リアン・フェルソーンは岩と漆喰でできた階段の道をくだっていく。燭台と燭台のあいだの闇を照らすため、手には『ルーモス』の灯をかかげている。
たどりついた洞穴には暗い横穴がいくつもあった。足を踏みいれると、旧式のたいまつが一本点火した。
まだ無人だった。そこで不安げに立ったまま数分間過ごしてから、
ソファが完成しても、スネイプ先生はまだ来ない。できたソファの左がわに座っていると、のどが脈うつのを感じる。 待つ時間が長びくにつれ、なぜか不安は減らず、むしろ増していく。
今回が最後だ、ということは分かっていた。
今日を最後に、自分はこの件の記憶をすべてうしなう。謎めいた洞穴のなかで一人こうしていると、自分がやってきたことにはどんな意味があったのか、ということが気になってくる。
記憶をなくすということは、どこか死に似ている。
適切に処置するかぎり、
それでも、いま自分がしている
壁ごしに足音が近づき……
セヴルス・スネイプがあらわれた。
彼の視線はまずソファにすわっている彼女にむかう。彼の顔によぎるのは、皮肉でも怒りでもなく、冷たくつきはなす表情でもない、奇妙な表情。
「気がきくな。ありがとう、ミス・フェルソーン。」と言って、スネイプは杖を手にしてプライヴァシー用の〈
さきほどまでとはまったく別の理由で心臓がどくどくと脈を打つ。
おそるおそる見ると、スネイプ先生はソファを背にくびをあずける姿勢で、目はとじていた。 眠ってはいない。表情には緊張と苦痛が見てとれる。
そうか、これは——と不意に気づく。きっとあとで記憶をうしなうことが決まっている自分だからこそ、この様子を——彼がだれにも明かしたことのない顔を——見ることが許されているのだろう。
リアン・フェルソーンのなかで、二人の自分がはげしくやりあう声がする。 『寄りかかってキスしてしちゃおうか』『どうかしてる、ありえない』 『彼が目をとじてるうちにやっちゃえば、止めようとしてもきっと間にあわない』『きっと死体も見つからない殺しかたをされる』——
しかしスネイプ先生はそこで目をひらいた(がっかりでもあったが、ほっとさせられもした)。つぎに聞こえたのは、彼のふだんの声に近い声だった。 「これが約束の報酬だ。」と言って、グリンゴッツ品質のルビーの一粒を手にのせ差しだす。 「五十五面カット。数えてくれてかまわない。」
受けとろうとする手が震える。手に手をとってルビーをしっかりとにぎらせてくれたなら、彼の肌がじかに感じられるのに——
実際にはスネイプはすこし距離をとってルビーを彼女の手に落とすと、またソファに背をもたれさせた。 「きみは洞穴を探検していてこのルビーを地面から拾ったと記憶していることになる。 そして、どうせだれにもそんなことは信じてもらえないだろうと思い、面倒をさけるため、グリンゴッツの専用金庫にあずけてしまおうと考える。」
しばらく、たいまつがパチパチと燃える小さな音だけがした。
「なぜ——」 ——この記憶が消えることは彼も知っている—— 「なぜあんなことをしたんですか? つまり——あなたはわたしを使って、だれがどこでいじめをするかを知ろうとした。でもグレンジャーがそこにいるかどうかは知ろうとしなかった。 あれはきっと、グレンジャーをそこに
スネイプは無言でうなづいた。また目はとじていた。
「でも分からないのは……
スネイプはかたい表情のまま、くびをふった。
「じゃあ——その——せっかくですから——なにか話したいことはありませんか?」 話したいことがあるのはこちらだ。なのにとても自分からは口にすることができそうにない。
「……ひとつある。聞いてくれるか、ミス・フェルソーン。」
目をとじたままの相手にうなづいて返事するわけにもいかず、リアンは震えそうな声でなんとか「はい」と言った。
「きみと同学年のとある男子が、きみにあこがれている。 名前はひかえておこう。 だが彼はきみに通りかかられるたびに、きみを目で追っている。気づかれていないつもりで。 彼はきみを自分のものとしたいと思っている。だが実際にはキスを誘ったことすらない。」
自分の鼓動がいっそうはげしくなっていく。
「では正直に言ってみなさい。きみはその男子のことをどう思う?」
「そうです、ね——キスを誘うことすらできないというのは——」
——意気地がない。
——みじめすぎる。
「弱虫だと思います。」 声が震えている。
「同感だ。では、おなじ男子が一度きみを救ってくれたことがあるとしたら、どうだね。 そのおかえしにキスをしてほしいと言われれば、してあげてもいいと思うかね?」
リアンははっとして息をのむ——
スネイプはやはり目をとじたまま、 「それとも……恩着せがましいと思うか?」
その一言が短剣のように突き刺さり、ひっ、と声をだしてしまった。
スネイプがぱっと目をあけ、視線をあわせてくる。
そして小さく声をたてて、さびしげに笑う。
「いやいや! きみのことではないよ、ミス・フェルソーン。 これは言ったとおり、男子の話だ。 きみといっしょに〈薬学〉の授業を受けている生徒の一人だ。」
「あ……」 スネイプが何の話をしていたか、思いだそうとする。男子のだれかに毎回こっそり観察されていたと思うと、かなりいやな気持ちがする。 「そう、ですね。ちょっと
先生はくびをふった。 「だれかはどうでもいい。 ひとつ聞くが、いまから何年も経って、その男子がかわらずきみに恋していたとしたら、どう思う?」
「はあ。……それは、みじめだと思いますけど?」
たいまつがまた音をたててはぜた。
「奇妙なものだ。わたしには都合、師が二人いた。 両人とも明敏で、それでいてわたしになにが見えていないかを教えようとしなかった。 一人目の師がそうであった理由は想像がつく。しかし二人目は……」 スネイプは表情をかたくした。 「……なぜなにも言ってくれなかったのか、こちらから思いきってたずねておくしかないのかもしれない。」
話がとぎれ、時間がすぎていく。なにか言えることがないか、リアンは必死に考える。
スネイプがまた、小声で話をつづける。「なぜわたしは三十二歳の若さにして、いつから自分の人生が救いようもなく破滅しはじめたのかと、考えてしまうのだろうか。 〈組わけ帽子〉に『スリザリン!』と言われたときがはじまりだろうか? 不公平な話だとも思う。〈組わけ帽子〉はわたしのあたまの上に来た瞬間に結論を言いわたし、ほかの選択肢をあたえようとしなかったのだから。 とはいえ、その判断がまちがっていたとは言いがたい。 わたしは知識を知識として純粋に尊ぶほうではなかった。 ただ一人友人と呼べた人の信頼すらも裏切ってしまった。 いまも昔も、正義感を燃やすほうではなかった。 勇気はどうか。すでに破滅してしまった人間が危険に身を投じることを勇気とは呼べまい。 わたしはいつもなにかにおびえ、一度歩みはじめた道を離れることができなかった。 そんなわたしが彼女とおなじ寮に〈組わけ〉されるわけがなかった。 きっとそのときすでに、こうやって敗北する運命は決まっていたのかもしれない。 では、〈組わけ帽子〉はただ事実を言うのだとして、それでも不公平だとはいえないだろうか。 ある子どもが別の子どもより勇敢であることは不公平ではないだろうか。そのことで一人の人間の人生が決定づけられてしまうのは不公平ではないだろうか。」
リアン・フェルソーンは自分がセヴルス・スネイプの内面をほんのすこしも理解していなかったことに気づきはじめた。彼の暗い心理が見えてきたことで、逆に混乱は深まるばかりだった。
「しかしそれはまちがいだ。 わたしは前回自分がどこであやまったのかを知っている。 どの日どの時間に自分が最後の機会をのがしてしまったのか、正確に知っている。 ミス・フェルソーン、きみは〈組わけ帽子〉からレイヴンクローを提案されたのではないか?」
「は——はい。」 リアンは考えるまえに答えた。
「
「はい。」 またおなじ返事が口をつく。『いいえ』と言ったが最後、スネイプ先生は話をやめてしまいそうだったから。
「わたしはとても苦手だ。」 遠くに話しかけているような声。 「昔、ある謎かけを解かされたとき、ごく初歩的な部分すら分からないまま、手遅れになった。 謎かけが
「……言えないんじゃないですか?」
「では、ある人を『倒すちから』があるということは、なにを意味する?」
リアンは考える。(〈組わけ帽子〉にたずねられたときレイヴンクロー寮にしていれば、と思うのもはじめてではない。ただ、そうしていれば両親は激怒しただろう。そしてはねのけようにも、〈組わけ帽子〉にグリフィンドール行きの選択肢をあたえられなかった自分だから。) 「そう……ですね……」 考えていることが、うまくことばにならない。「『ちからがある』。これは実際
「選択……」と彼はまた、リアンではない遠くのだれかに話しかけているような声で言う。 「そう、いずれ選択のときが来る、と言っているように思える。 そして、選択の結果がどうなるかは自明ではない。あくまで『倒すちから』があるというのが謎かけの文言であり、実際『倒す』と言っているわけではない。 では、大の男がみずからにならぶ者として赤子に印をつける、とは?」
「え?」 まったく意味がわからない。
「赤子に『印をつける』こと自体は簡単だ。 一定の強力な〈闇〉の呪いは消えない傷あとをのこす。 そういった印をつけるだけならさほど特別なことではない。しかし、赤子を『みずからにならぶ者』と位置づけるとはどういうことか?」
最初に思いついたことを言ってみる。 「許婚契約はどうですか。その子が大人になったとき結婚するという契約をむすんでおけば、いずれ対等になることになります。」
「それは……おそらく正解ではなさそうだ。しかしその積極性には感謝する。」 調合作業で精密に鍛えられた長くすらりとした指が彼のひたいの上をなでる。 「こういう頼りないことばの列をこねくりまわしていると、気が狂いそうになる。 彼が知らぬちから……これは秘密の呪文程度のものではありえない。 彼自身が練習しさえすれば身につけられるようなものではありえない。 先天的な才能か? たとえば
リアンはその様子をじっと見ていたが、スネイプはつづきを言わない。
「それって
「もうひとつだけ、試してみたいことがある。 まだ一度も試していないことを。これからわたしが言うことを言語として聞くのではなく、わたしの声、わたしの口調に耳をすませて、それでどういう風に聞こえたかを教えてほしい。できるかね? ……よし。」 うなづきはしたものの、なにを期待されているのか、まだよく分からない。
セヴルス・スネイプは一息ついてから、その文言をとなえた。 「両者の■■シイは同じ■カ■に共存しえない」
そのうつろな声を聞いてリアンは背すじに悪寒を感じた。それがほんものの予言を模したものであると思うと余計におそろしい。 狼狽しながらも、ぱっと(おそらく目のまえにいる人物からの連想で)思いついたことを口にしてみる。 「……二つの材料は同じ釜に共存しえない?」
「しかしなぜ共存しえないのだと思う? そのような表現が
「ええと……。その二つを混ぜると発火して釜が焦げてしまう、とか?」
スネイプはぴくりとも表情を変えなかった。
「なるほど、そうかもしれない。」 ソファに座った二人のあいだで、たっぷり何分かつづいた沈黙がやっとやぶられる。 「それなら、『なければならない』という部分も説明がつく。 ありがとう、ミス・フェルソーン。 あらためて協力に感謝する。」
「いえ、わたしもお手つだいさせていただけて——」 リアンはそこで声をつまらせた。 スネイプ先生はもう、話をまとめるような言いかたをしている。つまり、のこされた時間は少ない。この瞬間を記憶している自分はもうすぐいなくなってしまう。 「スネイプ先生、これを忘れないですむ方法はほんとうにないんでしょうか。」
「わたしも……過去のすべてを変える方法があればと思う……」 セヴルス・スネイプの声はやっと聞きとれるかどうかの小声だった。
彼はソファから腰をあげ、となりにあった彼の重みが消える。 彼は杖をローブから取りだし、こちらに向けた。
「待って——そのまえに——」
妄想を現実に変えるための一歩を踏みだすことは思いのほかむずかしかった。 二歩目はない、たった一歩だと分かっているのに、その距離は相対する二峰の山のように遠い。
〈組わけ帽子〉はグリフィンドール行きの選択肢をあたえてくれなかった……
……そのことで一人の女の人生が決定づけられてしまうのは不公平ではないだろうか?
あとで思いだせなくなることが分かっているのに——ちょうど死をまえにしているようなこの瞬間にさえ、言う勇気がないのか。なら、いつだれになら言えるというのか。
「……そのまえにキスをしてもらえませんか?」
彼の黒い目がじっと見つめてきて、リアン・フェルソーンは顔から胸まで赤くなる。 まだ自分に迷いがあることも、ほんとうにほしいのはキスではないことも、見すかされてしまっているのではないかと思う。
「おもしろい。」 彼はそう言ってソファにかがみこみ、キスをした。
想像していたようなキスではまったくなかった。 彼女の妄想の世界では、スネイプは猛だけしく有無を言わせないようなキスをする。それが実際には——やけにぎこちなく、 くちびるを押しあてるちからが強すぎて、こちらのくちびるが歯にあたってしまっていたし、角度も変で、鼻と鼻がぶつかっていた。それに彼のくちびるはとても緊張していて——
気づいたときにはもう〈薬学〉教授は姿勢をただし、杖をもとのようにこちらに向けていた。
「まさか——」と言ってリアン・フェルソーンは彼を見あげる。 「まさかこれが——はじめてだったんじゃ——?」
——リアン・フェルソーンは発見したばかりの石の洞穴のまえで目をしばたたかせた。 とてつもなく巨大なルビーは、まだたしかに手のなかにある。 洞穴の隅の地面にこれが埋まっているのを見つけたのは、思いがけない幸運だった。 ただ、このルビーを見つめていると悲しい気持ちになるのはなぜだろうか。大切にしていたなにかを忘れてしまったように思えるのはなぜだろうか。
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky