ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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75章「自己実現(終)——責任の意味」

ここはホグウォーツ城の底の果てしなく曲がりくねった小道のひとつ。ねじれたはねっ毛のように、 ときにはもと来た道と交差しているようにさえ見え、近道だと思って一度道をそれてしまえば、いつのまにか同じ場所にもどる迷路でもある。

 

その迷路の出口の灰色の岩壁に背をあずけて、黒ローブすがたの生徒が六人立ち、ちらちらと視線をかわしあっている。ローブのえりの色は全員緑色。 窓のない岩壁に点在するたいまつの光と熱がスリザリン地下洞の暗黒と冷気を押しとどめている。

 

「どう考えても……」とリーズ・ベルカがいらついた声で言う。 「どう考えても、あんなのがほんものの儀式なわけがない。 一年生のお嬢ちゃんに、ほんものの儀式ができるはずがない。仮にできたとして、封印された怪物を生けにえにする〈闇〉の儀式で呼びだされるのが——()()? そんな魔法、聞いたこともないわ。」

 

「で、ベルカ……」とルシアン・ボールが言う。「その——そいつが指を鳴らしたとき、やっぱりおまえも——」

 

ベルカはボールを燃やしつくしそうな目で見た。 「まさか。」

 

「たしかに、はだかじゃなかったな。」とマーカス・フリントが言う。広い肩幅をでこぼこの壁にあずけ、一見楽な姿勢をしている。 「粉チョコレートのコーティングのおかげで紙一重だ。」

 

「侮辱だ。ポッターは今回の件でこのスリザリン寮全体を侮辱した。」とハイメ・アストルガが低い声で言う。

 

「うん、でもねえ。率直に言わせてもらうと……」と決闘術の使い手でもある七年生ランドルフ・リーが冷静な声で言い、ごくみじかいひげを生やしたあごをなでる。 「天井に貼りつけるっていうのはさ、メッセージだよ。『こちらはものすごく有能な〈闇の魔術師〉で、やろうと思えばおまえたちをいくらでも料理してやれる。寮全体を侮辱したことになろうがどうでもいい』っていう。」

 

ロバート・ジャグソン三世が低い声で笑い、その声に何人かが寒けを感じた。 「それじゃあ、どちらがどちらか分からんな? 〈闇の王〉がそういう『メッセージ』を送らせたという話はよく聞く……」

 

「ポッターとの勝負、おれはまだ終わったと思っていない。」とアストルガがジャグソンの目を見ながら言った。

 

「おなじく。」とベルカ。

 

ジャグソンは手にしていた杖を指にはさみ、くるくると回した。 「どうした、グリフィンドールにでもなったつもりか? スリザリンなら、相手の弱味を見つける。そして断れない取り引きをする。」

 

一瞬全員が押し黙った。

 

「マルフォイはどうした? 来るんじゃなかったのか。」とボール。

 

フリントが不満げに指をはじいて答える。 「なにをたくらんでるのやら。あいつはとにかく無関係なふりをしていたいらしい。おれたちと同じ時間にすがたが見えない、っていうのも状況証拠ではあるからな。」

 

「でもそれはもうバレてるじゃないか。ほかの寮にだって見すかされてる。」とボール。

 

「バレバレよね。マルフォイとはいえ、所詮一年生。来られても迷惑だわ。」とベルカ。

 

「おれがフクロウで連絡してみる。うちの父親を通じて、マルフォイ卿に話を通せば——」とジャグソンが言いかけて、突然とまった。

 

「あなたはそれでいいのかもしれないけど、あんなインチキ儀式をされて引っこむなんて、わたしはまっぴら。ポッターとポッターのお気に入りにやられたままでは終われない。」

 

全員が無言のまま、じっとベルカに……いや、ベルカの背後に視線を集中させる。

 

いったいなにがそこに、と思い、ベルカはゆっくりとふりかえる。

 

「勝手なことはさせんぞ。」 寮監セヴルス・スネイプだった。怒りのあまり、口角から泡を飛ばし、もともと汚れたローブをさらに汚している。 「おまえたちのしくじりのせいで——一年生に負けるなど——ただでさえこの寮は恥をかかされた。こんどは子どもの喧嘩にウィゼンガモート評議員の手をわずらわせるつもりか? この件はわたしが引きとる。 おまえたちには二度とこの寮に恥をかかせるような真似はさせんぞ! 喧嘩もいっさい禁ずる。それが守れなければ——」

 

◆ ◆ ◆

 

ああいった一件のあと、二人が夕食で席をならべると思うのは大きなまちがいである。

 

「じゃあ、ぼくになにをしてほしかったのか……はっきり言えばいいのに。」  少年はお手あげといった様子で、そうぼやく。科学の本をいくら読んでいても、ある種のことにはまだうといらしい。 「……まさか、あのままボコボコにされたかったとでも?」

 

そのまわりにいるレイヴンクロー上級生男子が数名、ちらりと視線をかわしあった。無言の了解が成立し、随一のベテランが話しだす。

 

「要するにだ。」 七年生アーティ・グレイは二番手と四人ぶん(そのうち一人は過去の防衛術教授)の差をつける猛者である。 「ミス・グレンジャーの機嫌はたしかにわるい。でもだからって、失点が確定したと思うのは早計だ。 あれは自分がむだに震えあがってしまったのを、きみに当たりつけてるだけさ。 本人は認めたがらないかもしれないけど、本心ではきっとじーんときてるよ、きっと。付きあってる男の子が、あんなとんでもない……っていうより、気ちがいじみたことまでして、自分を守ってくれたんだから。」

 

()()なんかどうでもいい。」 ハリー・ポッターは歯と歯のあいだからしぼりだすように言う。 目のまえにある食事は忘れ去られている。 「悪人をこらしめることができればそれでいいんです。 それと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()。」

 

それを聞いて全員がくすくすと笑った。

 

「はいはい。」と別の六年生男子が言う。「〈吸魂〉状態にいたきみを女の子がキスで救った、きみはそのお返しに、彼女をいじめようとした四十四人の荒くれ者を天井に貼りつけた……。これはもう『付きあってなんかいません』どころじゃないね。むしろ、二人のあいだにどんな子が生まれてくるかを想像する段階だよ。……うわ、想像するだけで怖くなるわ……」  そう言ってから、小声でつけたす。 「そういう目で見ないでくれよ。」

 

「だからさ、きびしいことを言うようだけど、これは正義をとるか、女の子をとるか。どちらかはあきらめてくれないと。」  アーティ・グレイはそう言って、片手をぽんとハリー・ポッターの肩に乗せた。 「きみは見どころがある。とてもある。しかしただしい方向に育てなきゃ、元も子もない。 まず、女の子にはもうすこしやさしくする。ちゃんとした呪文で『それ』をもうちょっと髪の毛と呼べるようなものにする。 そして肝心なのは、もうすこしうまく邪悪さを隠せるようになること。——ただし隠しすぎてもいけない。 清潔感がある男子はモテる。〈闇の魔術師〉もモテる。でも清潔感があって〈闇〉の一面を()()()()男子なら、モテるなんてもんじゃすまない——」

 

「興味ないですね。」  きっぱりそう言って、ハリーは肩の上の手を無造作にはらった。

 

「いずれそうは言ってられなくなるんだな、これが!」

 

おなじ長卓の別の一角で——

 

「ロマンティック?」  ハーマイオニー・グレンジャーはひどく大きな声をだし、となりに座っていた女子の何人かをひるませた。 「あれのどこが? ハリーはわたしにたずねもしない! いつもなにも言わずに人にゴーストを送ったり、人を天井に貼りつけたり、()()()()人生をおもちゃにする!」

 

「でもねえ、分からない?」と四年生女子が言う。「そういうことをするのは、邪悪だからっていうのもあるけど、愛があるからよ!」

 

「その言いかた、逆効果だと思う。」とペネロピ・クリアウォーターがすこし遠くの席から言ったが、無視された。 ハーマイオニーはハリー・ポッターと反対がわの端っこの席に陣取っていた。年長組の女子たちもその近くに来ようとしてはいたが、年少組が一歩さきを行ってハーマイオニーを取りかこんでいたので、なかなか近寄ることができていない。

 

「愛のまえに、男の子はまず女の子の意思を確認すべきでしょう! いろいろな意味でそうなんですが、人間を天井に貼りつける場合はとくにそうです!」

 

そういうハーマイオニーの声も無視された。かわりに、 「まるでお芝居みたい!」と言って三年生女子がためいきをついた。

 

「お芝居? こんな筋書きのお芝居がどこにあるのかしら!」とハーマイオニー。

 

「あ、すごくロマンティックな話があってね……。とても気立てのいい男の子が〈煙送(フルー)〉を使おうとして、目的地を言いまちがえて、とある部屋に迷いこんでしまう。そこは〈闇の魔術師〉の集会で、言語に絶するような禁断の儀式をよみがえらせようとしているところ。儀式というのは、七人のいけにえを捧げて古代の怪物を解放するための儀式で、怪物は解放されたあかつきに願いを一つかなえてくれる。もちろんそこに男の子がはいりこんだことで儀式は妨害されて、怪物は〈闇の魔術師〉もろとも全員を食べてしまう。男の子は死ぬまぎわに、恋人がほしかったな、と思う。つぎの瞬間、男の子は恐ろしい目をした美しい女性のひざにのせられて寝かされている。その女性は人間らしい行動がちっともできなくて、いつも人間を食べようとして、男の子はいつも手を焼かされる。 ほら、そっくりでしょ。あなたが男の子で、ハリー・ポッターが女の子の役なんだと思えば!」

 

これは意外だった。 「た……たしかに、似ているような気も——」

 

「え、ほんとに?」とテーブルのむこうにいる二年生女子が、いつのまにか身をのりだして言う。愕然としているが、それ以上にうっとりした表情でもある。

 

「そうじゃなくて! ……()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

そのことばがハーマイオニーの口を飛びでてから二秒後に耳が追いついた。

 

四年生女子がハーマイオニーの肩に手をのせ、ぎゅっとつかんだ。 「ねえ、ミス・グレンジャー……自分に正直になってみなさい。あなたがむかむかしている真の原因はなにか。認めたくないだけで、ほんとは分かっているはず。大切なマスターが秘密の能力を発揮するための媒介としてえらんだのがトレイシー・デイヴィスだった。それが自分じゃなかったのが、気にいらないんでしょう。」

 

ハーマイオニーは口を大きくあけたが、声をだすまえにのどが硬直し、なにも言えなかった。それでよかったのかもしれない。もしそのまま怒鳴っていたら、なにかが壊れてしまったかもしれない。

 

「でも……ハリー・ポッターがあなたから離れられないんだとしたら、別の女の子を媒介にできるのは変よね?」と三年生女子が言う。 「もしかしてあなたたち三人はもう……そういう協定でつきあってたんだとか?」

 

「ガ……ア……」  ハーマイオニー・グレンジャーののどは硬直したまま、脳も停止したままだったが、声帯だけがひとりでに動き、口からヤクが一頭でてきそうな音をだした。

 

◆ ◆ ◆

 

(そのしばらくあと)

 

「そんな偏屈にならなくてもいいのに。」と別の二年生女子が言う。さきほどまでその席にいた三年生女子は、トレイシーに魂を食わせるというハーマイオニーの脅迫に屈して去った。 「もしハリー・ポッターみたいな人がわたしを助けてくれたら、わたしなら——お礼の手紙を書いて、抱擁(ハグ)もして……」 そう言ってうっすらと顔を赤くする。「キスもしちゃうかな、きっと。」

 

「そうそう!」と別の二年生女子が言う。「芝居でも、主人公が大変な思いをしてなにかしてくれたとき、怒りだす女の子がいるけど、あれぜんぜん意味がわからない。 わたしだったら、ぜったいあんな態度はとらない。」

 

ハーマイオニー・グレンジャーはすでに、テーブルにならぶ夕食の横に突っ伏していた。両手だけがじりじりと動いて髪の毛を引っぱっている。

 

「それも男子の心理がわかってない証拠。」と四年生女子が専門家らしく言う。 「こういうときは、相手の魅力に抵抗できるところを見せるのが正解なのよ。」

 

◆ ◆ ◆

 

(もうしばらくあと)

 

結局、ハーマイオニー・グレンジャーはやむをえず、この状況で自分の立ち場を理解してくれる唯一の人物をつかまえに行った——

 

「みんなどうかしてる。」  のしのしと歩きながら話すハーマイオニー・グレンジャー。夕食は早めに退席して、レイヴンクロー塔へとむかっている。 「あなたとわたし以外の、この学校にいる全員、話が通じない。 レイヴンクローの女子はとくにひどい。二年生以上の女子がどんな本を読んでるか知らないけど、読むべきじゃない本を読んでるのはたしかだわ。 二人は結魂(ソウルボンド)してるのかっていう質問までされて……その意味は今夜図書館で調べるつもりだけど、きっとなにかありえないことを想像されたに決まってる——」

 

「そうだね。ああいうのは、どういう種類の錯誤に分類されるのやら。」  ハリー・ポッターはふつうの速度で歩いているが、早足になっているハーマイオニーに追いつくため、ときどきスキップをしている。 「あの人たちにまかせておいたら、いまこの瞬間にでも、ぼくらの名前を『ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス゠グレンジャー』にされてしまいそうだ……。うわ、こうやって声にだすと、やっぱりひどい名前だな。」

 

「正確には、『ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス゠グレンジャー』になるのはあなただけ。わたしは『グレンジャー゠ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレス』。……ありえない名前だわ。」

 

「いや、『ポッター』は〈貴族〉の家名だから。〈貴族〉の家名はいつも先頭にくるっていう慣習があったと思う——」

 

「は? なんでわたしたちがそんな慣習をいちいち——」

 

言いやめたところであたりがしんとしてしまい、重い靴音だけが残った。

 

「それはともかく。」  ハーマイオニーはあわてて再開する。 「夕食のとき、むちゃくちゃなことも言われたけど、そういえばと思わされることもあって。まだはっきり言ってなかったけれど、ハリーがわたしたち全員を助けてくれたことについては感謝してる。納得いかない部分もたしかにあった。でも二人で冷静に話しあえば解決できると思う。」

 

「ああ……」と言ってハリーはおずおずとした笑みを見せる。困惑と不安がまざった目をしている。 「それは……なにより……?」

 

正確には、四年生女子の説明によれば、これは邪悪な魔法使いハリーが純真無垢な女の子ハーマイオニーと恋に落ちたというストーリーで、ハーマイオニーはハリーを改心させないかぎり自分自身まで〈闇の魔術〉にとりこまれてしまう。当然の帰結として、ハリーがハーマイオニーを破滅から救おうがなにをしようが、ハーマイオニーは機嫌をよくしてはならない。そうでなければ第四幕まで恋の駆け引きがもたないから、だという。 それから、もっと良識のある人だと思っていたペネロピ・クリアウォーターまでが完全にそちらに同調してしまった。ハリーのどういうところが鈍感だったかをハーマイオニー本人から冷静に説明してあげられるわけがないし、だいたい〈闇の魔術師〉は論理的な女性よりも生意気な女性が好きなものだから、というのがペネロピ・クリアウォーターの言いぶんだった。 そう言われた段階でハーマイオニーは長椅子からいきおいよく立ちあがり、ハリーのいる席を目がけてどすどすと歩いていき、二人で散歩でもしながら話しあってけりをつけたい、と声をかけたのだった。

 

「つまり、言いかえるなら……」  ハーマイオニーは冷静きわまりない声で言う。 「あなたとわたしは、なにももめていない。絶交でもないし、仲がわるくなってもいないし、自習もこれまでどおりいっしょにやる。 けんかなんか起きていない。ここまではいい?」

 

それを聞いてどういうわけか、〈死ななかった男の子〉ハリー・ポッターは余計に不安げな顔をした。 「……はい。」

 

「よろしい。じゃ、つぎ。わたしが怒った理由はなんだったか、もう分かったかしら、ミスター・ポッター?」

 

「……。横から手をだしたのがいけなかった、とか?」  ハリーは慎重に話しだした。 「そりゃ——きみが他人の手を借りたくなかったのは分かってるし、 ぼくもそれは尊重してたよ。〈死食い人〉見習いの三人組に襲撃されたっていう話を聞くまでは。正直言って、そこまでのことは予想していなかった。ぼくも、クィレル先生も、予想していなかった。 あそこまで大ごとになると、きみたちの手には負えなくなってきてるんじゃないかと思いはじめた。悪く思わないでほしいんだけど、四十四人の待ち伏せ攻撃をだれの助けも借りずに乗りきれるなんていう人はどこにもいない。 だからあのときだけは、助けが必要だろうと思って——」

 

「ええ、あれはたしかに、手に負えなくなっていたと思う。だから助けてくれたこと自体は問題ないの。ほかに思いあたることは?」

 

「うーん、トレイシーにやってもらったあれが……刺激的すぎた、とか?」

 

「刺激的すぎた、ですって?」  すこしだけとげのある口調になってしまったかもしれない。 「いいえ。あれは怖かった。心臓が止まりそうになった。 あれがただのドラゴンかなにかだったら、『怖かった』なんてみっともなくて言えないかもしれない。でも遠くから『テケリ・リ! テケリ・リ!』と声がして、自分のまわりにある扉の下のすきまから血がひたひたと流れてくるくらいのことなら、堂々と怖かったって言える。」

 

「ごめん、悪かった。」  真剣に後悔しているような声だ。 「ぼくがやってるっていうことは、言わなくても分かると思ってた。」

 

「わたしたちがそんな怖い思いをしたのも、もとはと言えば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」  おさえようとはしていたものの、また声が大きくなりはじめた。 「ああいうことは、相手の意向をたしかめてからやるものでしょう! 『ドアの下のすきまから血を流そうと思うんだけど、かまわないかな?』みたいに、具体的に言って了解をとるものでしょうが! そういう風に具体的にたずねてくれないと!」

 

ハリーは歩きながら、自分のくびのうしろをなでた。 「それは……。言えばどうせことわるだろうと思って。」

 

「もちろんわたしはことわるかもしれない。相手がそれでいいと言うか言わないか、まさにその点をたしかめなさいと言ってるの!」

 

「いや、たずねられれば、きみは()()()()()()()()()()んだよ。本心からそう思っていてもいなくても。 そうなればきみたちはひどい目にあわされていた。そして、たずねたぼくがその責任を負うことになっていた。」

 

すこし意表をつかれ、両眉が上がる。そのまますこし歩きつづけたが、やはり理解が追いつかない。「……は?」

 

「ええと……その……きみは〈太陽(サンシャイン)〉軍司令官だろう? だからぼくがだれかを脅迫してもいいかと言ったら、きみはいいとは言えない。たとえいじめっこが相手であっても。そうしなければきみの仲間たちが傷つくと分かっていても。 たずねられれば、きみはことわるしかなかった。そして結果的にけがをしていた。 ぼくがやった方法なら、きみはなにも知らなかったと正直に告白できるし、責められるいわれはないと言える。 だから、ぼくはたずねないことにしたんだ。」

 

ハーマイオニーは立ちどまり、顔だけでなく全身を反転させ、ハリーと正対した。 そして慎重に応答した。 「ハリー……ばかげたことをするたびにそうやってもっともらしい言いわけをするのは、もうやめてくれないかしら。」

 

ハリーの両眉が上がった。一息おいてから、 「まあね……そう言いたくなる気持ちは分かるよ。でも、たんにもっともらしいだけじゃなく、結果的にそうしてよかったかどうかも、ちゃんと考えてみてほしい——」

 

「あなたがどういうつもりでやっていたのかは分かった。 でもこれからはかならず、わたしの了解をとってからやるって約束して。たとえ、理屈のうえでは知らせないほうがうまくいくと思えたとしても。」

 

無言の時間がつづき、ハーマイオニーの気持ちが沈んだ。

 

「ハーマイオニー、ぼくは——」

 

「どうして? なにをそこまでいやがるの? ただ一言たずねてくれればいいだけなのに!」

 

ハリーはとても真剣な目をした。 「きみはS.P.H.E.W.のメンバーのなかでだれを一番守らなきゃと思っている? 戦闘にだすのが一番心配なメンバーはだれ?」

 

「ハンナ・アボット。」  ハーマイオニーは考えるまでもなくそう答え、内心申し訳なく思った。ハンナはよくがんばっているし、かなり成長はしている。それでも——

 

「じゃあ、きみはなんのためらいもなく、ハンナを守る()()()()責任を自分以外のだれか……たとえばトレイシーにまかせることができるかい? ハンナが突っ込んでいくさきに敵が待ち伏せていることが分かって、ハンナを守る作戦も思いつけたとして、その作戦を実行していいかどうかの判断をトレイシーにさせる気になれる?」

 

「……なれないと思うけど?」

 

〈死ななかった男の子〉の緑色の目がハーマイオニーをじっと見ている。 「じゃあ、きみがハンナを護衛すべきかどうかの最終的な判断を()()()()()()まかせるか、っていう質問だったら?」

 

「それは——」  ハーマイオニーは一度言いかけて、とりやめた。おかしなことに、正しい答えが何なのか分かっているのに、正しい答えをえらぶことができない。 ハンナは自分が怖がりでないと証明しようとして、無理をしている。ハッフルパフらしいそのがんばりが度を越してしまうことも容易に想像できる——

 

そこまで考えて、ハリーが言おうとしていることが分かってきた。 「つまりわたしはハンナみたいなものだってこと?」

 

「いや……すこしちがうかな……」  ハリーの手がぼさぼさの髪の毛をかきむしる。 「こう言ってみようか。もし四十四人の待ち伏せがいることを事前に警告されていたら、きみはなにをしようとしていたと思う?」

 

「わたしなら、責任をもって()()()()()()()()()()()()()()()。そしてかわりに対処してもらう。 そうしてさえいれば、暗闇やら悲鳴やら不気味な青い光やらの出番はなかった——」

 

だが、ハリーはただくびをふった。 「責任ある行動はそれじゃないんだよ。 それじゃ、責任感ある女の子を()()()()()ことにしかならない。 もちろん、ぼくもマクゴナガル先生に知らせることは考えた。 でも、そうしたとして、マクゴナガル先生はせいぜい()()()()()をとめることしかできない。 たぶん、なにをたくらんでいるかはもう分かっている、と当人たちに伝えることで、実際にことが起きるのを防げてはいたかもしれない。 襲撃する計画をしたというだけなら、罰は寮点の減点か、せいぜい一日ぶんの居残り作業。彼らからすれば、恐れるに足りない。 そのあとで、()()()()()が起きる。そのときはもっと少人数で構成されていて、情報が漏れにくくなっていて、ぼくも察知できない。 そしておそらく、きみたちが()()()()()()()を狙われる。 マクゴナガル先生は立ち場上、きみたちを守るのに必要なだけの示威行為をすることができない——マクゴナガル先生は自分の立ち場でできることしかしない。マクゴナガル先生は無責任だから。」

 

「マクゴナガル先生は無責任?」  ハーマイオニーは自分の耳をうたがった。両手を腰にあて、ハリーをにらみつける姿勢をとる。 ()()()()()()()()()()()()()

 

「そうだね、英雄的な責任と言えばいいかもしれない。ふつうの意味の責任じゃなく。 英雄的な責任というのはね、なにが起きようがすべては自分のせいだと考えること。 仮にマクゴナガル先生に通報したとしても、責任はマクゴナガル先生に移らない。責任は自分が負ったまま。 『学校の規則に違反してしまう』とか、『あとのことはほかの人にまかせた』とかは、言いわけにならない。『もう自分にできるかぎりのことはした』というのも言いわけにならない。言いわけにできることなどなにもない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()必要がある。」  ハリーは表情を引きしめた。 「きみの考えかたが無責任だっていうのはそういう意味だよ、ハーマイオニー。 自分がすべきことはマクゴナガル先生に通報するところまで——英雄(ヒロイン)ならそうは考えない。 あとはハンナがけがしてもしかたない、()()()()()()()()()()()()()()()、という風には考えない。 英雄(ヒロイン)なら、守るために()()()()()()()()()()。脅威が()()()なくなったと言えるまでは、英雄(ヒロイン)の役目は終わらない。」  ハリーの声には、フォークスが肩にとまった日に得たらしい鋼鉄のようなかたさがあった。 「規則どおりのことをすれば、それ以上自分のすべきことはない、と思っているようではいけない。」

 

「どうやら、いくつか意見の相違があるようだけど。 あなたとマクゴナガル先生のどちらがどれだけ無責任なのか、とか、責任ある行動というのは通常阿鼻叫喚をともなうものなのか、とか、学校の規則はどの程度守るものなのか、とか。 でもあなたとわたしの意見があわないからって、()()()()結論を決めていい、ということにはならない。」

 

「いや、いまのはただきみの質問に答えようとしただけ。ぼくはなにをそこまでいやがるのか……これは意外にいい質問だったから、ぼくは自分自身どう思っているのか、なにを恐れていたのか、ふりかえって考えてみた。 もしぼくがハンナを危機から救う方法があると言ってあげたとして、それが奇妙だったり一見邪悪だったりしたら、きみはそのことにばかり気をとられてしまうかもしれない。なにがあっても、どんな手段をつかってでもハンナの身を守るという、英雄(ヒロイン)としての責任を負おうとしないかもしれない。 つまり、きみはただハーマイオニー・グレンジャーという良識あるレイヴンクロー生を()()()()()()()()()かもしれない。 その演技をしているかぎりは、仮になにかいいアイデアを思いついても自動的に却下してしまうだろう。 そしてハンナ・アボットは四十四人に滅多打ちにされて、すべてはぼくのせいになる。現実にそうなってほしくないとは思うけれど、そうなることがぼくには分かっていたから。 ぼくが言わなかった……言おうとしても言えないでいた恐怖は、たぶんこういうことだったんだと思う。」

 

ハーマイオニーのなかにまた、やりきれない気持ちがつのる。 「これは()()()()人生よ!」  思わずそう言ってしまった。この人生にいつもハリーは干渉しようとし、干渉をたくみに正当化して、こちらの反論を受けつけない。事前に一言たずねるだけのことすらしてくれない。このままでいれば、このさきどうなることか。だいたい、ハリーを()()()()()()()()()()()()()というのがおかしい。わたしはただ——

 

「どんな理屈をつけられても、いくらわたしが考えそこねたことがあったとしても、わたしは()()()()()()を生きたい! それができないなら、わたしは降りる。わたしは本気でそう思ってる。」

 

ハリーはためいきをついた。 「こういう話になってほしくなかったんだけど、やっぱりなっちゃったか。 ぼくらはおたがいおなじことを心配してるんじゃない? きみもぼくに決定権をまかせてしまうと、両方が破滅すると思ってるんだろう。」  ハリーのくちびるの端がゆがんだが、ほんものの笑みのようには見えない。 「それなら理解できる。」

 

「なにも理解してない! ……二人は対等だって言っておいて!」

 

その一言が効いたように見え、ハリーはしばらくだまった。

 

「……じゃあ、こうしようか? ぼくはきみへの余計な手出しになりかねないようなことをするまえにまず、やっていいか聞きにいくと約束する。 ただし、きみも冷静にぼくの言いぶんを聞くと約束するのが条件だ。 真剣にぼくの話を聞いて、二十秒立ちどまって考えて、ひとつの選択肢としてちゃんと検討すること。 ぼくが今回のような提案をしたら、あくまで全員の安全をまもる一手段として、検討すること。きみが軽がるしくことわってしまえば()()()()()()()()()()()()()()()()()()……ハンナ・アボットが病院行きになってしまったりする、ということをよく認識すること。」

 

ハーマイオニーはじっと見つめていたが、ハリーはそれでひとしきり言い終えたようだった。

 

「どう思う?」

 

「わたしがなにか約束してあげる筋あいはない。わたしは、()()()()()()()勝手に変えようとしないで、って言っているだけなんだから。」  ハリーに背をむけ、レイヴンクロー塔にむかって歩きだす。 「でも考えておく。」

 

うしろでハリーがためいきをつき、二人はそのまましばらく無言で歩いた。赤銅かなにかでできているアーチ門をくぐり、またおなじような廊下にでる。まえの廊下は床のタイルが四角形だったが、こんどは五角形。

 

「きみがヒーローになると言った日から、ぼくはずっと見て考えていた。 きみならもちろん勇気は問題ない。 きみはだれも立ちむかおうとしない敵にも立ちむかうことができる。 知性も申し分ないし、人格については、たぶんぼくより善人でもある。 それでも……はっきり言ってしまえば……ダンブルドアのあとを継いで、〈例の男〉との戦争のためにブリテン魔法界を率いる仕事ができるような人には思えない。すくなくとも現時点では。」

 

ハーマイオニーは思わずハリーをふりかえった。ハリーは考えにふけったように、そのまま歩きつづけている。 ダンブルドアのあとを継いでブリテン魔法界を率いる? そんなことをしようなんて考えたこともなかった。 そんなことをしようと考える自分すら、想像できない。

 

「もしかすると、ぼくがまちがっているのかもしれない。 児童書の主人公は常識的なことをいっさいせず、規則をやぶってばかりで、先生に頼ろうともしない。そういう本を読みすぎて、物語を現実にあてはめようとしてしまっているだけかもしれない。 きみはおかしくなくて、ぼくがおかしいだけかもしれない。 でも、規則を守るとか先生に頼むとかいうせりふを聞かされるたびに、ぼくはいつもおなじことを考えてしまう。きみはその最後の一歩を踏みだせないばかりに、PC(プレイヤー・キャラクター)としての自我を眠らせて、NPCに逆もどりしてしまうんじゃないか、と……」  ハリーはためいきをついた。 「きっと、ダンブルドアがぼくにいじわるな養父母をあてがおうとしたのも、おなじ理由なのかな。」

 

「……は? いじわるな養父母?」

 

「そう。あれは冗談で言っていたのか本気なのか、いまだに分からないんだけど…… 実を言うと、ある意味まちがってはいないんだ。 両親は愛情をもってぼくをそだててはくれたけれど、ぼくはいつも、二人の判断にまかせていて安心できる気がしなかった。十分()()()()判断をしてくれると思えなかった。 自分自身でとことん考えなければ、痛い目を見るのは自分だと思っていた。 マクゴナガル先生は、手段をえらばずに結果をだせと言われれば、きっとやってくれるだろう。でもそういう風にヒーローから命じられないかぎり、自分の意思で規則をやぶろうとはしない。 クィレル先生は逆で、まさに手段をえらばずに結果をだそうとするタイプの人だ。ぼくが知るかぎり、クィディッチをだいなしにしているのがスニッチだとかいうことに気づける人はほかにいない。 ただ、あの人が善人なのかというと、ぼくはとてもうんとは言えない。 残念ではあるかもしれないけれど、それが、ダンブルドアが英雄(ヒーロー)と呼ぶ人を生む条件のひとつでもあるんだと思う——ほかに責任を押しつけるべき相手がいないから、すべてを自分でかたづける習慣ができている種類の人たちを。」

 

ハーマイオニーは声にだしては言わなかったが、ゴドリック・グリフィンドールの簡潔な自伝の末尾ちかくにあった一節のことを思いだした。 ごく短い一節で、解説もなにもついていなかった。マグルの印刷機械も、それに触発されて魔法族がつくった〈自動書写ペン〉もまだない時代、巻き物は人間の手で書き写すものだったから。

 

——『救い手に救い手はなく、 王者に庇護者はなく、 高みには父も母もなく、 ただ無あるのみ。』

 

それが、英雄(ヒーロー)になるための代償なのだろうか。だとすれば、自分はほんとうにそれを支払っていいと思っているだろうか。 いや、もしかすると——ハリーの相手をするようになるまえの自分だったら、思いもしないことだろうが——そんな考えはゴドリック・グリフィンドールの思いこみにすぎないのだろうか。

 

「ダンブルドアのことは、頼っていいと思う? ダンブルドアなら、この学校でわたしたちからすぐ手がとどくところにいて、世界じゅうに知られる伝説的な英雄でもあるでしょう——」

 

「伝説的な英雄でも()()()、かな。 いまはニワトリを燃やしたりする。 きみはほんとに、ダンブルドアが頼れる人に見える?」

 

ハーマイオニーは答えなかった。

 

二人はならんで大きな螺旋階段に立ち、銅製の段と青石の段を交互に一段ずつのぼりはじめた。 のぼりきったところには、子どもじみた謎かけでレイヴンクロー寮の入りぐちを守る肖像画がある。

 

半分ほどのぼってから、ハリーが話しはじめた。 「そうだ。ひとつきみに言っておくべきことがあった。 これはきみの人生にかかわることでもあるし。 手付金みたいなつもりで聞いてほしい——」

 

「どうぞ。」

 

「S.P.H.E.W.はもうすぐ役目を終えることになる。」

 

「役目を終える?」  ハーマイオニーは階段を踏みはずしそうになった。

 

「そう。ぜったいそうとは言えないけど、もうすぐ教師たちが廊下での喧嘩をきびしく取り締るようになるんじゃないかと思う。」  そう言ってハリーはにやりとした。眼鏡の奥の目が光り、秘密の情報を根拠にしていることをうかがわせた。 「攻撃呪文を検知する結界を張ったり、いじめの通報があったら〈真実薬〉をつかって検証したり——その気になれば、いろいろやりようはあるだろう。 でももし実際そうなったら、よろこんでいいことだと思うよ。きみたちが大騒動を起こしてくれたおかげで、教師もやっと腰をあげて、いじめを()()させるための()()をする気になったということだから。」

 

くちびるからじわりと笑みがひろがっていくのを感じながら、ハーマイオニーは階段をのぼりおえ、謎かけの肖像画が待つ場所へむかった。 足どりは軽く、ヘリウムを注入されたようにふわふわとした高揚感が生まれていた。

 

不思議と、八人であれだけの苦労をしておきながら、成功するような気はしていなかった。そこまでの効果があるとは思っていなかった。

 

あの活動には意味があった……。

 

◆ ◆ ◆

 

翌朝、朝食の時間が終わるとき、それは起きた。

 

全学年の生徒が長椅子に腰かけたまま、不動の姿勢でおなじ方向を見ている。視線のさきには、一年生女子が一人、身をこわばらせて〈主テーブル〉をまえに立ち、身じろぎもせず、スリザリン寮監を見あげている。

 

スネイプ先生は激しい怒りと復讐を果たす喜びにゆがんだ表情をしていて、どんな〈闇の魔術師〉の肖像画にも負けないほどだった。 そのうしろの〈主テーブル〉で、のこりの教師陣は石像のようになって傍観している。

 

「——永久に解散とする。本校は今後その自称〈協会〉組織の存在を許可しない。わたしの教授としての権限でそう命じる! 〈協会〉会員は今後いっさい校内の廊下で戦闘行為をしてはならない。一度でもそれが見とがめられたあかつきには、グレンジャー、おまえ個人に退学というかたちで責任をとらせる。 これはホグウォーツ魔術学校教授としての命令だ!」

 

一年生女子はそのまま動かない。この場に立つのははじめてではないが、これまでは表彰などでほめられるために呼びだされたことしかなかった。今回はケンタウロスの弓のごとく胸をそらし、敵に対して一歩も引かない姿勢をとっている。

 

内面にいくら涙と怒りがたまろうとも、表情は微動だにしていない。ただ、自分のなかですこしずつなにかが壊れはじめるのを感じてもいる。

 

スネイプ先生はさらに、校内暴力に対する罰として彼女に二週間の居残り作業を課した。その軽蔑と嘲笑の表情は、〈薬学〉の初回授業のときとおなじようにわずかにゆがんでいた。彼自身、この仕打ちがいかに不公平であるかが分かっている証拠だ。

 

レイヴンクロー寮から百点減点、と宣言されたところで、こころのなかの小さな亀裂にすぎなかったものが進行し、ぱっくりと割れた。

 

それが終わったところで、「さがれ。」というスネイプのことばが聞こえた。

 

うしろを向き、レイヴンクローのテーブルに目をやると、ハリー・ポッターがじっと席についているのが見えた。表情までは見えないが、両手はテーブルの上に乗っていた。ハーマイオニーの手とおなじように、きつく握られているのかどうかまでは分からない。 スネイプ先生からの呼び出しがあった時点でハーマイオニーはハリーに耳打ちし、なにも言わずに勝手なことはしないようにと念押ししてあった。

 

ハーマイオニーがそのまま一回転して〈主テーブル〉に向きなおったとき、スネイプは自分の席にもどろうとしていた。

 

「『さがれ』と言ったはずだが。」と、またあざ笑う声。ただ、こんどは口角もあがっている。こちらがなにかするのを期待しているように——

 

ハーマイオニーは五歩まえに出て〈主テーブル〉に近づき、震える声で「総長?」と言った。

 

大広間全体がしんとなった。

 

ダンブルドア総長はなにも言わず、動かない。ほかの先生とおなじく、石像になったかのよう。

 

フリトウィック先生のほうに視線をうつすと、テーブルの上には頭頂部が見えるかどうかでしかなかったが、うつむいて自分のひざを見ているようだった。 となりのスプラウト先生はひどく緊張した表情で事態を見とどけようと努力しているようだったが、震えるそのくちびるからは、やはりなにも聞こえてこない。

 

副総長マクゴナガル先生の席は空席。今朝は一度も顔を見せていない。

 

「なぜ黙っているんですか?」  ハーマイオニー・グレンジャーは一縷の望みに託し、震える声で必死に助けを求める。 「この人がどれだけ理不尽なことをしているか、あなたたちも分かっているでしょう!」

 

「反省の色が見えんな。もう二週間だ。」

 

壊れかけていたなにかが粉ごなになる。

 

もう一度〈主テーブル〉の列を見わたし、フリトウィック先生とスプラウト先生と空席のままのマクゴナガル先生の席を見てから、 ハーマイオニー・グレンジャーはレイヴンクローのテーブルにもどっていく。

 

硬直がとけた生徒たちのあいだで、ぽつぽつと話し声がしはじめた。

 

それから、レイヴンクローのテーブルまであと一歩というところで——

 

ほかのすべての音を押しのけて、クィレル先生の乾いた声が聞こえてきた。 「正しくあった褒美として、ミス・グレンジャーに百点。」

 

それを聞いてハーマイオニーはつまづきそうになったが、持ちなおして歩きつづけた。うしろではスネイプが怒ってがなりたて、クィレル先生が椅子の背にもたれて笑いだす。ダンブルドアもなにか言っているが、内容まではよく聞こえない。そういった声を背にハーマイオニーはレイヴンクローのテーブルにたどりつき、ハリー・ポッターのとなりの席に腰をおろした。

 

ハリー・ポッターはとなりで硬直している。身うごきをとろうともしていないように見える。

 

「大丈夫、気にしないで。」  無意識のうちにそんなことばが口をついた。どこも大丈夫ではないのに。 「でもスネイプの罰から脱け出す方法があるなら、教えてくれない? このまえは、なにかそういう仕掛けをしたんでしょう?」

 

ハリー・ポッターはびくりとして、くびを縦にふった。 「ご——ごめん、こ——こうなったのも——ぼくのせいだ——」

 

「おかしなことを言わないで。」  不思議なことに、なぜかなにごともなかったかのように、ふだんどおりの声がだせ、考えるまでもなく話すことができた。 目のまえにある朝食の皿を見る。しかしとてもではないが、食事などできそうにない。胃のなかがむかむかとしていて、いまにも吐いてしまいそうだ。それでいて、まるで全身の感覚が麻痺したように、なにも感じられずにもいる。

 

「それと、校則をやぶったりする話があるなら、言ってみて。こんどは真剣に聞くって約束する。」

 

◆ ◆ ◆

 

Non est salvatori salvator / 救い手を救うものなどなく

neque defensori dominus / 王者を庇護するものなどなく

nec pater nec mater / 高みには父も母もなく

nihil supernum / ただ無あるのみ

 

——ゴドリック・グリフィンドール、一二〇二年。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 


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