余波:アルバス・ダンブルドアと○○
無数の装置がうごめき、静けさの対極にある総長室で、部屋のぬしがひとり席についている。 ローブはおだやかな黄色をした薄手の生地。人前で着ることのないたぐいの衣装だ。 机上では、公式文書らしき羊皮紙にむかって、しわだらけの手が羽ペンを走らせている。 しわのあるその顔から人となりを読みとろうとする観察者がここにいたとして、謎の装置群を観察しようとする観察者と同様、徒労に終わるだろう。 分かるとすれば、やや悲しげで疲れた表情だということくらいだが、アルバス・ダンブルドアはもともと一人でいるときは決まってそういう表情をしている。
〈
そして、羽ペンの先からつぎの一文字、つぎの一画が書かれようとするとき——
老魔法使いはすくりと立ちあがり、見る者がいれば唖然とするであろうほどの俊敏な動きで、オーク材の大扉に相対する。羽ペンはぽとりと羊皮紙に落ちる。黄色のローブがひるがえり、恐るべきちからを秘めた杖が手に飛びこみ——
杖をうけとるやいなや、また急に老人の動作が止まる。
大扉を三度、たたく音があった。
黒杖が、こんどはゆっくりと、老魔法使いの袖ぐちに取りつけられたホルスターにもどっていく。 ダンブルドアは数歩まえにでて、もっと貫禄ある立ちかたと落ちついた表情に切りかえる。 奥の机では、いかにもあわてて落とされたようだった羽ペンが羊皮紙の横におさまり、羊皮紙は一枚めくれて白紙がおもてに出る。
無言の思念が送られ、大扉がひらく。
そのむこうから石のような緑色の目がじっと老人を見すえる。
「おみごと、と言わざるをえまい。〈不可視のマント〉のおかげで簡単な透視術は通用しなかったと見える。ただそれだけでなく、わしが感知するかぎり石像の動きや階段の回転すら起きていないのはどういうことかな。どんな手段をつかった?」
少年は一歩一歩、余裕をもって部屋のなかにすすむ。その背後で扉がとじる。 「ぼくはいつでもどこにでも行けます。あなたが許そうが許すまいが。」 冷静な声。いや、冷静すぎるかもしれない。 「ここに来ようと思ったから、合言葉などかまうものかと思ったから、ぼくはこうやって来た。 ぼくが囚人としてこの学校にとどまっているとお思いなら、大きなまちがいですよ、ダンブルドア総長。 ぼくは出ていかないことにしただけです、いまのところは。 その点を踏まえて、ひとつお聞きします。スネイプ先生は『四年次以下の生徒を虐待しない』という約束でした。まさにこの部屋でそう約束しましたよね。あなたは今回スネイプ先生にその約束をやぶらせた。なぜですか?」
老魔法使いはしばし、怒れる若い
少年は入りぐちを離れ、部屋のなかに踏みこんだ。目線は総長をあおぎ見る角度になっているが、なぜか見あげるのではなく見おろしているような印象があった。 「つまりジャグソン卿は〈死食い人〉だった、骨の髄まで腐っていたということですね。そういう相手なら、気づかいがいらなくて助かります——」
「ハリー!」
少年の透徹な声は、前人未踏の泉の水からできた氷のように透きとおって聞こえた。 「あなたは〈光〉陣営が暗黒におびえて暮らすべきだと思っているようですが、 ぼくは逆であるべきだと思います。 もちろんぼくも、たとえ相手が〈死食い人〉であっても人殺しは気がすすみません。 でもクィレル先生と一時間相談すれば、ジャグソン卿を経済的に破滅させる方法やブリテン魔法界から追放する手段はいくらでも思いつけると思います。 それくらいしておけば、しめしはつくでしょう。」
「なるほど……なかなか思いつけない発想ではある。ホグウォーツ校内でのささいなもめごとを理由に、〈死食い人〉に全面戦争を申しこみ、五百年の歴史ある寮を破滅させようとするなど、わしは思いもしなかった。」 老魔法使いはさきほどの動作でややずり落ちていた半月形の眼鏡を指で押しあげた。 「ミス・グレンジャーにも、マクゴナガル先生にも、フレッドとジョージにもない発想ではないかと思う。」
少年は肩をすくめた。 「校内のことだけではなく、ジャグソン卿の過去の罪すべてに対する裁きだと思えばいいでしょう。それに、ぼくが手をだすのは向こうが手をだしてからの話です。 なにも、なにをするかわからない存在がここにいると知らしめたいわけじゃありませんから。 要は、中立をたもっている人はだれもぼくのことを怖がる必要はない。でも軽がるしくこちらに手だしをすれば、痛い目を見るぞ、ということです。」 にこりとしてはいるが、目もとが笑っていない。 「この問題でぼくに手をだす人は〈カオス〉の真の意味を知ることになる、と『
「待ちなさい。……ハリー、それはあるまじき考えかたじゃ。きみはまだ戦うことの意味を分かっていない。二者が戦場で敵として衝突するということが本質的にどういうことなのか。その現実を知らず、ただ自分の恐ろしさを相手に理解させてやればよいのだとばかり思っているのではないか。きみの年ごろであれば、無理もない考えかたではある。 しかし同時に、きみはその考えの一部を実行しうる能力をすでに持ってしまっている。 それは〈闇の王〉の道。一度その道をえらべば、どう歩もうが暗黒の終着点をのがれることはできない。」
少年はためらいを見せ、ちらりと黄金の台座に目をやった。ふだんならフォークスが羽をやすめている場所である。 なにげない動作ではあるが、ハリーがそこを見たことの意味を老魔法使いはよく知っている。
「わかりました。見せしめの話はおいておきましょう。」 まだかたい声だが、冷たさはいくらかやわらいでいる。 「それでも、ジャグソン卿になにか
老魔法使いはくびをふった。 「ハリー、きみはわしが出しおしみをしていると思っているのではないか。わしが本腰をいれてさえいれば、きっと敵はひとたまりもないはずだと。 そこがきみの誤算じゃ。 ルシウス・マルフォイはファッジ大臣を意のままにし、『デイリー・プロフェット』を通じてブリテン全土への影響力をもっている。ホグウォーツの理事会もぎりぎりのところでこちらに分があるにすぎず、ちょっとした変化でわしのくびも飛ぶ。 アメリア・ボーンズとバーテミウス・クラウチは味方じゃが、われわれが無思慮な行動にでれば、ついては来まい。 この世界はきみが思っているほど磐石ではなく、われわれは一手一手慎重にことをすすめる必要がある。 〈魔法界大戦〉は真の意味では終わっていない。かたちは変われど、つづいている。 黒の
少年はまたどこか冷ややかな笑顔になった。 「そうですか、じゃあジャグソン卿が自分の意思でルシウス・マルフォイを裏切ったように見せかける方法を考えてみます。」
「ハリー——」
「障害があるなら、
「
『不死鳥の代償』というその一言はとりわけ明瞭に聞こえ、部屋のなかにこだましたようだった。 それから、ガタゴトと大きな音が四方から聞こえだした。
壁にかけられた古い盾と〈組わけ帽子〉の帽子かけのあいだの石壁が変形して、二本の石柱となり、あいだに空隙ができた。そのさきには上にむかう石の階段があり、階段のさきは暗くて見えない。
老魔法使いは階段のまえまで歩いていき、そこでふりかえって、まだ動かないハリー・ポッターのほうを見た。 「来なさい!」 青色の目にきらめきがなくなっている。 「きみはすでにわしの許可なしにここまで乗りこんできた。ならば、もうひとつ奥を見せてもよかろう。」
石の階段に手すりはなかった。ハリーは杖をとりだして『ルーモス』をかけた。 総長はふりかえらず、足もとも見ずに歩いていく。視界がきかなくても歩けるほどに慣れた場所のようだ。
好奇心や恐怖を感じているのが当然ではあるが、ハリーの脳はその余力がなくなっている。 ふつふつと煮える怒りがこれ以上あふれないようにと、押しとどめるのにかかりきりになっている。
階段は途中で曲がることもなくすぐにおわり、最上段になった。
頂上には金属扉があった。ハリーの杖の青光のもとでは扉は黒色に見えた。つまり実際の色は黒なのかもしれないし、赤かもしれない。
アルバス・ダンブルドアは長い杖を旗印のようにかかげ、さきほどと同じ、ハリーの耳にこだまするような、ハリーの記憶に焼きつけるような奇妙な声で、「不死鳥の運命」と言った。
扉がひらき、ダンブルドアにつづいてハリーもなかにはいった。
部屋は扉とおなじ黒い金属でできているようだった。壁の色も、床の色も黒。 天井も黒。ただし、水晶球がひとつ天井から白い鎖でぶらさがっていて、そこから銀色の光が降りそそいでいた。〈
部屋のなかには、黒い金属の台座がならんでいた。ある台座には動く写真が、別の台座にはうっすらと光る液体が半分まではいった縦長の容器が載っている。焼け焦げた銀の首かざり、つぶれた帽子、真あたらしい黄金の結婚指輪など、小さな品物がぽつりと置かれている台座もある。 写真、液体、品物の三種すべてがそろった台座も多い。 あちこちに魔法の杖があり、その大半が折れていたり、焦げていたり、そして奇妙に溶けていたりしている。
ハリーはしばらくながめていてやっと、自分が見ているものの正体に気づき、のどを詰まらせた。 自分のこころのなかの怒りを鉄槌で打ちつけられたような感覚——これほど痛烈な衝撃を感じたのははじめてかもしれない。
「わしのために戦死した人びとは、これですべてではない。」 アルバス・ダンブルドアは背をむけたままで、ハリーからは灰色の髪の毛と黄色がかったローブしか見えない。 「……これよりはるかに多い。しかしそのなかでも、とくに親しかった人たち、とくに重大な過誤で死なせてしまった人たち、とくに悔やみ切れない死にかたをさせてしまった人たちがいる。 この場所はそういった人たちのためにある。」
台座の数はすぐには数えきれないが、 おそらく百ちかく。 部屋はけっして狭くはなく、これからも台座が増えることを考えて作られている。
アルバス・ダンブルドアはひたいにはめこまれたような深い青色の目でじっとハリーを見さだめた。しかし声は平静だった。 「きみはまだ不死鳥の代償がどんなものかを知らないのではないかと思う。 わしが見るかぎり、きみは邪悪な人間ではない。ただひどく無知で、無知なぶん、自分に自信をもちすぎている。わしも昔、そうだったことがある。 ただ、このあいだのできごとからすると、きみはわしよりもフォークスの声をはっきりと聞くことができるらしい。 おそらくフォークスがおとずれたとき、わしはすでに老い、悲しみを知りすぎていたからかもしれぬ。 もし、どんなときに戦いを受けて立つべきかについてわしが知らないことがあるというのなら、言ってみなさい。」 声から怒りは感じられなかった。ホウキから落ちたときのように息ができなくなるほどの圧力は別のところから来ていた。銀色の光に照らされて静かに眠る、焼け焦げた杖、砕けた杖の列から来ていた。 「言うべきことがなければ、去りなさい。しかし以後、おなじことは二度と聞かせないでもらいたい。」
ハリーはどう答えていいか分からない。自分の人生経験ではおよびもつかない話に、かえすことばがない。 無理をしてなにか言えることを見つけられたとしても、いまこの場で言う意味はないだろうと思った。 だれも自分の判断ミスのせいで他人を死なせてしまったという経験を引きあいにだして論争に勝てるべきではないが、そう分かっていても言うべきことはなにも見つからなかった。 ハリーが口を出せることはなかった。
そう思ってハリーはほとんど退室する気になっていたが、ひとつだけ気づいたことがあった。 アルバス・ダンブルドアはいつどこにいても、こころのなかでこの場所に自分の一部をのこしているのではないだろうか。 だからこそ、つぎの戦争が起きるのを防ぐためなら、あらゆる手段をつかい、あらゆる犠牲をはらうことができるのではないだろうか。
ひとつの台座が目についた。 その台座の写真は動かない。ほほえんだり手をふったりしない、真剣な表情でカメラを見ている女性を写した、マグル式写真だった。 茶色の髪の毛の女性で、編んで下げた髪型をしている。マグル世界ではありふれているが魔法界では見かけない髪型だ。 写真のとなりには、銀色の液体がはいった容器が立ててある。溶けた指輪や折れた杖といった遺品はない。
ハリーはゆっくりとその台座のまえに歩みよった。 「この女性は?」 自分の声が奇妙に聞こえた。
「その女性の名はトリシア・グラスウェル…… 彼女はマグル生まれの魔女だった娘を〈死食い人〉に殺された。 トリシア・グラスウェルはマグル政府の警察官でもあった。娘の死後、警察当局を通じて得た情報を〈不死鳥の騎士団〉に提供してくれていたが、彼女自身も最後には——裏切りにあい——ヴォルデモートに捕らえられた。」 ダンブルドアの声が一度とぎれた。 「……そして無惨に殺された。」
「彼女のおかげで死なずにすんだ人はいましたか?」
「いた。何人も。」
ハリーは台座からダンブルドアに視線をうつす。「彼女が行動しなかったとしたら、世界はもっとよい場所になっていたと思いますか?」
「いや、思わない。」 ダンブルドアの声に疲労と哀切がこもった。 かがみこもうとするときのように、背がまがって見える。 「やはりきみは分かっていない。 いずれ理解するときが来るとすれば、それは——ああ。 ずっと昔、きみとさほどかわらない年ごろに、わしは暴力というものの本性を知った。その代償を知った。 見わたすかぎりの空を殺人の呪いが飛びかう——そんな状況は、文字どおりいかなる理由があろうとも、忌むべきもの。それは最悪の闇の儀式がそうであるように、本質的に汚れた、忌まわしいもの。 暴力はひとたび生み落とされれば、周囲の生きものすべてにレシフォールドのように襲いかかる。 わしはそのことを身にしみて学ばせられた。きみにはおなじ思いをさせたくない。」
ハリーは総長の青い目から黒い金属製の床へと視線をおとした。 総長が重大なことを伝えようとしていることは分かる。ハリーもそれをくだらない話題だとは思わない。
「昔、モハンダス・ガンディーという名前のマグルがいました。」 ハリーは下をむいたまま話しだす。 「ガンディーは自分たちの国がマグル世界の英国政府に支配されるべきではないと考えました。 そして武力闘争を拒否しました。武力闘争はするなと国民全体を説得しました。 そのかわり、協力者をあつめて英国兵のまえに立ちふさがって、抵抗せず殴り倒されました。英国はやがてそれに耐えられなくなり、ガンディーの国を解放しました。 この話を本で読んだとき、美しい話だと思いました。銃や剣をもって戦う戦争よりも一段上の考えかただと思いました。それを実際にやった人がいて、しかも
「ウィンストンか。その名前はわしも記憶にある。」 老魔法使いのくちの端が上に曲がった。 「遠慮なく言ってしまえば、彼はファイアウィスキーを十杯飲ませても良心の呵責に苦しむほうではなかったがのう。」
ハリーは目のまえにいる人物がアルバス・ダンブルドアであることを思いだして、一度くちをとじ、自分がこの部屋でこの人に口ごたえする資格などあるのだろうかという疑念をふりはらおうとした。 「要は……暴力は悪だと言うだけでは
「では、きみはどう答える?」
「暴力を止めるとき以外に暴力をつかわないこと。 もっと多くの人命を救えるのでないかぎり人命を犠牲にしないこと。 そういう耳ざわりのいい答えかたをすることはできます。 問題は、警官が強盗を目撃したなら、警官自身やまわりの人の身の危険や生命の危険を覚悟してでも警官は強盗を止めるべきだということです。強盗がぬすもうとしているのが宝石のような、たんなる物品だったとしても。 もしだれも強盗の
「
「あなたは総長であるべきじゃない。」 ハリーはのどがひどく熱く感じるのを耐えて言う。 「とても言いにくいんですが、学校を運営することと戦争を遂行することを両立するのは無理があります。 ホグウォーツを巻きこまないでください。」
「子どもたちがこれで死ぬようなことはない。」 老魔法使いは疲れた目をしている。 「しかしヴォルデモートの手がおよべば、そのかぎりではない。 この学校にはなぜ両親の話をしない子どもたちが多いのか、考えてみたことはあるかね? どこで話そうにも、母親か父親、あるいはその両方に死なれただれかが一人は近くにいるからじゃ。 それこそが前回の戦争でヴォルデモートがのこした遺産。 戦争が起きること自体は決まってしまった。しかしどんな見返りがあろうとも、そのはじまりを一日でも早めかねないこと、そのおわりを一日でも延ばしかねないことには加担できん。」 こんどは手をあげ、砕けた杖の数かずを指ししめすような手ぶりをする。 「われわれは、正義のために戦うべきだから戦う、という考えかたはしなかった。 戦う以外の方策がすべて尽きたとき、やむをえず戦う。われわれはそう答えた。」
「グリンデルヴァルトとの対決を遅らせたのもおなじ理由からですか?」
ハリーは深く考えないままその質問をくちにし——
青い目がハリーを観察するあいだ、時間がゆっくりと流れた。
「だれからその話を? ……いや、答えずともよい。もう分かった。」 ためいき。 「その質問は何度も受けたが、毎回回答を避けてきた。 しかしきみはいずれこのことの真実を知るべき立ち場にある。 わしが許可しないかぎり、ほかのだれにも話さないと誓ってくれるか?」
ドラコには話すことを許してもらいたいところだが—— 「誓います。」
「グリンデルヴァルトは強力な古代の魔法具をもっていた。 それをもっているかぎりグリンデルヴァルトの守りは鉄壁で、わしは決闘に勝つことができなかった。決闘を何時間も引きのばすことで、疲労の限界で倒れてくれるのを待つしかなかった。 わしもフォークスがいなければ、命をとりとめることはできなかったにちがいない。 しかし、マグルの協力者が血の犠牲をささげているかぎり、グリンデルヴァルトも生きのびた。 当時のグリンデルヴァルトは文字どおりだれにも倒せなかった。 その忌むべき魔法具については、なにひとつ明かすことはできん。まちがっても存在を知られることがあってはならん。 いまはきみにもこれ以上告げるべきことはない。きみも今後だれにも話してはならん。 この話はこれですべて。 教訓もなにもない。それだけじゃ。」
ハリーはゆっくりうなづいた。 こういう話も、魔法世界の基準ではありえないとも言いきれない……。
「そのあとで……」 ダンブルドアの声はさらに小さく、ほとんどひとりごとのようになった。 「……わしはグリンデルヴァルトを死なせるべきではないと主張し、倒した者の特権でそれが通った。復讐をもとめる声も何千何万とありはしたが。 グリンデルヴァルトは彼自身がつくったヌルメンガルトの牢獄に投獄され、いまもそこにいる。 わしはあの決闘に際して彼を殺す意思はいっさいなかった。 わしはそれ以前に……はるか昔に、一度殺そうとして……それが結局は……まちがいであったことを思い知らされた……」 ダンブルドアは長い黒杖を両手でもち、マグルのファンタジー作品にでてくる水晶玉や占いの
「ヴォルデモートはグリンデルヴァルトとはちがい、 人間性をまったくのこしていない。 その男をきみは滅ぼさねばならん。 対決に際して躊躇してはならん。 この世に生きる命のなかで彼にだけは慈悲を見せてはならん。そしてことが成就したあかつきには、忘れなさい。すべて忘れて自分の人生を生きなさい。 怒りはその対決のときのためにとっておきなさい。」
総長室がしんとした。
それから何秒もつづく沈黙をやぶったのは、ひとつの質問だった。
「ヌルメンガルトにはディメンターがいますか?」
「なに? まさか! いかにグリンデルヴァルトとて、そんな目には——」
老魔法使いは少年をじっと見る。すでにうつむくのをやめていた少年は表情を変え、口をひらいた。
「つまり……」と、だれもいない部屋でひとりごとを言うように話しだす。 「〈闇の魔術師〉の実力者を閉じこめる牢獄をつくるのにディメンターが必要ないことは知られている。
「ハリー……?」
「ぼくはその答えを認めません。」 見あげる目は緑色の火のようにぎらぎらとしている。 「フォークスがあの使命をあなたに託さず、ぼくに託した理由がわかりました。 あなたは悪が勝つようなかたちでの権力の均衡を受けいれようとしている。そこがあなたとぼくの差です。」
「それも答えにはならないのじゃ。」 ダンブルドアは表情を変えない。長年の訓練で痛みを隠しとおせるようになっている。 「認めようが認めるまいが、現実は変化しない。 この件についてはきみも……口ぶりや態度とは裏腹に……若すぎるということかもしれん。一度たりとも悪を看過せず、連戦連勝のまま幕引きできるのはおとぎ話の世界だけのこと。」
「それだからあなたはディメンターを破壊することができない。ぼくにはできる。ぼくは暗黒は打破できるものだと信じているから。」
老魔法使いがはっとして息をとめた。
「不死鳥の代償にも抜け道はある。」とハリー。 「それは宇宙の奥深くに組みこまれた均衡の仕組みなんかじゃない。 いまのところ抜け道が見つかっていないというだけのことです。」
老魔法使いは口をひらいたが、声はでてこなかった。
銀色の光が砕けた杖の数かずを照らす。
「フォークスがぼくにあたえた使命。その使命をやりとげるために〈魔法省〉を解体する必要があるなら、ぼくはそうする。 そう考えることが、あなたが見おとしている答えへの一歩です。 ホグウォーツ内のいじめを止める方法が見つからなかったとき、『困ったな、これはどうしようもなさそうだ』と思って
「それでは真の戦い……ヴォルデモートとの戦いについては?」 「
「クィレル先生がハーマイオニーへの百点を宣言したあと笑っていたのはなぜか、本人にたずねました。 クィレル先生の答えは、厳密にはちがう表現でしたが、内容としてはだいたいこうでした。『無辜の少女が助けをもとめているのに、慈悲深いはずのアルバス・ダンブルドアはなにもせず傍観している。そこへわたしが助けの手をさしのべる。こんな愉快なことはない』、と。 それから……『善人や倫理的な人というものはひとしきりあれこれ考え悩んだ結果なにもしないことが多く、仮になにかしたとして、その行為は悪人とされる人たちの行為とほとんど区別がつかない』。 『わたしのように善人でない人間は、いつでも好きなときに無辜の少女を助けることができる……善をめざしたいと思っているなら、こういう点も勘案しなさい』、とも。」
ダンブルドアは内心打撃を感じたにちがいないが、ほとんど動じるそぶりを見せなかった。よく観察していれば、目をわずかに見ひらいたのが分かる程度だった。
「心配しないでください。そのあたりのことはわきまえています。 善にかんすることはハーマイオニーやフォークスに教えてもらうべきだということは分かっています。あなたやクィレル先生ではなく。 そこで、もともとの用件にもどりますが。 ハーマイオニーはくだらない罰則につきあうほど暇じゃありません。スネイプ先生をぼくが脅迫したということにして、あの処分は取り消していただきます。」
しばらくためらってから、老魔法使いはくびを縦にふった。銀色のひげがゆっくり揺れた。 「それはミス・グレンジャー本人のために好ましくない。かわりに、監督者をビンズ先生にするということで手をうとう。きみもいっしょにビンズ先生の教室で自習すればよい。」
「いいでしょう。そういうことなら、これまでぼくらがやっていたことと変わりありませんから。 今後またあなたが悪人の味方をするようなことや悪人に勝ちをゆずるようなことをしたときは、ぼくは後先かまわずフォークスが告げるとおりに行動します。この点はよく分かっていてくださいね。」
それを最後に、少年は来た道をもどり、あいたままになっていた黒い金属製の扉をとおり、部屋をでた。「ルーモス!」と声がしてから、光がともった。
老魔法使いは自分よりさきに死んだ者たちの遺物にかこまれたまま無言で立っていた。 しわのある手が半月形の眼鏡にのび——
少年が部屋のなかに顔をつきだした。 「あの階段をうごかしてもらえませんか? 来たときにやったことをもう一度やるのは、かなり大変なので。」
「よろしい、行きなさい。そう指示しておいた。」
(しばらくあとで、マクゴナガル副総長が入室を許されてガーゴイル像の門を通過した。門の横で透明になって待機していた、本人視点では総長室に来るまえのハリーが、そのうしろについて回転階段をのぼり、〈マント〉を着用したまま〈
余波:クィレル教授と○○
禁じられた森のなかの暗い草地で〈防衛術〉教授は待っていた。けだるそうに背をあずけているのは、荒い灰色の樹皮をした大きなブナの木である。三月も終わるのにまだ葉がなく、幹から枝分かれしていくすがたがちょうど地面に生えた白っぽい腕から無数の指が吹きだしているように見える。 まだ初春とあって、芽のでていない木々も多い。なのに、まわりにも頭上にもびっしりと枝がひしめきあっていて、
そこに聞きのがしかねないほど小さな足音が近づく。身を隠して歩くことに慣れた男の歩調。枝を折る音も葉を踏む音もたてていない——
「ごきげんよう。」と言いながら、クィレル教授は視線もうごかさず、両腕もだらりとさせたままでいる。
黒マントの人影が隠蔽をといて出現し、左右を一度ずつ確認した。 右手には、低くかまえた灰色の杖……銀製にさえ見える杖があった。
「なにも
「ああ。」とクィレル教授はいかにもどうでもよさげな態度で言う。「聞き耳をたてられたくはないだろうと思ってね。 ホグウォーツ城には耳がある。昨日の件できみがどういう役割を演じたか、総長に知られたくはあるまい?」
三月の冷気が深まり、気温が一段と低くなる。スネイプの声の冷たさが増す。 「なにが言いたい。」
「わたしがなにが言いたいかは、もう分かっているだろうに。」 クィレル教授は愉快げに言う。 「……ああいう愚かな騒ぎにくびをつっこむまえに、暴力から身をまもるすべくらいは確保しておくものだ。」 (両手はまだだらりと垂れている。) 「しかし、あの愚か者たちも女子諸君もふくめて、だれひとりきみが倒れたことをおぼえてはいなかった。 となると、大変興味ぶかい疑問が生じる。きみはなぜそれほどまで、必死と言えるほどの労力をつぎこんで、
「なんだと?」 スネイプは怒りをあらわにした。
「しかし、いまのきみは独断でうごいているらしい。では、なにをしようとしているのか。なにが目的か。そこにわたしは興味をひかれた。」 クィレルは黒マントの人影をひとしきりながめた。興味ぶかい虫を……とはいえしょせん虫にすぎないものを相手にしているような目つきだった。
「わたしがダンブルドアの従僕になどなるものか。」とスネイプ。
「ほう? それは意外だ。」 クィレルはわずかに口角をあげた。 「そう言いたくなる気持ちはわかるがね。」
両者無言の時間がつづいた。 静寂をやぶるように、どこかの木でフクロウが一鳴きした。二人ともぴくりともしなかった。
「クィレル。わたしを敵にまわすと損をするぞ。」とごく小さな声でスネイプが言った。
「ふむ、その根拠は?」
「……逆に、味方にすればいろいろな利益がある。」
クィレルは灰色の樹皮に背なかをあずけたまま両眉をあげた。 「たとえば?」
「この学校についてのさまざまな知識。わたしが知っているはずがないと思われるような部分についても。」
返事を待つ格好の沈黙。
「それはそれは。」と言ってクィレルは退屈そうに手の爪をなぶりだす。「つづきをどうぞ。」
「たとえばあなたが……三階の通廊を調査していたことも知っている——」
「はったりだな。」と言ってクィレルは姿勢をただした。 「かまをかけても無駄だ。不愉快だ。きみにわたしを不愉快にする権利はない。 有能な魔法使いなら、あの廊下にとんでもない量の結界と網、警告と罠が総長の手ではりめぐらされてあるのに気づく。 そればかりか……あそこには、わたしも噂にすら聞いたことのないような古代の呪文や装置がしかけられている。おそらくフラメルの愛蔵品を吐きださせて手にいれたのだろう。 生前の〈名前を言ってはいけない例の男〉ですら、気づかれずに通過しようと思えば手こずるはずだ。」 思案げに指を一本ほおにあてる。 「鍵そのものは、ただのドアノブを『コロポータス』で封じたものにすぎない。入学一日目のミス・グレンジャーでもあけられる程度の強度の呪文だ。こんな分かりやすい罠には、生まれてこのかた、お目にかかったことがない。」 そして目を細める。 「あの検知網はみごとなまでの完成度だが、実用的にはやりすぎに思える。あれほどの防衛措置がなければ対抗できないような存命の人物をわたしは知らない。 あれだけのしかけで迎え撃つべき、古代魔術にたけた人物が仮に実在するのなら——
クィレルは強い関心をしめしてスネイプを見ている……かのようだったが、 口角はぴくりともしていなかった。
またしばらく無言の時間がつづく。
「だれを恐れてのことかは知らん。」とスネイプ。 「しかしダンブルドアがしかけた
「ああ、それなら……」 クィレルは退屈そうな口調にもどった。 「もう何カ月もまえにわたしが盗みだした。いまあるのは、わたしが置いたにせものだ。 ということで、気持ちだけいただいておく。」
「……それはうそだな。」
「うそだよ。」 クィレルはまた灰色の樹皮に背をあずけ、頭上にひしめきあう枝えだを見あげる。そのむこうにあるはずの夜空はほとんど見えない。 「きみがやけに無知なふりをしているから、見やぶってくるかどうか試したまでだ。」 クィレルは満足げに笑みをうかべた。
スネイプは怒りで窒息しそうな表情になった。 「
「とくには、なにも。」と言ってクィレルは視線をおろさず、木々を見つづける。 「ただ興味があっただけだ。 これからきみの謀略がどう運ぶか、見とどけさせてもらうことにしたい。そのあいだわたしは総長に口外しない——もちろん、きみがときどきわたしの頼みを聞いてくれるのが条件であることは言うまでもない。」 乾いた笑み。 「話はここまでだ。 ただ、どの陣営についているのかを正直に話す気になってくれたら、じきにまたこういう場をもうけてあげてもいい。そう、
余波:ドラコ・マルフォイと○○
虹色の半球——それ自身にこれといって色はない、エネルギーのかたまり——がスリザリン談話室の壮麗なシャンデリアの光を千々に反射し、玉虫色の模様をゆらめかせる。
半球が守っているのは、ひどくおびえた顔の少女。彼女自身はいじめ退治にかかわったこともなく、クィレル先生の模擬戦に参加したこともなく、〈防衛術〉の授業の成績はせいぜい〈可〉どまり。仮に命にかかわる状況だったとしても〈虹色の障壁〉で自衛する技量はない。
「なにやってるんだ。」とドラコ・マルフォイは言った。退屈そうな声をつとめているが、ローブのなかではすでに汗が吹きだしつつあった。杖はミリセント・ブルストロードを守る障壁のほうに向けられたままでいる。
介入することをいつのまに決めたのか、ドラコ自身わからなかった。上級生二人がミリセントに呪文を撃とうとし、談話室にいる全員がしんとしてそれを見ていたとき、手が勝手に杖にのび、障壁呪文をかけたのだった。どっと流れでたアドレナリンで心臓がばくばくし、脳はなんとかして説明をつけなければとあわてている——
上級生の二人はミリセントを囲むのをやめて、ドラコのほうを向いた。二人ともショックと怒りの混ざった表情をしている。 グレゴリーとヴィンセントはすでに杖を手にしているが、相手二人にむけてはいない。 そもそも、三人でやっても勝ち目はない。
といっても、呪文で撃たれる心配もない。わざわざ次期マルフォイ家当主を撃つバカなどどこにもいない。
ドラコはなにも、撃たれるかもしれないという恐怖からローブの内がわで汗をかいたり、見てわかるほどの汗がひたいに浮きでていないことを願ったりしてはいない。
この汗の理由は、とある陰鬱な未来が確実になりつつあることに気づいたからだった。仮にこの場はなんとか切りぬけられたとしても、このままではいつか一気に崩壊してしまう日がくる。そうなれば、ドラコは次期マルフォイ家当主でなくなるかもしれない。
「ミスター・マルフォイ。なぜそいつを守ろうとする?」と二人のうち年上らしいほうが言った。
「陰謀の首謀者が見つかったと言われて来てみれば……」と言ってドラコは〈嘲笑その二〉の表情をした。 「それが一年生のミリセント・ブルストロードだとくる。耳をうたがうよ。 どう見てもメッセンジャーにすぎないのが分からないのか!」
「で? やつらに手を貸していたのはおなじだ!」
ドラコが杖を振りあげると、〈虹色の球体〉がふっと消えた。そして退屈した声のまま言う。 「ミス・ブルストロード、きみは実際手を貸そうというつもりでやっていたのか?」
「い、いいえ。」 ミリセントは席についたまま答えた。
「自分が中継しているメッセージの最終的な宛先を知っていたのか?」
「いいえ!」
「そうか、ありがとう。 ほら、これでミス・ブルストロードが下っぱにすぎないことは分かっただろう。彼女から手をひいてくれ。 そしてミス・ブルストロード、二月の件での借りはこれで帳消しということにしてもらいたい。」 そう言ってドラコは〈薬学〉の宿題にもどる姿勢をとった。ミリセントが『借りって、なんの?』などとバカなことを言いださないようにと願いながら。
「ならなんで……」と明らかに部屋の奥のほうから声がかかった。「
いちだんと汗をかきつつ、ドラコは声のほうに目をやった。ランドルフ・リーだった。 「にせものの手紙か。どういう内容の手紙だったんだ?」とドラコ。 「『闇の女王ブルストロードとして命じます』とか、『ここで待ってます、ミリセントより』とか?」
ランドルフ・リーがくちをひらいて、一瞬ためらっているうちに——
「そんなところだろうと思った。ろくなテストにならないな、それは。それじゃ——それじゃ——」 『偽陽性』などといったハリー語をつかわずに表現しなければと思い、ドラコはあわてて考える。 「そいつらのうちだれか一人がミリセントと仲がいいだけでも、行ってしまうだろうから。」
それで事件は解決したと言いたげな態度でドラコは宿題にもどり、部屋じゅうから聞こえるひそひそ声を無視した(胸の奥の不吉な感覚は無視できなかった)。
ドラコの目が、視界のかたすみから視線をなげかけているグレゴリーをとらえた。
〈天文学〉の宿題がしっかり目にはいってはいるのに、集中できていない。 ハリー・ポッターに聞かされたことを考えたくないのなら、この教科書は最悪だ。夜空の絵を見ていると、惑星の運行について自分が知っているべきではない知識のことをつい連想してしまう。 〈天文学〉は立派な学芸であり、知恵と知識の象徴だ。問題なのは、マグル天文学者が何万何億倍も効果的な秘密の装置をもっていること。それと、ハリーから説明を聞かされても、ドラコにはそれが魔法なしでモノに〈
ドラコは星座の絵を見て思う。ほかの寮もこうなのだろうか。レイヴンクロー寮生もいつもおたがいを脅迫しあっているのだろうか。
ハリー・ポッターによると、戦場にいる兵士は自国のためにたたかっているのではないのだという。 兵士を戦場にむかわせる段階では愛国心にも効果があるかもしれないが、戦場についてから兵士がたたかうのは
そして、〈闇の王〉がいなくなった瞬間に〈死食い人〉の組織が崩壊した理由もきっとおなじで、仲間を思う関係がなかったからだろう、とハリー・ポッターはつづけて言った。
ベラトリクス・ブラックやアミカス・カロウのたぐいとマルフォイ卿とミスター・マクネアとを一カ所にあつめて、〈拷問の呪い〉で統率することはできる。 しかしひとたび〈闇の紋章〉を支配していた人物が消えれば、軍は軍でなくなり、知り合いのあつまりでしかなくなる。 父上が失敗した理由もそれだ。 実際のところ、父上がなにかしくじったというより、たがいに親しいとすらいえない〈死食い人〉のあつまりを継承しても、どうしようもなかったのだ。
ドラコはスリザリン寮を擁護すべき立ち場でありながら——スリザリン寮を
「ミスター・マルフォイ?」とドラコの机の横で床に寝ころがっているグレゴリー・ゴイルが言う。小さいながらドラコのものであるこの個室で、グレゴリーは〈転成術〉の宿題をしている。ドラコが手を貸してやる必要があることもめずらしくないからだ。
もはや気をまぎらすことができるなら、なんでもよかった。「なんだ?」
「もともと、グレンジャーをやりこめる作戦なんか立ててないんですよね?」
ドラコは胸の奥に苦にがしさと恐れの混ざった味を感じた。グレゴリーの声にもちょうどおなじひびきがあった。
「実際には助けていたんじゃないですか。グレンジャーが倒れたところで手を貸した日から。 それ以前にも、屋根から落ちかけたところを引きあげたりしたでしょう。つまりあなたは
「おいおい。」とドラコは皮肉っぽく話しはじめた。一瞬たりとも間をおかず、〈天文学〉の宿題から顔もあげず、すこしも不安げな素ぶりを見せないようにしながら。 心配していたとおりのことが起きてしまった。ただそのぶん、どういうやりとりになりそうか繰り返し考えてもいたので、どう切りだすべきか分かってもいた。 「おもしろいことを言うじゃないか。グレゴリー、おまえ自身グレンジャー司令官と決闘したこともある。あいつの呪文の威力もよく知っている。 マグル生まれごときが、おまえやセオドアや、ぼく以外のこの学年の純血者のだれよりも実力的に上だとでもいうのか? おまえこそ父上の教えを信じていないんじゃないのか? あいつは
しんとした個室のなかで時間がゆっくりと過ぎていく。ドラコはグレゴリーがどういう表情をしているか見たくてたまらなかったが、顔をあげなかった。 グレゴリーが返事するまでは、とても見ることができなかった。
そして——
「ハリー・ポッターがそう言ったから、ですか?」
グレゴリーは声をつかえさせた。やっと見てみると、目にはなみだが見えた。
この手も通じないか。
「もうどうすればいいのか……」 グレゴリーは小声で言う。 「おれはどうすればいいのか分からなくなりました。 お父上はきっと——このことを聞けば——賛成なさいませんよ!」
『ゴイル、父上が賛成なさるかどうかはおまえが決めることじゃないぞ——』
ドラコはそのせりふを想像した。想像すると、それは父上の声……父上とおなじ厳格な声で聞こえてきた。 ヴィンセントかグレゴリーがドラコにさからったときはこういう風に言えと、父上に言われていた。それが効かなければ、呪文で撃てとも。 これが対等な友人関係ではないということを、ドラコは忘れてはならない。 ドラコは主人で、二人は従僕。それをわきまえさせることができないのなら、ドラコがマルフォイ家を継承する資格はない……
「心配するな、グレゴリー。」 ドラコはできるかぎり口調をやわらげた。 「おまえはただ、ぼくの身を守ることにだけ専念していればいい。 ぼくの命令にしたがってさえいれば、だれからも責められることはない。父上からも、おまえの父さんからも。」 〈守護霊の魔法〉をかけようとするときのように、できるかぎりのぬくもりを声にこめる。 「とにかく、つぎの戦争はまえの戦争とはちがうんだ。 マルフォイ家の歴史は〈闇の王〉の台頭よりもはるかに古い。マルフォイ卿のやりかたは代によっていろいろだ。そこは父上も承知のうえだ。」
「承知のうえ、ですか? まちがいなく?」 グレゴリーの声は震えていた。
ドラコはうなづく。 「クィレル先生もな。 模擬戦はそのためにあるんだ。 クィレル先生の言うとおり、父上ではこの国をまとめあげることができない。
グレゴリーは目を手でぬぐって、手もとの〈転成術〉の宿題のほうを向いた。 「わかりました。そうおっしゃるなら。」 声はまだ震えていた。
ドラコはもう一度うなづき、友だちにうそを言ってしまったことで空虚な気持ちがするのを無視して、星ぼしに目をやった。
余波:ハーマイオニー・グレンジャーと○○
透明人間になるのはもっと
ハーマイオニーが頼みに行ったとき、ハリーはなんの説明も要求しなかった。ハーマイオニーが『不可視の』と言ったかと思うと、ハリーはもう不可視のマントをポーチから取りだしていた。 ダフネとミリセント・ブルストロードとの極秘の会合に行くのだという説明や、ほかのメンバーを守りたいからという説明を口にさせてもらうことすらできないまま、いきなり手わたされたマントを受けとるしかなかった。おそらくは〈死の秘宝〉であるこのマントを。 公平を期して言うなら……そして公平を期してあげたいのは本心でもある……ハリーはとてもいい友だちだと思えることがある。
極秘の会合のほうは、大失敗に終わった。
会合中にミリセントは自分が〈予見者〉だと主張した。
それはありえない、ということをハーマイオニーは慎重に説明した。かなりの時間をついやして、ミリセントとダフネを納得させようとした。
しかし、ミリセントにも説明してあげたとおり、予言とは制御不可能なものだ。予見者に具体的ななにかについて
そこまで話したところでミリセントをおびえさせてしまったようだったので、ハーマイオニーは腰にあてていた手のちからを抜き、気持ちを落ちつけた。そしてミリセントが協力してくれたことについては感謝しているけれど、ミリセントの指示どおりにして罠にはめられたことも何度かあったから、指示の
ミリセントから小声で返ってきたのは……
『でも……でも、あの
ミリセントは情報源の名前を言おうとしなかったので、ハーマイオニーはダフネにも問いつめないように言った。 ミリセントのおびえた表情を見てかわいそうになったというのもあるが、 ミリセントに情報をわたしていた人物を突きとめられたとしたら、こんどはこちらが翌朝枕もとに手紙を置かれるのではないかという気がしてならなかったせいでもある。
クリスマスまえの模擬戦でザビニが用意した色とりどりの関係図を見たときも、おなじ絶望感を感じたのを思いだす。……ついでに、それを自分に見せていたのがザビニだった、ということの意味がいまになってやっと分かったように思った。
人生はレイヴンクロー生にとっても複雑になりすぎることがあるらしい。
ハーマイオニーは一本の支柱につけられた黄色の大理石の螺旋階段をのぼりだした。いちおう『秘密の』階段ということになっているこれはスリザリン地下洞からレイヴンクロー塔へたどりつくための最短路のひとつであり、女子しか使うことができない。(なぜ女子だけがレイヴンクローとスリザリンのあいだをすばやく行き来する必要があるのか、ハーマイオニーはすこし不思議に思っていた。) みじかい螺旋階段をのぼりおえ、スリザリンの領土を離れてホグウォーツ城本体にもどったところで、ハーマイオニーは立ちどまってハリーのマントを脱いだ。
そしてポーチにマントを飲みこませ、右をむいて、みじかい通路に足を踏みだす。無意識にあちこちに目をむけ、警戒しながら歩いていると、暗い
——(つかのまの見当識の混乱)——
——ハーマイオニーは〈失神の呪文〉で撃たれたように全身にどっと衝撃と恐怖を感じ、思考や判断をする間もなく自動的に手が杖をとり、かまえたさきには……
……幅のひろい黒いマントがはためいていた。なかにいるのが男性か女性か分からないゆったりとした幅のマントで、その上につば広の黒い帽子がのっている。帽子の下には黒い霧が密集しているようで、そこにあるはずの顔は見えず、人なのかどうかすらわからない。
「また会ったね、ハーマイオニー。」 黒い帽子と黒い霧のなかから、こすれるような声がした。
すでに心臓は激しく脈うち、ローブは汗でびっしょりになり、くちのなかに恐怖の味がしている。 なぜか急に身体にアドレナリンが満ち、杖をにぎる手にちからがこもる。 「だれ?」
帽子がわずかにかたむく。黒い霧のなかから、塵のように乾いたささやき声が返事する。 「最後の協力者。 ほかのだれも答えないとき、答える者。 きみにとって、このホグウォーツ城のなかでただ一人の
「名前を言いなさい。」
黒いマントが回転しては戻る動作をくりかえした。 肩をすくめる動作とは似ても似つかないが、そういう意味であることは分かった。 「それがまさに謎かけなのでね。 さしあたって分からないなら、いかようにでも呼んでくれてかまわない。」
手のひらに汗がにじむ。さいわいこの杖には螺旋状の溝があり、すべりどめになっている。 「じゃあ、〈超不審者〉さん。わたしになんの用?」
「質問がまちがっているね。きみがたずねるべきは、『なにをあたえてくれるのか』だ。」
「いいえ、そんなこと、勝手に決めないで。」 ハーマイオニーはたじろがない。
高笑いが黒い霧のなかから聞こえる。 「権力でもない。富でもない。きみはそういうものにさらさら興味がない。そうだね?
「詳しそうね。じゃあ、トッツィポップスは何回なめれば味が変わるか知ってる?」〔訳注:トッツィポップスは二層構造の棒つきキャンディの商品名〕
黒い霧の黒さが増したように見えた。つぎに聞こえた声は低く、落胆した声だった。 「おや、それでは、うそのなかから真実を見わけたいという知識欲すらないと?」
「答えは百八十七回。わたしは昔、実際にやって数えてみた。」 杖が手からすべりおちそうになる。数分ではなく数時間つづけて杖をにぎっていたかのような疲労感が指にある——
「スネイプ先生は実は〈死食い人〉だ。」
それを聞いてハーマイオニーは杖を手から落としそうになった。
「ああ。」と満足げな声。「思ったとおり、興味をもってくれたね。 きみに敵対する勢力についてもっと知りたいか? それとも、きみが味方だと思っている人たちのことを教えてあげようか?」
背のたかいマントの上の黒い霧をじっと見つめながら、必死に混乱をおさえようとする。 スネイプ先生が〈死食い人〉? わたしにそんな話をするのは何者? なぜ? これはどういうこと? 「それは——」 声が震える。「それは仮に事実なら、とても深刻な問題で、わたしなんかに話していいことじゃない。なぜダンブルドア総長に話さないの?」
「ダンブルドアはスネイプを止めようとしなかった。ハーマイオニー、きみもその目で見たはずだ。 ホグウォーツは頂点から腐っている。 この学校のあらゆる問題のみなもとは、あの狂った総長だ。 きみだけが総長の欺瞞をおもてだって指摘しようとした——だからこそ、こうやってきみに話しにきたんだ。」
「なら、ハリー・ポッターにも話したんでしょうね?」 声をできるだけ平静にたもとうとする。もしこれがハリーを助けていたゴーストだったなら——
黒い霧がくびをふるように暗くなったり明るくなったりした。 「わたしはハリー・ポッターが怖くてね。 あの目の冷たさ、背後でふくれあがるあの暗黒。 ハリー・ポッターは殺人者で、彼を邪魔する者は死ぬ。 ハーマイオニー・グレンジャー、きみも彼と真剣に対立することがあればそうなるよ。彼の目のなかから暗黒が飛びだして、きみの息の根を止める。わたしには分かる。」
「だったら、あなたは知ってるふりをしてるだけ。実はその半分も知らない。」 すこし声が落ちついた。 「わたしもハリーのことが怖い。でもハリーが
「不正解。」 反対意見はいっさい受けつけないと言いたげに、切り捨てる口調。 「ハリー・ポッターはいずれきみと対立する。いずれ暗黒にのみこまれる。 涙ひとつ流さず、それと気づきもしないままに、彼がきみをぷちっと踏みにじる日がいずれ来る。」
「不正解はそっち!」 ハーマイオニーは背すじに冷たいものを感じながら、大きな声で言いかえす。 ふと、ハリーの口癖のひとつが思いうかんだ。 「自分がなにを知っていると思っているのか、なぜ知っていると思えるのか、分かってないんじゃない?」
「いずれ——」 言いなおすように間があいた。 「そのことは、いずれまた別の機会に話すことにしよう。 今日のところは、たしかにハリー・ポッターはきみの敵ではない。だがしかし、きみには危険がせまっている。」
「危険なのはたしかね。」 杖を左手にもちかえたくてしかたがない。しっかり支えてやらなければ、右腕をこのままの高さにたもつことさえできなくなりそうだ。おなじこの黒い霧を何日も見つづけでもしたかのように、あたまが痛い。なぜこんなにすぐ疲労してしまったのか分からない。
「きみはルシウス・マルフォイの目にとまったんだ。」 無感情であった声はすこし大きくなり、懸念しているような口調になった。 「きみはスリザリン寮に恥をかかせた。ルシウス・マルフォイの息子にも勝った。 それ以前に、きみの存在そのものが〈死食い人〉の同盟者たちにとって不都合だった。 マグル生まれでありながら、どの純血者よりも強力な魔術をつかうことができている。きみの存在は今回のことで世界に知れわたり、注目をあつめている。 ルシウス・マルフォイは機会をうかがって、きみの息の根をとめようとしている。実際殺すことさえいとわないかもしれない。そして彼にはそれを実行する手段がある!」
……。
「話はそれだけ?」 ブレイズ・ザビニ元連隊長やハリー・ポッターだったら、ここでするどく反問して情報を引きだそうとするところだろうが、いまのハーマイオニーにはできない。精神的に疲労していて、考えがまとまらない。 一刻もはやくここを切りぬけて、からだを休めたい。
「信じくれないのか。なぜだい? せっかく助けにきてあげたのに。」
ハーマイオニーは一歩うしろに引き、暗い
「なぜだ!」と声が高ぶる。 「せめて理由くらいは教えてくれよ! 理由さえ聞かせてくれれば——」 一度言いやめて、声がまた静かになる。 「……それで終わりにしようか。さあ、最後に理由を——」
答えてあげるべきではないような気もする。なにも言わず逃げだしたほうがいいかもしれない。いや、〈虹色の防壁〉をつくってから、走りながら大声で人を呼ぶべきかもしれない。 ただ、相手が実際傷ついたような声をしているのが気になって、ハーマイオニーは答えることにした。
「あなたがものすごくおどろおどろしくて怪しい外見をしているから。」 ハーマイオニーは声をあらげることなくそう答えた。顔のない黒い霧と黒マントにむけて、杖の照準はあわせたまま。
「それだけのことだったのか?」 おどろいたような声がかえってきた。悲しみも混ざっているようだった。 「期待はずれだよ、ハーマイオニー。 きみほどのレイヴンクロー生なら……この数十年間ホグウォーツが迎えたレイヴンクロー生のなかでもっとも優秀なきみなら、外見と中身が一致しないこともあるということくらい分かっているだろうに。」
「分かってますとも。」と言ってハーマイオニーはまた一歩さがった。杖をにぎる指にも疲労を感じる。 「でも、逆に忘れがちなのは、外見と中身が一致しないこともあるにせよ、たいていは一致するっていうこと。」
……。
「なるほどね。」と声のぬしが言うと、顔を隠していた黒い霧が消えた。その顔を認識した瞬間、ハーマイオニーは戦慄し、どっとアドレナリンが流れるのを感じ——
——(つかのまの見当識の混乱)——
——ハーマイオニーは〈失神の呪文〉で撃たれたように全身にどっと衝撃と恐怖を感じ、思考や判断をする間もなく自動的に手が杖をとり、かまえたさきには……
……光につつまれた貴婦人のすがたがあった。白いドレスが見えない風に吹かれたようにはためいていて、手も素足も見えず、顔は白いヴェールでおおわれている。全身から発せられているのは、ゴーストの光でも透明な光でもない、白いやわらかな光だった。
ハーマイオニーはそのおだやかな光景を目のあたりにして、呆然とした。なぜかは分からないが、心臓の鼓動がはげしくなり、恐怖を感じた。
「また会いましたね、ハーマイオニー。」とヴェールのむこうから、やさしげな声が聞こえてきた。 「こわがることはありません。わたしはあなたを助けるためにつかわされた、忠実なしもべです。あなたは特別な運命が約束されているのです——」
……。
……。
……。
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky