ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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注意:長いです


78章「交換不可能な価値(タブー・トレードオフ)(序)——不正」

一九九二年四月四日、土曜日。

 

デイヴィス夫妻は不安げな面持ちでクィディッチ場を一望する特別席についた——ただし、クッションつきのその椅子から今日見えるのは、飛びかうホウキたちではなく、ひたすら巨大な四角形の幕である。 真っ白な羊皮紙のような平面状のその幕についているいくつかの窓から、地上の兵士たちのすがたが映しだされることになっている。 いまのところはどの窓も一面灰色のくもりぞらの色を映しているだけだった。(雨が近そうにも見えるが、気象魔報士によれば夜まではもつことになっている。)

 

ふだんなら、保護者は校内のことについて〈口出し無用〉というのがホグウォーツの伝統である——厨房で料理がおこなわれているとき、子どもが無闇に手出ししようとすれば止められるのとおなじように。 教師と保護者の面談も、教師が親をしかりつける必要を感じたときにしかおこなわれない。 よほど特別な場合でもないかぎり、ホグウォーツ運営陣が外部に自己正当化してみせようとすることはない。 ホグウォーツ運営陣はどんなときも八百年のかがやかしい歴史に裏打ちされている。親たちにはそれがない。

 

そのため、デイヴィス夫妻はマクゴナガル副総長との面談を要求したときも内心かなりびくびくしていた。 親として怒る権利はあると分かっていながらも、当の教師が十二年と四カ月まえに二人のとある行為を発見して二週間の居残り作業の罰を課したこと、その行為がそもそもトレイシーを生みだしたのだということを思いだすと、つい及び腰になってしまう。

 

いっぽうで、『クィブラー』をかざしながら乗りこむというのは、勢いをつける意味で効果的だった。『クィブラー』の見出しには見のがしようのない大きさの文字で

 

ポッターを巡る恋の駆け引き?

ボーンズ/デイヴィス/グレンジャー

恐怖の四角関係

 

とあった。

 

交渉の結果、デイヴィス夫妻はホグウォーツのクィディッチ場の教員席の一角の席を確保した。クィディッチ場に設置されたクィレル先生特製のスクリーンの真ん前に位置する特等席だ。『この学校がどれだけめちゃくちゃなことになっているのか、この目でしっかり見せてもらいましょうか、マクゴナガル副総長!』というのが決めぜりふだった。

 

デイヴィス氏の左に、別の生徒の親が列席している。最上級品の黒ローブに身をつつむ銀髪の男性——ウィゼンガモート最大派閥の領袖、ルシウス・マルフォイがいる。

 

マルフォイ卿の左には、傷のある意地悪そうな顔をした紳士がいる。名前はジャグソン卿、と紹介があった。

 

そのむこうには、眼光するどい老年の男性チャールズ・ノット。マルフォイ卿に劣らない資産家だとも言われている。

 

デイヴィス夫人(ミセス・デイヴィス)の右には、〈元老貴族〉グリーングラス家の美貌の貴婦人とそれに輪をかけた美丈夫の当主がいる。 二人とも魔法族としてはまだ若い。衣装は灰色の絹ローブで、細かく草のかたちに刻まれた暗色のエメラルドがちりばめてある。 グリーングラス卿夫人(レイディ・グリーングラス)は異例の若隠居をした母親から議席を継いだウィゼンガモート評議員であり、重要な浮動票のひとつだとされている。 その婿は貴族でも資産家でもない家の出だが、ホグウォーツ理事の座を射止めている。

 

もうひとつ右には、えらの張った頑丈そうな体格の老魔女がいる。魔法法執行部長官アメリア・ボーンズその人だ。デイヴィス夫妻は着席するまえに握手しに行ったが、とても気さくな女性だった。

 

さらに右にはかなり年配の女性が一人。生きたハゲタカを帽子にあしらったことでブリテン魔法界のファッションシーンに激震をもたらしたオーガスタ・ロングボトムである。 『レイディ』の称号はないものの、ロングボトム家の継嗣が成人するまでは一族の全権をにぎっており、ウィゼンガモートの少数派閥の一員として存在感をはなっている。

 

マダム・ロングボトムのむこうにいるのは、ほかでもないアルバス・パーシヴァル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドア総長兼主席魔法官兼最上級裁判長。伝説のグリンデルヴァルトの討伐者、ブリテンの守護者、伝説の〈ドラゴンの血の十二の用法〉の再発見者、当代最強の魔法使いなどその称号は多岐にわたる。

 

そして右手一番端には、ホグウォーツ〈防衛術〉教授クィリナス・クィレルがクッションつきの長椅子に背をあずけてくつろいでいる。ホグウォーツ理事会の定足数をなすこの面々が同席していることを意に介さず、気楽な姿勢をとっている。よく晴れたこの土曜日、この面々がここに臨席したのはそもそも、ホグウォーツ全体でなにが起きているのかをたしかめるため……わけても、ドラコ・マルフォイ、セオドア・ノット、ダフネ・グリーングラス、スーザン・ボーンズ、ネヴィル・ロングボトムの様子をじかに見たいがためのことだった。 ついては、ハリー・ポッターの名前もくりかえし話に登場していた。

 

それともちろん、トレイシー・デイヴィスの名前も。 夫妻が挨拶の際に『トレイシーの親』だと言うと、ボーンズ長官は興味をひかれたように眉をあげた。 ジャグソン卿は一度まじまじと二人を見てからフンと鼻を鳴らした。 ルシウス・マルフォイは丁重に挨拶をかえしつつも、その笑みにはどこか哀れなものを見て楽しむようないやらしさがあった。

 

デイヴィス夫妻自身はといえば、ファッジ大臣の名前に杖をあてたとき以来、投票らしい投票をしたことがなく、財産はグリンゴッツの金庫に保管している三百ガリオンがすべて。かたや〈薬〉(ポーション)屋の(コルドロン)売り、かたや〈万眼鏡(オムニオキュラー)〉の製造業をなりわいとしている。二人して肩をせまくしてこのクッションつきの長椅子に座り、もっとましなローブを着てくるんだったと後悔するばかりだった。

 

光と影のある巨大な灰色の雲が上空にそびえ、嵐の到来をつげている。 ただ、いまのところ稲妻の光や雷鳴はなく、予告じみた水滴だけがぽつぽつと落ちてきている。

 

◆ ◆ ◆

 

〈太陽部隊〉はとある森のなかに割りあてられた地点をめざして、行軍をはじめた。実際には行軍というより、ただゆっくり歩いているのに近い。 戦闘開始まえに疲労をためてもいいことはないし、四月とあって風は涼しくはあるが、いやになるほど湿気がある。 先頭では黄色の炎がひとつふらふらと飛んでいて、一行の速度にあわせて行く手を案内している。

 

薄光の森のなかをすすむあいだ、スーザン・ボーンズはしきりに〈太陽〉軍司令官ハーマイオニーのほうへ目をやった。 スネイプ先生からの仕打ちがよほどこたえたのか、 ハーマイオニーは〈太陽部隊〉の〈全体作戦会議〉を欠席していた。そればかりか、あとでスーザンがなぐさめに行くと、ハーマイオニーは会議の時間が来ていたことに気づいていなかったと漏らした。ふだんのハーマイオニーにはまずありえない言動だ。そして見た目にも、トイレの個室にディメンターといっしょに閉じこめられて三日間をすごしたあとのように、疲弊し、おびえた様子だった。 もうすぐはじまる戦闘に全霊をそそいでいるべきいまでさえ、ハーマイオニーは落ちつきなくあちこちに目をうごかしている。まるで茂みから〈闇の魔術師〉が飛びでてきてハーマイオニーを生けにえにするのを待ちかえまえているかのように。

 

「マグル製品が禁止されたおかげで、ぼくらにできることはだいぶ少なくなった。」とアンソニー・ゴルドスタインは重い声で言う。その声をつかうことで、あえて悲観的に言っているのだということを伝えている。 「〈転成術〉で網をつくって敵に投げつけるっていう戦法も考えてはみたけれど——」

 

「だめだろうね。」と言って、アーニー・マクミランはアンソニーに輪をかけて真剣な表情でくびをふる。 「呪文とおなじで、よければすむことだから。」

 

アンソニーはうなづいた。 「そういうこと。 シェイマス、なにかいい案は?」

 

元〈カオス〉軍士官のシェイマス・フィネガン隊長は〈太陽部隊〉の隊列に混じって行軍することにまだあまり慣れていない様子だ。 「あいにく。おれはもっと大局的に考える参謀タイプなんだ。」

 

「大局的に考える参謀はぼくだぞ。」とロン・ウィーズリーが不服そうに言った。

 

「軍は三つあるのよ。」と〈太陽〉軍司令官がとげのある声で言う。 「つまり、わたしたちは()()の敵を一度に相手する。つまり、参謀役も一人じゃたりない。つまり、だまりなさい、ロン!」

 

ロンははっとして心配そうな目で司令官を見た。 「どうしたんだ。スネイプのことは、あんまり気にしないほうがいいよ——」

 

「司令官はどう思う?」とスーザンは大声で割りこんだ。 「ほら、けっきょくまだ、作戦らしい作戦はできてないじゃない。」  ハーマイオニーが不在だったので、ロンとアンソニーそれぞれが自分に主導権があると思いこんだ結果、作戦会議はもののみごとに失敗していた。

 

「作戦はなくてもいいんじゃない?」と司令官はどこかうわの(そら)な声で言う。 「あなたとわたしとラヴェンダーとパーヴァティとハンナとダフネとロンとアーニーとアンソニーと、それとフィネガン隊長までいるんだから。」

 

「それは——」とアンソニーが言いかけた。

 

「その戦略でいいんじゃないかな。」と言ってロンがうなづく。 「これだけ優秀な兵士がたくさんいれば、ほかの二軍の合計に匹敵するくらいだ。 〈カオス〉軍にのこってるのは、ポッターとロングボトムとノットだけ——あ、ザビニもいたか——」

 

「トレイシーもね。」とハーマイオニー。

 

その名前を聞いて、何人かが不安げにごくりとした。

 

「変な風に考えないでよ。」 スーザンはぴしゃりと言う。「トレイシーはS.P.H.E.W.にいたから戦闘経験が豊富。司令官が言ってるのは、それだけだから。」

 

「それでも……」と言ってアーニーは真剣な表情でスーザンを見る。 「やっぱりボーンズ隊長には、〈カオス〉軍を担当するグループについていってほしいな。 弱きを助けるときにしか超魔法は発動しない、っていうのは分かったけど——もしもミス・デイヴィスがさ、暴発して、だれかの魂を食べようとしたときは——」

 

「わかった、まかせて。」  といっても、いまのスーザンは〈変化師(メタモルフメイガス)〉と入れかわってはいない。けれど、それを言うならトレイシーだって、〈変身薬(ポリジュース)〉を飲んだダンブルドアかだれかと入れかわっているわけじゃないはず。

 

フィネガン隊長が低い一種のガラガラ声で、 「きみらみんな、懐疑心がなさすぎやしないか。」 と言って片手をあげ、親指と人差し指をぎりぎりのところまで近づけて、アーニーに向ける。

 

横にいるアンソニー・ゴルドスタインがなぜか発作的にむせている。

 

「なにが言いたいんだよ?」とアーニー。

 

「いや、これは、ポッター司令官の口癖みたいなものなんだけど。」とフィネガン隊長が言う。 「〈カオス軍団〉に参加してしばらくは、自分以外の全員が狂ってるように見える。でも何カ月かすると、実は逆で、〈カオス軍団〉()()の全員が狂ってるんだということに気づく——」

 

「もう一回言うぞ。」とロンが言う。 「事前になにも〈転成〉せず、消耗を避ける。敵がなにかしてきたら対応して、数で押す。この戦略でいいと思う。」

 

「わかった。それでいきましょう。」とハーマイオニー。

 

「でも——」と言ってアンソニーは一度ロンをにらみつける。 「でも司令官、ハリー・ポッターには兵士が()()()()()()()()。 〈ドラゴン〉とうちは二十八人ずつ。 ハリーはそれをよく分かってるから、きっとなにかとんでもない戦法を考えてくるんじゃないか——」

 

「とんでもない戦法って、どんな?」 ハーマイオニーがいらいらとした様子で問いつめる。 「相手がなにをしかけてくるか分からないなら、一斉に〈解呪(フィニート)〉できるように魔法力を温存したほうがまし。前回もそうしていれば、あんなことにはならなかったんだから!」

 

スーザンはハーマイオニーの肩にそっと手をあてた。 「グレンジャー司令官? 戦闘がはじまるまえにちょっと休んでおいたら?」

 

てっきり反論がかえってくるだろうと思っていたが、ハーマイオニーはただうなづいて、〈太陽部隊〉士官集団から離れていった。目はちらちらと森のなかや空にむいていた。

 

スーザンはそのあとを追いかける。 司令官が士官集団から追いだされたかのような格好では、しめしがつかない。

 

「ハーマイオニー?」と、ある程度離れた場所まで来たところでそっと声をかける。 「しっかりしてね。 ここを監督してるのはスネイプじゃなくてクィレル先生。クィレル先生は、あなたにもほかのだれにもけがをさせたりしない。」

 

「そんなこと言われても、どうしようもないの。」  声が弱よわしい。

 

二人は速度をあげ、兵士を何人か遠まきに追い越し、隊列の外周にまわり、周囲の木々に目をくばっていく。

 

「スーザン?」 ほかの兵士たちからいっそう離れたところで、ハーマイオニーがそっと声をかけてきた。 「ダフネがね、ドラコ・マルフォイの行動には裏があるって言ってたでしょう。あなたもそう思う?」

 

「思う。」 考えるまでもなく即座にこたえがでた。 「そりゃあ、マ・ル・フ・ォ・イって名前を見ればね。」

 

ハーマイオニーは、まるでだれかに見られていないか心配するように左右に目をやった。そんなことをすれば、かえって気づかれやすくなってしまうというのに。 「スネイプがああしたのも、マルフォイの差しがねだったりすると思う?」

 

「むしろスネイプが黒幕なのかも……」と言って、スーザンはアメリアおばさんの家の夕食で聞いた会話を思いだしながら考える。 「それか、ルシウス・マルフォイが黒幕で二人は駒にすぎないとか。」  そう思うと同時にスーザンは背すじにすこし、冷たいものを感じた。 急に、『いまは模擬戦に集中しろ』というのが無理な注文だったような気がしてきた。 「でも、どうして? なにかそういう証拠を見つけたとか?」

 

ハーマイオニーはくびを横にふった。 「いいえ。」  泣きだしそうな声だった。 「ただ——ひとりで考えて——そんな気がしただけ。」

 

◆ ◆ ◆

 

司令官ドラコ・マルフォイが率いる〈ドラゴン旅団〉が割りあてられたのは、ホグウォーツに近い地点。森のなかを赤い炎に案内されたどりついついたその場所で一同は待機していた。

 

ドラコの右には副司令官パドマ・パティルがいる。彼女はドラコが失神させられたときに全軍を指揮したこともある。 うしろにはヴィンセント・クラッブ。クラッブ家は歴史をさかのぼれる範囲でずっとマルフォイ家に仕えてきた家柄だ。筋肉質な体格で、戦闘がはじまっていようがいまいが、いつもどおり周囲の警戒をおこたらない。 そのうしろにはグレゴリー・ゴイルが、〈ドラゴン旅団〉に支給された二本のホウキのそばに待機している。ゴイル家はマルフォイ家に奉仕した歴史の長さではクラッブ家におよばないとしても、奉仕の質ではおとらない。

 

ドラコの左には、あらたに加わったグリフィンドール生ディーン・トマス。彼は父親を知らず、泥血なのか半純血なのかも分からない。

 

ハリーはわざとディーン・トマスを送りこんできたにちがいない。 〈ドラゴン旅団〉に転籍してきた元〈カオス〉兵はもう三人。その全員が、ドラコが元士官ディーン・トマスをほんのすこしでも侮辱する瞬間を見のがさないよう、目を光らせている。

 

これを妨害工作(サボタージュ)と見ることもできるが、そう単純な話ではないはずだ、とドラコは思う。 ハリーはもう一人の士官フィネガンを〈太陽部隊〉に送った。クィレル先生は、士官を一人放出しろとしか言っていないにもかかわらず。 これもやはり、わざとだ。放出したのはハリーにとって一番不用な兵士()()()()、という明確なメッセージだ。

 

ある意味では、むしろ不用品あつかいされて送られてきた兵士であったほうが、ドラコとしては忠誠心を勝ちとりやすかったかもしれない。 別の意味では……。どうも表現しにくい。 ハリーは優秀な兵士をえらび、兵士当人のプライドを傷つけないままこちらに送りこんだのだとすれば……いや、もっとなにかある。 ハリーは兵士の気持ちを尊重しているように見せたかったということか。いや、もっとなにかある。 ハリーはフェアプレイをしようとしている……だけでもない。ハリーはなにか……きっと、スリザリン寮の流儀とは正反対のやりかたでゲームをしようとしているのではないか。

 

そう思ってドラコはトマスをほんのすこしでも侮辱することのないようにした。かわりに自分のすぐそばに置き、パドマとドラコ以外のだれにもしたがう必要のない地位をあたえた。 これは昇進ではなくテストだということを、トマス本人にもほかの全員にもつたえておいた。 それだけの地位にふさわしい人間であることをみずからの働きを通じて証明しろ、しかしそのための機会は十分にあたえてやる、ということだ。就任の儀式でそう聞かされて、トマスはおどろいたようだった(〈カオス軍団〉にはそういう儀式がないらしい、とドラコは聞いていた)が、すこし姿勢をただしてからうなづいた。

 

それからトマスは〈ドラゴン旅団〉の演習で優秀な成績をおさめ、〈ドラゴン旅団〉の広い司令官室での戦略会議に出席を許された。 会議がはじまって数分してから、パドマがふと——ごくさりげない言いかたで——〈カオス軍団〉を攻略するアイデアはなにかないかと、トマスにたずねた。

 

ディーン・トマスはにっこりとして、マルフォイ司令官なら部下にそうたずねさせるだろうという予想つきでハリーから託されていた返事を披露した。その返事は、『〈ドラゴン旅団〉がどういう点で〈カオス軍団〉に対して比較優位にあるか、考えてみろ』というものだった。つまり——ドラコにできること、〈ドラゴン旅団〉にできることのなかで、〈カオス軍団〉が太刀打ちできないようなことを見つけろ——そしてそれを存分に活用しろ、ということだった。 ディーン・トマス自身は、なにが優位な点なのかについてはこころあたりがないが、〈カオス〉を倒せそうなアイデアを思いついたら進言する、と言った。それもハリーの命令だった、とも。

 

『はぁ』とドラコは内心ためいきをついた。もちろん声にはださず。 ともかく、実際いい助言ではあったので、ドラコは個室の机で羽ペンと羊皮紙をまえにして、比較優位と呼べような点をリスト化してみた。

 

そして、自分でもそう簡単にいくとは思わなかったのだが、使えそうなアイデアが浮かんだ。しかも一つではなく、二つも。

 

いつになく重おもしく、空虚な鐘の音が森にひびく。 その瞬間、乗り手二人が「あがれ!」と言ってホウキに飛びのり、灰色の空をかけあがった。

 

◆ ◆ ◆

 

デイヴィス夫妻は肩をよせあったまま、すこしうなだれていた。けっして緊張がとけたのではなく、単純に筋肉の疲労が限界になったのだった。 目のまえには、大きな窓が三つついた巨大な白い羊皮紙がある。窓はまるで森へ通じる穴のように見え、三軍それぞれの行進の様子が映しだされている。 それとは別に小さめの窓もいくつかあり、合計六人のホウキの乗り手が映しだされている。羊皮紙のすみには、森全体に対する軍や斥候の位置を光点でしめした地図がおかれている。

 

太陽(サンシャイン)〉軍の窓では、グレンジャー司令官と配下の隊長たちが中央から兵士たちを率いている。それを守っている『コンテゴ』の幕の列と多数の魔女が目につく。 〈防衛術〉教授の説明によれば、〈太陽部隊〉は自分たちが今回熟練の兵士を多くしたがえて戦力で優位に立っていることを理解しており、奇襲をふせぐ手をとっているのだという。 その点をのぞけば、〈太陽〉軍は戦力を温存しつつ着実に前進をつづけている。

 

マルフォイ司令官の軍では、〈転成術〉の成績がよい者を中心にしてこぞって落ち葉をひろい、それでなにかを〈転成〉している……。パドマ・パティルの手もとを見ると、ほぼ完成したものがある。左手用の留め具つき手袋のようだった。(窓がズームして手もとを見せていた。)

 

平坦な表情でスクリーンを見ているジャグソン卿が、くちから軽蔑を吐きだすような声で話しだす。 「ルシウス、あれはなんのつもりかね?」

 

ドラコ・マルフォイの右どなりでパドマ・パティルが手袋を完成させ、それをささげもののように司令官に献上した。

 

「わたしも知らされていない。」とルシウス・マルフォイは静かに、貴族的な雰囲気をくずさずに返事する。「だが、あの子ならそれなりの勝算があってのことにちがいない。」

 

〈ドラゴン旅団〉の兵士全員が注視するなか、パドマが自分の左手に手袋をはめ、留め具をしめ、ドラコ・マルフォイに差しだした。ドラコ・マルフォイはその場で何度か深く息をついてから杖をかかげ、八段階の動作を終えてから、大声で「『コロポータス』!」と言った。

 

パドマは手袋をした手をあげて、指をまげのばししてから、ドラコ・マルフォイに一礼した。ドラコ・マルフォイも軽い目礼で返したが、すこし姿勢がふらついていた。 パドマはドラコのとなりの位置にもどり、〈ドラゴン〉軍は行軍を再開した。

 

「そろそろどなたか、説明いただけるとありがたいのですが?」とオーガスタ・ロングボトムが言った。 アメリア・ボーンズはやや眉をひそめてスクリーンを見つめている。

 

「どうやら、なんらかの理由があって……」とクィレル教授の愉快げな声がする。 「マルフォイ家の坊ちゃんはとても一年生とは思えない強力な魔法をかけることができるらしい。 すべては一点のけがれもない血統のたまものでしょうな、もちろん。 まさかマルフォイ卿ともあろうおひとが、未成年魔法の法律にあからさまに違反して、ホグウォーツ入学まえのご子息に杖を持たせるはずはあるまい。」

 

「ほのめかしのしかたには気をつけたまえ、とだけ言っておこう。」とルシウス・マルフォイが冷ややかに言う。

 

「それはご親切に。 ……『コロポータス』の封印に対し『解呪』(フィニート・インカンターテム)は通用しない。 封印とつりあうだけの強度の『アロホモーラ』が必要になる。 『アロホモーラ』で解除されないかぎり、あの封印をかけられた手袋は相当の物理的衝撃に耐え、〈睡眠の呪文〉と〈失神の呪文〉をはねかえす。 そしてミスター・ポッターにもミス・グレンジャーにも同等の強度の解除呪文をかけるだけの実力はない。つまりこの戦場にかぎって言えば、あの封印は敵なしだ。 『コロポータス』は本来そういう用途のためにつくられた呪文ではないし、ミスター・マルフォイにあれを教えた人物も、緊急退避用にというつもりでしかなかったにちがいない。 ミスター・マルフォイはだいぶ発想力がついてきたとみえますな。」

 

そこまで聞いているうちに、座っているルシウス・マルフォイの背すじがだんだんのび、あたまもはっきりと上がった。「あの子は歴代最高のマルフォイ家当主になる。」 声にも誇らしげなひびきがあった。

 

「皮肉なのに。」とオーガスタ・ロングボトムが聞こえないように言った。 アメリア・ボーンズは笑い、デイヴィス氏も思わず笑いそうになってしまったが、寸前のところで思いとどまって、咳ばらいでしのいだ。

 

「おっしゃるとおり。」 クィレル教授はそう言うが、だれにむけて言ったのかは不明だった。 「当人には申しわけないが、ミスター・マルフォイはまだ発想力の点では初心者。そのせいで、いかにもレイヴンクロー的なあやまちを犯してしまったようだ。」

 

「ほう、そのあやまちとは?」とルシウス・マルフォイがまた冷ややかな口調にもどって言った。

 

クィレル教授は椅子に背をあずけている。あわい水色の目が一度焦点をはずすと、スクリーン上のひとつの窓の視点が切りかわり、ドラコ・マルフォイのひたいの汗を拡大して映しだした。 「ミスター・マルフォイは魅力的なアイデアを思いつくことができた。そう思いこんで、実用上いろいろな欠点のあるアイデアであることを見すごしてしまった。」

 

「どういうことか、どなたか説明していただけません? ……この席にいるのは、そういう分野に詳しいかたばかりではないことをお忘れなく。」とグリーングラス卿夫人が言った。

 

アメリア・ボーンズがどこか乾いた声で話しだす。 「兵士はあれをつけていると、かわすべき呪文も受けとめようとしたくなってしまう。 受けとめる訓練をまだろくにしていないなら、なおさら。 そして自軍でもっとも優秀な戦士にあれだけの仕事をさせてエネルギーを消耗させるのは損。」

 

クィレル教授は魔法法執行部長官にむけて軽く首肯してみせた。 「まさしく。 ミスター・マルフォイはまだアイデアをうみだすことに慣れていない。そのため、ひとつ案を思いついた時点で、やりとげた気になってしまったようだ。 本来なら、まず十分な数のアイデアを思いついてから、魅力的ながらも実用性に劣るアイデアを容赦なく切り捨てるという段階を踏まねばらならない。 彼はまだ、必要に応じてつぎつぎにアイデアをだす能力が自分にあると信じることができていない。 つまりいまわれわれが見せられているのは、ミスター・マルフォイの最良のアイデアではなく、唯一のアイデアというわけだ。」

 

マルフォイ卿はスクリーンに視線をもどした。これでクィレル教授は存在する権利を使いはたしたとでも言いたげな態度で。

 

「しかし——」とグリーングラス卿が言う。「しかし、ハリー・ポッターはいったいあそこでなにを——」

 

◆ ◆ ◆

 

〈カオス軍団〉にのこった兵士十六人が——いや、のこった十五人とブレイズ・ザビニが——のしのしと森のなかを進軍していく。まだ乾いた土を踏む足音がする。 曇天のため森にいろどりはなく、迷彩服がふだんよりもよく背景にとけこんでいる。

 

〈カオス軍団〉十六名に対して〈ドラゴン旅団〉二十八名と〈太陽部隊〉二十八名。

 

下馬評では、これだけ不利な状況におかれて〈カオス〉が負けることはまずありえない、という意見が一般的だった。 〈カオス〉軍司令官ならこういう状況下できっとなにか()()なことを思いつくにちがいない、と。

 

いつでも必要なときに帽子から奇跡をとりだすことができる、という期待をされるのは、どこか悪夢じみている。不可能を可能にすることができないだけで()()()()()()()()()()()()()()()と思われてしまうのだから……。

 

ハリーは『プレッシャーをかけるにしてもやりすぎだ』という苦情をクィレル先生につたえようかとも思ったが、意味がないと判断した。 ハリーの想像のなかでは、クィレル先生はそう聞くとひどく不愉快そうな表情で『これはきみなら十分解決できる問題だ。挑戦しようともしないのか?』と言って、クィレル点を数百点減点するだけだ。

 

ホウキが二本、上空から隊列の周囲を警戒している。その一人、テス・ウォルシュが「友軍です!」とさけんだ。一瞬間があいてから、もう一言、「ジンジャースナップ!」

 

数秒後、コードネーム『ジンジャースナップ』を自称する女子兵士が両手にいっぱいのドングリをもって帰投した。ジンジャースナップはネヴィルが見つけたオークの木までひとっ走りしてきたのだった。森は気温は低いが湿度があるので、すこし汗をかいている。 シャノンが制服のシャツの首部分をむすんだもの(〈転成術〉をつかうまでもなく作れる即席の袋である)を持って待っているところへ、ジンジャースナップが近づいていく。 ジンジャースナップが両手をシャツの上にもっていってドングリを落とそうとしたところで、シャノンが笑ってシャツを右に振る。ジンジャースナップがもう一度落とそうとすると、また左に振る。そこで士官のノットが「ミス・フリードマン!」としかりつけたので、シャノンはためいきをついて、動くのをやめた。 ジンジャースナップは収穫を袋にあずけると、またドングリを集めにいった。

 

背景のどこかで、エリー・ナイトが〈カオス軍団〉行進曲を独自に改変したものを歌っている。 のこりの兵士もオリジナルを知っているにもかかわらず、約半数がエリー・ナイトにあわせて歌おうとしている。 そのちかくで、〈転成術〉の成績がいいニタ・バーディーンがまた一つ緑色のサングラスをつくり、アダム・バーリンガーに手わたした。アダム・バーリンガーはそのサングラスをたたんで制服のポケットにいれた。 雲の多い天気にもかかわらず、ほかの何人かはもらったサングラスをすでにかけている。

 

この一連の作業の背後にはものすごく複雑でおもしろい理由があるはずだと思うだろうか。それで正解だ。

 

二日まえの放課後、夕食まえの時間、ハリーは書棚が立ちならぶトランクの最下層で、最近入手した快適な揺り椅子(ロッキングチェア)に腰をおろし、一人静かに出力(パワー)について考えていた。

 

十六名の〈カオス〉兵で二十八名の〈太陽〉兵と二十八名の〈ドラゴン〉兵を倒すには、出力を増幅するなにかが必要だ。 戦術を工夫してもできることには限界がある。 なにか秘密兵器がなければならない。無敵の秘密兵器か、せめて、そう簡単に止められないようななにかが。

 

〈魔法省〉の命令で、マグル製品は校内の模擬戦で使用禁止にされた。 それ以外に巧妙な予想外の呪文を使おうとしても、二倍の物量を有する敵が相手だと、力技の〈解呪(フィニート)〉で突破されるのがオチだ。 前回〈太陽部隊〉が鎖かたびらに対してその戦術をつかいそこねたのは事実だが、クィレル先生にあそこまではっきり言われて、また見おとすことはありえない。 『フィニート・インカンターテム』は力技の対抗呪文(カウンタースペル)であり、対象の呪文と同等以上の魔法力をかけてはじめて打ち消しの効果がでる……のだが、相手の兵力がこちらを大幅に上回る場合、また次元のちがう軍事的課題が出現する。 こちらがなにをしようが相手は『フィニート』で打ち消すことができ、残余の魔法力で十分防壁を用意して〈睡眠の呪文〉を連打することができるのだ。

 

これを解決できるとすれば、どうにかして通常のホグウォーツ一年生の集団にだせないような……敵が『フィニート』しきれないほどの出力を引きだすしかない。

 

ということで、ネヴィルに『()()()()()()()()生けにえの儀式がどこかにあったりしないか』とたずねてみたところ——

 

それからひとしきり大声で二人がやりあって、ハリーはようやく〈不破の誓い〉のことを引きあいにだすのをあきらめ、イメージ戦略的にはたしかにこの方向にすすむのはやめるべきだ、ということを認めた。そして落ちついて考えれば、実はそこまでやる必要もない、ということに気づいた。 自分自身の魔法力の限界を超えた出力を引きだす方法なら、授業でちゃんとおそわっている。

 

ひとは自分の目のまえにあるものを理解できていないことがある。適切な問いをたてないかぎり、理解できないことがある。

 

〈防衛術〉、〈操作魔法術(チャームズ)〉、〈転成術〉(トランスフィギュレイション)〈薬学〉(ポーションズ)、〈魔法史学〉、〈天文学〉、〈ホウキ飛行術〉、〈薬草学〉……。

 

「敵影!」と上空から声が飛んだ。

 

◆ ◆ ◆

 

ネヴィル・ロングボトムはおばあちゃんに観戦されていることをまったく知らなかった。知らなかったおかげで、なにを気にすることもなく、思いきり雄叫びをあげたり、『ルミノス』を三秒ごとに撃ちながら木々のあいまを突き抜けてグレゴリー・ゴイルを追跡したりしたりすることができていた。

 

(「あの子は——」とオーガスタ・ロングボトムが不安と驚嘆が半分半分の表情で言う。「あの子は高所恐怖症だったはず!」)

 

(「時間が解決してくれることもあります。」 アメリア・ボーンズは値ぶみするように大スクリーンにまなざしを向けている。 「……あるいは、勇気を身につけたのか。どちらも実質的にはおなじこと。」

 

ちらりと赤い光が見え——

 

ネヴィルはよけた。あやうく木に衝突しそうだったが、なんとかよけた。 それから枝も()()()()()よけたが、よけられなかった枝で顔をしたたかに打った。

 

ミスター・ゴイルのホウキはみるみる遠ざかっていく——二人のホウキはまったくおなじ型で、ミスター・ゴイルのほうがネヴィルより体重が重いというのに、なぜかネヴィルは追いつけない。 なので減速し、うしろをむいて、森をぬけ〈カオス軍団〉が行軍している場所へと急ぐ。

 

二十秒後——エキサイティングな追跡ではあったが、そう長く飛んではいなかった——ネヴィルは友軍のもとへもどり、ホウキをおりて、しばらく地上を歩いた。

 

「ネヴィル——」と司令官の声がしたが、まだ距離がある。森のなかをハリーは一歩一歩慎重にすすんできている。杖のさきには時間をかけて〈転成〉している物体があり、完成にちかづいている。 そのとなりから、すこし小さなおなじ物体をつくろうとしているブレイズ・ザビニが、よろよろと〈亡者〉のようにして出てきた。 「ネヴィル——無理はするなって言っただろう——」

 

「無理じゃないよ。」と言ってネヴィルはホウキを持つ手を見おろした。手ばかりか腕全体が震えていた。 それでも、〈カオス〉軍のなかに毎日ミスター・ディゴリーに一時間稽古をつけてもらって、さらに一時間一人で射撃の練習をしていた人は、ほかにいない。だとすれば、空中射撃をさせるなら、ホウキ飛行が得意でないことを勘案してもネヴィルがおそらく一番適任だ。

 

「よかったぞ、ネヴィル。」と先頭のセオドアが言った。セオドアは下着のシャツ一枚で、森のなかを行軍する〈カオス軍団〉の先頭に立っている。

 

(オーガスタ・ロングボトムとチャールズ・ノットが思わずおどろきをあらわにおたがいを見あったが、その瞬間になにかに刺されたかのように、すぐに横をむいて目をそらした。)

 

ネヴィルは数度深く呼吸して、手の震えをとめ、考えようとした。 長時間の〈転成術〉をしている最中で、戦略を考える余力がないかもしれないハリーにかわって。 「ノット士官、〈ドラゴン旅団〉はなんのつもりであんなことをしたんだと思う? あちらはホウキを一機うしなっただけで——」  〈ドラゴン〉軍は陽動の攻撃をしかけることで、ミスター・ゴイルが森のなかから接近する余地をつくった。ネヴィルはぎりぎりになるまで、攻撃してくるホウキが()()いることに気づかなかった。それでも、〈カオス軍団〉はゴイルでないほうの乗り手を撃ってしとめることができた。 こうだから、ふつう交戦開始まえにホウキを敵地に乗りこませることはしない。地上から集中砲火をうけることが分かっているからだ。 「……なんの戦果もなかったように見えるんだけど?」

 

「そう!」とトレイシー・デイヴィスが誇らしげに言う。 ポッター司令官のそばについて、杖を低くかまえて周囲の森に目をくばりながら歩いている。 「ミスター・ゴイルの呪文がザビニにあたりかけたところで、あたしが〈虹色の球体〉(プリズマティック・スフィア)を飛ばして間にあった。もうかたほうの腕の方向からして、司令官もいっしょに仕留めようとしてたんだと思う。」  そう言ってトレイシーは獰猛な笑みをした。 「ミスター・ゴイルは〈破壊のドリルの呪文〉で対抗しようとしたけど、あたしの闇の魔法力にはとうていかなわないと気づいて顔を真っ青にしてたわ。フハハハハ!」

 

何人かそれにあわせて笑った〈カオス〉兵もいたが、ネヴィルはなにかいやな予感がしてきた。ひとつまちがえば、大惨事になるところだったのだ。仮にこの二人の〈転成術〉がミスター・ゴイルに妨害されていたら——

 

◆ ◆ ◆

 

「報告せよ!」と〈ドラゴン〉軍司令官として言うドラコ。疲労しているが、見た目にはそうさとられないように注意している。〈施錠の魔法〉をかけたのはここまでで十七個。まださきは長い。

 

グレゴリーのひたいに汗の粒が見える。 「ディラン・ヴォーンがやられました。 ハリー・ポッターとブレイズ・ザビニがそれぞれ、黒灰色の丸いなにかを〈転成〉していました。まだ未完成品のようでしたが、大きくてなかが空洞の……(コルドロン)のようなかたちでした。 かたちは同じですが、ザビニのほうは小さめ、ポッターは大きめでした。トレイシー・デイヴィスに邪魔されて、二人ともしとめることができず、〈転成〉を止めることもできませんでした。 敵のホウキはネヴィル・ロングボトムで、飛ぶのはまだへたですが、射撃はかなり正確でした。」

 

ドラコは報告を聞いて、眉をひそめ、それからパドマとディーン・トマスをちらりと見た。二人はそれぞれくびを横にふった。だれも大きくて灰色の釜型のものにこころあたりはないらしい。

 

「ほかには?」とドラコ。 もしこれだけなら、ホウキ一機を無駄死にさせてしまったことになる——

 

「もうひとつだけ妙な点が。〈カオス〉兵の何人かがなにか……ゴーグルみたいなものをつけていたんですが……?」

 

ドラコは考えはじめた。そのせいで、自分が足を止めたことにも、〈ドラゴン旅団〉の全員がいっしょに止まったことにも気づかなかった。

 

「そのゴーグルになにか特別なところはなかったか?」

 

「そうですね……たしか……色が緑色だったかと?」

 

「わかった。」と言って、ドラコはやはり無意識のうちに歩きだし、兵士たちもそれにつづいた。 「戦略を変更する。〈カオス軍団〉にむけて派遣する兵士は十四名から十一名に減らす。 むこうは工夫しているようだが、こちらにはすでに対応策がある。人数的にはそれで十分倒せるはずだ。」  これは賭けだが、三つどもえの戦闘を勝ちぬきたければ、賭けにでるべきときもある。

 

「もう〈カオス〉の作戦が読めたんですか?」  ミスター・トマスはかなりおどろいている。

 

「どういう作戦だったの?」とパドマ。

 

「まだぜんぜん読めていない。」と言ってドラコは優雅なしかたでにやりとした。 「それでもひとつ、当然ためしてみるべき手はある。」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは慎重にドングリをすくって、完成したばかりの釜のなかにいれていく。 まず必要な水については、手近な水源を探す斥候を数名すでに派遣してある。 森を歩いているあいだにも陥没孔やちょっとした小川はいくつも見かけたし、そう長くはかからないはず。 別の斥候がもってきてくれたまっすぐな棒きれは、攪拌棒につかえそうだ。だから棒を〈転成〉する必要はない。

 

ひとは自分の目のまえにあるものを理解できていないことがある。適切な問いをたてないかぎり、理解できないことがある。

 

『一年生としての限界を超えた魔法力を発揮するためには、どうすればいいか?』

 

〈薬学〉の危険性をつたえる目的で、スネイプ先生が授業中に逸話をひとつ紹介したことがある(かわいらしい恋ごころとも呼べる話だったが、スネイプ先生は表情も声も嘲笑まじりで、くだらない愚行と見なしているようだった)。ボーバトンに、厳重に規制された高価な材料を盗み、〈変身薬(ポリジュース)〉を調合しようとした二年生女子がいた。とある目的で別の女子のすがたを借りようとしていたのだが、その目的はここではおいておこう。 彼女は〈変身薬〉にうっかり()()()()を混入させてしまい、しかも即座に癒者の診察をうけにいくべきところ、自然になおることを期待してトイレに身を隠した。最終的には隠れているところを発見されたが、その時点ですでに手遅れな段階にまで完了していた変身を巻き戻すことはできず、以来、ネコと人間の雑種として一生を送るはめになったという。

 

ハリーはその話が()()()()()()にずっと気づいていなかったが、適切な問いをもてたことで、気づくことができた。未熟な魔法使いは強力な呪文をつかえないが、はるかに強力な効果のある(ポーション)をつくることはできる、ということだ。 〈変身薬(ポリジュース)〉は最上級に強力な薬とされている……が、N.E.W.T.水準に分類されているのは、一定の年齢に達していない人の魔法力では調合できないからではなく、手技の難度や失敗した場合のリスクの大きさを考えてのことらしい。

 

模擬戦中に(ポーション)を調合しようとした軍はまだひとつもない。 だが、クィレル先生の基準では、現実の戦争でやれるようなことはほとんどなんでも許される。だったら問題ないはず。 実際クィレル先生は授業で、『不正も技術のうち。……というより、勝者の技術を敗者が不正と呼ぶだけのこと。効果的に不正を成功させた者には、クィレル点をおまけすることを約束しよう』と言っていた。 原理的には、(コルドロン)を数個〈転成〉して、その場で入手できるものをあつめて調合することは、なんら非現実的ではない。交戦するまえに、そうするだけの時間さえあれば。

 

そう考えて、ハリーは『魔法水薬・油薬』の本を手に、もとめる条件にあてはまる(ポーション)を探す作業をはじめたのだった。安全かつ有用で、開戦まえのわずかな時間に調合できるもの。対抗呪文(カウンタースペル)が間にあわないほど一気に勝ってしまえるようなもの。あるいは、一年生が〈解呪(フィニート)〉できないような強力な呪文の効果が生じるもの。

 

ひとは自分の目のまえにあるものを理解できていないことがある。適切な問いをたてないかぎり、理解できないことがある……。

 

『どんな薬なら、一般的な森のなかで入手できる材料だけをつかって調合することができるか?』

 

『魔法水薬・油薬』に書かれている薬の調合レシピにはどれも、魔法植物や魔法動物に由来する材料が最低ひとつはふくまれている。 これが厄介な部分だ。模擬戦がおこなわれるのが〈禁断の森〉だったとしたら、魔法植物や魔法動物が豊富に入手できるのだが、残念ながら戦場は安全かつ小規模なほうの森だった。

 

ハリー以外のだれかであれば、この時点であきらめるかもしれない。

 

ハリーはそれから、つぎつぎとページをめくる速度をあげて、いくつもの調合レシピに目をとおしていくうちに、とあることに気づいた。以前読んだことはあれど、そのときになるまで()()()()()()()()知識に気づいた。

 

〈薬学〉の本で見るかぎり、どんな調合にも最低ひとつ、魔法力をおびた材料が必要とされる。しかし、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

呪文をかけるには、実体ある構成要素はまったく必要とされず、詠唱と杖のうごきだけで足りる。 ハリーは(ポーション)の調合も本質的には似たような行為だと思っていた。 まったく必然性なく決められたとしか思えないとある文言をとなえると効果が発生するのが呪文であるなら、 おぞましい各種材料をあつめてきて時計まわりに四回かきまぜれば、それでなぜか効果が発生するのが(ポーション)だと。

 

さらに、(ポーション)はたいてい、ヤマアラシのとげやナメクジの煮こごりなど、どこにでもあるものを材料にしている。ならば、どこにでもある材料()()を使ってつくれる(ポーション)だってあってよさそうなものだ。

 

なのに実際には、『魔法水薬・油薬』に書かれている調合レシピはきまって、()()()()()の魔法植物か魔法動物由来の材料——たとえばアクロマンチュラの糸やファイアーフラワーの花びら——を要求している。

 

ひとは自分の目のまえにあるものを理解できていないことがある。適切な問いをたてないかぎり、理解できないことがある……。

 

『もし調合術と呪文詠唱が似た行為であるなら、皮膚治癒薬など強力な薬を調合したとき、調合者が魔法力を消耗して疲労困憊することがないのはなぜか?』

 

その一週まえの金曜日の〈薬学〉の合同授業で、ハリーたちは『皮膚治癒薬』の調合をした。……杖と詠唱を通じて実践する治癒の場合は、どんなに簡易な呪文でも四年生かそれ以上の水準にあたるというのに。 その回の授業を終えたとき、みなの様子はふだんの〈薬学〉を終えたときとかわりがなかった。つまり、目に見えて消耗している人はだれもいなかった。

 

そこでハリーは『魔法水薬・油薬』をぱちりと閉じ、レイヴンクロー談話室へと駆けこんだ。 図書館に行って確認している暇はないと思い、N.E.W.T.級薬学の宿題をしている七年生をみつけ、一シックルを渡して『劇薬調合術』という本を五分間だけ借りた。

 

七年次のその教科書をひらき、レシピ五件にざっと目をとおしたあと、六番目のレシピが目についた。『炎の吐息の薬』。これを作るにはアシュワインダーの卵が必要だとあり……これを飲むと炎を吐くことができるが、その卵を生んだアシュワインダーを生んだ魔法性の炎以上の熱は生じない、という注意書きもあった。

 

そのときハリーは談話室のまんなかで「エウレカ!」とさけんだ。近くにいた監督生はそれを呪文の詠唱だと思ったらしく、ハリーは厳重に注意された。 魔法族は、アルキメデスという名前の古代人マグルが物理学者の原型のようなことをして、風呂にいれたものの体積は風呂からあふれた湯の体積にひとしいと気づいたときのことなど、いっさい興味がないらしい。

 

保存則。 保存則という考えかたが基礎になってマグル世界で発見されたものごとは数知れない。 マグル技術で羽一枚を一メートル地面から浮かしたければ、そのための動力を()()()()()もってくる必要がある。 火山の火口から流れだす溶岩を見て『この熱はどこから来たのか』といえば、地球の内核にある放射性重金属についての答えが物理学者からかえってくるだろう。 重金属の放射性はどこから来たのかといえば、地球が形成される以前の初期宇宙で超新星が自然限界より重い原子核を焼き上げ、陽子と中性子が不安定な状態にとじこめられて、それがやがて分裂することで超新星にもらったエネルギーの一部を放出するのだ、という答えになるだろう。 電球の光のみなもとは電気であり、その電気のみなもとは核分裂発電であり、その核分裂エネルギーのみなもとは超新星……。もとをただせば、究極的にはビッグバンにまで行きつく。

 

魔法は、ひかえめに言って、そういう風にはできていないらしい。 〈エネルギー保存則〉のような法則に対する魔法の態度は、思いきり中指を突き立てて見せるのと、どうでもよさげに肩をすくめるのとの中間くらいに位置している。 『アグアメンティ』は無から水をつくりだす魔法として知られている。そのたびにどこかの湖の水位がさがったという報告はない。 これは五年生がおそわる簡単な呪文で、魔法族はさほど特別なものではないと思っている。たかがコップ一杯の水をつくりだすことくらい、たいしたことではないと思っている。 魔法族は質量は保存されるべきであるという珍妙な考えかたをしないし、一グラムの質量を生むことがなぜか九〇兆ジュールのエネルギーを生むことに相当するとも思っていない。 高学年でおそわる呪文のひとつに、その名も『アレスト・モーメンタム』というものがある。それを知ってハリーは、止められた運動量(モーメンタム)がどこか()()()()()いくのか、と質問してみたところ、 怪訝そうな顔をされただけだった。 ハリーは、魔法にも()()()()()種類の保存原理がどこかにあってくれないかと思い、必死にさがしつづけたが……

 

……実はそれは、毎回の〈薬学〉の授業で自分の目のまえにあったのだった。 調合術は魔法力を()()()()のではなく()()()()。だからこそ、魔法性の材料を最低ひとつは必要とする。 『反時計回りに四回かきまぜ、時計回りに一回かきまぜる』などといった手順を通して——ハリーの説にしたがうなら——魔法使いは材料のなかにある魔法力を変形する小さな呪文をかけている。 (そして個々の材料の物理的形状をひきはがすことにより、ハリネズミのとげのようなものも溶かし、飲み薬にしたてることができる。おそらくマグルがまったくおなじレシピを実践したとしても、とげだらけでとても飲めないようなしろものになるのではないか。) つまり、既存の魔法のエッセンスを変形させる魔術こそが調合術だということになる。 〈薬学〉の授業に参加すると、多少疲労はするものの、疲労困憊することはない。自分の魔法力をそそいでいるのではなく、すでにそこにある魔法力を変形させているだけだからだ。 だからこそ、二年生女子でも〈変身薬(ポリジュース)〉を調合できた……すくなくとも完成しかけたのだろう。

 

できたてのこの仮説を反証する例があるかもしれないと思い、ハリーは『劇薬調合術』をめくっていった。 約束の五分間が経過すると(そのことで文句を言われたので)もう一シックルを支払い、まためくりつづけた。

 

『巨人の力の薬』はダグボッグのすりつぶしを〈巨牛(レエム)〉に蹂躙させたものを投入してつくられる。その部分を読んでから、ダグボッグ自身に力強さはないことを考えると変だ、ということに気づいた。レエムに踏まれたとして、ダグボッグ自身はただ……もっと粉ごなになるだけだ。

 

別のレシピには『鋳造された青銅を触れさせよ』という一節があった。クヌート銅貨を一枚ペンチでつまんで、溶液の表面にかすめさせる、という意味である。どっぷり漬けてしまうと液が高熱を発して沸騰する、という注意書きもあった。

 

ハリーはそこでレシピと注意書きの数かずを目にしたまま、第二の、もっと奇妙な仮説を考えた。 もちろん調合術のしくみが、材料にもともと埋めこまれている潜在魔法力をつかうという単純なものであってくれるはずがない。それではマグルの自動車がガソリンの潜在燃焼力をつかうのと大差ない。 魔法はもっと非常識なものだ……。

 

それからハリーは——授業外でスネイプ先生に会う気はなかったので——フリトウィック先生の部屋をたずね、新しい(ポーション)をつくろうとしていて、材料と効果については決まっているが、かきまぜかたをどう決めればいいかを相談したい、と話し——

 

それを聞いてフリトウィック先生はしばらくわめきまわってから、マクゴナガル先生を呼び、執拗な訊問がはじまった。そのときにかぎっては実験の背後にある仮説を二人に明かすべきだと言われ、話してみるとそれが新発見ではなく再発見であることが分かった。非常に古くに発見された、発見者の名前も知られていない法則だった。

 

『ポーションは材料の生まれに寄与したものを放出する。』

 

クヌート銅貨を製造するときのゴブリンの熱、ダグボッグを踏みつぶすレエムの怪力、アシュワインダーを生む魔法炎。そういった生成源の効能が、呪文の言語に相当する一定のかきまぜのパターンからなる工程により、呼び出され、解放され、再構成される。

 

(マグル的に考えれば、それは熱力学のできそこないのような奇妙な法則に見える。人生は()()()()()()()()と考える人がつくった法則のように見える。 マグル的に考えれば、クヌート銅貨製造時の熱は銅貨に流れこむのではなく、環境中に散逸し、再利用しにくい形態になる。 エネルギーはいつも保存され、生成も消滅もしない。いっぽうで、エントロピーは増大する。 けれど魔法族はそう考えない。魔法族は、クヌート銅貨をつくるために労力をそそげば、あとでその労力をとりだせるはずだと考える。マグル育ちの人にとって妙に聞こえるのはその点なのだということをマクゴナガル先生に説明してはみたが、マクゴナガル先生にマグル式の考えかたのほうが優れていることを理解させることはできなかった。)

 

これは調合術の基本原理だが、決まった名前も文言もない。もしあれば、だれかが書きとめたがるだろうから。

 

だれかが書きとめれば、自力でこの原理を発見できない人がそれを読むかもしれないから。

 

読めば、無闇に新作ポーションのアイデアを考える人がでてくるだろうから。

 

そういう人はネコ女になってしまうだろうから。

 

この発見はネヴィルにもハーマイオニーにも共有しないようにと念押しされた。 ハリーはハーマイオニーが落ちこんでいるようだからこういう話をすれば元気づけられるかもしれない、というようなことを言おうとした。 マクゴナガル先生はもってのほかだと言い、フリトウィック先生は小さな両手で杖を折る手ぶりをしてみせた。

 

二人はそれでも、どういう材料を使うべきがもう分かっているのなら、おなじことをやっている既存のレシピがあるかもしれない、という助言をしてはくれた。フリトウィック先生は役に立つかもしれないと言って、ホグウォーツ図書館にある本の名前をいくつかあげてくれた……。

 

◆ ◆ ◆

 

巨大な羊皮紙状のスクリーンはいま、上空から見た森だけを表示している。兵士たちの迷彩服はほとんど木々と見わけがつかないが、それぞれ二集団ずつに分かれていた各軍が合流し、三つどもえの戦いをはじめようとしている。

 

クィディッチ場の観客席が急速に埋まっていく。ここまでの点数の増減を追っている暇はないが最終戦だということで見に来た、飽きやすい種類の人たちだ。(クィレル先生の模擬戦に問題点があるとすれば、ひとたびはじまれば、クィディッチの試合よりずっと早く決着がついてしまうことだと広く言われている。 クィレル先生自身は、『それも戦闘のリアリズムだ』とだけ応じ、それ以上の議論の必要性を認めなかった。)

 

巨大な窓——いまある窓は、上空からの映像を見せている窓一つだけ——に映された、小さな迷彩服の人間のあつまりらしきものまでの距離が近くなった。

 

もっと近くなった。

 

最後には手がとどきそうな距離にまで——

 

◆ ◆ ◆

 

巨大な白い羊皮紙の窓が、〈太陽〉軍と〈カオス〉軍の最初の交戦を映しだす。(とき)の声とともに、ニコちゃん(スマイリー)マークを胸につけた子どもたちが『コンテゴ』の盾を手に、あるいは「『ソムニウム』!」と叫びながら突撃し——

 

そのうちの一人が不意に、恐怖にかられた声で「『プリズマティス』!」と叫んだ。全員が突撃を中断し、すぐに光かがやくエネルギーの壁が前方に出現した。

 

木々のあいだからトレイシー・デイヴィスがすがたをあらわした。

 

トレイシーは壁にむけて杖をつきつけながら、低く暗い声で話しだす。 「ふっふっふ、ぞんぶんに怖がるがいい。〈闇黒(あんこく)の女王〉トレイシー・デイヴィス見参! あ、これ、『やみ・くろ』と書いて『アンコク』ね。」

 

(〈魔法法執行部〉長官アメリア・ボーンズが物問いたげなまなざしをデイヴィス夫妻に送った。夫妻はできることならその場で死にたいという感じの表情をしていた。)

 

虹色の障壁(プリズマティック・バリア)〉に守られた〈太陽〉軍兵士がひそひそとなにか言いあっている。そのうちの一人が、ほかの何人かから頻繁にしかりつけられているようだ。

 

しばらくして、びくりとしたのはトレイシーのほうだった。

 

スーザン・ボーンズが〈太陽〉軍集団のまえに出たのだった。

 

(「まあ……お嬢さん、ホグウォーツでどういう教育を受けているのかしら?」とオーガスタ・ロングボトムが言った。)

 

(「さあ。」とアメリア・ボーンズが落ちついた声で言う。「でもわたしも興味があるので、あとでチョコレート・フロッグを送って、あれのこつを聞いておきます。」)

 

〈虹色の障壁〉が消えた。

 

〈太陽〉軍兵士の集団が突撃を再開した。

 

トレイシーが緊張で声をうわずらせて叫ぶ。 「『インフラマーレ』!」  〈太陽〉軍の動きがまた止まる。トレイシーとのあいだの、やや乾燥した草地の上に炎でできた線が引かれ、それがトレイシーの杖の軌跡にあわせてのびていく。つぎの瞬間、スーザン・ボーンズが「『フィニート・インカンターテム』!」と声をあげた。炎のいきおいが弱まったかと思うと、また盛りかえし、両者の意思のぶつかりあいで一進一退がつづく。周囲では、ほかの兵士たちが杖をトレイシーに向けようとしている。ちょうどそのとき、ネヴィル・ロングボトムが上空から大声をたてて飛びこんできた。

 

◆ ◆ ◆

 

〈ドラゴン旅団〉兵士の一人、レイモンド・アーノルドが手信号で前方ななめ左を指した。 その場にいる〈ドラゴン旅団〉集団内ですぐにひそひそと声がかわされ、全員が静かに敵のいる方向に対峙する位置をとった。 〈太陽〉軍はこちらの位置を知っている。知っているのはおたがいさまだが、なぜかこの瞬間、全員が本能的に静まった。

 

〈ドラゴン〉兵たちがじりじりと歩みをすすめていくと、〈太陽〉兵たちのくすんだ色の迷彩服が遠い木々のあいだに見えだした。〈ドラゴン〉はやはり全員無言で、(とき)の声をあげる者もいない。

 

ドラコは兵士たちの先頭に立っている。うしろにはヴィンセント、そのすぐうしろにパドマがいる。この三人で〈太陽〉軍の渾身の一撃をくいとめられれば、〈ドラゴン旅団〉のほかの兵士たちに勝機があるかもしれない。

 

まだ距離のある〈太陽〉軍の先頭集団に一人、ドラコのほうをじっと見る人影があった。だれかがじっと、怒りの目でドラコを見ている——

 

戦場をはさんで、二人の視線がかさなった。

 

ドラコはこころのかたすみで、ほんの一瞬だけ不思議に思う——ハーマイオニー・グレンジャーは、なにをあれほど怒っているのか。考えつづける間もなく、両軍が雄たけびをあげ、全員が一斉に突撃していった。

 

◆ ◆ ◆

 

ほかの〈カオス〉兵たちも木々のあいだから出てきた……というか、()()()()()兵士もいた。全面衝突となり、全員敵らしいものが見えるたびに四方八方に撃っている。 それと〈太陽〉兵が何人も、ネヴィル・ロングボトムに向けて「ルミノス!」と叫び、ネヴィルは旋回、急上昇して『カオス的』としか言いようのない軌跡をたどり——

 

ネヴィルが空戦を練習していたときには、二十回に一回しか起きなかったことが起きた——手ににぎったホウキが赤く光った。

 

これはネヴィルが試合を脱落したことを意味しているはずだった。

 

それからクィディッチ場の観客席で、生徒の集団のなかから叫び声があがった——

 

『戦場におけるリアリズム』というのがクィレル先生が命じる唯一の規則である。 つまり現実にありえることであれば、なにをしても許される。そして現実には、ホウキを呪いで撃たれても兵士は消滅しない。

 

ネヴィルは地面にむけて落ちながら『カオス式ランディング!』と叫んだ。〈カオス〉兵たちは戦闘をほうりだして(止まっていては格好の標的なので、走りながら)、そろって〈浮遊の魔法〉をかけた。まわりのほとんど全員が足をとめて息をのみ——

 

ネヴィル・ロングボトムは落ち葉たっぷりの地面に、片ひざと片足と両手をついて落ちた。騎士号を授与されるときのような姿勢だった。

 

すべてが止まった。トレイシーとスーザンすら決闘を中断した。

 

クィディッチ場では、観客席全体が静まりかえった。

 

だれもが驚嘆と心配の表情でただ唖然として絶句し、つぎになにが起きるのか、待ちかまえた。

 

そしてネヴィル・ロングボトムがゆっくりと立ちあがり、〈太陽〉軍の方向に杖を突きつけた。

 

戦場にはとどかなかったが、スタジアムの観客席ではかなりの人数が声をあわせ、だんだんと音量をあげて『ドゥーン ドゥーン ドゥーン ドゥン ドゥン ドゥン』と歌いはじめていた。あの離れわざに音楽をつけないわけにはいかないと思ったらしい。

 

「あれはあなたの孫への応援歌ね。」と言うアメリア・ボーンズは値ぶみするようにスクリーンにまなざしを向けている。

 

「おっしゃるとおり。」とオーガスタ・ロングボトムが言う。「ただ、なかには、『ネヴィルに血を! ネヴィルに魂をささげよ!』という声援もまじっているような。」

 

「ええ。」と言って、アメリアは数秒まえまであとかたもなかったティーカップにくちをつける。 「指導者の素質がおありのようで。」

 

「しかもこの声援……」とオーガスタがまた言う。いちだんと衝撃を受けたような声をしている。 「ハッフルパフ生がいるあたりから来ているようですが。」

 

「仲間おもいで知られる寮ですからね。」とアメリア。

 

「アルバス・パーシヴァル・ウルフリック・ブライアン・ダンブルドア! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

ルシウス・マルフォイは皮肉な笑みをうかべてスクリーンに目をやりながら、指が一見まったく不規則に肘掛けをたたいている。 「ダンブルドアはこのすべての裏になにか策略を隠しているのか、そうでもないのか。どちらを恐れるべきなのか分かりませんな。」

 

「見ろ!」と若きグリーングラス家当主が声をあげ、席を立ち、スクリーンを指さす。 「こんどはあの子の番だ!」

 

◆ ◆ ◆

 

「二人で一気にやるからね。」とダフネが小声で言う。ダフネたちも一週間に数回、恐怖に満ちた実戦を数分間ずつ経験していたとはいえ、ネヴィルとハリーが受けていたセドリック・ディゴリーの決闘術の訓練におよばないことは分かっている。 「一人じゃ無理でも、二人でちからを合わせれば——わたしはあの〈魔法〉を使う。ハンナはできるだけ撃って——」

 

となりにいるハンナがうなづくと、二人は絶叫しながら突撃した。それに合わせて支援兵二人がかけた〈浮遊の魔法〉で走りが加速される。 ダフネは走りながら「()()()——」ととなえはじめ、ハンナは巨大な『コンテゴ』の盾を二人の前方につくりだしている。そこで一度、追加の浮揚力がくわわり、二人は前列の兵士たちの頭上を飛び越え、髪の毛をふわりとなびかせ、ネヴィルの目のまえに着陸する——

 

(ホグウォーツではあらゆる競技の写真撮影が厳格に禁じられているが、それでもなぜかこの瞬間の写真が翌日の『クィブラー』の一面をかざることになった。)

 

——着陸と同時にハンナが、上級生を相手にいじめ退治をした経験を生かし、いっさいの躊躇を捨て、すぐさまネヴィルに〈睡眠の呪文〉を撃つ(着陸するのを待たずに詠唱をはじめていたのである)。ダフネは威力より速度を重視して〈元老貴族の剣〉でネヴィルの太ももを切りつけようとするが、ネヴィルはすでによけていた——

 

ネヴィルは横ではなく、上によけていた。不自然なほど高く。光の剣は、ネヴィルの足の下の空気を切る。それがなにを意味するか、ダフネは不思議とすぐに気づくことができ、〈剣〉を自分のあたまの上にもっていった。しかしネヴィルが落ちてくる速度は予想以上だった。たがいの〈剣〉と〈剣〉がぶつかったとき、ダフネはブラッジャーにしたたかに打たれたような衝撃を受けた。 その衝撃で体勢をくずして草の上をころがり、地面に背中を強打した。 それで一巻の終わりになってもおかしくなかったが、ネヴィルのほうも着陸の衝撃が強すぎて地面にひざをつき、苦悶の声をあげていた。 ネヴィルが〈剣〉を振りおろそうとしかけたところで、ハンナが「『ソムニウム』!」と叫んだ。ネヴィルは必死にあとずさる——が、もちろん実際にはなにも発射されていない。ハンナにはそう早く呪文を連射できない。——ダフネはその一瞬の時間をつかって、急いで立ちあがり、また両手で杖をにぎり——

 

◆ ◆ ◆

 

「まさか……」とグリーングラス卿夫人がどこか落ちつかない声で言う。貴族らしい態度がくずれてきている。 「まさかわが子が〈元老貴族の剣〉で戦っているなんて。それも一年生で。 あの子にあんな——才能があったとは——」

 

「血統の優秀さのたまものですな。」とチャールズ・ノットが言ったのを受けて、オーガスタは鼻をならした。

 

「なにをおっしゃる。」とクィレル教授が深刻そうに言う。「娘さんをみくびりすぎですよ。 あれはたんなる才能ではない。」 もう一歩乾いた声になる。 「実戦的な呪文をつかう試合形式をあたえられれば、子どもたちは競って腕をみがく。その成果です。」

 

◆ ◆ ◆

 

「『エクスペリアームス』!」と叫びつつ、声をからさないように注意するドラコ。同時にハーマイオニー・グレンジャーが撃ってきた赤い失神弾をかわそうとして、急な方向転換で筋肉がねじれる思いをする——相手は杖を左にむけていたのに、謎の切り返す動きをして右に撃ってきた——

 

ハーマイオニーは高速に飛ぶ『エクスペリアームス』をかわして、間髪をいれず「『スティレウス』!」と叫んだ。これは作用範囲が広い呪文でドラコの位置からは回避できないが、なんとか自分の顔に杖をあてて「『クワイエスカス』!」と言うことはできた。すぐに息を吸いたくなる衝動が生まれるが、抑えようとする。吸えば発作的なくしゃみが止まらなくなり、そうなっては一巻の終わりだ。

 

ドラコ・マルフォイはすでに大量の〈施錠の魔法〉と〈転成術〉で疲弊しかけていた。だが、困惑の感覚はだんだんと、熱をおびた怒りにおきかわりはじめた。なぜ唐突にグレンジャーがこれほど怒って攻撃してきたのかは分からない。だが売られた喧嘩は買ってやるまで——

 

(〈ドラゴン〉兵と〈太陽〉兵はたがいの司令官が決闘するのを目のあたりにして動きをとめてはいなかった。〈ドラゴン〉軍は規律がしっかりしていて、それくらいで動きをとめることはない。相手がとまらない以上、〈太陽〉軍もとまらない。 だがクィディッチ場にいる観客たちは、ネヴィルとダフネの華ばなしい決闘すらも忘れて、マルフォイとグレンジャーがつぎつぎと呪文をくりだすのを固唾をのんで見守りはじめていた。二人の応酬はほかのどの一年生よりも高速だった。〈ドラゴン〉軍司令官の訓練された身のこなしと〈太陽〉軍司令官のなりふりかまわない熱量とが釣り合い、〈睡眠の呪文〉にとどまらない多種多様な呪文を援用する大人の決闘を思わせる撃ち合いがくりひろげられていた。)

 

——ただ、ドラコはひとつだけ気づいたことがあった。以前ドラコとハリーとクィレル先生は三人して『ミス・グレンジャーには生ブドウ一皿ほどの殺意しかない』と言って切り捨てたものだが、そのときはまだ三人とも()()()()()()()()を見たことがなかったのだった。

 

◆ ◆ ◆

 

ダフネはもう一度、やはり威力は二の次で速度を重視して〈元老貴族の剣〉をネヴィルにおみまいする。同時にハンナが「『ソムニウム』!」と言い、ネヴィルがとびのく。今回もはったりで、ハンナはその隙に位置をとり、ほんものの呪文を至近距離から撃とうとする——

 

——そこでネヴィル・ロングボトムは——あとで本人が説明したところによると——ベラトリクス・ブラックとの戦闘を想定してセドリック・ディゴリーに訓練されたとおりのことをした。つまり、一回転してハンナのみぞおちに()()()蹴りをいれた。

 

ネヴィルの全身の体重がのった靴がハンナの腹にしっかりはいりこむ。ハンナは体勢をくずし、痛みでろくに声もだせず小さくうめいた。

 

一瞬だけ、倒れていくハンナをのこして、戦場全体が静止した。

 

そしてネヴィルがさっと顔色を変えた。完全に狼狽した表情になって、杖をおろし、本能的にもう片ほうの手で同寮生ハンナを受けとめようとし——

 

ハンナのほうは倒れきるまえに一回転し、杖をネヴィルにむけて呪文を撃った。

 

一秒と経たないうちに、ダフネも躊躇なく〈元老貴族の剣〉をネヴィルの背中に突き刺した。ハンナの〈睡眠の呪文〉が効果を発揮するのと同時に、〈剣〉のエネルギーが流しこまれてネヴィルの筋肉が痙攣し、ロングボトム家継嗣は驚愕の表情のまま、手足をひろげて地面に倒れた。

 

◆ ◆ ◆

 

「この戦いでミスター・ロングボトムは憐憫と慈悲の感情のあつかいに関して貴重な教訓を学んでくれたと思う。」とクィレル教授が言った。

 

「それと、騎士道についても。」と言って、アメリアはまた茶をすすった。

 

◆ ◆ ◆

 

「だいじょうぶ?」と小声で声をかけつつ、ダフネはハンナを守るように立ちふさがる。ハンナは腹をかかえて地面に倒れている。ハンナは返事せず、むせかえすような音をだしていた。吐くのと泣くのを我慢しているようだった。

 

戦術的にはそうすべきではないのに——ハンナ一人がただ呪文で撃たれたほうがまだ、こうやって何人もの手をかけて援護するよりはましだったと思う——なぜか〈太陽〉軍の兵士がハンナのまえにあつまり、杖をかたくにぎって、〈カオス〉兵のほうをにらみつけている。 だれかが両軍のあいだに〈虹色の障壁〉をつくったが、だれがやったのかダフネからは見えなかった。

 

そしてなぜか、〈カオス〉軍は攻撃に積極的ではないようだった。トレイシーさえ暗い表情をして、不安げに足踏みをしている。まるで自分がどちらの所属なのか分からなくなったかのように——

 

「いったん戦闘停止!」と声がした。

 

もともとないに等しかった戦闘がとまった。

 

ポッター司令官がいかにも〈死ななかった男の子〉らしい態度で木々のあいだからすがたをあらわした。片手には、迷彩柄の布をかぶせた大きななにかを持っていた。

 

「ミス・アボットの呼吸に異常はないか?」とポッター司令官が呼びかけた。

 

ダフネはその声にふりむかない。これが罠でないという保証はない。もしその隙を利用して〈カオス〉軍が攻撃すれば、クィレル先生はそれをルール内の行動だと認定するばかりか、あとでクィレル点を加点しさえするだろうことはまちがいない。 とはいえ、答えはもうダフネにも聞こえるくらい明らかだった。いまのハンナの呼吸音は()()とはほどとおい。なので、返事することにした。 「……一応は。」

 

「退場させて、治癒の魔法をつかえる人のところに送ったほうがいい。どこか折れたりしていないともかぎらない。」とハリー。

 

ダフネの背後から、息も絶え絶えの声がした。 「わたしは——まだ——たたかえる——」

 

「ミス・アボット、無理することは——」とハリーが言いかけたところで、ダフネの背後でだれかが立ちあがろうとして失敗し草の上に倒れる音がした。 全員がひるんだが、ダフネはハリーに背を見せなかった。

 

「なんで教師は模擬戦を止めさせないの?」とスーザンが怒った声で言った。

 

「止めていないということは、ミス・アボットの容態は治療可能な範囲なんだろう。それと、クィレル先生はぼくらが貴重な教訓をまなんでいると思っているんだろう。」とハリーがかたい声で言う。 「じゃあこうしようか。ミス・アボット、きみが退場すればこちらもトレイシーを退場させる。もともと数ではこちらが不利だから、これはきみたちにとっていい取り引きのはずだ。受けてくれ。」

 

「ハンナ、そうして!」とダフネは言う。「いいから、『退場する』って言って!」

 

ちらりとうしろを見ると、ハンナは草のなかにうずくまったまま、くびを横にふっていた。

 

「わかった、もういい。」とハリーが言う。 「〈カオス〉軍! とっとと全員しとめてしまえば、それだけ早く彼女を退場させられる。 味方に犠牲をだしてでも、早く決着をつけよう! 停戦はここまで! 『ツナフィッシュ』!」

 

それを聞いてすぐに、ダフネの後脳の権謀術数の領野がハリーを賞賛した。ハリーはたった一言で〈カオス〉軍の立ち位置を()にしてしまった。それから〈カオス〉兵たちは全員、制服のポケットに手をつっこみ、奇妙な様式の緑色のサングラスをとりだした。 海辺でつけるようなサングラスではなく、むしろ上級〈薬学〉でつかうゴーグルに似ている——

 

そこでダフネはつぎになにが起きるのかを察知し、あいた手をすぐさま両目にあてた。ちょうどそのとき、ハリーが釜にかけられた布をやぶった。

 

ハリー・ポッターがぶちまけた釜から飛びちったのは、まばゆい液体だった。想像をこえるほどのまぶしさ、太陽を何十倍にも拡大したような燦然とした輝きがあった——

 

(実際そのとおりのしろものだった。)

 

(地面に芽吹いた木々が成長しドングリをつくりだすのに寄与した太陽光を原料としてできた光は……)

 

(葉緑素が吸収した青色と赤色の波長の光の混合である紫色で……)

 

(葉緑素に反射して外に出て葉の緑色を構成する緑光の波長をほとんどふくんでいない。)

 

(〈カオス軍団〉がつけている緑色のサングラスは、緑色の光だけを通過させ赤色と青色をブロックするので、この強烈な紫色の光をなんとか耐えられる程度に減衰させている。)

 

——光はやむ気配がなく、ダフネは一度目から腕をおろして見ようとしてみたが、なにひとつ視認することはできなかった。間接的な反射光でさえ、まぶしくてとても見ていられなかった。ダフネはそのわずかな時間に一度だけ〈解呪〉(フィニート・インカンターテム)を詠唱してはみたものの効果はなく、やがて〈睡眠の呪文〉で撃たれた。

 

それからの戦闘が終わるのに長くはかからなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

よし!」と元〈太陽〉軍でいまは〈カオス軍団〉分隊を率いるブレイズ・ザビニが言う。 「『ツナフィッシュ』だ!」と言って、釜のふたをしている布を手でつかみ、太陽光で起動して自分から離す準備をする。

 

よし!」と元〈カオス〉軍でいまは〈ドラゴン旅団〉の一部をまかされたディーン・トマスが言う。 「敵の動きをそっくりまねしろ!」

 

ザビニの分隊は両手を制服のポケットにつっこんで、緑色のサングラスをとりだした——

 

——それをディーンたち〈ドラゴン〉兵もそっくりまねして、緑色の〈薬学〉用ゴーグルをとりだし、急いでストラップをあたまに回して装着した。そのときにはもう〈カオス〉兵も装着していて、強烈な紫色の光が押しよせてきていた。

 

(〈カオス軍団〉がそろって緑色の〈薬学〉用ゴーグルという報告がミスター・ゴイルから来たら、()()()()()()()()()()()おなじものを〈転成〉すればいい、というのがマルフォイ司令官の説明だった。)

 

ずるいぞ!」とブレイズ・ザビニが声をあげる。

 

これも技術だ!」とディーンが言いかえす。「〈ドラゴン〉、突撃!」

 

(「失礼ですが、ミスター・クィレル、その笑いかた、やめていただけませんか。耳ざわりですわ。」とグリーングラス卿夫人が言った。)

 

目を焼きつくすような紫色の光が満ちる戦場で両軍がまっこうから衝突するなか、 「敵のゴーグルを〈解呪(フィニート)〉しろまだ勝機はある!」とブレイズ・ザビニが言った。

 

聞こえたかゴーグルを狙え!」とディーンも言った。

 

それを受けてブレイズ・ザビニは言語にならないなにかを口にした。

 

それからの戦闘が終わるまでには長くかかった。

 

◆ ◆ ◆

 

「『ステューピファイ』!」と〈太陽〉軍司令官がさけぶ。

 

ドラコはよけない。反撃もしない。もうそれだけの余力がない。できることは、左手をもちあげて無事を祈ることだけ——

 

赤色の電撃はドラコの手袋にあたって散った。『コロポータス』で封じられたこの手袋は、〈ドラゴン旅団〉の全員がはめているのとおなじく、ドラコが〈転成〉したもの。ドラコがまだやられずにすんでいるのは、ひとえにこの盾のおかげだ。

 

二人は森の奥で休むことなく一進一退の攻防をくりひろげていた。反撃に転じるべきときなのに、ドラコは呼吸をととのえることしかできない。グレンジャー司令官のほうも、呼吸はみだれ、顔は大粒の汗で濡れ光り、茶色の髪はべたりとした束になっている。 迷彩服はまだらに汚れ、疲労で肩を震わせているが、どんな姿勢をとるときも杖だけはしっかりとドラコの方向につきつけている。 目はぎらつき、頬は怒りで紅潮している。

 

どういう風の吹きまわしだ? 大人のまねをしてみたいお年頃かな?

 

ふとそんなせりふが浮かんだが、わざわざこれ以上怒らせることもない。 なのでドラコはただ——とぎれとぎれの声で—— 「グレンジャー、なにをそんなに腹をたてているんだ?」と言った。

 

ハーマイオニー・グレンジャーは苦しそうに呼吸し、たどたどしく話す。 「隠しても、もう分かってるから。 マルフォイ、あなたとスネイプがなにをしているかも。ほんとうはだれが黒幕なのかも!」

 

「はあ?」  ドラコは思わずそう言った。

 

それを聞いてグレンジャーは余計いらだったらしく、ドラコにつきつけている杖をもつ手の指に骨が浮き出た。

 

そこで話が見えてきて、ドラコははらわたの煮えくりかえる思いがした。 ドラコがグレンジャーに対してなにかたくらんでいるという話を、グレンジャー本人も鵜呑みにしていたのか——

 

()()()()()()()()()()()()()()()! おまえなんか……」 ——いろいろな〈闇〉の魔術を思いうかべては却下していき、いま使えるものがやっと一つあった—— 「『デンソーギオ』!」

 

〈歯伸ばしの呪文〉。しかしグレンジャーはそれをひらりとかわし、至近距離といっていい位置からドラコに杖をつきつけた。それと同時に、ドラコは魔法で封じた左手の手袋を盾のようにかまえ、被弾にそなえた。グレンジャーは、戦場全体にひびきわたるほどの声で——

 

「『アロホモーラ』!」

 

そこで時間が停止したならよかった。

 

実際には停止しなかった。

 

そのかわり、かちりと音をたてて手袋から錠が落ちた。

 

あっさりと。

 

実にあっさりと。

 

どのスクリーンにもその様子がしっかりととらえられた。クィディッチ場の観客全員がしっかりとそれを目撃した。

 

観客席はすみずみまで静まりかえった。マルフォイ家の継嗣が純粋な魔法力の勝負でマグル生まれに負けたということ、だれもがそう理解したということを、その静寂がものがたっていた。

 

ハーマイオニー・グレンジャーは立ちどまらず戦いつづけた。自分がなにをしでかしたのか、気づいたそぶりもなく、 マグル式のするどい蹴りをドラコの杖にあてた。衝撃があとを引いていて、とっさに反応することができず、ドラコの手から杖がするりと落ちた。 ドラコは必死に杖を追いかけて地面に転がりこんだが、背後では少女が声をしぼりだして「『ソムニウム』!」と言っていた。ドラコ・マルフォイは倒れ、起きあがることはなかった。

 

また一度、あたりが静まりかえった。〈太陽〉軍司令官は足もとをふらつかせ、気絶寸前のように見えた。

 

それから〈ドラゴン〉軍の兵士たちが司令官の仇討ちのため、絶叫しながら突撃した。

 

◆ ◆ ◆

 

デイヴィス夫妻は震えながら、クィディッチ場の教員席の快適な椅子から腰をあげた。肩を抱きあうわけにはいかなかったが、それでも手はしっかりつないで、透明になったようなふりをして歩いていった。 二人がもし魔法事故をおかすような年齢の子どもであったとしたら、勝手に〈幻解〉(ディスイリュージョンメント)が発動してしまっていたかもしれない。

 

老齢のチャールズ・ノットが無言で席を立った。 傷のはいった顔をしたジャグソン卿も無言で席を立った。

 

ルシウス・マルフォイもやはり無言で立ちあがった。

 

三人とも、立ちどまることなく観客席に沿った階段へとむかっていく。三人一組の〈闇ばらい〉のように不気味にそろった歩調で——

 

「マルフォイ卿。」とクィレル教授がやわらいかい声で呼びかけた。 クィレル教授はまだ席についていて、羊皮紙状のスクリーンに目をむけ、両腕をぶらんとさせ、『動く理由などない』と言いたげな態度をしている。

 

銀髪のマルフォイ卿はアーチ門をくぐる寸前のところで足をとめた。もう二人も足をとめ、両脇にひかえた。 マルフォイ卿は呼びかけに応じたようには見えない程度にごくわずかな角度だけ、クィレル教授のほうをふりかえった。

 

「息子さんは今日、みごとな活躍ぶりでした。 わたしは過小評価してしまっていたらしい。 あなたもご覧になったとおり、彼はしっかりと兵士たちの忠誠を勝ち得てもいた。」  そのさきも、やわらかい口調のまま。 「その彼を教えている者として言わせていただくと、この件で彼に干渉することはひかえたほうが本人のためですよ。彼はこれからきっと——」

 

マルフォイ卿一行は階段をくだり、すがたを消した。

 

「よく言った、クィリナス。」とダンブルドアが静かに言い、心配げに眉間にしわを寄せた。 ダンブルドアもまだ席についたまま、もうなにも写っていないはずの羊皮紙状の画面に目をむけている。 「マルフォイ卿は実際干渉をひかえると思うかね?」

 

クィレル教授はごくわずかに肩をすくめるような動きをした。戦闘がおわってから身動きをとったのはこれがはじめてだった。

 

「さてと……」と言ってグリーングラス卿夫人が指の骨を鳴らしてストレッチする。となりの当主は無言でいる。「これは……けっこうな見ものでしたわね……」

 

アメリア・ボーンズはさっさと自席から立ちあがっていた。 「まったく。子どもたちがあれだけの戦闘技能を身につけているというのは、正直、心配なくらいです。」

 

「戦闘技能というと?」とグリーングラス卿が言う。「そうたいした呪文をつかっていたようには見えませんでしたが。 もちろんダフネのあれは立派でしたがね。」

 

アメリア・ボーンズはクィレル教授の髪のない後頭部をじっと見る姿勢のままでいる。 「〈失神の呪文〉は一年次水準の呪文ではありません。それはともかく、わたしが言っている技能というのはそういうことではありません。 初歩的な呪文しかつかえていないにせよ、きちんと友軍を支援し、突然の敵襲にも反応できるということ……」  ボーンズ長官は民間人にも理解できる表現をさがすかのように、一度ことばを切った。 「……とりわけ、あちこちから呪文がふりそそぐ戦場のまんなかで……あの子どもたちはずいぶんと落ちついて行動できていました。」

 

「そのとおりですよ、ボーンズ長官。」とクィレル教授が応答する。「ある種の技能は若いころから仕込むにかぎる。」

 

アメリア・ボーンズの視線がするどくなる。 「あなたは生徒たちを軍隊として育成していらっしゃるようですが、 なんの目的で?」

 

「いやいや!」とグリーングラス卿が割りこんで言う。 「一年生に決闘術を教える学校だっていくらでもあるでしょう!」

 

「決闘術?」 クィレル教授はそう言って笑ったかもしれないが、位置的に後頭部しか見えていない。 「そんなものは、この生徒たちが学んでいることにくらべれば、とるにたりませんよ、グリーングラス卿。 この生徒たちは、数でまさる敵に突然襲われても躊躇しないことを学んでいる。 戦場の条件がどれだけ変化しつづけても遅れをとらず、 友軍を援護し、より有用な生存者を優先し、見こみのない者を切り捨てることも学んでいる。 生きのびるためには命令にしたがわなければならないということも学んでいる。 人によっては、多少の創造性も。 将来この生徒たちが大人になり、来たる脅威に直面したとき、邸宅にこもって救いの手がさしのべられるのを待つと思うのは大まちがいですよ。この生徒たちは、そのときになればしっかりと応戦することができる。」

 

オーガスタ・ロングボトムが、パン、パン、パンと大きく拍手した。

 

◆ ◆ ◆

 

——〈ドラゴン〉軍は勝った。

 

ドラコは戦場で目がさめてすぐ、そのことをパドマから知らされた。パドマは詳細も話してくれた。ドラコが倒れたあと〈ドラゴン〉軍の兵士たちが一心になって戦ったこと。司令官の先見の明のおかげで、ミスター・トマスの分隊が〈カオス〉軍を倒すことができたこと。ポッター司令官が〈太陽部隊〉の分隊を倒していたこと。 ミスター・トマスの分隊が自前のゴーグルと倒した〈カオス〉兵からうばったゴーグルをもって〈ドラゴン〉軍本隊と合流したこと。 そのすぐあとにポッター司令官の残存兵力が〈ドラゴン〉と〈太陽〉の両方を強烈な紫色の光をだすポーションで攻撃したこと。 〈ドラゴン〉は〈カオス〉と〈太陽〉のどちらよりも数でまさり、全員にいきわたるだけのサングラスも持っていたので、司令官を代行したパドマは勝利にこぎつけることができたということ。

 

パドマの目のかがやきとマルフォイ家に負けない尊大な笑みを見ると、パドマはあきらかに賞賛のことばを期待していた。 ドラコは歯ぎしりしながらも賛辞らしきものをひねりだした。実際なんと言ったのか、自分自身記憶にのこらなかった。 ドラコの身になにが起きたのか、それがどういう意味だったのか、外国生まれであるパドマには察しがつかないようだった。

 

——ドラコは負けた。

 

〈ドラゴン〉軍の一行は灰色の(そら)のもと、重いあしどりでホグウォーツ城をめざした。ドラコの肌に冷たい雨粒がぽつぽつと落ちる。 予報どおりの雨が、ドラコが失神しているあいだに降りはじめていたらしい。 とるべき行動はもはや、一手しかない。 『強制手』。ドラコにチェスを教えたミスター・マクネアであればそう表現するところだ。 ハリー・ポッターはおそらくこれをよく思わない……もしみなが言うとおり、グレンジャーを好いているのであれば。 しかしゲームを降りたくなければ打つしかないのが強制手だ。

 

ドラコはずっと、おなじひとつのことを考えつづけた。ホグウォーツの巨大な門を自動人形のように歩いてくぐるあいだにも、ヴィンセントとグレゴリーに『来るな』とだけ言って追いはらい、個室で一人になり、ベッドの上に腰をおろし、机の上の壁をながめているいまでも。ディメンターがドラコをその瞬間の記憶のなかに閉じこめたかのようだった。

 

——手袋につけた錠がかちりと音をたてて落ち——

 

自分がどこでしくじったのかは、よく分かっている。 まず自分以外の全兵士のために十七回もの〈施錠の魔法〉をかけたことによる疲労があり、 一回につき一分たらずの休息では十分回復できていなかった。 そのせいで、自分の手袋に錠をかけるとき、並の『コロポータス』だけですませてしまった。ハリー・ポッターにもハーマイオニー・グレンジャーにも解除されないよう、全力をかけて封印しておくべきだったのに。

 

だが仮に事実であったとして、そんなことを言ってもだれ一人信じない。 スリザリン生ですら信じない。 言いわけじみて聞こえるし、実際そうとしか受けとられないだろう。

 

——グレンジャーが身をひるがえして『アロホモーラ!』と叫ぶ——

 

ドラコはこころのなかでその光景をいくどとなく再生し、敵意をつのらせた。 ドラコはグレンジャーを助けてやっていた——裏切り者を禁止させるため共闘した——屋根から落ちかけた彼女の手をとった——大広間で彼女のまわりで発生しかけた暴動を止めた——。そうすることでドラコがどれだけ大きな賭けにでていたか。すでに生じてしまったかもしれない損失がどれだけあるか。マルフォイ家の人間が泥血(マッドブラッド)助けるということがなにを意味するか。グレンジャーはなにも知らずに——

 

いまや、のこされた手は一手しかない。罰則を課されようが寮点を減点されようが、打つことを強制された一手。 スネイプ先生は事情を察してくれるだろうが、スネイプ先生が目をつむることのできる範囲には限界がある(と父上から言われている)。

 

グレンジャーに決闘を申しこむ。まっこうから校則をやぶることになるが、しかたない。 もし向こうがことわるようであれば、ただ攻撃するまで。 公衆の面前で、一対一の決闘でグレンジャーを倒す。決闘の作法や小細工にたよらず、純粋な魔法力の実力差で倒す。 〈闇の王〉その人が敵を倒すときのように、グレンジャーを完膚なきまでにたたきつぶす。 前回はドラコが魔法を使いすぎて疲労していただけだということを徹底的に明確にし、だれにもうたがわせないようにする。 マルフォイ家の血統からくる実力にはどんな泥血も対抗できないということを知らしめる——

 

『そうじゃないだろう』と、こころのなかでハリー・ポッターの声がする。 『人は政治的駆け引きに勝つことばかり考えていると、真実がなんだったかをすぐに忘れてしまう。でも実際には、人間を魔法族にしているのはたったひとつのものだった。そうだろう?』

 

ドラコはそのとき気づいた。机の上のなにもない壁をじっと見つめて強制手のことを考えるあいだにも、こころの奥底に感じられる不安の正体に。 打つ手がひとつしかないなら打てばいい、ただそれだけのこと——ただ——

 

ひらりと回転し、汗に濡れた髪を振りまわしては、ドラコに負けないスピードで杖からつぎつぎに呪文や対抗呪文をはなつグレンジャー。電撃を飛ばし、光るコウモリをドラコの顔に投げつけ、そのさなかにも怒りのこもった目でドラコを見すえる——

 

あのとき、最悪の結末の瞬間がくるまでは、ドラコも内心どこかでグレンジャーの戦いぶりに目をみはり、その怒りの激しさと魔法の実力を賞賛してもいた。どこかで喜んでもいた。生まれてはじめて本格的な戦闘ができ、その相手に……

 

……自分と対等な実力があることを。

 

これからグレンジャーに決闘を申しこんで、()()()負けてしまったら……

 

負けるはずはない。ドラコはこの学年のだれと比較しても、二年は早く杖をもたされていたのだから。

 

とはいえ、たいていの親が九歳の子どもに杖をもたせないのにも理由がある。杖をもたされた年数もさることながら、本人の年齢も重要だ。 グレンジャーは学年がはじまってすぐに誕生日をむかえた。ハリーがあのポーチをプレゼントした日だ。 入学してすぐのことだったから、もうグレンジャーが十二歳になってずいぶん経つことになる。 それにドラコは実際のところ、授業以外であまり魔法の練習をしていない。練習量ではおそらくレイヴンクロー生ハーマイオニー・グレンジャーにおよばない。 これ以上練習せずとも同級生には負けないと思っていたからだが……。

 

『それに消耗しきっていたのはおたがいさまだ』と、こころのなかの〈反証の声〉がささやく。 グレンジャーもあれだけの量の〈失神の呪文〉を撃って、消耗しきっていたにちがいない。にもかかわらず、その状態で〈施錠の魔法〉を解除することができた。

 

公衆の面前での一対一の決闘を自分から言いだして、言いわけのきかないかたちで負ける、などというリスクは引き受けられない。

 

ドラコはこういう場合の常套手段をよく知っている。 騙し討ちだ。 しかし、決闘で不正をしたことをだれかに知られれば、とりかえしのつかないことになる。仮に曝露されなかったとして、格好の脅迫のネタにされる。スリザリン生ならだれでも分かっていることだし、だからこそみなそういうネタには目を光らせている……

 

そしてここに見る者がいたとすれば、ドラコ・マルフォイがベッドから腰をあげ、机にむかい、最上級の羊の羊皮紙を一枚と真珠製のインク壺ととりだすのを見たはずである。インクの色は緑がかった銀色で、ほんものの銀とエメラルドの粉末が入っている。 ドラコ・マルフォイはベッド下の大きなトランクから、やはり銀とエメラルドを使って製本された『ブリテン貴族作法集』をとりだす。 そしてその本を脇においてときどき確認しながら、新品の羽ペンで書きはじめる。 彼の父親を彷彿とさせる暗い笑みを浮かべながら、一文字一文字を念入りに芸術品のように書いていく。

 

元老貴族マルフォイ家アブラクシスの子である現当主ルシウスの子、元老貴族ブラック家当主ドルエラの娘ナルシッサの子にして、元老貴族マルフォイ家の継嗣たるドラコより

 

グレンジャー家初代、ハーマイオニーに告ぐ。

 

(泥血への呼びかけとして用いるこの文句はもともとは丁重な表現とされていたのかもしれないが、数百年たったいまでは、洗練された悪意をうっすらと伝えることができる表現である。)

 

過日 』

 

いったんそこで羽ペンを止め、インクがたれないよう、慎重に脇にのける。 まずなにか口実が必要だ。すくなくとも、決闘の条件をこちらから決めたいのであれば。 通常なら決闘を申しこまれたほうが条件を決めるのだが、ことが〈貴族〉に対する侮辱なら話が変わる。 つまり、ドラコがグレンジャーに侮辱された、と言える口実を探さなければ……

 

いや、なにを考えているんだ。あれは侮辱そのものじゃないか。

 

ドラコは文例集が書かれているところまでページをめくり、よさそうな文例を見つけた。

 

過日、貴君は三度にわたり我が衷心よりの援助を受け取りながら、その恩を仇で返すがごとく、奸計をしかけられたと言い立て、虚偽の誹謗中傷を行い、

 

ドラコは一度とまって息をすい、怒りを静めなければならなかった。 自分はたしかに侮辱されたのだという思いが強くなり、無意識に『虚偽』の部分に下線をつけてしまっていた。決闘状にはふさわしくない書きかただが、すこし考えてからそのままにすることにした。 作法にのっとらない表現であるにせよ、多少感情をあらわにすることも適切なように思えた。

 

公衆の面前で我が名を貶めた。

 

その賠償として、慣習と法に則り、

 

「第三十一期ウィゼンガモート第七回の判決の先例に従い……」  この部分は芝居にもよく登場するので、ドラコは本を見ずに口述することができる。口述するあいだに背すじがのび、自分の貴族の血が脈うつのを感じた。

 

慣習と法に則り、第三十一回ウィゼンガモート第七番の判決の先例に従い、下記の規定のもとでドラコ対ハーマイオニーの魔法による決闘を要求する。一、両名は単身で参上すべし。事前にも事後にも他言は無用。

 

これなら、決闘が思うような結果にならなかったとしても、だれにも言わなければそれでいい。 もし勝てれば、その実験結果をもとに、()()()()()公開試合でも倒せそうだということが分かる。 不正もいいが、〈科学〉もそれなりに役に立つ。

 

二、武器は各々の魔法力のみ。死や深刻な後遺症をもたらす呪文は禁ずる。

 

……場所はどうする? 決闘に適した部屋がこの学校にひとつあることは以前から聞かされている。その部屋なら、室内の貴重品はすべて結界で守られていて、肖像画もいないから告げぐちされる恐れもない……その部屋の名前はたしか……

 

三、場所はホグウォーツ魔術学校の陳列室。

 

二度目の、公開するほうの決闘は、早いうちにやるにかぎる。たとえば明日。スリザリン寮内でドラコの名声が失墜するのに長くはかからない。ならば、一度目の決闘の時間は今夜しかない。

 

四、時は本日深夜零時。

 

以上、元老貴族マルフォイ家、ドラコより。

 

ドラコは決闘状にそう署名してから、それほど上等ではない羊皮紙をもう一枚とりだして、ふつうのインクで追伸を書いた。

 

追伸——法律上の位置づけについて、念のため言っておく。 ぼくは元老貴族として、自分を侮辱した者に決闘を申しこむ法的権利がある。 フリトウィックを陳列室に連れて来るのはもってのほかだが、だれかに他言するだけでも神聖な決闘の条件にそむいたことになる。そうなれば即座に父上が介入する。一発でウィゼンガモートものだから、そのつもりでいろ。

 

——ドラコ・マルフォ 』

 

最後のもう一文字を書くところでちからがはいりすぎ、ペン先が折れてインクがしたたり、羊皮紙が小さく破れた。これも悪くない、とドラコは思うことにした。

 

◆ ◆ ◆

 

スーザン・ボーンズはその夜の夕食で、近ぢかドラコ・マルフォイがハーマイオニーに謀略をしかけそうだということを教えるため、ハリー・ポッターのところに来た。 すでにスプラウト先生とフリトウィック先生にはそのことを伝えてあり、アメリアおばさんにも夜のうちに手紙を飛ばすつもりだという。S.P.H.E.W.のメンバーにも、ハリー・ポッターにも言っておきたいが、パドマにだけは言わないでおきたい、パドマはハーマイオニーも自分の軍の司令官も裏切れないと思って困っているようだから——と、やけに真剣な表情でスーザンは言った。

 

ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスは、()()()()()()()()()をしているべきなのにこれではやってられないと思い、『なんとかしないといけないことは分かっている』とスーザンに強く当たった。

 

スーザン・ボーンズが去ると、ハリーはレイヴンクローのテーブルの端のほうを見た。ハーマイオニーはそこで、パドマやアンソニーともほかのどの友だちとも離れて座っていた。

 

ただ、見るかぎりとてもだれかに話しかけられたそうな雰囲気ではなかった。

 

ハリーはあとになってこのときのことを振りかえるとき、なぜSFやファンタジー小説の登場人物は重大な決断をするときかならず重大な理由を持っているものなのだろうか、と思うことになる。 ハリ・セルダンが〈ファウンデーション〉を作ったのは〈銀河帝国〉を再建するためであり、自前の研究グループをもって偉そうにしたかったからではない。 レイストリン・マジェーレが兄との縁を切ったのは神になるためであり、人間関係に失敗したうえだれにも相談する気がなかったからではない。 フロド・バギンスが〈指輪〉を受けとったのは彼が英雄であり〈中つ国〉を救いたかったからであり、受けとらないと格好がつかないと思ったからではない。 この世界の真の歴史をだれかが書いたとしたら——実際にはだれにもそんなことはできないが——さまざまな〈運命〉の瞬間のうち九十七パーセントは実は、うそやティッシュペーパーでできていたり、なんの必然性もないちょっとした風の吹きまわしにすぎなかったりするのではないだろうか。

 

ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスはテーブルの端っこの席についているハーマイオニー・グレンジャーを見て、わざわざ機嫌がわるそうなときに声をかけることもないのではないか、と感じた。

 

なので、まずドラコ・マルフォイと話しておくほうがいいと考えた。ドラコがハーマイオニーをおとしいれようとしている可能性など、ほんのすこしもありえないということをはっきりさせるために。

 

ハリーは夕食がおわってから、スリザリンの階におりていき、ヴィンセントに迎えられ、『親分からだれも通すなと言われてる』と告げられた。そして……それならいますぐハーマイオニーに話しにいこうか、とも考えた。 これ以上事態がからまりあうまえに、ほどきにかかったほうがいいのではないか、とも考えた。 そうしないのはただ、後回しにしたいと思っているからではないか……自分は不愉快だがやらねばらないことを先送りするために都合のいい言いわけを考えてしまっているのではないか、とも考えた。

 

そこまで考えたのだった。

 

それからハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスは、翌朝日曜日の朝食が終わった時にドラコ・マルフォイに話しに行くことにし、ハーマイオニーとは()()()()()話そうと決めた。

 

人間はついこういうことをしてしまう生きものである。

 

◆ ◆ ◆

 

一九九二年四月五日、日曜日の朝。ホグウォーツ大広間の模造の(そら)は猛烈な雨にみまわれている。雷光が千々に乱れて四列の寮テーブルにふりそそぐと、テーブルは真っ白になる。そのたびに生徒たちの顔が一瞬だけ幽霊(ゴースト)のように見える。

 

ハリーはレイヴンクローのテーブルの席でぐったりとしてワッフルを食べながら、ドラコの到着を待っている。やっとこれで、一連の事態になんとか収拾をつけることができると思いながら。 なぜかハンナとダフネの写真を一面にのせている『クィブラー』がそこらじゅうで回覧されているが、ハリーのところにはまだ届いていない。

 

ハリーはワッフルを食べおえてから数分後、もう一度あたりを見まわしたが、ドラコがスリザリンのテーブルに来ている様子はなかった。

 

おかしい。

 

ドラコ・マルフォイはめったに遅刻しない。

 

ハリーはスリザリンのテーブルのほうを見ていたので、ハーマイオニー・グレンジャーが大広間の大扉を通過してきたのに気づいていなかった。 なので、ふりむいたとき、となりの席にあたりまえのようにハーマイオニーが座っているのを見てびっくりした。ハーマイオニーはその習慣が一週間以上とだえていたことを認識していないかのようだった。

 

「おはよう。」とハーマイオニーは完全に平常どおりの声で言って、トーストを自分の皿にとり、健康のためにくだものと野菜も何種類かとっていく。 「元気?」

 

「ぼく独特の平均値からすると標準偏差1以内かな。」  ハリーは無意識にそう返事する。 「きみは元気だった? ちゃんと眠れてる?」

 

ハーマイオニー・グレンジャーの目の下にはくまがあった。

 

「えっ、別になんともないけれど。」

 

「あの……」と言ってハリーはパイをひと切れ皿にとった(ハリーの脳はほかのことに気をとられていたので、手がかってに動いて、近くにあるうちで一番おいしそうなものをとってしまい、もうデザートを食べる段階なのかといった複雑なことを考慮にいれることができなかった)。 「あの、ハーマイオニー、ちょっとあとで話があるんだけど、いいかな?」

 

「ええ。いいに決まってるでしょう?」

 

「いや——その——最近しばらく、ぼくらは——ほら——」

 

いいからだまれ——と、最近ハリーのこころのなかでハーマイオニー関係の問題にわりあてられたらしい部分が言った。

 

ハーマイオニー・グレンジャーはそもそもあまりハリーのことが目にはいっていないらしく、 つづきを言えないハリーをよそに、目のまえにある皿を見たまま十秒ほど止まっていた。それから、皿にあるトマトのスライスを一枚ずつ、ぱくぱくと食べていった。

 

ハリーもそちらを見るのをやめて、皿の上にいつのまにか出現していたパイを食べだした。

 

「ところで! 今日、なにか特別なことはある?」  ハーマイオニー・グレンジャーは突然そう言った。皿の上の食べものはもう、おおかたきれいになっていた。

 

「ええと……」と言って、ハリーはなんとか話をつなぐため、必死にあたりをきょろきょろして、なにか特別なことが起きていたりしないか、探そうとする。

 

なのでハリーはいちはやく『それ』を目にし、無言で指さすことになった。同時に大広間じゅうからひそひそと声が聞こえてきたことからして、ほかにも大勢の人が目にしたようだった。

 

着用しているローブの赤色だけで十分識別できてよかったはずだったが、ハリーの頭脳がその人たちの顔を認識するまでには数秒を要した。 一人はアジア系の厳粛な顔だちの男で、今日はとりわけ暗い表情をしている。 一人は部屋全体をにらみつけるように見わたし、一本にたばねた長い黒髪を背後になびかせる。 一人は彫りのあさい白いひげづらの男で、石のように無表情な顔つき。 ハリーはその三人の顔を数秒かけて認識し、はるか遠い一月のディメンターが来た日の記憶から名前を思い起こした。名前はコモドとブトナルとゴリアノフ。

 

「〈闇ばらい〉?」とハーマイオニーは奇妙に明るい声で言う。 「ふうん、いったいなんの用事かしら。」

 

ダンブルドアがその三人に同行している。いつになく憂慮した表情をしている。 ダンブルドアは一度立ちどまり、大広間全体を見わたし、朝食の席でひそひそ話している生徒たちの列をたどり、手をあげて——

 

——まっすぐハリーを指した。

 

「こんどはなんなんだ。」とハリーは一人つぶやく。 内心ではもっとずっとパニックになっていて、どうにかしてアズカバン脱獄事件の足がついてしまったのではないかと思い、気が気ではない。 〈主テーブル〉の教師席に(さもさりげない感じで)目をやると、今朝はクィレル先生のすがたがない——

 

〈闇ばらい〉の三人はすたすたとハリーのほうへ歩いてくる。 ゴリアノフはレイヴンクローのテーブルの向こうがわで、逃げ道をふさぐように近づいてきている。コモドとブトナルはハリーがいるがわを歩いて近づいてくる。ダンブルドアもコモドのすぐうしろについてきている。

 

大広間がすみずみまで静まりかえった。

 

〈闇ばらい〉たちはハリーがいる場所までたどりつくと、三方向からハリーをとりかこんだ。

 

「ぼくになにか?」とハリーはできるかぎり平静な声で言った。

 

「ハーマイオニー・グレンジャー。」と〈闇ばらい〉コモドが平坦な声で言う。 「おまえをドラコ・マルフォイ殺人未遂の容疑で逮捕する。」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 


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