ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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63章「スタンフォード監獄実験——余波」

余波——ハーマイオニー・グレンジャー:

 

ハーマイオニーは本を閉じ、宿題をしまい、眠る準備をしようとしていた。おなじテーブルにいたパドマとマンディも本をかたづけようとしていた。そのとき、ハリー・ポッターがレイヴンクロー談話室にはいってきた。それを見て、朝食の時間以来、自分が一度も彼を見かけていなかったことに気づいた。

 

その発見を吟味する間もなく、もっとはるかに衝撃的なことが、もうひとつあった。

 

ハリーの肩の上に、黄金と赤の色の羽をした生物……火の鳥がいる。

 

そしてハリーの表情は悲しげで、とても疲弊していた。不死鳥のおかげでなんとか倒れずにすんでいるかのように見えた。それでもどこかあたたかさがあり、目の焦点をはずして見れば、なぜかダンブルドア総長をまえにしているかのような印象もあった。自分でもなにを言っているのか分からないが、とにかくそう感じた。

 

ハリー・ポッターは談話室を横切り、ソファに乗った女子たちがじっと見ているところを通りすぎ、カードゲームをしている男子たちがじっと見ているところを通りすぎ、ハーマイオニーに向かってくる。

 

厳密には、ハリー・ポッターとの絶交はまだ有効だ。期限の一週間は明日まで終わらない。けれど、いま起きているなにかのほうが、確実にもっとずっと大事なことのように思えた——

 

彼女が口をひらこうとすると、そのまえにハリーが話しだした。 「フォークス、あの子がハーマイオニー・グレンジャーだよ。ぼくはバカなことをしたせいで、いまは話をさせてもらえない。でもいい人のそばにいたいなら、ぼくより彼女の肩に行ったほうがいい。」

 

なんて疲れきって痛いたしい声をしているのか——

 

なにをすべきか考えているうちに、不死鳥がハリーの肩からすっと、炎がマッチ棒から立ちのぼるのを速めたような動きで飛びたち、燃えながら近づいてきた。ハーマイオニーの正面に飛んできて、光と炎でできた目でこちらを見ている。

 

「カー?」と不死鳥がたずねた。

 

それをじっと見ていると、準備をしわすれたままテストを受験しているときのような気持ちがした。目のまえにとても重要な問題があるのに、生まれてから一度もその勉強をしたことがないから、自分にはなにも言うべきことばがない、というように。

 

「わ——わたしはまだ十二歳で、()()もなにもないし——」

 

不死鳥はゆっくりと降下して、片方の羽さきを中心に、光と空気の生物らしく一回転してから、ハリーの肩にもどり、それからは動こうとしなくなった。

 

「バカね。」 ハーマイオニーの反対がわでそう言うパドマは、笑顔と渋い顔のあいだで迷ったような表情をしている。 「不死鳥はまじめに宿題をやる女の子のところになんか来ない。スリザリン上級生五人にまっこうから勝負する愚か者のところに行くの。 あんなグリフィンドールみたいな赤と黄金(きん)色なんだから、分かるでしょ。」

 

談話室にいる人の大半が親しみのこもった笑いをした。

 

ハーマイオニーは笑わなかった。

 

ハリーも笑わなかった。

 

ハリーは片手を顔にあてていた。 「ごめん、ってハーマイオニーに伝言してほしい。」とささやくような声でパドマに言う。 「不死鳥は動物だから時間や予定の概念がなくて、将来いいことをする人のことが分からない、っていうことを忘れてた——それに、人の中身を見る目はないのかもしれない。ただどういう行動をしているかだけを見ているのかもしれない。 フォークスは『十二歳』が何なのかも知らない。 だからごめん——悪気はなかった——と……。何かしくじってばかりだなあ。」

 

ハリーは背をむけ、不死鳥を肩にのせたまま、とぼとぼと寝室へつづく階段をのぼろうとした。

 

これで終わらせてはいけない。終わらせてなるものか、とハーマイオニーは思った。 ハリーへの競争心がそうさせたのかどうかは分からない。 ただ、あの不死鳥をこのまま行かせてしまってはいけない、と思った。

 

なにかあるはず——

 

ハーマイオニーの優秀な記憶力を総動員して、なんとかひとつだけ、探しだせたものがあった——

 

「わたしはハリーを救うためにディメンターのまえに飛び出ようとした!」  すこしやけになって、ハーマイオニーは不死鳥に声をぶつける。 「そう、実際走りかけてたんだし! あれは怖いもの知らずでバカな行動じゃない?」

 

不死鳥は音楽的な鳴き声をしてから、またハリーの肩を飛びたち、燃えうつる炎のようにして近づいてきた。まわりを三周されて、自分がすっぽりと炎の円につつまれたように感じた。そして最後に羽さきでハーマイオニーのほおをひとなですると、ハリーのもとへもどっていった。

 

談話室の全員が息をひそめた。

 

「やっぱり。」と言ってハリーは寝室への階段をのぼりはじめた。そこからはとても速く、なぜか体重を感じさせない軽捷さで、不死鳥といっしょに部屋のなかへ消えた。

 

ハーマイオニーは震える手でほおを触り、フォークスの羽になでられたあたりの肌をなぞった。小さいながらも、そっと火にあてられたときのように熱をもつ部分があった。

 

あれも一応、不死鳥の問いへの答えではあったのかもしれない。けれど採点結果はさしづめ、かろうじての合格。なんとか六十二点は確保できたが、もっと努力していれば百四点にとどいたかもしれない、という思いがする。

 

()()()()努力していれば。

 

考えてみれば、いままで自分は本気で努力したことがない。

 

ただ課されるまま宿題をといていただけ——

 

『だれを救ったことがあるのか』と不死鳥は問いかけていた。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——フォークス:

 

悪夢を見ることを少年は予期していた。悲鳴と懇願と猛り狂う虚無が解き放たれ、記憶に沈着する。そういう風にしてやっと、経験が過去の一部となるのかもしれない。

 

そのような悪夢がかならず来ると思っていた。

 

それが来るのはもう一日あとのこと。

 

いま少年が見ている夢では、世界が火につつまれ、ホグウォーツが火につつまれ、両親の家が火につつまれ、オクスフォードの町が火につつまれている。黄金色の火はあかるく燃え、なにも燃やさない。光かがやく町を歩く人たちそのものが、火よりもあかるい白光を発していて、まるで火や星でできているように見える。

 

ほかの一年生たちがうわさをたしかめようとして、そのベッドをおとずれたとき、ハリー・ポッターはじっと静かに、おだやかな笑みをして眠っていた。枕の上ではその様子を見守る赤金色の鳥がいて、自分の羽を毛布がわりに少年のあたまにかけていた。

 

清算は翌晩にさきのばしされた。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——ドラコ・マルフォイ:

 

ドラコは身支度をおえ、ローブの緑色のふちにゆがみがないようにした。 自分のあたまにむけて杖をふり、昔父上に教わった魔法をかける。ほかの子どもたちが泥あそびをしているころに教わったこの魔法をかけておけば、ローブには糸くずの一本や埃のひとつぶさえ残ることがない。

 

父上からフクロウで届いていた謎めいた封筒があるので、ローブのなかにしまった。謎めいた手紙のほうはすでに『インセンディオ』と『エヴェルト』で始末してある。

 

それからドラコは朝食の場へむかった。ちょうど食事が出現する時刻にあわせて席につく、というのがいつものやりかただ。こうすることで、ほかの全員が自分の到着を待っていたかのような瞬間を演出できる。マルフォイ家の後継者たるもの、朝食でも一番をとるのは当然だ。

 

ヴィンセントとグレゴリーはドラコの個室のまえで待っていた。二人はドラコより早く起床する——もちろん身支度はドラコほど完璧ではないが。

 

スリザリン談話室は無人だった。この時間に起きている者はみな、さっさと朝食に行く。

 

地下洞の通路に音はなく、一行の足音だけがこだまして聞こえた。

 

大広間はまだ人が少ないが、緊迫した雰囲気で会話がかわされていた。小さな子が泣いていたり、テーブルからテーブルへいったりきたりする者がいたり、ところどころ密集してやかましく話しあう者がいたりした。赤いローブの監督生が緑色のふちをしたローブの生徒二人の正面に立ち、なにかどなっている。スネイプがそこへ向かっていく——

 

ドラコが来たのに気づいて、会話の音がすこし静まった。何人かが話をやめ、ドラコのほうをじっと見た。

 

テーブルに食事があらわれたが、 そちらを見ている者はいない。

 

そしてスネイプはきびすを返し、目標を変更してまっすぐドラコのほうにやってきた。

 

恐怖で一瞬胸がしめつけられた。もしや、父上になにかあったということでは——それでも、連絡くらいはあるはず——なにが起きているのか、なぜまだ連絡がないのか——

 

スネイプの目の下には(くま)があった。いつもながら衣装も(ひかえめに言って)冴えない。近づいてくるそのすがたをよく見ると、今朝のローブはふだんよりいっそう汚れ、曲がっていて、まだらについた油の量も多い。

 

スネイプは歩みよりながら話しはじめた。 「まだ聞いていないのか? せめて新聞くらいはとったらどうだ?」

 

「なんのことです——」

 

「ベラトリクス・ブラックがアズカバンから連れだされたのだ!」

 

()()」とドラコはショックの表情で言った。うしろのグレゴリーは口にすべきでない表現を使い、ヴィンセントはただ唖然とした。

 

スネイプは目を細めてにらんでから、急にうなづいた。 「そうか。ルシウスからの連絡もなかったのだな。」  スネイプは鼻をならしてから背をむけようとし——

 

「スネイプ先生!」  いま聞いたことばの意味がおぼろげながら理解できてきて、ドラコは必死であたまを回転させる。 「ぼくはどうすれば——父上からはなんの指示も——」

 

「であれば、そう言ってやればいいのではないかね。お父上の意図どおりに!」  あざ笑うようにそう言ってスネイプは去った。

 

ドラコはちらりとふりかえり、ヴィンセントとグレゴリーを見た。そんなことをしても意味がないのは分かっているのに。当然二人はドラコ以上に困惑しているだけだった。

 

それからスリザリンのテーブルに向かい、一番奥の席についた。ほかにはまだだれも座っていない。

 

そしてソーセージ入りオムレツを皿にとり、なにも考えずに食べはじめた。

 

ベラトリクス・ブラックがアズカバンから連れだされた。

 

ベラトリクス・ブラックがアズカバンから連れだされた、だと……?

 

それにどんな意味があるのか。太陽の火が消えるほどの、まったく予想外のできごと——いや、太陽が六十億年後に消えることは予想されているが、これは太陽が明日消えるというくらいに予想外だ。 父上がやったはずがない。 ダンブルドアであるはずもない。だれにもできるはずがない——だいたいなんの意味がある——アズカバンで十年を過ごしたベラトリクスにどんな利用価値があるというのか——仮にちからを回復させることができたとして、心底邪悪で狂っていて〈闇の王〉を盲信する女になんの価値があるのか——その〈闇の王〉はもういないというのに?

 

「あの、どうも話が見えないんですが……なんでうちがそんなことを?」ととなりの席のヴィンセントが言った。

 

()()がやるものか、バカが! どこからそんなことを考えつくんだ——ベラトリクス・ブラックのことをすこしは親から聞かされていないのか? 父上はあいつに拷問された。おまえの父さんも拷問された。だれもが拷問された。あいつは〈闇の王〉に命令されて、()()()クルシオしたことさえある! あいつは人民を恐怖させ服従させるために狂ったことをする人とはちがう。狂っているから狂ったことをしているだけだ! 最低の女なんだよ!」

 

「へえ?」と背後から怒りの声がした。

 

ドラコはふりかえらない。背後を守るのはグレゴリーとヴィンセントの仕事だ。

 

「なんでよろこばないのかな、マルフォイ——」

 

「——〈死食い人〉が一人、自由の身になったのに!」

 

アミカス・カロウは別の意味で問題がある人種だ。アミカスと同じ部屋に二人きりでいる状況だけは避けろと、父上から言われている……

 

ドラコはフローラ・カロウとヘスティア・カロウのほうを見て、〈嘲笑その三〉の表情をした。自分は〈元老貴族〉であり、おまえはそうではない、ということを思い知らせる嘲笑だ。 二人を相手として話すのではなく、ただ二人がいるあたりにだけ向けて言う。 「ひとくちに〈死食い人〉といってもいろいろある。」  そう言ってドラコは食事を再開した。

 

二人はぴったり同じタイミングでフンと言ってから、スリザリンのテーブルの反対がわの端に走っていった。

 

その数分後、ミリセント・ブルストロードが息も絶えだえに駆けこんできた。 「ミスター・マルフォイ、もう知ってる?」

 

「ベラトリクス・ブラックのことか? ああ——」

 

「ちがう、ポッターのこと!」

 

「は?」

 

「きのうの夜、ポッターが()()()を肩にのせて歩きまわってたらしいわ。延々と泥のなかを引きづられてきたあとみたいな様子で。うわさじゃ、その不死鳥がポッターをアズカバンに連れていってベラトリクスの脱獄を阻止させようとして、二人の決闘でアズカバンが半分吹き飛んだんだって!」

 

「は? そんなことは、どう考えてもありえな——」

 

ドラコは言いやめた。

 

そして気づいた。何度自分がハリー・ポッターについておなじことを言ったか。たいていどういう結末が待っていたか。

 

ミリセントはまた別の相手にニュースを聞かせに走っていった。

 

「まさかあんなのを本気に——」とグレゴリー。

 

「正直どう考えればいいか分からなくなった。」とドラコ。

 

数分後、セオドア・ノットがドラコの向かいがわに座り、ウィリアム・ロジエールがカロウ姉妹のそばの席についたとき、ヴィンセントがドラコをうながした。 「あそこを。」

 

ハリー・ポッターが大広間に足をふみいれるところだった。

 

ドラコはそれをよく観察した。

 

見たところ、とくに緊迫した表情ではない。驚愕もショックも感じられない。ただ……

 

遠くを見て、一人でなにか思いふけるような顔をしている。ドラコの理解できない問いへの答えを考えようとしているときにハリーがする表情だ。

 

ドラコは突然スリザリンのテーブルの椅子から腰をあげ、「ここで待て。」と言ってから、上品な急ぎ足でハリーのもとへ向かった。

 

ハリーはちょうどレイヴンクローのテーブルに向かって曲がるところで、近づいてくるドラコに気づいたらしい。ドラコはそこで——

 

——ハリーにちらりと視線を送り——

 

——すれちがってから、まっすぐ進み、大広間を出た。

 

一分後、ハリーは石壁の奥まった場所にドラコが待っているのを見つけに来た。だれかに気づかれていないともかぎらないが、合理的な否認可能性はのこせるやりかただ。

 

「『クワイエタス』。ドラコ、なにか——」

 

ドラコはローブから封筒をとりだした。 「父上からきみへの手紙だ。」

 

「へ?」と言ってハリーは封筒をうけとり、へたな手つきで破って開き、出てきた羊皮紙を広げた。

 

ハリーはごくりと息をのんだ。

 

それからドラコを見た。

 

それからまた羊皮紙を見た。

 

それからおたがい無言になった。

 

「ぼくがどういう反応をしたかをルシウスに報告することになってる?」

 

ドラコは一瞬無言で、その意味合いを考えてから、口をひらいた——

 

「なってるんだね。」とハリーが言った。……うっかりしていた。つい判断が遅れてしまった。 「どう報告する?」

 

「おどろいていた、と。」

 

「おどろいていた。ああ。そうか。いいと思う。」

 

「なにが起きているんだ?」とドラコが言いかけると、 ハリーは葛藤する表情になった。「もしぼくに隠れて父上とやりとりするのなら——」

 

ハリーは無言で割りこみ、ドラコに手紙を見せた。

 

『貴君のしわざであることは分かっている。』

 

「おい、これはどういう——」

 

「聞きたいのはこっちだよ。お父さんがどういうつもりなのか、こころあたりはない?」

 

ドラコはハリーをじっと見た。

 

「ほんとうにきみがやったのか?」

 

「え? いや、なんでそんなことをぼくが——()()()()()ぼくが——」

 

「きみがやったんじゃないのか、ときいている。」

 

「ちがうよ! そんなわけないだろ!」

 

そう返事する声をドラコは注意して聞いていたが、ためらいや震えは感じとれなかった。

 

なので、うなづいてからこう言った。 「父上がなにを考えているのかは分からない。でもまずいことになっているのはまちがいない。 それに、あー……あのうわさのほうも……」

 

「あのうわさ、というと?」とうんざりした声でハリーが言った。

 

「きみが不死鳥に連れられてアズカバンにいって、ベラトリクス・ブラックの脱獄を阻止しようとしたといううわさだが——」

 

◆ ◆ ◆

 

余波——ネヴィル・ロングボトム

 

ハリーはようやくレイヴンクローのテーブルについて、やっと少し食べものを口にすることができる、と思ったところだった。 どこか場所をみつけて一人で考える必要があるのは分かっていたが、不死鳥がくれた平穏の残り香が(ドラコとの話がすんだ時点でも)まだわずかにあり、それをすこしでも引きとめておきたいと思っていた。 平穏でない部分のハリーとしても、各種の鉄槌が自分のうえに落とされるのは一人になって考えてからでいいと思っているようだった。そうすれば、各方面の惨事を一括で処理することができる。

 

手がフォークをつかみ、マッシュポテトひとくち分を口へ持ちあげると——

 

どこからか甲高い声がした。

 

今回のニュースを聞いた人はだいたい、ああいう声をだしがちではあった。ただいまのは、聞きおぼえのある声だった——

 

ハリーは即座に長椅子から立ちあがり、ハッフルパフのテーブルのほうへ向かう。とても嫌な予感がこみあげてくる。 これもまた、クィレル先生の犯罪に手を貸すことを決めたときに想定していなかったことのひとつだった。だれにも知られないようにするはずだったのだから、考える必要もなかったのだった。 しかし、ああなってしまってからも、ハリーは——考えるのを忘れていた——

 

()()()()()()()()()()()、とこころのなかのハッフルパフが苦にがしげに宣告した。

 

けれどハリーが到着したとき、ネヴィルは席につき、ソーセージパテをスニッピーフィグのソースにつけて食べていた。

 

ネヴィルの手は震えていたが、ソーセージを切り、食べるまでに落としたりはしていなかった。

 

「おはよう司令官。」と言ってネヴィルはすこしだけ声を震えさせた。 「昨日の夜、ベラトリクス・ブラックと決闘してきたんだって?」

 

「いや。」  ハリーの声もなぜか震えがちになった。

 

「やっぱりね。」  ネヴィルはまたナイフでソーセージを切り、引っかくような音をだした。 「ぼくはベラトリクス・ブラックを探して、捕まえて殺そうと思う。手つだってくれるかい?」

 

ネヴィルのまわりにあつまってきていたハッフルパフ生がおどろいて息をのんだ。

 

「もしも彼女がきみを狙ってやってきたら……」とハリーは声をかすれさせる。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()「ぼくは命をかけてきみを守る。」 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 「でもきみが彼女を捕まえようとしても、手つだいには行かないよ。友だちが自殺する手つだいをするのは友だちじゃない。」

 

ネヴィルのフォークが口にいく途中で止まった。

 

それからネヴィルはそれを口にいれ、噛みなおした。

 

そして飲みこんだ。

 

「いますぐやるとは言ってない。ホグウォーツを卒業してからだよ。」とネヴィル。

 

「ネヴィル……」 ハリーは重ねて慎重に声を抑制する。 「あのね、卒業してからやるんだとしても、やっぱりちょっとバカげた行動なのは変わらないんじゃないかな。 きみよりずっと熟練の〈闇ばらい〉が捜索をしてるに決まってるし——」 いや待てよ、この言いかただと——

 

「ほら、ハリーでもこうだろ!」とアーニー・マクミランが言った。ネヴィルのちかくにいた年長のハッフルパフ生らしい女子も応じた。「よく考えて、ネヴィ!」

 

ネヴィルは立ちあがった。

 

「ついてこないで。」

 

そう言ってネヴィルは離れていった。ハリーとアーニーはそれでも追いかけようとした。ハッフルパフ生も何人かつづいた。

 

ネヴィルはグリフィンドールのテーブルの席についた。そこまではだいぶ距離があったが、なんとかこう言っているのが聞きとれた。 「ぼくは卒業したらベラトリクス・ブラックを見つけだして殺そうと思ってる。だれかいっしょにやる?」  すくなくとも五人から、「やる」という答えがあった。そしてロン・ウィーズリーが大声で割りこんだ。 「待った待った。今朝ママから、みんなに念押ししといてくれっていうフクロウがあってね。最初に手をだす権利があるのはうちのママだからよろしく——」  そして別のだれかが「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? 冗談にもほどがあるぜ——」と言った。ロンは皿を一枚とって、マフィンに手をのばす——

 

だれかがハリーの肩をたたいた。ふりむくと、緑色のふちのローブの、見おぼえのない年長の女子がいた。その子はハリーに羊皮紙の封筒を手わたすと、すぐに去っていった。

 

ハリーはしばらくじっとその封筒を見てから、手ぢかな壁まで歩いていった。完全に人目を避けられるような場所ではないが、このくらいで十分だろう、とハリーは思った。なにか隠しごとがあるような雰囲気をだしてしまうのもまずい。

 

これがスリザリン式配送システムである。送り手と受け手が通信したということ自体を秘密にしたまま通信が成立する仕組みだ。 送り手は信頼できる中継者として知られているだれかに宛てて封筒をだし、そこに十クヌートを添える。一人目の中継者はそのうち五クヌートを自分の取り分とし、残金五クヌートとともにその封筒を別の中継者に送る。二人目の中継者はその封筒をひらいて、なかにあるもうひとつの封筒をとりだし、そこに書かれた宛名の受け手へと配達する。 このやりかたであれば、経路上のだれ一人、送り手と受け手の()()の名前を知ることはできない。したがって、両者が通信したという事実はだれにも知られない……

 

壁のそばまで来ると、ハリーは封筒をローブのなかにいれ、隠しながら封を切り、そのなかの手紙におそるおそる目をやった。

 

内容は……

 

転成術教室の左隣の教室、午前八時

 

ハリーはじっとそれを見つつ、自分が知っている人で『LL』のイニシャルの人なんていただろうかと考えた。

 

『LL』に該当する名前の記憶をさぐる……

 

さらにさぐる……

 

そして検索結果は——

 

「あの『クィブラー』の女の子?」  予想外すぎてそう言ってしまい、それから口を閉じた。 あの子はたしかまだ十歳だし、ホグウォーツに入学してすらいないじゃないか!

 

◆ ◆ ◆

 

余波——レサス・レストレンジ(Lesath Lestrange)

 

午前八時、ハリーは〈転成術〉教室のとなりの空き教室で待っていた。なんとか腹ごしらえだけはすませて、つぎなる災厄、ルナ・ラヴグッド(Luna Lovegood)との対面の時を待つ……

 

教室のドアがあいたところを見て、ハリーはこころのなかで猛烈に自分を蹴とばしてやりたくなった。

 

またこれも予想外だった。これもまた、分かっているべきことだった。

 

年長の少年の緑色のふちどりの正装用ローブは曲がっている。小さな赤い点がいくつかあり、妙に鮮血じみた色をしている。口の片ほうの端に、切られてから治癒したように見えるあとがある。『エピスキー』かなにかの簡易な医療〈魔法(チャーム)〉の結果だろう。ああいった呪文では傷を完全に消すことができない。

 

レサス・レストレンジの顔には涙のすじがあった。でたばかりの涙も乾いた涙もあり、目にも涙があり、これからまだ出てくる気配があった。 レサスは「クワイエタス」と言ってから、「ホミナム・レヴェリオ」などいくつかの呪文を言った。そのあいだハリーは必死に思考しようとしたが、あまりうまくいかなかった。

 

レサスは杖をおろし、ローブにしまった。そして今度はゆっくりとかつ正式な仕草で、ほこりっぽい教室の床にひざをつけた。

 

そしてひたいにほこりが付くまで、あたまを下げた。それを見てハリーはなにか言うべきところだったが、声が出なかった。

 

レサス・レストレンジは震える声で言った。 「この生もこの死もあなたさまのもの。いかようにでもお使いください。」

 

「ぼ……」とハリーは言いかけたが、のどになにか大きなものがつっかえて、なかなか声にならない。 「ぼくは——」 ……『あれとはなんの関係もない』。なにをおいてもまずそう言うべきなのだが、もし自分が無実であれば、やはり絶句してしまうのではないかという気もする——

 

「ありがとうございます。」とレサスが小声で言う。「ありがとうございます。ああ、ありがとうございます。」 ひざまずいた少年が声をつまらせて泣く音がした。 目のまえに見えるのは少年の顔ではなく、後頭部の髪の毛だけだった。 「わたしは愚かでした。あなたさまに仕える権利もない、とんだ恩知らずでした。——あ……あのとき助けていただいたとき、声をあらげるようなことをしてしまって……いくら土下座してもお詫びできません。あのとき、わたしはただ拒絶されたと思うばかりで、今朝になるまで失敗に気づきませんでした。ロングボトムが見ているまえでお願いするなど、なんて馬鹿なことをしたのかと——」

 

「ぼくはあれとはなんの関係もない。」とハリーは言った。

 

(こういう真っ赤なうそを言うのは、いまだにやりにくい。)

 

レサスは床からゆっくりとあたまを上げ、ハリーを見た。

 

「しかたありません。」 少年の声はすこし震えている。 「わたしの狡猾さにはもう期待できないと思われても。たしかに、わたしは愚かでした……。ただどうしても、わたしが感謝を忘れていないということはお伝えしたかった。一人を救うだけでも十分大変だっただろうことも、いまとなってはもう警戒が強まっていて、このうえ——父上を救ってもらうことは——できないことも理解しています。でも感謝を忘れてはいないということ、この感謝をいつまでも忘れないということはお伝えしたかっただけです。 もしこのしもべめに、すこしでも利用価値があれば、いつでもお呼びください。そのときはすぐに参ります、ご主人さま——」

 

「ぼくはいっさい関与していない。」

 

(でも、口にするたびに楽になっていく。)

 

レサスはハリーを見あげ、自信なさげに言った。 「もうさがれと言うことですか、ご主人さま……?」

 

「ぼくはきみのご主人さまじゃない。」

 

「わかりました、ご主人さま。」と言ってレサスは身を引いて立ちあがり、深く一礼してハリーのまえから去り、教室のドアへと向かった。

 

レサスの手がドアノブに触れようとしたとき、動きが止まった。

 

ハリーからはレサスの表情が見えなかったが、レサスはこう言った。 「母上は介助を受けられるような場所に送られましたか? わたしのことをなにか言っていましたか?」

 

それに対して、ハリーは完全に中立的な声でこう言った。 「もうやめてくれ。 ぼくはなにも関与していないんだって。」

 

「わかりました、ご主人さま。すみません。」とレサスの声が聞こえた。そしてレサスはドアをひらき、外にでてからとじた。 遠ざかる足音はだんだんと速度をあげていったが、それが消えるまえに、すすり泣く声も聞こえた。

 

ぼくは泣くべきか? もしなにも知らなかったら、もし無実だったら、ぼくはここで泣いているだろうか?

 

わからないまま、ハリーはドアのほうを見つめつづけた。

 

とんでもなく無神経なハリーの一部分がこう思考した。やったね、冒険(クエスト)をひとつ完了して、子分を一人ゲットした——

 

だまれ。今後すこしでも投票に参加したいという気があるなら……だまれ。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——アメリア・ボーンズ

 

「それなら、彼の命に別状はないのね。」とアメリアは言った。

 

癒者はけわしい目をした老人で、白いローブを着ていた(彼はマグル生まれであり、奇妙なマグルの伝統にしたがっている。アメリアはそれについて問いただしたことはないが、内心、これではまるで幽霊(ゴースト)ではないか、と思っていた)。 「ありませんね。」

 

アメリアは癒者のベッドに意識不明のまま安置されているからだをながめた。焼けただれ、爆発にさらされた肉体。つつしみのためにかけられていた薄いシーツは、はがさせておいた。

 

全快できる可能性もある。

 

そうでない可能性もある。

 

癒者は現段階では判断をしかねるという。

 

アメリアは部屋のなかにいるもう一人の部下に目をむけた。

 

「それで、あの燃焼の材料は水から〈転成術〉(トランスフィギュレイション)で作ったもので、もとはおそらく氷だったと。」

 

部下はうなづいて、困惑したように言った。 「そうなんです。水以外のなにかなら、もっとひどいことになっていたかもしれません——」

 

「むこうはまたそう思わせたいんでしょうね。」と言い、すぐに疲れた手をひたいにあてる。 そうではない……これは罠ではない。純粋に親切でそうしたのだ。 脱獄が完了するという段階までくれば、もうこちらの躊躇を誘う必要はない。 これをやった何者かは、だから、こちらのダメージを軽減しようとしていた——あの火がどんな被害をもたらすかではなく、〈闇ばらい〉が煙を吸ったらどうなるかを考えていたのだ。そうとしか考えられない。 そのあともおなじその人物がロッカーを制御していたなら、あれほど乱暴な操縦はしなかったにちがいない。

 

だが、アズカバンからロッカーに乗って飛びでたのはベラトリクス・ブラックただ一人だった。現場を見ていた部下たちの全員がそう証言している。〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)防止の魔法をしっかりとかけて見ても、あのロッカーには女一人だけしか乗って見えなかった、と。(あぶみ)は二つついていたようではあるが。

 

守護霊(パトローナス)の魔法〉を使うことのできる、純粋な良心のある何者かがいた。その人物は騙されて、ベラトリクス・ブラック救出に協力した。

 

その何者かはバアリー・ワンハンドを相手どり、熟練の〈闇ばらい〉である彼を、重傷をおわせることなく制圧した。

 

その何者かが〈転成〉した燃料で動く乗り物を使って、ブラックと二人で脱出する手はずだった。 その何者かは燃料の原材料として氷を選ぶことで、アメリアの部下を守った。

 

だがそこで、ベラトリクス・ブラックにとってその何者かは用済みになった。

 

バアリー・ワンハンドを制圧する実力があるのなら、それくらいのことは予見できていてくれ、と思いたくはなる。 だがそもそも、〈守護霊の魔法〉を使えるような人物がベラトリクス・ブラック救出に協力するなどとは、だれも思っていなかった。

 

アメリアはひたいの手を下にずらして、まぶたにかさね、目をとじて、しばらく無言でその人物を追悼した。 その人物は何者だったのか。そして〈例の男〉にどうやって懐柔されたのか……そこにどんな大義があるように思わせられたのだろうか……

 

そう考えてからしばらくしてやっと、アメリアは自分が信じはじめていることに気づいた。 ダンブルドアの言うことはたいてい信じがたい。だが今回ばかりは、考えるほどに、例の冷たく暗い知性が暗躍しているように思えてならなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——アルバス・ダンブルドア:

 

朝食の場に到着したのは、終了まであと五十七秒の時点だった。〈逆転時計〉を四回ついやすことになり、苦しくはあったが、アルバス・ダンブルドアは間にあった。

 

フィリウス・フリトウィックの席をとおりすぎようとしたところで、甲高い声が呼び止められた。 「総長、ちょっとよろしいですか? ……ミスター・ポッターから伝言があります。」

 

老魔法使いは立ちどまり、 〈操作魔法術(チャームズ)〉教授フリトウィックに無言で問いかけた。

 

「ミスター・ポッターはけさ起きてすぐに、後悔したそうです。フォークスが鳴いてからあなたにひどいことを言ってしまった、ほかの部分についてはともかく、その部分についてだけは謝りたい、と。」

 

老魔法使いは無言のまま、フリトウィック教授を見つめた。

 

「総長?」

 

「では、わしから感謝を伝えてくれ。ただ、賢明な人は老賢者の助言よりも不死鳥の助言を受けいれるものだということも、伝えておいてほしい。」  そう言ってアルバス・ダンブルドアは席についた。食事はその三秒後にすべて消滅した。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——クィレル先生:

 

マダム・ポンフリーはその生徒に声をあげた。 「ダメです。面会はなりません。話すこともなりません。一つだけ質問が、などと言ってもダメです! あと三日間はベッドで絶対安静です!」

 

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余波——ミネルヴァ・マクゴナガル:

 

ミネルヴァは医務室にむかっていて、ハリー・ポッターは出たところだった。二人はすれちがった。

 

ハリー・ポッターの視線に怒りはなかった。

 

悲しみもなかった。

 

なにも言おうとしていなかった。

 

まるで……まるで『ぼくはあなたのことを避けていない』ということさえ伝わればいい、というように、ごく短く目をあわせてきただけだった。

 

どういう視線をもって返事にかえるべきか考えようとしているうちに、ハリー・ポッターは視線をそらした。まるで『それにはおよびません』と言おうとするかのように。

 

すれちがう瞬間、彼は無言だった。

 

彼女も無言だった。

 

言えることなどなにもなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

余波——フレッド・ウィーズリーとジョージ・ウィーズリー:

 

二人は角をまがり、ダンブルドアが目にはいったとき、ヒッと声を漏らしてしまった。

 

声を漏らしたのは、総長が突然出現して厳格そうな表情で二人をじっと見たからではない。ダンブルドアがそうなのはいつものことだ。

 

だが今日のダンブルドアは正装の黒ローブすがたで、とても老人らしく、とても実力者らしい雰囲気があり、鋭い目で二人を見ている。

 

「フレッド・ウィーズリーとジョージ・ウィーズリー!」とダンブルドアが〈実力者の声〉で言った。

 

「はいっ!」と言って、二人は直立の姿勢になり、古い写真で見た軍隊式の敬礼をした。

 

「言っておきたいことがある。きみたちはハリー・ポッターの仲間だと聞いている。まちがいないか?」

 

「はいっ!」

 

「いまハリー・ポッターに危機がせまっている。 彼をホグウォーツの結界の外に出してはならん。 このことだけははっきりと言っておきたい。 わしもグリフィンドール出身の身、規則より大切にすべき規則があることはよく分かっておる。 しかし今回、このことだけは、一つたりとも例外を許してはならぬ至上命令じゃ。 きみたちが手助けし、ハリーがこの城を出ることがあれば、彼の命にかかわる! 代理でなにかしてあげることはよい。遣いを頼まれたとして、それもかまわん。しかし彼自身がホグウォーツを脱出したいという頼みには、いっさい耳を貸してはならん! よいな?」

 

「はいっ!」  そう言いながらも、二人はまだその意味をよく考えておらず、自信なさげにおたがいを見あった——

 

明るい青色の目が二人をじっと見つめた。 「いや、考えずに返事するようではいかん。 もしハリーから脱出の手伝いを頼まれたら、断ること。脱出のための手段を聞かれたら、断ること。 そのたびにわしに報告せよとまでは言わん。きみたちにそんなことはできまい。 ただ、そういうときは、()()()頼めばよい、ということを彼に伝えてほしい。真に重要な事情があれば、わし自身が護衛となり、彼に付き添う。 フレッド、ジョージ。きみたちの友情を邪魔だてして申し訳ないとは思うが、ことは彼の生命にかかわるのじゃ。」

 

二人はしばらく時間をかけて、おたがいを見あった。といっても、なにかを伝えたいからではなく、同時に同じことを考えるときはこうするからだ。

 

二人はそれが終わるとダンブルドアのほうを見た。

 

そして寒けとともに思いあたった人物の名前を言った。「ベラトリクス・ブラック。」

 

「最低でも、それ相当の危機ではある。」とダンブルドア。

 

「了解——」

 

「——ならしかたない。」

 

◆ ◆ ◆

 

余波——アラスター・ムーディとセヴルス・スネイプ:

 

アラスター・ムーディは片目をうしなったとき、高名な研究家でレイヴンクローのサミュエル・H・ライアルに連絡し、有無を言わせず調査を引き受けさせた。だれに対しても不信をもつムーディではあるが、ライアルに対する不信は平均よりやや少なめだった。だからこそムーディはライアルが未登録の人狼であると知っていながら通報していなかったのだ。あらゆる魔法製の眼とそのありかに関する手がかりを調べつくせ、というのがムーディのライアルへの注文だった。

 

報告が来たとき、ムーディはその大半を読まなかった。一番目にあったのが〈ヴァンスの眼〉だったからだった。それはホグウォーツ創設よりも古い時代に作られたもので、有力な〈闇の魔術師〉に所有されているという。都合のいいことにその人物はブリテンでもなく関係諸国でもない辺鄙な場所を根城としており、そこならムーディもくだらない法律を気にする必要がなかった。

 

そんな経緯でアラスター・ムーディは左足をうしない、〈ヴァンスの眼〉を手にした。 副産物として、圧政に苦しむウルラートの人民を解放する効果もあったが、二週間もすると別の〈闇の魔術師〉が権力の空白におさまってしまった。

 

つづけて〈ヴァンスの左足〉を探すことも考えたが、これは敵の思う壺ではないかと気づいて、やめた。

 

いま〈凶眼(マッドアイ)〉ムーディはゆっくりと方向を変えつつ、リトル・ハングルトン墓地を監視しつづけている。 本来もっと陰気な場所であるはずだが、明るい日差しのもとではただの草地にふつうの墓石がならんでいるだけの場所に見える。境界には、壊すことも乗りこえることもたやすい金属の鎖がめぐらされている。結界の代用品だ。(ムーディとしてはマグルがなんのつもりでこんなことをしているのか想像がつかない。これは結界ごっこのようなものなのか。まさかマグルの犯罪者もそれに乗ってくるとでもいうのか……という点は追及しないほうがよさそうだと思っていた。)

 

実は墓地全体を監視するのに、方向を変える()()はない。

 

視線がどちらを向いていようが、〈ヴァンスの眼〉の視界はつねに自分をとりまく全方位・地球全球におよぶ。

 

だがその事実を元〈死食い人〉であるセヴルス・スネイプなどに教えるべき理由はない。

 

ムーディはときどき『被害妄想』的だと言われる。

 

そう言われるとムーディはいつも、百年間〈闇の魔術師〉たちを相手にして生きのびてから言え、と答える。

 

マッドアイ・ムーディは自分がそれなりの警戒力を身につけるまでにどれくらいかかったか——運ではなく実力で切りぬけられるようになるまでにどれくらいの経験を要したか——をふりかえって考えてみたことがある。すると、たいていの人はその域に達するまえに死ぬものであるらしいことに気づいた。 このことをライアルに言ってみると、なにかよく分からない計算をしたのち、典型的な〈闇の魔術師〉ハンターは『被害妄想』になるまでに平均八.五回死ぬ、という答えがかえってきた。 そうだとすればいろいろ説明がつく。ライアルがうそを言っていなければだが。

 

昨日、マッドアイ・ムーディはアルバス・ダンブルドアから連絡をうけ、〈闇の王〉が言語を絶する闇の魔術を使って肉体の死を生きのび、どこか遠くの地で覚醒したということ、そしてかつてのちからを取りもどす方策をさぐりつつ、あらためて〈魔法界大戦〉を起こそうとしているのだということを伝えられた。

 

ほかのだれかなら、そんな話はとても信じられない、と思うところだろうか。

 

「なんでいまさら、復活の秘術があるなんて話を聞かされなきゃならんのだ。」  マッドアイ・ムーディはかなり辛辣に言う。 「ホークラックスを作るくらい能のありそうな〈闇の魔術師〉は何人いたことか。そいつらの墓を一個一個、こうしなきゃならんのだぞ。 この墓だって、今回がはじめてというわけでもあるまい?」

 

「これは年一度、わたしが補充しに来ている。」  そう言ってセヴルス・スネイプは三本目の小瓶をあけ、そこに杖を振る動作をしはじめた。()()()()()()()()()()()、瓶はぜんぶで十七本あるという。 「ほかにも先祖の墓はいくつかあったが、そちらには長期間もつ種類の毒しか入れていない。あなたのように暇な人間ばかりではないのでね。」

 

ムーディは瓶から液体が吹きでて、消える様子を見た。消えた液体は、この下の骨のなかの髄があった位置に転移していた。 「それでも罠をしかける意味はあると思っているんだな。でなけりゃ、骨を〈消滅〉させたほうが早い。」

 

「この手が使えないとなれば、復活の手だてはほかにもあるからだ。」  あっさりそう言って、スネイプは四本目の瓶をあけた。 「きかれるまえに言っておくと、墓はかならず最初に埋葬された墓でなければならないし、骨は儀式がはじまってから取りださなければならない。 つまり、やつがあらかじめここに来て骨を取り去っていたという可能性はない。 これより弱いほかの先祖の骨で代用する意味もない。試すまえに、効力がなくなっていることに気づくはずだ。」

 

「どれだけの人間がこの罠のことを知っている?」とムーディは問いつめた。

 

「あなたと、わたしと、総長。ほかにはいない。」

 

ムーディは鼻で笑った。 「ハン。アルバスのことだ。その復活の儀式のことを、アメリアとバーテミウスと、あのマクゴナガルという女にも話したんじゃないのかね。」

 

「そのとおりだが——」

 

「アルバスが復活の儀式のことを知った。そして、あいつらにそれを話した。そこまでの情報がそろった時点でヴォルディなら、おれにも話がいったと判断する。そしておれならこういうことをするということも、お見通しだ。」  ムーディは嫌そうにくびを横にふった。 「ヴォルディが復活する手段はほかにもあると言ったな。どんな方法だ?」

 

スネイプは五本目の瓶に手をかけたところで止まった。(当然ながらすべては〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)されているが、ムーディの〈眼〉には通用しない。ただ『隠れようとしている』という印がついて見えるだけだ。) 「あなたが知る必要はない。」と元〈死食い人〉は返事した。

 

「わかってきたじゃないか。」とムーディは生徒を褒めるように言った。 「で、その瓶のなかみは?」

 

スネイプは五本目の瓶をあけ、杖をひと振りし、内容物を墓めがけて飛ばした。 「ああこれは、LSDというマグルの麻薬だ。 昨日そういう会話をしたせいか、マグル世界のことを少し思いだして、どうせならLSDがよさそうだと思い、急いで入手してきた。 復活の薬に混入したあかつきには、おそらくこれの効能も永続する。」

 

「効能というと?」

 

「実際経験した者にしか分からない効能らしい。」  スネイプはあざ笑うように言う。「……わたしは未経験なもので。」

 

ムーディは首肯し、スネイプは六本目の瓶をあけた。 「今度は何だ?」

 

「惚れ薬。」とスネイプがこたえる。

 

「惚れ薬だあ?」

 

「凡百な惚れ薬ではない。 これを飲むと、だれをも魅了する愛らしいヴェルダンディという名の女ヴィーラとのあいだで両思いの愛が生まれることになっている。総長の話では、うまく恋愛にさえ持ちこめればそのヴィーラならやつを改心させることすらできるかもしれない、という。」

 

「ケッ! 相変わらず甘いじいさんだ——」

 

「同感。」と言ってから、セヴルス・スネイプは作業にもどった。

 

「せめてマラクロウの毒液くらいは用意しただろうな。頼むからそう言ってくれ。」

 

「二瓶目がそれだった。」

 

「アイオケイン・パウダーは。」

 

「十四番目か十五番目にある。」

 

「〈バアルの麻酔薬〉。」  それはきわめて高い中毒性のある麻薬の名前であり、スリザリン的傾向のある患者に奇妙な副作用をもたらすことが知られている。 ムーディ自身、とある〈闇の魔術師〉がある標的人物をあるポートキーに触れさせたいがために、非常識なまでの労力をかけた事例を知っている。標的が買い物にでたときにクヌート一枚にしかけをして渡しでもしたほうがよほど楽なのに、やたら入りくんだことをやりたがるようになり、 極めつけとして、その同じポートキーに()()()()()()()()()()()()()()、標的が二度目に手をふれたら安全な場所に帰ることができるという効果までつけた。 いくら薬物のせいだったとしても、その男は自分ではなにをしているつもりで帰り道の『ポータス』をかけたりしたのか。まったく理解しがたい。

 

「十本目。」とスネイプ。

 

「バジリスクの毒液は。」

 

「は? それは復活の薬に必要なほうの材料だろう! ヘビの毒液は骨を溶かし、ほかの薬剤もすべて溶かしてしまう。 だいたいどこでそんなものが手にはいると——」

 

「落ちつけ。おまえさんが信頼できるかどうか、試しただけだ。」

 

マッドアイ・ムーディは墓地を監視するため(実は必要のない)回転動作をつづけ、〈薬学教授〉は薬剤をそそぎつづけた。

 

「ちょっと待て。」とムーディがやにわに言う。「なぜ()()()ほんものの墓だと分かる——」

 

「この、だれが動かしてもおかしくない墓標に『トム・リドル』と書いてあるからに決まっている。」と皮肉な声がかえってきた。 「……これで、総長との賭けに勝てた。あの人は、五瓶目までに気づくほうに賭けていたのでね。 油断大敵もまだまだですな。」

 

間があいた。

 

「アルバスはいつ、そのことに気づいた——」

 

「この儀式のことを知ってから三年経ってしまっていた。」  スネイプはいつもの皮肉な調子ではなくなった。 「いま思えば、もっと早くあなたに相談していればよかった。」

 

そう言ってスネイプは九本目の瓶をあけた。

 

「ここにあるほかの墓もすべて、毒をいれてある。長期間もつほうの毒ですがね。 ……まあ、この墓地が正解だという可能性もなくはない。 あの男も自分の家族を皆殺しにしたとき、そこまでさきのことは考えていなかったかもしれない。なにより、墓本体を動かすことはできない——」

 

「もとの墓地はもうとっくに、とても墓地には見えなくなっているぞ。」とムーディは言いきった。 「それ以外のマグルの墓石をぜんぶ別の場所に移して、住民には〈記憶の魔法〉をかけてあるに決まってる。 儀式をはじめる直前になるまで、やつはベラトリクス・ブラックにすら詳細を伝えない。真の墓の場所は、やつ本人をのぞいて、だれも知らない。」

 

二人はそれでも不毛な作業をつづけた。

 

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余波——ブレイズ・ザビニ:

 

スリザリン談話室に一歩ふみこむと、そこには戦場と見まがうほどの緊張がある。 肖像画の穴をくぐった瞬間、部屋の左半分と右半分とが〈国交断絶〉の状態にあることが分かる。 だれも説明しようとしないほど当たりまえの事実だが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ちょうど部屋の真ん中にあるテーブルに一人陣取り、宿題をしているブレイズ・ザビニはほくそ笑んだ。 ブレイズ・ザビニは一目置かれている。そしてその評判を維持しようとしている。

 

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余波——ダフネ・グリーングラスとトレイシー・デイヴィス:

 

「なにかおもしろいことない?」とトレイシー。

 

「ない。」とダフネ。

 

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余波——ハリー・ポッター:

 

ホグウォーツ城のある程度上の階層までくると、通行人がまばらになる。そこにはただひたすら、廊下や窓や階段や肖像画がつらなっている。ときどきは、ちょっと目をひくものが出てきたりもする。たとえば、ふかふかの毛皮の子どもくらいの体格をした動物に変わった平たい剣をもたせた銅像など……

 

ホグウォーツ城のある程度上の階層までくると、通行人がまばらになる。それがハリーには都合がよかった。

 

幽閉される場所としては悪くない、とハリーは思った。 というより、これ以上いい場所が思いつかないくらいだ。つねに変化するフラクタル構造の古城には、探検すべき場所が数かぎりなくあり、おもしろい住人やおもしろい本、マグル科学の範疇にないとてつもなく重要な知識がつまっている。

 

ホグウォーツで過ごせる期間が増えるのは大歓迎だ。もし外出禁止の条件さえなければ、よろこんで飛びついていたくらいだ。いや、どんな策略を使ってでもその機会を手にいれようとしただろう。 ホグウォーツは()()な場所だった。可能世界すべてのなかで最高とまではいかずとも、この地球上ではまずまちがいなく〈最高に楽しい場所〉だった。

 

それが、外に出てはいけないと言われると、急にそうは思えなくなる。なぜかこの城と外苑がとても小さく、息ぐるしく感じられる。なぜか外の世界にずっと楽しく、重要なものがあるように見えてくる。 それまで何カ月もここで過ごしていて、狭く感じたことはなかったというのに。

 

ハリーの一部が口をはさむ。 そういう研究があるのは知ってるだろう。よくある希少性の効果だ。ある国でリン酸系洗剤が非合法になると、それまで気にもしていなかった人たちが競って隣国に行ってまでして大量のリン酸系洗剤を買うようになる。アンケートをするとたくさんの人がリン酸系洗剤は刺激がすくなく、汚れ落ちがよく、使いやすいと答える……。二歳の子どもに、すぐそこにあるおもちゃと塀のむこうにあるおもちゃのどちらかを選べと言うと、すぐ手にはいるほうには見向きもせず、塀のむこうに行こうとする……。ある商品がもうすぐ品切れになりそうだ、と言うだけで売れゆきがよくなることはよく知られている……。チャルディーニの『影響力の正体』にだって書いてある。となりの芝生は青い、というより、禁じられた芝生ならなんでも魅力的に感じられる。

 

外出禁止の条件さえなければ、夏休みをホグウォーツで過ごすのはいい。むしろよろこんで飛びついていたくらいだ……

 

……でも死ぬまでとなると、そうはいかない。

 

そこはちょっと問題だ。

 

だいたい、倒すべき〈闇の王〉なんてものが、まだほんとうにいるのか?

 

〈名前を言ってはいけない例の男〉がもう現実世界からいなくなってしまっているという可能性はないのか? すべては、ただの演技かもしれないけど実際に狂っているかもしれない老人の妄想でしかなかったりするのでは?

 

ヴォルデモート卿の死体は小さな燃えかすとなった状態で発見された。たましいなどというものは存在しない。 なのにヴォルデモート卿が生きている? どうやって? ダンブルドアはなにを根拠にそう考えている?

 

もしも〈闇の王〉が存在しなければ、ハリーは〈闇の王〉を永遠に倒すことができず、永遠にホグウォーツに閉じこめられる。

 

……とはいえ、七年生になれば合法的にここを脱け出す手段があるかもしれない。いまから六年と四カ月と三週間。 そう長い時間ではない。陽子の崩壊を待つように長く感じるのは、気持ちの問題にすぎない。

 

ところが問題はそれだけではない。

 

問題はハリーの行動の自由だけではない。

 

ホグウォーツ総長であり、ウィゼンガモート主席魔法官であり、国際魔法族連盟最上級裁判長である人物が、危機を察知し、準備態勢を指示した。

 

それは()()()だった。

 

しかもその誤検出をうみだした原因は、ハリー自身だった。

 

向上心を担当する部分のハリーが言う。ちょっと考えてみてほしい。世のなかにはいろいろな職業があって、教師の才能がある人には大工の才能がなかったりする。でもあらゆる職業に共通して、愚かにならないための方法がいくつかある。小さな失敗が大きな失敗に変わってしまうまえに対処する、というのはその一つだろう?

 

……いや、今回はもうとっくに大きな失敗になってると思うけど……

 

自分を監視する部分が言う。とにかくだ。事態は刻一刻と悪化している。 スパイが標的をおとしいれるときの手ぐちみたいなものだ。スパイはまず、標的の人物にちょっとした罪を犯させる。それからその罪をばらすと脅迫して、もっと大きな罪を犯させる。それをネタに()()()()()()脅迫をして、どんどん大きな罪へと追いこんで、標的が完全に言いなりになるところまでもっていく。

 

そういう風な脅迫の犠牲者になりそうなときは、最初の一回目で罪をいさぎよく認めて、責めをうけてしまったほうがいい。自分ならそうする。そう決めていていたんじゃないか? 小さな罪をばらさずにおいてやる、だからもっと大きな犯罪をやれ、なんて話は変だろう? 今回の件もそれとどこか似ていないか、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス?

 

といっても、今回はもう、小さな罪ですむ段階ではない。誤検出をさせてしまっただけではない。有力者のなかには、ハリーが()()()()()()()()()()()()()()()()ことを知れば、激怒するであろう人たちがたくさんいる。〈闇の王〉が()()存在していてハリーの命を狙っているなら、そのことだけで敗戦が決定的になってしまった可能性すらある——

 

これ以上取りかえしがつかなくなるまえに止めることができれば、みんなきみの正直さと合理性と先見性に感心するかもしれないぞ。そう思わないか?

 

正直、そういう発想はいままでなかった。なのでハリーは一瞬だけ考えてみたが、これを言った部分の自分に『どこまで楽観的なんだ』と言ってやりたくなった。

 

さまよい歩いているうちに、ハリーはひらいた窓の近くに来ていた。そこに歩みより、両腕を(さん)に乗せ、学校の敷地を高みから見おろす。

 

枯れ木の茶色、枯れ草の黄色、凍った小川の氷の色……。学校上層部のだれが〈禁断の森〉なんていう名前をつけたのか。あんな名前では余計に興味をかきたてるだけだ。 太陽は低くなりかけている。ハリーはこの数時間、堂々巡りといっていいほど同じようなことを考えつづけていた。とはいえ、ひと巡りするたびにはっきりと、なにかが変わっていた。つまり軌跡は円ではなく螺旋だったが、上昇か下降かは分からなかった。

 

いまだに信じられない。アズカバンであれだけのことが起き、あれだけの経験をして—— 〈守護霊〉で生命力を使いはたしそうになり、ぎりぎりで止め——〈闇ばらい〉を気絶させ——ベラをディメンターから隠す方法を発見し——ディメンター十二体をおどして退却させ——ロケット噴射式のホウキを発明して乗って帰り——それだけのことをしながら、一度たりとも『がんばるしかない……ハーマイオニーとの約束……ちゃんと昼食から帰るって約束したんだから!』と言って自分を奮起させようとしなかったことが信じられない。 二度と来ないせっかくの機会をふいにしてしまった、という感じがする。 あんな機会をのがしてしまっては、また今度どんな危機が来ようとも、どんな風に約束しようとも、うまくやれる気がしない。 ()()()()失敗したことの埋め合わせをしたくて、わざとらしく作ってやってしまうだろうから。それにくらべて、今回ハーマイオニーとの約束を思いだしてさえいれば、しっかりと英雄らしい見せ場ができていたはずだ。 選んでしまった道がまちがっていて、あともどりもできないときのように、機会は一度しかなく、一度目の挑戦で成功するしかない……

 

アズカバンに()()()()()ハーマイオニーとのあの約束を思いだすべきだった。

 

だいたい、なぜ行くことにしてしまったのか。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とハッフルパフが言った。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とハリーが返事した。

 

じゃあ、もうちょっと描写を詳しくしようか。ホグウォーツの〈防衛術教授〉が『ベラトリクスをアズカバンから脱出させよう!』と言ったとき、きみは『いいですね、賛成!』みたいな反応をした。

 

ちょっと待てよ、そんな言いかたはないだろ——

 

ほら、こうやって高いところに来ると、木の一本一本がぼやけた感じになって、森のかたちが見えてくるだろう?

 

実際、なぜあんなことをしてしまったのか……?

 

費用対効果を計算してやったのではないことだけはたしかだ。 とても恥ずかしくて、計算用紙をとりだして各方面の期待効用を書きつらねることなどできなかった。クィレル先生に見そこなわれてしまうのではないかということが怖かった。囚われの姫君を救出するという話を断ったり、すこし躊躇を見せるだけでも、見そこなわれてしまういそうで怖かった。

 

こころの奥底のどこかで、ハリーはそう思っていた。謎めいた教師が自分にはじめてさずける任務……冒険への招待。それを断れば、謎めいた教師は憤慨して、いなくなってしまい、自分が英雄(ヒーロー)になる可能性もついえる……

 

……ああ、これだ。 あのときの自分はこう考えていたんだ。 うっかり人生には筋書きがあると思い、ひねりのある展開がはじまった、という風に考えてしまった。そして実態が『ベラトリクス・ブラックをアズカバンから脱獄させる』であることをうっかり忘れてしまっていた。あの一瞬の判断をしてしまった真の理由はこれだ。ハリーの脳はあのわずかな時間で感覚的に物語性を見いだし、『ノー』という答えはおさまりが悪いと感じた。 いま思えば、とても合理的な意思決定のやりかたではない。 それとくらべて、クィレル先生が言った裏の動機はずっとまともだった。ベラトリクスが死ねばスリザリンのうしなわれた秘術への最後の手がかりが完全になくなってしまう、だからそのまえになんとかしたい。……当初想定されたリスクに十分見あう程度の利益が見こめる計画だ。

 

不公平だ、とハリーは思う。自分が合理性を手ばなしたといっても、それは一秒にも満たない時間だけだったのに、 その一秒にも満たない時間で、脳はその後の議論を待つことなく、『ノー』よりも『イエス』のほうが耳ざわりのいい答えだと決めつけてしまったのだ。

 

木々の一本一本がぼやけた感じになって見えるくらいの高みから、ハリーは森を一望した。

 

もしいま自白すれば、自分の評判は取り返しのつかないほど悪くなり、たくさんの人の怒りを買い、いずれは〈闇の王〉に殺されることにつながりかねない。それは嫌だ。 そうなるくらいなら、六年間ホグウォーツに閉じこめられたほうがましだ。 すなおにそう思う。 そしてそう思えたことにハリーはほっとした。自分が自白すればクィレル先生はアズカバンに送られてそこで死ぬのだ、という要素に決定的な影響力を感じている自分を否定しなくてもいいと分かって、ほっとした。

 

(ハリーは一度息をすって止め、ぎこちなくはきだした。)

 

そういう表現のしかたをすると……自分は英雄を気どれるどころか、臆病者でしかないように思える。

 

ハリーは〈禁断の森〉を見るのをやめて、よく晴れた禁断の青空を見あげた。

 

ガラスの板のむこうには、あかるく燃える大きなものと、ふわふわしたものが見える。そしてその背景に、果てしなくつづく不思議な青色の場所……謎と未知の世界が見える。

 

アズカバンのことを思うと……気が楽になった。囚人の苦しみにくらべれば自分の問題はたかが知れている。 ()()苦しんでいる人たちはこの世界にいる。ハリーはその一人ではない。

 

自分はアズカバンをどうしたいのか。

 

ブリテン魔法界をどうしたいのか。

 

……自分はいま、どの陣営にいるのか。

 

あかるい日の光のもとでは、アルバス・ダンブルドアのことばはクィレル先生のことばよりも()()賢明であるように見える。 善良で倫理的で()()()()()あのことばが真実でもあるなら、どんなにいいことか。 そう、ダンブルドアは耳ざわりのいいことを耳ざわりがいいというだけで信じるタイプであり、()()なのはクィレル先生のほうであることを忘れてはならない。

 

(ハリーはまたはっと息をのむ。クィレル先生のことを考えるたびにこうなる。)

 

かといって、耳ざわりのいいことならば間違いだ、と決めつけるのもおかしい。

 

そしてクィレル先生は正気ではあるが、欠点もある。クィレル先生は人生を()()()()()()()()()

 

信じられないな——と、人間がいかに自分を過信し楽観的すぎるかを示した一八〇〇万本の実験結果を読んだハリーが言う。 クィレル先生は悲観的すぎるっていうのか? 毎回のように現実の下をいって外れをだすくらい悲観的すぎるっていうのか? そりゃ珍品だ。剥製にして博物館にいれておかないと。 きみたち二人のうち、完全犯罪を立案したばかりか、完全犯罪が失敗したときに供えて誤差マージンと予備の作戦もあれだけ用意して、結果的にきみの命を救ったのはどっちだと思ってるんだ。 ヒント:その人の名前はハリー・ポッターじゃない。

 

でもクィレル先生の欠点を『悲観的』と表現するのはなにかちがう——それがゆたかな経験に根ざした賢明さなどではなく、欠点であると仮定してのことだが。 とにかく、あの人はいつもものごとを最悪の面から見ようとしているように感じられる。 クィレル先生なら、九割が水で満たされたグラスをひとつ手わたされたとき、一割が空だということはだれ一人()()()水をいれようとなどしない証拠だ、と言うだろう。

 

これは実際、とてもいいアナロジーだと思う。 ブリテン魔法界のすべてがアズカバンなわけではない。グラスは半分以上満ちている……

 

ハリーは晴れわたる青空を見あげた。

 

……ただ、そのアナロジーをもっとすすめるなら、アズカバンが存在する以上、善良さが九割であることにもなにか別の原因があると思うべきなのかもしれない。クィレル先生の言いかたを借りれば、『親切さを見せつける』ためだ、とか。 真に親切な人間はアズカバンを建設しない。そんなものが存在すれば、すぐに全力で取り壊そうとする……そうじゃないのか?

 

ハリーは晴れわたる青空を見あげた。 合理主義者になるためには、人間が生まれつきもっている欠陥についての論文を大量に読まなければならない。そのなかには罪のない論理的な誤謬をおかす欠陥についての論文もあるが、もっと陰鬱にさせられる論文もある。

 

ハリーは晴れわたる青空を見あげ、ミルグラム実験のことを考えた。

 

その実験でスタンレー・ミルグラムは第二次世界大戦の原因をつきとめようとした。つまり、ドイツ市民がなぜヒトラーに服従したのかを理解しようとした。

 

ミルグラムは『服従』の心理を研究するための実験を設計した。なんらかの理由で、権威者から暴力の行使を命じられたときドイツ人はほかの民族よりも服従しやすいのではないか、という仮説を検証するつもりだった。

 

統制群をかねた予備実験として、ミルグラムはまずアメリカ人を対象に実験した。

 

それが終わった時点で、ドイツで実験する意味はないと悟った。

 

実験装置はこうだ。 スイッチが三十個、横にならべてあり、それぞれ左から順に『十五ボルト』から『四百五十ボルト』までのラベルが貼ってある。四つのスイッチの組ごとにまたもう一種類のラベルがある。最初の四つは『軽いショック』、六組目は『強烈なショック』、七組目は『危険——生命の保証なし』、残る最後の二つのスイッチには『XXX』の警告(ハザード)ラベルだけがついていた。

 

実験主催者に協力する俳優が一人、用意されている。俳優はほんものの被験者とおなじように、学習についての実験のための参加者募集を見てその場に来た風をよそおっている。そして(そのように仕組まれた)くじびきに負けて、電極つきの椅子に縛られている。 ほんものの被験者には実験開始までに軽い電気ショックを体験させ、その電極が実際に動くことをたしかめさせておく。

 

ほんものの被験者にむけては、これは罰が学習と記憶におよぼす効果についての実験である、 具体的には、どういう種類の人から罰を処置されるかによって学習の効率がどう変わるか調べることが目的だ、と説明してある。 椅子に縛られた『学習者』は単語のペアを記憶することになっており、問題に正答できなければ『教育者』が電気ショックを処置し、間違いがくりかえされるたびに電気の強度をあげていくという手順である。

 

三百ボルトの段階で俳優は答えを言うことをやめ、壁にむけて足を振りまわすようになる。そこで主催者は被験者らに、無回答も誤答と見なすように命じる。

 

三百十五ボルトの段階でも、俳優はただ壁を蹴る。

 

そのあとは、いっさい反応がなくなる。

 

被験者が反論したり、スイッチを押そうとしなかったりした場合、灰色の実験衣をまとう主催者は感情を見せないまま、『つづけてください』と言う。それでも拒否すれば、『実験手順を守ってください。そのままつづけてください』、『なにがあってもやめないでください』、『あなたにやめる選択肢はありません。かならずつづけてください』と段階をあげていく。 四段階目のせりふでも被験者がしたがわなければ、実験は中止される。

 

ミルグラムは事前に、実験の設定を説明したうえで、経験豊富な心理学者十四人から意見を集めておいた。被験者のうち何人が、四百五十ボルトの段階まで脱落せず残り、ぴくりとも反応しなくなった犠牲者に対し『XXX』のスイッチを押すまでに至るか。その割合を予想させたのである。

 

もっとも悲観的な答えは『三パーセント』だった。

 

実際の数字は、四十名中二十六名だった。

 

どの被験者も冷や汗をかき、苦悶し、声をつかえさせ、引きつった笑いをし、くちびるを噛み、手のひらに爪をのめりこませた。 それでも主催者がうながすと、大半の人はスイッチを押した。それが相手に苦痛と危害をもたらし、生命にかかわるほどの電気ショックを生じさせるスイッチであることを理解したうえで、最終段階まで押すことをやめなかった。

 

クィレル先生の笑いが聞こえるようだ。クィレル先生ならだいたいこういうことを言うだろう。 『いや、わたしでさえそこまで冷笑的にはなれなかった。 人間が金や権力のために自分の信条を捨てることは知っていたが、ちょっとにらみつけるだけで十分だったとは。』

 

専門的な訓練をうけていない人が進化心理学的な想像をするのは危険ではあるが、 ミルグラム実験のことを知ったとき、そこにも進化的な意味があるのではないかとハリーは思った。きっとおなじような状況が人類の祖先の環境で何度も発生して、〈権威〉にさからおうとするような祖先は多分、みんな死んでしまったのではないか。 そこまで極端ではなかったとしても、反逆派は従順派ほど繁栄しなくなったのだろう。 人間は自分のことを善良で倫理的だと考えるが、ひとたび圧力がかかれば、脳内のどこかのスイッチがはいる。果敢に〈権威〉に歯向かおうにも、自分が思っていたほど簡単ではなくなる。 たとえ一歩目を踏みだせたとして、その先も楽ではない。 英雄のように軽がると反旗をひるがえそうにも、 足は震え、声は詰まり、あたまは恐怖でいっぱいになる。 そんな状態で〈権威〉に対抗できるだろうか?

 

ハリーはそこで、目をしばたたかせた。ハリーの脳のなかで、ミルグラム実験で起きたことと、ハーマイオニーが〈防衛術〉の初回授業でやったこととがつながった。同級生を攻撃しろと〈権威〉に命令されたとき、ハーマイオニーは拒否した。不安と震えを見せながらも、拒否していた。 それを目のあたりにしながら、ハリーはいままでずっとミルグラム実験とむすびつける発想ができていなかった……。

 

ハリーは眼下の赤くなりはじめた地平線をじっと見た。夕日は落ちかけている。空の光は弱まっている。どの方角もまだ青く見えてはいるが、夜は近い。 赤色と黄金色の太陽はフォークスを思わせた。そして一瞬、不死鳥として生きるのは悲しいことだろうか、と思った。答える者がいないのに何度となく呼びかけるのは、悲しいことだろうか。

 

でもフォークスはあきらめない。何度死のうとも、かならず生まれかわる。不死鳥は光と火の生物だ。アズカバンが暗黒の一部なら、アズカバンについて絶望することも暗黒の一部なのだろう。

 

手わたされたグラスに水が半分のこっていて、半分なくなっている。そのこと自体はうごかしようのない現実であり、真実である。 それでも、自分なりの()()をもつことはできる。ない部分について絶望するか、ある部分について歓喜するかは、自分の選択だ。

 

ミルグラムは実験の変形版もいくつか試した。

 

十八番目の実験では、被験者の仕事は椅子に縛られた犠牲者に問題を出し回答を記録することだけとし、スイッチを押す仕事は別の係にゆだねられた。 犠牲者の苦痛の演技は元の実験とまったく変わらず、おなじように壁を必死に打ちつけ、無反応になる。ただ、被験者からすると、スイッチを押すのは()()()()()()という差がある。 ()()()仕事は観察者として、拷問の犠牲者に問題を読みあげるだけ。

 

その実験では、被験者四十人中、三十七人が最後の四百五十ボルトの『XXX』まで実験をおりなかった。

 

クィレル先生なら、その事実を冷笑的に受けとるかもしれない。

 

しかしその四十人のうちの三人は、実験の継続を()()()()のである。

 

ハーマイオニーとおなじように。

 

世界には、防衛術教授に命じられても、同級生に〈簡易打撃呪文〉を撃とうとしない人たちがいる。 ホロコーストの時代にも、ときには自分の生命を犠牲にしてまで、自宅の屋根裏にジプシーやユダヤ人や同性愛者をかくまった人たちがいる。

 

そういう人たちの祖先は人類とは別の種族なのか? 脳のなかになにか、常人にはない特別な神経回路の仕掛けがあるのか? でもそんなことは考えにくい。有性生殖の理論によれば、複雑な機械をうみだす遺伝子はいずれ、修復不可能なまでに混ぜあわされて消えるか、普遍化するかのどちらかだ。

 

つまりハーマイオニーを構成するなんらかの部品もやはり全体にいきわたっているはずで、人類一人一人がその部品をもっていることになる……

 

……そう考えるのは気分がいいが、()()()()()()まちがっている。まず脳損傷というものがあって、遺伝子を()()してその部分の複雑な機械が壊れることで、ソシオパスやサイコパスが生まれる。彼らには他人の気持ちを理解するための部品が欠けている。 ヴォルデモート卿も生まれつきそうだったのだろうか。それとも、善悪を理解しながら悪を選んだのだろうか。と言っても、いま重要なのはそこではない。 重要なのは、人類の()()()にハーマイオニーやホロコースト抵抗者のしたことを学ぶ能力があるということだ。

 

ミルグラム実験をおりなかった人たち……震えて冷や汗をかき、引きつった笑いをしながらも拒否はせず最終段階まですすみ『XXX』のスイッチを押した人たちのなかにも、実験終了後にミルグラムに礼状を送った人が何人もいた。そして自分自身について深く知ることができたことを感謝した。それもこの伝説的な実験の伝説の一部だ。

 

太陽はすっかり地平線の下に沈みつつあり、黄金色の頂点だけがはるかかなたの森の上に見えている。

 

その頂点にハリーは目をむけた。紫外線をカットするはずの眼鏡なので、直接見ても目に害になる心配はない。

 

その一点から、途中でさえぎられずそのまま飛んでくる、〈光〉そのものを直接見る。仮に四十人のなかの三十七人がそうでなかったとしても、三人がいる。 グラスが七.五パーセント満たされているということは、水を気にかけることが人間の本質である証拠だ。たとえそういう思いやりの能力を内面に秘めたままくじけてしまう人がほとんどだとしても。 もしだれにも真の思いやりがなかったとしたら、グラスは完全に(から)になっている。 だれもが内面では〈例の男〉とおなじように、実は利己的で狡猾な性格だったとしたら、ホロコーストに抵抗した人たちがいたはずがない。

 

日の入りを見つめ、自分ののこりの人生が一日なくなったことを考えた。そして自分が陣営を乗りかえたことに気づいた。

 

もう真剣に信じることができなくなった。アズカバンに行ってしまったあとでは、おなじように思えない。四十人のなかの三十七人が投じる票にしたがって行動することはできない。 だれもが自分のなかにハーマイオニーになる能力をもっていたとしても、いつかはその能力を発揮してくれるとしても、その『いつか』は『いま』ではない。現実世界の今日ではない。 四十人のなかの三人であるということは、政治的に少数派であることを意味する。クィレル先生が言いあてたとおり、そうなったとき自分はおとなしくしたがうことはできない。

 

人はアズカバンに行くとなにか重要な問題について考えかたを変える、というのは、悪い意味でもっともな法則なのかもしれない。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とスリザリンが言う。善か悪かはおいておくとして、あれがただしかった、ということか? 彼らがそのつもりでいるかどうかは別として、きみは彼らの次期の〈王〉になるのか? 〈闇の〉という形容はクィレル先生の冷笑の産物だから、それもおいておく。 ともかく、きみは支配者になる意思があるのか? もしそうなら、()()()()()心配だよ。

 

つぎにグリフィンドールが言う。自分は権力を託されていい人間だと思うのか? 権力をもとめる人に権力をあたえるべきではない、っていうルールがあったりしなかったか? それより、ハーマイオニーを支配者にしたほうがいいかもしれないぞ。

 

つぎにハッフルパフが言う。自分は社会を運営するのにむいていると思うのか? 最初の三週間で社会を混沌のどん底に突き落とさない自信はあるのか? きみが首相に選ばれたと聞かされたら、ママはどんなにひどい悲鳴をあげると思う? いやその反応はおかしい、と自信をもって言えるか?

 

つぎにレイヴンクローが言う。ぼくとしては、そういう政治的な話にはぜんぜん興味がないね。 選挙戦術はまるごとドラコにまかせて、ぼくらは科学に専念しようよ? 科学はぼくらが得意な分野だし、人類の生活水準を向上させることがよく知られてもいる。

 

()()()()()()()()、とハリーは自分の各部にむけて言う。 いますぐぜんぶ決める必要はない。 この問題についてはいくらでも時間をかけて思索して、それから結論をだせばいい。

 

最後までのこっていた太陽の頂点が地平線に沈んだ。

 

奇妙な感覚だった。これだけ重大なことについて、自分がどういう信念なのかよく分からず、()()()()()()()()()()()()()()()()。それはいままで感じたことのない自由でもあった……

 

そこでハリーはクィレル先生が最後の質問になんとこたえたかを思いだし、それでクィレル先生のことを思いだし、また息がつまった。のどが燃えるように熱く感じ、また上昇する螺旋のループに思考が囚われた。

 

クィレル先生のことを考えるとなぜ悲しくなるのだろうか。自分のことはよく分かっているつもりだったが、なぜこれほど悲しくなるのかが分からない……

 

まるでクィレル先生を永遠にうしなう経験をしたような気がする。ちょうど、アズカバンでクィレル先生がディメンターに食べられ、虚無に吸いとられてなくなってしまったというくらいに、はっきりとした喪失の感覚がある。

 

喪失ねえ。どうやって喪失したんだったっけ? クィレル先生がアヴァダ・ケダヴラをとなえたことで、そう思った。でも実はちゃんとした理由があったのに、きみが数時間かけても気づけなかっただけだった。 だったら、もうもとの関係に戻ればいいんじゃないか?

 

いや、切っかけはあのアヴァダ・ケダヴラではなかった。 ハリーはある種のことを考えないように、慎重に、幾重にも合理化をかさねていた。それが決定的に崩壊していく過程で、あのアヴァダ・ケダヴラは一因にすぎなかった。 それ以上に、自分が目撃したある事実が決め手となった。

 

目撃した事実……?

 

ハリーは空が暗くなるのを見ていった。

 

〈闇ばらい〉と対決するとき、クィレル先生が冷酷無比な犯罪者に豹変したこと。やすやすとしかし徹底的に人格が交代したように見えたこと。

 

別の女性のまえでは『ジェレミー・ジャフィ』としてふるまったこと。

 

『あなたはいくつ仮面があるんですか?』

 

『数えているほど暇ではないのでね。』

 

自然と考えつくのは……

 

……『クィレル先生』もなんらかの目的で作られた、あの人の多数の仮面のひとつにすぎないのではないか、ということ。

 

これからハリーはクィレル先生と話すたびに、それが仮面なのではないか、どんな動機でつくられた仮面なのか、と考えずにはいられない。 クィレル先生が乾いた笑みを見せるたびに、その表情をつくる真の目的をさぐろうとしてしまう。

 

ぼくもスリザリン的になりすぎれば、おなじようにあつかわれるのだろうか? いつも謀略ばかりやっていると、ぼくが笑いかけるとき、ほかの人はその意味をさぐろうとするようになるのだろうか?

 

うまくやれば、表面的なしぐさや表情への信頼を回復し、また人間らしい関係をとりもどせるのかもしれないが、具体的にどうやればいいのかは分からない。

 

ハリーはその意味でクィレル先生をうしなった。クィレル先生そのものというより、クィレル先生との……つながりを……。

 

それがなぜこんなにつらいのか。

 

なぜこんなに孤独に感じるのか。

 

だれかを信頼し親しくしたいだけなら、ほかの人とそうすればいい。むしろ、ほかの人のほうがいいかもしれない。 マクゴナガル先生、フリトウィック先生、ハーマイオニー、ドラコがいる。それ以前にママとパパがいる。ハリーはどう見ても()()ではない……。

 

ただ……

 

いっそう息がつまる思いがして、ハリーは理解した。

 

ただ、マクゴナガル先生、フリトウィック先生、ハーマイオニー、ドラコは、ハリーが知らないことをときどき知っていたりするが……

 

彼らはハリー自身の得意分野で卓越していない。彼らの才能とハリーの才能はほとんど共通点がない。同輩として尊重するのはかまわないが、()()()()として尊敬できる相手ではない。

 

いままでも、これからも……

 

師と呼べる相手ではない。

 

ハリーにとってその役割をはたしたのがクィレル先生だった。

 

ハリーはその存在をうしなった。

 

はじめての師としてのクィレル先生をうしなった、その経緯が経緯だったので、いずれまた関係をとりもどせるかどうか、さだかではない。 クィレル先生がハリーに言っていない目的をすべて知ることができれば、いつか、疑いは晴れるのかもしれない。 ただ、仮にそれが可能だとしても、あまり高い可能性ではなさそうだ。

 

一陣の風がホグウォーツの外苑を通りぬけ、木々をかたむかせ、中央は凍ったままの湖面を揺らした。それがこの窓までとどき、ささやくような音をたてた。ハリーはそのさきの薄闇の世界に目をやり、しばらく外界のことを考えた。

 

そしてまた内界にもどり、螺旋を一段のぼった。

 

『ぼくはなぜ、同じ年齢の子どものように、子どもらしくないんでしょうか』

 

クィレル先生の答えは言い逃れだったかもしれないが、そうだとすれば、よく計算された言い逃れだった。十分深みがあり、複雑で、隠れた意味がいろいろありそうな、よくできた罠だった。かなりのレイヴンクロー生でも引っかかりそうな罠だったといえる。 けれど、正直な返事だった可能性もある。 真の目的をうたがい、さぐろうとすると、こうやってどんな解釈でもできてしまう。

 

『ただ、ひとつ言っておくとすれば——ミスター・ポッター、きみはすでに〈閉心術〉を使える。遠からずその術を完全にものにすることだろう。 きみやわたしのような人物にとって、自分が何者であるかという問いはふつうと異なる意味をもつ。 人は自分の想像力がおよぶかぎりで何者にもなれる。きみについて特別なのは、その想像力が常人をはるかに越えていることだ。 登場人物をえがくとき、劇作家は自分のなかにそのすべてをもつ。自分のなかに登場人物をすべて包みこめる容積があってはじめて、劇作家は登場人物を動かすことができる。 俳優やスパイや政治家もおなじ……容積の限界が自分にできる演技の幅を規定し、仮面の限界を規定する。 だがきみやわたしのような人物は、自分の想像力がおよぶかぎりで、()()()()()()()()()()()何者にもなれる。 自分が子どもだと思うかぎり、きみは子どもになる。 だがきみはのぞめばそれ以上の存在を自分のなかにもつこともできる。 おなじ年齢のほかの子どもたちの容積の狭さとくらべて、きみはとても自由な、大きな容積をもっている。 子どもの劇作家ではありえないほどの精度で大人の人格を想像し()()()()ことができる。なぜそうなのか。わたしには分からない。そしてわたしは推測にすぎないことを言うべきではない。 ただ、ひとつだけ言おう。きみは自由なのだ。』

 

長ながとしたあのせりふは、なにかをごまかそうとしたにすぎないのだろうか。だとすれば、よくできている。実際、ハリーはその話がとても気になっている。

 

そして、あのせりふにどんな効果があるかをクィレル先生が()()()()()()()、ということがさらに気がかりだった。あのせりふを聞いてハリーはひどく動揺し、まちがっていると感じ、クィレル先生を信頼する気が薄れた。

 

いくつ仮面があろうが、これが()()自分だといえる人格はいつも一つ、あるべきだ……

 

(ハリーの目のまえの風景に夜がおとずれ、闇が濃くなった。)

 

……そうじゃないのか?

 

◆ ◆ ◆

 

就寝の時間が近づいたそのとき、ハーマイオニーは『ボーバトンとその歴史』という本を読んでいた。とぎれとぎれの息づかいが聞こえたので見あげると、そこに彼が——土曜日の昼食を欠席し、夕食も欠席したことで、いろいろなうわさの的となっていた彼が——いた。(ハーマイオニーとしては()()()()()()()()()()()という判断をくだしつつも、内心すこし不安をおぼえたのが『彼はベラトリクス・ブラックを追跡するためにすでに退学した』といううわさだった。)

 

()()()()」と甲高い声が出た。これが一週間ぶりの直接の会話であることにも、あまりの大声でレイヴンクロー談話室にいるほかの生徒の注目をあつめてしまったことにも、気づかないまま。

 

ハリーはすでにこちらを見ていて、こちらにむかって歩いてきていた。なのでハーマイオニーは椅子を立つのをやめて——

 

数秒後、ハリーはむかいの席につき、二人のまわりに〈音消し〉の障壁をつくってから、杖をおいた。

 

(まわりでは、かなりの数のレイヴンクロー生がこちらを見ないふりをしていた。)

 

「あの……」  ハリーの声は震えていた。 「また話せてよかった。もう……絶交はいいんだよね?」

 

ハーマイオニーはうなづいた。なにも言えず、ただうなづくことしかできなかった。 ハリーとまた話すことができるのはうれしいが、よく考えると罪悪感もあった。 彼女にはほかの友だちもいるけれど、ハリーには……。ハリーは彼女以外のだれともこういう風には話さない。だから彼女には話し相手になる以外の選択肢がない。どこか不公平だと思うこともあるが、 ハリー自身の境遇もいろいろと不公平ではあるからしかたない。

 

「なにがどうなってるの? つぎからつぎにいろんなうわさが出てきて…… あなたはベラトリクス・ブラックと対決するためにいなくなったんだとか、ベラトリクス・ブラックと()()()()ためにいなくなったんだとか——」  あとは、不死鳥がどうこういう話はハーマイオニーがでっちあげたんだ、といううわさもあって、それについてはレイヴンクロー談話室にいた全員が目撃しているという点をしっかりと反論したのだが、なんと今度はその目撃者のこともハーマイオニーのでっちあげだといううわさが出てきて、ハーマイオニーはそのバカバカしさについていけなくなり、ただあきれかえるばかりだった。

 

「それは言えない。」  ハリーはささやくような声になった。 「……いろいろ言えない事情がある。話してしまえたら楽なんだけど。」 「でも言えない……。ああ、そういえば、ぼくがクィレル先生といっしょに出かけることはもうなくなった……これはいいニュースなのかな……」

 

ハリーは両手を顔にあて、それから目をおおった。

 

ハーマイオニーは胸さわぎがした。

 

「泣いているの?」

 

「うん……」  ハリーの声はすこしかすれていた。 「ほかの人には見られたくない。」

 

二人とも無言になった。 ハーマイオニーは助けになりたいと思ったが、男の子が泣いているときになにをしてあげればいいのか分からない。なにが起きているのかも分からない。 自分のまわりで——いや、ハリーのまわりで——重大なできごとが起きているような気がする。その正体が何なのか分かれば、怖くなったりあわてたりしそうなくらいのできごとではないかと思う。けれどハーマイオニーはまだ、なにも知らない。

 

ハーマイオニーはようやく口をひらいた。 「クィレル先生がなにかしてはいけないことをしたの?」

 

「ぼくがクィレル先生と出かけられなくなった理由は別にある。」  ささやくような声で、両手を目にあてたままハリーは言う。 「総長がそう決めたんだ。でもたしかに、クィレル先生が信頼をくずすようなことをぼくに言ったといっても、まちがいじゃない……」  声が不安定になった。 「自分が一人になってしまったような気がする。」

 

ハーマイオニーは自分のほおに手をあて、昨日フォークスに触れられた部分を触った。 昨日から、触れられたことの意味をずっと考えていた。いや、それが重要な、意味のあることであると思いたかっただけかもしれない……

 

「なにかわたしにできることはある?」

 

「ふつうのことをしたい。」  ハリーは手をあてたまま、顔を見せない。 「ふつうのホグウォーツ一年生がやりそうなこと。十一歳や十二歳の子どもらしいこと。 たとえば〈爆発スナップ〉で遊ぶとか……。たまたまここにそのセットがあったりとか、きみがルールを知ってたりとかしないよね?」

 

「うーん……ルールは知らない……とにかく()()()()らしいけど。」

 

「じゃあゴブストーンも?」

 

「それも知らない。駒が飛びかかってくるらしいけど。そういうのは()()()が知ってるゲームでしょ!」

 

話がとぎれ、 ハリーは顔を手でぬぐってから、手をおろした。そしてすこし困ったような顔を見せた。 「じゃあ、ぼくらとおなじ年齢の魔法使いや魔女なら、どういうことをしてると思う? なんの役にも立たない遊びを()()()()()にはなにをする?」

 

ハーマイオニーは答える。 「石蹴り遊び(ホップスコッチ)とか? ……縄跳びとか? ユニコーンアタックとか? わたしに聞かないでよ。わたしはいつも読書なんだから!」

 

ハリーが笑いはじめ、ハーマイオニーもつられて笑いはじめた。なにがおかしいのか分からないが、なぜかおかしかった。

 

「ちょっと楽になったよ。 ゴブストーンを一時間やるよりずっと効果があったんじゃないかな。いつもどおりの態度でいてくれてありがとう。 やっぱり、ぼくが代数について学んだことをぜんぶオブリヴィエイトさせたりするのはやめておくよ。死んでもごめんだ。」

 

「えっ……? そんな——そんなこと、考えるまでもないんじゃない?」

 

ハリーは席をたった。それで〈音消しの魔法〉がやぶれたので、急に背景音がもどってきた。 「ちょっと眠くなったから、今日はもう寝ることにする。」  今度はもう、ふつうにふざけるときの言いかたをしている。 「悪いけど、すこしでも時間をとりもどしたいから。でも明日の朝食と〈薬草学〉にはちゃんと出るようにする。きみにばかりこういう暗い話聞かせるのも悪いしね。 おやすみ、ハーマイオニー。」

 

「おやすみ、ハリー。」  ハーマイオニーはまだなにも分からないが、心配でたまらなかった。 「……よい夢を。」

 

ハリーは返事を待たず歩きだしていた。すこし足をふらつかせて、そのまま一年生男子の寝室へとつづく階段をのぼっていった。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは自分が悲鳴をあげてもほかの人を起こすことのないよう、ベッドの〈音消しの魔法〉を最大出力にした。

 

朝食の時間に目ざましをセットした(もっと早く目がさめるかもしれないし、そもそも眠れないかもしれないが)。

 

ベッドにはいり、身を横たえ——

 

——枕の下になにかある感触があった。

 

ハリーはベッドの上の天蓋を見つめた。

 

そして独りごちた。「もう、冗談じゃないよ……」

 

数秒かけてやっとハリーは覚悟をきめ、身を起こした。毛布で自分と枕をおおい、ほかの男子たちから見えないようにした上で、弱めのルーモスをかけ、枕の下にあるものを確認した。

 

羊皮紙が一枚、そしてトランプのカード一そろいがあった。

 

羊皮紙の文面は……

 

小鳥のたよりで、ダンブルドアがきみを籠に閉じこめたという話を聞いた。

 

今回ばかりはダンブルドアにも一理ある。 ベラトリクス・ブラックが娑婆にもどり、あたりをうろついているというのは、善良な市民にとって憂慮すべき事態だ。 わたしがダンブルドアの立ち場でもおなじ措置をとるかもしれない。

 

だが念のため……アメリカにはセイラム魔女学院がある。魔女学院とはいうが、男子も受けいれている。 あれはいい学校だ。きみを守る能力もある。ダンブルドアの手をのがれたいと思ったなら、選択肢にするといい。 アメリカ魔法界へ移住するにはダンブルドアの許可が必要だというのがブリテン魔法界政府の見解だが、アメリカがわは意見を異にしている。 最後の手段としてこのトランプを同封しておく。打つ手がなくなったら、ホグウォーツの結界の外にいって、ハートのキングを真ん中から引きさけ。

 

これはあらゆる手をつくしても打開できないときのための、最後の手段だということは言うまでもない。

 

では健闘を、ハリー・ポッター。

 

——サンタクロースより

 

ハリーは眼下にあるトランプのセットをじっと見た。

 

なんであれ、いますぐ自分がどこかに連れていかれる心配はない。ポートキーはここでは機能しない。

 

それでも、これをひろって、トランクにしまうことにすら、ためらいを感じる……。

 

まあ、もう羊皮紙はひろってしまったのだから、もしこれが罠だったとすれば、すでに手遅れと思うべきだろう。

 

それでも。

 

「ウィンガーディウム・レヴィオーサ」と小声でトランプに〈浮遊〉の呪文をかけ、ヘッドボードの下の目ざまし時計のとなりまで飛ばしておいて、あとは明日に持ち越すことにした。

 

そしてベッドに身をあずけ、目をとじた。不死鳥の守りがない今夜、ハリーは夢の清算をすることになる。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは恐怖で息をのみ、目をさました。悲鳴をあげることはせずにいられたようだったが、眠りながらのたうちまわったらしく、毛布はひどくねじれていた。夢は逃走の夢だった。背後から迫る空間と空間のすきまに追いたてられ、薄暗いガス灯に照らされた通路を逃げまどう。薄暗いガス灯に照らされた金属製の通路をどこまでも走りながら、夢のなかの自分は、迫りくる虚無が残酷な死をもたらすことを知らない。生きた肉体をおいたまま自分が殺されることになるのことを知らない。知っているのは、迫りくる世界の傷ぐちから、ただひたすら逃げて逃げて逃げつづけなければならないということだけ——

 

ハリーはまた泣きだした。狩られることが怖くて泣くのではなく、自分が助けをもとめる声を置き去りにしてしまったことを知っているから泣いた。女の声は助けをもとめている。助けてくれなければ自分はもうすぐ食べられて死ぬ。そう叫ぶ声に取りあうことなく、ハリーは夢のなかで逃げた。

 

行かないで!」と金属扉のむこうの声が悲鳴をあげる。 「やめて……いや……行かないで……ここにいて……行かないで——」

 

フォークスはなぜあのときハリーの肩にとまったのだろうか。 ハリーは逃げたのだから。 フォークスに嫌われて当然だ。

 

ダンブルドアも嫌われて当然だ。 ダンブルドアも逃げたのだから。

 

人間はフォークスに嫌われて当然だ——

 

少年は目覚めていないが夢のなかでもない。少年の思考は睡眠と覚醒のあいだの世界におかれ、ぐちゃぐちゃになっている。覚醒時の自分がかけているガードレールはなくなり、規則や検閲が機能していない。 はざまの世界にあって脳は思考できる程度にまで覚醒しているのに、もうひとつのなにかが覚醒しきっていない。覚醒した自我は、自分が自分の理想に反するある種の思考をしようとするのを遮断する。その自己概念がないために、いまハリーの思考はたががはずれた状態にある。 自我が眠ったすきに、自由になった脳が夢を見ている。制約をうけないまま、ハリーの新しい最悪の悪夢をいつまでも繰り返す。

 

「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」

 

「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」

 

「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」

 

自己嫌悪とともに怒りの感情が生まれ、ふくらんだ。あの女/彼自身にあんなことをした世界への業火のような怒り/凍りつく憎悪。半覚醒状態のハリーはそこから、倫理的二律背反を脱け出す方法を夢にえがく。そそりたつアズカバンの三角柱の上空にいる自分が、地上にかつて流れたことのない詠唱を口にし、その声が(そら)全体にひろがり世界の果てまでひびきわたり、銀色の〈守護霊〉の炎が落とされ、核爆発のようにして一瞬でディメンターとアズカバンの金属壁のすべてをばらばらにし、長い通路とオレンジ色のガス灯を粉ごなにする。でも、アズカバンのなかにはまだ人がいるのだった、と脳は思いだして、空想まじりの夢を書きなおす。今度は囚人たちが笑いながら飛びさるのと同時に、アズカバンが燃えおちる。銀色の光が囚人たちの手足を修復する。そしてハリーは、〈神〉でない自分にそんなちからはないのを知って、いっそうひどく泣きだす——

 

ハリーはあのとき、自分の命と魔法力と理性にかけて、自分が大切にしているあらゆるものと幸せのイメージにかけて、そう誓った。だからいま、なにか行動しなければならない。なにか行動を。行動をしなければ——

 

無意味なのかもしれない。

 

規則にしたがおうとするのが無意味なのかもしれない。

 

アズカバンをとにかく燃やしつくせばいいのかもしれない。

 

いや、そうすると誓ったのだから、約束をまもるにはそうするしかない。

 

アズカバンを終わらせるためにできることはなんでもする。それだけだ。 そのためにブリテンの支配者になる必要があるなら、それでいい。空全体に声をひびかせる呪文を見つける必要があるなら、それでもいい。肝心なのはアズカバンを破壊することだ。

 

これが自分のいるべき陣営で、 自分の信念だ。これで決まりだ。

 

覚醒時のハリーであれば、このように回答をえらぶまでに、もっと細部をいろいろと検討しなければならない、と言っただろう。だが、半分眠っているハリーは、十分明快な結論がでたように感じて安心した。そして疲れた精神をふたたび眠りにつかせ、つぎなる悪夢へとむかった。

 

◆ ◆ ◆

 

最後の余波:

 

彼女は恐怖で息をのみ、目がさめた。息がとまり、酸欠になってしまっているのに、肺が動かない。目ざめたとき、口は悲鳴のかたちをしていたが、声にならない。自分がなにを見たのか理解できず、声にならない。()()()()()()()()()()()()()()()()。それは両手にかかえるには大きすぎ、さだまったかたちすらなかった。ことばで表現することができず、だからまだ吐きだせないでいる。そして吐きだされなかったそれは、またおとなしく、中におさまった。

 

「いま何時?」と彼女は小声で言った。

 

黄金色の装飾時計も小声で返事した。この高価で壮麗な魔法式の目ざまし時計は、彼女がホグウォーツに採用されたときに総長から記念にもらったものだった。 「午前二時くらいです。まだ寝ているべき時間です。」

 

シーツは汗で濡れている。寝巻きも汗で濡れている。枕の脇にある杖を手にとり、身をきれいにしてから、また眠ろうとした。そう努力して、最後には眠ることができた。

 

シビル・トレロウニーはまた眠りについた。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 


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