満身創痍の状態の通路に薄暗いガス灯のあかりがならんでいる。その床を一人の少年がゆっくりと這っていく。片手をのばした姿勢で、ヘビのすがたのまま動かなくなった自分の師へと向かっていく。
ヘビまで一メートルのところまで来てはじめて、ハリーの意識のかたすみにぴくりと感じるものがあった。
いつになく弱くなってはいるが、あの破滅の感覚がある……
つまり、クィレル先生は生きている。
そう気づいてもなんの喜びも生まれず、ハリーはただ空虚な絶望のようなものを感じていた。
もうすぐ自分はつかまる。どう言いのがれようとしても、この状況はうたがわしい。 だれもハリーのことを二度と信じない。だれもがハリーを次代の〈闇の王〉と見なすだろう。ヴォルデモート卿と対決するときになっても、助けてくれる人はいない。ハーマイオニーにも見切りをつけられる。ダンブルドアでさえ、つぎの英雄をさがしはじめる……
……たんに実家に帰されるかもしれない。
ハリーは失敗した。
自分が失神させた警官のからだを見ると、切り傷がいくつかあるがすでに血は乾きはじめている。緻密な刺繍のある赤色のローブには焼けこげたあとがある。
ばかなことをしてしまった。 この警官を失神させるべきではなかった。クィレル先生に誘拐されてここにいるのだという、もともとの筋書きで押しとおすべきだった……
ゆっくりとハリーは片手をあげ、杖を警官にむけて——
——手の動きを止めた。
どこか、自分が自分らしくないふるまいをしているような気がする。 なにか大事なことを忘れてしまっているような気がする。だがそれが何なのか、すぐには思いだせない。
ああ。そうだった。 自分は人命の価値を大切にしているんだった。
そう思いながら、同時に困惑を感じた。
ちょっと待て……そのときの気持ちといまの気持ちがちがうとしたら、変わったのはなんだ?、と論理的な部分の自分が言う。
それはここがアズカバンだから……
それに〈守護霊の魔法〉をかけなおすのを忘れたから……
なにかひとつでも行動をはじめようとすると、とてつもない努力が必要なように感じる。行動を思いうかべるだけでも、持ちあげようとしているなにかが重すぎるように感じる。 でも〈守護霊の魔法〉をかけなおすのは、いいことのように思えた。ディメンターが怖いという気持ちはまだある。 幸せであるということが何なのかは思いだせないが、この気持ちが幸せではないことはわかった。
ハリーは杖を水平に持ちあげ、指を開始位置にそろえた。
そこでハリーは止まった。
以前はなにを……幸せのイメージとして使ったのか……思いだせない。
これは変だ。そのイメージはとても大事なことだったはずだから、覚えていて当然だ……死に関係するなにか、だったか? でもそれのどこが幸せなのか……
からだがぶるぶると震えている。 いままでアズカバンはそれほど寒くない気がしていたが、意識するとどんどん寒くなるように感じる。 手遅れだ。沈みすぎた。自分は〈守護霊の魔法〉をもう二度とかけることができない——
それは正確な推定というより
(これを外部から観察している人がいれば、いなづま形の傷あとがあり眼鏡をかけた少年が呆然として困惑して顔をしかめたのが見えただろう。 その手は〈守護霊の魔法〉の開始位置のまま止まっていて、動かない。)
ディメンターの付近にいると、こころのなかで幸福を感じる部分が干渉をうける。 幸せという合言葉で自分の幸せのイメージを引きだせないのなら、ほかの手段でその記憶を引きだしてみろ。 最後にだれかと〈守護霊の魔法〉のことを話したのはいつだった?
それも思いだせない。
絶望が重い波となってハリーをおおいつくす。論理的な部分のハリーは、その絶望を、信頼できないもの・外部のもの・自分でないものだと言って、はねのける。やはり重みはのしかかってくるが、それでもハリーの精神は思考しつづけた。思考すること自体にはそれほど努力はいらない……
最後にだれかと〈守護霊の魔法〉のことを話したのはいつだった?
クィレル先生が、もうディメンターの存在を感じる、と言ったときのことだ。そしてハリーがクィレル先生に……クィレル先生に言ったのは……
……星ぼしの記憶に頼れ、ということ。身体感覚をなくして宇宙にただようときのことを思いだし、それを〈閉心術〉の障壁のように自分の精神全体にかける、ということ。
今年二回目の〈防衛術〉の授業があった金曜日に、クィレル先生が見せてくれた星ぼしのこと。クリスマスにもう一度見たときのこと。
完全な暗黒を背景に熱く燃える光点たちのこと。
もくもくと沸きたつような〈天の川銀河〉の流れ。それを思いだすのにあまり努力はいらなかった。
ハリーはそのときの平穏な気持ちを思いだした。
手足の末端の冷たさがすこし退却していくようだった。
〈守護霊の魔法〉をはじめて成功させた日に、声にだして言ったことばがある。まだ気持ちにはへだたりがあるが、どう聞こえることばだったか、どういう発声だったかは思いだせる……
『……自然の摂理としての死を、ぼくは徹底的に受けいれない。』
〈真の守護霊の魔法〉は人間の生命の価値を思いうかべることで発動する。
『……でも、たたかって守るべき命はまだほかにある。 きみの命も、ぼくの命も、ハーマイオニー・グレンジャーの命も、地球上のすべての命も、それ以外のすべての命も、守る価値がある。』
全員を殺す……自分は本心からそんなことを考えていない。それは〈吸魂〉的な発想だ……
絶望を感じさせているのはディメンターだ。
命があれば希望はある。 あの〈闇ばらい〉はまだ生きている。 クィレル先生もまだ生きている。 ベラトリクスもまだ生きている。 ぼくもまだ生きている。 まだだれも死んではいない……
もうハリーは地球のすがた、星の海に浮かぶ青色と白色の球体を思いうかべられるようになった。
……そしてだれも死なせない!
「エクスペクト・パトローナム!」
呪文は少しつかえながら口から出た。ぱっとあらわれた人間型の光は弱かった。太陽というより月の光。銀色というより白色。
だがハリーが調子をとりながら呼吸をととのえ、回復するにつれ、徐々に光は強くなっていった。 その光でこころのなかの闇を押し返す。 ほとんど忘れそうになってしまっていたものごとを思いだす。それを〈守護霊の魔法〉にそそぎこむ。
光がしっかりと燃えあがり、また銀色になり、ガス灯のあかりよりもまぶしく、通路を照らしだし、冷気を追いだした。それでも、ハリーの手足はまだ震えている。もうほんすこしで手遅れになるところだった。
ハリーは一度深呼吸した。 よし。 これでディメンターがつくった人工的な暗黒が混じっていない状態で、状況をよく見きわめることができる。
見きわめてみると……
……実際、かなり望みは薄い。
さきほどまでの押しつぶされるような絶望ではないにせよ、ひかえめに言ってもまだ、あたまがふらふらする。
けれどいずれにしても、前に進みつづけるしか方法はない。 実際に敗北するまえにあきらめるなど、無意味の極みだ。
ハリーはまわりを見わたした。
薄暗い照明が廊下を照らし、灰色の金属壁、床、天井のそこかしこに斬撃のあとがあり、えぐられ、溶けた場所もある。一目見れば、ここで戦闘が起きたことはすぐに分かる。
クィレル先生なら簡単に修理できただろうが……なぜあのとき……
そこで、裏切られたという感覚がずしんときた。
なぜあのとき……クィレル先生は……なぜ……
ハリーのなかのグリフィンドールとハッフルパフがしずかに、悲しそうに答えた。
ハリーの〈守護霊〉があやうく消えそうになった。
おかしい。まだ説明がつかない。 そういうつもりなら、クィレル先生はあの〈闇ばらい〉が殺されそうになった瞬間にぼくがクィレル先生を裏切るということを、最初から知っていたことになる。ぼくがダンブルドアのところに行って真実を告白して、自分はクィレルにはめられたのだと信じてもらおうとするんだということも。 それに……ぼくはすでに率先してベラトリクスをアズカバンから脱獄させるのに手を貸している。脅迫をするとして、ぼくが反対するようなやりかたで〈闇ばらい〉を殺すなんていうことを追加しても、そんなに意味がないんじゃないか? 脱獄の件だけでも、ぼくが犯罪にかかわったという証拠は十分用意できるだろうし、できるかぎり長くぼくの味方のふりをしておいて、ここぞというときにその証拠でぼくを脅迫できるようにしておくほうが狡猾なやりかただ……
ハリーは、多少なにかにすがりつくような気持ちで——同時に、自分は部分的には現実を拒否したいからこう考えているのだということも、この技術はそういう動機で使うべきではないということも認識しながら——
すると、こころのなかが静かになった。自分のほかの部分はどうやら、なんの反応もしようとしていない。
ハリーは引きつづき、それなりに絶望的な感じがする状況を見きわめようとした。
ベラトリクスが邪悪である可能性がどれくらいかを再評価する必要があるだろうか?
……どういう評価に変わろうが、それは任務を達成する役に立たない。 いまのベラトリクスが邪悪であることは所与の事実だ。 もともとは罪がなかったベラトリクスが拷問と〈開心術〉と言語に絶する儀式のすえにいまのすがたに変えられたのか、本人の意思でそうなったのかが分かったとしても、現在の状況にはあまり関係しない。 重要なのは、ベラトリクスはハリーを〈闇の王〉だと信じているかぎり、ハリーに服従するということだ。
つまり、ひとつ使える道具があるということ。ただし、ベラトリクスは飢えていて、九割がた死んでいる……
『なんだか、すこし気分がよくなってきた。変ね……』
ベラトリクスはそう言った。ハリーの〈守護霊〉が暴走して燃えあがったあと、枯れ果てた声でそう言った。
なぜなのか分からないが……ただ妄想してしまっているだけかもしれないが…… ずっと昔にディメンターにうばわれたものは、とりもどせない、という気がする。 だが
ハリーはヘビ形態のクィレル先生のほうを見た。
……〈
そうやってクィレル先生を覚醒させるというのが、かしこい選択であればだが。
そう考えていると、絶望がすこしもどってきた。 クィレル先生を信用してはならない。これだけのことがあってから、クィレル先生を蘇生させるのがよい判断だと確信できない。
ベラトリクスは〈記憶の魔法〉をかけることもできるかもしれない。
とにかくそれで一歩前進にはなる。 全員をアズカバンから安全に脱出させるとはまではいかないし、〈闇ばらい〉の仲間はいずれ、なにかおかしなことが起きていると気づくだろう。ベラトリクスの死体を不審に思って検屍をするかもしれない。 でも前進ではある。
……それにアズカバンから脱出するのはそんなにむずかしいことだろうか? この〈闇ばらい〉が報告することになっている時間よりはやく、この〈闇ばらい〉がいないことに気づかれるまえに、アズカバンの最上層まですばやくたどりつけさえすれば、クィレル先生がつくった穴を飛行して通りぬけ、十分アズカバンから離れてから、すでにハリーが持っているポートキーを起動すればいい。(クィレル先生とハリーがそれぞれ持っているポートキーはどちらも、二人の人間とヘビ一匹程度を転移させることができる。〈メアリーの部屋〉からぬけでるときの二重の隠蔽措置もそうだったが、クィレル先生はハリーも感心するほど十分な安全マージンを確保している。)
ハリーではヘビ形態のクィレル先生を触ることも浮かばせることもできないが、ベラトリクスに運ばせることはできる。
ハリーはきびすを返ししてすばやくベラトリクスの待つ階段にむかっていった。 すこしだけ、やる気がもどってきた気がした。 いい作戦のように思えてきた。やるなら時間を無駄にはできない。
クィレル先生のことはどうするのか。いや、ベラトリクスのことはどうするのか。ポートキーに設定してあるとおり精神治癒の癒師のところへ行くとしても、ベラトリクスをそこに託したあとのことは……。まあ、そのあたりはやりながら考えよう。 おそらく、うまく癒師をけむに巻いてなにかをやらせる必要があるが——相当うまくやる必要があるし、そもそもなにをやらせればいいのかもよく分からないが——ベラトリクスと二人で、いますぐ行動にとりかかなければ。
この手順全体をすばやくあたまのなかでたどってみたかぎりで一番気になるのは、屋根に出るときのことだ。 アズカバンには上空の空域にちかづくものを検知する監視員がいる。もともとはクィレル先生が透明になって監視員を〈
ハリーの思考がそこで引っかかって止まった。
これは『なんてこった』では言いあらわしようがない窮地のようだ。
リーはアドレナリンの影響下にあったが、手を震えさせることなく、〈消えるキャビネット〉の錠をはずした。これはアズカバンと〈魔法法執行部〉内の厳重に警備された部屋とを接続する装置だ。(当然この〈消えるキャビネット〉は一方通行である。このようにアズカバンへ入るための結界の抜け道はいくつかあるが、どれも厳重に立ち入りが制限されている。いっぽう、出る方向にはそういった近道は存在しない。)
リーは十分さがって距離をとってから〈キャビネット〉に杖をむけ、『ハーモニア・ネクテレ・パサス』ととなえた。すると一秒もしないうちに——
〈キャビネット〉がバタンとひらいて、体格のよい、あごのはった魔女があらわれた。白くなった髪の毛はごく短く切りそろえられている。 階級章も宝飾品も装身具もない、ただの〈闇ばらい〉のローブすがたで十分な身だしなみだと見なしているらしい。彼女はアメリア・ボーンズ。〈魔法法執行部〉の長であり、〈魔法法執行部〉内で〈
「すぐ飛んで!」とアメリアが肩ごしに呼ぶと、警察用ホウキに手にした女性の〈闇ばらい〉三人組がうしろからあらわれた。ぎゅうぎゅう詰めで〈キャビネット〉の起動を待っていたのだろう。 「もっと空中からの映像がほしい。
リーが答えようとすると、〈消えるキャビネット〉からまた別の〈闇ばらい〉三人がホウキを手にあらわれ、部屋を出ていった。
そのあとに完全武装の〈特殊部隊〉員三人がつづいた。
〈特殊部隊〉員がもう三人。
ホウキ部隊がまた一組。
ハリーが階段にたどりついたとき、衰弱したベラトリクス・ブラックはじっと横たわっていた。目は閉じている。冷たく甲高いささやき声で、起きているか、と呼びかけても、返事はなかった。
ハリーは一瞬動転しそうになったが、クィレル先生が彼女を気絶させたのだということに思いあたった。〈闇の王〉のおどおどした従僕が突然冷徹な犯罪者に変わり、さらに歴戦の魔法戦士に変わるのを目撃されては困るからだ。 考えてみれば都合がいい。それなら『エクスペクト・パトローナム』と言うハリーの声も聞かれなかっただろうから。
ハリーは〈マント〉のフードをめくり、杖をベラトリクスにむけ、できるかぎりやわらかく『イナヴェイト』とささやいた。
ベラトリクスのからだが軽く
くぼんだ暗い目がひらく。
ハリーはやはり冷たく、高い声で言う。 「ベラ……ちょっと厄介なことになってしまってね。 おまえは多少魔法を使える程度に回復しているか?」
すこし間があってから、ベラトリクスの青白い顔がうなづいた。
「よし。支えなしでとは言わないが、ここからは歩いてもらうことになるぞ。」 乾いた声でそう言って、ハリーは杖を彼女にむけた。 「ウィンガーディウム・レヴィオーサ。」
ハリーはしばらく持続できる程度に出力をおさえたが、おそらくベラトリクスの現在の体重の三分の二は浮かせることができている。彼女はそれだけ……やせている。
おずおずと、まるで数年ぶりにやる動作のように、ベラトリクス・ブラックは立ちあがった。
アメリアは〈闇ばらい〉リーとそのアナグマの守護霊を連れて当直室にのりこんだ。 アメリアはこの警報がとどいた時点で即座に〈
アメリアの目はのぞき窓のむこうに浮かぶ骸を直視した。マントを羽織っていないそのすがたは、死んでいるようにしか見えない。
「ベラトリクス・ブラックはどこにいる?」 アメリアは恐怖の生物に対してまったく恐怖の色を見せず、そう迫った。
彼女でさえ一瞬血が凍るほどの声が、死骸の口から漏れ出た。 「分からぬ」
ハリーはまた完全に透明になって、ベラトリクスが動くのをじっと見た。ベラトリクスはゆっくりとかがみ、クィレル先生の杖を手にとり(ハリーはこれに手を触れるわけにいかない)、またゆっくりと背をのばして立った。
そしてベラトリクスは杖をヘビにむけ、やはり小声ながらも明瞭な発音で「イナヴェイト」と言った。
ヘビは微動だにしない。
「もう一度やってみましょうか?」
「いや……」と言ってハリーはいやな気持ちを飲みこんだ。 おそらくディメンターはもう〈闇ばらい〉たちに通報してしまっている。そう気づいてからは、もう細かいことは気にせずクィレル先生を蘇生させよう、という気になっていた。 ハリーは冷たく甲高く、なんの感情もない声をだした。 「〈記憶の魔法〉をしてもらいたいんだが、できるかな、ベラ?」
ベラトリクスは一度かたまってから、ためらうように言った。 「できると思います。」
「あの〈闇ばらい〉の直近一時間の記憶を消せ。」 ハリーはそう命じてから、なにか理由を言うべきだろうか、とも考えた。なぜ単に殺してしまわないのですか、ときかれたら、どうこたえるべきだろう。われわれが別の勢力であるように見せかけるためだ、とでも言って、あとはもうだまれとだけ——
だがベラトリクスはそっと杖を〈闇ばらい〉にむけ、しばらく無言になり、やっと口をひらいて「オブリヴィエイト」と小声で言った。
そしてからだをふらつかせたが、倒れはしなかった。
「よし、じょうずにできたな。」と言ってハリーは笑いを漏らした。 「つぎはそのヘビを運んでもらう。」
ベラトリクスはやはりなにも説明を要求しなかった。ハリーか、あるいは透明になっているらしい〈守護霊〉の使い手にやらせればいいのでは、とも言わなかった。 ただ、ふらふらと大ヘビがいる場所までいって、ゆっくりとかがみこみ、ヘビを持ちあげ、肩にかけた。
(ハリーのなかのごく小さな部分がこの状況を気にいった。こうやってなにも口ごたえせず命令にしたがう子分がいるというのは楽だ。ベラトリクスのような子分がいつもいてくれるとありがたい、とさえ思ったが、のこりの部分のハリー全員が戦慄してその声をおさえつけた。)
「来い。」とその子分に命じてから、ハリーは歩きはじめた。
だんだんと当直室に人が増え、息ぐるしいほどになった。とはいえ、アメリアのまわりには空間がある。息をするためにボーンズ長官と密接しなければならないのなら、息をしないほうがましだということらしい。
オウラ・ウェインバックがマカスカーの鏡をいじっているところへ目をむけて、アメリアは声をかけた。 「ウェインバック鑑識官」と大声で呼ばれて、若いオウラはびくりとした。 「……ワンハンドの鏡からの返事は?」
「ありません。」とオウラは不安げにこたえる。 「これは……きっと妨害がかかっているんじゃないでしょうか。切られたのではなく、警報が出ないように慎重に妨害しているんだと思います。これだけ反応がないと、壊れていてもおかしくありませんが……」
アメリアは表情を変えないようにした。こころのなかですでにワンハンドを弔いはじめていたところにこの話を聞いて、悲しみがすこし強まり、怒りがずっと強まった。 七カ月。あと七カ月でバアリー・ワンハンドは百年間の勤務を終え引退することになっていた。若く熱心な〈闇ばらい〉だったころの彼のことを思いだすと、ずいぶん長い年月が経ったものだ。ワンハンドは百年のキャリアを通じてまじめに〈法執行部〉に仕えてきた……すくなくとも真剣にとりあつかうべきことに関しては。
ただではおかない。
窓のそとに浮かぶディメンターはあいかわらず、恐ろしげな影を落としている。役立たずなことに、こちらが『ベラトリクス・ブラックは脱獄したのか』、『なぜ居場所が分からないのか』、『なにかで隠蔽されているのか』、などとたずねても、ディメンターは『分からない』とつぶやくか、無言でいるばかり。 そうしているうちに、犯人はもう逃げてしまったのではないか、と思えてきたが——
「Cスパイラルの天井部に穴がありました!」とだれかがドアをあけるなり言う。 「穴はまだあいています。結界をごまかすための偽装ものこっていました!」
アメリアの口角があがり、獲物にありつくオオカミの口のように開いた。
ベラトリクス・ブラックがまだこのアズカバンのなかにいる。
ベラトリクス・ブラックにはかならずアズカバンで一生を終えさせてやる。
アメリアは大股で窓にむかい、今度はディメンターを無視して、空を見あげた。警邏中のホウキたちを自分の目で確認しておきたいと思った。 ここからでは全容は見えないが、十人が警戒用のパターンで飛んでいるのが見えた。あの数ならだれを逮捕するにも足りるはずだが、アメリアは手持ちのホウキ部隊をすべて投入するつもりでいる。 指揮下の部隊に配備してあるのは、市場で流通するホウキのなかで最速のニンバス二〇〇〇。自分が指揮するかぎり、狩りはかならず成功させる。
アメリアは窓から目を離し、眉をひそめた。 この部屋はありえないほど人が過密になってきた。その三分の二はここにいる
「ほら、ぶらぶらしてないで、各スパイラルの最上部を固めてちょうだい!」 全員がおどろいた顔を見せた。 「そう、三カ所とも! 相手は床や天井に穴をあけて行き来するかもしれない。それくらい考えなさい! 上の層から順番に、見つかるまで一層ずつ調べあげる! わたしはCスパイラルに行く。スクリムジョールの隊はBへ……」 そこで口をとじ、〈
この犯人はなにか新しい方法を使って、ベラトリクス・ブラックがディメンターに検知されるのを防いでいる。
そんなことは
アメリアは血が凍るような思いがした。これはまるで……
アメリアは深呼吸をしてから、鋼のような命令の声を出しなおした。 「犯人を捕まえたら、それがほんものの犯人かどうか、きっちりたしかめること。味方が〈
年配の部下たちの顔からは血の気が引き、若い部下たちは何人が身を震わせた。全員がこの意味を理解している。
だが念のため、彼女は声に出して言った。
「これは〈大戦〉の再来だと思いなさい。 〈例の男〉が死んだからといって、〈死食い人〉がおなじ手で来ないとはかぎらない。 命令は以上!」
ハリーはガス灯のあかりのもと、灰色の通路を無言で歩いていく。透明になってとなりにベラトリクスをしたがえ、そのあとに銀色の人影を連れ、もっといい作戦がないものか、考えている。
最初に作戦を考えはじめたとき、まず気づいたことがあった。おそらくすでに〈闇ばらい〉たちにはもう察知されている。そればかりか、クィレル先生は目を覚ます様子がない。そう思うと……
ハリーのあたまのなかが一瞬凍りついた。
そしてそのまま凍りつづけた。ベラトリクスを連れて下層にむかい、できるだけ時間をかせごうとしているあいだも、それは変わらなかった。 〈闇ばらい〉は最上層から一階ずつ調べていく、というのがハリーの読みだった。むこうは急ぐ必要はないから、一歩一歩着実に進める。獲物に逃げ道がないことを知っている。
実際、ハリーは逃げ道を思いついていなかった。
そのとき、こころのなかの声がこう言った。
そう問われると、即座に答えが出た。
だが……
それから、問題となりうることがあるのに気づくと……。
それを受けて〈カオス〉軍司令官は最初の作戦をもとにした修正案を思いついた。
その案は……
その案はありえないほど
だから
「ご主人さま。」とベラトリクスがまた階段をくだろうとするところで、しぼりだすような声で言う。 「……わたしは監房にもどるのですか?」
ハリーの脳は混乱した。まずそのことばの意味を認識するのに時間がかかり、さらにその意味にぞっとしているうちに、ベラトリクスがつづきを話した。
「それよりは……ご主人さま……それよりは、どうか、死なせてください。」 それから、こんどはほとんど消えてしまいそうな声でつづける。 「でもそれがご命令なら、もどります……」
「あの監房にはもどらない。」とハリーの声が勝手に、叱責するように言った。 内心の感情はしっかりと押しこめてある。
あのさ……あんたいま、『わたしのために働いてくれればありがたい』って言おうとしなかった?、とこころのなかのハッフルパフが言う。
彼女は〈闇の王〉の忠実なしもべで、殺人も拷問もやった女だ。彼女に忠誠心がある唯一の理由は、罪のない女の子をバラバラにしてできた材料を組み合わせて作られたのが彼女だからだぞ、忘れたのか、とハッフルパフが言った。
だれかにあれだけの忠誠心を見せられたら、それが相手をまちがえているだけだとしても、ある種の感情を感じるのが当然だ。 人工的にできたのであれなんであれ、あれだけの忠誠心に感謝しなかったなら、当時の〈闇の王〉は……
ハリーのほかの部分はあえて口をはさもうとしなかった。
そのとき音が聞こえはじめた。
最初はかすかな音だったのが、一歩一歩すすむたびに大きくなる。
女の声だ。聞きとりにくいが、遠くから声がする。
ハリーの耳は無意識にその内容を聞きとろうとした。
「……ないで……」
「……そんなつもりじゃ……」
「……死なないで……」
そう聞いてハリーの脳は声のぬしがどんな人であるかを認識した。ほぼ同時になんのことを言っているのかも想像できた。
音を消してくれていたクィレル先生はいまいない。そしてアズカバンはもともと無音ではない。だから聞こえるのだ。
かすかな声が同じせりふをくりかえした。
「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」
「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」
一歩すすむたびにその声は大きくなり、感情が聞きとれるようになった。その恐怖、後悔、絶望が意味するのは……
「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」
……彼女は自分の最悪の記憶を見ている。何度も何度も再生する記憶を……
「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」
……彼女をアズカバン行きにした殺人の記憶を……
「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」
……自分が殺したそのだれかが死ぬところを何度も何度も無限にくりかえして見せられている。 とはいえ、生命が感じられる声色からすると、この女性がアズカバンにいれられたのはそれほど昔ではなさそうだ。
ハリーはふと気づいた。クィレル先生もこういった扉のまえをとおり、同じ声を聞いたはずだ。クィレル先生はほんのすこしも動じた様子がなかった。 これこそクィレル先生が邪悪である証拠だと言いたいところだったが、ベラトリクスの手前、声を出そうにも出せない。息づかいを平常にたもちながら、こころのかたすみでハリーは悲鳴をあげつづけた。
〈守護霊〉がかがやきを増した。暴走ではなく、一歩すすむたびにかがやきを増した。
ハリーとベラトリクスが階段をおりていくと、〈守護霊〉はさらに強くかがやいた。彼女がつまづいたので、ハリーは左腕を〈マント〉から突きだした。突きだしたことで、彼女のくびに巻かれたヘビとの距離が詰まり、破滅の感覚がしたが、ハリーは耐えた。 彼女はおどろいた表情をしたが、差しだされた手をとり、声はださなかった。
ベラトリクスを助けることができて気分がよくなったが、それでも足りない。
この階層のまんなかの、あの巨大な金属扉が目のまえにあるかぎりは。
そこに近づくと、女性の声がとぎれる。〈守護霊〉が近くなって、最悪の記憶の再生が止んだからだ。
いやおうなく、ハリーの足どりは金属扉へむかう。
そして……
扉の鍵をあける——
……ハリーは歩きつづける……
おい、なにをしている? 戻って彼女を連れだせ!
……歩きつづける……
助けに行けよ! なんのつもりだ? 彼女は苦しんでいる。助けないでどうする!
ポートキーは人間を二人転送できる。ヘビ一匹くらいの誤差はいいが、人間なら二人だけだ。 クィレル先生のポートキーさえあれば……だがいまはない。あれはクィレル先生が人間でいるときに持っていたから、いまは取りもどせない……。 今日ハリーが救えるのは一人だけだ。アズカバンの最下層にいれられた、もっとも救いを必要としている人間一人だけ……
「行かないで!」と金属扉のむこうの声が悲鳴をあげる。 「やめて……いや……行かないで……ここにいて……行かないで——」
通路に光がともり、それがかがやきを増していく。
「お願い……もう自分の子の名前も分からない——」と女のすすりなく声がする。
「座れ、ベラ。」とハリーが言う。不思議と冷たいささやき声を維持することができていた。 「あれを片づけてくる。」 そのことばとともに〈浮遊の魔法〉が弱まり、効果が切れた。ベラも従順に自分から座っており、光りだす空気を背景に、骸骨のようなすがたが影を落とした。
空気がさらに光を増した。
いや、これで
死ぬ可能性があるだけだ。死ぬ可能性をかけてでも、やるべきことはあるんじゃないのか?
空気はさらにかがやきを増す。大きな〈守護霊〉がハリーのそばにできつつあり、その人間型の光と燃える空気との境目がなくなりつつある。そこにくべられているのはハリーの生命力。
ディメンターを全滅させてしまえば、たとえぼくが死ななかったとしても、ぼくがやったということは確実にバレる……。ぼくは支持者をうしない、戦争に勝てなくなる……。
こころのなかで推進派の声が言う。 それはどうかな? アズカバンのディメンターを全滅させれば、むしろ〈光の王〉であるという証明になりそうなものだ。だからあの女を助けろ 助けるんだ 助けないでどうする——
人間型の光の内外の境界がなくなった。
通路が見えなくなった。
ハリー自身のからだは〈マント〉におおわれて不可視になっている。
茫洋とした銀色の光のひろがりのなかに、身体のない視点として自分が存在しているだけ。
自分の生命力が流れ出し、呪文へとそそがれていくのをハリーは感じた。そして遠くで〈死〉の影が恐れをなすのを感じた。
ぼくは死ぬまでにやりたいことがもっとほかにもある……〈闇の王〉と対決すること、魔法世界とマグル世界を統一すること……
そういった高尚な目標よりも、目のまえで助けをもとめる一人の女性のほうがずっと訴求力がある。このひとつの仕事以上に大事な仕事を将来のハリーができるという
つぎの瞬間に死んでいてもおかしくない状態で、ハリーは考えた。
ディメンターはここにいるのがすべてじゃない。アズカバンのような場所はきっとほかにもある……。仮にやるなら、もっと中央部の奈落にちかづいてからやるべきだ。そのほうが生命力を有効に使える。ここを生きのびて、あとでほかの場所のディメンターを破壊できる可能性が高まる……。けれど、そうするのがほんとうに最適なのか。いまここでやるべきことなのか。いや、ちがう。ちがうだろう!
反駁不可能な、明白なその事実に集中していると、ゆっくりと光が弱まっていく。やるとしても、ここは最適な場所ではない。
ゆっくりと光が弱まっていく。
生命力の一部がハリーのなかへもどっていく。
のこりの一部はすでに散逸していた。
それでもくずれおちることなく、銀色の人間型の像をかがやかせるだけの余力はハリーにのこっていた。 杖を持つ手をあげて「ウィンガーディウム・レヴィオーサ」と言うと、ハリーの魔法力がおとなしく動きだし、ベラトリクスのからだを支えた。(消耗しているのは魔法力ではなかったからだった。〈守護霊の魔法〉を燃やすのに使ったのは魔法力ではなかった。)
ハリーはこころのなかで誓いのことばを言った。ベラトリクスの手前、できるかぎり息づかいを乱さないようにしたが、見えない涙が見えないほおを伝った。 ぼくの命と魔法力と理性にかけて、ぼくが大切にしているあらゆるものと幸せのイメージにかけて、いつかかならずこの場所をなくすと誓う。だから今回は許してくれ……
そして二人はまた歩きだした。『行かないで』、『助けて』、という殺人犯の慟哭を背にして。
ハリーはこのために自分の一部を犠牲にした。それを乗りこえるにはもっと時間が、なにかの儀式が必要だったが、ベラトリクスがとなりにいて自分を見ている。ハリーはただ平常な息づかいをつづけ、なにも言わず、止まらずに歩きつづけた。
そうして、自分の一部が置き去りにされた。それはこの場所、この時間に、永遠にとりのこされることだろう。 ほかの〈真の守護霊〉の使い手とともに、いつかハリーがここにもどってディメンターをすべて破壊できたとしても、 この三角柱の建て物を熱で溶かし、この島を燃やしつくし、波に流されるほど平らにし、ここが存在した形跡すらもなくしたとしても、ハリーがその一部をとりもどすことは永遠にない。
光かがやく生き物たちがいっせいに動きを止めて下を見た。そしてなにごともなかったかのように、金属製の通路の巡視にもどった。
「前回もこうだった、ですって?」とボーンズ長官が〈闇ばらい〉リーにむかって追及した。
「はい。」と若い〈闇ばらい〉リーはこたえた。
ボーンズ長官はもう一度、ディメンターは標的の囚人を検知できたか、と確認をとった。数秒後に否定の返事があったが、彼女はおどろかなかったようだった。
エメリーン・ヴァンスは内心、二つの忠誠心のあいだで揺れうごいていた。
エメリーンはもう〈不死鳥の騎士団〉員ではない。大戦が終わったとき、〈騎士団〉は解散した。 そして大戦のあいだ、クラウチ長官は〈騎士団〉の非公式な戦闘を承認していた。それは公然の秘密だった。
ボーンズ長官のやりかたはクラウチとは違う。
けれどいま捕えようとしている相手はベラトリクス・ブラック。ブラック本人も元〈死食い人〉であり、救出に来ている何者かも〈死食い人〉であることは確実だ。 〈守護霊〉たちの奇妙なふるまい——全員が動きを止めて下をむき、しばらくしてから、主人に付きしたがう位置にもどる、というふるまい。 そしてディメンターたちは標的を見つけることができずにいるということ。
こういったことはアルバス・ダンブルドアに相談するのが得策ではないだろうか。
ダンブルドアに連絡しろ、とボーンズ長官に
エメリーンはしばらく逡巡した。多分長く逡巡しすぎたが、やっと決心した。 かまってられるか。そもそも、みんなおなじ陣営なんだ。ボーンズ長官が気にいろうが気にいるまいが、共闘は必要だ。
ひとこと思考すると、銀色のスズメが彼女の肩に飛び乗ってきた。
「隊列の最後につきなさい。」 エメリーンは声を落とし、くちびるもほとんど動かさずに言う。 「だれにも見られなくなったタイミングで、アルバス・ダンブルドアのところに行って、彼が一人でなかったら一人になるまで待って、こう伝えて。 『ベラトリクス・ブラックがアズカバンを脱獄しようとしている。ディメンターは彼女を見つけられない。』」
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky