ハリーは一歩、また一歩と前にすすむ。距離がせばまるにつれ、不安な気持ちと不穏な感覚がこころのなかにひろがっていく。
声をだそうとも手をあげようともしない。そうするまでもなく、相手にもこの不穏な感覚がとどいているはずだから。
閉じたドアのむこうから小さな冷たい声がした。ドアを通していないかのように聞こえた。
「いまはオフィスアワーではないぞ。きみと約束のある時間でもない。 クィレル点を十点減点する。十点ですむことをありがたく思え。」
そう聞いてもハリーは動揺しなかった。アズカバンの経験をへて、感情をみだされる閾値が変わったせいだ。寮点を一点うしなうことに対して以前のハリーは十段階評価で五の重みをつけていたが、いまは〇.三程度。話す口調もおなじように平静だった。 「あなたは検証可能な予想をひとつしていましたね。それが反証されたということを伝えたかっただけです。」
そう言ってハリーは去ろうとしてドアに背をむけた。それからドアがひらく音を聞き、多少おどろいて、ふりむいた。
クィレル先生は椅子に背をもたれさせ、くびをあずける姿勢で、目のまえに羊皮紙を一枚浮かべていた。 両腕は麻痺したかのようにだらりと机のうえに置かれている。 死体と言われれば信じてしまいそうなほどだが、淡青色の目だけはいそがしく往復していた。
羊皮紙が消え、別の羊皮紙とおきかわる。あまりにすばやい変化だったので、おなじ羊皮紙が点滅しただけのようにも見えた。
やがてクィレル先生の口もとが動いた。やはり小声で、「その発見から、きみはなにを推論する?」
ハリーはその光景に動揺していたが、口調は平静にたもった。 「凡庸な人間もいつも傍観者ではいないということ。そしてスリザリン寮がハーマイオニー・グレンジャーに危害をおよぼそうとしていること、その危険はあなたの予想以上だということです。」
ほんのすこしだけ、くちびるがゆがんだ。 「それでわたしが人間の本質を見あやまった、と思っているようだが、 そのほかの可能性がないと思ってはならない。もうひとつの可能性がなにか分かるか?」
ハリーは眉をひそめ、クィレル先生をじっと見た。
「付きあいきれんな。 分からなければ、そこで立ったまま一人で考えろ。いやなら去れ。」 そう言うとクィレル先生は、もはやハリーの存在すら関知せず、羊皮紙を読む作業にもどった。
六枚目の羊皮紙が消えたところで、ハリーは話しだした。 「あなたは、予測がはずれたのは当初のモデルになかった因子が存在したせいだと思ってるんじゃないですか。 スリザリン寮がハーマイオニーを余計に憎む理由がなにかあったんだと。 天王星の計算上の軌道と実際の軌道が一致しなかったのは、ニュートンの法則がまちがっていたせいじゃなく、海王星という未知の存在があったからであるように——」
羊皮紙が消え、かわりは出現しなかった。そして、クィレル先生は椅子にもたれるのをやめ、顔と顔が正対する姿勢にちかづいた。やはり小声ではあったが、無感情ではなかった。 「いや………」と、声がだんだんと通常のクィレル先生のものにちかづいていく。 「仮にスリザリン寮全体が彼女をそれほど憎んでいたとしたら、わたしが気づけないはずがない。 なのに実際、腕のたつスリザリン生が三人、相応のリスクとコストを承知で、傍観以外の行動をとった。 彼らをそのように動かした原動力はなにか。動機づけしたのはだれか。」 冷たく淡青色にかがやく目がハリーの目をとらえる。 「スリザリン内で影響力のある何者かのしわざだとも考えられる。 では、彼女とその支持者に危害がおよぶことで、その何者かはどんな利益をえるのか。」
「そうですね……。だれかがハーマイオニーに脅威を感じている。あるいは、ハーマイオニーを傷つけることで手柄をたてようとしている、とか? その条件にあてはまる人物は思いつきませんが、ぼくが知っているスリザリン生はほぼ一年生にかぎられています。」 そう言いながらハリーは、多少予想外ではあれたった一度襲撃があったことを根拠に黒幕の存在を推理するというのはやりすぎではないか、とも思った。黒幕仮説の先験確率はあまりに低く、襲撃という証拠はあまりに弱い。しかし、ほかならぬクィレル先生がそう推理しているとなると……
クィレル先生は無言でハリーをじっと見た。まぶたがほんのわずかに、せかすように下がった。
「ああ……。ドラコ・マルフォイが黒幕だという可能性はありませんよ。」
すうっと息をはきだす音。 「ルシウス・マルフォイの息子として、このうえなく厳格に教育された少年だ。 きみはどうせ、ふとした隙に彼の仮面の下の素顔を見たとでも思っているのだろうが、それすらわざと見せた表情だったのかもしれないぞ。」
ハリーは、『そんな演技をしながら〈守護霊の魔法〉を成功させられるものですかね』……とはもちろん言わず、かわりにすこしにやりとしてから、こう返事した。「なるほど、あなたはまだドラコの精神を読んだことがないみたいですね。それとも、ぼくにそう思わせようとしているだけですか。」
返事はなく、 かわりに片手がくるりとまわり、指が一本まげられた。
ハリーが入室すると、 ドアが閉まった。
「それは人間言語で口にすべき話題ではない。」 クィレル先生はそっと小声で言う。「マルフォイのあとつぎに〈開心術〉をかけた、だと? そんな話を聞けば、ルシウス・マルフォイは即座にわたしを暗殺させる。」
「暗殺させようとする、でしょう。」 ハリーのその返事をクィレル先生は見とがめる……かと思いきや、表情を変えなかった。 「でも、わかりました。すみません。」
クィレル先生はまた小さく冷たい声で話しはじめた。 「なるほど、その気になればわたしは暗殺者を返り討ちにすることができよう。」 クィレル先生はまた椅子の背にもたれ、くびをかしげた。目はハリーとあっていない。 「しかしそういった小競り合いに、わたしはほとんど興味をそそられない。 〈開心術〉をありにすれば、もはやゲームですらない。」
ハリーは言うべきことが見つからなかった。 不愉快な気分のクィレル先生を見たことは一、二度あったが、今回は輪をかけて空虚で、 なんと返事していいか分からない。 『なにかお悩みですか』とは言えなかった。
「逆に、興味をそそられることはなんですか?」 しばらくしてからハリーはそう言った。クィレル先生の注意をあかるい方向にむけるという戦略は安全そうに思えた。 感謝の日記をつけることで人生の幸福度が改善するという実験結果を引用する手も考えたが、それはちょっとお節介すぎる気がした。
「そうでないほうの話なら、してやってもいい。 わたしは〈魔法省〉指定の課題作文を採点することに興味をそそられていない。 だが一度ホグウォーツ〈防衛術〉教授に着任した以上、最後まで責任はもつつもりだ。」 クィレル先生の顔のまえにまた羊皮紙が出現し、目がその内容を追いはじめた。 「リーズ・ベルカはこれまで模擬戦の軍の幹部だった。彼女の今回の失態は模擬戦からの追放相当だが、どの陣営のだれに命じられてやったのかを明かせば残留を許す、と提案するつもりだ。 もちろん、でまかせを言えばどうなるかも念押ししておく。 わたしは相手の表情を読むことまでは自分に許している。」
クィレル先生の指がハリーのうしろにあるドアをさした。
「あなたが人間の本質を見あやまったのかどうか、あるいはスリザリン寮のなかで未知のだれかが影響力を行使したのかどうかはおいておくとして—— ハーマイオニー・グレンジャーにあなたが予想した以上の危険がせまっていることは事実です。 今回は腕におぼえのある生徒三人が相手だった。それならつぎは——」
「彼女はわたしにもきみにも助けをもとめていない。 わたしも一度はきみが心配するすがたを愉快に思ったが、もうそれもない。話はここまでだ。」
この会では全員が対等であり、ハーマイオニーは仕切る立ち場ではない。けれどこういう状況ではなぜかいつも、口火を切らされることになるのだった。
四列にわかれて朝食をとっている四寮の生徒たち。その一角に陣取っているS.P.H.E.W.の八人をちら見してくる視線がたえない。
〈主テーブル〉にいるフリトウィック先生も、するどい視線をこちらになげかけている。 ハーマイオニーはそちらに目をむけるまでもなく、くびの裏がわに視線を感じた。文字どおり肌に触れる感覚があって、とても気持ちわるかった。
「トレイシーから聞いたわ。わたしたちに話したいことがあるそうね、ミスター・ポッター。それで用件は?」
「クィレル先生は昨夜、リーズ・ベルカの模擬戦の軍での地位を剥奪した。それだけでなく、彼女を〈防衛術〉の課外活動からも全面追放した。 これがどれだけ重大なことか分かるかい? ミス・グリーングラスなら分かるかな? パドマは?」
ハリーは名前をあげながら順にその面々に目をやる。ハーマイオニーはとまどいの視線をパドマとかわしあい、ダフネもくびをふった。
「まあ、そうだろうと思った。」 ハリーは静かにつづける。 「これはきみたちの身に危険がせまっているということを意味するんだ。それがどの程度の危険なのかはわからない。」 肩を張り、まっすぐにハーマイオニーの目を見る。 「こういうことになるとは思っていなかったけれど…… ぼくはきみたちのことを保護する方法を考えている。きみたちに受ける気があるなら、どんな協力もおしまない。 きみたちに手をだすことは〈死ななかった男の子〉に手をだすということに等しいと、知らしめてやりたいと思っている。」
「ハリー! このあいだも言ったでしょう。余計なことは——」とハーマイオニーはすぐさま反論しかける。
「このなかには
ハーマイオニーはハリーとの見つめあいをやめ、パドマに目をやる。パドマはくびを横にふっていた。
「ラヴェンダーは? きみはぼくの軍で立派にたたかってくれている。だから必要なら、ぼくはそのおかえしをする用意がある。」
「ありがとう、司令官!」とラヴェンダーが言う。 「いえ、ミスター・ポッター。 ……でもやめとくわ。 わたしもヒロインでグリフィンドール生。だから自分の面倒は自分でみる。」
……。
「パーヴァティはどうする? スーザンは? ハンナは? ダフネは? ぼくはきみたちのことをそれほどよく知らない。でも要請があれば、きみたちにも同じように協力させてもらうよ。」
その四人も順にくびをふった。
となると残るのは……。ハーマイオニーはつぎの展開が十分予想できた。なのに、なにをしてもその展開を変えられるような気がしなかった。
「あとは……〈カオス〉で健闘してくれてるね、トレイシー。きみはどうする?」
「えっ、いいの?」 ハーマイオニーをはじめとするその場の女子全員の刺すような視線をよそに、トレイシーはたくみに両手をほおにあてる。ほおを染めることができていないのを隠す意味もあるようだ。 そして茶色の目はキラキラかどうかはともかく、大きく見ひらかれてはいる。 「ほんとに?
ハリー・ポッターはその日の朝食中にグリフィンドールのテーブルとスリザリンのテーブルのところまで行って、どんな状況であれトレイシー・デイヴィスに手をだした人は“真の〈カオス〉の意味を思い知らされる”ことになる、と宣言した。
それをまのあたりにしてドラコ・マルフォイはかなりの自制心を発揮して、トーストの皿にあたまを何度も打ちつけたくなるのを我慢した。
もちろんいじめの首謀者たちは科学者ではない。
それでもあんなことを言われれば、検証しようとするに決まっている。
〈魔女のための英雄機会均等振興協会〉として公式にそう告知したのではないし、公式に告知したからどうなるものでもないように思えた。それでも、しばらくは……すくなくとも、各メンバーが寮監の先生からにられまれたり、ハーマイオニーが上級生にぶつかられて壁にあてられたりすることがなくなるまでは、いじめ退治をするのをやめよう、という案について、メンバーのだれからも異論はなかった(ただしラヴェンダーだけは、のこり七人がやかましく説得する必要があった)。
ダフネはミリセントにはっきりと、しばらく休むということを伝えた。
伝えたにもかかわらず、数日後の昼食の時間に、ダフネのところに羊皮紙がやってきた。ダフネは読むのに苦労するほど手が震えた。
今日昼二時に図書館をでてすぐの階段をのぼりきった場所に集合。 かならず全員そろうようにすること。 ——ミリセントより
ダフネは周囲を見まわしたが、大広間のどこにもミリセントのすがたはなかった。
ダフネはひとまずハーマイオニーに伝えにいった。するとハーマイオニーは…… 「またメッセージが? 変ね、わたしはなにも——」
ハーマイオニーが言いやめたので、ダフネは訊きかえした。 「いま、なに言いかけたの?」
ハーマイオニーはくびをふった。 「ダフネ……これまでずっとわたしたちにメッセージを送ってきたのがだれだったのか、はっきりさせておかないといけないと思う。 前回起きたことをよく考えてみて。 あの時間にあの三人が来ると知っている人がいるなんて、おかしくない? 最初からグルだったのでもなければ。」
「それは——そのことは言えないの。でもどこから来てるかも、ちゃんとした説明がつくことも分かってる。」
ハーマイオニーは意味ありげな目つきをしてきた。その顔が一瞬だけ、怖いほどマクゴナガル先生に似て見えた。
「ふうん……。じゃ、スーザンが突然スーパーガールになった理由は説明できる?」とハーマイオニー。
ダフネはくびをふった。 「できない。でも、ある場所に
もしかして自分はうっかり……
〈なにか〉を壊してしまったのではないだろうか……
「ふうん……」 ハーマイオニーはまたそう言って、〈マクゴナガルの視線〉を使った。
いつ、だれがその噂の出発点だったのかはだれにも分かっていない。 逆順に一人ずつ、一言ずつたどっていこうとすれば、おそらく巨大な円ができることになるだろう。
ペレグリン・デリックはその日の朝、〈薬学〉教室をでるときに肩をたたかれた。
ハイメ・アストルガは昼食中に耳うちされた。
ロバート・ジャグソン三世は皿の下に小さな紙がまるめてあるのを見つけた。
カール・スロウパーはグリフィンドール生が二人、こそこそ話しているのを聞いてそのことを知った。二人は彼にちらりと意味ありげな視線を送ってもいた。
情報の出どころはどこだったのか、だれも知らない。ただ、全員がおなじ場所と時間を指定する情報をうけとった。そして、色は白に、と指示されていた。
「ここは大事なとこだから、全員よーく理解しといてね。」 そう話しているのはスーザン・ボーンズ……というか、スーザン・ボーンズに憑依しているなにか。もはやただの子どものふりをしようともせず、 ぽちゃ顔の女の子のすがたで威勢よく廊下を歩いていく。 「行ってみて相手が単独なら、いつもどおりに戦えばよし。 なんせ、あたしの秘密のスーパーパワーは、弱きを助けるときにしか発動しないからね。 でも物置から七年生が五人でてきたりしたら、どうするんだっけ? そう。逃げる。戦うのはあたし一人にまかせて、逃げる。 ついでに教師に知らせられればなおよし。でもまず第一に肝心なのは逃げること。あたしが逃げみちをつくったら、すぐ逃げること。 そういう戦場では、あんたらは戦力じゃなくて
「はーい。」とメンバーの大半が返事した。ハンナだけは「はい、レイディ・スーザン!」と言った。
「『レイディ』はやめてよ。……そこ、返事が聞こえないぞミス・ブラウン! 劇作家にも知り合いはいるんだからね。〈救いようがなくバカなことをして人質になったラヴェンダー〉として後世に名前をのこしたくないなら、あたしの言うとおりにしなさい。」
(ハリー以外にもこういう風に謎の暗黒面を持つホグウォーツ生がまだ何人もいるのだろうか、とハーマイオニーは思った。そしてこの調子でつきあっていると、
「分かりました。」 ラヴェンダーはいつになく丁寧な口調で言う。 一行は図書館を目ざして最短路を進んでいて、その途中で両側に三つずつ両開きの扉がある、やけに広い廊下にさしかかったところだった。 「……わたしも
「六年生になったら、〈闇ばらい〉志望者用のプログラムに応募してみな。」とスーザン。 「一番ちかいのはあれだから。 あ、それと、有名な〈闇ばらい〉から夏休みにインターンとして受けいれてやるっていう話が来たら断るな。周囲からどんなに『あの人はやめとけ』『死ぬぞ』って言われても行くんだ。」
「了解です!」 ラヴェンダーはくびをぶんぶん縦にふって言った。
(前回のスーザンを目撃しなかったパドマは、うさんくさそうな目でスーザンを見ている。)
そのときスーザンが急に立ちどまり、杖を立て、「『プロテゴ・マキシマス』!」と言った。
アドレナリンがハーマイオニーのからだを駆けぬけ、すぐさま杖を手にして、ふりむくと——
青色の雲ができて、メンバー全員をつつんでいる。雲ごしに、不審なものはなにも見えなかった。
ほかの全員も位置につき、やはり怪訝そうな顔をしている。
「悪い!」とスーザンが言う。「安全かどうか、ちょっと調べておきたくてね。 この手の構造には気をつけろって、つい最近とある人に言われたのを思いだしたんだ。こんなにたくさん扉があると、待ち伏せに最適だから。」
一瞬あたりがしんとした。
「いくぞ。」と耳ざわりな男の声がした。雑音がかさねられていて、だれの声か聞きわけることができない。
扉が六つとも、いきおいよくひらいた。
白ローブの人影が何人も無言で迫ってくる。すっぽりと全身をつつむローブで寮の色がわからなくなっていて、顔もフードから垂れた白布で隠されている。 人影は増えつづけ、ぱっと見て数えることができないほどの人数で広い通路がいっぱいになった。 おそらく五十人には満たない。だが三十人をはるかに超えている。 その全員がそれぞれ青色の雲を身につけている。
スーザンが〈非常に汚ない表現〉をいくつか使って罵倒した。ハーマイオニーとしては一言注意しておきたいくらいだったが、そんな場合ではなかった。
「あのメッセージ……!」 ダフネがわなわなと言う。「あれを送ってきたのは——」
「そう、ミリセント・ブルストロードじゃなかった。」と雑音声の男が言う。 「おまえたちをいじめ狩りに行かせる指示をしてるやつがいる。それが毎回おなじ一人の生徒となれば、いずれはだれかが気づくものさ。 ここがかたづいたら、つぎはブルストロードにたっぷり説明してもらう。」
「ミス・スーザン……」 ハンナがわずかに声を震えさせる。「ほんとにあなた一人でこれを——」
何人もが杖をかかげ、一斉射撃をした。緑色のまばゆい閃光——
通路の両側の端に黒色のかたまりが出現し、道をふさいだ。 ハーマイオニーが見るかぎりで、扉のさきにあるのはすべて空き教室。退路はない。
「無理だったな。」とまた雑音のかかった声の男が言う。 「気づいてなかったなら教えてやる。おまえたちはあちこちで怒りを買いすぎた。おれたちは今度こそ負けるつもりはない。 よし、全員攻撃準備。」
ハーマイオニーたちに一斉に杖がむけられた。同士撃ちを避けるために照準は低くとられている。
そこで突然、別の、やはり雑音まじりの男の声がした。「『ホミナム・レヴェリオ』!」
一瞬おいて、反射的にそこに大量の防壁破壊呪文と攻撃呪文があびせられた。新しい人影は即座に防壁をつくりだそうとしていたが、すぐに粉ごなになり——
その人影がばたりと倒れ、全員が唖然として無言になった。
「スネイプ先生だったのか? おれたちを妨害しようとしていたのは。」と二人目の男が言った。
意識をうしなって石敷の床に倒れたその人物は、たしかにホグウォーツ〈薬学〉教授だった。ところどころ汚れのあるローブがもう一度だけぴくりと動き、止まった。のびたままの片手のさきには、杖がゆっくり転がっていた。
「いや、それはない。」と一人目の男が、すこし自信なさげに言ってから、またいきおいをとりもどす。 「ありえない。ただこの対決のことを聞きつけて、またおれたちにしくじられては困ると思って、見張りに来ただけだろう。 スネイプ先生には、あとで起こしてからよく謝罪しよう。こいつらが目撃した記憶も〈記憶の魔法〉で消してもらおう。スネイプ先生は教師だからそれができる。 とにかく、これ以上第三者がいないことをたしかめておくぞ。 『ヴェリタス・オキュラム』!」
それから二十以上の呪文がとなえられたが、ほかに潜伏している人物は見つからなかった。 そのうち一つの呪文がなんであったかに気づいて、ハーマイオニーは意気消沈した。それは〈真の不可視のマント〉とおなじ場所に書かれていた呪文で、〈真の不可視のマント〉を見通すことはできないものの、そのたぐいの魔法具がちかくにあれば検知できる、というものだった。
「あのさ。」と言ってスーザンがすこしずつ起きあがろうとする。しかしその手足はまだふらついている。 「さっきはああ言ったけどさ。ごめん、取り消す。 みんな、なにか効き目がありそうなこと思いついたら、やるだけやってみて。」
「あ、そういえば……」とトレイシー・デイヴィスが震える声で応じる。そしてすこし大きな声で、 「
「そこのみなさーん!」 トレイシーは甲高く震える声でさけぶ。「あたしのことも攻撃するつもり?」
「ああ。するとも。」と雑音声の主犯格が返事した。
「あたしはハリー・ポッターの加護をうけてるから、あたしを攻撃しようとする人は〈カオス〉の真の意味を思い知らされることになるわ! さあ、それでもつづける? それとも見のがしてくれる?」 挑戦的な呼びかけではあったが、トレイシーの声はおびえていた。
あたりがしんとした。 相手の何人かが顔を寄せあい、またこちらに向きなおった。
「ほう……だがことわる。」と主犯格が言った。
トレイシー・デイヴィスは杖をローブにしまった。
そしてゆっくりと大げさに右手を高くかかげ、親指と人さし指をぴたりとあわせた。
「やってみろ。」とまた主犯格が言う。
トレイシー・デイヴィスは指を鳴らした。
そしてしばらく全員が不安げに息をひそめた。
なにも起きなかった。
「よし、もうこのへんで——」
その声をさえぎって、トレイシーがまた一段と高く震える声で、「
ハーマイオニーは背すじに名状しがたい寒けを感じた。ぞわりとする感覚とともに、足もとの床がぐらりとかたむいたような気がした。床の裏がわにひそむ暗黒へ自分が振り落とされそうな気がした。
「いまのはなんの——」と雑音まじりの女の声がした。
トレイシーは青ざめ、恐怖に顔をしかめているが、口だけは動きつづけ、高音の詠唱をつむぎだす。 「
閉鎖された廊下のどこかから冷気が流れてくる。凍りつくような暗黒の吐息が一人一人の顔をなで、手に触れる。
「全員攻撃用意!」と主犯格の声。「一、二、三!」
四十人ほどが一斉に雷撃呪文を重ね、巨大な光の束が太陽よりもあかるく通路全体をてらし——
——つぎの瞬間、S.P.H.E.W.メンバーのまわりに出現した黒赤色の八面体にあたってその雷撃は消散した。八面体もすぐに消えた。
実際に目にしてもなお、それはハーマイオニーの想像を超えていた。これだけの人数の攻撃に耐える〈防壁魔法〉など想像できなかった。
トレイシーの声はかわらず詠唱をつづけている。声はだんだんとちからづよくなるいっぽうで、眉間にしわを寄せ
「
この時点でこの場にいるヒロインといじめっこの全員が異変を感じた。ぞくりとする感覚、のしかかるような暗黒の気配とともに、なにかが立ちあらわれつつあった。 白ローブの人影の周囲の青色の雲と、そのほかの防壁呪文のすべてが、ふっと消えた。白ローブの人影があわてて呪文を撃ちはじめ、光が乱舞したかと思うと、そのすべてが空中で、
通路の両端につくられていた黒い障壁が気団におしのけられるようにして消散した。だがそのむこうにあらわれた出口は閉ざされていた。出口をかためる黒金の羽板には、血のような染みがあった。 トレイシーが「
トレイシーは左に手刀を切って「
……深く息をついた。ハーマイオニーはわれに返ってトレイシーに呼びかけた。 「やめて! トレイシー、やめて!」
トレイシーは不気味な笑みを見せ、 杖を高くかかげたまま、もう一度指を鳴らした。 つぎにその口から聞こえてきた詠唱には、女の子らしい高い声の裏に、低い声のコーラスが重なっていた。
「漆黒より暗きもの 暗黒の果ての暗黒
時間の流れの水底に埋まりしもの……
その声は暗黒を伝い虚無に響き渡り
ただの一度も死なず ただの一度も生きず。」
「
「
スーザンは顔をチョークのように真っ白にして、小声で、「マッドアイ、ごめん……」と言った。
トレイシーは詠唱をつづけ、ますます高く浮かびあがり、冷気に吹かれて黒髪を乱れせた。
「門を知り、門にして鍵であり、鍵にして守護者である
その瞬間、廊下が完全な無音と暗黒の空間となり、トレイシーの身体と声、そしてトレイシーをつつむ名状しがたいなにかが生みだす薄光だけが残った。
光る少女は最後にもう一度、不気味な重おもしさをこめて親指と人さし指をぴたりとかさねた。
ハーマイオニーは暗がりのなかからトレイシーの顔に目をむけた。トレイシーの目の色は、ハリー・ポッターとまったくおなじ緑色になっていた。
「ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス、ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス!」
また指の音が雷鳴のようにひびき、そして——
ハリーはあえてカジュアルな姿勢で面談にのぞむことにした。総長室の大きな机のまえの小さな椅子に腰をおろし、 片足をひざに引っかけ、左右の手はぶらりと下げる姿勢だ。 周囲にある各種装置の音はできるかぎり無視するようつとめたが、粉砕機にいれられたフクロウの断末魔のような音が真うしろから聞こえてくるのだけはなかなか無視できなかった。
「ハリー……」 机のむこうのダンブルドアは平静な声で言い、半月形の眼鏡のなかの青くかがやく目でハリーをじっと見ている。衣装は濃紫のローブ。魔法界では服装に意味をもたせる習慣があり、これは黒の礼服ほどではないものの、きわめて真剣な態度であることを意味している。 「今回のことは……きみのしわざか?」
「一定の関与をしたことは否定できませんね。」
老魔法使いは眼鏡をはずし、身をのりだして、青い目でハリーの緑色の目を見すえた。 「ひとつ聞いておきたい。きみが今日なしたことは——適切だったと思うかね?」
「相手はいじめの犯人です。あの全員が、ハーマイオニー・グレンジャーほか七名の一年生を痛めつける明確な意思をもってあの場に登場しました。 ぼくのような年齢でも道義的な責任を問われなければならないのであれば、彼らも同様です。 もちろん死刑とまでは言いませんが、はだかで天井に貼りつけられるくらいは自業自得でしょう。」
ダンブルドアはまた眼鏡をかけた。ダンブルドアがハリーの目のまえで絶句するのはこれがはじめてだった。 「マーリンに誓って言うが、掛け値なしの本心として、わしはこの件にどう反応していいか分からぬ。」
「そう思ってもらえましたか。ぼくのねらいどおりです。」 ハリーは口笛で陽気な曲でも吹きたいところだったが、残念ながら思うように口笛を吹く技術がない。
「直接手をくだしたのがだれだったかについては、きみから知らされるまでもない。 あれだけのことをしうる人物はホグウォーツに三人だけ。 わしではない。セヴルスも関与していないと証言した。となると、残るのは……」 総長はやや狼狽したように、くびをふった。 「クィレル先生に〈マント〉を貸したのじゃな。 浅はかなことをしたものじゃ。 あれを着れば、単純な検知呪文をすりぬけることができる。そこからすぐに〈死の秘宝〉であることは見やぶられたにちがいない——いや、手を触れた時点でそれと気づいていたかもしれぬ。」
「クィレル先生は以前からぼくが不可視のマントをもっていることを言いあてていましたよ。 あの人のことですから、〈死の秘宝〉であるということも、おそらくあたりがついているでしょう。 でもひとつ言っておきますが、実際にはあのとき、クィレル先生は顔を隠した白ローブの集団の一人になっていたんです。」
またしばらく返事がなかった。
「その手で来たか。」 そう言って総長は玉座に背をもたれさせ、ためいきをついた。 「クィレル先生とはすでに話した。ついさっきのことじゃ。 どう表現したものかと考えたが、こう言ってはおいた。 廊下での規律違反に対処するにあたっては一定の方針があり今回のような手段は認められていない、それにホグウォーツ教授のふるまいとしてもいかがなものかと思う、と。」
「それで、クィレル先生はなんと返事しましたか?」 ハリー自身は、現状の廊下の規律のありかたについて、あまり満足していない。
総長はあきらめの表情をした。 「『では解雇なさい』、と。」
ハリーはあやうく歓声をあげそうになった。
総長は眉間にしわを寄せる。「しかしなぜクィリナスがあんなことを?」
「クィレル先生は校内暴力が嫌いなようですから。それと、ぼくが丁寧にたのみこんだからでもあるでしょう。」
総長は机のむこうで立ちあがり、〈組わけ帽子〉と赤いスリッパがのせられた帽子かけのまえを行ったり来たりした。 「ハリー、ここまでくるとこの件はいささか……」
「おもしろくなってきた、と思います?」
「『完全に手のつけようのないありさま』と言うべきじゃろう。 おそらくこの学校がはじまって以来、今日にいたるまでこれほどの……、なんと言えばいいか。これほどの事態は史上はじめてのことで、いままでだれもそのための表現を発明する必要を感じなかったらしい。」
ハリーはかわりに最高の賛辞をもらってよろこぶ様子を表現する新語を提案したいくらいだったが、あいにく忍び笑いに急がしく、なにも言えなかった。
総長はますます深刻な表情でハリーを見つめる。 「ハリー、きみはわしがなぜこれほど憂慮しているのか、理解していないのではないか?」
「正直言って、わかりませんね。 そりゃ、マクゴナガル先生だったら、学校の退屈な日常に色どりをあたえるすべてを止めようとするのも分かります。 でもマクゴガナル先生は、ニワトリを燃やすような先生ではありません。」
ダンブルドアはいっそう顔をしかめた。 「そのことはよい。問題は、本格的な戦闘が校内でおこなわれてしまったことじゃ!」
「総長。」 ハリーは敬意のある言いかたをつとめようとする。 「しかけたのはクィレル先生とぼくじゃなく、むこうですよ。 ぼくたちは〈光〉の陣営が勝つようにしむけただけです。 どの陣営が道義的に正しいと言えるか、はっきりしないこともあるでしょうが、今回にかぎっては
ダンブルドアは席にもどり、クッションつきの玉座に音をたてて腰をおろし、両手に顔をうずめた。
「ぼくはなにか見おとしていますか? 内心では応援してもらえると思っていたんですが。 グリフィンドール的な行為でしょう。ウィーズリー兄弟ならきっと賛成する。フォークスだってきっと——」 ハリーは黄金色の止まり木に目をやったが、そこは空席だった。フォークスはほかの用事があっていないのだろうか。それともダンブルドアが席をはずさせたのだろうか。
「その点が……」 総長は年齢と疲労を感じさせる、ややくぐもった声で言う。 「まさに問題なのじゃ。 若く勇敢なヒーローに学校の運営をまかせたりしないことにはそれなりの理由がある。」
「そうですか、やはり見おとしていることがあると。それはなんですか?」 ハリーはつい懐疑心を声にこめてしまった。
老魔法使いは顔をあげ、神妙なおももちで、静かに話しだした。 「ハリー、よく聞いてほしい。ちからを行使する者はみな、遅かれ早かれこのことを理解するようになる。 この世界にはたしかに単純なものごともある。石をひとつ持ちあげて落としたとして、地球の重量はかわらず、星はとどこおりなく運行する。 こんな言いかたをするのは、また仮そめの知恵だと思ってもらいたくないからじゃ。単純なものごとはたしかにある。しかし複雑なものごともある。 強大な魔術は世界に、そしてその術者に、単純な呪文の効果ではありえないような刻印をのこすことがある。 そのような魔術を使う者には、ためらいが要求される。結果としてなにが起きるか、どのような印がきざまれるかを、吟味する義務がある。 ところが、わしが知るかぎりもっとも難解な種類の魔法はこのうえなく単純でもある。 それは
「たんなる気まぐれのように思われるのは心外ですね。まあ、あの場にいたいじめっこ一人一人にどういう影響があるかを正確に把握していたとまでは言いません。 でも、情報が十分あつまるまで待つばかりでは、行動することなどできません。 たとえばペレグリン・デリックの心理面の生育について言うなら、一年生女子八人をいじめることがよい影響をもたらすとは考えにくい。 それに、地味なやりかたですばやく介入するだけでは、意味がなかった。それではいずれまたおなじことがくりかえされます。彼らにとって恐れるにあたいする介入者が存在することを知らしめる必要があったんです。 ……もちろん、ぼくは善のがわですから、後遺症のあるけがをさせたり、苦痛をあたえたりすることはできません。そうでないやりかたで、もうこりごりだと思わせる必要がありました。 なにをすればどういう効果が期待できるか、ぼくのかぎりある理性をつかって吟味したうえでもっとも有効な手段として導きだされたのが、彼らをはだかにして天井に貼りつけるという方法でした。」
ヒーローはそのまま老魔法使いと対峙し、緑色の目で老魔法使いの青色の目をじっと見すえた。
それに、ぼく自身はその場にいなかったし直接手だししてはいなかったのだから、校則上ぼくを罰する口実は存在しない。実行者はクィレル先生一人であり、クィレル先生にはどんな規則も通用しない。 かといって、ダンブルドアからすれば、ぼくをヴォルデモート卿と戦わせる手駒として育てるつもりなら、規則を度外視してぼくをこらしめようとするのも賢明ではない……。 今回ハリーはいつになく真剣になって各方面にどんな影響がありうるかよく考え、それからクィレル先生に最終的な提案をしにいったのだった。 クィレル先生もその話を聞いたとき、めずらしくハリーのことを愚か者とは言わず、すこしずつ笑顔になり、笑い声をたてた。
「きみがそういう狙いでいたことは分かっておる。 あれだけのしっぺがえしには、いじめっこたちも
え?
「きみがそうやって介入するたび、事態は深刻さを増した。 やがてミス・グレンジャーが〈死食い人〉の息子ロバート・ジャグソンら三人と対決するまでになった。 ミス・グレンジャーはそれは手痛い敗北を喫するはずじゃった。しかし、そこでまたきみはクィリナスの手を借りて、今度はもっとあからさまに、彼女を勝たせた。」
クィレル先生が透明になってS.P.H.E.W.のヒロインたちのそばにつき、こっそり護衛していたというのか。そんな様子はとても想像できない。
「そして、今日のことが起きた。四十四人の生徒が八人の一年生をとりかこみ攻撃した。 校内で本格的な戦闘が起きた! 意図してやったことではないとしても、きみにはなんらかの責任をとってもらわねばならん。 きみが来るまでこの学校でこのようなことは起きたことはなかった。わしが数十年まえに総長の任を受けて以来……いや、わしが生徒であった時代にも、教師であった時代にもこのようなことはなかった。」
「おほめのことば、ありがとうございます。」 ハリーは平静な声をたもった。 「賞賛されるべきなのは、ぼくよりクィレル先生だと思いますが。」
青色の目が見ひらかれた。「ハリー……」
「ぼくが来るずっとまえから、いじめはありましたし、被害者もいました。」 おさえようとしてはいたのに、だんだんと声が大きくなってきた。 「なのに、被害者にも
「いや、ならないのじゃ、それが。わかっておくれ。
どう表現するか、ハリーは慎重に考えてから言った。 「……こう言うと逆効果かもしれませんが、それは完全に誤解ですよ。 ぼくも戦うのは好きじゃありません。 戦いは怖いし、野蛮だし、だれかがけがをすることもある。 でも、分かりませんか。ぼくは今日、戦ってすらいないんです。」
総長は眉をひそめた。「かわりにクィレル先生にやらせたのであれば、おなじこと——」
「クィレル先生も戦ってはいません。 クィレル先生と戦えるような人はあの場にいませんでした。 あのとき起きたのは、戦闘ではなく勝利です。」
老魔法使いはしばらく時間をかけてから返事した。 「仮にそうだとしても、一連の紛争には終止符を打たねばならん。 わしにはこの学校の緊張の空気が肌で感じられる。衝突が一度起きるたび、緊張は高まる。 この件は近いうちに、有無を言わさぬかたちで終結させねばならん。きみにはそれを邪魔しないようにしてもらいたい。」
老魔法使いはオーク材の大扉にむけて手をふり、ハリーは退室した。
ハリーは二体の巨大なガーゴイル像があけた道を通りぬけ、おもいがけず、クィリナス・クィレルが廊下の石壁に倒れこんだままそこにいるのを目にした。だらしなくあいた口から大きなよだれを教師用のローブにこぼしているそのすがたは、ハリーが総長室にむかったときから変わっていなかった。
待てども起きあがる気配はなく、ハリーは居心地が悪くなったので、廊下のさきに進むことにした。
二区画さきまで行ったところで、「ミスター・ポッター?」とハリーを呼ぶ声がした。小声でありながらなぜか、はっきりと聞こえる声だった。
ハリーはクィレル先生のところにもどった。クィレル先生はやはり壁に倒れこんだままだったが、淡い水色の目には知性の光があった。
すみません、そこまでクィレル先生を消耗させることになるとは——
ハリーはそう声をかけることができなかった。 クィレル先生がついやす労力の量と『休息』の長さのあいだに相関があることにハリーは気づいていた。 けれど、仮に割にあわない労力だと思うなら、クィレル先生は協力を申しでるはずがない。そう考えて、ハリーは気にしないことにしていた。 それははたして、ただしい選択だったのか。そうでなければ、どう謝罪すればいいのか……。
防衛術教授は口以外にまったく動きを見せないまま、静かに話しだす。 「総長との面談はどうだった?」
「よく分かりません。 予想していたような話ではありませんでした。 総長は〈光〉の陣営が負けるべき状況がずいぶん多くあると思っているようです。ぼくが妥当だと思うよりもずっと多く。 それと、総長は戦おうとすることと勝とうとすることのあいだの違いも、理解していないような気がします。 そうだとすれば、いろいろ説明がつきますね……」 ハリーは〈魔法界大戦〉についてそれほど詳しく調べたことはない。しかし、善のがわはとくに凶悪な〈死食い人〉たちの身元をかなりの精度で把握していたらしいことは、知っている。にもかかわらず、まっさきにフクロウで手榴弾を送りつけるという手をとらなかったということも。
色の薄いくちびるから弱い笑いがもれた。 「そう、ダンブルドアは勝利を楽しむことも、ゲームを楽しむことも知らない。 ひとつ聞いておきたい。 きみが今回の作戦を提案したのは、わたしの退屈をまぎらそうと意図してのことか?」
「いろいろある動機のなかのひとつではあります。」 『はい』の一言ですませてしまってはまずい、とハリーは本能的に感じたのでそう答えた。
「思えば昔から、わたしが陰鬱になっていると気分をあかるくさせようと努力する者は何人かいた。努力しただけでなく、実際そのような結果につながったこともある。しかし、意図してやってそのとおりに成功させたのはきみがはじめてだ、と言ったらおどろくかね?」 そう言って、防衛術教授は独特な動きで壁の下から立ちあがった。まるで筋力だけでなく魔法力もつかったかのようだった。 そしてハリーのほうをふりかえらずに、歩きはじめた。ただその後ろ手に指が一本、くいっと動いたのが見えたので、ハリーはあとを追った。
「ミス・デイヴィスのためにきみが用意した祈祷文はとくに愉快だった。」 しばらく歩いてからクィレル先生は話しはじめた。 「ただ、彼女に暗記させるまえに、わたしに目をとおさせてもよかったと思うがね。」 クィレル先生のローブのなかで片手がむくりと動き、杖をたずさえ、空中に小さなしるしを描いた。すると、城の遠くから聞こえていた喧騒の音が消えた。 「正直に言ってもらおう。きみはなんらかの手段で〈闇〉の儀式の理論をまなんだことがあるか? そうだとして、実際につかう意思があると白状したことにはならない。原理のところまでを知る魔法使いは少なくない。」
「ないですけど。」 ハリーが一度はホグウォーツ図書館の〈禁書区画〉に忍びこむことを考え、却下したことには理由がある。一年まえ、一般家庭にある材料から爆発物を製造する方法を調べるという発想を却下したのもおなじ理由からだった。 ハリーは自分はほかのひとが思うほどの常識知らずではないという自負がある。
「ほう?」 だいぶふつうの歩きかたになっているクィレル先生のくちびるが独特の笑みをかたちづくる。 「おもしろい。生まれつきこの方面に才能があるということかもしれないな。」
「ああ、それなら、ドクター・スースにも〈闇〉の儀式の才能があったんでしょうね。『シャックリ ギックリ ヒックリ ヒッ』というのは、『ふしぎなウーベタベタ』というドクター・スースの絵本にあった呪文をそのままもらっただけですから——」
「いや、その部分ではない。」 クィレル先生の声に多少重みがでて、ふだんの講義の話しかたにちかづいた。 「凡庸な呪文は一定のことばを口にし、一定の杖の動かしかたをし、多少のエネルギーを消費するだけで発動する。 威力の大きな呪文であっても、効果だけでなく効率を重視したものであれば、おなじくらい容易につかえることもある。 しかしとくに高度な魔術では、言語以上の構造が要求される。 具体的な行為と選択をおこなうことでその構造をあたえるのが、儀式というものだ。 高度な魔術ほど、発動に必要なエネルギーは一時的な魔法力の消費ではおぎなえない。 そこで不可逆的な犠牲をささげる必要がある。 そういう高度な呪文は、凡庸なチャームとは似ても似つかない威力を発揮する。 しかし儀式の手順には多くの場合——いや、ほとんどの場合——
「なるほど。魔法使いはなぜ、相手が約束をまもってくれるかどうか分からないとき、まっさきにその呪文を使わないのか、と思っていましたが、そういうことですか。……それでも……死期がちかくなった人はみんな〈不破の誓い〉の縛り手を請け負うことでおかねを稼いで、遺産を増やすことができそうなものですが——」
「そう理解できている人は少ないということだ。 すこしよく考えれば便利につかえるはずの儀式は何百とある。 そのうち二十種くらいの名前を一息に暗唱してみせてもいい。 ともかく、ミスター・ポッター、重要なのは——それを〈闇〉の儀式と呼ぶかどうかにかかわらず——儀式魔術は見た目上の演出ではなく効力のために作られているということだ。 たしかに強力な儀式ほど残酷な犠牲を要求する傾向はある。しかしわたしの知るもっとも凶悪な儀式魔術でも、必要なのは男を絞殺した縄一本と女を斬り殺した剣一本にすぎない。それだけで、〈死〉そのものを召喚するという儀式をおこなうことができる——とはいえ、どういう意味で〈死〉を召喚するものなのか、わたしは知らないし、知る気もない。〈死〉を消し去る対抗呪文の知識はうしなわれている、とも書かれていたからだ。 きみがミス・デイヴィスのために起草した祈祷文ほどおそろしげな文句には、わたしもお目にかかったことがない。 あの狼藉者のなかに、すこしでも〈闇〉の儀式に通じた者がいれば——多少はいるだろうな——筆舌につくしがたい恐怖をあじわったことだろう。 あれほど大がかりな外観をともなう儀式が実際あったとすれば、地球を溶解させるほどの威力になる。」
「は、はあ。」
クィレル先生のくちびるが一層ねじれる。 「ああ、そして極めつけはここからだ。 ミスター・ポッター、儀式の呪文ではかならず供物をさきに指定する。引きかえに得るものを指定するのはそのあとだ。 きみがミス・デイヴィスに渡した呪文では、まず『暗黒の果ての暗黒』『時間の流れの水底に埋まりしもの』『門を知り、門にして鍵である者』という口上があった。 そのあとで、ミスター・ポッター、きみ自身を召喚することばがあった。 くりかえすが、最初に指定されるのが供物であり、そのあとが利用目的だ。」
「そう……ですか。」 ハリーはクィレル先生のあとを追って防衛術教授室へむかう足をとめていない。 「つまり、あの言いかたでは、まるで〈外なる神〉ヨグ゠ソトースを——」
「——そう、供物として不可逆的に犠牲にし、その引きかえにきみを現世に召喚する儀式だったことになる。 まあ、実際本気にした人がいたかどうかは、明日の新聞を読んでみれば分かることだ。この宇宙へのきみの侵入を押しとどめるために全魔法世界が団結したという記事があるか、楽しみだ。」
二人は歩きつづけ、クィレル先生は妙にしわがれた声で笑いだした。
二人はそれ以上話すことなく、防衛術教授室へ到着した。ドアに手をかけたところで、クィレル先生の動きが止まった。
「思えば奇妙なものだ。」 防衛術教授の声はほとんど聞こえないほど小声になり、 ハリーに背をむけたまま、話しつづける。 「とても奇妙だ……。 あるとき、わたしは自分の杖腕の指を一本ささげることで、ホグウォーツでいじめをしている者たちに、今日やったようなことをしてやろうと考えたことがある。 つまり、狼藉者たちがわたしを恐れ、全生徒がわたしの威光に服し、崇敬すらするようにしようとしていた。そのためなら指の一本を犠牲にしてもよかった。 きみはいまそのすべてを手にしている。 人間の本性どおりにいけば、わたしはきみを憎んでいてしかるべきだが、 実際にはそう思えない。 とても奇妙だ。」
感動的に思えていい場面だが、ハリーは背すじに寒けを感じた。ちょうど大海に泳ぐ一匹の魚になった自分が巨大な白いサメに見つかり、そのサメがじろりと見て、大げさにためらうしぐさをし、食べないでおいてやる、と言ったような感じがした。
男はドアをあけ、教授室のなかに消えた。
余波:
おなじスリザリン寮の生徒たちが全員、ダフネにむかって……どういう顔をすればいいのか分からないという顔をしている。
グリフィンドール生たちも、どういう顔をすればいいのか分からないという顔でダフネを見ている。
ダフネ・グリーングラスは恐れることなく、〈元老貴族〉らしい威厳をまとって〈薬学〉教室のなかを歩いていく。 内心では、周囲のみんなが考えているであろうこととおなじことを考えながら。
あの『??』が『?!?』してから二時間になるのに、ダフネの脳内はいまだに『??!!?』な状態のままだった。
スネイプ先生の到着をまえに、教室全体がしんとしている。 ラヴェンダーとパーヴァティはグリフィンドール生の集団のちかくにいて、無言の視線をうけている。 二人は授業がはじまるまでの時間をつかって宿題を見せあっているが、だれもそこにくわわろうとせず、話しかけようともしない。 ダフネの知るかぎり何者にも動じないラヴェンダーですら、気おされているようだ。
ダフネは席につくと『魔法水薬・油薬』の本をかばんから取りだし、自分の宿題を見なおす作業をはじめ、できるかぎり平静なふりをつとめた。 視線を投げかけてくる人たちのだれも、口をきこうとはしない。そのとき——
ひっと息をのむ音が教室全体にひろがった。 ドアのそばの席から順に、生徒たちが風になびく穂のようにひるんで腰をひかせていく。
ドアを通ってくるのは、ホグウォーツの制服にかさねてぼろぼろの黒衣をまとったトレイシー・デイヴィス。
トレイシーは一歩一歩、ゆらりゆらりと教室のなかを歩いてきて、いつもの席に腰をおろした。つまりダフネのとなりの席である。
トレイシーはゆっくりとくびをひねり、ダフネを見た。
「ほうら……」 トレイシーは陰鬱な低い声で言う。「言っておいたとおりになったでしょう。あたしが一歩さきに、もらったわ。」
「なんのこと?」 ダフネはつい聞きかえしてしまったが、すぐに後悔した。
「グレンジャーよりさきに、ハリー・ポッターをいただいた、っていうこと。」 トレイシーはやはり低い声でそう言い、目をかがやかせ勝ち誇る表情になる。 「ポッター司令官が女の子にもとめるのは、きれいな顔でもきれいな服でもない。 要はあれだけの呪力をうけとめる巫女になる気がある気があるかどうか。 これであたしは彼のもの——彼もあたしのもの!」
それを聞いて教室全体が凍りついた。
「失礼、ミス・デイヴィス。」 もう一人の〈元老貴族〉、ドラコ・マルフォイの洗練された声がした。興味なさげに〈薬学〉の宿題をぱらぱらとめくっており、周囲の注目があつまるのも意に介さず、手もとから目をはなそうとしない。 「ハリー・ポッターがそう言ったのか? 一字一句そのままの表現で?」
「そうじゃないけど……」と言ってから、トレイシーは憤然として目をひからせた。 「でも責任はとってもらわないと。あたしは自分の魂までささげさせられたんだから!」
「
「そうに決まってる。」 トレイシーは一瞬自信なさげになったが、すぐに気をとりなおした。 「鏡で顔を見たら青ざめた色になってたし、ずっと暗黒にとりかこまれた感じがしてるし、彼の呪力の媒介にもなってあげたんだし……。 ダフネ、あたしの目が緑色になってたの、見た? 自分では分からなかったけど、緑色だったってあとで聞いたから。」
またあたりがしんとして、ロン・ウィーズリーが机をふく音だけがした。
「……ダフネ?」ともう一度トレイシーが言った。
「ありえないわ。次代の〈闇の王〉がよりによって、あんたを花嫁にえらぶなんて!」と別の声がした。
周囲の人びとも半分自分の耳をうたがう顔つきで、声のぬし——パンジー・パーキンソンのほうを見る。
「ことばをつつしみなさい……」と言ってトレイシーは一度言いやめ、 それからさらに低い声で、 「魂を食べられたいの。」
「やれるもんならね。」 自信ありげな声でそう言うパンジーは、自分を頂点とする群れの序列になんらうたがいをもたないニワトリのような態度で、事実ごときを目にしただけで信念を更新するつもりはないらしい。
トレイシーが席を立ち、ゆらゆらと動きはじめた。 それを見て、また何人かが息をのんだ。 ダフネは自分が席についたまま〈石化〉されて動けなくなってしまったような気がした。
「ねえトレイシー?」 ラヴェンダーが小声で言う。「お願いだから、あれはもうなしにしてね。ね?」
トレイシーがゆらりゆらりとパンジーの机に近づいていくにつれ、パンジーの顔にも不安の色が見えだした。 「なにをしようっていうの?」
「言ったとおりよ。魂を食べてあげる。」
トレイシーはそう言って、席で硬直したパンジーに上からかがみこみ、 くちびるとくちびるが触れるか触れないかのところで、ズズっと吸いこむ音をだした。
「はい、ごちそうさま。食べちゃった。」 トレイシーは姿勢をもとにもどしてそう言った。
「うそばっかり!」とパンジー。
「うそじゃないもんね!」とトレイシー。
一瞬あたりがしずまり——
「いや、ほんとみたいだぞ!」とセオドア・ノットが言う。「すごく顔色が悪くなってる。目もうつろだ。」
「ええっ?」 パンジーは悲鳴をあげて、真っ青になった。 あわてて立ちあがって、かばんのなかを必死にかきまわす。 やっととりだした鏡で自分の顔を見て、いっそう真っ青になる。
ダフネはここまでなんとか気品ある落ちつきをよそおっていたが、それももう限界になったので、どすんと音をたてて机にあたまを打ちつけた。そして、いくら有力家系とのコネクションのためとはいえ、ほんとうにこのままこの学校で〈カオス軍団〉と同居するのに耐えなければならないのだろうか、と考えた。
「あーあ、やっちゃったな。」とシェイマス・フィネガンが言う。「ディメンターの〈口づけ〉が実際どういう効果なのかは知らないけど、トレイシー・デイヴィスのキスだったら、きっともっと悲惨なことになるぜ。」
「人間は魂がなくなるとどうなるか、聞いたことがある。」とディーン・トマスが暗い声で言う。 「いつも黒い服を着て、へたな詩を書いてばかりで、二度としあわせにはなれない。苦悩の人生って感じになるらしい。」
「そんなのいや!」とパンジー。
「もうどうしようもないんじゃないかなあ。魂、なくなっちゃったんだし。」とディーン・トマス。
パンジーはふりむいて、片手をドラコ・マルフォイの机にむけ、懇願するように言う。 「ねえドラコ! ミスター・マルフォイ! トレイシーになんとか言って! わたしの魂を返させて!」
「無理よ。食べちゃったんだから。」とトレイシー。
「だったら吐きださせて!」とパンジー。
マルフォイ家の跡取りドラコ・マルフォイは両手に顔をうずめ、だれにも見られないようにしてから、「なんでいつもこうなる?」と言った。
パンジーは教室のまんなかで両手をふりみだして涙をうかべ、トレイシーは満足げな顔で席にむかう。ほかの生徒たちはいっせいにひそひそ話をしはじめ——
「静・粛・に。」
スネイプ先生が扉をすっと通りぬけるとともに、殺意のこもったその声が教室全体にひびいたように感じられた。 ダフネはこれほど怒った表情のスネイプ先生を目にするのははじめてだったので、背すじに電撃的な恐怖を感じ、あわてて手もとの宿題に目をふせた。
「座れ、パーキンソン。……それにデイヴィス。そのふざけたマントを脱げ——」
「スネエプせんせええ!」とパンジー・パーキンソンが涙ながらに言う。「トレイシーが、わたしの魂を食べちゃったんです!」
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky
今回の非ハリポタ用語:「外なる神」
H・P・ラヴクラフト原作のホラー小説群からはじまった創作世界(「クトゥルー神話」)に登場する神々の一角。Yog-Sothoth(ヨグ゠ソトース、ヨグ゠ソトホート)、Nyarlathotep(ニャルラトホテプ、ナイアーラトテップ)など人間に呼びにくい名前を持つ。