「きみのパパはぼくのパパとおなじくらいすごいパパだ。」
キングス・クロス駅の九番乗り場でハリーにおなかを抱擁されながら、ペチュニア・エヴァンズ゠ヴェレスのくちびるは震え、目にはなみだがたまっていた。 「ほんとうについていかなくても大丈夫?」
お父さんのマイケル・ヴェレス゠エヴァンズを一瞥すると、ステレオタイプ的な厳格かつ誇らしげな態度をしていた。 お母さんのほうは……だいぶ取りみだしている。 「ママが魔法世界のことを好きじゃないのはわかってるから。こなくてもいいよ。ほんとに。」
ペチュニアはたじろいだ。 「ハリー、わたしのことはいいの。わたしはあなたのお母さんなんだから、もし必要なら——」
「ママ、ぼくはこれからひとりで
「ああハリー。」と小さく言って、ペチュニアはひざをつき、ハリーをきつく抱擁し、顔をむきあわせ、ほおとほおをあてる。 息がみだれるのが感じられ、おさえたすすりなきが聞こえた。 「ああハリー。愛してるわ。そのことはわすれないで。」
だから推測してみた。 「ママ、魔法をまなんだからといってぼくがママの妹みたいになるわけじゃないのはわかってるよね? たのまれれば——というかやっていいなら——魔法をつかってあげるし、家で魔法をつかって
ハリーはきつく抱擁されてつづきが言えなかった。 「やさしい子ね。」とお母さんがささやき声でハリーの耳に言う。 「ほんとうにやさしい子。」
ハリーもそのときすこし息をつまらせた。
お母さんは手をほどき、立ちあがった。 ハンカチをハンドバックからとりだし、震える手で化粧がくずれかけた目がしらをおさえる。
お父さんが魔法界がわのキングス・クロス駅についてくるかどうかは、聞くまでもなかった。パパはハリーのトランクを直接みるだけでもやっとだったのだから。 魔法力は家系に流れる。マイケル・ヴェレス゠エヴァンズにはそれが一滴も流れていない。
だからお父さんはかわりにせきばらいだけをした。 「学校がんばれよ、ハリー。あれだけの本を買っておけば足りるかな?」
ここにくるまでに、これが画期的で重要なことをなしとげられるかもしれない大チャンスであることをハリーから説明されると、ヴェレス゠エヴァンズ教授はうなづいて、ものすごくいそがしいスケジュールをまる二日分ほうりなげて〈史上最大の古本買い付け作戦〉を発動したのである。 二人は四都市をまわり、その結果として、
そしていまの質問:『あれだけの本を買っておけば足りるかな?』 パパがもとめている答えはあきらかだ。
なぜかハリーののどはしわがれていた。 「本はいくらあっても足りない。」とハリーがヴェレス家の家訓を暗唱すると、お父さんはひざをついて短くしっかりと抱擁した。 「でもパパは
パパはたちあがって言った。 「さて……九と四分の三番乗り場は
キングス・クロス駅は巨大で人通りがおおい、床のタイルがふつうによごれた駅だ。ふつうの用事で来て、ふつうの会話をして、ふつうの雑音をうみだすふつうの人たちでいっぱいだ。 キングス・クロス駅には(いまハリーたちがいる)九番乗り場と(そのとなりの)十番乗り場がある。九番と十番の乗り場のあいだにはなんの変哲もない、うすい仕切りの壁があるだけだ。そこにはあかるい日の光がふりそそぎ、九と四分の三番乗り場などあとかたもないことが、だれの目にもわかる。
目からなみだがでてくるまでハリーはそのあたりを凝視した。 『魔法の目よこい、魔法の目よこい』……だがなにもあらわれない。 杖をとりだしてふることも考えたが、杖はつかうなとマクゴナガル先生に警告されている。 もし色とりどりの火花がまたふりそそいだら、鉄道駅に花火をしかけたということでつかまることになるかもしれない。 杖がかってにほかのことをやってしまわないともかぎらない。キングス・クロス全体をふきとばすとか。 四十八時間で買うべき科学書の種類をいそいできめたかったので、教科書はまだごくかるく目をとおしただけだった(それだけでも変な内容であることは十分わかったが)。
まあ、まだ時間はある——と時計を見て思う。列車にのることになっているのは十一時だから、まる一時間はある。 もしかするとこれは、ばかな子どもが魔法使いにならないようにするためのIQテストに相当するのなのかもしれない。 (そして、時間の余裕をどれくらいとっておくかは〈まじめさ〉の度合いを決定づける。これは科学者としての成功にかかわる二番目に重要な要因である。)
「考えてみる。」とハリーは両親にむけて言う。「多分テストみたいなものだと思う。」
お父さんは眉をひそめた。 「そうだな……地面で足跡がかさなって妙な方向にすすんでいる場所をさがすとか——」
「
「すまん。」とお父さんはあやまった。
「うーん……生徒にそんなことをさせるかしら? マクゴナガル先生になにか言われてなかった?」
「先生はほかのことに気をとられてたのかも。」とハリーは考えずに言った。
「
「ぼくは、ただ——」ハリーはいいやめた。「ほら、いまはそんなことを言ってる時間はないから——」
「ハリー!」
「ほんとだって! いまそんな時間はない! ほんとに長い話になるし、いまは学校にいく方法をみつけないといけないんだ!」
お母さんは顔を片手でおおった。「どれくらいひどかったの?」
「ええと、あー……」
「
「えーと、あっ、あそこにフクロウをつれた人たちがいるから乗りかたをきいてくるよ!」 ハリーは両親のもとを離れ、燃えるような赤髪の家族を目がけて走っていった。 トランクは自動的に這いよってついてきた。
ハリーがそこにつくと、太った女性が顔をむけた。 「こんにちは。あなたホグウォーツははじめて? ロンもそう——」と言い、まじまじとハリーをみる。「
男の子四人と赤髪の女の子一人とフクロウ一匹もふりむいて、その場でかたまった。
「あーあ、
「そう……」とゆったりと歩いてついてきていたお父さんが言う。「
「写真が新聞にのってた。」と、うりふたつの双子のひとりが言った。
「ハリー!」
「
「は?」
「ママに聞いて。」
「は?」
「ああ……マイケル、あなたにはこのことを言わないでおいたほうがいいかと思って——」
「すみません。」とハリーをみつめる赤髪の一家全員にハリーは言う。「九と四分の三番乗り場にいく方法を
「ああ……」と言ってその女性がをあげて乗り場のあいだの壁をゆびさした。「九番乗り場と十番乗り場のあいだの壁にむかって歩きなさい。ぶつかるのをこわがらずそのまま進むのが大事なの。不安なら、すこし走るくらいがちょうどいいわ。」
「それと、間違ってもゾウのことは考えるな。」
「
「おれはフレッドだって、ママ。ジョージじゃない——」
「ありがとう!」とハリーはいい、壁にむけてかけこんだ——
ちょっと待った、これは
こういうとき、これが『疑念の共鳴』に該当する例だと気づくのがまにあうほど自分のあたまの回転がはやいのはいやになる。つまり、これから自分は壁をつきぬけると考えていたなら問題なかったのだが、つきぬけられるということを十分に
「
ハリーは目をとじて信憑性の正当化に関して自分が知っていることをすべて無視して、自分は壁をつきぬけることができると
——周囲の音がかわった。
ハリーは目をあけ、つまづいてたちどまった。なにかを信じようと意図的に努力したことで、どこか自分が汚れてしまった感じがする。
そこは明るい、天井のない乗り場で、巨大な列車が一台とまっていた。長くつづく車両十四台の先頭に、真紅に塗られた大きな金属製蒸気機関と、大気汚染を保証する長い煙突がついている。 乗り場はすでに(まだゆうに一時間はあるのに)多少混雑していて、子どもたちとその親たちが何十人もベンチやテーブルや各種屋台や売店にたむろしている。
キングス・クロス駅のどこにもこんな場所はないし、それを隠せるだけの空間もないということはまったく言うまでもない。
となると可能性としては……(一)たったいまぼくはまったく別の場所にテレポートした、(二)魔法使いはなんでもないことのように空間を折りたたむことができる、(三)魔法使いはとにかくあらゆる規則を無視する、のいずれかだ。
引きずるような音がうしろから聞こえ、ハリーがふりむくとやはり、トランクだった。小さな爪のある触手で這いながらついてきている。 なにか魔法的理由でこのトランクも、自分はあの壁を通過できると十分に強く信じることができているらしい。 そう考えると、すこし気味がわるくなってくる。
すこし遅れて、赤髪家族の最年少らしい男の子が鉄のアーチ門(鉄のアーチ門? )を走りぬけてきて、ひもでひっぱったトランクとともにハリーにつっこみそうになった。 自分がその場につったっていたのがバカみたいに思えて、ハリーはその子が着地しそうな場所からすぐに離れようとした。赤髪の子も、遅れまいとトランクのひもを強くひっぱりながらついてきた。すこし遅れて、白いフクロウがアーチ門をぱたぱたとぬけてきてその子のかたにとまった。
「うわ」と赤髪の子が言う。「きみは
(またか。) 「論理的にそうだは言いきれないな。ぼくはハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスだと
「えっと? なんて?」
(レイヴンクロー行きのみこみなし、だな。) 「うん、ぼくはハリー・ポッター。」
「ぼくはロン・ウィーズリー。」と言って、背がたかく、にきびがあり、鼻がほそいその子は手をさしだした。ハリーは行儀よく握手して、一緒に歩きだした。 フクロウは妙に抑制された礼儀ただしい鳴き声をだした(実のところホーというよりエーにちかい声だったので、ハリーはおどろいた)。
この時点でハリーは災厄がせまっている可能性に気づいた。 ハリーは「ちょっとまって。」とロンに言い、たしか冬服をいれていたはずのトランクの引き出しをひらき(やはりあった)、もっているなかで一番薄いスカーフが冬用コートに下にあるのをみつけた。 ヘッドバンドをはずし、そのスカーフをすばやくひろげ、顔のまわりにまく。 夏だけにちょっとあついが、我慢はできる。
そしてさっきの引き出しをしめ、別の引き出しをあけて、黒の魔法使い用ローブをとりだし、あたまからかぶせた。マグルの領土を離れたからだ。
「よし。」と言うハリーの声は、顔にまいたスカーフをとおしてすこしくぐもって聞こえた。 ロンのほうをむいて、 「どう見える? ばかみたいだよね。でもハリー・ポッターに見えるかな?」
「うーん。」 ロンはあけたままだった口をとじる。「見えないよ、ハリー。」
「よかった。でも、せっかくここまでしたんだから。以後はぼくのことは……」 ヴェレスではもうだめかもしれない。「ミスター・スプーと呼んで。」
「わかったよ、ハリー。」とロンが自信なさげに言った。
(こいつのフォースはあまり強くないぞ。) 「ミ・ス・タ・ー・ス・プ・ー・と・呼・ん・で。」
「わかったよミスター・スプー——」 ロンは言いよどんだ。「やっぱりやだよ。自分がばかみたいに感じる。」
(感じだけじゃないよ。) 「わかった。
「じゃ、ミスター・キャノン。」とロンは即座に言った。「チャドリー・キャノンズにちなんで。」
「えっと……」 この質問はあとできっと後悔することになる。「チャドリー・キャノンズってだれ? それとも人じゃない?」
「『チャドリー・キャノンズってだれ』、だって? クィディッチ史上最高のチームさ。そりゃあ去年はリーグ最下位で終わったけど——」
「クィディッチってなに?」
この質問をしたのも失敗だった。
「ということはつまり、」とハリーはロンの説明(と身ぶり手ぶり)がおさまったところで言った。「〈スニッチ〉をつかまえると
「うん、それで——」
「〈スニッチ〉を別にして、一回十点の価値があるゴールを一チームでふつう何回くらい決められる?」
「うーん。多分プロの試合だったら、十五回か二十回くらい——」
「まちがってる。ゲームデザインの法則にことごとく違反してる。 ほかの部分はまあそれなりに、意味がわかるけど。スポーツにしてはね。 要するに〈スニッチ〉をつかまえるかどうかで、どんな得点差もくつがえされるっていうことでしょ。 〈シーカー〉ふたりは〈スニッチ〉をさがして飛びまわって、ふつうはほかのだれとも接触しない。〈スニッチ〉をどちらがさきにみつけるかは、ほとんど運だけだし——」
「運なもんか! うまい順序で目をあちこちうごかさないといけないし、それに——」
「
ロンが渋い顔をした。 「クィディッチをきらいなのはともかく、バカにしなくてもいいだろ!」
「批判できなければ最適化もできない。 これは
「きみ一人が言うだけでルールがかわるもんか!」
「ぼくは〈死ななかった男の子〉だよ。だから相手にしてもらえる。 ホグウォーツでのルールを説得してかえられれば、いずれひろまるさ。」
ロンの顔に恐怖がひろがっていった。 「でも〈スニッチ〉をなくしたら、試合の終わりはどうやって決めるんだよ?」
「時・計・を・買・う・ん・だ・よ。 ある試合は十分で終わって別の試合は何時間もかかるというのよりずっと公平だし、観客にとってもあらかじめ予定がたてやすくなる。」 ハリーはためいきをついた。 「そうやって心底ぞっとした表情をするのはやめて。
「ポッター?」とおさない少年の声が聞こえてきた。「顔にまいた『それ』はなんだ? そしてきみのとなりにいる『それ』はなんだ?」
ロンの表情は恐怖からあからさまな嫌悪にかわった。 「
ふりむくと、そこにいたのはやはりドラコ・マルフォイ。標準の制服ローブをきせられているようだが、そのかわりにトランクはハリーのものと同等以上の魔法がかかった、はるかに優美な仕立てのトランクだ。銀とエメラルドで装飾され、マルフォイ家の紋章と思われる、象牙の杖にからみついたみごとな牙のあるヘビがついている。
「ドラコ!」とハリーが言う。「あー、マルフォイとよんだほうがいいのか。これじゃルシウスのことみたいだけど。 このまえのその……出会いのあとでも元気にしてくれていたみたいだね。 こちらはロン・ウィーズリー。 ぼくはいま変装してるんだ。だからぼくのことは、その……」 自分のローブをみおろす。「ミスター・ブラックと呼んでくれ。」
「
ハリーはまばたきをした。「どうして?」 ダークなひびきで、まるで国際的な謎の人物のようなところが気にいったのに——
「いや、
「ミスター・……ゴールドにちかづくな。」とロンは冷たく言い、一歩ふみだした。「この子はおまえなんかと話すことはない!」
ハリーは仲裁のため手をあげた。「ミスター・ブロンズにするよ。命名法則をありがとう。それで、ロン。」 どう言ったものかとハリーはなやんだ。 「熱心にぼくを……まもってくれるのはありがたいんだけど、ぼくはドラコと話すのに別に抵抗はないから——」
ロンはこれで堪忍袋の緒がきれたようだ。怒りにもえる目をハリーにむけて、 「はあ? こいつがだれだか知ってるの?」
「知ってるよ。紹介してもらわないうちにぼくがドラコと呼んだのに、きみも気づいたんじゃないかと思うけど。」
ドラコは嘲笑した。そしてロンのかたの白いフクロウに目をひからせた。 「おやおや、これはどういうことかな?」 ドラコは悪意のある間延びした声で言った。「あの有名なウィーズリー一家のネズミはどこへ?」
「庭に埋めた。」とロンが冷たく言った。
「それは残念。ポッ……いや、ミスター・ブロンズ、実はウィーズリー一家にはだれもが認める傑作のペット物語があってね。 話してくれよ、ウィーズリー?」
ロンの顔がゆがんだ。 「もし自分の家であんな事件があったら笑ってられないだろ!」
「おっと。」とドラコが満足気に言う。「だがマルフォイ家なら
ロンは両手をこぶしにかためて——
「そこまで。」と言って、ハリーはできるかぎりの静かな権威を声にこめた。それがなんの話であれ、赤髪の子のつらい記憶であることはまちがいなさそうだ。 「もしロンが話したくないなら、ロンは話さなくていい。きみも話さないでほしい。」
ドラコはおどろいたような顔をした。ロンはうなづいた。「そうだよハリー! いやミスター・ブロンズ! こいつがどういうやつか、わかっただろ? こっちにくるなと言ってやって!」
ハリーはこころのなかで十をかぞえた。ハリーのやりかたでは一瞬で
「じゃあ、ぼくはドラコ・マルフォイの仲間と仲間になる気はない。」とロンは冷たく宣言した。
ハリーは肩をすくめた。「ご自由に。
ロンはあっけにとられた表情になった。まるで、さっきのせりふがきくと思っていたかのように。 そして一回転して、ひもをひっぱってトランクをつれて飛び出し、乗り場のむこうへと去った。
「彼のことが気にいらないのなら、なぜずっといっしょにいたんだ?」とドラコが不思議そうに言った。
「いや……彼のお母さんにはキングス・クロス駅からこの乗り場にくる方法を教えてもらった恩があったから、追いはらうのは気がすすまなかった。 それに、ぼくはあのロンという子が
「あいつが存在する意味がわからない、とか?」
「そんなところ。」
「とにかく、ポッター……もしマグルにそだてられたというのがほんとうなら——」 ドラコはまるで否定されるのを待つようにそこで一度とまったが、ハリーはなにも言わなかった。 「きみは有名であることの意味を知らないのかもしれない。ほかのひとは
ハリーはうなづいて、思案するような表情をした。 「いいアドヴァイスだと思うけど。」
「親切になろうとすれば、一番おしつけがましい相手に時間をとられることになる。 自分がだれに時間を
ハリーはもう一度うなづいた。 「できれば教えてほしいんだけど、きみはどうやってぼくのことがわかった?」
「おいおい、ぼくはきみに
ハリーは会釈してこの賛辞をうけとった。 「あのときのことは、
ドラコは手をふって怪訝そうな表情をした。 「ぼくのほうがお世辞を言われていたタイミングで父上がきてくれたらよかったのに——」とドラコは笑った。 「でも父上にああ言ってくれて
ハリーは会釈をかさねた。 「お返しにマクゴナガル先生にああ言ってくれて
「どういたしまして。けれど、どうやらあそこの助手のどちらかが親友に秘密をまもらせる約束をしたようだ。父上の話では、
「うっ」とハリーは顔をしかめた。「
「いや、ぼくたちは慣れてるから。マルフォイ家についてはすでにどれだけうわさがあることか。」
ハリーはうなづいた。「きみの迷惑になっていないのならよかった。」
ドラコはにやりとした。 「父上のユーモアの感覚は、その、
ハリーはぽかんと口をあけた。 「
ドラコはうなづいた。この偉業にみあう満面の得意げな顔だ。 「まあ、もちろんぼくがなにをやろうとしていたかは父上にお見とおしだったけれどね。 あの
もうひとりの名人をまえにしていることに気づいたハリーは、なにかを計算するような目でドラコを見た。 「きみはひとを操作する方法について
「もちろん。」と自慢げにドラコが言う。「ぼくは
「うわ」 ロバート・チャルディーニの『影響力の正体』を読んだことはこれにくらべるとあまり大したことがなさそうだ(いや、すごい本なのにかわりはないが)。 「きみのパパはぼくのパパとおなじくらいすごいパパだ。」
ドラコの眉がたかくあがった。「ほう?
「本を買ってくれる。」
ドラコは検討した。「あまりたいしたことがなさそうに聞こえるな。」
「自分で見てみないとわからないさ。とにかく、そういう話ならよかった。きみを見ていた目つきからして、ルシウスはあとできみをくる——苦しめたりするんじゃないかと。」
「父上はぼくを愛している。」 ドラコはきっぱりと言った。「そんなことをするものか。」
「うーん……」 ハリーは黒ローブの、銀髪の気品あるあの男性が、銀色のもちての美しくもおそろしげなステッキをふりかざしてマダム・マルキンの店にふみこんできたようすを思いうかべた。あまやかす父親としてのすがたは想像しにくい。 「誤解してほしくないんだけど、どうやってそれが
「は?」 ドラコはこういうたぐいのことをあまり自問する習慣がないらしい。
「この質問は合理主義の基本的な質問だ。 なぜひとは自分が信じていることを信じているのか。なぜ自分が知っていると思っていることを知っていると思っているのか。 ルシウスは権力のためにほかのだれかを犠牲にするのとおなじようにきみを犠牲にするかもしれない。きみはなぜそうでないと思っている?」
ドラコはまたもや怪訝そうな顔をした。「きみは父上のなにを知っているんだ?」
「ウィゼンガモート評議員で、ホグウォーツ理事で、ものすごく裕福で、ファッジ大臣とコネがあって、ファッジ大臣に信頼されている。ファッジ大臣のかなり恥ずかしい写真をたぶんもっている。〈闇の王〉がいなくなってからは、純血主義者のなかで一番の有力者。もと〈死食い人〉で〈闇の紋章〉をつけていたことが発覚したが〈服従の呪い〉をかけられていたと主張して放免された。……なんてことはどう考えてもありえないというのがほとんど周知の事実で……ねっから邪悪で生まれついての殺し屋……だいたいこんなところかな。」
ドラコの目が極細になった。 「マクゴナガルにそう吹きこまれたんだな。」
「いや、あのあとルシウスについては、距離をおきなさいという以外には、いっさいなにも言われなかったよ。 あの〈魔法薬店事件〉の最中、マクゴナガル先生が店主とやりあって事態を収拾しようとしているあいだに、ぼくは客を一人つかまえて
ドラコがまた目をみひらいた。 「ほんとにそんなことを?」
ハリーは困惑げにドラコを見た。 「もしぼくが一回目に嘘をついていたとしたら、二回きかれても真実を言うわけないだろう。」
ドラコが一連の話をうけとめて返事するまでに少し時間がかかった。
「きみは完全にスリザリンむきだ。」
「ぼくは完全にレイヴンクローむきだ。おあいにく。 本を手にいれられるだけの権力しかぼくにはいらない。」
ドラコはくすくすと笑った。 「ああ、そうだな。とにかく……きみの質問にもどると……」 ドラコは深呼吸をして真剣な顔つきになった。「父上はぼくのためにウィゼンガモートでの投票をいちど欠席した。 ぼくはホウキにのっていて落ちて、あちこち骨折したんだ。 すごく痛かった。 あれほど痛かったのははじめてだったから、死ぬかと思った。 それで、父上はとても重要な投票をぼくのために欠席して、〈聖マンゴ病院〉のベッドでぼくによりそって、ぼくの手をにぎって、きっとよくなるからなと言ってくれたんだ。」
ハリーは居ごこちがわるそうに視線をそらしたが、努力して、ドラコへと視線をもどした。 「どうしてそんな話をぼくに? なんだか……プライヴァシーにふみこむような……」
ドラコは真剣な表情をした。 「家庭教師のひとりからおそわったんだが、ひとはたがいのプライヴァシーの一部を知ることによって親密な友人関係をきずく。 多くのひとが親密な友人をもてないのは自分についてのほんとうに大事なことを恥ずかしがってあかしたがらないからなんだ。」 ドラコは招きいれるように手のひらをひらいた。「きみの番だぞ?」
期待をよせるようなドラコの表情はおそらく何カ月も練習して教えこまれたものだ……ということが分かっても効果は弱まらない、とハリーは観察した。 いや、
「ドラコ、言っておくけれど、きみがやろうとしていることがなにか、ぼくにはよくわかっているよ。 ぼくの本ではこれは『互酬性』とよばれていて、なにかをしてもらいたいときに、二シックルをいきなり贈ることは二十シックルを報酬として提示するよりも二倍も効果的だと……」 ハリーはそのまま声を小さくして言いやめた。
ドラコは悲しそうに失望した表情をした。 「トリックのつもりじゃないよ。これはほんとうに友だちになるための方法なんだ。」
ハリーは片手をあげた。 「返事しないとは言っていない。プライヴァシーにふみこみつつも害のない話をさがすのには時間が必要なんだ。言ってみれば……ぼくをせかしてもうまくいかないということを伝えておきたかっただけ。」 応諾のテクニックの効果は多くの場合、それと認識できてさえいれば、一度とまってふりかえってみることでかなりそぐことができる。
「わかった。きみがなにか思いつくまで待とう。 ああ、言うときにはそのスカーフをはずしてくれよ。」
単純だが効果的だ。
ハリーは操作/虚勢/誇示に抵抗しようとする自分のこころみがドラコにくらべていかに不器用でぎこちなく気品のないやりかたかを感じずにはいられなかった。
「わかった。」としばらくしてハリーが言う。「これにしよう。」 ハリーはあたりをみまわしてからスカーフを顔からまきとり、傷あと以外のすべてが見えるようにした。 「その……きみのお父さんはたよりになるようだ。たとえば……きみが真剣に話をすれば、お父さんはいつもそれをきいて真剣にあつかってくれるというように。」
ドラコはうなづいた。
「ときどき、」と言ってハリーは息をすった。これは意外に言いにくい。まあ、言いにくくて当然だけれど。「ときどき、ぼくはパパがきみのお父さんみたいだったらいいのにと思う。」 ハリーはほとんど無意識にひるんで目をドラコの顔からはずしたが、無理をしてドラコのほうにもどした。
そこでハリーははっとして、『ぼくはなにを言ってるんだ』と気づいて、いそいでつけたした。 「ルシウスのように完全無欠な殺人機械であってほしいというわけじゃなくて、ただぼくを真剣にあつかってほしいという意味で——」
「わかるよ。」とドラコは笑顔で言う。「ほら……これで少し友だちにちかづいた感じがしないか?」
ハリーはうなづいた。「うん。たしかにする。その、また変装をもどしたいんだけど、気をわるくしないで。あの手の人たちにかかわるのは
「わかるよ。」
ハリーはスカーフをまた顔にまきつけた。
「父上は友だちを真剣にあつかう。だから友だちが多い。きみは一度父上にあったほうがいいよ。」
「考えておく。」とどちらともつかない声で言って、ハリーはおどろいたようにくびをふった。「つまりきみは彼の弱点なんだな。ふうん。」
ドラコはこんどは
ハリーは自分が一カ所にあまりにながく立っていたことに気づいて、背のびをしてからだをほぐそうとした。「いいね。」
乗り場は人でうまりはじめていたが、赤い蒸気機関から離れた奥のほうにはまだ静かな場所があった。 そこにいくまでに、二人はあたまがはげた、ひげのある男がいる売店をとおりすぎた。商品には新聞とコミック本とネオングリーン色の缶の山がある。
店の主はちょうどうしろによりかかってネオングリーン色の缶を飲んでいたところで、上品で気品のあるドラコ・マルフォイと、スカーフを顔にまきつけてものすごくばかっぽく見える謎の少年の二人組がむかってくるのに気づいた。そして二人のすがたを見て急にせきこみ、かなりの量のネオングリーン色の液体をひげにたらした。
「ちょっとすいません。それの正体はいったいなんですか?」
「コメッティーだよ。」と店の主。「飲むと、なにかおどろくようなことがかならず起きて、自分かほかのだれかにふきこぼしてしまう。でも数秒で消えるように魔法がかけられているから——」 たしかにひげのしみはもう消えはじめている。
「くだらない。」とドラコ。「まったくくだらない。ミスター・ブロンズ、ほかの店にしよう——」
「待って。」とハリー。
「そんな……そんな
「申し訳ないけどドラコ、ぼくはこれを調査
店の主は謎めいた笑顔をした。 「さあねえ? 友だちがカエルの衣装をきて歩いてくるとか? 予想できないなにかがきっと起こるはず——」
「すみませんが、信じられませんね。そんなのは、ただでさえ濫用されているぼくの不信の一時停止を、数える方法が思いつかいほど何段階にもわたってやぶってしまう。 ただの
ドラコはうめいた。「
「きみは飲まなくてもいい。でもぼくは調査
「一缶五クヌート。」と店の主。
「
「ぼくもひとつもらおう。」とドラコがためいきをついて、ポケットに手をのばそうとした。
ハリーはすばやくくびをふった。「いや、おごるよ。貸しでもない。きみにも効果があるか、調べたいんだ。」 ハリーはカウンターにだされた一山のなかから缶をひとつをドラコに投げてから、のこりをポーチにしまいはじめた。ポーチの〈口さけ口〉は缶を食べおわると小さなゲップの音をだした。いつかこのすべてに理屈のとおる説明をみつけるという信念をとりもどそうとするハリーだったが、その音でやや意気がそがれた。
二十二回のげっぷを聞いてから、ハリーは買ったうちの最後の缶を手においた。ドラコはそれを待ちかまえていて、二人はいっしょに輪をひいた。
ハリーはスカーフをまきあげて口をだし、二人はあたまをそらせてコメッティーを飲んだ。
どこか明るい緑色の
それ以外は、なにも起こらなかった。
店の主のほうはというと、やさしそうなまなざしを投げかけてきていた。
よし、もしあの人がただの事故を利用してぼくに二十四缶を売りつけたのなら、その創造的な商人根性を賞賛してから殺してやる。
「すぐに起きるとはかぎらない。」と店の主。「一缶ごとに確実に一度起きる。起きなければ返金する。」
ハリーはもう一回ゆっくりと飲んだ。
こんどもなにも起きなかった。
もしかすると、できるだけのはやさで一気飲みして……おなかが炭酸で破裂しないことをいのるほうがいいのかな。それとも、飲んでいるあいだにげっぷをしないようにするとか……
いや、
「ともかく、座ろう。」と言ってハリーはもう一飲みする準備をして、遠くの座れる場所へとあるきだした。そこでふりかえると、ちょうどいい角度でその店の新聞スタンドの部分が見え、そこには『
死ななかった少年の子を
ドラコ・マルフォイが妊娠
ハリーの方向から明るい緑色の液体がふりかかってくると、「
完全に反射的にハリーは自分の方向にふりかかってくる液体から顔をまもろうとした。 残念ながらその手にはコメッティーがにぎられていたので、のこっていた緑色の液体が自分の肩にかかった。
ドラコのローブからは緑色がきえはじめている。まだのどをつまらせたりふきだしたりしながらハリーは自分の手の缶をみつめた。
そして目線をあげて新聞の大見出しをみつめた。
死ななかった少年の子を
ドラコ・マルフォイが妊娠
ハリーのくちびるがひらいて「デボブブ……」と言った。
たがいにあらそう反論がいくつもありすぎる。それが問題だ。 『でもぼくたちはまだ十一歳じゃないか!』と言おうとするたびに『でも男は妊娠できないじゃないか!』という反論が優先権を主張したかと思うと『でもぼくたちはなにもしてないじゃないか!』にさきをこされる。
そしてハリーはもういちど自分の手の缶を見た。
ハリーはこころの底から、酸素がなくなって倒れるまでちからいっぱいさけびながら走りだしたいという欲望を感じた。それをとどめているただひとつのものは、あからさまなパニックは
ハリーはうなって缶をちかくのごみ箱へと乱暴にほうりなげ、のしのしとあの店にもどった。 「『ザ・クィブラー』ひとつください。」 四クヌートをしはらい、コメッティーをもう一缶ポーチからとりだし、金髪の少年がいる食事エリアにのしのしとひきかえす。 ドラコはすなおに感心したような表情で自分の缶をみつめていた。
「前言撤回。なかなかよかった。」とドラコ。
「ねえドラコ。秘密を教えあうよりも友だちになるのにやくだつ方法があるよ。人を殺すこと。」
「そうすすめる家庭教師がうちにいる。」 ドラコはうけいれた。彼はローブのなかに手をいれ、なにげない自然な所作でからだをかいた。 「具体的にはだれを?」
ハリーは『ザ・クィブラー』をテーブルにたたきつけた。 「この見出しを書いた男を。」
ドラコはうめいた。 「男じゃない。女の子だ。
あまり考えずにハリーはつぎのコメッティーの缶の輪にゆびをかけて飲む準備をした。 「うそだろう? マグルの報道機関よりひどい。あれよりひどくするのは物理的に不可能だと思ってたよ。」
ドラコはうなった。 「あいつはマルフォイ家になにか執着があるらしいんだ。父親もぼくたちに反対しているから、それを一言一句そのまま印刷する。 ぼくは成人したらすぐにあいつを強姦してやろうと思ってる。」
緑色の液体がハリーの鼻から飛びだし、そのあたりにまだかかっていたスカーフにしみた。 コメッティーは肺とそりがあわず、ハリーはつぎの数秒間必死にせきこんだ。
ドラコはハリーをするどい視線で見た。 「どうした?」
このとき、ハリーははたといくつかのことに気づいた。 (一)ドラコがローブに手をいれたのとほぼおなじタイミングで列車乗り場のほかの音がすべてぼやけた白色雑音のようなものに変化した。 (二)人を殺すことを仲間づくりの方法として話しあったとき、ジョークを言っているつもりだったのはその場にいたうちのちょうど一名だけだった。
そうか。ドラコはふつうの子どもに
「うん、それは……」 ハリーはせきばらいした。おいおい、こんな難所からどう言えばぬけだせるんだ。 「きみが隠そうともせずに話す用意があるのにおどろいただけ。つかまったりすることを心配していないみたいだったから。」
ドラコは鼻さきで笑った。 「冗談だろう?
あいた口がふさがらない。 「魔法をつかった嘘発見器みたいなものはない、ということかな?」
ドラコはあたりをみまわした。怪訝そうな目をしている。 「そうだった。きみはなにも知らないんだな。じゃあ、きみがもうスリザリン生になっていてぼくがおなじことをきかれたつもりで、どういうしくみなのか説明してあげよう。 でもこのことは他言しないと誓ってほしい。」
「誓う。」
「裁判では〈真実薬〉がつかわれる。でもこれは冗談にもならない。証言するまえに自分を
冷たい寒けがハリーのからだをかけぬけた。その寒けとともに、自分の声と表情を平静にたもてという指令がきた。
ハリーはもういちどせきばらいをした。 「ドラコ、ぼくはかならず約束はまもるし、決して決して
「その場合、もしぼくがマルフォイ一族でなければ、こまったことになる。」 ドラコは得意げにこたえる。 「でもぼくは
ああ、ぼくは今日どこでまちがったんだろう?—— 考えるよりもはやくハリーの口がうごきだす。 「そのときは
「そういうことか。」とドラコ。まだすこしうたがっているようだ。「でもとにかく、いつでも〈闇ばらい〉のやっかいにならないようにするほうがかしこい。 〈治癒の
そのぶざまな魔法の暗黒時代のかすかな痕跡までもずたずたにひきさいてそれを構成する原子よりも細かなつぶにしてやる。 「いや、その方法はやめないか? あの見出しを書いたのがぼくより一歳年下だと聞いてから、別の復讐の案を思いついた。」
「ほう? なんだい。」と言ってドラコはコメッティーをもう一飲みしはじめた。
あの魔法が一缶ごとに一度以上発動するのかどうかはわからないが、糾弾を回避できるのは
「
ドラコはぶじゅっというひどい音をだして、こわれた車のラジエーターのようにして緑色の液体を口のはしからこぼした。 「気でも狂ったか?」
「まったく逆。氷が燃えるように正気さ。」
「レストレンジよりも趣味がわるい。」と半分賞賛するようにドラコが言う。「多分ひとりじめしたいんだな?」
「うん。そうさせてもらえれば恩にきる——」
ドラコは手をふった。「いや、あれはあげるよ。」
ハリーは手のなかの缶をみつめた。その冷たさが自分の血にしみこんでくる。 友だちにゆずってあげたことでほがらかに、幸せそうに、寛大そうにしているドラコはサイコパスではない。 そのことがまさに悲しく悪質なところだ。心理学を知ればドラコが怪物でないことがわかる。おなじような会話が有史以来一万もの社会でかわされたことがあってもおかしくない。 いや、もし
〈理性の時代〉がまだ明けていない暗闇に取り残されたこの国ではいまだに、それなりに有力な貴族の息子が、自分は法律の埒外にいられて当然だと思っている。すくなくとも平民の女の子に関するかぎりは。 マグルの国にもおなじような場所はある。いまだにこういう貴族が存在しておなじような考えたをしている国もあるし、貴族どころではないひどい場所もある。 〈啓蒙思想〉をうけついでいない場所や時代はすべてそうだ。 その系統にどうやらブリテン魔法界は属していないらしい。プルタブつきの飲料缶といった異文化の汚染をうけているにもかかわらず。
そしてドラコがもし復讐をするつもりのまま気がかわらなかったら……ぼくが自分がしあわせになる可能性をほうりなげてかわいそうな気違いの女の子と結婚しなかったとしたら……ぼくがやったことはただの時間かせぎにすぎない。しかも大した時間かせぎではない……
女の子ひとり分。ただそれだけ。
有力純血主義者のリストをつくって全員殺してしまうのはどれくらい大変だろうか。
〈フランス革命〉ではまさに、かなりそれにちかいことがおこなわれて——〈進歩〉の敵のリストをつくり、くびよりうえのすべてを消して——ハリーの記憶しているかぎりでは、ろくなことにならなかった。 多分、お父さんに買ってもらった歴史の本をいくつかひっぱりだして、〈フランス革命〉でうまくいかなかった点を修正するのは簡単そうかしらべる必要がありそうだ。
ハリーは空をみあげた。雲のない朝の空に、青じろい月が見える。
つまり世界は破綻と欠陥と狂気にみちていて、残酷で残忍で邪悪だと。これがニュースだとでも? もともとわかりきっていたことだろう……
「ずいぶん深刻そうな顔だな。」とドラコが言う。「あててみよう。こういうことはいけないことだときみのマグルの両親に言われたんだろう。」
ハリーは声があてにならないので、うなづいた。
「そうだな、父上に言わせれば、寮は四つあろうともけっきょくはみなスリザリンかハッフルパフかのどちらかだ。 はっきり言ってきみはハッフルパフのがわじゃない。 裏でマルフォイ家の……権力と名声の……がわにつくときみが決断したなら、きみは
かしこいヘビの子じゃないか。十一歳でもう獲物を隠れ家からおびきよせようとしている……。
ハリーはしばらく考えて検討し、武器をえらんだ。 「ドラコ、純血主義というのがそもそもなんなのか教えてくれないか。まだよく知らなくて。」
ドラコがにっこりとした笑みをみせた。 「そういうことなら、父上にあって聞くべきだよ。父上がぼくたちのリーダーなんだから。」
「三十秒ヴァージョンを教えてくれ。」
「よし。」とドラコは深呼吸をして、声をすこしひくくして、調子をつけた。 「世代をかさねるたびにぼくたちのちからは弱まり、泥血のけがれは強まる。 サラザールとゴドリックとロウィナとヘルガはかつてみずからのちからでホグウォーツをきずいた。〈
「説得力がある。」とハリーは規範的にではなく記述的に言った。 典型的なパターンだ。〈栄華〉からの〈転落〉、汚染に対抗して純潔をまもる必要性、高みにある過去から下降していくばかりの未来。そしてこのパターンについては
ドラコのあたまがくるりとまわった。「
「ぼくたちというのは、科学者だ。 フランシス・ベイコンにつらなる者、〈啓蒙思想〉の血統だ。 マグルは杖がないことをなげいて立ちすくんでいただけじゃない。魔法があろうとなかろうと、
ドラコは数フィートあとずさりして、恐怖と不信にみちた表情をした。
「ぼくは
「とにかく、きみたちはマグル世界のできごとについてあまり注意をはらってこなかったようだっていうこと。」 それはおそらく、魔法世界全体が地球ののこりの部分をスラムだとみなしていて、『フィナンシャル・タイムズ』がブルンジの苦しみの日常にさいた紙面の量と同程度の注目しかしてこなかったからだろう。 「そうだ。ひとつチェックしよう。月にいった魔法使いはいる? ほら、あれのこと。」 と言って、ハリーははるかかなたの巨大な球体を指さした。
「
「ちょっと待ってて。ここにもってきた本をひとつみせてあげる。どの箱だったかおぼえていると思う。」 ハリーはたちあがって、ひざをついて、トランクの地下一層目への階段をひっぱりだし、階段をどしどしとくだって、本をかろんじることに危険なほどちかいやりかたで箱をつぎつぎにほうりなげ、箱のおおいをはがして、すばやく、しかし慎重に本の山をのぞいた——
(一度みただけであらゆる本のありかを記憶するという、ほとんど魔法のようなヴェレス家の能力をハリーはうけついでいる。遺伝的な関係がないことを考えると不思議だ。)
ハリーは階段のうえまでかけあがると、かかとでそれをトランクにしまって、息を切らせながら、ドラコに見せたかった写真があるところまでページをめくった。
その写真に映っているのは、白く乾燥したクレーターのある地面と、防護スーツをきた人間。そして上方には青と白のまざった球体。
あの写真だ。
世界じゅうで写真を一枚しかのこせないとしてものこるであろう、
「これが……」と言って、誇りをあらわにするのを我慢しきれず、ハリーは声を震えさせた。「月から見た地球だ。」
ドラコはゆっくりとのぞいてきた。おさない顔に怪訝そうな表情がうかんでいる。 「これが
ドラコのゆびが防護スーツをきた人影のうちのひとつをさした。 「これはなんだ?」 その声がぐらつきはじめる。
「これは人さ。全身をおおう防護スーツから空気をもらっている。月には空気がないんだ。」
「うそだ。」とドラコは小声で言った。恐怖と、あからさまな困惑が目にあらわれている。 「マグルにこんなことができるはずがない。
ハリーは本をとりもどして、それがあるページまでめくった。 「これがロケットが打ち上げられているところ。 炎がこれを上へ上へと、月につくまでおしだす。」 また何ページかめくる。 「これはロケットが地上にあるところ。となりの小さな点が人だ。」 ドラコは息をのんだ。 「月にいくのにかかった費用は……多分十億ガリオンくらいにあたる。」 ドラコの息がとまった。 「労力は……多分ブリテン魔法界の住人を全部あわせたよりもおおい。」 そしてついたとき、彼らはこういう立て札をのこした。『われわれは全人類を代表して平和のうちに来た』 ただ、ドラコ・マルフォイ、きみはまだこれを聞く準備ができていない……
「きみはほんとうのことを言っている。」とドラコがゆっくりと言う。 「これだけのためにわざわざ本を一冊でっちあげるはずがない——それにきみの声でわかる。でも……でも……」
「どうやって、杖も魔法もなしで? 話すとながくなるよ。 杖をふって呪文をとなえても科学はできない。自分のやりたいことを宇宙にさせるためになにをしなければならないかがわかるように、宇宙のしくみを深いレヴェルで知ることが科学のやりかただ。 〈
「でも……」 ドラコの声は震えている。 「もし
「そうじゃない、わからないか? 科学は人類の理解力をつかって世界のしくみを解きあかそうとする。 科学は人類がなくならないかぎりなくならない。 きみの魔法力はなくなるかもしれないし、それはいやだろうけれど、それでもきみは
ドラコは本から目をはなしてハリーのほうをむいた。理解がめばえた表情をしている。 「魔法族もそのちからをまなぶことができる。」
ここからは慎重に……えさはしかけた、つぎは釣り針を…… 「自分を
……というような教えはそんじょそこらの科学カリキュラムに含まれていないとしても、わざわざドラコにそう知らせる必要はないだろう。
ドラコは思案するような目つきをした。 「きみは……もうその訓練をうけたのか?」
「ある程度は。」とハリーはうけいれた。 「ぼくの訓練は終わっていない。十一歳では終わらない。でも——
ゆっくりとドラコがうなづいた。 「きみは
ハリーは邪悪な笑い声をだした。ここまでくると自然にそれができた。 「きみが知っている世界全体、つまりブリテン魔法界は、ずっとおおきなゲーム盤のうえの一角にすぎないということをわかってほしい。 そのゲーム盤には月とか夜空の星ぼしとかもある。星ぼしは太陽みたいなもので、ただ想像できないほど遠くにあるだけだ。銀河なんていうものは地球や太陽よりはるかにおおきい。そのほか科学者でないとみることができず、きみはその存在すら知らないものもある。 でもぼくはレイヴンクローで、スリザリンじゃない。宇宙を支配したくはない。宇宙をもうすこし理解しやすく整理できるんじゃないかと思っているだけだ。」
ドラコは驚嘆の表情をした。 「なぜ
「ああ……
ドラコは口をあけたままハリーをみつめた。
「でも勘違いしないでね。真の科学は魔法とは
ドラコはまるでやっと自分が理解できる話になったと言いたげにうなづいた。 「その代償というのは?」
「自分がまちがったとみとめられるようになること。」
ドラマティックな沈黙がしばらくつづいたあとでドラコがこう言った。 「ええと、説明してもらおうか。」
「そこまで深いレヴェルでものごとのしくみを知ろうとすると、最初九十九個の説明はまちがいになる。 百番目がただしい。 だから自分がまちがったと何度も何度もみとめられるようにならなければならない。 たいしたことのように聞こえないだろうけど、たいていの人はここでつまづくせいで科学ができない。いつも自分をうたがうこと、あたりまえだと思っていたことを別の角度からみること。」 たとえばクィディッチの〈スニッチ〉のように。 「ひとは意見をかえるたびに、自分をかえる。でもちょっとこれは先ばしりしすぎだ。かなり先ばしりしすぎだ。いまのところはただ……ぼくは自分の知識の一部をきみにあげてもいいと思っているということ。 もしきみがのぞむなら。ただしひとつ条件がある。」
「へえ。父上に言わせれば、そのせりふをだれかに言われたときは、まずいい兆候ではありえない。」
ハリーはうなづいた。 「そうだな、まず誤解をといておきたいんだけど、ぼくはきみとお父さんを仲たがいさせようというつもりは、 ぜんぜんない。 たんに、取り引きをするなら、ルシウスを相手にするより同年代のだれかがいいと思っているだけ。 きみのお父さんもきっと、これでいい、きみも成長すべきときがきた、と言ってくれると思う。 このゲームでのきみの一手はきみのものでなければならない。 条件というのはそういうこと——ぼくはきみのお父さんではなくドラコ、きみと取り引きをする。」
「失礼する。」とドラコがたちがある。「しばらく一人で考えさせてもらう。」
「ごゆっくり。」とハリー。
ドラコが離れていくと、列車乗り場の音がぼやけた音からつぶやき声にかわった。
ハリーは意識しないまま止めていた息をゆっくりとすい、手くびの時計を見た。お父さんが魔法のある場所でもうごくようにと買ってくれた機械式の時計だ。 秒針はまだうごいている。分針がただしければ、まだ十一時ではない。 多分はやめに列車にのって、あのなんとかという名前を女の子をさがしたほうがいいのだが、もうすこし呼吸の練習をして血がもとのようにあたたかくなったどうか確認しているくらいの時間はあると思う。
時計から目をはなしてみあげると、二人の人影がちかづいてきていた。冬用スカーフを顔にまいて非常にばかげたかっこうをしている。
「こんにちはミスター・ブロンズ。」と覆面の二人のうちの一人が言った。「〈混沌の騎士団〉にくわわることに興味はおありかな?」
余波:
それからさほどの時間がたたないうちに、その日のさわぎがようやくおちついたあとで、ドラコは羽ペンを手に机にむかっていた。 ドラコはスリザリンの地下洞に個室がある。専用の机と暖炉がある部屋だが、残念ながら彼でさえ〈
『父上』、とドラコは書いた。
そこで止まった。
羽ペンからインクがしたたり、羊皮紙のうえの文字のちかくをよごした。
ドラコはバカではなく、おさないとはいえ家庭教師によく訓練されている。 ポッターについては、おそらく本人が言う以上にずっとダンブルドアに共感しているだろう、ということも分かっている……だが、誘惑することもできそうだ、と思っている。 一方で、ドラコがポッターを誘惑しようとしていたのとおなじように、ポッターはドラコを誘惑しようとしていた、ということも火をみるよりあきらかだ。
ポッターが頭脳明晰なこと、ちょっとどころではなく狂っていること、ポッター自身ですら理解していないほど巨大なゲームを相手にしていること、あばれまわるナンドゥほどの繊細さで最高速度の即興をしていたことはあきらかだ。 だがポッターはドラコに手を引かせさせないような戦略をうまくえらんだ。 自分のちからの一部をドラコにさしだしたのだ。ドラコが彼のようにならないかぎりそれをつかうことはできないだろう、と踏んでだ。 父上はこれを高等戦略と呼んで、たいていうまくいかないとドラコに警告したことがある。
今日おきたことすべてを自分が理解してはいないことは分かっているが……ポッターは
けっきょくは簡単なことだ。 下等な戦略は、標的にそうと気づかれると失敗する。すくなくとも、そうと確信されれば失敗する。 お世辞はもっともらしく賞賛のようにみせかけなければならない(『きみはスリザリンにはいるべきだ』というのは古典的だが、それを予想していないある種の人には効果的で、うまくいったならもう一度つかうことができる)。 だが、だれかの究極のてこをみつけることができれば、みつけたこと自体を知られても問題はない。 ポッターは死にものぐるいになって、ドラコの魂の鍵を言いあてた。 そしてポッターがそれを知ったことをドラコが知ったとしても——たやすくそう言いあてることができたとしても——なにもかわらない。
いま、ドラコは人生ではじめて、ほんとうにまもるべき秘密を手にした。 ここからは自分のゲームだ。ぼんやりとした痛みがあるが、父上はこのことを誇りに思ってくれるはずだから、なにも問題はない。
インクのしみはそのままにして——ここにはメッセージがある。父上とは機微のゲームを一度ならずかわしたことがあるから、父上は理解するだろうメッセージが——。 ドラコは一連のできごとのなかでひどくなやまされたひとつの疑問、つまり、理解
父上
まだわれわれの交友圏内に含まれていないとあるホグウォーツ生とぼくが出会い、その子が父上を「完全無欠な殺人機械」と呼び、ぼくを父上の「弱点」だと言ったと仮定します。そのような子について一言いただけるとしたらなんでしょうか?
ほどなくして一家のフクロウが返事をとどけにきた。
愛する息子へ
われわれの友人にして貴重な協力者たるセヴルス・スネイプの信頼と親愛をかちとることができる人物におまえが出会えたことは実によろこばしい、という一言になるだろう。
ドラコはその手紙をしばらくみつめたあと、暖炉にほうりこんだ。
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky
今回の非ハリポタ用語:「啓蒙思想」
18世紀ごろのヨーロッパでもりあがった思想の潮流で、人間を中心とする進歩主義的・自由主義的世界観。アイザック・ニュートンやジョン・ロックのイメージ。フランシス・ベイコンやガリレオ・ガリレイはその先行者ともいえる。教会や神にとらわれていた中世の学問世界と対比される。
おまけ:「あの写真」
「nasa moon landing」あたりでググるとNASA公式サイトにある写真がいろいろ見られるので、興味があればどうぞ。