夕食時間が終わるころには冬の太陽はすっかり沈んでしまっていて、大広間の魔法の天井には静かな星空が映し出されていた。それを横目に、ハーマイオニーは自習友だちであるハリー・ポッターといっしょにレイヴンクロー塔にむかった。ハリーには最近、自習する時間が信じがたいほど多くあるように見える。いっぽうで実際の宿題をやっている様子はいっさいないのに、いつのまにか終わらせてはいる。まさか、寝ているあいだに
大広間の全員といっていいほどの数の視線を受けながら、二人は巨大な扉を通過していった。夕食を終えた生徒たちが通る道の扉というより、城門にでも使えそうな扉である。
二人はそのまま、生徒たちの喧騒が遠ざかり、まったく聞こえなくなるまで、無言で歩いた。そこから石敷の廊下をもうすこし歩いたところで、ハーマイオニーが口火を切った。
「あんなことするのはなんのため?」
「あんなこと?」と問いかえす〈死ななかった男の子〉の声はうわのそらで、なにか別の、もっとはるかに重大な考えごとに夢中だったかのようだった。
「たんに否定すればいいのになんでしなかったの、っていうこと。」
「それは……」 石畳に二人の靴音がひびく。 「自分がやっていないことについてなにか訊かれるたびに否定してると、まずいことになるからさ。 たとえば『こないだの見えない絵の具のいたずらをやったのはきみか』と訊かれたとして、『やってない』とぼくが答えたとする。つぎに『このあいだグリフィンドールのシーカーのホウキに細工をしたのはだれだったか分かるか』と訊かれたとして、ぼくが『その質問には回答しない』と答えたとする。それじゃ自白しているようなものだろう。」
「ああ、そう。だからみんなに……」 ハーマイオニーは正確なせりふを思いだそうとする。 「……『仮にこれがそういう陰謀だったとして、サラザール・スリザリンのゴーストが真の首謀者かという質問に、イエスともノーとも答えられるわけがないだろう。そもそも陰謀があると認めることすらできない。というわけで、そういう質問は無意味だからやめたほうがいい。』……って言ったんだ。」
「そう。」と言ってハリー・ポッターは小さく笑った。「仮説にとどめるべきことを真剣に考えすぎるとどうなるか、せいぜい思い知ればいい。」
「じゃあ、
「否定しても信じてもらえるとはかぎらないよ。だから、うそつきだと思われたくないなら、なにも言わないほうがいい。」
「だからって——だからって、わたしがサラザール・スリザリンのために働いてるんだと思われるのは困る!」 最近、グリフィンドール生たちがどういう目でハーマイオニーのことを見ているかと思うと——それ以上に、
「ヒーローにはそういうのも付きものだよ。 『クィブラー』がぼくについてどういう記事を書いたか知ってる?」
ハーマイオニーはほんの一瞬だけ、自分の両親が愛娘についての新聞記事を読むところを想像した。スペリングビーの全国大会で優勝するなどといった記事ならいざ知らず、『ドラコ・マルフォイがハーマイオニー・グレンジャーとの子を妊娠』という記事を。
そう想像するだけで、ヒロイン関連の活動をこのままやっていいのか、考えなおしたくもなる。
ハリーはすこしまじめな声になって言った。 「ところでミス・グレンジャー、
「そうね……ほんとにサラザール・スリザリンのゴーストがあらわれて、いじめが起きている場所を教えてくれたりしないかぎり、なにもできないんじゃないかな。」 個人的にはとくに残念には思わない。
ちらりとハリーのほうを見ると、妙に意気ごんだ表情をしていた。
「あのさ……」とハリーは小声で言う。ほかのだれにも聞かせられない話だ、というように。 「きみが言っていたとおりかもしれない。 世の中には、ヒーローになるための手つだいを特別に多くしてもらっている人がいる。 そういうのはたしかにフェアじゃないと思う。」
それからハリーはハーマイオニーのローブの腕のあたりをつかんで、急いで廊下の小道に連れていく。ハーマイオニーが唖然として口をあけているうちに、ハリーは杖を手にしていた。小道が折れたさきまで行くと、二人が押し合わなければならないほど道幅が狭くなった。そこで、ハリーが来た道にむけて小声で「クワイエタス」と言い、反対側にも「クワイエタス」と言った。
ハリーはあらゆる方向に目をひからせた。四方だけではなく、上は天井まで、下は床まで。
それから手をポーチにつっこみ、「不可視のマント」、と言った。
「え? それって……」
ハリーはすでにモークスキンから艶のある黒布を取りだして、 「ご心配なく。」と言って一度にやりとした。 「……これはとてもめずらしい種類のアイテムだから、だれも校則で禁止しようとすら思わなかったらしい……」
ハリーはその黒い
ハーマイオニーは艶のある
「手にとってみて。」
ハリーの声を聞いてほとんど無意識にハーマイオニーは片手をのばしてその生地を手にとろうとするが、思考が追いついて、手を引っこめた。 ハリーがマントを手ばなし、落ちていくのを見て、また無意識に手がそれをつかむ。 手が触れた瞬間、かたちのないなにかが……はじめて杖を手にしたとき感覚のようななにかが、身体をつらぬいた。 自分の精神のかたすみのどこかで、歌が聞こえるような気がした。
ハリーがそっと話しだす。 「これがぼくの冒険アイテムのひとつ。……もとはぼくのお父さんの持ちもので、もしなくされたら、かわりのものは手にはいらない。 ほかのだれかに使わせることも、見せることも、存在を知られることもあってはならない……でもきみがしばらく使いたいなら、いつでも貸してあげる。」
ハーマイオニーの目はやっとのことで、底のないその黒布から離れ、ハリーのほうへもどった。
「こんなもの、わたしには——」
「いいんだよ。 ある日突然、これがプレゼント用に包装された箱にはいってぼくのところに届けられて、きみのところには届いていない、っていうのは不公平すぎるんだから。」 そう言ってからハリーは思案げな顔をした。 「……もし届いてたんだったら、話は別だけど。」
そういえば、
ハリーはこともなげに手の爪をローブになでつける動きをしてみせた。 「もともと、なにかトリックがあるに決まってる、って思ってはいたんじゃないの? これがあれば、ヒロインはいじめがいつどこで起きるかをなぜか当てることができるようになる。まるでいじめの計画を立ち聞きしていたかのようだけど、ヒロインの年齢ではまだ透明になって情報収集をすることは到底不可能なはずで、説明がつかない、ということになる。」
話がとぎれ、あたりがしんとした。
「ハリー——わたしは——わたしは、このまま、いじめ退治をつづけていいのかどうか分からない。」
ハリーはハーマイオニーとしっかり目をあわせたまま、返事した。 「ほかのメンバーにけがをさせるかもしれないから?」
ハーマイオニーはただうなづくことしかできない。
「それは、本人たちが決めることだよ。きみ自身が決めることでもあったように。 ぼくは、本にでてくる人たちがやってしまう、ありがちで分かりやすい種類のまちがいをやらないことにした。きみの身の安全をまもるために世話を焼いて、当人になにもさせないでおけば、そのうち怒らせてしまって近寄らせてもらえなくなる。しまいにきみは一人で冒険をしにいって、とてもひどい目にあって、それでも最後にはみごとに成功させる。それを聞いてぼくはようやくはっとして、ああ最初からこうしておけば……と後悔する。ぼくは自分の人生のそういう部分の結末が目に見えているから、早送りすることにした。 あとで自分がどう考えるかを予測できるなら、いますぐそう考えてしまえばいい。 とにかく、きみも当人の身の安全のためだからといって、他人に世話を焼きすぎるのはよくない。 いずれみんなひどい目にあうことが十分予想できる、とはっきり伝えてさえおけば、それでいい。それでもヒロインになりたいという人には、やらせればいい。」
ハリーはよくこういう言いかたをする。自分がいつかこの手の考えかたに慣れることはあるのだろうか、とハーマイオニーは思う。 「ハリー、わたしは……わたしはどうしても、あの子たちにけがをさせたくない! わたしが言いだしたことのせいでそうなるなら、なおさら!」
「ハーマイオニー……」とハリーは真剣な顔になる。「きみは正しいことをやっていると思うよ。 その子たちがこのさきどういう目にあうとしても、長期的に見れば、
「一人でも深刻なけがをしたりしたら?」 ハーマイオニーは声がのどからすんなり出てこないのに気づいた。 アーニー・マクミランから聞いた話では、ハリーはスプラウト先生に助けられるまで、いじめっこに指を折られながら、相手と目をあわせるのをやめようとしなかったという。 そこまで思いだしたところで、ハンナの細い手のことが思いうかんだ。ハンナのネイルはいつもハッフルパフの黄色に塗られている。毎朝それをどれだけ念入りに準備していることか。それが……そのさきは考えようとしても考えられない。 「それで——そのせいで、二度と勇気をだせなくなったとしたら——」
「いや、人間はそういう風にできていないと思う。 ものすごくひどい目にあったとしても、きっと人間はそういう風に考えない。 だいじなのは、自分はできると信じて、自分の限界を越えようとすること。 挑戦したせいで痛い目にあうとしても……
「もしそれがハリーの見こみちがいだったら、どうする?」
ハーマイオニーの質問に、ハリーは一度止まってから、すこし悲しげに肩をすくめて言った。 「もし当たってたら、どうする?」
ハーマイオニーは自分の手にそよぐ黒い織布にもう一度目をやる。 内がわからの触りごこちは不思議なほどやわらかで圧力もあり、まるでマントがこの手を抱擁しようとしているかのようだった。
ハーマイオニーはマントを乗せたまま手を持ちあげ、ハリーに突き出した。
ハリーは受けとろうとしなかった。
「これは——」とハーマイオニーは言う。「その、これはうれしいんだけど、一度考えさせてほしい。だからいまは返す。 それと……のぞき見はいけないことだと思う——」
「いじめの被害者を助けるために、加害者の様子をさぐるだけだとしても? ……ぼくは実際にいじめられたことはないけど、擬似的にならやられたことがある。あれは不愉快だった。 ハーマイオニー、きみはいじめられたことがある?」
「ない。」とハーマイオニーは小声で答え、それでも不可視のマントを突き返す。
ハリーはやっとマントを受けとり——ハーマイオニーは精神のかたすみで聞こえた音のない音楽が消えたことで、わずかに喪失の痛みを感じ——ポーチにしまいはじめた。
ポーチがマントをすっかり食べ終えると、ハリーはハーマイオニーのほうを向いて〈音消〉の障壁を解除しようとする——
「ところで、それって……
ハリーはふりむいて、薄笑いの表情で、夕食時にほかの生徒たちに向けて使ったのとまったくおなじ声色で言った。 「ぼくがとてつもなく強力な魔法具を持っているかどうかについては、イエスともノーとも言えない。」
夜になりベッドに身を横たえるときになっても、ハーマイオニーは決心がつかないでいた。今日の夕食の時間までは人生は単純だった。いじめを発見しようにも、現実的には打てる手がいっさいなかったのだから。これからまた、ひとつ選択をしなければならない。今度は自分のためではなく、友だちのための選択を。 しわの深いダンブルドアの顔、隠し切れない痛みを秘めた表情が幾度となく目に浮かぶ。『それは、本人たちが決めることだよ。きみ自身が決めることでもあったように』というハリーの声が幾度となく思いだされる。
そしてあのマントを手にしたときの鮮烈な感触がまた、何度も何度も、こころのなかで再生される。 あの手ざわりの記憶、そして自分の精神と魔法力のどこかで歌われたかもしれない、けれどいまは聞こえない音楽の記憶。その記憶には強く注意を引きよせるなにかがあり、ハーマイオニーはマントのことを考えずにはいられない。
ハリーはマントに『彼女のことを頼む』と言うとき、マントを人間のようにあつかっていた。 もとはハリーのお父さんの持ちものであり、一度なくされればかわりのものは手にはいらないのだという……
でも……いくらなんでも、ハリーはそんなことをするだろうか?
ホグウォーツより何百年も長い歴史のある三種の〈死の秘宝〉のひとつをあっさり差しだす、というのは……
そこまでしようとしてくれてうれしい、と思っていいことなのかもしれないが、これはもうそれどころではない。むしろ、自分はハリーにとってどういう存在なのか、ということが気になってしまう。
もしかすると、ハリーは友だち相手ならだれにでも古代の遺物を貸してしまうような男の子だったりするのかもしれないが——
ハリーは自分の人生の一部を早送りしたと言った。それはどういう種類の一部だったのか。ハーマイオニーの身の安全を守る、という話もでてきたが、あれはなんだったか……
ハーマイオニーは
また疑問が浮かぶ。ハリーはやっぱり……
わたしに……
その夜、ハーマイオニー・グレンジャーはなかなか寝つくことができなかった。
翌朝起きると、小さな羊皮紙の紙片が枕の下からはみでていた。そこには『十時半、〈薬学〉教室を出て左手の四番目の小路にいけば、いじめの現場に遭遇できる——Sより』と書かれていた。
朝食のため大広間にきたとき、ハーマイオニーの胃のなかでヒポグリフ大の蝶が飛びかっていた。レイヴンクローのテーブルが近くなっても、なにをすればいいのかすら分からない。
パドマのとなりの席があいている、ということに気づく。まずパドマに話して、パドマからダフネとトレイシーに話してもらう、というのはどうか。そのためには、あそこに座らなければ。
そう思って、ハーマイオニーはパドマのとなりの空席を目ざした。
『あのね、パドマ、昨日わたしのところに
しかしそこで、自分のなかに巨大な煉瓦の壁ができて、話すのを止められたような感触があった。 話すということは、ハンナとスーザンとダフネを
では、友だちになにも言わないまま、自分一人でいじめ退治にいくというのはどうだろうか。……これも〈正しくない〉行動であることは言うまでもない。
これは〈倫理上の二律背反〉の一種だ。どの本にも、選択に迷う魔法使いや魔女が登場する。ただし本の登場人物はいつも、
ハーマイオニーはテーブルのまえに腰をおろし、向かいがわにも左右にも目をむけず、ただ皿と銀食器を、そのどこかに解が隠れているとでもいうようにして、じっとみつめ、必死に考えた。しばらくして、耳のすぐそばにささやきかける声があった。パドマの声だった。 「ダフネから伝言。今日十時半にいじめが発生する場所が分かったんだって。」
破滅だ。
このままでは全員破滅する。スーザン・ボーンズはそう思っている。
昔よくこういう話をアメリアおばさんから聞かされた。バカげた行動であると分かっていながら、それでも実行してしまう人たち。話の結末は、だれかがそこらじゅうで
「ねえパドマ……」とパーヴァティが八人の忍び足とおなじくらい声を忍ばせてつぶやく。この八人は〈
「しずかに!」と叱りつけるラヴェンダーの声はパーヴァティをはるかに上回る音量。 「〈悪〉の勢力がそのへんで聞いたらどうするの!」
「シーッ!」ともう三人がさらにうるさい声で言った。
このままでは完全に、徹底的に破滅する。
〈薬学〉教室を左に出て四番目の脇道。そこでいじめが発生する、というのがダフネが謎の情報提供者からもらった情報だった。八人は速度をおとし、足音をさらに小さくする。あと一歩というところで、グレンジャー司令官が手で『わたしが偵察してくる、ここで待て』という意味の合図をした。
ラヴェンダーが片手をあげ、ハーマイオニーがそれに気づいてふりむく。ラヴェンダーは困惑した顔でまっすぐまえの廊下を指さし、自分の胸に手をあて、それからなにか別の、スーザンの知らない手ぶりをしかけた——
グレンジャー司令官は一度くびをふり、もう一度ふってから、こんどはさっきよりも時間をかけて大げさに『わたしが偵察してくる、ここで待て』という合図をした。
ラヴェンダーはさらに困惑して、背後の道を指さしながら、もう片ほうの手を上下にゆらした。
こんどはラヴェンダー以外の全員がラヴェンダー以上に困惑させられる番だった。こういくつも合図を新しくおぼえるとなると、二日まえに一時間練習しただけでは足りなかったか、と思うと痛い教訓でもある。
ハーマイオニーはラヴェンダーを指さし、それからラヴェンダーの足もとの床を指さした。表情とあわせて見れば、『動くな』という意味であることは誤解しようがなかった。
ラヴェンダーはうなづいた。
〈カオス軍団〉の『ドゥーンドゥンドゥンドゥン・ドゥーンドゥンドゥン……』という破滅の行進曲がスーザンのあたまのなかを駆けぬける。
ハーマイオニーはローブのなかに手をいれ、小さな棒をとりだした。棒の先端には反射鏡、反対がわにはレンズがついている。 それを手に、ハーマイオニーは音がでないようにおそるおそる壁づたいに進み、小路にでる直前のぎりぎりの位置までいき、レンズのほんの先っぽだけを突き出させた。
もうすこしだけそれを押しだす。
またもうすこしだけ。
それからグレンジャー司令官は慎重に、壁のむこうをじかにのぞきこんだ。
そしてふりむいてうなづき、片手で『いっしょに来い』という合図をした。
スーザンはすこしだけ気が楽になり、壁づたいに前進した。 〈作戦〉のうち、いじめっこが来る三十分まえに現場に到着するという部分は成功だったらしい。 破滅は破滅でも、多少ましにはなったかも……?
十時二十九分、犯人はほぼ定刻どおりにあらわれた。その人物は、もしだれかが——一見して無人のこの廊下で——聞き耳をたてていたとしたらはっきり聞こえるほどの靴音をコツコツとたてて、脇道にそれていく。そのさきにある最初の角をまがると、意外にも奥が煉瓦の壁でかためられ、行き止まりになっていることに気づく。以前はなかった壁である。
それを見て犯人は肩をすくめ、うしろを向いて、もと来た角のあたりの様子をうかがう。
こういうことは、ホグウォーツ城ではめずらしくもない。
その薄い壁は
犯人のすがたが視界にはいって、スーザンは胸から足のさきまで全身が緊張するのを感じた。 七年生か
それから、いくつもの足音が近づいてくるのが聞こえた。四年生のグリフィンドール生とスリザリン生が〈薬学〉の授業を終えて教室をでてきたのだ。
その足音が遠ざかり、だんだん消えていくが、犯人は動かない。 つかのま、スーザンはほっとした——
すると、もっと人数の少ない足音が近づいてきた。
犯人はそれでも動かず、足音は遠ざかっていく。
そういったことが何度かくりかえされた。
それから、聞こえるかどうかの足音が一組近づいてくるのと同時に、いじめっこが冷たい声で「プロテゴ」とつぶやくのを、七人ははっきりと聞いた。
だれかがはっと息をのんだ。さいわい、出たのはごく小さな音でしかなかった。 このまま、こちらから一撃もいれられなかったとしたら——
いじめの犯人たちは
わたしたちが来ることは知られていた!
スーザンは、無理だ、撤退しよう、とみんなに伝えたいところだったが、伝える手段がない——
「『シレンシオ』」と男は余裕のある声で小さくつぶやく。青色の〈防壁魔法〉の雲に守られ、杖は大廊下のほうに向けられている。「『
するとのぞき穴からの視界に、さかさまに吊るされた四年生の男子のからだが映った。見えない手に空中で片足をつかまれているような姿勢で、赤色のえりをしたローブがめくれ、その下のズボンがむきだしになっている。 口をぱくぱくさせているが、声はだせないようだ。
「なにがどうなっているかさっぱりだろうが……」とスリザリン七年生の男が冷たく落ちついた声で言う。 「ご心配なく。グリフィンドール生でも理解できる単純な話だ。」
そう言ってスリザリン生の男は左手のこぶしをかため、グリフィンドール生の腹を思いきり殴った。 グリフィンドール生は苦しそうにのたうちまわるが、やはり声は聞こえない。
「おまえはおれのいじめの獲物で、 これから袋だたきになる。 それを止めようとするやつがいるかどうかは、これから分かる。」
罠だ。この時点でスーザンはそう気づいた。
それとほぼ同時に、高らかにさけぶ少女の声がした。 「暴力はやめなさい!
『ああラヴェンダー』と思い、スーザンは苦悶する。 ラヴェンダー・ブラウンはこうやってわざと目立つ行動をする役を買ってでたのだった。相手の注意をそらすことで、残りのメンバーが側面から攻撃する隙をつくる、という作戦だ。が、いまとなっては——
「ホグウォーツの名にかけて……」とスーザンから見えないところにいるラヴェンダーが言いはなつ。「全世界のヒロインの名にかけて命じます。その人を離さなければ……きゃっ」
「『エクスペリアームス』。」と男が言う。「……『ステューピファイ』。『
のぞき穴から見える範囲に来たとき、ラヴェンダーは片足をつかまれて宙吊りにされ、気をうしなっていた。それを見てスーザンは目をしばたたかせる。 ラヴェンダーの服が通常の学校用ローブではなく、鮮烈な赤色と金色のスカートとブラウスになっていた。
男も、さかさまになった少女のそのすがたをいぶかしげに見て、杖をむけ「フィニート・インカンターテム」と言った。衣装は変化しなかった。
それから男は肩をすくめ、四年生男子ではなくラヴェンダーの方向をむいたまま、腕を引きよせ拳を——
「『ラガン』!」と五人ぶんの大きな声がして、偽装した壁の五つの穴から突き出した五本の杖から、緑色の螺旋が五本はなたれた。一瞬遅れてハーマイオニーの「ステューピファイ!」という声がした。
五本の緑色の螺旋は青色の雲にあたってくだけ、防壁をくずすことができなかった。ハーマイオニーの赤色の雷撃は防壁にはねかえされ、四年生男子がその流れ弾を浴びて
七年生の男はふりむき、ゆがんだ笑みをした。一年生女子たちは一斉にさけびながら突撃した。
スーザンはまぶたがぱっと開いたその瞬間に、自分が床をころがり、もといた位置から離れていることに気づいた。あいかわらず息は苦しく、からだのあちこちが撃たれて痛む。戦闘の状況を見るに、意識をうしなったのは数秒だけだったらしい。ハンナがこちらにむけて手をのばしたまま倒れこんでくる。「グリッセオ!」というハーマイオニーの声が聞こえたが、相手の男が杖をひとふりして地面に緑色の軌跡をふりおろすと、ハーマイオニーの魔法が破られ、青白い細かな火花となって飛び散った。男はそのままの流れで「ステューピファイ!」と言ってハーマイオニーを正面から撃ち、吹き飛ばす。倒れたハーマイオニーに、スーザンはありったけの魔法力をこめて「イナヴェイト!」と呪文をかける。男の杖がすでにこちらを狙っているのが見えたのと同時に、パドマが「プリズマティス!」とさけび、男が「インペディメンタ!」とさけぶ。出現した虹色の球体は男のほうをつつみ、そこに反射したみずからの呪文を浴びて男は足をよろめかせる。しかしすぐに男は杖を引いて自分のからだをひと叩きし、するとパドマの
ハンナ・アボットは疲れきって震える手で杖をにぎる。もう〈
小路は静まりかえっている。床にパドマとトレイシーとラヴェンダーがちからなく横たわり、壁ぎわにハーマイオニーとパーヴァティが重なって倒れ、スーザンは険しい顔のまま固まっている。いじめられていたグリフィンドール生男子さえ、足を投げだして床に倒れている。(この男子もハーマイオニーに起こされて戦っていたのだが、それでも相手が一枚上手だった。)
終わってみれば短い戦闘だった。
男はまだ笑みをのこしている。疲労のあとが見えるとすれば、そのからだをとりまく青く光る雲がちらついていることと、ひたいに見える数粒の汗だけ。
男は片手をあげてひたいの汗をぬぐい、じわじわと人間型レシフォールドのようにハンナに近づいてくる。
ハンナはそれに背をむけて走りだす。声にならないさけびをあげながら、崩れた偽煉瓦の板を乗りこえ、いまできるかぎりの速度で精いっぱい蛇行して走り——
小路を抜ける一歩手前まで来たところで、背後から「『クルース』!」という男の声が投げかけられた。ハンナの両足がひどく痙攣し、体勢をくずして壁にあたまを殴打した。その痛みにも気づけないほどに、足の筋肉がねじれ、激痛が走った——
ふりむくと、男がやはり一歩一歩ゆっくりと、悪どい笑みをして近づいてくるのが見えた。
ハンナは足の激痛に耐えながら転がって角をまわりこみ、本道がわに出て、さけんだ。 「こないで!」
「ことわる。」 もっと年上の大人の男のように凄みのある声がすぐそばから聞こえた。
男が角をまわりこむと、ダフネ・グリーングラスが〈元老貴族の剣〉で男の股間をまっすぐ突き刺した。
そして光が廊下の本道全体を照らす——
七人は意気消沈して、マダム・ポンフリーの医務室をあとにした。もう一人はまだベッドから起きあがることができない。
あと三十五分もあればハンナは回復する、というのが癒者としてのマダム・ポンフリーの見立てだった。断裂した筋肉をつなぎなおすのは大した仕事ではない。
ダフネがマダム・ポンフリーに事情を説明する役を買ってでて、ハンナは〈走足の魔法〉をかけるのに失敗して足をつらせたのだということにした。マダム・ポンフリーはきつい目で二人を見たものの、〈走足の魔法〉は七年生前後で教わる魔法だという点を問いつめはしなかった。
ダフネは魔法力消耗に効く
ダフネが言いつくろうのにも限界があるので、のこりのメンバーの傷についてはいっさいマダム・ポンフリーに見せず、上級生のだれかに『エピスキー』を頼むことにした。
切り抜けられたとはいえ、あまりにも間一髪だった、とスーザンは思う。ひとつまちがえば…… 。もしあの犯人が曲がり角のさきをのぞきこまなかったら……。そのまえに〈防壁魔法〉をかけなおす手間をおしまなかったら……。
「やめよう。」と、スーザンは医務室に聞かれない程度の距離ができるとすぐに口をひらいた。 「もうこんなことはやめようよ。」
不思議と全員が、こういうとき投票で決めることにしたのを忘れて、グレンジャー司令官のほうを見た。
司令官は視線があつまったのに気づかない様子で、まえを見たまま歩みをとめなかった。
しばらくしてから、ハーマイオニー・グレンジャーは思案げに、すこしさびしげな声で言った。 「ハンナはやめてほしくないって言ってたでしょう。 なのにわたしたちが……ハンナを口実にして怖気づくのはよくないんじゃないかな。」
スーザン以外の全員がうなづいた。
「まあ、あれ以上ひどくなることはないんじゃない。あれくらいならなんとかなるって分かったし。」とパーヴァティが言った。
言うべきことばが見つからない。 腹の底から声をだして、どう見ても愚かで破滅的な発想だと言ってやったとしても、通じるような気がしない。 かといって、見捨てるわけにもいかない。 ハッフルパフは勤勉であることが宿命づけられている。そのうえ
「ところでラヴェンダー……さっき着てたあれって、いったいなに?」とパドマ。
「ヒーロー用コスチューム。」とラヴェンダー。
ダフネが疲れた声で、歩みを止めず、こちらを見ようともせずに言った。 「『月人戦隊の伝説』っていう芝居に登場する〈グリフィンドールの戦士〉の衣装よね。」
「〈転成術〉で作ったの?」とパーヴァティがとまどった表情で言う。「でもそれなら、なんで『フィニート』されても——」
「と思うでしょ! でもそうじゃないの! コスチュームの実物を
「言っておくけど……」とグレンジャー司令官が一言ずつ慎重に言う。「それじゃ、まじめな活動に見えなくなると思う。」
「ふうん……じゃあまた投票ってことに——」
ラヴェンダーの声をさえぎって、またグレンジャー司令官が言う。 「言っておくけど、だれがどう投票しても、わたしはあんなふざけた格好でやられるのはおことわり——」
議論はつづくが、スーザンは耳を貸さず、 このメンバーが破滅に直行せずにすむ戦略がなにかないか、と考えをめぐらせた。
昼食の時間になり、七人が大広間にあらわれると、全体がつかのま静まった。
それから拍手がはじまった。
全員が一斉に拍手したのではなく、ちらほらとした拍手だった。大半がグリフィンドールのテーブルから、多少はハッフルパフとレイヴンクローから来ていた。スリザリンからの拍手はなかった。
ダフネは自分の顔がこわばるのを感じた。うまくいけば——今回はグリフィンドール生にいじめられていたスリザリン生を助けてきたのだし、うまくいけばスリザリン寮もこれで、と思っていたが——
ハッフルパフのテーブルに目をやる。
ネヴィル・ロングボトムが両手をあげて大きく拍手していたが、笑顔ではなかった。 多分ハンナのことを聞いていたか、なぜここにハンナがいないのかと思っているか、だろう。
それからつい、〈主テーブル〉にもちらりと目をむける。
スプラウト先生は心配げに顔に
スネイプ先生の目はまっすぐに——
いや——そのとなりの、ハーマイオニー・グレンジャーに向けられている?
スネイプ先生はわずかな笑みを垣間見せ、両手をあげ、音が出ないくらいにやけにゆっくりとした動きで、一回だけ手のひらをあわせた。それから周囲の話し声を無視して、自分の皿に注意をもどした。
ダフネは背すじに軽く寒けを感じ、いそいでスリザリンのテーブルのほうに歩いていった。 スーザンとラヴェンダーとパーヴァティは隊列を脱け出し、大広間の反対がわにあるハッフルパフとグリフィンドールのテーブルにむかっていった。
ダフネたちがスリザリンのテーブルのクィディッチ選手たちの陣取っているあたりを通過するとき、事件が起きた。
ハーマイオニーが突然つまづいたのだった。どこからか足を引っぱられたように勢いよくつまづき、マーカス・フリントとルシアン・ボウルのあいだの空席に身を投げだし、びちょ、といやな音がした。ハーマイオニーはフリントの皿のステーキとマッシュポテトに、顔から突っこんでいた。
そこからのできごとはとても高速に——ダフネがついていけていないだけだっただけかもしれないが——展開した。フリントがハーマイオニーをどなりつけ、突き飛ばす。ハーマイオニーはレイヴンクローのテーブルのだれかの背なかに当たってはねかえり、床に倒れる——
静寂がさざなみのように広がった。
ハーマイオニーは両手を床につき身を起こすが、完全には立ちあがらず、全身を震えさせている。顔にはまだ、マッシュポテトとステーキのかけらがべっとりだった。
かなりの時間、だれもしゃべらず、だれも動かない。 つぎになにが起きるか、この場のだれにも想像できないかのようだった。ダフネもおなじだった。
フリントが、スリザリンのキャプテンとしてクィディッチ場で指令するときのような力強い、やくざっぽい声で言う。 「おれの食事を台無しにしてくれたな。」
もう一度、凍りつくような静寂。そしてハーマイオニーが顔を——震えているのがダフネには分かった——フリントのほうにむける。
「あやまれよ。」とフリント。
レイヴンクローのテーブルにいるハリー・ポッターが席を立とうとするが、途中でまるで別のことを思いついたかのように、その動きをやめる——
レイヴンクローのテーブルから別の五人が立ちあがる。
スリザリンのクィディッチ選手が全員、杖を手に立ちあがり、グリフィンドールとハッフルパフのテーブルでも何人かが立ちあがる。無意識に〈主テーブル〉のほうに目をやると、総長は座って傍観しているだけだった。ダンブルドアはただ
「失礼した。」と言う声があった。
声の主のほうにふりむいて、ダフネはショックのあまり呆然となった。
「スコージファイ」と同じなめらかな声で呪文がとなえられ、マッシュポテトがハーマイオニーの顔から消えさった。ハーマイオニーもおどろいた表情で、やってくるドラコ・マルフォイを見ている。ドラコ・マルフォイは杖をしまうと、片ひざを床について、ハーマイオニーに手を貸した。
「申し訳ない、ミス・グレンジャー。」とドラコ・マルフォイは礼儀ただしく言う。 「だれかさんはおふざけでやっているつもりだったようだ。」
ハーマイオニーはドラコの手をとった。そこでダフネは突然、つぎに来るシーンを予想できた——
と思ったのだが、ドラコ・マルフォイがハーマイオニーを
そのままふつうに立たせただけだった。
「ありがとう。」とハーマイオニーが言う。
「どういたしまして。」とドラコ・マルフォイは大声で言う。 「あんなものを狡知や野心だと思われては困るからな。」 どちらに向けて言ったのでもなかったが、四寮の全員が度肝をぬかれた表情でそのすがたを見ていた。
それからドラコ・マルフォイは、まるでなにも特別なことはなかったというかのような態度で、もとの席につく。……いやいや、これは特別どころか——
ハーマイオニーはレイヴンクローのテーブルに手近な空席を見つけて座った。
ほかの何人かも、やけにゆっくりと座った。
「ダフネ? どうかした?」とトレイシーが声をかけてきた。
ドラコはあまりに心臓がばくばくとしていて、心臓が血しぶきをあげて爆発するのではないかと思った。アミカス・カロウに呪いをかけられたあの子犬のように。
表情にはいっさいの動揺を見せなかった。もし内面で感じている恐怖のほんのすこしでも見せてしまえば、スリザリン寮の全員がアクロマンチュラの群れのように寄ってたかって容赦なくドラコを攻撃するだろう(ということをドラコは徹底的に教えられていた)から。
ハリー・ポッターに確認をとっている時間はなかった。策略をめぐらす時間も、考える時間もなかった。一瞬の猶予で気づけたのは、スリザリンの名声をとりもどしはじめるならいまだ、ということだけだった。
スリザリンのテーブルの長い列にならぶ顔を見ると、ドラコを見る怒りの目がいくつもあった。
だがそれ以上に、困惑の表情も多かった。
「もう降参だ。」 そう言う生徒は六年生だと思うが、名前が記憶にない。 「だから教えてくれよ、マルフォイ。なんのためにあんなことをした?」
ドラコは口のかわきを強く感じたが、つばを飲みこむことはしなかった。 その動作は恐れのしるしとして受けとられてしまう。 かわりに皿にある食べもののなかで一番水分のあるニンジンをひとくちかじり、噛んでから飲みこみ、同時にすばやく考えをまとめた。
「まず……」と、ドラコはできるかぎり痛烈な口調をつとめ——周囲の人びとが話をやめてこちらに注意をむけるのを見て、心臓がいっそう激しく鼓動するのを感じ—— 「スリザリンの評判をおとしたいなら、いじめ退治をしようとして四寮から集まった一年生女子八人を攻撃するよりも効果的な方法は、なにかあるんじゃないかとは思う。ただすぐ思いつく範囲では、あれ以上の方法はそうそうない。 ぼくのやりかたなら、グリーングラスの目論見に乗じて、われわれみなが得をする。」
周囲のどの顔も困惑の表情のまま変化しない。
「は?」とその六年生男子が言い、そこにかさねて「なんのこと? その得というのは。」とドラコの右にいる五年生女子が言った。
「スリザリン寮の評判をよくすることができる。」
それがドラコの返事だったが、周囲のスリザリン生は全員、まるで代数の仕組みを説明しようとされたかのように、わけがわからないという顔をした。
「評判って、だれからの?」と六年生男子が言った。
「……でもあなたはさっき
ドラコののどがちぢこまった。 ドラコの脳は深刻な動作不良を起こし、真実をつたえる以外の行動をなにも思いつかない——
「マルフォイはきっと、ものすごく巧妙な謀略かなにかをやろうとしてるんだな。」と五年生男子が言う。 「ほら、『
「それなら分かる気がする……」とテーブルの奥のほうでだれかが言い、何人もが同調してうなづいた。
「
グレゴリー・ゴイルは答えない。 サラザール・スリザリンがポッターとグレンジャーにいじめの起きる場所を教えているといううわさが流れた日に主人が言った『あれを一字一句そのまま信じる気になった自分が信じられない』という一言が、その声とともにはっきり思いだされる。
「ミスター・ゴイル?」とヴィンセントがくりかえす。
グレゴリー・ゴイルの口が『まさか……』と言うかたちをしたが、声にはならなかった。
その後、ハーマイオニーはなぜか食欲がなくなり、昼食を中座した。 あの屈辱の数秒間が何度もこころのなかで再生され、そのたびに痛みが熱をもつ。顔がマッシュポテトにのめりこむときの感覚、自分が突き飛ばされるときの感覚、それから『あやまれよ』と言われるときの感覚……。自分を押し飛ばした男子(マーカス・フリントという名前だった)とあの〈つまづきの
大広間をでて間もなく、うしろからだれかの足音が聞こえた。ふりむくと、ダフネが駆けよってきていた。
そして、〈太陽部隊〉の部下でもある彼女の話に耳をかたむけると……
「わからないの?」 ダフネは声をおさえきれていなかった。 「だれかが親切にしてきただけで味方だと思っちゃだめ! あれは
「ドラコ・マルフォイは——」 ハーマイオニーは声をつかえさせた。 屋根でのできごとを思いだす。がくりと足を踏みはずした瞬間の衝撃。あとであざになるほどきつく手をにぎられたこと。 落としてもらうまでに二度も頼まなければならなかったこと。 「そこまで染まっていないんじゃないかな——」
ダフネは悲鳴といっていいほどの声になった。 「助けたぶん十倍お返しにしてあなたを痛めつけなかったとしたら、あいつは
「ほんのすこしだけ……?」とハーマイオニーは小声で言った。
「ゼロよゼロ! ていうかマイナス! 小さすぎて、〈拡大の魔法〉と〈方位の魔法〉と——それと——それと古代の地図とケンタウロスの予言があっても見つからないくらい! あれはなにか別の目的があってやったことだって、スリザリン生ならみんな知ってる。あなたがつまづく直前にマルフォイが杖をむけてたっていう話まである——分かった? マルフォイはなにかたくらんでるんだって!」
ドラコは席につき、ステーキと炒めたカリフラワーの房にアシュワインダー・ソース(ただしほんもののアシュワインダーの卵からできたソースではなく、火のような味がするだけのもの)をかけて食べながら、笑うことも泣くこともないように気をつけていた。
ドラコも合理的な否認可能性というものを以前から知ってはいた。しかしマルフォイ家がそれをいっさい確保していないことに気づいてやっとその重要性が理解できた。
「なにをたくらんでるかって? 教えてあげよう。 これからぼくは
「ふーん……」と五年生男子が言う。「どうもうそっぽいな。それだけじゃ大してずる賢い作戦には聞こえない。もっとなにかあるだろう——」
「そう思わせるのが作戦なのかもよ。」と五年生女子が言った。
「アルバス」とミネルヴァがするどい声で言う。「……あれもあなたが仕組んだことですか?」
「あのさ、
またクィレル先生の手の震えがひどくなり、スプーンがスープのなかに落ちた。
「わたしが仕組んだ、ってどういう意味?」と言うミリセントといっしょに、ダフネはベッドの上であぐらをかいて座っている。二人は大広間での昼食のあとまっすぐにここに来たのだった。 「言ったでしょ、〈時間そのもの〉を見とおすこの〈予見者〉の目で、あなたたちが勝つのが見えたんだって。」
ダフネはミリセントをじっと常人の目で見ていたが、一瞬視線がきつくなった。 「むこうはわたしたちが来るのを知っていた。」
「そりゃあね、あなたたちがいじめ退治をしてるのは周知のことだし。」
「ハンナは呪文でひどいけがをしたのよ。癒者にみてもらわないといけないくらいに! 友だちなら、そういうことは
「待ってよ、ダフネ。わたしは最初から——」 ミリセントはそう言ってから口をつぐみ、なにかを思いだすようにしてから、つづけた。 「ほら、最初から言っておいたでしょ。わたしに〈見〉えたできごとはかならず、そのとおりになる。 それはわたしにも、ほかのだれにも変えられない。変えようとしたら、なにかひどい、ものすごく無惨な、最悪なことが起きる。 それでいて、予見されたできごともけっきょく起きる。 だから、もしあなたたちがやられるところが〈見〉えたとしても、教えるわけにはいかないの。教えたら、行くのをやめようとするだろうし、そしたら——」 ミリセントの声がとまった。
「そしたら、なに?」とダフネはうさんくささを感じながら言う。「行かなかったらどうなるの?」
「知らない! でもそれとくらべれば、レシフォールドに食べられるのがお茶会に思えるくらいひどいことになる!」
「あのね、予言がそういうものじゃないのはわたしでも分かるわよ。」と言ってからダフネは一度言いやめた。 「……すくなくとも、芝居のなかではね……」 実のところ芝居の知識で言えば、予言の成就をのがれようとすることによって起きる悲劇や、逆に予言にさからうのをやめたばかりに予言を成就させてしまうという悲劇は数知れない。 それでもうまくやれば、予言を自分に都合のいいかたちで成就させたりとか、自分を愛するだれかが身代わりになってくれたりだとか、努力すれば予言を崩すこともできたりとかいうストーリーもあったりする……。 といっても、芝居にでてくる〈予見者〉は決まって、〈見〉えた内容を覚えていないのだが……
ミリセントはダフネが躊躇していることに気づいたらしく、すこしだけ自信を深めた様子で言った。 「でも、これは芝居じゃないからね! じゃあ、こんどからは、苦戦するか楽に勝てるかが〈見〉えたら教えてあげる。 でもわたしにできることは、そこまでよ? それで『苦戦』だったとしても、逃げちゃだめよ。逃げたら——逃げたら——」 そこでミリセントは白目をむいて、うつろな声をする。 「運命を
スーザンのまえで、スプラウト先生はけわしい表情をしてくびをふった。
「でも——でも先生は、以前ハリー・ポッターのために手を貸したじゃないですか——」
「そのあとで、はっきりと警告されましたからね。」とスプラウト先生は〈縮小の魔法〉でのどを縮められたかのような声をだした。 「スリザリン寮の規律を維持するのは、わたしではなくスネイプ先生の役割だ、と。——ミス・ボーンズ、よく考えなさい。なにもあなたがそうする義務は——」
「いいえ、あります。わたしはハッフルパフですから、仲間を見捨てることはできません。」 スーザンは不本意ながらそう言った。
「枕もとに謎の羊皮紙が?」と言ってハリー・ポッターは机から顔をあげた。二人はこの〈音消〉した一角でいっしょに自習しているところだった。少年は緑色の目をするどくして言う。 「送りぬしはサンタクロースだったりしないよね?」
ハーマイオニーは一瞬かたまった。
「それって……うん、深く追及するのはやめておきましょうか。その発言、わたしは聞かなかったことにするから、あなたも言わなかったことにする。いいわね——」
スーザンはハッフルパフ談話室で目当ての上級生女子が一人になった瞬間をとらえて、すぐにテーブルに近づいていった。あたりを見わたし、だれにも見られていないことを確認することも忘れなかった。(アメリアおばさんに教わった、こちらが見ているということは気づかれないようなやりかたで。)
「おやスージー、どうした。あれがもう足りなくなったとか——」
そう言う七年生女子に、スーザンは問いかける。
「ちょっと人目につかないところで話したいんだけど、いいですか?」
最近まで決闘術界隈で将来有望な選手といわれていたスリザリン七年生ハイメ・アストルガは、スネイプ教授室に呼ばれ、くちをかたく閉じ、背すじに汗をしたたらせ、直立不動の姿勢をとっている。
「つい今朝がた、一年生女子に不穏な動きがある、と警告しておいたはずだが。よもや忘れてはいまいな。
皮肉な声でそう言って、スネイプ教授はハイメのまわりをゆっくりと一周した。
「あれは——」 また一段と、ハイメのひたいに汗が浮かぶ。 あまりにバカげた、なさけない言いわけに聞こえるとは思うが……。 「説明させてください。あれほどの威力の魔法はとても一年生には——」 ……いくら古い魔法を使ったとしても、一年生の魔法力でハイメの『プロテゴ』をやぶれるはずがない——グリーングラスを補助した
だがその説明でスネイプが納得しないことは明白だった。
「よい着眼点だ……」とスネイプは脅迫じみた低い声で言う。 「……とても一年生とは思えない威力だったと。 ミスター・マルフォイの腹づもりが何にせよ、彼のやりかたにも一理あるかもしれない。 戦闘にたけた生徒が実力を見せつけるどころか、小娘に負かされたとあっては、スリザリン寮の名声をおとすばかりだ! アストルガ、おまえを負かしたのがおなじスリザリン生の〈貴族〉の娘であったのはせめてもの救い。そうでもなければわたしがすすんでスリザリン寮の減点を命じていた!」
ハイメ・アストルガは左右にさげた手をにぎりしめたが、返すことばがなかった。
もうしばらく問答がつづいてから、ハイメ・アストルガは寮監との面談から解放された。
その後だれもいなくなった部屋で、壁と床と天井だけがセヴルス・スネイプの笑みを目撃した。
その日の夕刻、ドラコのもとに父からのフクロウがとどいた。名前をタナシュというそのフクロウは緑色ではないが、それもそんな色のフクロウはどこにもいないからにすぎない。 次善の手として、まじりけのない銀色の羽と、よく光る緑色の目と、残虐なヘビの牙を思わせるくちばしをそなえたフクロウを父上は確保していた。 タナシュの足に結びつけられた羊皮紙には、短く要点だけが書かれていた。
『息子よ、おまえはなにをしている?』
ドラコが羊皮紙に書いた返事も同様に短いものだった。
『スリザリンの名声を落とす行為を止めようとしています。』
ホグウォーツからマルフォイ邸までフクロウが飛んで行き帰りするのにかかるだけの時間が経つとすぐに、もう一通のメッセージがドラコにとどいた。その内容はまた一文だけだった。
『実際にはなにを?』
ドラコはフクロウの足からほどいて取ったその羊皮紙をじっと見つめた。 震える両手でそれを持ちあげ、暖炉の火に入れた。 この短い黒インクの一文がなぜ、死の恐怖をも越える恐怖を感じさせるのか。
長く考えてはいられない。 父上はフクロウがマルフォイ邸とホグウォーツのあいだを往復するのにかかる時間の長さを正確に知っている。 慎重にうそを作りあげようとしても、返事が遅れてしまっては簡単に見やぶられる。
それでもドラコは手の震えがとまるのを待ってから返事を書いた。父上が納得しそうな返事は、これしか考えられなかった。
『来たる戦争へのそなえをしています。』
ドラコはその羊皮紙をタナシュの足に巻きつけ、自室から城内の廊下の暗がりにむけて飛びたたせた。
そして待った。返信は来なかった。
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky