ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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59章「スタンフォード監獄実験(その9)——好奇心」

ホウキという乗り物はマグル世界でいう〈暗黒時代〉に発明されたという。マーリンの曾々々孫ともされる、セレストリア・レヴェロという名前の伝説的な魔女が発明者だという。

 

それがセレストリア・レヴェロなのか、別の人やグループなのかはともかく、ホウキの発明者はニュートン力学を芥子粒ほども理解していなかった。

 

そのおかげで、ホウキはアリストテレス流の物理学にしたがって機能することになった。

 

つまり、ホウキは()の指す方向に移動する。

 

まっすぐ移動したいときは、まっすぐその方向にホウキを向ける。重力の効果を打ち消すために推力の放出方向をすこし下にずらしておく、といったことを考える必要はない。

 

向きを変えれば、速度ベクトル全体がその方向に切り替わる。もとの運動量による進路のずれは生じない。

 

ホウキに最大速度はあるが、最大加速度はない。 空気抵抗がどうとかいう話ではなく、そのホウキにこめられたアリストテレス流の運動因で生みだせる速度に限界があるからだ。

 

ハリーはそういう理屈をはっきりと認識してはいないまま、たくみにホウキをあやつって飛行術の授業で一番の成績をとっていた。 ホウキはまるで、人間が()()()()()()()()()()()()()()()()()()()やりかたで機能する。そのせいでハリーの脳は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()のを見落としてしまっていた。 木曜日のホウキ飛行術の初回授業があったとき、紙に書かれたメッセージや光る赤い球など、ホウキよりもおもしろそうな現象がいろいろあった。ハリーの脳もそれに気をとられ、 つい不信を一時停止してしまい、ホウキという現実を受けいれてすんなり楽しんでしまったらしい。そのせいで、これほどあきらかな問いのことを一度も考えようとしなかった。 残念な事実ではあるが、人間は自分が遭遇する事象のうちほんの一部だけしか思索の対象にしようとしない……

 

かくして、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスは自分の好奇心の欠如のせいで、あやうく死にかけた。

 

というのも、ロケットはアリストテレス物理学にしたがわないからだ。

 

ロケットというのは、人間が直観的にそうであってほしいと思うようなやりかたでは飛ばない。

 

したがってロケットつきホウキも、ハリーが得意とする魔法のホウキのようには動いてくれない。

 

発射の瞬間、そういった理屈はいっさいハリーの脳裡になかった。

 

まず第一に、生まれてから聞いたことのない大音量の音を聞いていたので、ハリーは自分の思考に耳をかたむけることができなかった。

 

第二に、重力の四倍の加速度で上昇するということはつまり、アズカバンの底面から頂上まで上昇するのに二秒半とかからないということを意味していた。

 

もしかするとそれはハリーの人生で一番長い二秒半であったかもしれないが、所詮二秒半でそう複雑な思索はできない。

 

できたのは、〈闇ばらい〉たちの呪文の光が飛んでくるのを見て、それを避けるためにホウキをわずかにかたむけてから、かたむけた方向にホウキが進まず、ほとんど同じ運動量をもって動きつづけているのに気づき、ことばにできないまま

 

まずい

 

ニュートン

 

という二つの概念を思いうかべることだけだった。

 

それからハリーはもっとしっかりとホウキをにぎって角度を維持したが、壁にどんどん近づいていってしまったので逆方向にホウキをむけるとまた閃光が降ってきて、下からはディメンターたちが浮かびあがり、白色と金色の炎でできた巨大な羽のある生物もいっしょに飛んできたので、また方向転換して上空にむかった。ところがホウキはまた別の壁に向かっていこうとして、すこし横にかたむけると壁に近づくのは止まったもののすでにかなり壁が迫ってきていたのでまた向きを変えた。遠くに見えていたはずの〈闇ばらい〉たちはもう目の前まで来ていて、一人の女性と衝突しそうなコースになっていたので、ホウキを大きく回転させて反対を向いたはいいが、つぎの瞬間に、強力な火炎放射器でもあるロケットの噴射口があの人の真正面にあたってしまうと気づき、自分のホウキを横に逃がし、ハリーはまた上を目指した。噴射口はまた別の〈闇ばらい〉のだれかのほうを向いているかもしれないが、すくなくともあの女性にはあたっていないこということで自分を納得させた。

 

高速に上昇する火炎放射器に乗って、ハリーは別の〈闇ばらい〉と一メートルの近さですれちがった。あとで推測したかぎりでは、このときの速度はおそらく時速三百キロメートルくらいになっていた。

 

けっきょく火炎の餌食になって悲鳴をあげた〈闇ばらい〉がいたのかどうかは分からない。そんな声は聞こえなかったのだが、ハリーの耳はこのとき爆音に支配されていたので、声が聞こえなかったことはなんの証明にもならない。

 

それから数秒のあいだ、音のことはおいておいてすこし気を落ちつけていると、〈闇ばらい〉もディメンターも炎でできた巨大な有翼生物も見えなくなり、いつのまにかアズカバンの威容もかわいらしいサイズに見えるほどの高度に達した。

 

ハリーはホウキを太陽にむけた。太陽には雲がかかってはっきりとは見えず、この季節のこの時間なので、水平線からあまり離れていない。つぎの二秒間ホウキは驚異的な加速をし、そこでロケットの固体燃料が燃えつきた。

 

そして、ありえないほどの速度で飛ぶホウキに対する強烈な向かい風の音だけがのこった。そのときになってようやく、ハリーは自分の思考の声が聞こえるようになった。魔法でホウキから離れにくくしてある両手が、つりあいの終端速度よりはるかに大きな速度の代償としての抗力に抵抗すればいいだけになってようやく、ニュートン力学やアリストテレス物理学やホウキやロケット技術や好奇心の大切さのことを考えられるようになり、もうこんなグリフィンドール的なことは二度とやりたくない……すくなくとも〈闇の王〉の不死の秘密を知るまでは、と思った。そして自分はなぜクィリナス・クィレル教授の『コレニハ/ワタシノ/命モ カカッテイルノダカラ/死ヌヨウナコトハ/ナイト/保証スル』を鵜呑みにして、マイケル・ヴェレス゠エヴァンズ教授の『すこしでも、ほんのすこしでもロケットに関係するようなことを専門家の監督なしにやったりしたら/まちがいなく命にかかわるから、パパとママを悲しませないでくれ』を聞きいれなかったのか、と後悔した。

 

◆ ◆ ◆

 

はああ?」とアメリアは鏡にむけて言った。

 

◆ ◆ ◆

 

空気抵抗による減速のおかげで、風の強さもやりすごせる程度になり、いろいろなことをやかましく言いたてる脳内の声にとりあう余裕ができた。

 

クィレル先生はロケットの噴射口に〈音消しの魔法〉をかけたはずだ……が、どうやらその効果にも限界があるらしい……。思えば、〈音消しの魔法〉を過信せず、耳栓を〈転成〉して用意しておくべきだったが、耳栓でもあまりたしにはならなかった気がする……。

 

まあ、聴力に後遺症がのこったとしても、きっと治癒魔法でなんとかできる。

 

いや、聴力に後遺症がのこったとしても、きっと治癒魔法でなんとかできるんだって。 もっとずっとひどいけがでマダム・ポンフリーのところに送られた人も見たことがあるし……

 

想像上の人格をある人の脳から別の人の脳に移植する方法はあるのかな? もうきみの脳には住むのはこりごりだ——とハッフルパフが言った。

 

ハリーはそれをこころの奥へ押し返した。いま考えてもどうしようもない話だ。いま心配しているべきことは、なにかあるだろうか——

 

そう思いながら、ハリーはうしろをちらりと見た。そういえばまだ、ベラトリクスとクィレル先生がホウキから落ちていないかすら、確認していなかった。

 

緑色のヘビはベラトリクスの背中のベルトにおさまっている。ベラトリクスはホウキにしがみついたまま、健康的でない色どりの顔をして、目を危険にかがやかせている。 ヒステリックに笑うときのように肩を上下させている。口は高速に動き、なにか叫んでいるようにも見えるが、声はしない——

 

あっ、そうか。

 

ハリーはフードをめくり、『聞こえない』、と言うように自分の両耳をたたいた。

 

するとベラトリクスは杖を手にして、ハリーにむけた。突然耳鳴りがおさまり、声が聞こえはじめた。

 

つぎの瞬間、ハリーは後悔した。彼女は延々とののしっていたのだ。ののしる相手は、アズカバン、ディメンター、〈闇ばらい〉、ダンブルドア、ルシウス、バーテミー・クラウチ、〈不死鳥の騎士団〉という名前のなにか、そのほか〈闇の王〉に邪魔立てした者どもすべてで、小さなお友だちには聞かせられない表現でいっぱいだった。強烈な笑い声が、せっかく治癒された耳に痛い。

 

「だまれ、ベラ。」とハリーが言うと、ベラトリクスは即座に口をつぐんだ。

 

間があいてから、 ハリーは念のためと思い〈マント〉をかぶりなおした。そしてその瞬間、望遠鏡かなにかで下から見られていた可能性もあるということに気づいた。短時間であれフードをめくってしまったのはとんでもない判断ミスだった。このひとつの失敗のせいで任務全体が崩壊したりしなければいいのだが……

 

ぼくたちって、あまりこういうのに向いてないんじゃないか——とスリザリンが言った。

 

ハッフルパフが反射的に反論する。はじめてやることだからね。完璧にできると思っちゃいけない。きっともう何回か練習すれば ちょっと待って、いまのなし

 

ハリーはもう一度うしろをふりかえった。ベラトリクスはまわりを見て困惑し、不思議そうな顔で、あちこちにくびをふっていた。

 

そしてしばらくしてから、ずっと小声で言った。 「ご主人さま、ここはどこですか?」

 

『なにが言いたいんだ』と聞き返したいところだったが、〈闇の王〉であれば自分がなにかを理解できないことを認めようとはしない。だからハリーは乾いた声でこう言った。 「ここはホウキの上だ。」

 

彼女は自分が死んだとでも思っているのか? ここが天国だと思っているのか?

 

ベラトリクスの両手はまだホウキにつながれている。なので彼女は指一本だけを動かして、たずねた。 「()()はなんですか?」

 

ハリーがその指の方向に目をやると……なにも特別なものは見えない……

 

いや、あった。だいぶ高度が上がったので、見通しの悪い雲がもうなくなって、見えている。

 

「太陽だな、ベラ。」

 

思いのほかよくコントロールされた声が出た。落ちつきはらって、すこしだけいらだっているような〈闇の王〉の声だった。同時にハリーのほおに涙が流れた。

 

終わりない冷気と漆黒の闇のなかでは、太陽もきっと……

 

幸せな記憶になる……

 

ベラトリクスはまだあちこちに目をやっていた。

 

「あそこのふわふわしたものはなんですか?」

 

「雲だ。」

 

ベラトリクスはしばらく間をおいてから言った。 「その、雲というのはなんですか?」

 

ハリーはとても冷静な声をだせるような気がしなかった。なんとかして通常の呼吸をつづけながら、泣いた。

 

しばらくしてからベラトリクスがためいきをつき、聞こえないくらいの小さな声で言った。 「きれい……」

 

その顔の緊張が徐々にゆるみ、色が引いて、以前のように血の気のない色になっていく。

 

骸骨のようにやせたそのからだが、ホウキの上でぐったりと倒れた。

 

ぴくりともしない手のホルスターから、杖がだらりと垂れる。

 

何だよそれは——

 

いや、そうか。あの〈覚醒(ペパーアップ)〉ポーションには代償があるという話だった。 ベラトリクスは『当分ノ アイダ 眠リ続ケル』ことになる、とクィレル先生は言っていた。

 

それと同時にハリーの別の部分は、肩ごしに見えるかぎりで彼女はどうみても死んでいると確信していた。まぶしい太陽の光のもとで、まっ白なその顔は完全に死人のように見えたし、だからあれが死ぬまえの最後のひとことになってしまったことになる。きっと、クィレル先生が分量をまちがえでもしたか——

 

——それとも、自分が確実に助かるよう、ベラトリクスを犠牲にしたのか——

 

呼吸はあるか?

 

見るかぎりでは、どちらともいえない。

 

ホウキに乗ったこの位置からは、手をのばして脈拍をとることもできない。

 

ハリーは行く手にぶつかりそうな飛礫がないことをたしかめつつ、太陽にむけてホウキを操舵した。時間は正午をすぎ、透明になった少年は必死に木の棒をにぎって、死んでいるかもしれない女を連れて飛んでいく。

 

うしろにいって人工呼吸をすることもできない。

 

治癒キットにある道具を使うこともできない。

 

クィレル先生も命にかかわるようなことはしていないはずだと思っていいか?

 

変な感じがする。あの〈闇ばらい〉を本気で殺そうとしていなかったという話を(たしかにそんなことをするのは愚かだから)信じるとしても、クィレル先生の心配ないということばでは、もはや安心させられる感じがしない。

 

そういえば、もうひとつたしかめておくべきことが——

 

ハリーはまたふりかえって言った。 「先生?

 

ヘビは動かなかった。返事もしなかった。

 

……もしかするとヘビは乗り手ではないから、加速の衝撃をもろに受けてしまったのかもしれない。 あるいは、〈動物師(アニメイガス)〉形態とはいえ、防壁なしにあれだけディメンターに近づいたせいで、昏倒してしまったのかもしれない。

 

どうしたものか。

 

安全をたしかめてポートキーを使うタイミングをハリーに知らせるのは、クィレル先生の役目だった。

 

ホウキを必死につかんで操舵しながら、ごく短い時間のあいだにハリーは思考をめぐらせた。そうしているうちにもベラトリクスの呼吸が止まったかもしれない。クィレル先生の呼吸はもっとまえから止まっていたかもしれない。

 

仮にこれでポートキーを無駄にしてしまったとしても、取り返しはつく。だれかの脳に酸素がない状態を長びかせてしまえば、取り返しがつかない。

 

そう決心してハリーはつぎに使うべきポートキーを手にし、(自分と地球の自転の相対速度が変わることに関してはポートキーが勝手に調整してくれるらしいが、それ以外の速度についてもおなじ効果があるとはかぎらないので)ホウキを減速し、まぶしい青空のなかに停止させてから、ポートキーをホウキにあて……

 

その小枝を手にしたまま止まった。この小枝の片割れを折ったのが二週間もまえのことのように感じられる。 ハリーは突然ためらいを感じた。 ハリーの脳はオペラント条件づけという純粋に神経的なプロセスによって、〈小枝を折ると悪いことが起きる〉というルールを学習していたらしかった。

 

けれど考えてみると論理的でないルールなので、ハリーは小枝を折った。

 

◆ ◆ ◆

 

背後の金属扉から爆音と衝撃がして、アメリアは手から鏡を落とした。杖を手にぱっとふりむくと、いきおいよく開いた扉のなかからアルバス・ダンブルドアがあらわれた。

 

「アメリア、わしはアズカバンを出る。いますぐに。ホウキで飛ぶよりも速く結界を通過する方法はあるか?」  その声にはいつもの鷹揚さがまったく感じられず、半月形の眼鏡の奥の瞳に柔和さはなかった。

 

「ない——」

 

「では至急、ここにある最速のホウキを頂戴したい!」

 

アメリアが()()()()場所はあの〈悪霊の火(フィーンドファイア)〉のようななにかに負傷させられた部下のところだ。

 

アメリアが()()()ことはダンブルドアがなにを知っているのかを突き止めることだ。

 

「あなたたちは、このまま最下層まで掃討をつづけなさい。まだ残敵がいないとはかぎらない。」  アメリアは部下たちにそう言ってから、ダンブルドアのほうをむいて言った。 「ホウキは二本用意する。飛びながら説明してもらうわ。」

 

二人はしばらくにらみあってから、動きだした。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは気分が悪くなるほど強く腹を牽引された。アズカバンに転移してきたときよりもずっと強い牽引力で、移動距離も長いらしい。おかげで出発地と目的地のあいだにある静寂を聞き、空間のすきまを見ることができるだけの一瞬の時間があった。

 

◆ ◆ ◆

 

太陽はごく短いあいだだけ二人を照らし、すぐに雨雲のむこうに消えた。二人は矢のようにアズカバンから飛びだし、風に乗って風より速く飛んだ。

 

「首謀者はだれ?」  アメリアはとなりのホウキにむけて大声で言った。

 

「こころあたりは二人。現時点ではまだ、どちらとも言えぬ。 一人目であれば、大変なことになった。 二人目であれば、それよりはるかに大変なことになった。」

 

ためいきをつく間もなく、アメリアは問い詰めた。 「それでいつ分かるの?」

 

ダンブルドアの声は小声だが、不思議と風に負けていない。 「第一の可能性であれば、その目論見を完成させるために三つのものが必要になる。 〈闇の王〉のもっとも忠実なしもべの人肉、〈闇の王〉の最大の敵の血、とある墓への訪問。 わしは彼らのアズカバン襲撃が事実上失敗したと見て、ハリー・ポッターの身の安全はまもられた——それでも目は光らせてはおこう——と思っていたが、いまは非常に憂慮している。 彼らには〈時間〉の道具がある。つまり〈逆転時計〉をもつ何者かから情報を受けとっていて、おそらくすでに数時間まえにハリー・ポッターを誘拐しに行ったと見たほうがよい。 だからこそ、アズカバンのなかにいる()()()()()、まだその情報を知ることができない。〈時間〉に結び目をつくることが禁じられたこの場所では、それが来るのはわれわれの未来が来てからになるのだから。」

 

「第二の可能性なら?」とアメリアは声をあげた。 ここまで聞いた話だけでも十分深刻な話に思えた。究極の〈闇〉の儀式、しかも死んだ〈闇の王〉にまつわる企てではないか。

 

老魔法使いは一段と苦い表情をして、無言でくびをふった。

 

◆ ◆ ◆

 

ポートキーの牽引力が消えると、太陽が地平線に顔をだしているのが見えた。朝焼けというより夕焼けのようだった。ホウキは低空にいて、眼前には赤褐色の岩と砂が段をなしてつづいている。だれかが土の生地をこねるだけこねて、たいらにし忘れたようだった。そのすぐさきには、打ち寄せてくる波がはるか水平線まで段をなしている。ホウキの下の地面の高さとその海面とのあいだには、数メートルの段差があったが。

 

ハリーは朝焼けの景色に目をしばたたかせ、それからこのポートキーは国外につながっていたのだと気づいた。

 

「おーいっ!」とうしろから、活発な女性の声がした。ホウキをすばやくそちらに向けると、 中年の女性が片手を口にあてて大げさに呼びかけながら、駆けこんできている。 やさしそうな顔つきで細い目の女性は茶色の皮膚をしているが、人種についてはなんとも言えない。 あかるい紫色のローブを羽織っているが、ハリーが見たことのない様式だ。 つぎに口をひらいたとき出てきたことばにはなまりがあったが、ハリーはあまり外国に行った経験がないので、どの国かは分からなかった。 「なにしてたの? 二時間は遅刻だよ! もう来ないんじゃないかと思ってたところ……ねえ聞いてる?」

 

すこしだけ間があいた。 思考の速度がのろく、奇妙にふらつき、すべてが遠くに感じられ、自分と世界とのあいだに厚いガラスの板があるような気がした。そして自分と自分の感覚とのあいだにも厚いガラスの板があり、目に見えるが手がとどかないような気がした。 朝焼けの光とやさしそうな魔女を目にして、なんて冒険の終わりらしい景色だろうと思いながらも、ハリーはそういう気持ちになった。

 

すると魔女が近づいてきて杖をかまえ、ひとことつぶやくと、ベラトリクスとホウキをつないでいた手錠が切断され、そのからだがふわりと砂岩のうえにおりた。骨ばった腕と血色をうしなった足がもつれた様子からは生気が感じられなかった。 「ああもう、なんてひどい……」

 

この女性は心配しているように見える——、とガラスの板にはさまれて隔絶した存在が思考する。 いまのは、ほんものの癒者が言いそうなことだろうか。演技させられた人が言いそうなことだろうか。

 

それとは別の、また別のガラスの板のむこうにいる自分が、小声で話しだした。 「その背中に乗っている緑色のヘビは〈動物師(アニメイガス)〉です。彼も意識をうしなっています。」  甲高くも冷たくもない、ただの小声。

 

魔女はびくりとして、声の出どころを見てそこになにもないことに気づき、ベラトリクスのほうへもどった。 「あなた、ミスター・ジャフィじゃなかったの。」

 

「この〈動物師(アニメイガス)〉がきっとその人です。」とハリーの口が言った。 同時に、それを聞いていたガラスのむこうのハリーが思考した。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「彼はいつから意識を——いえ、答えなくていい。」  魔女は杖をヘビの鼻さきにしばらくあて、きっぱりとくびをふった。 「一日休みさえすればなんともないわ。でも()()()は……」

 

「いますぐ彼の目を覚まさせられませんか?」 とハリーの口が言った。ほんとにそうしていいのかな——と思う自分もいたが、口は問題ないと思っているようだった。

 

魔女はまたくびをふった。 「もし〈賦活(イナヴェイト)〉でダメだったなら——」

 

「まだやっていません。」

 

「え? どうして——ああ、そんなことより。『イナヴェイト』。」

 

しばらく間があいてから、ヘビはゆっくりと背中のベルトのあいだから這い出てきた。 緑色のあたまが上向き、あたりを一瞥した。

 

視界がぶるりとして、つぎの瞬間にはクィレル先生が立っていた。かと思うと、がくりとひざをついた。

 

「横になってて。」と言いながら、魔女はベラトリクスから目を離さない。 「あんたなんでしょ、ジェレミー。」

 

「ご明察。」とだいぶかすれた声でクィレル先生が言い、褐色の砂岩のうえの比較的たいらな場所に、慎重に身を横たえる。顔色はベラトリクスほど悪くない。だが薄暗い朝焼けの光のなかでは、血の気をうしなったように見えた。 「ごきげんよう、ミス・キャンブルバンカー。」

 

「やめてって言ったでしょ。」と魔女はとげのある声で言い、わずかに笑みを見せた。 「クリスタルでいいわ。ここはブリテンじゃないんだから、そういうお作法はなし。あ、それと、いまはもう『ミス』じゃなくて『ドクター』。」

 

「それは失礼した、ドクター・キャンブルバンカー。」  そして乾いた笑い。

 

魔女は表情をゆるめたが、かわりに声はするどくなった。 「それでこのお連れさんはだれ?」

 

「きみは知る必要のないことだ。」  クィレル先生は目を閉じて横たわっている。

 

「どれくらいひどく失敗したの?」

 

至極まじめな声で返事があった。 「知りたければ、明日の新聞の国際面を読んでくれ。」

 

魔女の杖がベラトリクスのからだのあちこちをたたいたり、つついたりしている。 「会いたかったわ、ジェレミー。」

 

「本気で言っているのか?」とすこしおどろいたようにクィレル先生が言った。

 

「なんて言うと思ったら大まちがいよ。あんな借りさえなきゃ——」

 

クィレル先生は笑いはじめたが、やがて咳こむような音になった。

 

あれは演技なのか素なのか、どう思う——とスリザリンが〈内的批評家〉にたずねた。ハリーはやはりガラスの壁のなかでそれを聞いている。

 

〈批評家〉が返事する。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()調()()()()()()()

 

うまくつついてもっと情報を引きだしたいところだけど、だれか案は?——とレイヴンクローが言った。

 

ホウキの上のなにもないところから、また声がした。 「彼女を完全にもとどおりにできる可能性はどれくらいありますか?」

 

「そうねえ。〈開心術〉と正体不明の〈闇〉の儀式がいくつかかけられた。それが十年かけて定着した。それから十年間、ディメンターに被曝した。ざっとこんなところ? それをぜんぶもとどおりにする? 話にならないわね、ミスター・だれかさん。 まずは、なにかすこしでも残っているか、っていうところからよ。その可能性だって、三分の一もあるかどうか——」  魔女は突然話しやめた。つぎに出た声は小声になっていた。 「あなたたちが以前親しかったなら……。はっきり言って、以前の彼女を取り戻すのは無理。そう思っておいて。」

 

ハリーの〈内的批評家〉が言う。演技に一票。ちょっとたずねただけで、あんな風にべらべらしゃべるのは不自然だ。待ちかまえていたのでないかぎり。

 

レイヴンクローが返事する。了解。ただしその票には低い信頼度をつけておく。 そういう細かいことがどれだけの証拠になるか判断しようとするとき、人の認識は疑念にゆがめられがちだ。そうならないようにするのはとてもむずかしい。

 

「なんのポーションを飲ませた?」と魔女がベラトリクスの口をひらいて中をのぞきながら言った。杖が色とりどりの光を散らしていた。

 

地面に横たわる男が落ちついた声で言う。「ペパーアップ——」

 

「なに考えてんの?」

 

また咳まじりの笑い。

 

「よくてあと一週間は眠ったままね。」と言って魔女は舌うちした。 「目をさましたらフクロウで知らせる、っていうことにしましょうか。それが届いたら、例の〈不破の誓い〉をさせにまたここに来なさい。 もう一カ月は動けないままだと思うけど、起きぬけにいきなり襲いかかられたりしたらたまらないから、なにかしといてもらえる?」

 

クィレル先生はやはり目を閉じたまま、ローブから一枚の紙片をとりだした。つぎの瞬間、そこに文字があらわれ、煙が立った。煙が出なくなると、紙片は魔女にむかって浮遊していった。

 

魔女は紙片をながめて眉をひそめ、皮肉な笑いをした。 「ちゃんと効くんでしょうね、これ。効かなかったら、あたしの遺産全額をあんたのくびに賞金としてかける、っていう遺言状でお返しするわよ。」

 

クィレル先生はもう一度ローブのなかに手をいれ、ジャラジャラと音のする袋をとりだして、魔女に投げた。魔女は受けとり、重みをたしかめて、満足げに鼻を鳴らした。

 

魔女は立ちあがり、そのとなりに、血の気のない骸骨のような女が地面から浮かびあがっていった。 「帰るわ。ここじゃ仕事にならない。」

 

「待て。」と言ってクィレル先生は手をひとふりし、ベラトリクスの手にあった杖を奪った。それを手にしてベラトリクスにむけ、小さな円をえがいて、小声で「オブリヴィエイト」と言った。

 

()()()()()()。いますぐ連れていく。これ以上手をだされないうちに——」  魔女はベラトリクス・ブラックを片腕で抱いて、ポンというアパレイトの音とともに消えた。

 

そしてあたりには静かに寄せる波とやさしく吹きつける風の音だけが残った。

 

〈批評家〉が言う。演技はここまでか。採点するなら、五点中、二.五。あの女性はあまり役者の経験がなさそうだ。

 

ほんものの癒者だったら、癒者を演じさせられた役者より、にせものっぽく見えたりもするんじゃないかな——とレイヴンクローが言った。

 

テレビ番組、しかも自分がとくに感情移入していないキャラクターばかりの番組を見ているようだった。ガラスの壁のなかにいるハリーからはそう見え、感じられた。

 

どうにかしてハリーは口を動かしはじめ、静止した朝焼けの空気に自分の声を送りこむことができた。そして、流れでたことばの内容に自分でもおどろいた。 「あなたはいくつ仮面があるんですか?」

 

血の気をうしなった男は地面に横たわったまま、笑い声をださなかった。だがホウキの上のハリーからは、そのくちびるの端が曲がるのが見え、いつもの皮肉な笑みをしているのだということが分かった。 「数えているほど暇ではないのでね。きみこそ、いくつある?」

 

それほど動揺させられるいわれはなかったのに、ハリーは自分がどこか——ぐらついたように感じた。まるで自分の芯が抜けおちたかのように——

 

あ。

 

「あの……」と言うハリーの声は、ちょうどハリー自身とおなじように隔絶した声色だった。 「あと数秒でぼくは気絶すると思います。」

 

「渡しておいたうちの四番目のポートキーを使え。緊急時用の予備と言っておいたものがあるだろう。」  地面の上の男は静かに、しかしすばやくそう話す。 「その目的地はここより安全だ。マントもそのまま脱ぐな。」

 

ハリーはポーチからまた小枝をとり、片手で折った。

 

また牽引力が生じ、国境を越える程度に長くつづいて、着いたのは暗い場所だった。

 

「ルーモス」と口が言った。自分の一部は自分全体の安全を確保しようとしていた。

 

そこはだれもいない、マグルの倉庫のなかのようだった。

 

両足がホウキをおりて、床に横たわった。 両目が閉じ、几帳面な部分のハリーが光に消えるよう命じた。そしてハリーは闇につつまれた。

 

◆ ◆ ◆

 

「これからどこへ?」とアメリアはさけんだ。二人はもうすぐ結界の外に出る。

 

「時間をさかのぼってハリー・ポッターを守りにいく。」とダンブルドアが言った。助けは必要か、と聞くためにアメリアが口をひらこうとしていたところで、結界の境界を越えた感触があった。

 

アパレイトの破裂音がして、老魔法使いと不死鳥はすがたを消し、借りもののホウキだけが残った。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 




今回の非ハリポタ用語:「アリストテレスの物理学」
物は押すと動く、押すのをやめると静止する……という感じの古代の理論が中世までの学問の世界では一般的だったようです(とはいえ、投石機など明らかにそうじゃないものを作る職人の世界もあった)

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