骸のような女が目を開く。くぼみのなかのくすんだ眼球が虚空を見つめている。
「変……」とベラトリクスはしわがれた声でつぶやく。「ベラは、あたまが変になってしまった……」
ハリーはクィレル先生から事前に指示を受けている。ベラトリクスに対してどのようにふるまうべきか、そしてどのように自分のこころのなかでその仮面を作るべきか。落ちついた、明瞭な指示だった。
『きみはベラトリクスを恋に落とし、自分へ奉仕するよう束縛した。それが手っとりばやい手段だと思った、あるいは愉快だと思ったのかもしれない。』
『その愛はアズカバンを乗り越えて残る。ベラトリクスにとって幸せな愛ではないからだ。』
『ベラトリクスは徹底的に、全霊をこめてきみを愛している。 きみのほうにその気はない。彼女を利用できるとは思っている。 そう思われていることをベラトリクスも知っている。』
『彼女はきみのもっとも優秀な凶器だった。きみは彼女を「いとしいベラ」と呼んだ。』
ハリーは〈闇の王〉が両親を殺した夜に聞いた声を思いだした。冷淡な愉悦、侮蔑的な笑い、恐ろしいまでの憎悪がこもった、甲高い声。 〈闇の王〉であればここでどう応じるか、想像するのはむずかしくない。
「あたまが変になってくれては困るな、ベラ。それでは利用価値がない。」とささやき声が言った。
ベラトリクスの目がゆらぎ、虚空に焦点をあわせようとした。
「ご主人……さま……あなたは待てど来ず……探せどみつからず…… 生きていらしたのですか……」 彼女はひたすら小さな声でそうつぶやいた。なんらかの感情がこめられていたとしても、ハリーには聞きとれなかった。
「顔ヲ 見セテ ヤレ。」とハリーの足もとのヘビが〈ヘビ語〉で言った。
ハリーは〈不可視のマント〉のフードをめくった。
表情の制御をまかせられた部分のハリーはベラを直視し、なんのあわれみも見せず、ただ冷たく落ちついた興味を示した。 (芯のほうの自分は、『かならず助ける。なにがあろうと、かならず助けてやる……』と言っていた。)
「傷あと……あの子ども……」とベラトリクスがつぶやいた。
「みないまだにそう思っている。」とハリーの声が言い、かすかに笑った。 「ベラ、さすがのおまえにも予想できない隠れかただっただろう。」
(ハリーはここに来るまえに、〈闇の王〉の役を演じるのがクィレル先生であってはいけないのか、とたずねた。わたしでは〈名前を言ってはいけない例の男〉の亡霊が乗り移るべき理由がないからだ、というのがクィレル先生の答えだった。)
ベラトリクスはまだハリーを凝視している。無言のまま。
「〈ヘビ語〉 デ ナニカ 言エ。」とヘビが言った。
ハリーはヘビに顔をむけ、そちらに話しかけているのだと分かるようにしてから言った。 「イチ ニ サン シ ゴ ロク シチ ハチ ク ジュウ」
それから間があいた。
「暗黒を恐れぬ者は……」とベラトリクスがつぶやいた。
「暗黒ニ 飲ミコマレル。」とヘビが言った。
「暗黒に飲みこまれる。」と氷の声が言った。 どうやってクィレル先生がこの合言葉を知ったのか不思議だが、あまり考えたくない。 なのにハリーの頭脳は考えた。おそらく、〈死食い人〉と、ひっそりと孤立した場所と、精密な〈開心術〉が関係していたのだろう。
「お杖は……ポッターの家からひろって……お父君の墓所の右隣の墓石の下に隠しました……これでもう、あたしを殺しますか……もう用はないでしょう…… 多分あたしはずっと、殺されるならご主人さまがいいと……でももう思いだせない……きっと、そう思うだけで幸せだったから……」
聞くに耐えない懇願に、ハリーは心臓をしめつけられる思いがした——いや、泣いてはいけない、〈守護霊〉を消えさせるわけにはいかない——
ハリーの顔に一瞬不服そうな表情がよぎった。とげのある声が出た。 「愚か者が。来るのだ、ベラ。それとも、わたしよりディメンターが気にいったか。」
ベラトリクスの顔が一瞬だけ困惑の表情をした。しぼんだ手足は指一本動かない。
「浮カバセテ 運ブベキダ。」とハリーがヘビに言う。 「女ハ 逃ゲル コトモ 考エラレナク ナッテイル。」
「ワカッタ。」とヘビが答える。「ダガ アナドルナ。女ハ モットモ 恐ルベキ 戦士ダッタ。」 緑色の頭部が下がって、警告を示した。 「ワタシガ 餓エテ 九割ガタ 死ンデイテモ、 恐レナイ ノハ 愚カ。女モ 同ジ。油断 スルナ。スコシモ 演技ノ 隙ヲ 見セルナ。」
緑色のヘビはするりと扉から出ていった。
ほどなくして、血色の悪い、ひげ面のおどおどした男が杖を手に、ちぢこまって部屋にはいってきた。
「ご主人さま?」とその従僕が不安げに言った。
「命令しておいたとおりにやれ。」と〈闇の王〉が氷の声でささやく。それが子どものからだから発せられると余計に恐ろしく聞こえる。 「あの〈守護霊〉をとぎれさせるな。そして忘れるな。おれが無事もどらねば、おまえの報酬もない。おまえの家族は死を許されるまでたっぷりと苦しむことになる。」
恐ろしげな口調でそう言うと〈闇の王〉は不可視のマントをあたまからかぶり、すがたを消した。
ちぢこまった従僕はベラトリクスの檻の扉をひらき、ローブから小さな針を一本とりだして、骸骨のような女を刺した。 血が一滴でたところで、すぐにそれを小さな人形に受けさせてから、床に置く。そして従僕は小声で詠唱をはじめた。
すると、生ける骸骨がもう一体、床のうえにあらわれた。その骸骨はぴくりとも動かない。 従僕が一瞬ためらう様子を見せると、見えない声がしかりつけ、せかした。 それから従僕がベラトリクスに杖をむけ、ひとこと詠唱すると、寝台にいるほうの生ける骸骨が裸になり、床の骸骨がくすんだドレスをまとった。
従僕は死体のように見える骸骨からドレスの一部を小さくちぎり、自分のローブからもちぎった。そしておどおどした様子で、からの瓶をとりだした。その内面に金色の流体がいくすじか垂れたあとがある。 その瓶を部屋のすみに隠し、スカートの切れはしをかぶせると、そのくすんだ色はほとんど灰色の金属の壁と見分けがつかなくなった。
従僕が杖をもうひと振りすると、寝台から生ける骸骨が浮かびあがり、ほぼ同時に新品の黒ローブを着せられた。 なんの変哲もないココア牛乳のパックが一本、ベラトリクスの手に押しつけられた。持って飲め、と氷のようなささやき声が言った。ベラトリクスはしたがったが、やはり困惑するばかりの表情だった。
従僕はベラトリクスを透明にしてから、自分も透明になり、一行は部屋を出た。 そのあと扉が閉じ、カチリと施錠され、なかの通路にはもとどおり、闇が満ちた。一部屋のすみに隠された小さな瓶と、床のうえのできたての死体のほかは、もとどおりだった。
アズカバンに来るまえ、あの無人の店でクィレル先生は、これから二人で完全犯罪をやるのだ、と言った。
ハリーは無意識のうちに、『完全犯罪などというものは存在しない』というよくある格言を言いかけたが、三分の二秒ほどちゃんと考えてから、もうひとつのもっと賢明な格言を思いだし、言いかけたまま口をつぐんだ。
『おまえは自分がなにを知っていると思っている? そしておまえはなぜそれを知っていると思っている?』
だれかが実際に完全犯罪をやったとしたら、だれにもあばかれることはない——ならば、完全犯罪は存在しない、などと知った顔をして言うわけにもいかないのでは?
そういう見かたをするとすぐに、きっと完全犯罪はそこらじゅうで成立しているのだ、と思えてくる。成立しているからこそ、そういった事件は警察に自然死と認定されたり、もともと繁盛していなかった店がようやく倒産したとだけ報じられるだけで終わってしまうのだろう……。
翌朝、ベラトリクス・ブラックの死体がこの、だれ一人脱獄したことのない(とだれもが知っている)アズカバンの監房で見つかるとき、だれも検屍しようとは思わない。 だれも深くは考えない。 看守たちは通路を閉鎖してから去るだけ。そして翌日の『デイリー・プロフェット』に死亡記事が出るだけ……
……それがクィレル先生の計画した完全犯罪だった。
そしてしくじるのはクィレル先生ではなかった。
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky