ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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57章「スタンフォード監獄実験(その7)——制約つき認知」

ハリーはあれで自分が謎の暗黒面と融合(フュージョン)できて、暗黒面の悪いところは切り捨てて長所をすべて利用できるようになったのだ、と期待してしまっていた。冷徹さや怒りは切り捨てて、あの澄み切った思考と不屈の意思がいつでも手にはいるようになったのだと思っていた。

 

またもや自信過剰になってしまっていた。 なにかが起きはした。だが暗黒面(ダークサイド)はいまもかわらず、自分とは別個の存在だ。そして通常の自分では不屈さが足りない。 いくら暗黒面の死への恐怖を修理することができたとしても、無防備な状態でアズカバンにいながら暗黒面に交代するなどまっぴらだ。運試しにもほどがある。

 

ただ、残念ではある。こういう場合には多少の不屈さがあればきっと便利だろうから。

 

それよりもやりきれないのは。壁に身をあずけたり、なみだをぽろぽろと流したり、ため息をつくことすらできないことだ。 いとしいベラがとなりにいる以上、〈闇の王〉らしくない動作をするすがたを見せてはならない。

 

「ご主人さま——」とベラトリクスが緊張して小声で言う。「ディメンターが来ます——感じます——」

 

「ありがとう、ベラ。そんなことは分かっている。」

 

〈死の秘宝〉である〈マント〉をはずすまえと同じように感知はできないが、ハリーは虚無の吸引力が強まったのを感じた。 最初は自分たちが階段をくだったことによる影響かと思ったが、ベラトリクスと二人で下に着いてからも、吸引はどんどん強力になっていった。 吸引力はむこうが螺旋(スパイラル)に沿って遠ざかると弱まり、階段をあがってくるとまた強まる……つまり、ディメンターはもうアズカバンのなかにいる。そしてハリーを狙っている。 当然だ。いくらディメンターへの抵抗力があっても、ハリーはディメンターから見えている。

 

()()()()()()()()、とハリーは脳に言う。〈守護霊の魔法〉を使わずにディメンターを倒す方法を見つけろ。 あるいは、〈不可視のマント〉を使わずにだれかをディメンターから隠す方法を見つけろ——

 

()()()()()()()()、と脳が言う。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

()()()()()()()()()()、とハリー。

 

こちらも真剣だ。〈守護霊の魔法〉をかけて、〈闇ばらい〉が来るのを待て。 常識で考えろ。もう手はない。

 

あきらめる……

 

そう考えると、いままでより強く自分が虚無に引き寄せられるような気がした。 そしてなにが起きているかに気づき、ハリーは星ぼしのことをもっとしっかりと考えて、絶望から注意をそらそうとした——

 

そこで論理的な部分の自分が意見した。 ディメンターに自分を晒すのを防ぎたいからといって、否定的な思考を()()()()してはいけないと思うのか。それもりっぱな認知バイアスだ。これがほんとにあきらめるべき状況だったらどうするんだ?

 

下のほうから、「やめろ」「来るな」といったことばが混ざりあって聞こえてきた。 囚人たちの声だ。囚人たちも気づき、感じはじめたのだ。

 

ディメンターが来る。

 

「あの——わたしのことはかまわず——どうかこのマントを——」

 

「だまれ、愚か者が。おまえを犠牲にすべきときが来れば、こちらからそう命じる。」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()、とスリザリンが言う。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ハリーは一瞬だけ、ベラトリクスを犠牲にして自分が助かることを考えた——

 

その一瞬のうちに、オレンジ色の薄暗い照明が通路から逃げだしていき、冷気がハリーの指さきに忍び寄るように感じた。 ベラトリクスを〈死〉の影のまえに置き去りにする、ということを考えるだけで、自分の無防備な部分が晒される。 置き去りにすると決めたが最後、〈守護霊の魔法〉をかけられなくなるかもしれない。一度は自分を救ってくれた思考を捨てることになるからだ。

 

いや、〈守護霊の魔法〉をかけられなくなるのだとして、 〈マント〉をベラトリクスから取りかえせばいいだけではないか。そう思った直後にハリーはその考えかたを選択肢からはずして、ぜったいにやるものかという決意を強くした。迷いを見せれば、その場で自分がくずれおちそうな気がした。 まわりで渦まく虚無はとてつもなく強力になっている。()()()()()()悲鳴が聞こえるが、下からの悲鳴は聞こえなくなった。

 

()()()()()()、とハリーの論理的な部分が言う。理性ある主体がこんな風に推論過程を検閲される設定はおかしい。どの定理の背後にも、当事者の思考が現実に影響をあたえるのは実際に行動する段階になってからだ、という仮定がある。最適なアルゴリズムを自由に選択できるようにしたいなら、自分の思考とディメンターがどう影響しあうかを心配しなくていいという仮定が必要——

 

……

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とグリフィンドールが言う。グリフィンドール面のぼくでも分かるぞ。まさか本気で、ただそこに突っ立って——

 

◆ ◆ ◆

 

「できました!」とオウラが鏡を手にしたまま、勝ち誇った声で言う。「内部壁の外にいるディメンターはCスパイラル第七層を指しました。敵はそこです!」

 

部下たちは期待の目でアメリアのほうを見た。

 

「いいえ。」とアメリアは平静な声で言う。「そこにいるのは敵のうちの一人。 ディメンターはまだベラトリクス・ブラックを見つけられていない。 全員でそこに突入したところで混乱をついてブラックに逃げられてはかなわない。隊を分けても不意打ちの的になるだけ。 このまま慎重に進んでさえいけば、負けはない。 これまでどおり一層ずつ順に捜索せよと、スクリムジョールとシャックルボルトに伝達——」

 

老魔法使いはすでにつかつかと歩きはじめていた。 それを見てもアメリアは今回は罵声をあびせなかった。 慎重にきずきあげた防壁の一部が、またしても液体のようにぷるんと分離してダンブルドアについていった。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは階段のすぐ下の、通路のはしで待った。 そのうしろにいるベラトリクスとヘビは、ハリーが制した〈死の秘宝〉によって隠されている。目には見えないが、ベラトリクスはきっと弱りきって、階段に腰かけて背をあずけている。精神力と魔法力の消耗を防ぐために、〈浮遊の魔法〉はすでに解除した。

 

ハリーの目は通路の突き当たりの、下への階段がある場所をじっと見ている。 今度は想像ではなく現実として、通路の照明が薄暗くなり、温度が下がった。 暴風に煽られて沸き立つ海のように、恐怖がうなりをあげ、ハリーの全身をつつんでいる。虚無の吸引力もまるでブラックホールに引かれるような絶大な強さになった。

 

突き当たりの階段に立ちのぼる瘴気のなかから、虚無が、空が、世界の傷ぐちがあらわれた。

 

ハリーはディメンターが止まることを期待した。

 

自分のなかの意思と集中力をかきあつめて、()()()()()()()()()()

 

止まるすがたを予想した。

 

止まると信じた。

 

……理屈では、これでいいはず……

 

ハリーはさまよい出るほかの危険な思考を排除し、()()()()()()()()()()()()()()()()()()。 ディメンター自身は知性のない、世界の傷ぐちにすぎない。 人間はディメンターと交渉し、生けにえと引きかえに協力を得た。それもすべて、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。 だから、ディメンターは引きかえす、ディメンターは去る、とハリーが強く信じれば、そうなるはずだ。

 

だが世界の傷ぐちは動きを止めない。渦まく恐怖は実体を持ったように感じられる。虚無は精神だけでなく物質も引き裂くように感じられる。ディメンターが通過した場所で金属がさびていくのが見える。

 

うしろから小さな音がした。ベラトリクスが立てた音だった。一言もしゃべるなという事前の命令をしっかり守っている。

 

あれを生きものだと思うな。精神に感応する物体だと思え。あれをコントロールするには、自分をコントロールすればいいだけ——

 

だが、自分をコントロールすることはそう簡単ではない。意志力だけで青を緑だと思いこむのは簡単ではない。自分になにかを信じ()()()などということがいかに不合理なことか、考えずにはいられない。 自分をだましてなにかを信じさせる、ということが自分のやっていることだと分かっていては、うまくいくはずがない。 ハリーはいつも自己欺瞞をしないように自分を訓練してきた。だからいくら()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と言っても、応じようとしない——

 

〈死〉の影の群れが通路の中間地点を越えた。ハリーは片手をあげ、指をいっぱいにひらいて、ゆるぎない命令の口調で「止まれ」と言った。

 

〈死〉の影は止まった。

 

ハリーの背後でベラトリクスがしぼりだすような音をたてて息をのんだ。

 

ハリーは事前に打ち合わせておいた手ぶりで『ディメンターの言うことを繰り返して言え』と彼女に指示した。

 

ベラトリクスは震える声で言った。 「ディメンターは……『ベラトリクス・ブラックはわれわれに約束された獲物だ。やつがどこに隠れたか教えろ。そうすればおまえのことは見逃す』と言っています。」

 

「ベラトリクスだと?」とハリーは愉快そうな声をだした。「あいつはもうとっくに外にいるぞ。」

 

そう言ってからすぐに、むしろベラトリクスは最上層の〈闇ばらい〉たちのなかにまぎれている、と言えばよかった、と思った。そうすればさらに混乱を引き起こすことができたかもしれない——

 

いや、罠に引っかけるという発想はまちがいだ。ディメンターはただ、()()によってコントロールされるだけのものにすぎない——

 

ベラトリクスが声をつかえさせながら言った。 「『おまえは』……『おまえはうそをついているな』と言っています。」

 

虚無の群れがまだ動きだした。

 

ぼくが期待することとは別のことを彼女が確信してしまっている。自覚のないまま彼女がディメンターをコントロールしてしまっている——

 

「抵抗するな。」と言ってハリーは杖を後方にむけた。

 

「ご、ご主人さま、愛しています、どうかご無事で——」

 

「ソムニウム」

 

奇妙なことに、ハリーは元気づけられた。あの悲惨なことばを聞き、ベラトリクスが勘違いしたことを知って、自分がなぜたたかっているのかを思いださせられた。

 

「止まれ。」とハリーはもう一度言った。 ベラトリクスはもう眠った。あとはハリー自身の意思、というより期待で、あの殲滅の黒球(スフィア・オヴ・アナイレイション)たちをコントロールすればいい——

 

だがディメンターたちは進みつづけた。それを見てハリーは、前回の対面で自分の自信がそこなわれてしまったのではないか、だから自分には止めることができないのではないか、と思えてならなかった。そう考えている自分に気づくと、疑念はさらに深まり——もっと準備する時間が必要だ、檻にはいったディメンター一体をコントロールする練習が必要だと——

 

両者のあいだの距離は通路の四分の一にまでつまり、空虚な風が圧力を増し、ハリーは自分のなかの隙から浸食がはじまったのを感じた。

 

そして自分はまちがっていたのではないか。もしかしてディメンター自身にもちゃんと欲望と計画能力があるのではないか。いや、実は、そばにいるだれかではなく、()()()()考えるイメージによってディメンターはコントロールされるのではないか。いずれにしろ——

 

ハリーは杖をかまえ、〈守護霊の魔法〉の開始姿勢をとった。

 

「おまえたちの仲間が一体、ホグウォーツに行った。そして帰らなかった。 あの一体はもう存在しない。あの〈死〉(ディメンター)は死んだ。」

 

ディメンターたちが歩みをとめた。十二の世界の傷ぐちが動かなくなった。それでもディメンターのまわりの虚無の暴風は吹きやまず、うつろな悲鳴をあげつづけた。

 

「おなじように破壊されたくなければ、引き返せ。そしてこのことは秘密にしろ。」

 

指を開始位置におき、〈守護霊の魔法〉のためのこころの準備をする。 星ぼしのあいだに光る地球。昼のがわは太陽光を反射して明るく青く、夜のがわは人間の都市の光がきらめく。 ハリーにとってこれははったりではないし、ディメンターを引っかけるつもりもない。 〈死〉の影が一歩こちらに踏みだせば、殲滅するまで。引きさがるならそれもよし……

 

虚無たちは来たときとおなじようにするりと退却していった。距離がひらくたび空虚な風圧は着実に弱まっていった。そして十二体が階段の上をすべり、すがたを消した。

 

ディメンターには実は擬似知性があるのか、それとも去ることを()()するのがやっとうまくいったのか……結論はわからない。

 

とにかくディメンターは去った。

 

ハリーは意識をうしなったベラトリクスのとなりで階段に腰をおろし、ベラトリクスとおなじようにぐったりとして、ごく短い時間だけ、目を閉じた。もちろんアズカバンのなかで眠ることなどあってはならないが、その短い時間が必要だった。 〈闇ばらい〉たちが距離をつめてきてはいるだろうが、その速度はきっと遅い。だから五分間の休憩くらいはかまわない。思考を明るくたもつことにだけは気をつけて、『これは回復のために休憩しているだけで、自分はすぐに元気になる』と考え、『感情的にも身体的にも疲れ果てて自分は倒れてしまいそうだ』とは考えないようにした。ディメンターはまだそれほど遠くにいっていない。

 

『ところで……』とハリーは自分の脳に言う。『おまえはクビだ。』

 

◆ ◆ ◆

 

「連れてきたぞ!」とダンブルドアの声がした。

 

『だれを?』とアメリアは思った。もどってきたダンブルドアのほうを向くと、その両腕には——

 

——もう二度と見ることはないだろうと思っていた人物のすがたがあった——

 

男の赤いローブはほつれ、まるでちょっとした戦争をくぐりぬけてきたかのようにずたずたになっている。乾いた傷ぐちには血のあとがある。目は見ひらかれ、チョコレートを無事なほうの片手に持ち、口にしている。

 

バアリー・ワンハンドが()()()()()

 

歓声があがった。〈闇ばらい〉たちはかまえていた杖をおろし、何人かはすでに走り寄ろうとしていた。

 

()()()()()()()」とアメリアはどなる。「〈変身薬(ポリジュース)〉がかかっていないか両方に検査を——バアリーには小型の〈動物師(アニメイガス)〉や罠がついていないかも確認しろ——」

 

◆ ◆ ◆

 

「『イナヴェイト』。『ウィンガーディウム・レヴィオーサ』」

 

沈黙。女は透明なまま手をついて身を起こし、くびをまわしてあたりを確認する。ハリーの目には見えないがその動作を感知することはできた。 「あたし……生きている……?」

 

ハリーはつい興味本位で、『いや』と言ってやったらどう反応するだろうと思ってしまった。だが実際には「愚かなことを言うな」と言うだけにした。

 

「あのあとどうなったのですか?」と小声でベラトリクスがたずねた。

 

〈闇の王〉は甲高い声で思いきり笑ってから、こたえた。 「わたしがディメンターをおどして撃退したのだよ、ベラ。」

 

一瞬、返事がなかった。なにかまちがったことを言ってしまったか? 顔が見えないので、反応がわからない。

 

しばらくして、震える声で返事があった。 「ご主人さま、もしかして、おからだが変わったことで、あたしを心配してくださるようになったのでは——」

 

「ないな。」と冷たく言ってハリーは顔をそむけ、歩きはじめた(杖はむけたままにした)。 「二度とわたしの気にさわることを口にするな。つぎはない。下僕として価値があろうが、捨てていくまでだ。 置き去りにされたくなければ、早く来い。 わたしはやることがある。」

 

ハリーは歩みをすすめた。ベラトリクスはかならずついてくる。だから背後で息をのむ音がしたのは無視した。

 

……この点だけは、ベラトリクスを精神治癒の癒者にみせて洗脳をとく作業がはじまるまで、ゆずるわけにいかなかった。ベラトリクスが一度でも自分は〈闇の王〉に愛されたのだと思うようなことがあってはならない。

 

◆ ◆ ◆

 

ダンブルドアは思案げな顔で銀色のひげをなでながら、体格のよい〈闇ばらい〉二人に運ばれてバアリーが部屋から連れだされていくのを見ていた。

 

「これがどういうことか分かるかね、アメリア?」

 

「いいえ。」  これはまだ自分たちが理解できていない罠のようなものではないか、とアメリアは懸念していた。だからバアリーを本部から遠ざけ、警護をつけておくことにしたのだ。

 

間をおいてからダンブルドアがつづけた。 「推測で言うが、敵のなかにいる〈守護霊の魔法〉の使い手は、単なる人質ではないのかもしれん。 もしや、だまされて協力してしまっているのでは? いずれにせよ、むこうが看守の彼を殺さずにおいたのはたしか。 こちらがさきに殺人の呪文を使うことのないよう、気をつけねばなるまい——」

 

アメリアはそれを聞いて突然ひらめいた。 「なるほど……それが狙いか。 バアリーを〈忘消〉(オブリヴィエイト)して生かしたままにしても、むこうはなんの損にもならない。いっぽうで、われわれを躊躇させる効果はある——」  アメリアはきっぱりとうなづいて、部下たちに呼びかけた。 「ここからも予定どおり進軍する。」

 

ダンブルドアはためいきをついた。 「ディメンターからなにか情報は?」

 

「それを教えたら、あなたはまたどこかに消えるのかしら?」

 

「教えてもおぬしにはなんの損もないはずじゃ。おまけに、大事な部下を戦闘に送らずにすむかもしれんぞ。」

 

損といえば、せっかくの復讐の機会をふいにする可能性はある——

 

だがそれも、もうひとつの可能性にくらべれば微々たる犠牲。なにせ、このいまいましい老人の話は結果としては正しいことが多い。そこがまたいまいましい。

 

「あのもう一人の人物についてまたディメンターたちに質問をかけています。けれど答えがない。一度は目撃したと言ったのに、いまは答えない理由を訊いても、場所を訊いても、返事をしない。」

 

ダンブルドアは肩にいる銀色に燃える不死鳥のほうを向いた。その光は通路全体を照らしている。不死鳥はくびをふることで、ダンブルドアの問いに答えた。 「わしにも検知できないようじゃ。」と言ってダンブルドアは肩をすくめた。 「あとは、スパイラルの上から下まで歩いていって、この目でたしかめてくるしかないかのう。」

 

アメリアは止めろと言うべきだとは思ったが、ひとの忠告を聞きいれるような相手でないことも分かっていた。

 

「アルバス……」と去りかける老人の背にむけて言う。「あなたでも奇襲されれば無事でいられるとはかぎらない。」

 

「これはまたおかしなことを。」と言いながら老人は歩みをすすめ、諭すように十五インチの地味な黒杖を振った。「わしは無敵じゃ。」

 

全員が無言になった。

 

(「あれは本気で言ってるんじゃない……ですよね?」と小声で、まだ生きのいい新人ノエル・カリーが同じ小隊のイザベル・ブルックスに言った。)

 

(「あの人だから許されるのよ。」とイザベルも小声で答える。「ダンブルドアだから。運命の女神もまじめにとりあわなくなってるんだと思う。」)

 

アメリアはうんざりしながらも、若い部下たちへの教育のためと思って口をはさんだ。 「これだから、どうしてもやむをえない場合をのぞいて、あの人には声をかけないことにしてるのよ。」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは監房にベッドがわりに置かれた堅い長椅子のうえに横たわり、身じろぎもせずじっとしている。毛布を一枚かぶって、できるかぎり不動の姿勢で、恐怖が帰るのを待っている。 〈守護霊〉が一体ちかづいてきている。強力な〈守護霊〉だ。 ベラトリクスは〈死の秘宝〉のマントで隠されているから、尋常な〈魔法〉では見やぶられない。 だがハリーのほうについては、〈闇ばらい〉たちならなんらかの手段で検知できてもおかしくない。といっても、それをたしかめるためにベラトリクスにたずねるようなことをしては、なぜ知らないのかと怪しまれてしまう。 だからハリーはこうして、施錠された監房の堅い寝台に横たわり、外の巨大な金属扉は施錠したうえで、完全な暗闇のなか、薄い毛布をかぶって、待っていた。いま外を通ろうとしているだれかが、中に目をむけませんように、むけたとしても詳しくは見ませんようにと願った——

 

この点については自分にできることはない。自分の運命のこの部分は全面的に〈隠れ変数〉によって決まる。 だからハリーはほとんど一心になって、いまやろうとしている〈転成術〉(トランスフィギュレイション)だけに注意をかたむけた。

 

しんとした監房に足早な靴音が近づいてくる。それが扉のまえで止まり——

 

——また歩きはじめた。

 

すると恐怖が戻ってきた。

 

ハリーは自分がほっとしたことにも気づかず、恐怖を感じていることにも気づかず、ただ一心に、とあるマグル装置の形状をこころのなかに描き、ゆっくりとその〈形相(けいそう)〉を角氷という物質に当てはめようとしていた(角氷はポーチからとりだした水をもとに『フリジデイロ』で作ってあった)。 燃やすものを〈転成〉してはいけないことになってはいる。だがこれは原料が水だし、〈泡頭(バブルヘッド)の魔法〉もあるから、自分やほかのだれか健康にかかわることはないだろうとハリーは期待していた。

 

あとは〈闇ばらい〉たちがこの監房を詳しく検分しにくるまでにどれくらい時間があるか、それまでにハリーがこの〈転成〉と、そのあとに控えているもうひとつの部分〈転成〉とを終えられるかどうかにかかっている——

 

◆ ◆ ◆

 

ダンブルドアが手ぶらで戻ってきたとき、さすがのアメリアもすこしだけ不安を感じはじめた。 アメリア自身の隊とほかの二隊はすでに、全三スパイラルを上から三分の一踏破した。ぴったり各隊の歩調をあわせることで、相手が天井をやぶって脱け出るおそれのないようにしている。それでもなにも発見できていない。

 

「なにか報告していただけることは?」 アメリアはできるかぎり語気を強めないようにつとめた。

 

「まず、わしは上から下までざっと歩きとおした。」と言ってダンブルドアは眉をひそめた。顔のしわがいっそう深くなった。 「ベラトリクスの監房を調べると、身代わりの人形が置いてあった。 だれにも知られないうちに脱獄しおえる手はずであったのじゃろう。 すみのほうになにかが布切れで隠されていたが、そこには手をふれずに置いた。おぬしの部下に調査してもらいたい。 帰り道に監房の扉をひとつひとつひらいて見てきたかぎりでは、 どこにも〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)されたものはなかった。ただ囚人たちは——」

 

そこに赤金色の不死鳥のつんざくような声が割りこんだ。〈闇ばらい〉の全員がたじろいだ。はげしい非難と差しせまった要求がこもった鳴き声で、すぐさまこの通路から逃げだしたくなるほどのちからがあった。

 

「——なんともみじめな状態にあった。」 ダンブルドアは声を落とした。 一瞬だけ、半円形の眼鏡の奥の青い目がとても冷たく見えた。 「すべては自業自得、とでも言いたいところではないのかな?」

 

「わたしはそんな——」

 

「いや言いすぎた。すまぬ、アメリア。」と言ってダンブルドアはためいきをついた。 「新しい囚人であれば、よく見ればわずかながら魔法力を残している者もいた。けれど無傷な者はなく、残っていたとしてせいぜい一歳の子どもほどの魔法力でしかなかった。 フォークスは何度も悩ましい声で叫んだが、反抗はしなかった。 敵はわしが少し見た程度では見やぶれないくらいうまく隠れられるらしい。となれば、おぬしらのやっている捜索をつづけるしかあるまい。」

 

◆ ◆ ◆

 

ひとつめの〈転成〉が終わり、ハリーは身を起こして毛布をめくり、軽く『ルーモス』で照らして腕時計を確認した。おどろいたことにほぼ一時間半が経過していた。 だれかが扉をひらいてとじたあのとき——もちろんそこで振りかえるようなことはしなかった——は、その一時間半のうちどれくらいの時点だったのか、よくわからない。

 

「あの……?」とベラトリクスが小声でおずおずと言った。

 

「もういいぞ。話せ。」 作業中は話しかけるなと言っておいたのだった。

 

「さきほど調べにきたのはダンブルドアです。」

 

沈黙。

 

「おもしろい。」とハリーは無感動な声で言った。 その場で気づけなくてむしろ助かった……冷や汗ものだ。

 

ハリーはポーチに一言言って、一時間かけてできたばかりの装置につなげるべき魔法器具をとりだした。 それが出てきてから、さらにもう一言言ってチューブ入り工業用接着剤をとりだした。 こうした密室で接着剤から出るガスを吸うのは危険なので、まずハリーは自分とベラトリクスに〈泡頭(バブルヘッド)の魔法〉をかけ、ベラトリクスがヘビに同様の魔法をかけた。

 

テクノロジーと魔法を結ぶべく接着剤が固着しはじめると、ハリーはそれを寝台に置き、自分は床に座った。そして魔法力と意志力を休め、つぎの〈転成〉作業にそなえた。

 

「あの……」

 

「なんだ?」

 

「それはなんの装置でしょうか?」

 

ハリーはすばやく考えた。 一連の作戦を一度はチェックしておきたい。誘導訊問の体裁でその話をしてみるのはいいかもしれない。

 

「いとしいベラよ、ひとつ答えてくれ。有能な魔法使いにとってアズカバンの壁をこわすことは、どれくらいむずかしい?」

 

一瞬返事がなかったが、ベラトリクスはゆっくりと困惑した声でこたえた。 「少しもむずかしくありませんが……?」

 

「そのとおり。」とベラの主人が乾いた甲高い声で言う。「では壁をこわし、できた穴からホウキに乗って飛びだし、そのまま飛行して去ることはどうだ。それができるなら、囚人をアズカバンから逃がすことなど、たやすいことのように思えるが?」

 

「ですが……〈闇ばらい〉が——〈闇ばらい〉のホウキの速力をもってすればすぐに——」

 

やはりそうか、とハリーは思った。〈闇の王〉はそこからまた、なめらかにソクラテス的な言いかたで反問した。ベラトリクスはさらに質問し、今度はハリーにとって予想外な質問だったが、もう一度反問したところ、けっきょく心配の必要はないことが分かった。 ベラトリクスの最後の質問に対して〈闇の王〉はただ笑みを見せ、もう仕事にもどる時間だとだけ告げた。

 

そしてハリーは床から立ちあがり、部屋の奥までいって、かたい壁の表面に杖をあてた。厚い金属のその壁は、アズカバンの囚人と奈落のディメンターとのあいだをさえぎっている。

 

ハリーは部分〈転成術〉をはじめた。

 

うまくいけば、これはそう長くはかからない。 部分〈転成術〉の練習にハリーはこれまで膨大な時間をついやした。おかげで通常の〈転成術〉をするのと大差ないくらい楽にできるようになった。 いま変化させようとしている部分をすべてあわせても体積としてはわずかだ。高さも幅も長さもあるが、とても薄い。 厚さは〇.五ミリメートル。摩擦がないならそれで十分だろうと考えてそうした……

 

寝台がわりの長椅子に腰かけ、〈転成術〉で作った装置と魔法器具をつなぐ接着剤が乾くのを待つ。その融合物の上に金色の小さな文字が光った。 決して意図して作ったのではないが、〈転成〉作業中ずっとこの文字はハリーのこころのかたすみにあったらしく、結果的にこうやって出現した。

 

これだけみごとなできばえの装置を起動するにあたって、言ってやりたいことはいろいろある。ベラトリクスさえいなければ、口にしていてもよかったせりふはいろいろある。

 

だが考えてみると、この機会をのがせば二度とぴったりくる機会がなさそうなせりふがちょうど一つだけあった(口にしないとして、考えるだけのせりふになるが)。 あの映画の本編を見たことはなく予告編しか知らないのだが、なぜかその一つのせりふがハリーのこころのなかに刻まれていた。

 

『おい、そこの原始人ども! ちょっと聞け!』——装置の表面には小さな金色の文字でそう書かれていた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 

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