「いまはもう、この学校で狂っていないのは自分一人しかいない、っていう気はしないけどね。」とダフネはできるかぎり声をひそめて言う。
「そうじゃない仲間があと七人できたから?」と左どなりで忍び足をしているラヴェンダー・ブラウンが言う。
「そういう意味じゃなさそう。」ともうひとつ左がわの位置からグレンジャー司令官が言う。
八人はじりじりと慎重に廊下を踏破していく。同時に〈事件〉の音がどこからか聞こえてこないか、耳をすませている。ちょうど奇襲攻撃をしかけるために敵に忍び寄るときと似ているが、今回はいじめっこを見つけて〈成敗〉し被害者を〈救出〉するのが目的だ。しかも、朝食のあと、ラヴェンダーとパーヴァティが〈薬草学〉に出席するまでの時間に終わらせなければならないという時間的制約もある。
事前の議論でまずラヴェンダーが提唱したのが、一年生の女子一人で年長のいじめっこ三人に勝てるなら、女子八人がいれば二十四人まではいける、という〈乗算〉理論だった。
グレンジャー司令官は説得力を感じなかったらしく、手ぶりをまじえて早口で反論した。
パドマはしばらくその議論の様子を見ていたが、やがて口をひらいて、いくらホグウォーツでも一年生女子に手をだしていじめっことしての評判が落ちないはずはない、という意見をのべた。
パーヴァティはそれを聞いて姿勢をただし、それはこのメンバー以外にいじめ問題に取り組める人がいないということだから、ヒロインとして引き受けないわけにはいかない、と熱心に言った。 つけくわえて、パティル家は世界で唯一死亡率ゼロの魔法学校に二人をいれさせるためにわざわざブリテンに引っ越してきたんだから、多少冒険してみないと損だ、とも言った。
それを受けてグレンジャー司令官は、パーヴァティは死亡事故ゼロ記録の意味を完全に履き違えている、と返し——
ラヴェンダーは、このメンバーがほんとうに対等な関係で、クィレル先生が言うような上下関係でないなら、こういうことは投票で決めるべきだ、と言った。
ハーマイオニーとスーザンとハンナが反対票をいれるとすれば、自分一人の票が決定的な一票になる……というのがダフネの予想だった。 なので、ここはスリザリン生としてしっかりしなければと思い、一時の勢いに流されず、しっかり考えることにした。 ほかの人たちを助けるために走りまわっているうちに自分たち自身の利益をそこなっては元も子もない。そうならないよう、自分が目を光らせなければならない——リスクの大きさをよく見きわめ、自分たちの利益が確保できる道をえらぶ。母ならそうしていたはず。 自分自身と自分の仲間をおびやかすものに目をくばることこそ、スリザリン寮の本領だということを忘れてはならない……。
心配性のおとなしいハッフルパフ生ハンナ・アボットが、震える声で「賛成」に一票を投じた。
おかげでダフネとスーザンとハーマイオニーとしては、ほかの五人だけでやらせるわけにもいかず、けっきょく折れた。 まず、グリフィンドール生のだれかがボーンズ家の唯一のあとつぎに手をだしたとなれば一生の汚点になるだろうし、スリザリン生のだれにも〈元老貴族〉グリーングラス家の娘に危害をくわえる度胸はないだろう(すくなくともそう信じたい)、という計算がある。 そしてグレンジャー司令官はそもそも言いだした張本人だから……脱け出すわけもなかった。
緊張する手をつねに杖のちかくに置きながら、ひとつ、またひとつ、と廊下を渡り歩いていく。石と木と〈消えない
ヒロイン一行はすこしずつ歩みをすすめ、オーク材の天井に壮麗なフレスコ画がしつらえられた一角を通り、行き止まりまで来てそこが男子トイレの入り口であることに気づき、回れ右してオーク材の天井に壮麗なフレスコ画がしつらえられた一角をまた通過して引き返した。つぎは古いセメントでかためられた年代ものの煉瓦の通路をくぐりぬけた。そのあたりは湾曲していて円のようになっていたので、肖像画にたずねて、また別の古い煉瓦の廊下を通り、大理石のみじかい階段をのぼった。これがホグウォーツでさえなければ中三階の高さに来ていたはずだった。また石敷きの通路になり、天井窓から太陽の光がふりそそぐが、そこはどうみても最上階などではない。またいくつか角をまがっていくと、またしても、別の男子トイレにたどりつく。案内板には分かりやすく、便器に小便をしているローブすがたの人のシルエットが描かれている。
八人は疲労感とともに、閉ざされたそのドアを見つめた。
「退屈。」とラヴェンダーが言った。
パドマがこれ見よがしに懐中時計をとりだして言う。 「十六分三十秒。 これだけ集中力を持続できればグリフィンドールとしては上出来。新記録ね。」
「ハッフルパフとして言うけど、わたしもこれじゃうまくいかないと思う。」とスーザン。
「ねえ、もしかして……」とラヴェンダーが思案げな顔で言う。 「ヒーローっていうのは、ちょっと出かけるだけで
「いい勘してる。」とトレイシーが言う。「……もしここにハリー・ポッターがいれば、きっと最初の五分でいじめっこ三人と宝ものでいっぱいの部屋にいきあたってたはずよ。 〈カオス〉軍司令官なら、ちょっとトイレにいくだけでスリザリンの〈秘儀の部屋〉への入りぐちを見つけちゃったりして——」
聞き捨てならない発言だったので、ダフネは割りこんだ。 「スリザリン卿が〈秘儀の部屋〉への入りぐちを
トレイシーが反論しかけたが、スーザンが機先を制した。 「あのね、わたしが言いたいのは……これじゃいじめを発見できそうにないっていうこと。 いじめっこはただどこかでハッフルパフ生を一人見つければいいだけだけど、わたしたちはぴったりそのタイミングにあわせて、いじめの現場に出くわさなきゃならない。 そこでつまづいてるのは実はいいことで、もしほんとに出くわしてたら、わたしたちはとっくに踏みつぶされてるんだけどね。 やっぱりさ、あの三階の禁断の通廊にしない?」
ラヴェンダーが鼻で笑った。 「いくら禁断でも、総長にやるなと言われたことをそのままやるだけで
(考えるほどに分からなくなる論理だったので、ダフネは〈組わけ帽子〉が自分にグリフィンドール寮をちらつかせようともしなかったことに内心感謝した。)
「よく考えたら……」とパーヴァティが言う。「ハリー・ポッターがこの学校に来て一日目の朝にいきなりいじめっこ五人に出くわすなんて、ちょっと不自然じゃない? なにかうまいやりかたがあったんだよ、きっと。」
ダフネのいる位置からパーヴァティを見ていると、自然とハーマイオニーのすがたが目にはいる。なのでダフネはハーマイオニーの表情が変化する瞬間をしっかり目撃した——そういえば、この〈太陽〉軍司令官自身、最近いじめっこを見つけたじゃないか——
「あっ! そうか!」とパドマがひらめいたような声で言った。「サラザール・スリザリンの
「はあ?」とダフネとほかの数人が同時に言った。
「わたしをおどしにきたのもきっと、そのゴーストだったんだと思う。 すぐには気づかなかったんだけど……うん。 サラザール・スリザリンのゴーストはスリザリンがいじめをするのが気にいらない。スリザリンの名前をけがす行為だと思っている。そのゴーストはいまもホグウォーツ全体の結界につながってて、この城のなかのできごとをなんでも知ってるのよ、きっと。」
ダフネは口をぽかんとあけた。見ると、ハンナは片手をひたいにあてて、壁によりかかっていた。トレイシーは茶色の星のような目をかがやかせていた。
……サラザール・スリザリンの
……
……そればかりか
ドラコ・マルフォイがこれを聞いたらどんな顔をするだろう……その場にいあわせられるなら、百ガリオン支払ってもいい、とダフネは思った。
ただ、ホグウォーツ内で噂がひろまる速度を思えば、この話もいったんパドマが声にしてしまった以上、ミリセントを経由していまから三十分まえにマルフォイの耳にはいっていてもおかしくない……
ん?……考えてみれば、それって……
「それじゃ……」とパーヴァティが言う。「〈死ななかった男の子〉からサラザール・スリザリンのゴーストの居場所を聞きだす、ってことでいい? あ、何かこういうせりふって、ほんとにヒロインになったみたい——」
「うん!〈死ななかった男の子〉からサラザール・スリザリンのゴーストの居場所を聞きだす! それに決まり!」とラヴェンダー。
「〈死ななかった男の子〉に……サラザール・スリザリンのゴーストの居場所を……教えてもらう……」とハンナがしぼりだすような声で復唱する。
「それでもだめなら……」とトレイシーが言う。「ハリー・ポッターを気絶させて、縄で縛って連れまわす!」
八人は授業の時間になってもいじめっこを見つけられず、ホグウォーツという名の入り組んだ迷路から引きかえした——そのときハーマイオニー・グレンジャーは、ハリー・ポッターがサラザール・スリザリンか、でなければ不死鳥か、とにかく
各メンバーの様子はというと、トレイシーとラヴェンダーは話していて、ほかのみんなはそこにときどき口をはさんでいる。 ハーマイオニーの視線は、おとなしくもの静かなメンバー一名のところで止まった。いまこの時点で、ハーマイオニーがまったく読めない思考をしているのはこの子だ。
「ハンナ?」と横を歩くその女の子に、ハーマイオニーはできるかぎりやさしく声をかける。 「答えたくなかったら答えなくていいんだけど……あなたがいじめっこと戦うほうに投票した理由をきいてもいい?」
十分小声で話したつもりだったが、聞こえてしまったのか、全員が歩みを止めた。ラヴェンダーとトレイシーも話をやめ、こちらを見た。
ハンナのほおが赤く染まる。そしてハンナが口をひらこうとしたところで——
「そりゃ、あなたが思っているほどハンナは意気地なしじゃないからよ。」とラヴェンダーが言った。
ハンナは口をあけたまま止まった。
そして口をとじた。
そしてちからをこめて息をすい、ほおをさらに赤くした。
ゆっくり息をはいてから、小さな声でハンナは言った。 「好きな男の子がいるの。」
そう言ってハンナは身震いし、すばやく不安げに一人一人と目をあわせていった。そのあいだ、ほかのだれも動かず、声もださない。
「えーと……それだけ?」とスーザンが静寂をやぶった。
「好きな男の子なら、わたしは五人いるわ。」とラヴェンダー。
「パドマとわたしはいつもおなじ男の子を好きになるから、いっしょにリストをつくってあって、どっちがだれに先手をとるかも、クヌートをトスして決めてある。」とパーヴァティ。
「あたしはもう自分の将来の旦那さまがだれか分かっちゃったから……なんと言われてもいい。彼はあたしのものになる!」とトレイシー。
そこまでくると、七人全員がハーマイオニーを期待のまなざしで見た。ハーマイオニーの脳はトレイシーの一言をきれいさっぱりなかったことにして、ハンナの最初の返事の内容に集中した。
「ええと……」と言ってハーマイオニーはこんども、やさしい声をするようつとめた。 「それはつまり、自分が英雄になれたら好きな男の子に気にいってもらえると思った、だから〈魔女のための英雄機会均等振興協会〉のメンバーになった、っていうこと?」
ハンナはもう一度うなづき、ほおを一段と真っ赤にしてうつむき、黒光りする靴に映る自分を見つづけた。
「ちなみにその好きな男の子っていうのは、ネヴィル・ロングボトムね。」と言ってダフネが残念そうにためいきをつく。 「……ところが彼にはもう別の結婚相手が決まっている。悲劇だわ。」
それを聞いてハンナはうつむいたままの姿勢で、甲高い悲鳴のような声をだした。
「え、なにそれ。」とラヴェンダー。「ネヴィルがだれと結婚するの? どこで仕入れた情報? 教えなさいよ。」
ダフネはただ悲しげにくびをふって、目を伏せた。
「ちょっと静かにしてくれる?」とハーマイオニーが言うと、ほかのみんながまた注目した。 「えーと……」と言って、考えをまとめようとする。 「その……うん……ハンナは……男の子に好かれたいから英雄になりたいんだって言ったけど。それってフェミニズム的じゃないと思うな。」
「それを言うなら『
「でも、ハンナがフェミニンじゃないってどういうこと?」とスーザン。 「……男の子の気をひきたい、っていうのは完全にフェミニンだと思うけど。」
「だいたい……」と困惑げにパーヴァティが言う。 「
そこからはじまった議論でハーマイオニー・グレンジャーは果敢に社会思想を説いてみたが、さほど成果はあがらなかった。 一度説明し、反論されたのでまた説明していくと、のこりの七人の女子たちの目がどんどん懐疑的になった。 ひとしきりハーマイオニーの講釈がおわると、まずダフネがグリーングラス家次期当主らしい尊大な調子で、女子が男子を追いかける自由をなくしてしまうのが
ハーマイオニーはそのあたりでもう説得をあきらめた。
授業を終えて、レイヴンクロー一年生たちが〈
思ったとおり、フリトウィック先生が授業の終わりを告げ全員が席をたつと同時に、ハリーはハーマイオニーのほうに近づいきていた。ハーマイオニーはというと、モークスキン・ポーチに教科書を押しこみ、やたら急いでドアのところへ行き、勢いよく押しあけて廊下におどりでる。そのあとを追ってくるハリーは意外そうな表情をしている。それも無理はない。このあと二人で図書館で勉強することになっているのだから——
「ハーマイオニー……どうかした?」とドアを通って出てきたハリーが言う。
ドアがとじたかと思うとまた勢いよくひらき、当たりそうになったハリーが飛びのく。そこからあらわれたのは、悲愴な決意の表情をしたパドマ・パティル。
「ミスター・ポッター。」とパドマのうわずった声が、憂鬱な破滅の鐘の音のように廊下じゅうにひびく。 「ちょっとあなたに頼みがあるんだけど、いい?」
ハリーは両眉をあげてから言った。 「頼んでみるのは、もちろんご自由に。」
「サラザール・スリザリンのゴーストと話す方法を知らない? あなたが手つだってもらっていたように、わたしたちもいじめを見つけるのを手つだってもらいたい。だから知ってるなら、教えてほしい。」
教室のすぐ出たあたりのその廊下内にしばし静寂がおりた。
教室のドアがひらいた。そこからスーが顔をのぞかせ、なんの話か知りたそうにこちらを見る——
「ぼくらはこれから図書館にいくことになってるから……」とハリーは気軽な表情と声で言う。 「よかったらついてくる?」 そう言って、図書館への奇数日用の順路をたどる。スーもついてきそうな気配があったが、ハリーは一度だけスーに顔をむけた。
角をまがるとすぐにハリーは杖をとりだし、小さく、しかしはっきりと「クワイエタス」と言ってから、パドマのほうを向いて話しかけた。 「おもしろい推測をするじゃないか、ミス・パティル。」
パドマは一度得意げな顔をしてから言った。 「ほんとはもっとはやく、気づいているべきだったわ。 あのゴーストの声にはシューっていう音が混ざっていた。だから、すぐに〈ヘビ語つかい〉のことを考えるべきだった。それだけじゃなく、ゴドリック・グリフィンドールの話をしてもいた。」
ハリーは表情をかえない。 「ところでミス・パティル、きみはもうだれかにその話を——」
「S.P.H.E.W.全員がその場にいた。」とハーマイオニーがかわりに言った。
ハリーはなにかをすごい速度で計算するときの目をしてから、言った。 「ハーマイオニー、その情報が外部に漏れた可能性は——」
「S.P.H.E.W.にはラヴェンダーとトレイシーがいる、とだけ言っておくわ。」
「あ……わたし、まずいことした?」とパドマが言った。
「ここで待て。」と言ってミスター・ゴイルは角のさきに行った。そこからドラコ・マルフォイの個室をノックする音が聞こえた。
トレイシーはなにか悪い予感がしていた。けれどパドマが一度あれを口にした以上、だれかがドラコ・マルフォイの耳にいれることは確実だ。そうするのがトレイシーであっていけない理由はない。だいたいハリー・ポッターになんの借りがあるわけでもないし、スリザリン生なら自分の〈野望〉を達成するために必要なことをやるのが当然だ。
クィレル先生にしかられてから、トレイシーはずいぶんといろいろな〈野望〉のリストを作った。ニンバス二〇〇〇を手にいれること。超有名人になること。ハリー・ポッターと結婚すること。毎日つづけて〈チョコレート・フロッグ〉を朝食にすること。それと、〈闇の王〉を最低でも三人倒すこと。それくらいしておけば、クィレル先生にもトレイシーが凡人だとは言わせない。
ミスター・ゴイルがもどり、「お会いになるそうだ。……ミスター・マルフォイの時間を無駄にするようなことはするなよ。」とおどすような声で言って、 一度立ちふさがるように目のまえに来てから、道をあけた。
トレイシーは『自分専用の従僕を手にいれる』を〈野望〉リストに追加してから、入室した。
マルフォイの個室は、ダフネの個室とまったくおなじつくりだった。 ダイアモンドのシャンデリアか黄金の壁画でも出てくるんじゃないかと思っていたけれど——というのも(ダフネのまえで言ったことはないが)マルフォイ家はグリーングラス家より一段格上だから——期待はずれだった。 ダフネの部屋とかわらない小さな寝室で、ちがいといえば、緑玉の草模様のかわりに銀のヘビが持ちものの意匠として使われていることだけ。
トレイシーが足をふみいれると、ドラコ・マルフォイが——私室でもあいかわらず念入りにセットした髪型で——机の椅子から腰をあげ、軽く目礼して応対した。
「ああ、グレゴリーからそう聞いている。どうぞ、そこに座ってくれ。」 と言ってドラコ・マルフォイは
すこしふらふらした心持ちでトレイシーはマルフォイの椅子に座った。ひざに当たるドレスローブを無意識に指でもてあそび、どうすればドラコ・マルフォイのように優雅な着こなしができるだろうかと考える——
「それでミス・デイヴィス、知らせたいことというのは?」
トレイシーはためらったが、マルフォイがすこしじれったそうな表情をしたので、一気にすべてを吐きだした。サラザール・スリザリンのゴーストがハリー・ポッターにいじめ退治をさせているというパドマの話も、そしてそこにハーマイオニー・グレンジャーも一枚かんでいるというダフネの話も——
ドラコ・マルフォイはその話を聞いているあいだぴくりとも表情を変えなかった。それを見てトレイシーはだんだんいやな予感がしてきた。
「本気にしてないんでしょ!」
一瞬の沈黙。
「いや……」と言ってドラコ・マルフォイは今度はあまり愛想のよくない笑みをした。 「パドマとダフネがそういうことを言った、というのは事実なんだろうと思っているよ。 報告ありがとう、ミス・デイヴィス。」 そう言ってドラコ・マルフォイはベッドから腰を浮かせた。トレイシーもついつられて椅子から腰を浮かせた。
ドラコ・マルフォイはそのままドアにむかい、ドアノブに手をかけ、トレイシーを送りだそうとする。トレイシーはふと気づいた—— 「見かえりになにがほしい、って言い忘れてない?」
ドラコ・マルフォイは意味ありげな目つきをした。けれどトレイシーには、どういう意味なのかが分からない。ドラコ・マルフォイは無言のままでいる。
「まあ、いいんだけど。」と言ってトレイシーは土壇場で〈作戦〉を変更した。 「見かえりにはね、なにもいらない。これは親切で教えてあげただけ。」
ドラコ・マルフォイは一瞬おどろいたような顔をしたが、すぐに無表情にもどって、言った。 「マルフォイの人間と親しくなるのは簡単ではないよ、ミス・デイヴィス。」
トレイシーは本心からほほ笑んだ。 「へえ……じゃあ、もっとやってみてあげる。」 と言ってスキップしながら部屋をでていく。トレイシーは生まれてはじめてほんもののスリザリン生になれたような気がした。そして、自分の何番目かの夫にドラコ・マルフォイをえらぼうと決心した。
客が出ていくのと入れかわりにグレゴリーがはいってきて、ドアをしめてから言った。 「どうされました?」
従僕でもあり友人でもあるグレゴリーのその声に返事しないまま、 ドラコは空中をじっと見つめた。その視線は寝室の壁を突きぬけ、スリザリンの地下洞をつつむホグウォーツ湖を突きぬけ、地球の地殻と大気を突きぬけ、〈天の川〉の星間塵を突きぬけ、銀河と銀河のあいだの、いまだ魔法族の目にも科学者の目にも触れたことのない完全な無と暗黒からなる虚空を見つめていた。
「ミスター・マルフォイ?」 グレゴリーがすこし心配そうな声になった。
「あれを一字一句そのまま信じる気になった自分が信じられない。」とドラコは言った。
ダフネは
S.P.H.E.W.が堂々といじめ退治をしようとすれば、いじめの犯人たちの恨みを買うことは まちがいない。 ひどい仕返しをしようとされることもまちがいない。 とはいえ、もしほんとうに手におえなくなれば、ハーマイオニーにハリー・ポッターを呼ばせて、助けてもらうこともできる。メンバー全員のクィレル点をあわせて使って、クィレル先生になんとかしてもらってもいい。 そう、問題はそこではない。ダフネが真剣に悩んでいたのは、この件でスネイプ先生の不興を買わないようにするにはどうすればいいか、ということだった。 スネイプ先生を敵にまわすことだけは、なんとしても避けなければ。
それでも……ネヴィルに〈元老貴族の決闘〉をいどんだ日を境にして、ダフネを見るまわりの目が変わったのはたしかだった。 彼女をからかった生徒たちでさえそうだということに、ダフネは気づいていた。 〈元老貴族〉グリーングラス家の娘が血筋がよいだけでなく美しい
いじめ退治がヒロインになる
ただいっぽうで母は、父の助言を鵜呑みにしすぎるなと言っていた。それと父がホグウォーツで六年生だったころのおこないについては、ダフネが三十歳になるまでは聞かせられない、とも言っていた。
とはいえ、けっきょく父は母を射止め、まんまと〈元老貴族〉になることができたのだから、そう捨てたものではなさそうだ。
ミリセント・ブルストロードが宿題を終え、かたづけをしはじめた。
ダフネは立ちあがり、歩み寄っていった。
ミリセントはテーブルの下から勢いよく両足を外にだして立ちあがり、かばんを肩にかけた。近づいていくダフネに目をとめ、不思議そうな顔をする。
ダフネは距離をつめてから、小声で興奮した調子で話しだす。 「ミリセント、ちょっと新発見があるんだけど、聞きたくない?」
「サラザール・スリザリンのゴーストがグレンジャーを手助けしてる、って話なら、 もう知ってる——」
「ううん……」とダフネは息をひそめて言う。「もっと特ダネがあるの。」
「ほんと?」とミリセントも小声で興奮した声になる。 「どんな?」
ダフネはあたりをはばかるように見わたす。 「わたしの部屋に来てくれたら話す。」
二人は階段をたどり、個室のある階層におりていった。個室は七年生の共同寝室よりさらに深い部分の湖底の下にある。
やがて部屋に到着すると、ダフネは座りごこちのいい椅子に腰かけ、ミリセントはよくはねるベッドの端に陣取った。
席につくと同時にダフネは「クワイエタス」と言った。 杖はローブのなかにしまうのではなく、さりげなく腰の横におろし、手に持ったまま離さないことにした。万一のため。
「もういいでしょ、教えなさいよ!」とミリセントが言う。
「新発見っていうのはね……」とダフネは言う。「あなたがいつもいちはやく噂を聞きつけるのは、事件が
その瞬間にミリセントが顔面蒼白になって倒れる、という光景をダフネはなかば期待していたが、そういうことはなかった。ただ、あきらかにびくっとしてはいたし、すぐに躍起になって否定しようとしだしたのはたしかだった。
「心配しないで。」とダフネはとっておきの笑顔で言う。「予知能力のことは秘密にしてあげる。だって、友だちでしょ?」
スリザリン七年生リアン・フェルソーンは寮の机につき、またひとつ、二フィート長のレポートをまじめに書いているところだった(N.E.W.T.をひかえる今年、彼女は
スネイプ先生は部屋のすぐ外で待っていて、薄目の、あまりに熱っぽい視線で彼女を見ていた。 なんの話なのかと彼女がたずねようとすると、スネイプ先生はなにも言わずに背をむけて廊下のさきへ歩きだす。彼女は置いていかれないよう、あわててついていく。
二人は一階、また一階と下へむかい、スリザリンの地下洞の最下層よりも低いであろう場所まで来た。 通路は一見して階上より古く、建築様式も数百年はさかのぼり、粗石がざらざらの漆喰でかためられただけのものになった。 もしかしてこれから自分は、うわさに聞く
一階おりると、部屋にたどりついた。いや、部屋というより洞穴に扉をつけただけのもので、暗い横穴がいくつもある。二人が足を踏みいれるとともに旧式のたいまつが一本点火する。それが唯一の照明だった。
スネイプ先生は杖をとりだし、つぎつぎと呪文をかけていった。何重の呪文がかけられたのか、彼女は数えそこなった。一連の詠唱を終え、スネイプ先生は彼女に向きなおり、彼女の目に熱い視線をそそぎ、いつもの嘲笑する声とはちがった平坦な声で言った。 「この件について、きみはいっさい他言してはならない。これには例外も期限もない。 受けいれられるなら、くびを縦にふれ。受けいれられないなら、話はここまでだ。」
彼女はこわごわと、同時に奇妙な一筋の希望を胸に(実はもっと別の部位に)感じながら、うなづいた。
「ミス・フェルソーン、頼みというのはごく簡単な作業だ。」とスネイプ先生が抑揚のない声で言う。 「ただし、事後に〈記憶の魔法〉処置をうけてもらう。その見かえりに、五十ガリオンという破格の報酬を用意した。」
リアン・フェルソーンは思わず息をのんだ。 実家は裕福ではあるが、一人っ子ではないし、あまり自由にはさせてもらえていない。五十ガリオンは自分個人には大金だ。
それからやっと『記憶の魔法』という部分に意識がいって、彼女は一瞬憤慨した。せっかくの経験を忘れてしまうのでは、なんの意味もない。スネイプ先生はどんな女を相手にしているつもりなのだろう?
「〈太陽〉軍司令官ミス・ハーマイオニー・グレンジャーの名は聞いているな?」
「え?」 リアン・フェルソーンはドン引きした。「その子まだ一年生でしょう! なに考えてるんですか!」
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky