赤い炎のかたまりを正面から顔に受けてひっくりかえり、石壁にあたまを打ちつけたハンナ。黄土色のほつれた髪の毛のなかの顔が一度はもちこたえたような表情をしたものの、すぐにからだ全体ががくりと床に倒れ、ローブがかぶさって見えなくなった。その横で、三度目の緑色の螺旋光が一斉にはなたれ、敵の〈防壁魔法〉がついに崩壊した。
——三月の日々は講義と自習と宿題と朝食と昼食と夕食に消え、着々とすすんでいく。
相手のグリフィンドール生男子は全身に緊張をみなぎらせ、八人のすがたを凝視した。複雑に変化する表情と裏腹に、声は聞こえてこなかった。やがて彼はもう一人のスリザリン生の襟口をつかんでいた手をぱっと離し、去っていった。だれひとり口をきこうとしなかった。(いや、ラヴェンダーだけはそうでもなかったらしく——多分いつもの口上を聞かせるチャンスをのがしたのを恨んでか、不服そうな顔で——口をひらきかけた。ハーマイオニーは運よくそれに気づけたので、手で黙れの合図をしてやった。)
——もちろん、睡眠の時間も。 あたりまえすぎて忘れがちだけれど、眠るのもだいじな仕事だ。
「イナヴェイト!」とスーザン・ボーンズの声がして、ハーマイオニーはぱっと目をあけ、息をしようとしてむせた。胸のうえに巨大な重りをのせられたように、呼吸が苦しい。 となりではハンナがさきに身を起こし、両手であたまをかかえて顔をしかめている。 この回は『苦戦』になるとダフネから言われていたので、ハーマイオニーはそれなりの悲壮感をもって戦闘にのぞんだ。ほかのメンバーも同様だったが、 スーザンだけは、すこし変わった様子があった。スーザンは今回、集合時刻ぴったりにあらわれ、それからずっと無言で歩き、この七年生との戦闘になってからは、ほかの全員が倒れても持ちこたえていた。 相手はグリフィンドール生だったから、ボーンズ家のあとつぎであるスーザンとは戦いたくないと思ったのかもしれないし、ただ運がよかっただけかもしれない。 それはともかく、ハーマイオニーはまた立とうとしかけたところで、胸の重苦しさの原因に気づいた。実際そこに大柄な人間の胴体がかぶさっていたのだった。
——それと、魔法のための時間も忘れてはならない。呪文をとなえるのに使う時間は一日あたりごくわずかだとしても、 この学校はそのためにあるのだから。
「そうだ、つぎからはみんなでスケートボードを使ってみない?」とラヴェンダーが言った。 「スケートボードなら歩くよりずっと速く移動できるし、 なにより見た目がいいわ。ああいうマグル製品って、速度はホウキに負けるけど、かっこよさでは上だと思う。——ってことで、また投票ね——」
——それ以外の時間はみな、上級生たちの恋愛の噂話をしたり、友だちと自習や読書をしたりなど、思い思いの活動についやしている。
ハーマイオニーは愛読書『ホグウォーツとその歴史』を床に落とし、拾おうとして震える手をのばす。ハーマイオニー自身が、その本のとなりで床に尻をついていた。というのも、赤ローブの上級生女子に『偶然』ぶつかられ、壁にたたきつけられたからだった。そのグリフィンドール生はすれちがいざまに、こちらを見ないまま小声で「サラザールの○○○」とだけ言い捨てていった。ハーマイオニーにとっては、スリザリン生が
——ハリーは命じられたとおり、八人の兵士をほかの軍に譲った。士官を一人ではなく二人提供しさえした。ディーン・トマスが〈ドラゴン旅団〉へ行き、ハーマイオニーのところにはブレイズ・ザビニと交換でシェイマス・フィネガンが来た。〈
「どうせ、ポッター司令官の気を引きたいからでしょ?」とラヴェンダーが言った。両者の会話をハーマイオニーはできるかぎり無視しようとしていた。 「むだだと思うけどね、トレイシー。あれはもう、うちの司令官に首ったけだから——ハーマイオニーを説得してみるほうが、まだ目があるんじゃない。ほら、三人でさ……そういう協定でやってみない、って——」
——ドラコ・マルフォイの真のねらいについては、まだだれも解明できていない。
「……確信?」とハリー・ポッターが妙にしぶしぶ答えた。 「合理主義者はなにごとにも確信なんかないんだよ。二たす二が四であるということすらも。 ぼくはマルフォイのこころを読むことはできないし、仮にできたとしても彼が完璧な〈閉心術〉を使っていないという保証はない。 とにかく、ただスリザリンの印象をよくしようとしているだけだっていうほうが、ダフネ・グリーングラスの話よりはしっくりくると思うだけだよ。 もしそうなら、ぼくらとしては……できるだけ協力すべきだと思う。」
(——という風に、ハリーはドラコ・マルフォイが善意でうごいていると思っているようだ。 ただ、ハリーはクィレル先生のような人を信頼してしまうタイプだから困る。)
「クィレル先生、ぼくはスリザリン寮がハーマイオニー・グレンジャーに憎悪をつのらせていることを心配しています。」
ハリーとクィレル先生は〈防衛術〉教授室でむかいあって座っている。机から遠く離れた位置(それでも災厄の予感ははっきりと感じられる)の椅子にいるハリーからは、からっぽの書棚と髪の毛の薄いクィレル先生の頭部が見える。 ハリーの太ももに置かれたティーカップには、にごりのある高級中国茶らしきものがはいっている。ハリーは最近いろいろなことをある種の方向で考えるようになっていて、今回も意識して飲もうと思わなければ飲む気になれなかった。
「そのこととわたしになんのかかわりが?」とクィレル先生は茶を一くち飲んで言った。
「またそれですか——そういうのはもうやめてくださいよ。あなたこそ、今年最初の金曜日からずっとスリザリン寮の評価を回復しようとしていたんでしょう。もしかすると、もっとまえから。」
薄いくちびるの端に、ほんのかすかに笑みがよぎったような気もした。が、たしかではない。 「わたしとしては、少女一人の運命とは無関係に、スリザリンの建てた寮の先行きは十分明るいと思う。 しかし、たしかにきみの大切なミス・グレンジャーをとりまく状況は厳しいようだ。 有力者一族や人脈の広い一族の多い二寮の狼藉者がそろって、彼女を標的にしている。自分たちの名声をおびやかす存在、誇りを傷つける存在と見なしている。 彼女を痛めつけることも目的の一部ではあるだろうが、グリフィンドール生にとっては、自分たちが子どものころから夢みてきたヒロイズムをよそものに体現されてしまったことへの嫉妬のほうがはるかに強い。」 クィレル先生の口もとに、わずかではあるが明らかに笑みが見えた。 「スリザリン寮では、サラザール・スリザリンのゴーストが自分たちを見捨てて
ハリーも茶をすすった。
「じゃあ……助けてあげられません?」
「すでに手はさしのべた。わたしも教師だ。こうなることが見えた時点ですぐにそうした。しかし『余計なお世話だ』というのがミス・グレンジャーの返事だった。もっと丁寧な言いかただったがね。 きみが援助しようとしても、答えはおなじだろう。 この件はどう転ぼうが、わたしには得も損もないに等しい。だから無理に援助する気はない。」 クィレル先生は肩をすくめ、また椅子に背をもたれさせた。そのあいだティーカップを持つ手は作法にのっとって静止していて、カップのなかの水面には波ひとつ立たなかった。 「なに、心配することはない。 ミス・グレンジャーの周囲に感情的な対立が生まれているのはたしかだが、身の危険についてはきみが思うほどのことはない。 きみももうすこし年齢をかさねれば気づくだろう。凡庸な人間はほとんどいつも傍観の一手をとるということに。」
その日の昼食中に、スリザリン式配送システムでダフネにとどいた一通の封筒はいつもどおり無記名だった。中の羊皮紙に書かれていたのは、時間と場所と、『苦戦』のひとことだけ。
その日ダフネが気にしていたことは別にあった。 昼食のときミリセントが自分やトレイシーのほうを見るのを避けているような気がしてならなかった。 ミリセントは目のまえの皿をまっすぐ見て、ひたすら食べていた。一度だけうつむくのをやめ、ハッフルハプのテーブルの方向を見たが、すぐにまたうつむいた。 ただ、ダフネの席からもトレイシーの席からもミリセントとは距離がありすぎて、どういう表情だったのかは分からなかった。
そのことを昼食のあいだ考えていて、ダフネはいつになく不吉な感覚をおぼえ、そのせいで一皿目の途中までしか食べることができなかった。
『わたしに〈見〉えたできごとはかならず、そのとおりになる……。レシフォールドに食べられるのがお茶会に思えるくらいひどいことになる……』
スリザリン生ならいつでも、自分の利益を第一に、理性的な判断をすべきだ。だが今回ダフネはあえてそうしなかった。
かわりに——
次回の相手はとくにハッフルパフを標的にしていて、教師からの罰も覚悟のうえでハンナかスーザンをひどく痛めつけようとしている、だから二人は参加すべきじゃない……ということをハンナとスーザンそのほか全員に、いつもの情報提供者からの情報として告げた。
ハンナは不参加を約束した。
スーザンは——
「
ぽちゃ顔のスーザンは動揺を見せなかった。ダフネの母のような熟練した無表情を突然身につけたかのようだった。
「いちゃいけない?」とスーザンは平静な声で言った。
「来ないっていう約束でしょう!」
「そうだっけ?」と言ってスーザンは片手で杖を軽く回転させた。待機しているメンバーの横で、スーザンは廊下の壁にもたれている。黄色のえりのローブにかかった赤茶色の髪の毛は不思議とどこも乱れていない。 「……なんでそんな約束したのかな。ハンナに変な影響をあたえたくないと思ったからかもね。 ハッフルパフはいつも仲間のために、ってね。」
「あなたがついてくる気なら、今日の
その発言にラヴェンダーが反応する。 「ちょっと! 投票もしないでそんな——」
「なら帰ればいいんじゃない。」と言ってスーザンは廊下のさきをじっと見ている。前方で合流してきているもうひとつの廊下が、いじめが起きることになっている場所だ。 「……ここはあたし一人でやるから。」
「それって——」 ダフネは口から心臓が飛びでそうな思いで言う。……『それはわたしにも、ほかのだれにも変えられない。変えようとしたら、なにかひどい、ものすごく無惨な、最悪なことが起きる』……。 「それってなにかわけがあってのこと?」
「あたしのキャラにあわない、か。まあそうだよね。でも——」とスーザンは肩をすくめる。 「人間、たまにはキャラじゃないこともするでしょ。」
全員がスーザンを思いとどまらせようとして説得した。
というより懇願した。
スーザンは以後いっさい口をきかず、じっと前を見て警戒の姿勢をとりつづけた。
ダフネは泣きだしそうになりながら、もしかして自分のせいでこうなったのではないかと考えた。〈運命〉を変えようとしたがために、事態を悪化させてしまったのでは——
「ダフネ。」とハーマイオニーがいつもよりずっと高い声で言う。「教師を呼んできて。いますぐ。」
ダフネはくるりとまわって、石敷の廊下の反対方向に全速力で走ろうとした。しかしそこではっとして、スーザン以外の全員が見つめるなか、もとの位置にもどり、すこし吐き気を感じながら、「できない……」と言った。
「どういうこと?」
「多分、さからおうとすると、そのたびに余計ひどいことが起きるの。」 たしかに芝居ではそうなったりするのだ。
ハーマイオニーはダフネをじっと見てから、言った。「……パドマ。」
パドマは口ごたえせずにすぐに走り去った。ダフネはそれを見送りながらまた考えた。パドマはダフネより足が遅い。もしかするとこれが原因で、教師の助けが間にあわなくなるのでは……
「敵が来た。」 スーザンがこともなげに言う。「……へえ、人質までいるよ。」
全員がそちらにふりむくと——
年上の男女が三人。ダフネの記憶では、一人はリーズ・ベルカという七年生の模擬戦の一隊の幹部女子。一人はランドルフ・リー。ホグウォーツの決闘術クラブの二番手だ。最悪なのは六年生のロバート・ジャグソン三世。ほぼまちがいなく〈死食い人〉だと言われている人物の息子だ。
三人とも〈防壁魔法〉をまとっていて、切子状のその青い煙の壁のなかに、色違いの光の束が何本も透けて見える。多重化された防壁だ。真剣な決闘術の試合をするようなつもりで、それなりにエネルギーをついやして準備してきたらしい。
そのうしろで、光る縄に縛られ吊られているのはハンナ・アボット。目を見ひらいて必死に口をうごかしているが、こちらにはなにも聞こえてこない。事前につくっておいた『音消』の障壁があるせいだ。
ジャグソンが無造作に杖をふると、ハンナが光るロープからふりおとされ、こちらに投げだされた。『音消』の障壁を通過した瞬間にぽんと音がした。スーザンがすかさずハンナに杖をむけ、「ウィンガーディウム・レヴィオーサ」と言いー—
「
そのときにはすでに、前方にも後方にも灰色の光のかたまりができて、通路は封鎖された。ダフネの知らない種類の障壁呪文だった。
「これがどういうことかはもう分かってるね?」 七年生リーがみせかけの陽気さと笑顔をまとって言う。目もとは笑っていない。 「念のため説明しておこうか。おまえらはちょっとばかりやりすぎた。うそもつきすぎた。そこのグリーングラス家のお嬢さん、あんたもね。 一匹のこらず始末してやる。そこをよく分かってもらえるように、もう一匹もここに連れてきた——といっても、あと一匹レイヴンクローが足りないな。物陰に隠れたか、天井にへばりつきでもしたか? まあいいさ。とにかくこれで——」
ロバート・ジャグソン三世がそこにかぶせて言う。「話はいい。おしおきの時間だ。」と言って、杖を高く持つ。「『クルース』!」
同時にスーザンが杖をむけて「『プリズマティス』!」と言い、一瞬で小さな虹色の球が出現した。その小さく高密度の光の障壁でジャグソンの弾がはじかれ、障壁はそのまま微動だにしなかった。はじかれた黒い雷撃はベルカの方向に飛んだが、ベルカはすばやく杖をふってそれを打ちおとした。その後、多色の光の障壁はすぐに消えた。
ダフネは一瞬目をまるくした。
「ねえジャグソン……」と言ってベルカが口もとに獰猛な笑みを見せた。 「手順は決めておいたでしょ。まずはたたきのめす。遊ぶのはそのあと。」
「お——お願い。」 ハーマイオニー・グレンジャーが震える声で言う。「ほかのみんなは見のがして——か……かわりにわたしが——」
「へえ……」 リーが不快そうに言う。「おまえ一人のことは好きにしていい、だからほかは見のがせ、って? あのねえ。もうおまえら全員、逃げ場はないんだよ。」
ジャグソンが笑みを見せた。 「おもしろいじゃないか。」 見習い〈死食い人〉の声は小声だが威嚇的だ。 「おれの靴をなめたら
「やだね、却下。」とスーザン・ボーンズの声がした。それからスーザンは電撃的な速度で左にとんで、ベルカの杖からはなたれた赤色の失神弾をかわした。そして廊下の壁にあたったかと思うとゴム玉のようにはねて、両足をジャグソンの顔にむけてぶちこんだ。あいだに防壁がありはしたものの、ジャグソンはその衝撃をくらってうしろに倒れた。スーザンはそのままジャグソンの杖腕めがけて足を踏みおろしたが、やはり防壁にはばまれた。ダフネはそこまでの動きを目で追うのがやっとだった。 「〈
来る、と気づいてダフネは『プリズ——』と言いかけたが、とても間にあわなかった。
三本の光の矢が同時にスーザンに向かう。スーザンは杖を手に、それを打ちかえすようなかっこうをした。杖に呪文があたった瞬間に、ぱっと白い光がきらめいて、スーザンの足が激しく震え、スーザンは通路の壁に投げとばされた。 スーザンのあたまが壁にあたって、ピシッと変な音がした。くびがおかしな角度に曲がり、そのまま倒れて動かなくなった。まっすぐのびた片腕にはまだ杖がにぎられていた。
一瞬あたりがしずまり、凍りついた。
パーヴァティがあわててスーザンのところへ駆けより、スーザンの手くびに親指をあてて脈をとった。そして——パーヴァティはゆっくりと震えながら立ち、目を見ひらいて——
「『ヴァイタリス・リヴェリオ』」とリーが言い、パーヴァティーが話しはじめようとするのをさえぎった。 スーザンのからだが赤いぼうっとした光につつまれる。 それを見てリーはにやりとした。 「折れたにしても鎖骨一本程度。演技ごくろうさん。」
「たしかに一筋縄ではいかないようだな。」とジャグソンが言った。
「お姉さん、だまされちゃったわ。」と言う七年生女子の顔は笑っていない。
ダフネはなんの呪文に撃たれたかすら分からなかった。
ハーマイオニーは〈
うっすらと目をあけると、ごくわずかな量の光を通じて、パーヴァティが三人の敵をまえにあとずさりしているのが見えた。パーヴァティが最後の一人のようだった。
トレイシーが比較的近くに倒れているのも見えた。ハーマイオニーは自分の杖がまだ手のなかにあるのを確認し、トレイシーがたまにはまともな判断をしてくれる可能性に賭けて、できるかぎりそっと杖をうごかし、ほとんど口をひらかずに「イナヴェイト」と言った。
呪文が成功した感覚があったが、トレイシーはうごかない。 わざとそうしてくれているという可能性に賭けるとして、あとは……
あとは、どうする?
できることが思いつかない。すると、戦闘中ずっとおさえこまれていた不安に、こころが浸食されていく。こうして考える時間ができると、希望のかけらもない状況であることがいっそうはっきりする。
そのとき、どさりという音が聞こえた。音がした場所はハーマイオニーの視界のそとだったが、パーヴァティの倒れた音であることはわかった。
そしてしばらくなんの音もしなくなった。
「で、どうする?」と優男の声。
「その
「あら、そうじゃないでしょ……」と女の声がする。「まず全員を縄でしばって、動けないようにして——」
そこで稲妻のような音が聞こえて、ハーマイオニーはおどろきのあまり、つい目を見ひらいてしまった。視界がひろがったので、優男が黄色のエネルギー状の巨大なイモムシのようなものに巻かれ、がくがく震えているのが見えた。 優男は杖を手から落とし、床に倒れてしばらく痙攣してから、動かなくなった。
「みんな眠っちゃってるかな? ……よし。」
そう言って、優男のいた場所の近くで倒れていたスーザン・ボーンズが立ちあがった。 くびが奇妙にねじれたままだったが、肩のうえで軽くひとまわしすると、もとどおりになった。
ぽちゃ顔の一年生スーザン・ボーンズが片手を腰にあて、のこる二人の敵と対峙する。
そしてにやりとする。
切子状の青い煙の壁もすでにできている。
「〈
「『ポリフルイス・リヴェルソ』!」ともう一人の男がさけぶ。
男の杖から、スカーフ状の鏡のようなものが吹きだして——
スーザンを守る防壁を何なく通過し——
一瞬、それがスーザンの身体をおおって光り、鏡に写ったような奇妙な色合いになり——
やがて光は消えた。
スーザンは腰に手をあてたまま立っていた。そして話しだした。
「ハズレ。」
「……まだ知らないみたいだから、教えといてやるよ——」
青い煙の防壁のむこうで、スーザンの小さな手が杖をかかげる。
「パフをなめると痛い目にあうぜ。」
スーザンのそのことばにつづいて、灰色のまばゆい閃光がハーマイオニーの半開きの目にとびこんできた。そこからが真の戦闘だった。
戦闘はしばらくつづいた。
天井の一部が溶けた。
女はジャグソンを連れて引きさがると言って、必死に停戦をもうしでた。スーザンは返事がわりに呪いを撃った。 ハーマイオニーの記憶では、〈アビ゠ダルジムの
最後には女は意識不明、覚醒不能の状態で倒れた。もう一人は倒れた二人を放置して逃げだした。スーザンはというと、汗びっしょりのずたずたのローブで息をきらし、左手で右肩をおさえながら、壁にからだを預けていた。
しばらくするとスーザンは立ちあがり、床に倒れて眠っている仲間たちに目をやった。
そう、眠っている
ラヴェンダーはすでに身を起こし、目をメロンのようにまるくしていた。
「いまの……」とラヴェンダー。
「あれ……」とトレイシー。
「どういうこと?」とハーマイオニー。
「うん……なにあれ?」とパーヴァティ。
「すっごーい!」とラヴェンダー。
「どうするよ、これ……」とスーザン・ボーンズが言う。 汗にまみれたその顔は、すこし顔色が悪い。それが一段と悪くなっていき、心配なほど真っ白になっていく。 「あー、その……みんなずっと幻覚を見てた、ってことで手を打たない?」
四人はすばやく視線をかわしあった。 ハーマイオニーがパーヴァティを見て、パーヴァティがラヴェンダーを見て、ラヴェンダーとトレイシーが何秒か見つめあった。
四人はそろってスーザンのほうを向いて、くびをふった。
「どうするよ、これ……。そうだ、ちょっといま行かなきゃいけないところがあるから、待ってて。すぐ戻るから。このことはだれにも秘密ね。じゃっ!」
そう言うとスーザンはだれの返事も待たずに走りだし、あっという間にいなくなった。
「いや……うん。どうなってんの?」とパーヴァティ。
「『イナヴェイト』」 やっとダフネの倒れたすがたが目にはいったので、ハーマイオニーは杖をむけてそう言った。となりでラヴェンダーが、倒れたハンナにむけておなじことをした。
ハンナは目をひらくなり、必死に身をよじって立ちあがりかけて、また倒れた。
「ハンナ、もういいのよ!」とラヴェンダーが声をかける。 「終わった……勝ったの。」
「……
ダフネはまだ動けないようだが、胸の上下運動ははっきりしている。呼吸に異常はないように見えた。 「ダフネも無事みたいだけど、でも——」 ハーマイオニーはのどがからからだったので、一度息をすいなおす。今回こそは、どこからどう見ても自分たちの手におえないところまできてしまった。「一度マダム・ポンフリーに見てもらわないと……」
「うん、たしかにね。でもちょっとだけ待って。わたしのこころの整理がすむまで。」とパーヴァティ。
「あのね、ちゃんと説明して。」とハンナが食いさがる。「勝った、って……どうやって? 天井があちこち溶けてるのはどういうこと?」
沈黙。
「スーザンのおかげ。」とトレイシー。
「そう。」とパーヴァティがすこしだけ声を震わせて立ちあがり、赤えりのローブのよごれを払いはじめた。 「スーザン・ボーンズの正体は〈ハッフルパフの継承者〉で、ヘルガ・ハッフルパフの伝説の〈勤勉と鍛錬の部屋〉への入りぐちの再発見者でもあったらしいわ。」
「……え?」 ハンナは自分のからだがばらばらになっていないかたしかめるように、手であちこちを触っている。 「〈継承者〉? あれってスプラウト先生が〈だいじな教訓〉を伝えようとして、でまかせで言っただけだと思ってた。——ほんとにスーザンが?」
ここにきてハーマイオニーはようやく多少の冷静さをとりもどしはじめた。 考えてみれば、極限の恐怖を感じていた時間は、意識をうしなっていた時間をさしひけば、三十秒にもならなかったはず。あたまがはっきりしてきたので、ハーマイオニーは一言ずつゆっくりと話しだす。 「いいえ、スプラウト先生のでまかせ、っていうので正解だと思う。そんな話は『ホグウォーツとその歴史』にも、ほかのどの本にも書いてなかった——」
「スーザンは
「はあ?」と言ってパーヴァティが身をひねってトレイシーのほうを向く。 「なにを言いだすかと思ったら——」
「言われてみれば!」と言うラヴェンダーはいつのまにか立ちあがり、興奮してジャンプしている。 「なんで気づかなかったんだろう!」
「待って。スーザンが、なに?」とハーマイオニー。
「
「あ、これはね。」 ラヴェンダーが早口で言いだす。 「ほかのだれにも使えないような魔法が使える、スーパー魔法使いとして生まれる子どもがいるっていう話が昔からあるの。ホグウォーツのなかに、また別の秘密の学校が隠れていて、そこでスーパー魔法使いのためだけの特別な授業があるっていう——」
「それはおとぎ話でしょ!」とパーヴァティが言う。 「現実にそんなものはないの! わたしだってそういう本を読んだことはあるけど——」
「ちょっと整理させて……」 ハーマイオニーは口をひらいたが、やはりあたまの回転が十分にもどってはいないように感じる。 「あなたたちはこうやって魔法学校に行かせてもらえてるのに、それじゃ満足できなくて
ラヴェンダーがとまどった表情を見せた。 「え? もっとすごい魔法パワーがほしくない人なんていないでしょ? 自分は
ハンナがそれを聞いて、顔をあげてうなづいた。ハンナはダフネのそばまで這ってきて、骨折がないか調べているところだった。 「わたしが
どう言えばいいのか、ハーマイオニーは心底わからなくなってきた。
「あ、それより。」と言ってトレイシーがローブをはためかせて身をひるがえし、通路の入りぐちのほうに目をやった。 「どうしよう! 早くここから逃げないと! きっともうすぐ、スーザンがだれか連れてくるのよ! そしたらみんな超魔法で記憶を消されちゃう!」
「スーザンはそんなことしないって! だいたい、そんな超魔法なんて、あるかどうかも——」とパーヴァティが言いかけ——
「これはどういうことですか?」と甲高く怒鳴りつける声があった。半分溶けた廊下をすたすたと、小さなからだに怒りをあふれさせんばかりにして歩いてくるフリトウィック先生。そのすぐうしろには、顔を真っ青にして息をのむパドマのすがたがあった。
「なにが起きたんです?」 スーザンは(ローブがずたずたで汗びっしょりになっているのをのぞけば)自分とそっくりなもう一人の少女にむけてそう言った。
「うん、そこが問題でねえ……」 もう一人のスーザン・ボーンズはそう言って、借りもののローブの残骸をすばやく脱ぐ。 そして一瞬おいて、ふだんの身体——ニンファドーラ・トンクスに〈変化〉していく。 「うまい言いわけが思いつかなくて……ごめん、あとはまかせる。三分くらい時間はあるから、なにが起きたか説明できるようにしといて——」
あとでダフネ・グリーングラスが苦にがしい口調で指摘していたとおり、ハーマイオニーの巧妙な作戦には穴があった。寮点の減点については全四寮から平等に減点されることで無効化できるが、居残り作業についてはそうはいかない。
スーザンが秘密能力をもっているという件を口外しない、ということには全員が合意した。——一度はしぶったトレイシーも、〈超記憶魔法〉をかけるというおどしに屈した。 そこまではよかったが、夕食の席に来た瞬間に
「ハーマイオニー?」と夕食の席でとなりにいるハリー・ポッターがおずおずと声をかけてくる。 「あくまで善意で言うんだけど……余計なくちだしになるかもしれないけど……これ、いろいろと収拾がつかなくなってきてるんじゃないの。」
ハーマイオニーはしばらく返事せず、手もとの皿のチョコレートケーキをフォークでつぶし、ケーキとのトッピングのなめらかな混合物をつくる作業をつづける。 「たしかにね。」と言う返事がすこし自嘲ぎみになる。 「……だからフリトウィック先生にあやまりに行ったとき、わたしもそう言った。収拾がつかなくなってきたのは分かっています、って。そしたらすごい大声で『よくそんなことが言えますね、ミス・グレンジャー?』って言われて、わたしの耳に火がついた。実際
ハリーは片手をひたいにあてて、「失礼。」と真顔で言った。 「そういうことが実際あるんだっていう状況に、いまだにちょっと慣れなくてね。 ほら、ぼくらが若く純情だった時代には、世界はもうちょっと理解しやすかったような気がしない?」
ハーマイオニーはフォークの手をとめ、ふとハリーに目をやる。 「ハリーは、自分がマグルだったらよかったと思うことはある?」
「え? まさか! まあ、仮にマグルだったとしても、ぼくはいずれ世界制ふ——あ。」 ハリーはハーマイオニーの
手もとの〈チョコレートケーキの練りもの〉が完成したので、そこにニンジンをつけて食べはじめる。
「なんでそんな話を?」とハリーが言う。「ひょっとしてマグル世界に帰りたくなったとか?」
「そうじゃないけど……」 ハーマイオニーはニンジンとチョコレートの断片をいっしょに噛みながら言う。 「ただちょっと、自分が魔女に
「もちろん。それだけじゃなく、霊能力も怪力もアダマンチウム入りの強化骨格もほしかったし、自分用の天空の城もほしかったし……自分の将来がせいぜい科学者兼宇宙飛行士どまりなのはちょっと残念だと思ったりもしたな。」
ハーマイオニーはうなづく。「わたしはね……こっちの世界で生まれ育った魔女と魔法使いは、魔法のありがたみがよく分かっていないんじゃないかと思う……」
「そりゃそうだよ。だからこそ、そこにぼくらがつけいる隙がある。考えるまでもないだろう? ぼくはダイアゴン小路に足をふみいれて五分もしないうちに気づいたよ。」 ハリーはどこか不思議そうな顔をした。なぜまたそんなあたりまえのことを、とでも言いたげな表情だった。
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky