ハーマイオニーはいま、親切でいられるような気がしない。〈善〉にもなれそうにない。からだのなかで怒りが沸々としていて、もしかしてハリーの
全滅。兵士二人に自分の軍が全滅させられた。 ……ということを、ハーマイオニーは起き抜けに知らされた。
ちょっとひどすぎないか。
「さて……」とクィレル先生が言う。 近くで見ると、以前この居室で見たときよりも、元気がないように見える。 以前より血色が悪く、動作もすこしだけもたついている。 厳格な表情と、突き刺すような視線は変わっていない。 指がすばやく二度、トトンと机をたたいた。 「こうしてきみたち三人に来てもらったわけだが、ミスター・マルフォイ以外の二人はまだ、今回の招集の理由を分かっていないのではないかと思う。」
「〈元老貴族〉のしきたりかなにかに関係しますか?」とハリーがとなりから言う。困惑しているようだ。 「ぼくがダフネを撃ったことで、なにか変てこな法律に違反してしまったとかじゃないですよね?」
「おしいが不正解。」と男はしっかりと皮肉をこめて言う。 「ミス・グリーングラスの決闘のはじめかたは正式な手順にそっていなかったから、きみが家名を剥奪されるようなことにはならない。 無論仮に正式な手順で決闘をはじめようとしたとしても、わたしが制止していたから同じだ。 ルールのある決闘など実戦ではなんの役にも立たない。」 〈防衛術〉教授は机に身をのりだし、両手を立ててあごをのせた。まるでまっすぐ座る姿勢にもう疲れたかのようだった。ぎらつく目が三人をじっと見ている。 「マルフォイ司令官。きみたちが招集された理由は?」
「われわれ二人ではポッター司令官に太刀打ちできなくなったからでしょうね。」とドラコ・マルフォイが小声で言った。
「え?」とハーマイオニーはつい割りこんだ。「あと一歩で勝てたのに。ダフネが気をうしなってさえいなければ——」
「ミス・グリーングラスが気絶した原因は、魔法力の消耗ではなかった。」とクィレル先生が乾いた声で言う。 「きみが壁にぶつかるのを見てきみの配下の兵士たちは動揺した。その隙に、ミスター・ポッターが背後から〈睡眠の呪文〉を撃って彼女をしとめていた。 それはともかく、おめでとうミス・グレンジャー。わずか二十四名の兵力のきみたちが
ハーマイオニーのほおを紅潮させていた血液の温度があがった。 「でも——それはただ——あの防具に気づけてさえいれば——」
クィレル先生は両手の指を自分の目のまえであわせ、彼女をにらんだ。 「もちろん、きみが勝てる方法はいくつもあった。どんな敗者にも、見逃した勝機がある。 世界は勝機であふれている。機会であふれかえっている。型にはまった思考を脱け出すことができないばかりに、ほとんどの人は勝機を見すごしてしまうだけだ。 どんな戦闘でも、どこかで槍に変えられるのを待っているハッフルパフ生の骨が幾千とある。 念のため〈解呪〉を一斉に撃つという発想さえあれば、ミスター・ポッターの鎖かたびら一式の〈転成〉を解き、下着をのこして丸裸にしてしまうこともできていただろう。その点についてはおそらくミスター・ポッターは無防備だった。 あるいは、兵士たちをミスター・ポッターとミスター・ロングボトムに襲いかからせ、物理的に杖を強奪させてもよかった。 いっぽうミスター・マルフォイの行動は、賢明だったとは言いがたいが、すくなくともさまざまな可能性を試す意義を理解していたことは見てとれる。」 皮肉げな笑み。 「だがミス・グレンジャー、きみは不運なことに〈失神の呪文〉の手順をおぼえてしまっていた。もっと簡単で有効な呪文がいくらもあっただろうに、せっかくの記憶力をいかせなかった。 全兵士の期待をきみ一人にゆだねさせたために、きみが倒れた瞬間に士気がうしなわれた。 あとはどの兵士も〈睡眠の呪文〉を撃ちつづけるだけで、ミスター・マルフォイのようにパターンを脱け出す発想ができなかった。 効果がないと分かった手法をいつまでも試しつづける。そういう人は少なからずいるが、わたしには彼らがなにを考えているのかよく分からない。どうやら、別のなにかを試すという発想はとてつもなく稀にしか起きないことらしい。 〈太陽部隊〉が兵士二名に全滅させられたのは、そのせいだ。」 クィレル先生は陰気な笑みをした。 「〈死食い人〉五十人がいかにしてブリテン魔法界全土を制圧したか、という話とも通じるところがある。われらが〈魔法省〉がいかにしてこの国に君臨しつづけているか、ということとも。」
クィレル先生はためいきをついた。 「ともかく、ミス・グレンジャー、きみがそうやって敗戦したのは今回がはじめてではない。 きみとミスター・マルフォイは前回の模擬戦で、連合軍を組んでなお、戦場で決着をつけることができず、きみたち二人がミスター・ポッターを屋根の上で追いかける事態になった。 〈カオス軍団〉は二回連続してきみたち二人の連合軍と同等かそれ以上の能力を示した。 ここにいたって、とるべき措置はひとつしかない。 ポッター司令官、自分の隊から兵士を八名えらべ。八名中すくなくとも一名は士官でなければならない。そのうち四名を〈ドラゴン旅団〉、四名を〈太陽部隊〉に移籍させる——」
「はあ?」とまたハーマイオニーは割りこんでしまった。もう二人の司令官を見ると、ハリーもおなじくらいショックをうけていたが、ドラコ・マルフォイはあきらめ顔だった。
「きみたちはポッター司令官の相手にならなくなった。」 クィレル先生はぴしゃりとそう言った。 「もう彼はきみたちとの勝負に勝った。三軍の兵力を調整して、もっと手ごたえのある対戦相手を彼に用意すべきときがきた。」
「クィレル先生! ぼくは——」とハリーが言いかけた。
「これはホグウォーツ魔術学校〈戦闘魔術〉教師としてのわたしの決定であり、妥協の余地はない。」 クィレル先生の話しぶりは明瞭なままだが、その目のするどさにハーマイオニーは血が凍る思いをした。視線の相手は彼女ではなくハリーだというのに。 「ミスター・ポッター、きみのたたかいぶりには不自然なところがあった。きみはミス・グレンジャーとミスター・マルフォイを孤立させ、屋根上で二人がいっしょにきみを追わざるをえない状況を作りたいと思った。そしてそのタイミングで、ちょうど都合よい程度に両軍を壊滅させることができた。 はっきり言って、最初の回の授業以来、きみがそのくらいの能力を発揮してくれることを、わたしは期待していた。なのに毎回手加減をしながらこの授業にいどんでいたとは、率直に言って不愉快だ! きみの真の潜在能力はすでに見させてもらった。 きみはミスター・マルフォイやミス・グレンジャーと対等にたたかうなどという段階をとうに越えてしまっている。そうでないというふりをすることはわたしが許さない。 これはすべて教師としての専門的な見解だ。 きみは潜在能力を十分に開花させるために、いかなる理由があろうと手加減をしてはならない——とりわけ、友だちに悪く思われたくないなどという、子どもじみた泣き言は認めない!」
ハーマイオニーは〈防衛術〉教授室をでたとき、兵力を増やされ、尊厳を減らされていた。ゴミ虫のように踏みつぶされた気分で、泣くのを抑えるのに必死だった。
「手加減なんかしてない!」 石壁の廊下の角をまがって、クィレル先生の居室のドアが見えないところまで来るとすぐにハリーはそう言った。 「ふりでもなんでもない。きみたちをわざと勝たせたりするもんか!」
ハーマイオニーは返事しなかった。というより、できなかった。なにか声をだせば、抑えがきかなくなってしまいそうだった。
「それはどうかな?」と言うドラコ・マルフォイはやはり、あきらめたような態度をしている。 「クィレルの言うとおりじゃないか。こちらの兵士がほぼ全員やられたところで、きみの思惑どおりああやって追跡することになるなんて、たしかに不自然だ。 それにポッター。あのとき、真剣にやっているあいだに負かしてみろ、とかいうことを言っていなかったか?」
のどの下から熱いものがこみあげてくる。それが目までとどけば、すぐに大泣きしてしまう。そうなったが最後、二人にとって自分は泣き虫の女の子でしかなくなる。
「あれは——」とあわててハリーが言う声がした。ハーマイオニーは目をむけていないが、声の方向からすると、ハリーはこちらに顔をむけているようだった。 「あれは——あのときは、ぼくもふだんより必死だった。だいじな理由があったから。だから、秘密兵器もいろいろ使ったし——それに——」
わたしは毎回必死にやっていたのに。
「——それに、〈防衛術〉の授業では使わないようにしていた自分の
つまり、肝心な勝負でわたしが勝てそうになるたびに、ハリーは暗黒面を使ってしまうだけであっさり圧勝できる、ということ?
……もちろんそうだ。自分はそういうときのハリーの目を、怖くて見ることすらできない。それでどうして勝てるなどと思うのか。
廊下が分かれ道になり、ハリー・ポッターとドラコ・マルフォイは左をえらんだ。そのさきには二階につづく階段がある。ハーマイオニーは右にした。こちらになにがあるかすら知らないが、迷子になってしまいたい気分だった。
「ドラコ、ぼくはここで。」というハリーの声が聞こえた。それからぱたぱたと、背後から足音が近づいてきた。
「来ないで。」 彼女はまずそう言った。思ったよりきつい声がでた。それから口をしっかりと閉じて、くちびるにちからをこめ、息をとめた。ほとんど決壊寸前だった。
ハリーはそれでも近づいてきて、駆け足で彼女の前にまわりこんだ。こういうのがハリーのダメなところだ、と彼女が思ったところで、ハリーは話しかけてきた。小声だが切迫した調子だった。 「ぼくはきみにホウキ乗り以外の全科目で負かされた。それでも逃げなかった!」
分かっていない。ハリー・ポッターは決して理解しない。彼は何度勝負に負けようが、〈死ななかった男の子〉でいられる。ハリー・ポッターがハーマイオニー・グレンジャーに負けたとなれば、これで終わりではない、いずれこの差はひっくりかえる、とみなが期待する。ハーマイオニー・グレンジャーがハリー・ポッターに負けたとなれば、その瞬間からその他大勢の一人と見なされるだけだ。
「ずるい。」 声は震えているが、泣きだしてはいない。まだ。 「……暗黒面のあなたと戦わさせられるなんて。わたしは——わたしはまだ——」 ……『まだ十二歳なのに』、と言おうとした。
「暗黒面を使ったのは
「じゃあ今日わたしたちを全滅させたのは、ふだんのハリーっていうこと?」 まだ泣かずに持ちこたえてはいるが、いま自分がどんな表情になっているのか、ハーマイオニーは想像できなかった。怒ったときの顔か、落ちこんだときの顔か。
「あれは——」 ハリーの声のいきおいがすこし落ちた。 「あれは……ほんとに勝てるとは思っていなかった。 無敵だと言いはしたけど、実際にははったりだったし、しばらく足止めするだけのつもりで——」
彼女はまた歩きはじめた。ハリーのとなりを通りすぎ、通りすぎた瞬間にはハリーのほうが泣きだしそうな顔をしていた。
「クィレル先生が言ったとおりなの?」と、また切迫した声がうしろから聞こえてきた。 「きみを友だちにしていたら、きみの気持ちをいつまでも気にして、前に進めなくなるの? そんなのずるいじゃないか!」
ハーマイオニーは一度呼吸をしなおしてから、口をかたく閉じて、走りだした。 石畳を踏み鳴らして全速力で走った。視界がにじんでなにも見えないまま、だれにも声を聞かれないくらいの速度で走った。こんどはハリーも追いかけてこなかった。
ミネルヴァは月曜日締め切りの
また別の、ずいぶんとひねくれた答案を解読しようとしていたとき、ドアにノックがあり、集中がそがれた。 いまは
「どうぞ。」と彼女はきびきびとした声で言った。
はいってきた少女がそれまで泣いていたのは明らかだった。すこしまえまで泣いていて、それを知られたくないばかりに、顔を洗ってきたのだろう——
「ミス・グレンジャー!」 目を赤くしほおを腫らしたその顔を、ミネルヴァは一瞬遅れて認識した。 「なにがあったのです?」
「このあいだ、先生とお話したときに、すこしでも気がかりなことや不安なことがあったら、すぐにここに来ていいと——」 少女の声は震えていた。
「言いました。それで、なにがあったのですか?」
少女は話しはじめた——
ハーマイオニーは回転する階段に乗り、じっと待った。回転する螺旋に乗っているだけではどこにもたどりつけるはずはないのだが、ハーマイオニーは着実に
ハーマイオニーにとって、これは総長との二度目の面談になる。恐れるべきことではないし、不安になるべきことでもない。
けれど実際には恐れてもいるし、不安になってもいる。
ハーマイオニー・グレンジャーはあのあとひたすら考えていた。走り疲れて肺が燃えそうになって、壁に寄りかかってずり落ちて、それから冷たい石壁を背にして足を抱えて丸くなり、あれこれ考えていた。
ハリー・ポッターに負けるのはまだ許せるとして、ドラコ・マルフォイに遅れをとることは、なにがあろうと許されない。けれどクィレル先生は、幾千ものほかの可能性を無視しなかった、と言ってマルフォイ司令官を褒めた。ハーマイオニーはあのあとひとしきり泣いてから、自分がハリーとネヴィルに撃ってみるべきだった呪文を十四種思いついた。それから、自分はまた別の面で同じ失敗をしようとしているのではないか、ということが気になりだした。 そう思った結果、マクゴナガル先生の部屋をたずねることにした。 助けをもとめるのではない。そもそも何について助けてもらえばいいのかすら分からないけれど、とにかくマクゴナガル先生にすべてを話してみたい。それがクィレル先生の言っていた、幾千ものほかの可能性のひとつではないか、と思った。
そうして、マクゴナガル先生にいろいろなことを話した。不死鳥が肩にとまったあの日からハリー・ポッターが変わったこと、ほかの人がハーマイオニーのことをますますハリーの付属品のようにあつかうようになっている気がすること、ハリーがいままで以上におなじ学年の生徒全員から距離を置くようになっている気がすること、ハリーがいつもさびしげな雰囲気になっていて、なにかをなくしつつあるようにも見えたりすること、そして
その話は総長に話す必要があるからいっしょに行きましょう、と言うのがマクゴナガル先生の返事だった。
ハーマイオニーは不安になったが、考えてみれば
〈無限階段〉が回転を終えた。
真鍮製のグリフィンをかたどるノッカーがかかった巨大なオーク材の扉が、だれにも触れられずにひらく。
黒いオーク材の机がある。あらゆる方向に何十もの引き出しがついていて、引き出しのなかにも引き出しがあるように見える。その机のむこうの玉座に、銀色のひげをしたホグウォーツ総長アルバス・パーシヴァル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドアがいた。ハーマイオニーはやさしげにきらめくその目を三秒ほど見つめてから、部屋のなかにあるほかのいろいろな品物に気をとられた。
しばらくしてから——そのあいだハーマイオニーは部屋のなかにある品物の数をかぞえようとして、三度やって答えが一致せず、でも数えているあいだになにかが追加されたり除去されたことはなかったはず……と思っているうちにどれくらい時間がすぎたのか——総長は咳ばらいをして、口をひらいた。 「ミス・グレンジャー?」
ハーマイオニーはぱっとそちらを向き、ほおに軽く熱を感じた。 ダンブルドアはまったく気分を害した様子ではなく、表情はおだやかだった。半円の眼鏡の奥の温和な目で問いかけていた。
「ハーマイオニー……」とマクゴナガル先生はやさしく声をかけ、ハーマイオニーを元気づけるように片手を肩にのせた。 「ハリーについての相談でしたね。お話しなさい。」
ハーマイオニーは話しはじめた。あたらしい決意を実践しようとしながらも、ときどき不安を声にまじらせつつ、フォークスが肩にとまって以来の数週間のハリーの変化について話した。
話が終わると、一度全員が無言となった。総長がためいきをした。 「それは申し訳ないことをした。」とダンブルドアが話しだす。その青い目はハーマイオニーの話を聞いているあいだに、さびしげな表情になっていた。 「……気の毒にとは思うが……そうなる可能性も想定の範囲内ではあった。 知ってのとおり、これは
「ヒーロー?」と言ってハーマイオニーはマクゴナガル先生のほうを見あげた。表情はかたくなっているが、片手は元気づけるようにハーマイオニーの肩におかれたままだった。
「そのとおり。わしも謎の老魔法使いになる以前、かつては
ハーマイオニーはうなづいた。
「どのヒーローもかならずこういう経験をする。ヒーローは任務を達成するために強く成長せねばならない。きみが見たハリーの変化はそれじゃ。 彼の道のりをすこしでも歩みやすいものにすることができるとすれば、それはわしではなく、きみの仕事。わしはハリーの友ではなく、ハリーの謎の老魔法使いにすぎないのじゃから。」
「わたしは——わたしはもう自信がないんです。いまも自分がハリーと——」 そう言いかけてハーマイオニーはとまった。そのさきを声にしてしまうのが怖かった。
ダンブルドアは両目をとじた。またひらいたとき、その顔はすこしだけ老いて見えた。 「もしきみがハリーと友だちでいるのをやめたくなったのなら、だれにも止めることはできん。 それが彼になにをもたらすか、きみはわしよりもよく理解しているのではないかと思う。」
「それは——不公平だと思います。」 ハーマイオニーは声を震えさせた。 「ハリーにはわたししかいないから、わたしが友だちになってあげるしかない、ということですか? 不公平だと思います。」
「友だち
どう表現すればいいのか。 これまで何度考えてもわからなかった。 「ハリーの近くに行きすぎた人は——ハリーに
老魔法使いはゆっくりとうなづいた。 「まさしく、この世界は不公平にできている。 いまとなっては、世界じゅうが知るかぎりでグリンデルヴァルトを倒したのはわし一人であり、エリザベス・ベケットがわしのために道を切りひらいて死んだことを知る人はほとんどいない…… が、皆無ではない。 ハリー・ポッターはたしかにこの芝居の
ハーマイオニーは激しくくびをふった。 「そんなのはちっとも——」 そう言いかけたが、うまく説明できる気がしない。 「……栄誉はいいんです。でも自分が——自分がほかのだれかのおまけでいいのか、ということです!」
「つまりきみ自身がヒーローでありたいということか?」 ダンブルドアはためいきをした。 「ミス・グレンジャー、わしも
またのどに熱いものがこみあげてきた。同時に無力感も。総長に助ける気がないのなら、なぜマクゴナガル先生は自分をここに連れてきたのだろうか。ちらりとそちらを見てみると、マクゴナガル先生もここに来たことが正解だったか、自信がないようだった。
「わたしはヒーローになろうとは思いません。けれどヒーローのおともにもなりたくない。わたしは
(数秒後にふりかえってみると、やっぱりヒーローがいいような気もしたが、いまさら言いなおすべきではないとハーマイオニーは判断した。)
「ああ……。なんともむずかしい注文じゃ。」 ダンブルドアはそう言ってから玉座をあとにし、机のむこうで一歩さがって、壁の紋章を指さした。どこにでもある紋章で、ハーマイオニーはそれまで目にとめてすらいなかった。 くたびれた盾に、ホグウォーツの校章が刻まれている。ライオンとヘビ、アナグマとレイヴン。そこにあるラテン語の一文の意義は、どうしてもぴんとこない。 そう思ったところで、その置き場所がこの部屋であるということ、そして外観がとても古そうなことに気づき、もしかするとこれはその盾の現物なのではないか、と思えてきた——
「ハッフルパフ生に言わせれば、」と言ってダンブルドアは色あせたアナグマの紋章を指でたたいた。ハーマイオニーはその冒瀆行為(ほんとうに現物であればの話だが)に顔をしかめた。 「……ほんとうの自分になれない人とは、そのための努力をしない怠け者ということになろう。レイヴンクロー生であれば、」と言ってレイヴンをたたく。 「……『汝自身を知れ』という、実はソクラテスよりもはるかに古い表現を引用し、ほんとうの自分になれないのは無知と思慮不足が原因だ、と言うことじゃろう。サラザール・スリザリンは、」 と言ってダンブルドアは眉をひそめ、色あせたヘビをたたく。 「……ほんとうの自分になりたければ、人はひたすら自分の欲望にしたがうべきだ、と言った。彼なら、人は野望を実現するために必要なことをやろうとしないから自己実現に失敗するのだ、と言うかもしれない。 しかしそこで、〈闇の魔術師〉のほぼ全員がスリザリン寮から輩出されていることを考えてみよ。 彼らはみなほんとうの自分になったか? わしはそう思わない。」 ダンブルドアはライオンをたたき、ハーマイオニーのほうを向いた。 「では、ミス・グレンジャー。グリフィンドール生に言わせれば、どんな答えになるか、言ってみなさい。 きみがグリフィンドール行きの選択肢をあたえられたのであろうことは、〈組わけ帽子〉に聞くまでもなく分かっておる。」
むずかしい質問ではないと思った。 「グリフィンドール生に言わせれば、人がなるべき自分になれないのは、なるのが怖いからです。」
「そのとおり、たいていの人は怖がる。たいていの人は一生ずっと恐怖に立ちつくし、恐怖のために自分の可能性、自分の将来の芽を摘んでしまう。 まちがったことを言うことへの恐怖、することへの恐怖、手もとにあるなにがしかの財産をうしなうことへの恐怖、死への恐怖、そしてなによりも、他人にどう思われるかという恐怖。 そういった恐怖に大変な影響力があるのは事実であり、そう知っておくことも大変重要なことではある。 しかし、ゴドリック・グリフィンドールが言うであろうことは別にある。 人間は正しくあろうとすることで、ほんとうの自分になる、ということじゃ。」 ダンブルドアはやさしげな声をしていた。 「では、ミス・グレンジャー、きみにとって
大きな部屋のなかで、数えられないいろいろな器具の音だけが聞こえた。
ハーマイオニーは考えた。レイヴンクローらしく。
そしてゆっくりと答える。 「別のだれかの影のなかで生きることをしいられるのは……正しくないと思います……」
「世界には、正しくないことがいくらもある。問題は、それに対して
「それはどんな冒険ですか?」 ハーマイオニーの声が震えた。総長がどういう返答をもとめているかはもう十分わかったが、それをそのまま言うのはいやだと思った。 「あのときハリーの身になにが起きたんですか? なぜフォークスが肩にとまっていたんですか?」
「彼は成長した。」 老魔法使いは何度か半月眼鏡の奥の目をしばたたかせた。急に顔にしわが増えて見えた。 「ミス・グレンジャー、人を成長させるのは時間だと思ってはならない。人は大人の世界におかれたときに成長する。 あの土曜日、そういったことがハリー・ポッターの身に起きた。 あのとき——この情報はだれにも漏らしてはならぬぞ——あのとき彼は、とある人物とたたかえと命じられた。 だれとたたかうのか、なぜたたかうのかはここでは言えぬ。 ただ、それが彼の身に起きたことであり、だからこそ彼は友を必要としている、とだけ言っておく。」
沈黙。
「
「いや、ベラトリクス・ブラックではない。だれとたたかうのか、なぜたたかうのかは言えぬ。」
ハーマイオニーはもうすこし考えた。
「ハリーに負けないようにがんばりたければ、どうすればいいですか? いえ、そうすると決めたわけじゃありませんが——もしハリーに友だちが必要なら、
「ああ……」と言って老魔法使いはほほえんだ。 「それを決めるのはきみ自身じゃよ、ミス・グレンジャー。」
「でも先生はハリーを助けている。わたしを助けてはくれないんですね。」
老魔法使いはくびをふった。 「わしがハリーにしてあげていることは、ほんのささやかなことにすぎない。 きみも
「わたしは十二歳です。ハリーは十一歳ですよ。」
「ハリー・ポッターは特例じゃ……きみも知ってのとおり。」 半月眼鏡の奥の青い目が急にするどくなり、それを見てハーマイオニーは、ディメンターが来た日のことを思いだした。あのときこころのなかにはいってきたダンブルドアの声は、ハリーの
ハーマイオニーは自分の手をマクゴナガル先生の手にのせた。最初から肩におかれたままだったその手の存在をハーマイオニーはずっと感じていた。そして自分でもおどろくほど、しっかりした声が出た。 「もう出ていきたいんですが、いいでしょうか。」
「もちろん。」と言うマクゴナガル先生の手がそっとハーマイオニーを押し、オーク材の扉に向かわせた。
「ハーマイオニー・グレンジャー、きみは自分の行く道をもう決めたのかね?」 背後からアルバス・ダンブルドアが声をかけてきたとき、すでに扉が音をたててひらきはじめ、〈無限階段〉が見えはじめていた。
ハーマイオニーはうなづいた。
「それは?」
「わたしは……」 そのさきを言いよどむ。「わたしは……」
一度息をすう。
「わたしは——正しくありたいと思います——」
それ以上なにも言わず、なにも言えずにいると、〈無限階段〉がまた回転しはじめた。
下降するあいだ、ハーマイオニーもマクゴナガル先生も無言でいた。
〈流れ石〉のガーゴイルが道をあけ、二人は城内の廊下にでた。そこでやっとマクゴナガル先生が小声で話しはじめた。 「申し訳ありません、ミス・グレンジャー。 総長があのようなことをおっしゃるとは思いませんでした。 あのかたは、ものごとが子どもの立ち場からどう見えるのかをほんとうに忘れてしまったようです。」
ハーマイオニーがちらりと見あげると、マクゴナガル先生のほうが泣きだしそうに見えた……というのは言いすぎかもしれないが、それだけ張りつめた表情をしてはいた。
「もしわたしがヒーローになりたいと言ったら……ヒーローになると決めたら、マクゴナガル先生に助けてもらうことはできますか?」
マクゴナガル先生は急いでくびをふった。 「ミス・グレンジャー、その点に関しては、総長に理があるのではないでしょうか。あなたはまだ十二歳なのですよ。」
「そうですか。」
二人はまた少し歩いた。
「すみません、レイヴンクロー塔には一人で帰りたいんですが、いいですか? 先生のことがいやになった、という風には思わないでください。 ただ、いまは一人でいたいんです。」
「もちろんかまいません。」 マクゴナガル先生の声はすこしかすれていた。 それから足音が離れていき、角をまがったのが分かった。
ハーマイオニー・グレンジャーもその場を去った。
階段をあがって上の階にいき、もう一つ上の階にいくあいだ、ヒーローになるチャンスをくれる人がホグウォーツのなかにいるとしたらだれだろう、と考えた。 フリトウィック先生はマクゴナガル先生とおなじことを言いそうだし、仮にその気があったとしても、だれかをヒーローにすることはできなさそうだ。ほかにだれがいるだろうか。 ……クィレル先生なら、ある程度クィレル点を消費すればなにかやってくれそうだが、あの先生に頼むのは避けたほうがいいような気がする。仮にクィレル先生がだれかをヒーローにできるとして、ちゃんとした意義のある種類のヒーローを育てることはできないのではないか、そもそもその差がなんであるかすら理解していないのではないか、という気がする。
レイヴンクロー塔まであと一歩というところで、ハーマイオニーは黄金色の光が一閃するのを目にした。
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky