理的な考えかたをする人はかならずレイヴンクローに〈組わけ〉され、ほかの寮には一人もいかない、というのは間違いだ。 レイヴンクローに〈組わけ〉されるということは、好奇心がその人の最大の長所だという証拠にはなる。真の解を知ろうとする探究心といってもいい。だが、合理主義者がそなえるべき特質はそれだけではない。 努力してひとつの問題に取りくみ、しばらく集中することが必要な場合もある。 探索にあたって巧妙に作戦をたてる必要があったりもする。 そして、解を直視すること、つまり解に立ちむかう勇気が、なにより大切な場合もある。

 

ハリーの視線はマントの下にあるもの、朽ち果てたミイラよりはるかにおぞましいものへと向かう。 ロウィナ・レイヴンクローならこの答えを知っていたかもしれない。謎かけであると分かりさえすれば、答えはほとんど自明だ。

 

そして〈守護霊〉が動物である理由も自明になった。 動物はこの答えを知らない。だから恐怖をまぬがれている。

 

だがハリーは知っている。知らずにいることはできない。忘れることもできない。 ハリーはひるまずに現実を直視する訓練を自分に課してきた。いやなことから逃げず、正面から立ちむかって考える技術は、完全に体得したとは言えないものの、精神にきざみこまれてはいて、反射的な動作になっている。 ハリーはほかのなにかについてぬくもりのある幸せなイメージを思いうかべても、自分が直視すべきものを忘れることができない。だからこの呪文がうまくいかなかったのだ。

 

だから、ぬくもりのある幸せなイメージを思いうかべるにしても、ほかのなにかに逃げなければいい。

 

ハリーはフリトウィック先生から返してもらった杖をかまえ、足を踏みだして〈守護霊の魔法〉の最初の姿勢をとる。

 

こころのなかに、わずかに残っていた不死鳥の平穏を捨てる。そのおだやかさ、夢見るような心持ちを捨て、フォークスのつんざくような声を思いだし、自分を戦いに奮いたてる。 自分のからだをすみずみまで目覚めさせる。 自分のなかにある〈守護霊の魔法〉に使えるちからをすべて呼びさます。そしてこれから最後に試みる、ぬくもりと幸せのイメージにぴったりの精神状態を準備するため、よい思い出のことを考える。

 

お父さんが買ってくれた、たくさんの本。

 

母の日のプレゼントとして、手作りのカードと、物置きにあった二百グラムの電子部品のがらくたを使って三日がかりで作った、光と音楽のでる苦心の作品を渡してあげたときのママの笑顔。

 

両親は立派な死をとげたとマクゴナガル先生から聞いたときのこと。 実際そのとおりだったこと。

 

ハーマイオニーに自分と互角どころかそれ以上の能力があり、ほんとうのライヴァルと友だちができるかもしれないと分かったときのこと。

 

ドラコをなんとかして暗黒から連れだそうとしたこと。徐々に光にむかって進んでくれていること。

 

ネヴィルとシェイマスとラヴェンダーとディーンをはじめとした、自分を頼りにしてくれている人たちのこと。ホグウォーツになにかが起きたとき、守ってあげたい人たちのこと。

 

人生を生きるに値するものにしてくれるすべてのこと。

 

杖が〈守護霊の魔法〉の開始位置にまであがっていく。

 

ハリーは星ぼしのことを考える。前回はその光景を思いえがくだけで、〈守護霊(パトローナス)〉なしでもディメンターをしりぞけることができそうなくらいだった。 今回はそこに、足りなかった要素をつけくわえる。ハリーはそれを実際に見たことはないが、写真や動画で見たことはある。 暗黒の虚無と、そこにちらばる光の点を背景に、青く燃え、太陽光を反射して白く輝く、地球のすがた。 これがなくてはならない。これこそが、ほかのすべてに意味をあたえている。 地球があるからこそ、星ぼしにも、ただの無秩序な核融合反応以上の意味がある。地球こそ、いつかこの銀河全体に入植し、この夜空がはらむ約束を実現する存在だ。

 

そのときになっても、人類はディメンターに悩まされるのか? 人類の遠い遠い子孫が、はるか未来に星ぼしをまたにかけるとき、ディメンターに悩まされるのか? いや、もちろんそんなことはない。 ディメンターは小さなやっかいものにすぎない。人類に約束されたものの大きさと照らしあわせれば、なんでもない。 ディメンターは不死身でも無敵でもない。ずっとちっぽけなものだ。 こういうやっかいものにわずらわされるのは、いつか〈原地球〉と呼ばれることになるこの惑星(ほし)に生まれた自分たちのたぐいまれな幸運と不運のせいにすぎない。 意識を有する数すくない種族の一員として生まれた者にとって、これも生の一部だ。 すべてのはじまりであるこの時代、知的な生命はまだ本領を発揮していない。 夜が明けつつあるこの時代になにをするかが、膨大な将来の可能性に影響する。だからここでは、まだまだたくさんの暗黒と、ディメンターのような一時的な迷惑者ともたたかう必要がある。

 

ママとパパ、ハーマイオニーの友情、ドラコの試練、ネヴィルとシェイマス、ラヴェンダーとディーン、青い空と輝く太陽とその仲間、地球、星ぼし、人類の約束、その現在と未来のすべて……

 

ハリーの指が杖にふれ、開始位置につく。これで、正しい種類のぬくもりと幸せのイメージをする準備はできた。

 

ハリーの目はまっすぐに、ぼろぼろのマントのなかへむかい、ディメンターと呼ばれるものを正面からのぞきこむ。 虚無。空白。宇宙の裂け目。色と空間の欠如。世界からぬくもりを吸いとる流出口。

 

そこから発せられる恐怖で、幸せな思考が奪われる。そこに近づく人は、元気を吸いとられる。それに口づけされた人は、人格が崩壊する。

 

おまえの正体はわかった——ということばを思考しながら、ハリーは杖をふった。一、二、三、四。それぞれ適切な長さだけ、宙を切る。 おまえの本質は〈死〉の象徴だ。なんらかの魔法の法則を通じて〈死〉が世界に落とす影だ。

 

〈死〉を、ぼくはけっして受けいれない。

 

〈死〉は子どもじみたものにすぎない。人類がそこからぬけだせていないのは、人類が未熟だからにすぎない。

 

いつの日か……

 

ぼくたちはそれを克服する……

 

そしてひとは別れを言う必要がなくなる……

 

杖がもちあがり、まっすぐディメンターにむけられた。

 

「エクスペクト・パトローナム!」

 

思念が(せき)を切るようにあふれだし、腕から杖へと流れ、そこからまばゆく燃える白い光となって放出された。 光は実体化し、かたちと質量を得た。

 

二本の腕と二本の足をもち、頭をのせて直立する、ホモ・サピエンスという動物——人間のかたち。

 

ハリーはありったけのちからを呪文にそそぎこみ、それはどんどんあかるくかがやいていく。沈みかけた太陽よりもあかるく白熱するそれを見て、〈闇ばらい〉とクィレル先生はショックをうけ、目をおおった。

 

いつの日か、人類の子孫が星ぼしを開拓する時代になったとき、親は子どもたちが成長してこころの準備ができるまで〈地球時代〉の歴史を聞かせない。子どもたちは〈死〉などというものがかつて存在したと聞かされるとき涙するんだ!

 

人間をかたどるそれは、いまや真昼の太陽よりもあかるくなり、熱をはだで感じられるくらいになった。 ハリーはこころのなかの水門をすべてひらいて、〈死〉の影にたちむかう気持ちをすべて放出し、かがやく人影をさらにあかるく燃えさせた。

 

おまえは無敵ではない。人類はいつかおまえを倒す。

 

ぼくにできるなら、精神と魔法と科学のちからで、ぼくがやる。

 

ぼくは〈死〉におびえない。〈死〉を倒せる可能性があるかぎり。

 

ぼくは〈死〉をよせつけない。自分にも、愛する人たちにも。

 

おまえとの戦いにぼくが敗れたとしても

 

別のだれかが、あとをつぐ。また別のだれかが、そのあとをつぐ。

 

世界の傷ぐちが癒されるまでそれはつづく……

 

ハリーが杖をおろすと、かがやく人間の像は消えた。

 

ハリーはゆっくりと息をはいた。

 

夢から覚め、眠りを終えて目をひらいたときのように、ハリーは檻から視線を離した。見まわすと、全員がこちらをじっと見ていた。

 

アルバス・ダンブルドアがこちらをじっと見ている。

 

クィレル先生がこちらをじっと見ている。

 

〈闇ばらい〉の三人がこちらをじっと見ている。

 

まるで、たったいまディメンターをハリーが破壊したとでもいうような顔で、こちらを見ている。

 

ぼろぼろのマントが檻のなかに落ちている。そのなかみは、からっぽだ。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 


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