ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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途中、『指輪物語』のネタバレがあります。


6章「計画錯誤」

あなたの一日は現実ばなれしていたって? ぼくの一日とくらべてみてよ。

 

◆ ◆ ◆

 

——ダイアゴン小路でのはじめての買い物が終(・)わ(・)る(・)ま(・)で(・)待つ子どもも、いるかもしれない。

 

ハリーは「原子番号七十九の袋」と言い、モークスキン・ポーチからからっぽの手をとりだした。

 

——杖(・)を(・)手にいれるまで待つ子どもが、ほとんどかもしれない。

 

「『おかね(オカネ)』の袋」とハリーが言うと、重い金貨の袋が手にとびこんできた。

 

ハリーはその袋をひっぱりだし、モークスキン・ポーチにもういちど投げこんだ。 手をだしてまたポーチにいれ、「経済的交換のためのトークンの袋」と言った。 こんどは手になにものってこなかった。

 

「さっきぼくがいれたばかりの袋をだして。」 金貨の袋がまたでてきた。

 

——ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスはすくなくとも一つの魔法アイテムを手にいれた。 ならば、待つ理由はない。

 

「マクゴナガル先生……」と、困惑しながらとなりを歩いている魔女にむけてハリーは言う。 「ぼくが知らない言語の単語を二つ教えてもらえますか? ひとつは黄金を意味する単語、もうひとつはおかね以外のなにかの単語を。 どちらがどちらかは教えないでください。」

 

「アハヴァとザハヴ。 ヘブライ語です。 おかねでないほうの単語の意味は愛です。」

 

「ありがとうございました。『アハヴァの袋』。」  からっぽ。

 

「『ザハヴの袋』。」  こんどは手のひらにのってきた。

 

「ザハヴというのが黄金ですね?」とハリーはきき、マクゴナガル先生はうなづいた。

 

ハリーは自分があつめた実験データを検討した。 あらっぽい予備的な仕事にすぎないが、すくなくとも、とある結論を支持するのには十分だった——

 

「あああああ゙あ゙あ゙あ゙ぜんぜん意味がわからない!」

 

となりの魔女は眉をたかくあげた。 「なにか問題でも、ミスター・ポッター?」

 

「ぼくの仮説がすべて反証されてしまったんですよ! 『百十五ガリオンの袋』はよくて『九十たす二十五ガリオンの袋』がだめだなんて、なんでわかるんだ? このポーチは数(・)はわかるけれど、足(・)し(・)算(・)はできないっていうこと? 名詞は理解するけれど、おなじことを意味する名詞句はだめ? これをつくった人はおそらく日本語を知らないしぼ(・)く(・)も(・)ヘブライ語を知らないんだから、使っているのはそ(・)の(・)人(・)の(・)知識でもぼ(・)く(・)の(・)知識でもない——」  ハリーは無力そうに手をふった。 「ルールはな(・)ん(・)と(・)な(・)く(・)一貫しているようにみえるけど、なんの意(・)味(・)もなさない! 音声認識と自然言語理解がポ(・)ー(・)チ(・)にできて、最高の人工知能プログラマと最速のスーパーコンピュータが三十五年間苦心してもできないのはなぜなのかは、きくだけ無駄でしょうが。」  ハリーは息をのんだ。 「でもいったいな(・)に(・)が(・)起きているんです?」

 

「魔法です。」

 

「それはただのこ(・)と(・)ば(・)ですよ! そう言われても、ぼくはあたらしい予測をすることができない! 『燃素(フロギストン)』だとか『エランヴィタール』だとか『創発(エマージェンス)』だとか『複雑性』だとかよぶのとまったくおなじです!」

 

黒いローブの魔女は声にして笑った。 「でも、魔法なのですから。」

 

ハリーはすこし前のめりになった。 「おことばですがマクゴナガル先生、あなたはぼくのやろうとしていることを理解していないような気がします。」

 

「おことばですがミスター・ポッター、わたしはまちがいなく理解していません。 もしそれが——たんなる想像なのですが——世界征服でなければ?」

 

「ちがいます! いや、ある意味——ちがいますって!」

 

「この質問にすんなりこたえられないということ自体、憂慮すべきことかもしれませんね。」

 

ハリーは不機嫌に一九五六年のダートマス人工知能会議のことを考えた。 ダートマス人工知能会議はこの分野最初の会議で、『人工知能』という用語の起源でもある。 その出席者たちは、コンピュータに言語を理解させる、学習させる、自己改善させる、などの重要課題をあきらかにした。 そして完全に本気で、十人の科学者が二カ月仕事をすればかなりの進展ができるだろうと予想した。

 

いや。元気をだせ。魔法の秘密の解明はまだは(・)じ(・)ま(・)っ(・)た(・)ば(・)か(・)り(・)じゃないか。 二カ月で達成できないほどむずかしいかどうかもま(・)だ(・)わ(・)か(・)ら(・)な(・)い(・)じゃないか。

 

「それで、ほかの魔法使いがこういう種類の質問やこういう種類の科学的実験をしたという話に、ほんとに聞きおぼえがないんですか?」とハリーはもう一度たずねた。 ハリーにとってはあまりに当(・)然(・)のことだったからだ。

 

といっても、四(・)歳(・)の(・)人(・)間(・)が(・)どんな文を理解できてどんな文を理解できないかをマグル科学者が系統的に調査しようとしたのは、科学的手法が発明されてから二(・)百(・)年(・)以(・)上(・)た(・)っ(・)て(・)か(・)ら(・)だった。 原理上は言語の発達心理学は十八世紀に発見されていてもおかしくなかったが、二十世紀になるまでだれも注目しなかった。 ずっと小さな魔法世界が〈取り寄せの魔法(チャーム)〉を調査しようとしなかったのを責めることはできない。

 

マクゴナガル先生はくちびるをすぼめ、そして肩をすくめた。 「あなたのいう『科学的実験』というものが、どういう意味かまだよくわかりませんね。 さきほど言ったとおり、マグル生まれの生徒がホグウォーツのなかでマグル科学をはたらかせようとするのは見たことがありますし、あたらしい魔法(チャーム)や魔法薬(ポーション)を発明する人も毎年います。」

 

ハリーはくびをふった。 「技術と科学はぜんぜん別のものです。 いろいろなやりかたでなにかをしようとするのと、規則をみつけようとして実験するのとは、おなじではありません。」  飛行機械を発明しようとして翼のあるものをいろいろ試した人はたくさんいた。けれど風洞をつくって揚力を測定したのはライト兄弟だけだった……。 「あの……マグルに育てられた子どもは毎年何人ホグウォーツに入学しますか?」

 

「十人くらいでしょうか?」

 

ハリーはバランスをくずし、自分の足をふみそうになった。「十(・)人(・)?」

 

マグル世界の人口は六十億人をこえて増えつづけている。 百万人に一人の逸材は、ロンドンには七人、中国には千人いる。 不可避的に、マグル全人口をみればな(・)か(・)に(・)は(・)十一歳で微分積分ができる子どももいる。ハリーは自分だけがそうではないと知っている。数学の大会で、ほかの神童にであったこともある。 というか、完敗したことがある。おそらく一(・)日(・)中(・)数学の問題を練習しつづけて、一(・)度(・)も(・)サイエンスフィクションを読んだことがなく、思春期になるまえに完(・)全(・)に(・)燃え尽きて以後の人生でな(・)に(・)ひ(・)と(・)つ(・)達成できないような子たちだ。既(・)知(・)の(・)テクニックを練習するのにかまけて、創(・)造(・)的(・)に(・)考えることをしていないからだ。(ハリーは負けおしみを言うのが得意である。)

 

でも……魔法世界では……

 

マグル育ちで、マグル教育を十歳まででやめてしまう子どもが毎年十人? マクゴナガル先生の評価だとバイアスがはいっているかもしれないが、ホグウォーツは世界で最大最高の魔法学校だという……そこでの教育は十七歳までしかない。

 

マクゴナガル先生は、ネコに変身することにかけてはまちがいなくあらゆる詳細を知っている。 でもこの人は科学的手法のことを文字通りき(・)い(・)た(・)こ(・)と(・)が(・)な(・)い(・)。 彼女にとってはそれはマグルの魔法にすぎない。 それに〈取り寄せの魔法(チャーム)〉にそなわった自然言語理解の裏にある秘密について興(・)味(・)すらしめす気配がない。

 

可能性は実質、二つだけだ。

 

可能性その一——魔法はとてつもなく不透明で、ややこしく、つけいるすきがなく、強力な魔法使いや魔女が苦心して理解しようとしても、ほとんどなにも進展がえられず、最終的にあきらめる。ハリーがやってもさほどかわらない。

 

ま(・)た(・)は(・)……

 

ハリーは決意をしてこぶしをならしたが、ダイアゴン小路の壁にこだまして鳴りひびかせることはできず、小さなこつんという音しかでなかった。

 

可能性その二——ハリーがやれば世界を征服できる。

 

最終的には。すぐにでなくても。

 

こういう種類のことは二カ月よりながくかかったりするものだ。 マグル科学はガリレオのあと一週間で月面に着陸したわけではない。

 

それでもハリーは痛くなるほどにほおを引きのばして満面の笑顔になった。

 

ハリーは、十歳のときにできたことを自慢しながら残りの人生をすごす以外になにも達成できないたぐいの神童で終わってしまうことをいつもおそれていた。 といっても、大人の天才もなにも達成できない人がほとんどだ。 歴史上、ほんもののアインシュタインが一人いるたびに、それとおなじくらいかしこい人がおそらく千人はいたはずだ。 彼らは偉大なことを達成するためにどうしても必要な、あるものを手にいれられなかったばかりに、ほんものになれなかった。 解くべき重要な問題をみつけられなかったばかりに。

 

ぼ(・)く(・)の(・)問(・)題(・)は(・)お(・)ま(・)え(・)だ(・)、とハリーは、ダイアゴン小路の壁と、たちならぶ店と商品と店主と客と、そしてブリテン魔法界の土地と人びと全員と、そのさきの魔法世界と、そのさきの、マグル科学者が思った以上にすこししか理解していない宇宙とにむけて、思った。 わたし、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスは、この地を科学の名で所有するとここに宣言する。

 

空に雲はなく、いなづまが光ったり雷鳴がとどろいたりしてくれる気配はまったくなかった。

 

「なにを笑っているんですか?」とマクゴナガル先生が用心しつつ疲れた様子できいた。

 

「重大な決心をしたときに背景でいなづまを光らせる呪文はあるかどうか知りたいと思っていました。」とハリーは説明した。 そして将来の歴史の本でまちがいがおこらないよう、さっきの重大な決心の文言を注意ぶかく記憶しておいた。

 

「これについてなにかしておいたほうがいい、というはっきりとした感覚があるのですが。」とマクゴナガル先生はためいきをついた。

 

「無視してください。すぐになくなりますから。あっ、あれほしい!」  ハリーは世界征服を考えるのを一旦中断して、店のまえに陳列された商品にスキップしていった。マクゴナガル先生がそのあとにつづいた。

 

ハリーは魔法薬の材料一式と大釜を買ってきた。そのほか、四次元ポケット(別名〈隠し部屋追加の魔法(チャーム)〉・〈取り寄せの魔法(チャーム)〉・〈口さけ口〉つきモーク・スーパー・ポーチQX31)にいれてもちあるくのに適したものもいくつか買った。かしこい、分別ある買い物だ。

 

ハリーは正直に言って、マクゴナガル先生がなぜこれほどう(・)た(・)が(・)わ(・)し(・)そ(・)う(・)にするのか分からなかった。

 

いま、ハリーはダイアゴン小路の曲がりくねった大通りにかまえることができる程度の高級店のなかにいる。 店頭では、角度をつけた木の棚に商品がならべられている。店をまもっているのは、やや暗い照明と、かなりたけが短いローブをきてひざやひじをだしている、若そうな女性店員だけだ。

 

ハリーは緊急治癒パックプラス、つまり魔法版救急箱の中身を調べた。まず自動巻き止血帯が二本ある。 液火のように見えるものがはいった注射器は、毒がからだにまわるのを防ぎたい場合に、三分を限度として酸素濃度を維持したまま患部の血流を大幅に低下させるものらしい。 そして、からだの一部にまくと一時的に痛みをとめることができる白い布。 そのほかハリーがまったく理解できないものもいろいろ。たとえば、『ディメンター暴露時の治療用』というのは見ためも、においも、ただのチョコレートにみえる。 『抗バフルスナフル器』というのは、ぶるぶると震えるたまごのようにみえるが、他人の鼻にそれをつっこむ方法が書かれた説明板がついている。

 

「五ガリオンなら、おとくだと思いませんか?」とハリーはマクゴナガル先生にきいた。十代の店員がよってきて熱心そうにうなづいた。

 

ハリーの用心ぶかさと心がまえに感心して賛成の一言をかえしてもらえるものとハリーは思っていた。

 

実際にもらったのは〈魔眼〉としか言いようのないものだった。

 

「そしてな(・)ぜ(・)、」とマクゴナガル先生は強いうたがいの声で言う。「あなたは治癒キットが必(・)要(・)になると思ったのでしょうね?」 (魔法薬(ポーション)店での不幸なできごとをうけて、マクゴナガル先生は他の人のまえでは『ミスター・ポッター』をつけないようにしていた。)

 

ハリーの口がひらいて、とじた。 「必要にな(・)る(・)と思ったわけじゃありません。万一の場合にそなえてです!」

 

「具体的にはど(・)ん(・)な(・)場合の?」

 

ハリーは目を見ひらいた。 「ぼくがなにか危険なことを計(・)画(・)しているとでも? だ(・)か(・)ら(・)救急箱を手にいれようとしていると?」

 

厳しいうたがいと皮肉な不信のこもった目がそのこたえだった。

 

「グレートスコット!」(これはハリーが「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のドックというマッドサイエンティストからまなんだ表現である。)「ぼくが〈落下低速の飲み薬〉とジリーウィードと〈食べものと飲みものの丸薬〉を買ったときもそう思ってたんですか?」

 

「はい。」

 

ハリーはあっけにとられてくびをふった。 「じゃあこれでぼくがなにをた(・)く(・)ら(・)ん(・)で(・)い(・)る(・)というんですか?」

 

「わかりませんが……」とマクゴナガル先生が声を低くして言う。「最後には大量の銀をグリンゴッツにもちこむか世界を征服するかでしょう。」

 

「世界征服という言葉は響きがわるい。世界最適化というほうがぼくの好みです。」

 

ふざけた冗談は魔女を安心させる役に立たず、〈破滅の表情〉をさせるだけに終わった。

 

「うわ……」と相手が真剣だと気づいてハリーが言う。「ほんとうにそう思ってるんですか。ぼくがなにか危険なことを計画していると思ってるんですか。」

 

「はい。」

 

「そ(・)れ(・)以(・)外(・)に(・)救急箱を買う理由はないとでも? 誤解してほしくないんですがマクゴナガル先生、あ(・)な(・)た(・)は(・)ど(・)ん(・)な(・)常(・)軌(・)を(・)逸(・)し(・)た(・)生(・)徒(・)の(・)面(・)倒(・)を(・)み(・)て(・)い(・)た(・)ん(・)で(・)す(・)か(・)?」

 

「グリフィンドール生です。」と言うマクゴナガル先生のことばには、あらゆる若さの情熱と若気のいたりを永遠に呪うような苦にがしさと絶望の重みがこもっていた。

 

「ミネルヴァ・マクゴナガル副総長先生……」と手をいかめしく腰にあててハリーが言う。「ぼくはグリフィンドールではなく——」

 

ここで副総長は割りこんで、「もしあなたがグリフィンドールになりそうならあの帽子を殺す方法を探しておく」云々ということを言った。 ハリーは奇妙なコメントだと思いながらも受けながしたが、店員の子は急にせきの発作にみまわれたようだった。

 

「——レイヴンクローにはいります。 ぼくが危険なことを計画しているとお思いだとしたら、正直言って、ぼくのことがあなたにはま(・)っ(・)た(・)く(・)わかってもらえていないようです。 ぼくは危険がす(・)き(・)じゃないし、むしろこ(・)わ(・)い(・)。 ぼくは用(・)心(・)するし注(・)意(・)します。不(・)測(・)の(・)事(・)態(・)にそなえます。 両親にうたってもらった歌にもあるとおり。『そなえよつねに つよきからだ かたきこころ ボーイスカウト 築きたてて このよのため そなえよつねに』」

 

(実はトム・レーラーのこの歌のうち、ハリーが両親にうたってもらったのはこ(・)の(・)部(・)分(・)だ(・)け(・)であり、おめでたいことにハリーはのこりの部分を知らない。)

 

そこでマクゴナガル先生の態度はすこしやわらいだ——といってもほとんどは、ハリーがレイヴンクローにはいると言った瞬間にだったが。 「どのような事(・)態(・)を想定すると、このキットのそなえが必要になるというのですか?」

 

「同級生がおそろしい怪物に噛まれて、ぼくは助けるために使えそうなものをさがしてモークスキン・ポーチのなかを必死にさぐる。その子が息をひきとろうとするとき、ぼくのほうをみて『ど(・)う(・)し(・)て(・)準(・)備(・)し(・)て(・)お(・)か(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)の(・)?(・)』という。 その子が死に、目をとじるのを見て、ぼくはその子に決して許してもらえないということがわかる——」

 

店員の子が息をのむのが聞こえ、見上げるとその子が口を真一文字にむすんでハリーをみつめていた。 そしてふらふらとからだの向きをかえ、店の奥へとかけこんでいった。

 

「え……?」

 

マクゴナガル先生が手をさしのばし、やさしくしかししっかりと、ハリーの手をとり、ダイアゴン小路の大通りへとハリーをつれだし、二軒の店のあいだの汚い煉瓦の裏道にひきこみ、黒い土壁の行き止まりへとつれていった。

 

背のたかい魔女は大通りのほうへ杖をむけ、「クワイエタス」ととなえた。二人のまわりに静寂の幕がおり、通りの騒音がきこえなくなった。

 

な(・)に(・)か(・)ま(・)ず(・)い(・)こ(・)と(・)を(・)し(・)た(・)だ(・)ろ(・)う(・)か(・)……

 

マクゴナガル先生はふりかえってハリーに相対した。 大人の〈しかるときの顔〉になりきってはいなかったが、表情は平坦でコントロールされていた。 「おぼえておいてください、ミスター・ポッター。ほんの数年前までこの国には戦争がありました。 だれもがだれかをうしないました。 友だちを自分の腕のなかでうしなう、などということを——軽がるしく口にしてはなりません。」

 

「そ——そんなつもりは——」  ハリーのとりわけ明晰な想像力に推論が落石のようにおちてきた。だれかが息を引きとるという話をする。店員の子が走りさる。戦争は十年前に終わった——あの子は当時せいぜい八歳か九歳だったはずだ——つまり、あの子の、あの子の……  「ごめんなさい。ぼくはそんな……」とハリーは絶句し、魔女のみつめる視線からにげるために向きをかえたが、そこには土壁があり、ハリーはまだ杖をもっていない。「ごめんなさい、ごめんなさい、ご(・)め(・)ん(・)な(・)さ(・)い(・)!」

 

深いためいきがうしろできこえた。「わかっていますよ、ミスター・ポッター。」

 

ハリーはうしろをちらりとふりかえった。マクゴナガル先生はいまは悲しそうなだけだった。「ごめんなさい」とハリーはもう一度言い、みじめな気分になった。「あなたももしかしてそういう経験を——」 そこでハリーは口をつぐみ、おまけに手をあてた。

 

年配の魔女の顔はまたすこし悲しそうになった。「口にだすまえに考えることを学びなさい、ミスター・ポッター。そうしなければこのさきの人生、友人はあまりできないでしょう。 レイヴンクロー生の多くがそういった運命になります。あなたにはそうなってほしくありません。」

 

ハリーは逃げだしたかった。杖をとりだして一連のすべてをマクゴナガル先生の記憶から消し、店のまえにまたもどりたい。こ(・)の(・)で(・)き(・)ご(・)と(・)を(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)こ(・)と(・)に(・)し(・)た(・)い(・)——

 

「質問にもどりますが、ミスター・ポッター、わたしはそ(・)の(・)よ(・)う(・)な(・)ことは経験していません。 友人をみとったことは一度や七度あります。 ですが、だれ一人死ぬ間際にわたしを呪ったりはしませんでした。許してもらえなかっただろうと思ったこともありません。 あなたはなぜそんなことを言(・)う(・)のですか、ミスター・ポッター? そもそもなぜそう考(・)え(・)る(・)のですか?」

 

「ぼ、ぼくは……」とハリーは息をのんだ。「ぼくはただいつも最悪の事態を想定するようにしてるだけです。」 そして多少ふざけていたのでもあったが、いまそう言うくらいなら舌をかみきったほうがましだ。

 

「え? でも、な(・)ぜ(・)ですか?」

 

「そうなるのを止めるためです!」

 

「ミスター・ポッター……」と年配の魔女の声がだんだん小さくなった。そして彼女はためいきをつき、ハリーの横にひざをついた。「ミスター・ポッター。」と今度はやさしく言った。「ホグウォーツでは生徒の面倒をみる責任はあなたではなく、わたしにあります。 わたしはあなたやほかのだれにも危険がおよぶことのないように責任をもちます。 ホグウォーツは魔法の使える子どもにとって世界じゅうでもっとも安全な場所です。 マダム・ポンフリーは本格的な治癒室をもっています。 治癒キットは必要になりません。まして五ガリオンもするキットは。」

 

「でも必要なんです!」とハリーは爆発した。「完全に安全な場所なんかど(・)こ(・)に(・)も(・)ない! それにもしクリスマスで家にもどったときにぼくの両親が心臓発作にみまわれたり事故にあったりしたら——マダム・ポンフリーはそこにいない。そのときぼくの治癒キットがなければ——」

 

「なんですって……」 マクゴナガル先生は立ちあがって、いらだちと心配のあいだで迷う表情でハリーを見下ろす。 「そのような悲惨なことを考える必要はありません、ミスター・ポッター!」

 

それをきいてハリーの表情は苦にがしさにゆがんだ。「ありますよ! 考えておかなければ、自分が傷つくだけでなく、ほかの人も傷つけてしまう!」

 

マクゴナガル先生は口をひらき、そしてとじた。自分の鼻のねもとをなでで、考えこむようすになった。 「ミスター・ポッター……わたしがすこしあなたの話をきかせてほしいといったら……なにか話してもらえることはありますか?」

 

「なにについてですか?」

 

「なぜあなたがいつも悲惨な事態にそなえておかないといけないと確信しているのかについて。」

 

ハリーは困惑の表情で彼女をみつめた。これは自明な公理だ。 「そうですね……」とハリーはゆっくり言って、自分の考えをまとめようとした。基本的なことも知らない魔女教師が相手だとすれば、どう説明したらわかってもらえるだろう? 「マグル研究者は、人はいつも現実よりはるかに楽観的だと発見しました。 たとえばある人がなにかに二日かかるといったらそれは十日かかったりします。二カ月といったら三十五年かかることになります。 一例ですが、ある実験で、ある宿題を終えられる時間がどれくらいかを学生にきき、50%の確信度のこたえ、75%の確信度のこたえ、99%の確信度のこたえをこたえさせました。 実際には13%、19%、45%しかその時間で終えられませんでした。 あるグループにいちばんうまくいく場合の最良事例推定値をたずね、別のグループに通常どおりいく場合の平均事例推定値をたずねてみると、どちらのこたえも統計的に区別できない結果だったのがその理由だとわかりました。 つまり、通(・)常(・)の場合どうなるかを人に推定させると、すべてが計画どおりに、最大確率の線のようなものをたどってすすんで、なにも意外なことが起きない場合をイメージするということです。 でも、本人が99%の確信度でできると言っていた時間で実際にできたのは半分以下の学生だけでした。ということは、現実は通常、『最悪のシナリオ』よりちょっと悪い結果をもたらすということです。 これは計画錯誤とよばれます。 いちばんいい対処法は、前回おなじことをためした場合にどれだけの時間がかかったかをきくことです。 これを、内部視点のかわりに外部視点を使うと言います。 でもあたらしいことをやるときには、その手がつかえない。だからすごくすごくすごく悲観的にならざるをえないんです。 悲観的すぎて、現実のできごとが事前の期待よりもよ(・)く(・)な(・)っ(・)て(・)し(・)ま(・)う(・)場合が、悪くなってしまう場合とおなじくらいの可能性になるように。 現実のひどさの下を行きかねないくらいにまで悲観的になるのは実際にはと(・)て(・)も(・)む(・)ず(・)か(・)し(・)い(・)。 たとえばぼくががんばって悲観的になって同級生が噛まれるのを想像したとして、実際におこるのは〈死食い人〉の生きのこりがぼくをねらって学校に全面攻撃をするとか。でもいい面もあって——」

 

「そこまで。」とマクゴナガル先生。

 

ハリーはそこまででやめた。 〈闇の王〉は死んでいるとわかっているのだから本人に攻撃されることはない、と言いかけたところだった。

 

「わたしの意図がうまくつたわらなかったようですが……」と魔女はきっちりしたスコットランドなまりでさらに慎重に言う。「ミスター・ポッター、あなた個(・)人(・)をこわがらせるようなことがなにかいままでにありましたか?」

 

「ぼく個人の身に起きたことはただの事例証拠にすぎません。」とハリーは説明した。「査読ずみの論文誌にかかれた、たくさんの被験者を使った再現性のある無作為対照実験で十分な効果量と統計的有意性がしめされた場合ほどの重みはありません。」

 

マクゴナガル先生は鼻すじをつまんで、息をすって、はいた。「それでもあなたの話をきかせてほしいのです。」

 

「うーん……」と言ってハリーは深く息をついた。「あるとき近所で強盗があって、そのあと、通り二つさきの家から借りていた鍋を返してほしいとお母さんにたのまれました。ぼくは強盗におそわれるかもしれないからいきたくないと言いましたが、お母さんは『そんなことを口にしないで!』と言いました。 まるで、考えるこ(・)と(・)に(・)よ(・)っ(・)て(・)それが起きる、ぼくがそれを言わなければ安全になる、とでもいうかのように。 ぼくはなぜ安心できないのかを説明しましたが、けっきょくその鍋をもっていかされました。 強盗にねらわれることは統計的にありそうにないということを理解するにはぼくは子どもすぎたんですが、すくなくとも考えないことによってなにかが起きなくなることはない、ということは理解していた。だからぼくはほんとにこわかった。」

 

「それだけ?」マクゴナガル先生はハリーが言いおわったのがはっきりするまで待ってから言った。「そ(・)の(・)ほ(・)か(・)に(・)は(・)なにもなかったのですか?」

 

「たいしたことにはきこえないかもしれませんが、」とハリーは自分を弁護する。「でも生か死かの瞬間でしょう? つまり、なにかを考えていなかったからといっておきないということにはならないと、ぼ(・)く(・)に(・)は(・)わ(・)か(・)っ(・)て(・)い(・)た(・)。ぼくはわかっていたんですが、ママはどうやらそう思っていなかったんです。」  ハリーはことばを切った。そのことを考えるとまた怒りがこみあげてきそうになり、おさえるのがむずかしい。 「ママはききいれてくれないんです。教えてあげようとしたし、必(・)死(・)に(・)なって外出したくないと言っても、ママは笑(・)い(・)と(・)ば(・)す(・)だけ。 ぼくがなにを言おうが、まるですべて冗談であるかのように……」  ハリーはまた黒い怒りをおしこめようとした。「そのときぼくは、ぼくの保護者であるはずの人は実は正気ではないと気づきました。いくらたのんでもぼくのことをききいれてはくれない、あの人たちに頼っていてはただしいことができない、と。」 善意だけでは十分ではなく、正気も必要な場合というものがある……

 

ながい沈黙がおりた。

 

そのあいだにハリーは深呼吸をして自分をおちつかせた。 怒りにはなんの意味もない。怒りにはなんの意味もない。 ど(・)ん(・)な(・)親もああで、ど(・)ん(・)な(・)大人も子どもとおなじ高さにまでおりてきて話をきいたりはしない。ハリーの生みの親もおなじだったはずだ。 正気は闇のなかの小さな光だ。狂気に支配されたこの世界の、かぎりなく小さく稀有な例外だ。だから、怒りにはなんの意味もない。

 

ハリーは怒っているときの自分が好きではなかった。

 

「きかせてくれてありがとうございました、ミスター・ポッター。」としばらくしてからマクゴナガル先生が言った。考えにふけるような表情だった(もしハリーが鏡をもっていさえすれば、ポーチを実験していたときのハリー自身の表情とちょうとおなじだと気づいたはずだ)。 「このことについては、またあとで考えさせてもらいます。」 彼女は裏道への入りぐちへとむきなおって、杖をふりあげ——

 

「あの、それじゃ治癒キットを買ってもいいですか?」

 

魔女はとまって、ハリーをじっとみた。「もしわたしがだめだと言ったら——高価すぎる、必要ないと言ったら——どうしますか?」

 

ハリーの顔が苦にがしくゆがんだ。「ご明察のとおりですよ、マクゴナガル先生。ちょうどご明察のとおり、ぼくはあなたをまともでない、話が通じない大人だと判断します。そしてなんとかして治癒キットを手にいれる計画をたてはじめます。」

 

「この買い物のあいだ、わたしはあなたの保護者です。」とマクゴナガル先生はかすかな危険さをこめて言う。「あ(・)な(・)た(・)に(・)指し図されるわけにはいきません。」

 

「わかりました。」 ハリーはうらめしそうな声をせず、そのほかに思いついた発言をくちにしないことに成功した。 マクゴナガル先生からはしゃべるまえに考えろと言われた。 明日までおぼえてはいないだろうが、すくなくとも五分間はおぼえている。

 

魔女の杖がほそい円をえがき、ダイアゴン小路の喧騒がもどった。 「よろしい。治癒キットを買いにいきましょう。」

 

ハリーはあっけにとられて口をあけた。そして自分のいきおいでほとんどつまづきそうになりながら、走ってついていった。

 

店はでたときとおなじようすだった。正体のわかるアイテムとわからないアイテムがいまも、かたむいた木の棚にならべられていて、やや暗い照明につつまれた雰囲気で、店員の子はもとの位置にもどっていた。 二人がちかづいていくとその子は顔をあげ、おどろきの表情をみせた。

 

二人がちかくまでいき、その子が「ごめんなさい」と言ったのとほとんど同時にハリーは「さっきはすみません——」と言った。

 

ことばをうしなって二人はおたがいをみた。店員の子はすこし笑った。 「あなたがマクゴナガル先生にしかられることになるとは思わなくて。」 そしていわくありげに声をひそめた。「先生があなたに多少は手加減してくれてたらいいんだけど。」

 

「デ(・)ラ(・)!」とマクゴナガル先生は憤慨したように言った。

 

「金貨の袋。」とポーチに言って、ハリーは五ガリオンをかぞえ、同時に店員の子へと視線をもどした。 「心配しないで。先生はぼくのことを気にいっているからきつくあたるだけなのはわかってます。」

 

ハリーが五ガリオンをかぞえおえてその子にわたすあいだ、マクゴナガル先生はなにか重要でないことをまくしたてていた。「緊急治癒パックプラスをひとつお願いします。」

 

スーツケースの大きさの医療キットを〈口さけ口〉がのみこむのはちょっと狼狽させられる光景だった。 ポーチに入れたものをとりだせるのは入れた当人だけであることをふまえると、自分自身のからだをモークスキン・ポーチにつっこんだらどうなるのかと考えずにはいられなかった。

 

ポーチはハリーが苦心して手にいれた品物をすっかり……食べて……小さくげっぷをした。たしかにきこえたと誓ってもいい。 魔法でわざとそういう音がでるようになっているにち(・)が(・)い(・)な(・)い(・)。そうでないほうの仮説は考えるだけでおそろしい……というか別の仮説を考(・)え(・)る(・)こ(・)と(・)す(・)ら(・)で(・)き(・)な(・)い(・)。 ハリーはダイアゴン小路をまたあるきはじめたところで、マクゴナガル先生のほうにむいた。「つぎはどこへ?」

 

マクゴナガル先生は、煉瓦のかわりに肉でできていてペンキのかわりに毛皮でおおわれたかのような外見の店をゆびさした。 「ホグウォーツでは小動物をペットとすることが許されます——たとえば手紙をおくるためにフクロウを飼うこともできますし——」

 

「手紙をおくる必要があるときに一クヌートくらいの料金でフクロウを借(・)り(・)る(・)ことはできますか?」

 

「できます。」

 

「なら、ぼくは断固飼(・)い(・)ま(・)せ(・)ん(・)。」

 

マクゴナガル先生は点を打つようにうなづいた。「なぜなのか、きいてもいいですか?」

 

「ぼくは飼い石(ペットロック)を飼ったことがあります。それが死にました。」

 

「つまり、ペットの世話をする自信がない、と?」

 

「できなくはないんですが。四六時中、えさをやり忘れてはいないかと気にすることになってしまいます。 ご主人がいないまま、えさもあたえられずにケージのなかでゆっくりと飢え死にしてしまっているかもしれない、と。」

 

「かわいそうに、そうやって見すてられたフクロウは、どうするのでしょう。」と年配の魔女はやさしい声で言う。

 

「そうですね。ほんとうに飢えてきたら、つめを使って、ケージか箱かなにかのそとに出ようとするんじゃないでしょうか。といってもそうそう簡単には——」ハリーは途中で言いやめた。

 

魔女はやはりやさしい声でつづけた。「そのあとどうなるのでしょう?」

 

「ちょっといいですか。」とハリーはマクゴナガル先生の手を下からやさしく、しかししっかりとつかんで、別の裏道につれていった。 挨拶をしようとする人たちをなんどもかわしていくうちに、その動作はほとんどまったく目立たなくなっていた。「消音の魔法をかけてください。」

 

「クワイエタス」

 

ハリーの声が震えた。「あのフクロウはぼくの象徴ではあ(・)り(・)ま(・)せ(・)ん(・)。ぼくの両親はぜ(・)っ(・)た(・)い(・)に(・)ぼくを物置にいれて飢えさせたりしません。ぼくは見捨てられる恐怖を感じてもい(・)ま(・)せ(・)ん(・)。そのたぐいの発想をされるのは不本意ですよ、マクゴナガル先生!」

 

魔女はきびしくみおろした。「どのたぐいの発想だというのですか、ミスター・ポッター?」

 

「ぼくが、」とハリーはことばにするのを苦慮しながら言う。「虐(・)待(・)されたと思っているんでしょう?」

 

「されたのですか?」

 

「い(・)い(・)え(・)!」とハリーはさけんだ。「ぜったいありません! ぼくがバ(・)カ(・)だと思っているんですか? 児童虐待の概念なら分かってますよ。いいタッチ悪いタッチとかのこともよーく分かっています。そういうことをされたら警察をよんでいますよ! 総長に報告しますよ! 電話帳で社会福祉事業者をしらべますよ! 祖父母とフィッグさんに連絡しますよ! でもぼくの両親はぜ(・)っ(・)た(・)い(・)に(・)そんなことはしていない! ぜったい、ぜ(・)っ(・)た(・)い(・)に! 言われるだ(・)け(・)で不愉快です!」

 

年配の魔女はじっとハリーをみつめた。「生徒への児童虐待の兆候を調べるのはわたしの副総長としての責務です。」

 

ハリーの怒りはコントロールをうしない、純粋な黒い激怒になった。「そのことばをくちにす(・)る(・)な(・)! その中(・)傷(・)をだれにもきかせるな! だ(・)れ(・)に(・)も(・)! わかったかマクゴナガル? そういう告発は完全に無実の家族も崩壊させるんだ! そう新聞で読んだ!」ハリーの声は高音の悲鳴になりつつあった。「シ(・)ス(・)テ(・)ム(・)は止(・)ま(・)る(・)ことを知らない。なにもなかったと親が言っても子(・)が(・)言(・)っ(・)て(・)も(・)信じてくれない。ぼくの家族を脅迫するな! ぼくの家を崩壊させはしないぞ!」

 

「ハリー。」と魔女は小声で言い、ハリーに手をのばそうとする——

 

ハリーはすばやくとびのき、のばされた手をはじきかえし、つきとばした。

 

マクゴナガルはそこでかたまり、手をひき、一歩さがった。「ハリー。だいじょうぶ。わたしはあなたを信じます。」

 

「信(・)じ(・)る(・)か。」とハリーは吐きすてた。怒りがまだ血管をかけめぐっている。「それともぼくがいなくなるのをまってから届け出をしようとしてるのかな?」

 

「ハリー。わたしはあなたの家をみました。ご両親といっしょにいるのをみました。あなたはご両親に愛されている。ご両親を愛している。あなたが虐待されていないというなら信じます。ですが、おかしな様子があったので、一度はきいておかなければなかったのです。」

 

ハリーは冷ややかな目で彼女をみつめた。「たとえば?」

 

「ホグウォーツにきて以来、わたしは虐待された子どもをたくさんみてきました。悲しくなるほど多く。しあわせな子どもはああいう子たちとはま(・)っ(・)た(・)く(・)ちがうふるまいをします。 初対面の人と笑みをかわす、ひとと抱擁する、といったことをします。 あなたはわたしに肩にふれられても、びくりとはしませんでした。ですが、たまに……ごくたまに、あなたのしゃべりかたやそぶりはま(・)る(・)で(・)……生まれてから十一年間牢屋にとじこめられてすごしてきた人のように見えます。 あれだけ愛のある家庭でそだてられた子どもではなく。」  マクゴナガル先生はくびをかしげ、また困惑した表情になった。

 

ハリーはその返事の内容をよく検討した。 黒い怒りは流れおちはじめた。自分は敬意をもってうけこたえされている、自分の家族は危険にさらされていない、ということがわかってきた。

 

「そしてその観察をどう説明するんですか、マクゴナガル先生?」

 

「わかりません。ですがなにかがあなたの身に起きて、それをあなたが記憶していないという可能性もあります。」

 

怒りがまたハリーのなかでたちのぼった。これは新聞で読んだ家庭崩壊の話と似すぎている。 「記憶の抑圧はくだらない疑(・)似(・)科(・)学(・)ですよ! トラウマの記憶は抑圧されない。死ぬまで、嫌(・)に(・)な(・)る(・)ほ(・)ど(・)はっきりと思い出せるんだ!」

 

「いいえ、ミスター・ポッター。〈忘消〉(オブリヴィエイト)という魔法(チャーム)があります。」

 

ハリーはそこでかたまった。「記憶をけす呪文ですか?」

 

魔女はうなづいた。「経験したことを通じての影響まですべて消えるわけではありません。と言えば伝わるでしょうか、ミスター・ポッター。」

 

冷たいものがハリーの背筋をかけた。そ(・)の(・)仮説は……簡単には反論で(・)き(・)な(・)い(・)。「でもぼくの両親は魔法を使えない!」

 

「おっしゃるとおりです。魔法世界からきただれかのしわざということになるでしょう。それが起こらなかったという保証は……残念ながらありません。」

 

ハリーの合理主義のスキルがまた発動しはじめた。「マクゴナガル先生、その観察にどの程度確信がありますか? ほかにそれを説明するしかたはありえますか?」

 

魔女は両手をひらいた。からっぽであると言いたいかのようだ。「確信? わたしはなにも確(・)信(・)していません、ミスター・ポッター。あなたのような人にあったのは人生はじめてです。 ときどきあなたは十一歳の子ではない、というか、人(・)間(・)ではないように見えます。」

 

ハリーの眉が空にむかってあがった——

 

「すみません!」とマクゴナガル先生はいそいで言う。「すみませんでした、ミスター・ポッター。わたしが言おうとしていたのはそういうことではないのです。ただ思ってもいないことばを使ってしまって——」

 

「逆ですよ、マクゴナガル先生。」と言って、ハリーはゆっくり笑みをうかべた。「ぼくは高く評価してもらえたと思っています。ところで、ほかの説明を紹介してもいいですか?」

 

「お願いします。」

 

「子どもは親よりも頭がいいはずがない。あるいは、親よりもまともであるはずがない、か。お父さんは自分の考えをかえない理由をさがそうとするのにばかり大人の知性を使うかわりに実際に努(・)力(・)し(・)た(・)とすれば、たぶんぼくをだしぬくことができます——」ハリーはそこでことばを切った。「ぼくは頭がよすぎるんですよ。ふつうの子どもと話す話題はなにもない。大人はぼくをちゃんと尊重して話してくれない。 それに、言ってしまえば、もし話してくれたとしても、そのひとたちもリチャード・ファインマンほどには頭がよくない。どうせならリチャード・ファインマンが書いたものでも読んだほうがいい。 ぼくは孤(・)独(・)なんですよ、マクゴナガル先生。ずっと孤独な人生だった。牢屋にとじこめられるのと実質的にはおなじ面があるかもしれない。 頭がよすぎて、子どもが本来そうするように親を尊敬することができない。 両親はぼくを愛してくれていますが、ぼくに理屈を説明する責任を感じてくれない。むしろぼくは、両親のほうが子どもだというように——ぼくの全存在を支配するき(・)き(・)わ(・)け(・)の(・)な(・)い(・)子どもだというように、感じることもあります。 あまり辛辣な言いかたはしないようにしますが、ぼくは自分に正(・)直(・)にもならなければならない。ぼくは辛辣です。怒りをコントロールできなくなることがあります。その問題にはとりくんでいます。それだけです。」

 

「そ(・)れ(・)だ(・)け(・)?」

 

ハリーはしっかりとうなづいた。「それだけです。マクゴナガル先生、ブリテン魔法界でもふつうの説明をつけることを考(・)慮(・)してもいいはずでしょう?」

 

昼下がりになり夏の空に日がおちはじめている。買い物客のすがたがまばらになっていく。もう閉店した店もある。ハリーとマクゴナガル先生はぎりぎりになってフローリッシュ・アンド・ブロッツで教科書を買った。 『数占術(アリスマンシー)』という単語をみつけて飛びついたものの七年次の教科書でもせいぜい三角関数程度の数学しか使っていないのがわかってハリーが小さな癇癪をおこしただけですんだ。

 

しかしその瞬間、楽して成果のでる研究計画という夢はハリーのあたまによぎらなかった。

 

その瞬間、二人はオリヴァンダーの店からでたところで、ハリーは自分の杖をながめていた。 振ってみれば色とりどりの火花がちった。これまで見たものにくらべればたいしてショックではなかったはずだが、なぜだろうか——

 

ぼくは魔法が使える。

 

ぼくが自身が。魔法のちからのある、魔法使い。

 

ハリーは魔法力がうでにながれこむのを感じた。その瞬間気づいたのは、視覚でも聴覚でも臭覚でも味覚でも触覚でもないその魔法の感覚をいままでの人生ずっともっていたということだった。 まるで目をもっていながらずっと閉じていたかのように。闇を見ていながらそのことにすら気づいていなかったかのように。 そしてある日、目をあけて、世界を見ることができたかのように。 そのショックはハリーのなかを流れ、からだのはしばしを触れてめざめさせ、すぐに消えた。そのあとには、自分が魔法使いなのだ、ずっとそうだったのだという確実な知識、また不思議なことに、それを知っていたという知識がのこった。

 

そして——

 

「きみがその杖といっしょになるようえらばれたというのは実に興味ぶかいな。その杖の兄は、なにせ、きみにその傷あとをつけた杖なのだから。」

 

偶然であろうはずがない。店にあった杖の本数は何千本にもなる。まあ、たしかに偶然である可(・)能(・)性(・)はある。世界には六十億人の人間がいるし、千にひとつの偶然は毎日おきる。 でもベイズの定理によれば、ハリーが〈闇の王〉の杖の弟に遭遇する尤度を千にひとつよりすこしでも高くあたえる合理的な仮説があれば、それは有利な仮説になる。

 

マクゴナガル先生がそれを『妙なこともありますね』とだけ言ってすませるのを見て、ハリーは魔法使いと魔女の圧倒的なまでの反(・)関(・)心(・)にショックをうけた。 想像しうるどんな世界であっても、自分なら、なにが起こっているのかについての仮説をた(・)て(・)よ(・)う(・)と(・)も(・)し(・)な(・)い(・)まま、ただ『へえ』とだけ言って店のそとにでたりしない。

 

ハリーの左手がうえにのび、傷あとにふれた。

 

実(・)際(・)に(・)は(・)……なにが……

 

「あなたはこれで一人前の魔法使いです。おめでとう。」とマクゴナガル先生。

 

ハリーはうなづいた。

 

「魔法世界についての印象はどうですか?」

 

「変です。いままでみた魔法のすべて……可能だとわかったことすべて、嘘だったとわかったことすべて、これから理解しはじめなければならない膨大な作業について考えているべきところです。 それなのに比較的どうでもいいことに気をとられてしまっている。」  ハリーは声をひくくした。「〈死ななかった男の子〉のあれとか。」  ちかくにはだれもいないようだが、運試しをする理由はない。

 

マクゴナガル先生はエヘンとせきばらいした。「そうなのですか? 意外です。」

 

ハリーはうなづいた。「はい。ただ……変(・)です。自分がおそるべき〈闇の王〉を倒す冒険の、壮大な物語の一部だったと、そしてそれがも(・)う(・)す(・)ん(・)だ(・)こ(・)と(・)だ(・)っ(・)た(・)と知るのは。終わったこと。完全にすぎたこと。ちょうど自分がフロド・バギンズで、一歳のときにすでに両親に〈滅びの山〉につれていかれていてそこに自分が〈指輪〉をなげこんでいてそのことをおぼえていない、というように。」

 

マクゴナガル先生の笑みがじゃっかんかたまった。

 

「かりに、もしぼくがまったく別のひとだったら、そのはじまりにみあう人物になれるだろうかと、かなり心配していたかもしれません。 ハリーくん、〈闇の王〉を倒してあとなにをしていたの? 本屋を開業した? すごいね! 実をいうと、きみの名前を子どもにつけたんだけど? でもぼくはそういった羽目にはならないようにしたいと思っています。」  ハリーはためいきをついた。 「ただ……その冒険に多(・)少(・)のやりのこしがあったなら、ぼくもほんとうに参(・)加(・)したと言えたんだけどなあと思ったりもしてしまいますが。」

 

「あら?」とマクゴナガル先生が妙な調子で言う。「どんなことでしょうか?」

 

「そうですね。たとえば、ぼくの両親は裏切られたとおっしゃいましたね。だれに裏切られたんですか?」

 

「シリウス・ブラック。」と魔女はその名前をほとんど吐きすてるように言う。「アズカバンという、魔法世界の牢獄にいます。」

 

「シリウス・ブラックが脱獄して、ぼくがそれを追いつめて、ある種の華ばなしい決闘で倒すことになる可能性はどれくらいありますか? いやむしろ、その首に大きな賞金をかけておいてオーストラリアに潜伏しながら結果を待っていられる可能性は?」

 

マクゴナガル先生は目をしばたたかせた。二回。 「ほとんどありません。アズカバンからの脱獄はいままで一件もありません。彼(・)が(・)最初になるとは思えません。」

 

『アズカバンからの脱獄はいままで一(・)件(・)も(・)あ(・)り(・)ま(・)せ(・)ん(・)』というせりふにハリーは懐疑的だった。 とはいえ、もしかすると魔法があれば、特に自分たちには杖があって相手にないのであれば、実際百パーセント完璧にちかい牢獄がつくれるのかもしれない。 一番いい逃げる方法は、そもそもそこにはいらないことだろう。

 

「わかりました。ということは、決着はついてしまっているようですね。」とハリーはためいきをつき、手のひらでひたいをさする。 「でなければ、実はその夜に〈闇の王〉は死んでいなかったとか。完全には。 たましいとなって残って、悪夢のなかで人にささやいて目覚めた時間にもしみだし、生者の世界を破壊するためにもどる方法をさがし、いま、古代の予言のとおりに、あの男とぼくは勝者がまけ敗者がかつ命がけの決闘をすることになっていたり——」

 

マクゴナガル先生がくびをまわして、道のどこかに聞き耳をたてている人がいるかもしれないと言うように、目をきょろきょろとさせた。

 

「冗(・)談(・)ですよ。」とハリーは多少いらだたしそうに言った。はあ、この人はなんでいつも深刻にうけとってしまうのか——

 

ハリーのからだのなかの違和感がすこしずついやな予感を知らせてきた。

 

マクゴナガル先生はハリーをおちついた表情で見た。 すごくす(・)ご(・)く(・)おちついた表情で。そして笑みをまとって、「もちろんそうでしょうね。ミスター・ポッター。」と言った。

 

やばい。

 

そのときハリーのあたまのなかをかけぬけたことばにならない推論を定式化するとすれば、こういう感じになるだろう。『ぼくが悪い冗談を言ったときにマクゴナガル先生が自(・)然(・)に(・)することすべての確率分布と、彼女が慎重に自分をコントロールした結果のようにみえることをする確率の推定値とを比較するなら、今回のふるまいは彼女がなにかを隠しているという有意な証拠だ。』

 

だが実際にあたまにうかんだのは『やばい』だった。

 

ハリーもくびをまわして通りをひととおり見た。さいわい、ちかくにはだれもいない。 「その男は死(・)ん(・)で(・)い(・)な(・)い(・)んですね。」とためいきをつく。

 

「ミスター・ポッター——」

 

「〈闇の王〉は生きている。もちろん生きている。そうでないと夢(・)み(・)た(・)ことがそもそもとんでもない楽(・)観(・)主(・)義(・)の所業だった。 ぼくは正気をうしなっていたにちがいない。 ぼくはいったいなにを考えていたのか。 かりかりに焼けた死体をだ(・)れ(・)か(・)が見たからといって死(・)ん(・)だ(・)なんて考えるのはありえない。 こんなことではまだまだぜんぜん悲(・)観(・)主(・)義(・)の技法が勉強がたりていない。」

 

「ミスター・ポッター——」

 

「せめて予言なんかはないと言ってくださいよ……」 マクゴナガル先生はまだあのまぶしい笑みのままかたまっている。 「ああもう、冗談じゃない。」

 

「ミスター・ポッター、不安の種を自分でつくりだす必要は——」

 

「それ、本気で言っていますか? 不安になるべきことが実際にあったんだと、あとでわかったとしたら、ぼくがどう反応すると思いますか。」

 

かたまっていた笑みがゆらいだ。

 

ハリーは肩をおとした。 「ぼくは魔法世界を調査しなきゃいけないんです。こんなことに時間を使ってはいられないのに。」

 

そこで二人とも話すのをやめた。オレンジ色のローブをたれさげた男が通りにあらわれ、二人のよこをゆっくりととおりすぎる。マクゴナガル先生の目がこっそりとその男を追う。 ハリーはくちびるをきつく噛みながら口をうごかす。だれかがみていれば、小さな血のつぶがでているのに気づいただろう。

 

オレンジ色のローブの男が遠くにいってから、ハリーは低いつぶやき声でつづきを話しはじめた。 「マクゴナガル先生、こんどは真実を教えてくれますか? 流そうとしても無駄ですよ。それくらいわかりますから。」

 

「あなたは十(・)一(・)歳(・)なのですよ、ミスター・ポッター。」と彼女がささやき声をあらげて言った。

 

「だから人間未満だと。すみません……うっかり忘(・)れ(・)て(・)ま(・)し(・)た(・)。」

 

「これは重要でおそろしい問題なのです! 極(・)秘(・)情(・)報(・)です! まだ子どものあなたにここまで知られたということだけでも惨(・)事(・)です! ほかのだ(・)れ(・)に(・)も(・)言ってはいけません。わかりましたか? だれにもです!」

 

ハリーは十(・)分(・)な(・)いきどおりを感じたとき、血があつくなるかわりにつめたくなることがあった。そしていまそうなっている。おそろしく暗い明晰さがハリーのあたまのなかにおりてきて、鉄のようなリアリズムで可能な戦術案いくつかとそれぞれの帰結を評価した。

 

ぼくには知る権利があると指摘する——不可。マクゴナガルの見かたでは、十一歳の子どもにはなんの権利もない。

 

絶交すると言ってやる——不可。マクゴナガルはぼくとの友情をさほど重んじていない。

 

知らないままでいることは危険だと指摘する——不可。ぼくが無知なままという前提で計画がたてられてしまっている。計画をやりなおさなければならないという確(・)実(・)な(・)不都合は、ぼくに害が生じるかもしれないという不(・)確(・)実(・)な(・)可能性よりも、はるかにうけいれにくそうだ。

 

正義も合理性も不可。彼女がほしがるものをさがせ。でなければ、彼女がおそれるものをさがせ……

 

ああ。

 

「いいでしょう。」とハリーは低い、冷淡な声で言う。「ぼくはどうやら、あなたのほしがるものをもっているようです。もしおのぞみであればぼくに真実を、その全(・)体(・)を、教えてください。おかえしにぼくは秘密を守ります。駒として使うためにぼくを無知なままにしておきたいとおっしゃるのであればそれもけっこう。その場合、ぼくにはなんの義務も生じません。」

 

マクゴナガルは通りのなかでたちどまった。目は燃え、声は完全に吐きすてる調子になった。「よくもそんなことを!」

 

「よ(・)く(・)も(・)そ(・)ん(・)な(・)こ(・)と(・)を(・)!」とハリーはかえした。

 

「わたしを脅(・)迫(・)するつもり?」

 

ハリーのくちびるがゆがんだ。「こうやって提案しているのはぼくの親切だと思ってください。あ(・)な(・)た(・)の(・)大切な秘密を守る機会なんですよ。あなたが拒否するなら、ぼくにはよそでききまわるあ(・)ら(・)ゆ(・)る(・)自然な動機がある。あなたをうらんでのことではありませんよ。ぼくは知(・)る(・)必(・)要(・)があるからです! 子(・)ど(・)も(・)は自分にしたがわせなければならないという意味のない怒りを忘れれば、まともな大人ならおなじようにすることがわかるでしょう! ぼくの立ち場から見てみてください! あなただったらどういう気持ちになりますか?」

 

ハリーはマクゴナガルを見た。息をあらげている。そろそろ圧力を弱めてくすぶらせるべき段階のようだ。「すぐに決める必要はありません。」とハリーはやや普通の声で言う。「この提(・)案(・)について考えるのにすこし時間がいるでしょうから……ただ一点、警告しておきます。」 声がまた冷たくなる。 「〈忘消(オブリヴィエイト)〉の呪文をかけてもだめです。 しばらくまえにつくっておいた信号があります。それをさっき自分にしかけました。 ぼくがその信号をみつけて、自分がそれを送ったことをお(・)ぼ(・)え(・)て(・)い(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)としたら……」

 

マクゴナガルの顔は表情をかえながらうごいた。 「〈忘消〉するつもりは……ありませんでしたよ、ミスター・ポッター。ですがなぜこのことを知らないうちからそんな信号を考(・)案(・)したり——」

 

「マグルのサイエンスフィクションの本を読んでいて思いついたんです。『もしものときのため……』と。おっと信号がなにかは教えませんよ。ぼくはバカじゃない。」

 

「きこうとはしていませんでしたよ。」と言ってマクゴナガルがちぢこまり、急に老いて疲れたようになった。「ずいぶん消耗させられる一日でした。 あとはトランクを買って、帰りたいと思いますが、いいですね? わたしが考えを終えるまであなたはこのことを漏らさない、ということは約束していただきます。 このことを知るのは世界にあと二人だけだということをおぼえておいてください。アルバス・ダンブルドア総長とセヴルス・スネイプ先生だけです。」

 

ほう。新情報……和解提案だ。ハリーはうなづいて承諾し、まえにむきなおって、ふたたび歩きはじめた。血はゆっくりとあたたかさをとりもどしはじめた。

 

「ということはぼくは不死の〈闇の魔術師〉を殺す方法をみつけないといけないんですね。」と言ってハリーはいらだちのためいきをついた。「買い物のま(・)え(・)にそう言ってくれたらよかったのに。」

 

トランクの店は今日たちよったどの店よりも豪華なよそおいだった。たっぷりとしたカーテンには細密な模様がなされていて、床と壁は着色してみがかれた木材で、トランクはどれも象牙の台のうえに鎮座している。 店員はルシウス・マルフォイよりほんのすこしだけ下の品質のローブを着ていて、申し分ないお世辞だらけの丁重さでハリーとマクゴナガル先生に話しかけた。

 

ハリーはいろいろ質問しおわると、重そうな木材のトランクにすいよせられた。みがかれてはいないがあたたかでしっかりとした材質で、守護者のドラゴンの模様がきざまれていて、その目がちかづく人のほうをむくようになっている。軽くなる魔法、命令すると小さくなる魔法、したから爪のある触角がでてきて持ち主のあとをついてくるようにする魔法がかけられたトランク。 四方に引き出しが二つずつついていて、そのどれもトランク本体とおなじくらいの奥ゆきがある。 四つの鍵がついた引き出しは、鍵ごとにそれぞれ違う空間へとつながっている。それに——これが重要なのだが——下に持ち手がついていてそれを引っぱると、照明のついた小さな部屋へと通じる階段がでてくる。ハリーの推定では、書棚を十二個いれられるくらいの部屋だ。

 

こんなトランクがつくれるなら、家をもとうとする人の気がしれない。

 

百八ガリオン分の金貨。それが、さほどの使い古しでない、いいトランクの値段だ。 およそ五十ポンドで一ガリオンとするなら、中古車一台買うのに十分たりる。 ハリーが人生これまでに買ったものをすべてあわせたよりも高価だ。

 

九十七ガリオン。それがハリーがグリンゴッツからもちだすことをゆるされた金貨の袋ののこりだ。

 

マクゴナガル先生は目に見えて悔しそうだった。長い一日の買い物のあとでも、店員に値段を言われてから、袋のなかの金貨ののこりをたずねてはこない。ということはマクゴナガル先生はペンと紙がなくてもちゃんと暗算ができるということだ。 科(・)学(・)に(・)関(・)し(・)て(・)文(・)盲(・)であることは愚(・)か(・)であることとはちがう、とハリーはもう一度自分に言いきかせた。

 

「申し訳ありません。これは全面的にわたしのせいです。 グリンゴッツにもう一度つれていきたいところですが、いまはもう緊急業務をのぞいて閉店してしまっています。」

 

ハリーは彼女のほうをみながら、思案した……

 

「では、」とマクゴナガル先生はためいきをついて、かかとを中心に回転した。「もう出るしかないようですね。」

 

……この人は子どもにたてつかれても完全に我をうしなってはい(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)。 気にいらないようすではあったが、怒りを爆発させるかわりに考(・)え(・)て(・)い(・)た(・)。不死の〈闇の王〉とたたかうことが念頭にあって、だからハリーの好意を確保する必要があったというだけのことかもしれない。 しかしほとんどの大人は、下の地位にある人が自分に服従しようとしないとき、そういったことすらも——というより、いっさいの将(・)来(・)の(・)帰(・)結(・)を、考えることができなくなるのだ……

 

「先生?」

 

魔女はふりむいてハリーをみた。

 

ハリーは深呼吸をした。いまからやろうとすることには少し怒りが必要だ。さもないとその勇気はでない。 彼(・)女(・)は(・)ぼ(・)く(・)の(・)い(・)う(・)こ(・)と(・)を(・)き(・)き(・)い(・)れ(・)て(・)く(・)れ(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)、とハリーはこころのなかで自分に言った。金(・)貨(・)を(・)も(・)っ(・)と(・)も(・)ち(・)だ(・)せ(・)ば(・)よ(・)か(・)っ(・)た(・)の(・)に(・)、(・)彼(・)女(・)は(・)き(・)き(・)い(・)れ(・)て(・)く(・)れ(・)な(・)か(・)っ(・)た(・)……。 自分の全世界を、マクゴナガルと、この会話を自分の思う方向にかえなければならないという必要性とに集中して、ハリーは口をひらいた。

 

「百ガリオンあればトランクには十分だとあなたは考えた。 だから、九十七ガリオンまで減ってもぼくに警告しなかった。 ちょうどこういう種類のことを実証した研究があります——多(・)少(・)の許容誤差をもうけてある、と思っている人に、なにが起きるか。 それでも十分悲観的になれていないんです。 ぼくにきめさせてもらえていれば、念をいれて二(・)百(・)ガリオンをもちだしていたでしょう。金庫には十分おかねがあるし、あまった分はあとでもどせばいい。でもあなたにそれをゆるしてもらえない、とぼくは思った。質問しただけでも怒られるだろうと。それはただしかったんじゃありませんか?」

 

「そのとおりだと認めざるをえませんね。ですがもう——」

 

「こういうことがあるから大人はなかなか信頼できないんです。」 なんとかしてハリーは声を安定させた。 「理屈をと(・)お(・)そ(・)う(・)と(・)さ(・)れ(・)た(・)だけで大人は怒る。それは反逆であり傲慢であり、部族のなかで高い地位にいる自分たちへの挑戦状なんです。 説得しようとすれば大人は怒(・)る(・)。 だからほ(・)ん(・)と(・)う(・)に(・)重(・)要(・)な(・)ことをしたければ、あなたたちを信頼することはできない。 ぼくの話を関心をもってきいてくれる大人がいるとしても、それは関心をもつ大人という役(・)割(・)を演じているだけであって、ぼくが言ったことにもとづいて実際の行動やふるまいを変えたりはしない。」

 

店員はいかにも興味津々な様子で二人をみつめていた。

 

「あなたの視点は理解できます。」とマクゴナガル先生がついに口をひらく。「わたしが厳格すぎるようにみえるとしたら、グリフィンドール寮の長を何千年にも感じるほどながく務めてきたということを忘れないでください。」

 

ハリーはうなづいて話をつづけた。「なので——もしグリンゴッツにも(・)ど(・)ら(・)な(・)く(・)て(・)も(・)金庫からガリオンをとりだす方法があるとしたら、ただしぼくが従順な子どもという役割に反するふるまいをする必要があるとしたら、どうしますか。 あなたを信じてもいいですか? それを有効にはたらかせるためには、あなたはマクゴナガル先生という役割からいったん離れなくてはならないとしても。」

 

「え?」

 

「言いかえましょう。今日これまでに起きたことを変えることができると仮定してみてください。つまり、おかねがたりなくな(・)ら(・)な(・)い(・)ようにできるとしたら、かわりに大人に反抗する子どもがいたことになったとしてもかまいませんか?」

 

「まあ……いいでしょう……」と魔女は困惑したようすで言った。

 

ハリーはモークスキン・ポーチをとりだして、「ぼくの一族の金庫にもともとあった十一ガリオン。」と言った。

 

金貨がハリーの手にあらわれた。

 

一瞬マクゴナガル先生は口をぽかんとあけたが、あごをとじて、怪訝そうな目をして、一言はきだした。「ど(・)こ(・)か(・)ら(・)それを——」

 

「言ったとおり、一族の金庫からですよ。」

 

「どうやって?」

 

「魔法です。」

 

「こたえになっていません!」と言いかえして、マクゴナガル先生は言葉をきり、まばたきをした。

 

「なっていませんよね? ぼくは実験をしてこのポーチには実は真の秘密があることを発見して、適切な呼びかたをしさえすれば、なかにあるものだけでなくどこからでも物品をとりよせられる機能があることが分かったんだと主張してもよかったんですが。 でもほんとうは、金貨の山にたおれこんだときにポケットにくすねた金貨なんです。 悲観主義を理解するひとなら、おかねは突然に、前ぶれも猶予もなく必要になることがあるものだと知っています。 さあ、あなたは自分の権威がこけにされたことで怒りますか? それともこれで重要な任務を達成できることをよろこびますか?」

 

店員の目が皿のようにみひらかれた。

 

背のたかい魔女はそのまま、沈黙して立っていた。

 

「ホグウォーツ内で規律は維持されなければなりません。」とほとんどまるまる一分かけてから彼女は言った。「全(・)生徒のために。その一環として、あなたは全(・)教員に礼儀と服従をし(・)め(・)さ(・)な(・)け(・)れ(・)ば(・)な(・)り(・)ま(・)せ(・)ん(・)。」

 

「わかりました、マクゴナガル先生。」

 

「よろしい。ではトランクを買ってかえりましょう。」

 

ハリーは吐くか、歓声をあげるか、卒倒するか、な(・)に(・)か(・)をしたい気分だった。 ハリーの慎重な説得がだ(・)れ(・)か(・)に(・)通じたのはこれがはじめてだ。 多分それは、大人がほんとうに必要としているものをハリーがもっていたのがはじめてだったからかもしれない。とはいえ——

 

ミネルヴァ・マクゴナガル、一点獲得。

 

ハリーは会釈をして金貨の袋と追加の十一ガリオンをマクゴナガルの手にわたした。「ありがとうございました。購入をすませておいてもらえますか? 洗面所にいきたいので。」

 

店員はまた丁重になって、黄金のもちてのついた壁のドアを指さした。ハリーが歩きはじめると、店員が卑下した調子でこう言うのがきこえた。 「マダム・マクゴナガル、おつれのかたはどなたさまでしょう? 見たところスリザリン——おそらく三年生では?——名家のかたではないかと思いますが、いっこうに見おぼえが——」

 

そのあたりまで聞こえたところで、洗面所のドアがばたんとしまった。ドアに鍵があり、それがしまっているのを確認したあと、ハリーは自動的にきれいになる魔法のタオルを手にとり、震える手でひたいをぬぐった。からだ全体が汗でびっしょりになっていて、マグル服にまでしみだしてきている。さいわいローブの表面にまでは見えていなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

〈リーキー・コルドロン〉の庭にもどって立ったときには、太陽がしずみかけ、だいぶおそい時間になっていた。ブリテン魔法界のダイアゴン小路と全マグル世界のあいだ(なんともひ(・)ど(・)く(・)分離した経済だ……)の、落ち葉まみれの静かな接面である。 ハリーはむこうがわについたら電話ボックスにいってお父さんを呼ぶことになっていた。 トランクがぬすまれる心配はなさそうだ。こういう重要な魔法アイテムは、ほとんどのマグルに認識されないようになっているらしい。魔法世界では中古車一台分の値段をだせば、こういうものが手にはいるのだ。

 

「ではここで一旦おわかれです。」  マクゴナガル先生は信じられないというようにくびをふる。「これほど奇妙な一日は……何年もまえに経験して以来です。子どもが〈例の男〉を倒したと知った日以来ですね。 ふりかえってみると、あの日が世界最後のまともな日だったのかもしれません。」

 

おやこ(・)の(・)人(・)が(・)文句をいうのか。あ(・)な(・)た(・)の(・)一(・)日(・)は(・)現(・)実(・)ば(・)な(・)れ(・)し(・)て(・)い(・)た(・)っ(・)て(・)? ぼ(・)く(・)の(・)一(・)日(・)と(・)く(・)ら(・)べ(・)て(・)み(・)て(・)よ(・)。

 

「今日のあなたには感心しました。声にだしてほめるのをわすれてましたが、あなたに点を進呈したりとかしてたんですから。」とハリー。

 

「どうもありがとう、ミスター・ポッター。 もしあなたが寮へ組わけずみだったなら、孫の代まで寮対抗カップに負けつづけるほどの点を没収していたところです。」

 

「それはご親切に、マクゴナガル先生。」  『ミニー』と呼ぶのはもうすこし待ったほうがよさそうだ。

 

この女性は、科学知識に欠けているにもかかわらず、おそらくいままで出会ったなかで一番まともな大人かもしれない。 〈闇の王〉とたたかうためのグループを組織することがあったら、ナンバーツーの地位を進呈してあげてもいい、と思えるくらいだったが、ハリーはそれを口にだすほどバカではなかった。 名(・)前(・)は(・)な(・)ん(・)に(・)し(・)よ(・)う(・)か(・)な(・)…(・)…(・)?(・) (・)〈(・)死(・)食(・)い(・)人(・)食(・)い(・)人(・)〉(・)?(・)

 

「学校がはじまったときにまたおあいしましょう。 それと、ミスター・ポッター、その杖についてですが——」

 

「きかれると思っていました。」 こころがずきんといたむのを感じながら、ハリーは大切な杖をとりだし、手のうえにぽんとおき、持ち手をさしだした。 「どうぞ。もともと全然なにもするつもりはありませんでしたが、ぼくが家をふきとばす悪夢をみてもらいたくありませんから。」

 

マクゴナガル先生はくびをすばやくふった。「いいえ、ミスター・ポッター! そういうことはしません。ただ、家にかえってから杖を使(・)わ(・)な(・)い(・)ようにと警告しようとしていただけなのです。監督者なしでの未成年の魔法は禁じられていて、〈魔法省〉にはそれを検知する能力があります。」

 

「ああ。そのルールはすごく妥当な気がします。魔法世界がそういうことを真剣にあつかっていてくれているのはありがたい。」

 

マクゴナガル先生はハリーをじっとみた。「本気で言っていますか。」

 

「はい。わかっています。魔法は危険で、ルールは理由があって存在する。それ以外にも危険なことがある。それもわかっています。ぼくはバカじゃないということをお忘れなく。」

 

「まず忘れることはないでしょう。 ありがとう、ハリー。それを聞いて、ある種のことはあなたにまかせてもすこし安心できる気がしてきました。それでは、今日はこれで。」

 

ハリーは向きをかえ、〈リーキー・コルドロン〉を通りぬけてマグル世界へもどる道を目ざす。

 

裏口のドアの取っ手に手がふれた瞬間、うしろからもう一言だけ、小さな声が聞こえた。

 

「ハーマイオニー・グレンジャー。」

 

「え?」と手をドアにおいたままハリーが言った。

 

「ハーマイオニー・グレンジャーという名前の一年生の女の子を、ホグウォーツ行きの列車にのったらさがしなさい。」

 

「それはだれですか?」

 

こたえはなく、ハリーがふりかえると、マクゴナガル先生のすがたはなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

余波:

 

総長アルバス・ダンブルドアは机に身をのりだし、きらきらとしたまなざしをミネルヴァに向ける。「では、ハリーの印象はどうだったかな?」

 

ミネルヴァは口をひらいた。そしてとじた。そしてまたひらいた。ことばがでてこなかった。

 

「なるほど。」とアルバスは重おもしく言った。「報告ありがとう、ミネルヴァ。さがってよろしい。」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 






今回の非ハリポタ用語:「音声認識と自然言語理解」
要するにSiriとかGoogleアシスタントのようなもの。この作品が書かれたのは2010年ごろですが、八年を経てスマホもちょっとはこのポーチの言語処理性能に近づいたでしょうか?
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