早くもアドレナリンが血管に流れだし、ハリーの心臓がはげしく鼓動する。暗い倒産した店のなかで。 クィレル先生の説明はすでに終わった。そしてハリーは片手に、鍵となる小枝を持っている。 これだ。いま、この瞬間が、自分のほんとうの出番がはじまる。 これが自分のはじめての本当の冒険……飛びこむべきダンジョン、転覆すべき邪悪な政府、救うべき囚われの姫君だ。 もっとこわごわとした態度でいるべきかもしれないが、むしろ、そろそろこういう、本の登場人物のようなことができていてもいいころだ、という気しかしなかった。 いままでずっと知ってはいた自分の運命にむけて、
そしてもし、物語の都合上、
いままで読んできた小説によれば、あとのほうになるとこれほど興奮した気分でなくなることは分かっているから、味わえるあいだにぞんぶんに味わっておこう、とハリーは思った。
ポンという音がして、ハリーのとなりからなにかが消えた。もう主人公らしく思い悩んでいる時間はない。
ハリーは小枝を折った。
腹のあたりが引っぱりあげられる感じとともに、ポートキーが起動した。ホグウォーツとダイアゴン小路のあいだでの近距離の転送とくらべて、ずっと強引に引っぱられ——
——落とされた場所は、轟音をあげて遠ざかる雷、顔に吹きつける冷たい雨のさなかだった。眼鏡が雨で洗われ、あっというまに目のまえがぼやけて、なにも見えなくなる。そしてハリーは、はるか下の荒海にむかって落ちはじめた。
見わたすかぎりなにもない北海のはるか上空から、ハリーは落ちていく。
激しい雨風に打たれた衝撃でハリーはあやうく、クィレル先生からもらっていたホウキを手ばなしそうになった。さいわい手ばなしはしなかった。 たっぷり一秒はかかってやっと、ハリーはこころをしずめながら、ホウキをつかみなおし、ゆるやかに降下する角度にした。
「わたしはここだ。」とハリーの少し上の空間から聞きなれない声がした。声の主は血色の悪い、やせこけた、ひげ面の男——〈
「ぼくはここです。」とハリーは〈不可視のマント〉のなかから言った。 〈変身薬〉を使っていないのは、 別人の身体が魔法力の障害になるからだ。 もともと多くない魔法力はすべて使えるようにしておきたい。 このため、今回の作戦のあいだじゅうハリーはほぼ常に透明になることになっていて、〈変身薬〉の予定はない。
(二人はおたがいの名前を呼んでいない。 違法な作戦を敢行するあいだはどの瞬間も、名前を呼ぶなどもってのほかだ。人知れぬ北海の片すみを透明になって飛んでいる最中であろうが、関係ない。いくらなんでも、そんなことをするのは愚かすぎる。)
片手で慎重にホウキをつかみながら、吹きつける雨風のあいだを抜けていく。ハリーはもう片手でやはり慎重に杖を持ち、眼鏡に〈撥水の魔法〉をかけた。
するとレンズの視界がくっきりとしたので、ハリーはあたりを見まわした。
あたりはひたすら雨と風。摂氏五度もあればいいほうかもしれない。二月の外気だけでも〈温熱の魔法〉をかける理由として十分だが、冷たい水しぶきがそれにくわわっている。 外気にさらされた場所がすべてびしょびしょになる点で、雪よりたちが悪い。 〈不可視のマント〉は全身を不可視にしてくれるが、全身をおおう大きさではないので、雨風を完全にはしのげない。 ハリーの顔に真っ向から吹きつける雨は、水の流れとなり、首すじを通ってシャツのなかへと侵入する。ローブのそでやズボンのすそと靴など、衣服のあらゆる入り口から水がはいってくる。
「こちらだ。」と〈変身薬〉で変化した声がして、緑色の火花がハリーのホウキのまえにあらわれた。火花はほとんどでたらめに飛びまわっていくように見えた。
先を見通せない雨のなか、ハリーは緑色の小さな火花を追った。 何度か見うしなったが、そのたびに声をあげると数秒後に火花は目のまえにあらわれた。
追うのになれてくると、火花は加速した。ハリーはホウキのギアをあげて追走した。 雨はさらにはげしく打ちつける。ハリーは散弾銃を顔にあてられたらきっとこういう感じなのではないかと思ったが、眼鏡の視界はそこなわれず、目だけは守られていた。
そのわずか数分後、全速力で疾走するホウキからハリーの目は雨のむこうに巨大な影をとらえた。はるか海のむこうに、なにかがそびえている。
そしてはるかむこうの〈死〉が待つその場所から、うつろな虚無の残響がハリーの精神に押し寄せ、波が石にあたってくだけるようにして、引いていった。 今回は自分の敵がなんであるか、わかっている。ハリーは鋼鉄の意思をたもち、光でかためた。
「もうディメンターの存在を感じる。」と〈変身〉したクィレル先生の耳ざわりな声が言う。 「こんな距離でも、もう届くとは。」
「星ぼしのことを考えてみてください。」 ハリーは遠い雷鳴に負けないように声をだした。 「怒りや否定的な感情はおさえて、星ぼしのことだけを。自分を忘れて、身体感覚をなくして宇宙にただようときの気持ちを思いだして。 それを〈閉心術〉の障壁のように自分の精神全体にかけてください。 そうするとディメンターはそう簡単には侵入できなくなります。」
一瞬沈黙があってから「おもしろい。」という声がした。
緑色の火花が上昇した。ハリーはホウキをすこしだけ上にむけて、それを追った。火花にみちびかれて、霧のかたまりや水面ちかくの雲を突っ切っていく。
二人はほどなくして、わずかにかたむいた巨大な金属の三角柱の建て物をはるか眼下に見おろす位置についた。鋼鉄の三角柱のなかは空洞だ。建て物は三つの厚い壁がすべてで、中央部はない。 看守をつとめる〈闇ばらい〉の詰所は南がわの最上層にあり、各自の〈守護霊の魔法〉で防御されている、というのがクィレル先生の話だった。 アズカバンへの正式な入り口は南西の先端部にあるが、 今回は当然そこは使わない。 かわりに、北の先端部のすぐ下の通路を使う。 クィレル先生がまず着地して北端の屋根と結界に穴をうがち、目くらましをしかけてその形跡を隠すことになっている。
囚人たちは建て物の側面部にいれられており、犯罪の程度に応じて階層がわかれている。 その一番下、アズカバンの真ん中の最深部にあるのが、百体以上のディメンターの巣だ。 ディメンターにじかに晒された物質はすべて泥になり無となるので、ときおり大量の土をそこに投げこむことで、地面の高さを維持している。
「一分待て。」と耳ざわりな声が言う。「それから全速力であとにつづけ。通過するときは慎重に。」
「了解。」 ハリーはそっと返事した。
火花がふっと消え、ハリーは数えはじめた。 『一、二、三……』
『……六十』、それから眼下の巨大な金属のかたまりにむかって飛びこんだ。風の悲鳴を耳にしながら、くだっていくと、〈死〉の影の待つ場所が……光を吸いとり虚無を吐きだす金属製の構造物がどんどん大きく見えてくる。 飾り気のない、のっぺりとした灰色の巨大な立体だが、箱のような構造物が南西の先端にひとつついている。 北の先端にはクィレル先生の穴があるが、検知されないようになっていて、なんの変哲もない外観のままだ。
ハリーは北の先端にちかづいたところで、するどく上昇し、飛行の授業のときよりもたっぷりと安全係数をかけて距離をとったが、とりすぎることはないようにした。 そして停止するとすぐに、ゆっくりとホウキを降下させはじめ、北の先端部のがっしりとした屋根に見える部分をめがけていった。
透明な状態で幻影の屋根を通過して降りていくのは奇妙な経験だったが、そう思う間もなく金属製の通路に到着した。通路は薄暗いオレンジ色の光でてらされている——見るとおどろいたことに、それは古めかしい
……魔法式の照明はいずれディメンターに吸いとられて効果をうしなうからだろう。
ハリーはホウキをおりた。
虚無の引っぱるちからが強くなり、ハリーにぎりぎり触らないところまで波のように寄せては返す。 まだ遠くにあるが世界の傷ぐちが並んでいる。目をとじればハリーにはその位置がわかった。
「守護霊ヲ 出セ。」と床の上にいるヘビが〈ヘビ語〉で言った。薄暗いオレンジ色の照明のもとで、緑色のからだがくすんで見えた。
〈ヘビ語〉でしゃべっているにもかかわらず、声から緊張の度合いがつたわってきた。 ハリーはそれにおどろいた。クィレル先生によれば、〈
ハリーはすでに杖を手にしている。
これが第一歩になる。
たとえ一人だけでも……一人だけでも暗黒から救うことができたなら……いまは囚人
それでも最初の一歩ではある。ハリーが死ぬまでにやりとげるすべてのことの頭金にはなる。 待ったり、願ったり、約束したりするのは終わり、すべてはここからはじまる。いま、ここから。
ハリーは杖を振りかざし、ディメンターが待つはるか下層の方向にむけた。
「エクスペクト・パトローナム!」
ぼうっと光る人型の像があらわれた。 前回のような太陽のかがやきではない……これはおそらく、それぞれの監房にいる
むしろ好都合かもしれない。 〈守護霊〉はしばらく維持する必要があるし、あかるすぎないほうがいいかもしれない。
その思考を受けて〈守護霊〉の光がすこし弱まった。 そそぎこむちからを減らしてみると、光はまだ一段と弱まった。最後には、人型の〈守護霊〉のかがやきは一番あかるい動物の〈守護霊〉よりわずかにあかるい程度になり、それ以上弱めると完全に消えてしまいかねないように感じられた。
「安定シタ。」と言ってハリーはホウキをポーチに食わせはじめた。 そのあいだ片手においたままの杖を通じてハリーのなかからわずかながら継続的になにかが流れだし、〈守護霊〉の消耗をおぎなった。
ヘビはやせこけた血色の悪い男にすがたになった。男はクィレル先生の杖を片手に、ホウキをもう片手に持っている。 そしてすがたをあらわしたのと同時に足をふらつかせ、しばらく壁にからだをもたれさせた。
「多少遅くはあったが、上出来だ。」と耳ざわりな声がクィレル先生の乾いた口調で言うが、声質にあっていない。差しせまった表情もひげだらけの顔に似合わない。 「わたしはあれをまったく感じなくなった。」
そのつぎの瞬間、ホウキが男のローブのなかに消えた。 そして杖が飛びあがって男の頭頂部をたたき、卵が割れたような音がして、男はまたすがたを消した。
空中に緑色のほのかな火花がうまれた。やはり〈不可視のマント〉をかぶったまま、ハリーはそのあとを追った。
これを外部から観察している人がいれば、小さな緑色の火花が空中をただよっていき、それにつづいて銀色にかがやく人型の像が歩いていくようにしか見えなかっただろう。
二人は下へ、下へとむかった。ガス灯をつぎつぎと通りすぎ、ときどき巨大な金属の扉を通りすぎ、アズカバンの下の層へとくだるあいだ、二人は完全な静寂につつまれているようだった。 クィレル先生がしかけたなんらかの障壁があるようで、クィレル先生へはあたりの音が聞こえるが、こちらから外へは音が漏れない。そしてハリーにも音がとどかない。
なんのためにこうやって音をさえぎるのか、ハリーは考えまいとしながらも考えた。ハリーの精神も答えまいとしながら答えた。 ことばにするまえの段階で答えがわかっているからこそ、考えようとするのを必死で止める自分がいる。
巨大な金属の扉のむこうのどこかで、だれかが悲鳴をあげている。
そう考えるたびに銀色の人型の像がゆらぎ、光が燃え、またおさまった。
ハリーは〈
熱意と冒険心はすでに薄れてしまった。そうなることは事前にわかってはいたが、冷めやすいハリーにしても実にあっさりと、最初のひとつ目の金属扉のまえを通過したときに終わってしまった。 金属扉はどれも巨大な錠がついている。非魔法性の単純な金属錠で、ホグウォーツ一年生でも楽にあけることができる——杖と魔法力があればの話だが、囚人はどちらも持っていない。 クィレル先生によれば、金属扉のさきは個別の監房ではなく、まず廊下があってそのさきにいくつかの独房があるのだという。 扉のすぐむこうに囚人が一人待っているのではないと思うと、すこし気が楽になった。 扉のむこうには囚人が
だんだんと考えないでいることがむずかしくなってきた。考えるたびに、〈守護霊〉の光がゆらいだ。
二人は三角形の先端部に着き、通路が左にまがりこむ。 そこからまた金属製の階段を一階ぶん降り、さらに下へとむかった。
単なる殺人では最下層の監房にいれられることはない。 どんな囚人から見てもさらに下の層があり、さらに恐るべき罰がある。 ブリテン魔法界政府はどれほど最低な犯罪者に対しても、それ以上の犯罪をおかせばもっとひどい罰が待っている、と言いたいのだ。
だがベラトリクス・ブラックはヴォルデモート卿本人を別にして世界一恐れられた〈死食い人〉、美しく凶暴な魔女、どこまでも主人に忠実なしもべだった。 〈例の男〉その人よりも嗜虐的で邪悪になることが可能だったとしたら、それは彼女だった。まるで主人を上回ろうとしていたかのような女……
……それが世界の知る彼女だった。世界じゅうがそう信じていた。
だがクィレル先生の話では……それ以前、つまり〈闇の王〉の右腕として活躍しはじめるまえ、スリザリン寮にいた彼女はおとなしく、引っ込み思案で、だれを傷つけたこともない少女だった。 あとになって彼女についてさまざまな話がでっちあげられ、記憶が書き変わったが(そういうことが起きるという研究をハリーはよく知っている)、 在学当時の彼女はホグウォーツでもっとも優秀な魔女で、やさしい少女として知られていた(クィレル先生によれば)。 数少ない友人は彼女が〈死食い人〉になったと聞いておどろき、あのさびしげな笑顔の下にそれほどの暗黒が秘められていたと知っておどろいたという。
同世代でもっとも将来を期待された魔女。それがかつてのベラトリクスだった。〈闇の王〉はそれを盗みだし、破壊し、粉ごなにし、こねあげ、〈
十年間ベラトリクスは〈闇の王〉に仕え、命令されるまま敵を殺し、命令されるまま拷問した。
そして〈闇の王〉はついに倒された。
それでもベラトリクスの悪夢は終わらなかった。
いまもベラトリクスのなかのどこかに、最初からずっと、悲鳴をあげつづけている部分が残っているかもしれない。精神〈治癒〉でとりもどせるなにかが残っているかもしれない。 クィレル先生も確証はないというが、ただ、すくなくとも……
……すくなくとも、アズカバンから逃してやることはできる……
ベラトリクス・ブラックはアズカバンの最下層に置かれている。
彼女の監房についたときなにを見ることになるのか、ハリーは考えずにはいられない。 きっとベラトリクスは最初のうち、まだいくらかでも生きていたとして、ほとんど死への恐怖がなかったのだろう。
もう一階ぶん階段をくだり、〈死〉とベラトリクスのいる場所へ一段と近づく。聞こえる音は目に見えない二人の靴の音だけ。 ガス灯の薄暗いオレンジ色の照明、空中にうかぶ緑色のほのかな火花、そして銀色の光をときどきゆらめかせる、かがやく人影。
何度となくちがった階段をおりていくと、やがて通路のつきあたりが階段ではなくなり、金属の扉になった。緑色の火花は扉の前でとまった。
アズカバンのこの深さまで無事に歩いてくるうちに、ハリーの心臓の鼓動はすこし落ちついていた。 だがここでまた鼓動が激しくなった。 ここは最下層。〈死〉の影は自分たちのすぐとなりにいる。
錠からコツという金属の音がした。クィレル先生が解錠したのだ。
ハリーは深呼吸をして、クィレル先生から言われたことをすべて思いかえした。 ベラトリクス・ブラックその人をだませるほどにうまく演技できるかどうかだけが問題ではない。さらにむずかしいのは、同時に〈守護霊〉を維持したまま演技をやりこなせるかどうかだ……
緑色の火花がふっと消え、体長一メートルのヘビがあらわれた。もう透明ではなくなっている。
ハリーが透明な手で金属の扉を押すと、扉はギギと音をたてながら、ゆっくりと動いた。小さなすきまをあけて、ハリーはなかをのぞいた。
まっすぐな通路があり、つきあたりは石の壁。 照明はなく、こちらから〈守護霊〉の光が差しこんでいるだけ。 通路に面した八つの部屋の鉄格子までは見えるが、部屋のなかまでは見えない。 いや、それより重要なのは、通路自体にだれの人影も見えないことだ。
「ナカニ ナニモ 見エナイ。」とハリーは言った。
ヘビは床をすばやく這い、飛びだしていった。
そしてすぐに——
「女ハ 独リダ。」とヘビが言った。
一つめの監房には、乾燥しきった死体があった。皮膚は灰色になって斑点があり、肉はすりきれて、ところどころ骨をのぞかせている。目はない——
ハリーは目をつむった。こうやって透明になっているあいだは、目をつむっても裏切ったことにはならない。
このことはすでに知ってはいた。
部屋のあかりがふらついた。
そう自分に言い聞かせながらハリーは目をまたひらいた。時間を無駄にすることはできない。
二番目の監房には骸骨があるだけだった。
三番目の監房の鉄格子のむこうにはベラトリクス・ブラックがいた。
ハリーのなかのかけがえのないなにかが、枯れ草のようにしおれた。
明らかに骸骨ではない。頭部も頭蓋骨ではないし、皮膚と骨の表面は見た目からしてちがう。それが暗闇のなかで一人待ちつづけて真っ白になった皮膚であっても。 食べ物をあまりもらえていないのか、食べることができないのか、〈死〉の影に吸いとられてしまうのか。その目は眼窩に深くしずみこみ、くちびるはほとんど歯とくっつきそうなほど薄くなっている。 投獄されたときに着ていた黒い衣服の色もディメンターに吸いとられたのか、あせはてている。 大胆であったであろう衣装がいまはぶかぶかになって、やせた体躯としなびた肌にかかっている。
心臓と芯の部分で、ハリーは同情とあわれみ、そして暗黒から彼女を救いたいという意思をしっかりと堅持した。 するとすぐに銀色の光が強さを増して、ひらいた扉のむこうからはいってきた。
それと同時に、別の部分の自分には、ちょうど癖になって注意力のいらなくなった動作をさせるようにして……
フードの下で透明になっているハリーの顔に冷淡な表情が浮かぶ。
「いとしいベラよ。」と凍てつくようなささやき声が言う。「……わたしのことが恋しかったか?」
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky