ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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84章「交換不可能な価値——余波(その2)」

ハーマイオニー・グレンジャーは眠りからさめると、自分がホグウォーツ医務室のふかふかのベッドのなかにいることに気づいた。自分をつつむ薄い毛布の上体のあたりに、日没まえの太陽の光があたっていて温かい。 記憶では、ベッドのまわりにはカーテンがあったように思うが、いまそれが閉まっているかどうかは分からない。 その周囲にあるはずのマダム・ポンフリーの医務室の光景を思いだす——使用中のベッドとそうでないベッドの列、そして曲線模様の壁面にうがたれた採光窓。

 

目をあけて、最初に見えたのはベッドの左がわに座っているマクゴナガル先生だった。 フリトウィック先生はいなかったが、無理もない。フリトウィック先生は朝のあいだずっと拘置所でハーマイオニーに付き添って、ハーマイオニーがくれぐれもディメンターに悩まされないようにと銀色のレイヴンをだしたうえ、監房の外の〈闇ばらい〉の見張りににらみをきかせてくれていたのだから。 授業もあるだろうし、さすがにこれ以上、殺人未遂の罪で刑を宣告された女の番をしている暇はないのだろう。

 

ひどく吐き気がするが、薬を飲まされたせいではない気がする。 泣けるものならまた泣きだしかねない状態だが、のどは痛み、目もはれていて、ただ疲労感だけがある。 もう一度声をあげて泣くだけの気力も、なみだを流すだけの体力もなかった。

 

「わたしの両親はどこですか?」  ハーマイオニーは小声でマクゴナガル先生にそう言った。 なぜか、いまの自分にとって両親と顔をあわせることは最悪の仕打ちであるように思えた。それでも会いたかった。

 

マクゴナガル先生の顔が優しげな表情から悲しげな表情に一変した。 「すみません、ミス・グレンジャー。こういうことがあったとき、例外はあれど原則としてはご両親を呼ぶことはありません。マグル生まれの生徒の身に危険がおよんだとき、そのことを両親に知らせるとかえって事態が悪化する例が近年つづいたためです。 あなたにもこのことをご両親に知らせないよう忠告しておきます。今後もとどこおりなく学業をつづけたいなら、そうしてください。」

 

「わたしは退学処分じゃないんですか? これだけのことをして?」

 

「いいえ、ミス・グレンジャー……あなたも聞いたとおり……まさか聞こえていなかったのですか……あなたは潔白だと、あのときミスター・ポッターが言っていたでしょう?」

 

ハーマイオニーは無感動な声で答える。「どうせでまかせですよ。わたしを牢獄送りにさせないための。」

 

マクゴナガル先生はきっぱりとくびをふった。 「いいえ、ミス・グレンジャー。ミスター・ポッターは、すべては〈記憶の魔法〉のせいで、決闘など起きなかったのだと言っています。 総長はそれ以上に悪質な〈闇〉の魔術が使われたかもしれないと言っています——あなた自身の意思によらずにあなたの身体を動かして攻撃させる魔術があるのです。 スネイプ先生ですら、立ち場上おもてだってそう認めることはできないにせよ、あまりにも突拍子がなさすぎる話だと言っています。 あなたがマグル世界の薬物を飲まされた可能性もあるのではないかとも言っています。」

 

ハーマイオニーは遠い目をしてマクゴナガル先生を見つめた。 いま自分は重大なことを告げられたとは思うものの、状況の変化を自分のこころのなかに行きわたらせるだけの気力がなかった。

 

「ミス・グレンジャー、あなた自身、自分がそんなことをするはずはないと思うでしょう? あなたにかぎって人殺しなど!」

 

「でも、わたしは——」  もう何度目になるだろうか……抜群の記憶力がその瞬間をこころのなかで再生する。ドラコ・マルフォイがいじわるな顔をして『疲れてさえいなければ負けるものか』と言い、それを証明するために決闘をはじめる。ドラコ・マルフォイは決闘者らしい身のこなしで陳列品のあいだをすべるように動き、こちらはおたおたとついていくのが精一杯。そして最後の一撃を被弾して、壁にぶつかり、ほおから血が流れ——それから——それから、わたしは——

 

「そのときの記憶があるのですね。」と言ってマクゴナガル先生は理解のまなざしを向ける。 「ミス・グレンジャー、十二歳の女の子がそのようなおそろしい記憶の重荷を背負う必要はありません。 あなたさえよければ、その記憶を封印してあげましょう。」

 

グラス一杯の温水を顔にあびせられたような感じがした。 「……え?」

 

マクゴナガル先生は慣れた手つきで指を伸ばすような動きをしたかと思うと、杖を手にし、いつもどおりのきっちりとした言いかたで話す。 「関係する記憶すべてをまっさらにしてしまうわけにはいきませんが……。重要な情報がひそんでいるかもしれませんからね。 けれど、ある種の〈記憶の魔法〉なら、必要に応じてあとで取り消すことができます。 そういう種類の処置は可能です。」

 

ハーマイオニーはその杖を見つめ、ほぼ二日ぶりに希望がわきあがってくるように感じた。

 

『起きたことそのものをなかったことにしてほしい』……時計の針をもどして、あのとりかえしのつかない最悪の選択を取り消したい。何度そう願っただろう。 それができないならせめて、記憶を消去できるだけでも、多少の救いにはなる……

 

ハーマイオニーはマクゴナガル先生のやさしげな顔をもう一度見た。

 

「ほんとうに、わたしはやっていないと思いますか?」  声が震えた。

 

「あなたが自分の意思でそんなことをするなど到底考えられません。」

 

ハーマイオニーの手が毛布の下でシーツをしっかりをつかんだ。 「()()()()そう思っていますか?」

 

「ミスター・ポッターはこの件に関連するあなたの記憶すべてが捏造だと考えているようです。 その説にも一理あると思いますよ。」

 

それからハーマイオニーはシーツを持つ手をゆるめ、ベッドにどっと背をあずけた。

 

いや、そうはいかない。

 

わたしは黙っていたから。

 

あのとき、朝起きて前夜のできごとを思いだして、どういう気持ちでいたのかというと——いくら考えようとしてもことばにならない。 それでも、ドラコ・マルフォイがもう死んでいるということを自覚していたのはたしかで……なのに、そのことをだれにも伝えようとしなかった。フリトウィック先生に告白しようともしなかった。 知られまいとして、()()()()()()()()()()()()()()()()()、ただ身じたくをして、朝食をとりに行ってしまった。すすんで白状しないということが、どこまでも正義にそむく、最低な行為であることはよく分かっていたのに、ただただ怖くて——

 

仮にハリー・ポッターが言うとおり、ドラコ・マルフォイとの決闘が実際には起きていなかったのだとしても、()()()()()()()()()()をしてしまった責任は自分一人にある。 そのことを忘れる権利はない。許される資格はない。

 

あのとき自分が正しい行動をとれてさえいれば……まっすぐフリトウィック先生のところにいって告白してさえいれば、もしかすると——ここまでのことにはならなかったかもしれない。ちゃんと反省しているのだということがみんなに伝わって、もしかすると、ハリーも全財産を投げうつ必要はなくなっていたかもしれない——

 

ハーマイオニーは目を閉じた。きつくしっかりと閉じて、また泣きだすことのないようにした。 「わたしは最低な人間です……わたしは……英雄(ヒーロー)でもなんでもない——」

 

マクゴナガル先生はきつく叱責する声で応じた。ハーマイオニーが提出した〈転成術〉の宿題にひどいまちがいがあって叱るときのように。 「なにを言うのですか! 最低なのはあなたをおとしいれた人物のほうです。 英雄的かどうかについては——わたしはいまでも、女の子がそういったことに手をだすのはせめて十四歳になってからにしてほしいと思いますが、その話をここでくりかえすことはしません。 あなたがひどく恐ろしい経験をさせられたこと、その経験を同じ年齢のだれにも負けないくらいしっかりと生きのびたことはたしかです。 今日一日は存分に泣いて、明日は授業に出席すること。いいですね。」

 

そこまで聞いた段階で、マクゴナガル先生ではハーマイオニーの助けにならないことが分かった。 叱ってくれるだれかが必要だった。許されたければ、まず責められなければ、と思う。マクゴナガル先生は決して責めようとしない。かわいそうなレイヴンクローの女の子を責める人ではない。

 

この点では、ハリー・ポッターも助けになってくれそうにない。

 

ハーマイオニーは医務室のベッドの上で寝返りを打ち、マクゴナガル先生に背をむけて、丸くなった。 「お願いがあります……一度、総長と——話させてください——」

 

◆ ◆ ◆

 

「ハーマイオニー。」

 

ハーマイオニー・グレンジャーがベッドで二度目に目ざめると、しわの深いアルバス・ダンブルドアの顔がのぞきこんできているのが見えた。まるですこしまえまで泣いていたかのような表情だった。見まちがいにちがいないとは思うものの、 自分がかけた心労の大きさを思うとまた、罪悪感で胸が苦しくなった。

 

「ミネルヴァから話は聞いた。わしと話したいことがあるとか。」

 

「わ——」  急になにを言えばいいのか分からなくなり、のどがちぢこまり、ことばに詰まる。 「わたしはただ——」

 

そのつづきを言うことはできなかったが、口調で意図はつたわったようだった。

 

「『お詫び』? なにを謝ることがある?」

 

ハーマイオニーは苦労のすえ、やっとのことで話しだす。 「先生はハリーが賠償するのをとめようとしていましたよね——あのときわたしが——マクゴナガル先生のことばに乗らずに——わたしがハリーの杖に手を触れてさえいなければ、きっと——」

 

「いやいや……もしもきみがポッター家に奉仕することを誓わなかったとしたら、ハリーは一人ででもアズカバンを襲撃していた。襲撃するばかりか成功してしまっていたかもしれん。 彼はことばづかいがたくみではあるが、わしが知るかぎり、うそをついたことはない。 そして〈死ななかった男の子〉には〈闇の王〉の知りえぬちからが宿っている。 ハリーなら自分のいのちを犠牲にしてでもアズカバンを破壊しようとしていたにちがいない。」  ダンブルドアはやさしげな声になっている。 「つまり、ハーマイオニー、きみが自分を責める理由はどこにもない。」

 

「その気になれば、わたしはハリーをとめることができました。」

 

ダンブルドアの目に小さなかがやきが見えたが、すぐにまた疲労の色に飲みこまれた。 「ほう、そう思うかね? それならわしよりきみが総長をやるべきなのかもしれんな。わし自身、聞き分けのない子どもたちが手に負えないことはままある。」

 

「ハリーはこのあいだ——」  そのつづきが言えない。真実をくちにしてしまうことが苦しい。 「ハリー・ポッターはこのあいだ——わたしがいやだと言えば、わたしを助けることはしないと、約束してくれました。」

 

そこで話がとぎれた。 マクゴナガル先生がいたときには部屋の奥からかすかに聞こえる音があったが、ダンブルドア総長に起こされてからは無音だ。 ベッドに身をよこたえて、見えるのは天井と壁の窓の一部分だけ。視界になにひとつ動くものはなく、耳にはなんの音も聞こえない。

 

「ああ……。そういうことなら、彼が約束をまもろうとする()()()は一応、考えられる。」

 

「そうです——だからわたしは——わたしはあそこで——」

 

「みずからすすんでアズカバン送りになっていればよかった、と? ミス・グレンジャー、それは大変な重荷じゃ。わしとしてはだれにもそのような重荷を負わせたくない。」

 

「でも——」  ハーマイオニーはそこで息をすった。 いまダンブルドアが使った言いまわしには一つ抜けみちがある。レイヴンクロー寮の肖像画兼出入り口を使っていれば、自然とこういう細かい表現の機微に気づくようになる。 「でも、もし()()()()()()()()()()()()()()、すすんでやっていたということですね。」

 

「それは——」とダンブルドアが言いかけた。

 

「なぜ……」と声がほとんど勝手に話しだす。 「なぜわたしはくじけてしまったんでしょうか。以前は——一月には——ハリーのためにすすんでディメンターと対決しようとすることができたのに——なぜ今度は——」  宣告された刑を受けいれてアズカバンに行くという選択肢を、なぜ考えようともしなかったのか。なぜ〈善〉へのこだわりをすっかり忘れてしまったのか——

 

「ハーマイオニー……」  ダンブルドアの半月眼鏡のなかの青い目はハーマイオニーの内心の罪悪感を見とおしているように見える。 「きみとおなじ年齢のころのわしと比べても、きみは十分よくやった。ひとを大切にするのとおなじように、もうすこし自分を大切にしなさい。」

 

「つまり、わたしはまちがったことをしたんですね。」  まちがいであったことはもう分かっているが、それを自分から言い、他人からも言われる必要があるように思えた。

 

沈黙。

 

「わしがこれから言うことをよく聞きなさい。 悪をなすものはたいてい、自分が邪悪だとは考えない。それぞれがもつ自分自身の物語で、勇敢な主人公を演じようとしている者がほとんどだと言える。 わしはかつて、究極の邪悪は大いなる善の名のもとにおこなわれるものと思っていた。実際には、まったくそうではなかった。 この世界には、自分が邪悪だと知りながら悪をなす者がいる。全身全霊をもって善を憎む者がいる。 あらゆるよきものを破壊しようとする者がいる。」

 

ハーマイオニーはベッドのなかで悪寒を感じた。ダンブルドアがそう言うと、どこかとても真実味があった。

 

「ハーマイオニー・グレンジャー、きみもそのよきものの一つであり、だからこそその悪はきみを憎む。 たとえきみが今回の試練に耐えていたとしても、敵の攻撃はいっそう熾烈さを増し、それはきみが倒れるまでつづく。 英雄(ヒーロー)なら倒れないものだと思ってはならん。 われわれは倒れにくくできているにすぎない。」  老魔法使いはかつてないほど厳しい目をしている。 「何時間も消耗した状態におかれ、苦痛と死が一時の恐怖ではなく確定した未来として見えたとき、英雄的であることはむずかしい。 たしかに事実として——いまのわしは、おなじ立ち場におかれればアズカバン送りを甘受していたと言うことができる。 しかしホグウォーツ一年生の当時のわしは——きみがすすんで対決しようとしたあの日のディメンターからも逃げだしていたであろう。わしは父親をアズカバンでなくした。だからディメンターが怖かった。 今回きみを襲ったのは、だれをくじいていてもおかしくない悪であり、わしですら無事ではなかったかもしれん。 ハリー・ポッターだけが、いずれ成長すれば、その巨悪に立ちむかうことができる。そのことをよくおぼえておきなさい。」

 

ハーマイオニーはおなじ姿勢でダンブルドアを見つめていることができなくなり、 ベッドにもたれ、枕にあたまをのせた。そうして今度は天井を見つめ、たったいま言われたことをよく噛みしめた。

 

「なぜ……なぜそんな悪になろうとする人がいるんですか? 理解できません。」  また声が震えていた。

 

「わしもそのことは考えてきた。」  ダンブルドアの声には深い悲しみがあった。 「三十年間考えて、いまだに理解できていない。 きみやわしのような人間には理解できないことなのじゃろう。 ただすくなくとも、これは分かる。真の悪は、なぜ悪になったのかと問われればきっと、『ならない理由がない』と答えるにちがいない。」

 

一瞬、ハーマイオニーのなかで怒りの炎が燃えた。 「いくらでもあるじゃありませんか!」

 

「まさしく。いくらでも、ありすぎるほどにある。 われわれ二人は理由を滔々と答えることができる。 きみが自分を責めたことばを借りれば——きみはたしかに今日の審判をまえにして、くじけてしまったと言えよう。 しかし、くじけた()()()なにが起きるか——それも英雄であることの一部じゃ。 ハーマイオニー・グレンジャー、きみはすでに英雄(ヒーロー)であり、それはこれからも変わらない。」

 

ハーマイオニーはもう一度顔を起こし、ダンブルドアを見つめた。

 

老魔法使いはベッド脇から立ちあがって、銀色のひげがはっきりと垂れるほど重おもしい一礼をした。そして去っていった。

 

ハーマイオニーはそれを見送ってからも、そのままおなじ方向をじっと見ていた。

 

もっとなにか感慨があるべきところではないだろうか。すこしは気が晴れていていいのではないだろうか。あれだけなかなか認めようとしなかったダンブルドアに英雄(ヒーロー)として認めてもらえたのだから。

 

なのに、なにも感じない。

 

ベッドに倒れこむと、ちょうどマダム・ポンフリーが来て、(から)いなにかを飲ませられた。唐辛子のような刺激があり、においはもっと(から)く、くちのなかが燃えそうになり、それでいてなんの味も感じられなかった。 意味を感じなかった。 ハーマイオニーはベッドに身をよこたえ、遠い天井の石のタイルをじっと見つづけた。

 

◆ ◆ ◆

 

ミネルヴァは医務室の両開きの扉のまえで、そわそわしないように注意しながら、待っていた。子どものころ、自分がこの扉を『不吉な門』だと思っていたことをつい思いだす。実際、この部屋で口にされた悲報はあまりに多い——

 

アルバスが医務室を出た。アルバスは立ちどまることなく、そのままフリトウィック教授の部屋へ向かう。ミネルヴァはそれを追う。

 

一度咳ばらいをしてから、声をかける。 「もうすんだのですね?」

 

アルバスはまず、無言でうなづいた。 「これで、彼女の身に敵意ある魔法がかけられたり、霊が触れることがあれば、わしがすぐに気づき、駆けつけることができる。」

 

「〈転成術〉の授業のあとで、ミスター・ポッターと話したのですが……。 ミスター・ポッターは、ミス・グレンジャーをホグウォーツからボーバトンに転校させるべきだと言っています。」

 

アルバスはくびをふって言う。 「いや。ミス・グレンジャーが真に標的とされたのであれば——ヴォルデモートは獲物を決してのがさない。 ヴォルデモートのもとにはすでにかつての部下たちがもどっているはず。取りもどしたのがベラトリクスだけとは考えられない。 アズカバンの防衛ですら不足であったなら、ボーバトンも——安全とはいえまい。 ヴォルデモートの憑依能力はおそらく頻繁には使えないか、標的の実力しだいで抵抗しうるものではないかと思う。そうでもなければ、この一年がこの程度のことですんでいたはずがない。 ここにはハリー・ポッターもいる。ヴォルデモート当人が認めようが認めまいが、ヴォルデモートはまちがいなくハリー・ポッターを恐れている。ミス・グレンジャーにはこうして結界もかけた。現時点で、彼女にとってホグウォーツ以上に安全な場所はない。」

 

「それがミスター・ポッターには信じられないようですよ。」  どこかでまったくおなじように感じている自分がいる。そのせいで、ミネルヴァはついちくりとした言いかたをしてしまう。 「『常識的に考えれば、ミス・グレンジャーが今後の教育をうけるべき場所はホグウォーツではありえない』のだそうです。」

 

老魔法使いはためいきをついた。 「彼はマグルに染まりすぎたのかもしれんな。 マグルはいつも安全をもとめる。安全が手にはいるものと思っている。 われわれの本拠地の真ん中でミス・グレンジャーの安全を守ることができないというなら、そのほかの場所に行かせることで安全が増すはずがない。」

 

「そう考えない人もいるようです。」  ミネルヴァは一度自室にもどり机の上にとどいたものをざっと見たとき、ほとんどまっさきにその手紙が目にはいった。最上級の羊皮紙の封筒で、封蝋は緑がかった銀色。ヘビの刻印が動き、ミネルヴァを威嚇していた。 「マルフォイ卿からのフクロウ便で、息子を退学させるという届がありました。」

 

老魔法使いはうなづくが、歩みをとめない。 「ハリーもそのことを?」

 

「知っています。」  そのときハリーがつかった表現を思いだそうとして、すこし声がとぎれる。 「その話をしたところ、ミスター・ポッターはマルフォイ卿の判断は賢明だと言って賞賛していました。つぎの標的はネヴィル・ロングボトムかもしれないから、マダム・ロングボトムに手紙を書いておなじようにすることをすすめてはどうか、とも言っていました。おばあさんが退学の判断をしてくれないなら、ネヴィルにも〈逆転時計〉と不可視のマントとホウキとその一式をいれられるポーチとをあたえてほしいとも。それと、ホグウォーツの結界の外で誘拐された場合にそなえて、緊急脱出用に足の指にはめる指輪型のポートキーも持たせておいてほしいとも。 わたしからは〈魔法省〉はそのような目的での〈逆転時計〉の使用を許可しないと言っておきましたが、ミスター・ポッターはほんとうにそうなのか、問い合わせしておいてほしいと。 ミス・グレンジャーが退学しないのであれば、ミスター・ポッターは彼女にも同様の処置を要求するでしょう。 ミスター・ポッター自身には、ポーチにしまうことができる三人乗りのホウキを用意してほしいそうです。」  これだけの準備をもとめられたことについて、ミネルヴァはおどろかなかった。的確な指摘だとは思ったが、おどろきはしなかった。〈転成術〉の教師にとって、危険に対してこのくらい備えるのは当然のことだ。 それでも、ハリー・ポッターにはホグウォーツが呪文の研究と同等の危険をもたらすものに見えているのだと思うと、ぞっとせずにはいられない。

 

「〈神秘部〉はそう簡単に折れてはくれまい。しかし、そのほかの点については……」  アルバスはその場でわずかにしぼんだように見えた。 「……要求どおりにしてあげてもよい。 ネヴィルにも結界をかけておく。オーガスタには、ネヴィルを休暇中も学校から離れさせないよう、手紙で頼んでおこう。」

 

「最後にもうひとつ。ミスター・ポッター本人がつかった表現を借りれば——『総長が〈闇の魔術師〉を引き寄せるなにをこの学校に置いているのか知りませんが、()()()()それを学校外に移してもらいます』、だそうです。」  ミネルヴァも同感だったのでつい、とげのある声になった。

 

「フラメルに頼んではみた。」  苦悩がアルバスの声にあらわれている。 「しかしマスター・フラメルは——もはや自分では〈石〉を安全に保管することができないと——どこに隠そうともその場所を言いあてる方法をヴォルデモートは手にしていると答えた。ホグウォーツ以外のどこに保管することにも同意しないと言っている。 ミネルヴァ、われわれにはこうするほかないのじゃ!」

 

「そうおっしゃるなら。けれどわたし個人は、ミスター・ポッターの意見に全面的に理があると思いますよ。」

 

老魔法使いはミネルヴァを一瞥してから、ぽつりと言った。 「ミネルヴァ、おぬしとは長いつきあいになる。とりわけ存命の仲間のなかでは——。もしや、わしはすでに暗黒にとりこまれてしまっているのではないか?」

 

「え?」  ミネルヴァは純粋におどろいた。 「そんな、まさか!」

 

老魔法使いのくちびるが一度かたく結ばれた。 「より大きな善のために。わしは、より大きな善のために、あまりに多くの人びとを犠牲にしてきた。 今日もまた、より大きな善のためにハーマイオニー・グレンジャーをアズカバンに追いやろうとした。そして今日、気づかぬうちに——自分がうしなった純真さを恨むようなことまでしていた——。善の名のもとにおこなわれる悪。 悪の名のもとにおこなわれる悪。 はたして、どちらがましなのか。」

 

「またおかしなことを。」

 

アルバスはまたミネルヴァを一瞥し、そしてまた、行く手に視線をもどした。 「では聞くが——おぬしは今日、ミス・グレンジャーに自分自身をポッター家に束縛する誓約をさせた。そうするまえに一度立ちどまって、それがどんな影響をもたらしうる行為であるかは考えたか?」

 

ミネルヴァは自分がしたことの意味に気づいて、思わずはっとなった——

 

「やはりそうか。」  アルバスの目は悲しげだった。 「いや、謝る必要はない。あれでよかったのじゃ。 今日のわしの言動を見たことで——おぬしが第一に忠誠を寄せる相手がわしからハリー・ポッターにかわったのであれば、なにもまちがっているとは思わない。」  ミネルヴァは抗議の声をあげようとしたが、アルバスはそのままつづけた。 「そう——まさしく、そうでなければならん。もしハリーが成長したあかつきに倒すべき〈闇の王〉というのが、実のところヴォルデモートでなかったのだとすれば——」

 

「もうその話はたくさんです! アルバス、ハリーに対等な相手としてのしるしをつけたのは〈例の男〉です。予言で言及された人物があなたであるというような解釈は不可能です!」

 

老魔法使いはうなづいたが、その目は道のさきのはるか遠くに向けられているようだった。

 

◆ ◆ ◆

 

〈魔法法執行部〉の奥深くにある、拘置所の監房。ここには贅沢な調度品がそろっている。といってもこれは成人魔法族に当然必要な設備と考えられているにすぎず、囚人を特別尊重してのことではない。 椅子には自動で温まる素材とつややかな生地がつかわれており、自動で角度を調整し前後に揺れ動く機能もついている。 書店の特売コーナーから仕入れられた本がならぶ書棚もあり、一八八三年にさかのぼる骨董品的な雑誌でいっぱいの棚もある。 衛生面では充実した設備があるとは言いがたいが、部屋全体にかけられた魔法の効果により在室者はその手の身体機能をすべて停止させられている。これは囚人をいつも監視の〈闇ばらい〉から見える場所におくための処置だが、 その点をのぞけば至極快適な監房である。 ホグウォーツ〈防衛術〉教授はここで拘留されているのであり、逮捕されてはいないし恫喝されてすらいない。 告発に足る証拠は存在しない……とはいえ、ふつうでない犯罪がホグウォーツ魔術学校でおこなわれたとき、現職の〈防衛術〉教授が()()()()()かたちでかかわっている可能性は高い。これまでの実績では、六回中五回がそうだった。 さらには、〈魔法法執行部〉所属者のだれ一人としてこの〈防衛術〉教授を知る者がなく、その素性を何度あばこうとしてもこの男は文字どおり()()()()()()でかわしてしまうことも分かっている。 この『クィリナス・クィレル』はそう簡単に釈放されていい人物ではなかった。

 

あらためて強調すると……

 

〈防衛術〉教授は……

 

監房に……

 

拘留されている。

 

〈防衛術〉教授は監視の〈闇ばらい〉に目をむけたまま、鼻歌を歌っている。

 

〈防衛術〉教授はこの監房に到着して以来、一言も話さず、 ただ鼻歌だけを歌っている。

 

歌われたのは最初、素朴な子守歌だった。マグル世界のブリテンでは『Lullaby and goodnight……』の歌いだしで知られる曲である。

 

〈防衛術〉教授はそのおなじ曲の鼻歌を、すこしも手をくわえずに、七分間にわたってひたすらくりかえした。そうすることで、基礎となるパターンを確立させた。

 

それから変奏がはじまった。 フレーズの進行が遅くなり、無音の区間がのび、ひたすら待たされてやっと、つぎの音、つぎのフレーズが来る。 来たかと思えば、ひどく音程が外れている。まえのフレーズとずれているという意味ではなく、そもそもありえない音程であり、こんな歌いかたをするのは何時間もの訓練をへて逆絶対音感を身につけた歌い手だからだとしか考えられない。

 

ディメンターの空虚な声に人間の声の名残りが感じられないのとおなじように、この鼻歌にも音楽の名残りを見いだすのがむずかしい。

 

音楽とは言いがたいその鼻歌を、聞き手は無視しようにも無視することができない。 よく知られた子守歌に似た曲でありながら、不規則な変化がまぎれこむ。 つぎの展開を予想させては裏切り、一定のパターンに落ちつくことがない。背景に埋没して聞き手の耳を休ませることがない。 聞き手の脳は無意識にその反音楽的なフレーズの完成のしかたを予想してしまい、予想を裏切る展開におどろきを感じてしまう。

 

このような様式の鼻歌が存在しうる理由があるとすれば、ありがちな拷問を考えだすのに飽きた残虐な発明家が、ある日退屈しのぎに、()()()()()()()()()()人間を狂わせるができるかという実験を思いついて実行してみた結果だとしか考えられない。

 

監視の〈闇ばらい〉がこの悪夢のような鼻歌を聞かされつづけてもう四時間になる。そのあいだ、正面から見ていても視界の端にだけ見ていても、男の存在から発せられる冷たく巨大な殺気にさらされているように感じてもいる——

 

鼻歌がとまった。

 

つぎの音がやってこないまま時間がすぎ、このまま終わってくれるのではないかと思ってしまいそうになる。しかしこの程度の休息ははじめてではなく、そのたびに期待は裏切られてきた。 そして間隔がのび、またのびたことで、いま一度、希望がふくらみ——

 

鼻歌は再開した。

 

〈闇ばらい〉は耐えられなくなった。

 

〈闇ばらい〉はベルトからはずした鏡を一度たたいて、通話する。 「こちら三号室のアージュン・アルトゥナイ巡査。コードRJ−L20を要請する。」

 

「コードRJ−L20だと?」  鏡の相手はおどろいたらしく、つづけてページをめくる音がした。 「『囚人に精神攻撃をしかけられて負傷したため、交代をもとめる』?」

 

(アメリア・ボーンズは察しがよい。)

 

「囚人になにを言われた?」

 

(RJ−L20の手順書に書かれたとおりにすれば上官がこの質問をすることはないのだが、残念ながらアメリア・ボーンズはそこに『質問するな』という命令を書きそこねていた。)

 

「なにをって——」  ふりかえって見ると、〈防衛術〉教授はゆったりと椅子に背をもたれさせている。 「この男はずっとこちらを()()いた! それと()()()()()()()()んですよ!」

 

鏡が返事するのにしばらくかかった。

 

「それがRJ−L20を要請するようなことか? 監視役をやめたくて言ってるだけじゃないだろうな?」

 

(アメリア・ボーンズの部下は間抜け者だらけである。)

 

「いや、ほんとにひどい鼻歌なんですよ!」

 

鏡のむこうで、遠くから忍び笑いの音がした。笑っているのは一人だけではないようだった。 「ミスター・アルトゥナイ。巡査代理に降格されたくなかったら、あきらめておとなしく仕事するんだな——」

 

「待った。」と、きびきびとした声がした。鏡からやや遠い位置からの声のようだった。

 

(こういうこともあろうかと、〈魔法法執行部〉が対策本部をたてるたび、アメリア・ボーンズは〈魔法省〉用の書類仕事を片手に、現場に同席するようつとめている。)

 

「アルトゥナイ巡査。」とおなじ声が言う。話しながら鏡にむかってきているようだ。 「交代が着きしだい離れてよし。 ベン・グチエレス巡査長、RJ−L20の対応手順では、理由をたずねる必要はない。 手順では、交代を申請した〈闇ばらい〉には無条件で許可をだすことになっているはず。 ()()だれかがこれを悪用することがあれば、そのときはこちらで手順書を修正する。それまでは勝手な判断はせず——」  鏡の通話は途中で切れた。

 

〈闇ばらい〉は勝ちほこった表情でふりかえり、向かいの椅子にゆったりと腰かける〈防衛術〉教授現任者の顔を見ようとする。

 

監房に来て以来無言だったその男が、ついに口を開く。

 

「さようなら、ミスター・アルトゥナイ。」

 

数分後、監房入り口のドアが開いた。はいってきたのは白髪まじりの女性。赤く染められた〈闇ばらい〉のローブには階級章らしきものがない。左腕には黒革のファイルをかかえている。女性は「交代。」とだけ言った。

 

アルトゥナイが一瞬遅れて顛末を話そうとするが、 女性はただ短くうなづいて、ぶっきらぼうに指をドアに向けて一振りする。

 

「ごきげんよう、長官。」と〈防衛術〉教授が言った。

 

アメリア・ボーンズは『長官』の単語に反応することなく、椅子にどかりと腰をおろす。 黒色のファイルをひらき、そのなかの書類に視線をおとす。 「ホグウォーツ〈防衛術〉教授現任者の正体に関する手がかりについて。報告者は〈闇ばらい〉ロバーズ。」  一枚目の羊皮紙がぺらりとめくれ、脇にどく。 「〈防衛術〉教授当人はスリザリンに〈組わけ〉されたと主張。 家族をヴォルデモートに殺されたと主張。 マグル界のアジアで格闘術を学んでおり、その教室がヴォルデモートに壊滅させられたと主張。 〈国際魔法協力部〉へ照会したところ、〈一九六九年の(オニ)事案〉という名前で該当する記録あり。」  また一枚の羊皮紙がめくれる。 「また、この人物は冬至(ユール)直前の授業できわめて扇動的な演説をおこない、生徒たちの親世代が一致して〈死食い人〉に反攻できなかったことを非難した。」  老魔女は黒革のファイルから顔をあげた。 「マダム・ロングボトムはこの演説をいたく気にいったらしく、わたしも全文を読むようにと言われ、 読んでみると、聞きおぼえのある論調だと思った。けれど、どこで聞いたのだったか、すぐには思いだせなかった。 ……思いだせなかったわけだわ。あなたのことは、死んだものとばかり。」

 

ブリテン魔法界の軍警察組織の頂点に立つ女が、魔法強化ガラスの向こうがわの監房にいるホグウォーツ〈防衛術〉教授である男をにらむ。 男もおなじ視線をかえすが、表情に切迫感はない。

 

「名前はひかえておくけれど、ある人の話をするから、聞いてみてほしい。あなたも知っている話かもしれない。一九二七年生まれ。一九三八年にホグウォーツに入学、組わけはスリザリン。一九四五年に卒業。 卒業旅行として世界各地をまわり、アルバニアで消息を断つ。 死亡したものと思われたが、一九七〇年、なんの前触れもなくブリテン魔法界にもどる。もどったのちも、二十五年間行方不明であった理由を説明しようとしない。 一族からも友人からも見はなされ、孤独な生活をおくる。 一九七一年、ダイアゴン小路へ来たおり、ベラトリクス・ブラックに誘拐されかけた〈魔法省〉大臣の息子を救い、ブラックに同行していた〈死食い人〉二名を〈死の呪い〉で殺す。 このあとは国じゅうだれでも知っている話だと思うけれど、話す必要はあるかしら?」  そう言ってまた一度顔をあげる。 「……よろしい。 彼は〈死の呪い〉を使用したことでウィゼンガモートの審判にかけられたが、彼の一族の当主であった祖母の口添えもあり、無罪となる。 一族とも和解し、和解を祝う宴が企画された。彼が宴の場に到着すると、一族が〈家事妖精(ハウスエルフ)〉にいたるまで一人のこらず〈死食い人〉たちに惨殺されていた。傍流であった若い彼一人が生きのこり、〈元老貴族〉家継嗣となった。」

 

〈防衛術〉教授はこの話のどの部分にも反応しなかったが、うんざりしたように目を半分閉じていた。

 

「彼はウィゼンガモートでの一族の議席を相続し、〈例の男〉を糾弾する最強硬派となった。 みずから軍を率いて〈死食い人〉勢力と対決し、戦略家としても戦士としても才能を発揮した。 やがてダンブルドアの後継者と目されるようになり、〈闇の王〉が倒されれば〈魔法省〉大臣にもなると言われた。 その彼が一九七三年七月、重要なウィゼンガモートの投票に欠席し、以後消息をたった。 〈例の男〉に殺されたのだろうとわれわれは判断した。 彼をうしなったことでわれわれの陣営が受けた打撃は大きかった。それ以来、苦しい日々がつづいた。」  老魔女は問いかけるような視線を送っている。 「わたし自身もあなたを追悼した。あれからなにが?」

 

〈防衛術〉教授が小さく肩をすくめる動きをした。 「仮定につぐ仮定だな。 個人的な意見を言うなら……そんな男は何年もまえに死んだものと思うべきだろう。 しかしまだ生きているのだとすれば——生きていることを知られたくないのだろう。消息をたったままでいることにも理由があるのだろう。 聞けば、その男はあなたに貸しがあるようでもある。」  口もとに皮肉な笑み。 「とはいえ、受けた恩も時とともに薄れていくことくらいは、わたしも知っている。またその男になにかさせようと言う魂胆かな?」

 

老魔女は取り調べ官用の椅子に背をあずけ、おどろいた顔をした。傷ついた顔とさえ言えるかもしれない。 「……いいえ——」  そう言って黒革のファイルを指でたたくその仕草は、()()()()()()()ようにさえ見えた。アメリア・ボーンズがとまどうことなどありえるならば。 「ただ、あなたの()()のことが——〈元老貴族〉家はもうそういくつも残ってはいないのだから——」

 

「〈元老貴族〉家の数が八から七に減ろうが減るまいが、この国にはなんの影響もないだろう。」

 

老魔女はためいきをついた。 「ダンブルドアはなにを考えてこんなことを?」

 

監房のなかの男はくびをふった。 「ダンブルドアはわたしの正体を知らない。調査もしないと約束した。」

 

老魔女の眉が上がった。 「だとしたら、ホグウォーツ城の結界に対してはどう登録を?」

 

薄笑い。 「総長は円をえがいて、この円のなかにいる男は〈防衛術〉教授だ、とホグウォーツ城に告げた。 ついでに言うなら——」  低く平坦な声になる。 「わたしもそろそろ授業の時間なのですがね、ボーンズ長官。」

 

「あなたはときどき——特殊な方法で()()をとることがある、という報告もある。 そしてその()()の頻度はどんどんあがっている、とも。」  老魔女の指がまたファイルをたたく。 「ものの本にもそういった症状のことは書かれていなかったと思うけれど、第一印象としては……〈闇の魔術師〉と戦って、ひどい呪いを受けた場合の症状のように思える……」

 

〈防衛術〉教授はやはり表情を変えない。

 

「もし癒者の助けがいるなら……それ以外でも、なにかできることがあれば、言ってほしい。」  アメリア・ボーンズの仮面が揺らぎ、目のなかに苦悩の色が見えた。

 

「わたしはホグウォーツ〈防衛術〉教授の職をまっとうしたい。 ……ここまでの話をどう受け取るか、判断はご自由に。 とにかく、もう残りわずかな授業がはじまる時間だ。 ホグウォーツに帰らせていただきたい。」

 

◆ ◆ ◆

 

ハーマイオニーが三度目に目ざめたとき(目をとじていた時間はごく短かったように思った)、太陽はほとんど沈みきっていた。 すこしだけ活力がもどったように感じ、同時になぜか疲労が深まったようでもあった。 今度はフリトウィック先生がベッドの脇にいて、ハーマイオニーの肩をゆすっていた。となりには湯気のたつ食事のプレートが浮遊させてあった。 ハリー・ポッターがベッドのそばにいたような気がしたが、実際にはいなかった。 夢で見たのではないかとも思うが、夢を見た記憶はなかった。

 

(フリトウィック先生によれば)すでに大広間での夕食の時間はすぎていて、ハーマイオニーは食事のために起こされたのだった。 このあとはレイヴンクロー寮にもどり、自分のベッドで朝まで寝ればいいという。

 

食事は無言で食べた。 事件について、フリトウィック先生の意見も聞いておきたいような気もした。あれは〈記憶の魔法〉のせいだったと思うか。それともわたしが自分の意思でドラコ・マルフォイを——

 

——わたしの記憶にあるとおりに——

 

——殺そうとしたのだと思うか。けれど、知りたくないという気持ちのほうが大きかった。 なにかを()()()()()()と思うことは危険な兆候だと、ハリー・ポッターやハリー・ポッターから借りた本が言っていた。ただ、ハーマイオニーの精神は疲労と()が深く、その気持ちを乗りこえる気力をだすことができなかった。

 

フリトウィック先生に連れられて医務室をでると、扉の外でハリー・ポッターが床に足を組んで座り、心理学の教科書を読んでいた。

 

「ここからはぼくが連れていきます。マクゴナガル先生の了解はとってあります。」

 

フリトウィック先生はそれで納得したらしく、二人に一度するどい視線を送ってから、去っていった。 その視線にどういう意味があったのか、ハーマイオニーは想像がつかなかった。もしかすると『これ以上うちの生徒を殺そうとするなよ』という意味だったのだろうか。

 

フリトウィック先生の足音が消えていき、二人は医務室の扉のまえにのこされた。

 

ハーマイオニーは〈死ななかった男の子〉の緑色の目を見た。ぼさぼさの髪の毛にあまり隠れていない、ひたいの傷あとを見た。なんのためらいもなく全財産を投げうって自分を救ってくれた少年の顔を見た。 さまざまな感情が——罪悪感、後ろめたさ、恥ずかしさ、そのほかにもさまざま感情が——こころのなかを巡る。そのどれをことばにしようとしても、できない。

 

ハリーが唐突に話しだす。 「ちょっと手もちの心理学の本で、心的外傷後ストレス障害(PTSD)のことを調べてみたんだけど。 古い本に書かれているやりかただと、事件直後にカウンセラーと面談して、自分の経験をことばにしてみるといい、ということになっている。 新しい研究によると、直後に話すやりかたは実は症状を悪化させるということが実験で分かっている。 つまり、自然な欲求にしたがってそのできごとの記憶を抑圧してしまって、しばらく考えないようにするのが一番いいらしい。」

 

あまりに()()()()()()のハリーのその話しかたを聞いて、のどが焼けるように熱く感じた。

 

いまは事件のことを話さなくてもいい——。要するにそういうことだろう。 話さない、というのは卑怯に感じられる……というより、うそのように感じられる。 なにひとつ、()()()()()()ではない。 あやまちはまだひとつも正されていない。言うべきことをいま言わないのは、ただ問題を先おくりしているにすぎない……

 

「わかった。」  ハーマイオニーはそう言った。それ以外に言えることはなかった。

 

二人は歩きだした。

 

「きみが起きたときにいてあげられなくてごめん。 医務室にはいろうとしたらマダム・ポンフリーに止められて、扉の外で待っていたんだ。」 と言ってハリーは小さく悲しげに肩をすくめた。 「もっと外にでて、悪いイメージを押し返すようなキャンペーンを打っていたほうがよかったんだろうけど……正直言って、ぼくはそういうのが得意じゃない。 喧嘩腰で反論しようとしてしまったりするから。」

 

「どれくらいひどいの?」  そっと言ったつもりだったが、実際にはそういう声にならなかった。

 

「うーん……それを言うまえにまず話しておきたいことがある。朝食の時点ではきみに味方する人もかなりいたんだけど、その味方っていうのがみんな……()()()()()()()()()()言っていてね。 ドラコがさきにきみを殺そうとしただとか、そういうことを。 グレンジャーにつくか、マルフォイにつくか、という話になってしまっていた。相手を下げれば自分が上がるシーソーのように。 ぼくは多分()()()()無実で〈記憶の魔法〉をかけられただけだと言ってやったんだけど、 だれも耳を貸さなかった。どちらの陣営からも、中立にたとうとする裏切り者のように思われたらしい。 それからドラコが〈真実薬〉を投与されて、決闘のまえまではきみを助けようとしていた、ということを証言したという情報がはいって——その表情はやめて。きみはなにもしていないんだから。 とにかく、それが決め手になって、マルフォイ派が正しくてグレンジャー派がまちがっていた、と結論がでたような感じになってしまった。」  ハリーは小さくためいきをつく。 「ぼくは、真実があきらかになったときはみんな恥ずかしい思いをすることになるぞ、とも言ってやったんだけど……」

 

「どれくらいひどいの?」  一度目よりも、弱い声になった。

 

「このあいだアッシュの同調性実験の話をしたよね?」と言ってハリーはハーマイオニーと目をあわせ、真剣な表情をした。

 

記憶が浮かびあがるのがいつになく遅く、言われてから()()()()()()()()()()()()。ハーマイオニーはそのことにぞっとしたが、最終的に情報はでてきた。 一九五一年、ソロモン・アッシュが数人の被験者をあつめ、その一人一人を別々の集団に入れた。各集団の人びとはみな被験者と似た格好をしてはいるが、実験主催者の秘密の指示のもとに動くサクラだった。 主催者はXというラベルがついた線と、線A、線B、線Cの三本とをスクリーンに表示し、その人たちに見せる。主催者は『Xはどの線とおなじ長さか』とたずねる。正解はどう見てもCなのだが、 被験者のふりをしているサクラはそろって『B』と回答する。真の被験者が回答する順番は(最後だとあやしまれそうなので)最後から二番目と決められていて、 このとき被験者はほかの全員が言う誤答に『同調』するのか、あきらかに正解である『C』という回答をすることができるか。それを調べるのが実験の目的だった。

 

全体の七十五パーセントの被験者が最低一回は『同調』した。 五割以上の頻度で同調した被験者も、全体の三分の一いた。 あとで聞いても、本心からBだと思ったのだと言う人もいた。 サクラ全員が被験者の知人ではない場合でもそうだったが、 被験者と同じ集団に属するサクラを用意すると——たとえば、車椅子の被験者には車椅子に乗ったサクラを用意しておくと——さらに強い同調効果があったのだという……。

 

そこまで思いだして、ハリーが言おうとしていることが見えたような気がして、苦しくなった。 「……ええ。」

 

「〈カオス軍団〉の兵士には、ちゃんとそういう訓練をしてあるんだよ。 一人を全員に囲まれる位置に立たせて、『二たす二は四!』とか『草の色は緑!』を言わせて、周囲の全員でそれを笑い者にしたりとか——アレン・フリントはとくにそれがうまい——ぽかんとした目でその一人を見てから全員が立ち去るとか、そういう訓練を。 でもこういうことは〈カオス軍団〉でしかやっていない。 ほかのホグウォーツ生はみんな、同調性とはなにかすら知らないんだ。」

 

「答えてよ! どれくらいひどいの?」

 

ハリーはまた悲しげに肩をすくめた。 「きみのことをよく知らない、二年生以上の生徒全員。 〈ドラゴン旅団〉の全員。 スリザリン生ももちろん全員。 それと……その……ブリテン魔法界の住人ほぼ全員がそうじゃないかと思う。 『予言者日報(デイリー・プロフェット)』もルシウス・マルフォイの支配下だからね。」

 

「全員?」  温水でないプールから出てすぐのときのように、手足が冷たく感じた。

 

「ひとがなにかを強く信じると、そのひとにとってそれは()()ではなく、世界のありかたそのもののように感じられる。 きみとぼくは、ハーマイオニー・グレンジャーが〈記憶の魔法〉をかけられた宇宙という、小さな泡のなかにいる。 ほかのひとたちはみな、ハーマイオニー・グレンジャーがドラコ・マルフォイを殺そうとした宇宙にいる。 もしアーニー・マクミランが——」

 

ハーマイオニーは息がとまりそうになった。マクミラン隊長が——

 

「——きみと友だちづきあいをつづけることは自分の倫理が許さない、と思っているとすれば、彼としては自分が考える世界のなかで正しいことをしようとしているだけなんだ。」  ハリーはとても真剣な目をしている。 「ハーマイオニー、きみはぼくがほかの人のことを見くだしすぎていると何度も言ったね。 でもほかの人たちに期待しすぎると——ほかの人たちが()()()行動をとってくれると期待してしまうと——結果としてぼくはその人たちを憎むことになる。 理想はともかく、ホグウォーツ生は現に認知科学をよく知らない。だから自分たちの精神のはたらきに責任をもつことができない。 彼らが狂っているのは彼らのせいじゃない。」  ハリーは奇妙にやさしげに話している。まるで大人のように。 「これからきみにはつらい経験が待っているだろうし、きみのような人には余計こたえるかもしれない。 でも、いつかは真犯人が捕まるんだということを忘れないでほしい。 いつかは真実があきらかになって、堂々とまちがいを言っていた人たちが恥をかくことになる。」

 

「でも、もし真犯人が捕まらなかったら?」  声が震えた。

 

……それとも、やっぱりわたしが犯人だったのだとしたら?

 

「そのときは、ホグウォーツを退学してアメリカのセイラム魔女学院に行けばいい。」

 

()()()()()()()退()()?」  自分には究極の罰としてしか考えられない可能性だった。

 

「いや……これはね、選択肢としては十分ありうると思うよ。 ホグウォーツはまともじゃない。一皮むけば狂気そのものと言ってもいい。 世のなかにはほかにも学校はある。」

 

「そ……それは……い……一度考えてみるけど……」

 

ハリーはうなづいた。 「今日の夕食で総長が念押ししてくれたから、すくなくとも今後きみが生徒から呪文をあびせられる心配はないと思う。 あ、それと、ロン・ウィーズリーがすごく真剣な顔で、きみへの伝言をぼくに言いに来た。疑って悪かった、これからは二度ときみの悪ぐちは言わない、って。」

 

「あのロンが、わたしのことを無実だと思ってるの?」

 

「うん、いや……『無実だと思ってる』って言うと語弊があるかな……」

 

◆ ◆ ◆

 

二人がレイヴンクロー寮にはいると、室内がしんとなった。

 

全員が二人を見ていた。

 

全員がハーマイオニーを見ていた。

 

(こういう場面はもう何度も悪夢で見ている。)

 

それから、一人、また一人と目をそらしはじめた。

 

監督生として一年生の面倒を見る立ち場にある五年生ペネロピ・クリアウォーターも、これ見よがしに顔をそむけた。

 

ハーマイオニーが目をあわせようとすると、テーブルをかこんで座っていたスー・リーとリサ・ターピンとマイケル・コーナー——三人とも、ハーマイオニーが宿題を手つだったことのある同級生だ——も急にとまどって目をそらした。

 

ラティーシャ・ランドルという、スリザリン生にいじめられていたところをS.P.H.E.W.が二度救ったことがある三年生女子は、机にむかって急いでかがみこんで宿題を再開した。

 

マンディ・ブロクルハーストも目をそらした。

 

これを見てハーマイオニーが泣きださなかったとすれば、こうなることを事前に何度となく想像して、こころの準備をしていたからにすぎない。 すくなくとも、罵声をあびせられたり、わざとぶつかられたり、呪文を浴びせられたりということはなかったのだから、目をそらされるだけなら、まだましだ——

 

そう思いながらハーマイオニーは一路、一年生女子の階上の共同寝室(ドミトリー)へとむかう階段をめざす。(その足どりを、パドマ・パティルとアンソニー・ゴルドスタインの二人がうしろから見ていたことに、ハーマイオニーは気づかなかった。) うしろから、ハリー・ポッターが静かに話す声がした。 「いずれ真実はあきらかになるんだぞ。 きみたちが本気でハーマイオニーが犯人だと思ってるなら、この紙に署名してもらおうか。ここには『ハーマイオニーの無実が証明されたあかつきには、ハーマイオニーはいつまでもこの件を蒸しかえして当てこする権利がある』と書いてある。さあ、宣誓してもらおう。なにを怖気づくことがある。本気でそう信じているなら、ためらうことはないはずだよ——」

 

ハーマイオニーは階段を途中までのぼったところで、寝室にも同室生がいるのだということを思いだした。

 

◆ ◆ ◆

 

星がまだはっきりと見えないくらいの時間帯。太陽は完全にしずんでいるものの、地平線ちかくの空は赤紫色にくすんでいて、そのあたりに一等星が一つ二つやっと見える程度。

 

ハーマイオニーはバルコニーの周囲に切り立つ石の欄干に両手を押しあてて立っている。塔の階段を途中で脱け出してここに来たのは——

 

——ただ寝室にもどってはいられない——

 

——そう思ったからだったが、その一言を反芻するたびに、『二度と家に帰るな』と言われたような気分になる。

 

見おろすと、だれもいない運動場、薄れゆく夕焼け、芽ぶきつつある草原がとても遠く見える。

 

疲れた。とても疲れていて、思考がまとまらない。眠らなければ。 フリトウィック先生からも、よく眠るようにと言われている。用意された夕食にはまた(ポーション)がはいっていた。 魔法世界ではこうするものなのだろうか。精神的外傷を受けた無実の少女には、ひたすら眠らせることで対処するものなのだろうか。

 

もう寝室に行って眠るべきだと思うけれど、ほかの人がいるところに行くことが怖い。 どういう目で見られるか、あるいは目をそらされるのではないか、ということが怖い。

 

夜が深まるなか、いくつもの思考の切れはしがこころのなかを巡るが、そのどれを完成させることも組み合わせることもままならないほど疲れてしまっている。

 

どうして——

 

どうしてこんなことに——

 

一週間まえにはなにも問題なかったのに——

 

どうして——

 

背後でギッと扉がひらく音がした。

 

ふりかえって、そちらを見る。

 

クィレル先生がバルコニーへの出口の手まえで、壁に背をあずけて立っていた。そのすがたは、たいまつの火が明るい室内の光を背景にして、段ボール製の黒い切り絵のように見える。 室内の光が十分漏れているのに、表情は分からない。 目も顔もすべて夜の闇に沈んでいる。

 

ホグウォーツ〈防衛術〉教授。今回の事件の犯人候補のなかで、もっとも疑わしい人物。そう思うということは、二人目、三人目の犯人候補も想定しているということだが、ハーマイオニーは自分がそうしていることにいままで気づいていなかった。

 

男はその場に立ったまま、なにも言わない。どんな目でこちらを見ているのかも分からない。 そもそも、なにをしにここに来たのか——

 

「わたしを殺しにきたんですか?」

 

返事がわりに、クィレル先生はくびをかしげた。

 

〈防衛術〉教授はハーマイオニーのほうへ踏みだす。片手をあげた黒いシルエットが一歩一歩着実に迫ってくる。まるでハーマイオニーを塔から突き落とそうとするかのように——

 

「『ステューピファイ』!」

 

どっとアドレナリンが流れてあたまが真っ白になり、ハーマイオニーは無意識に杖を手にしていた。口がかってに呪文をとなえ、電撃が杖のさきから飛びだし——

 

——それがクィレル先生の片手のまえで()()()()()()()()()()()()。とらわれた電撃は空中でもがき、シュッと音をだした。

 

電撃の赤い光に照らされて、やっとクィレル先生の顔が見えた。妙に愛情のある笑顔だった。

 

「それでいい。……ミス・グレンジャー、きみはいまもわたしの〈防衛術〉の生徒だ。 自分に害をおよぼすように思える相手を目にして、悲しげに『わたしを殺しにきたんですか』と言ってすませるようではいけない。クィレル点を二点減点だ。」

 

ハーマイオニーはかえすことばがなかった。

 

クィレル先生は人さし指を軽く振って、空中にとまっていた電撃をはじき、ハーマイオニーの頭上を通過させ、夜空のかなたへと飛ばした。バルコニーはまた真っ暗になった。 クィレル先生が外にでて、扉が閉まった。同時にぼんやりとした白い光が二人をつつみ、たがいの顔がまた見えるようになった。クィレル先生は奇妙な笑顔のままだった。

 

「なぜ——なぜあなたがここに?」

 

クィレル先生は答えないまま、また何歩か坂をのぼってバルコニーの縁にちかづき、石の欄干に(ひじ)をのせ、上半身をしっかりと外にのりだして、夜空を見あげた。

 

「わたしは〈闇ばらい〉から解放されて、総長に報告をしてから、まっすぐにここにきた。 わたしは教師であり、きみという生徒への責任があるからだ。」

 

そう言われてハーマイオニーは思いだした。クィレル先生は二回目の〈防衛術〉の授業でハリーに『怒りを制御しろ』ということを言っていた。 そのことを思うと、後ろめたさがさっと全身を駆け抜け、 身動きがとれなくなる。いや、それは実際には起きなかったのだと自分に言い聞かせて、やっとのことで口をひらく——

 

「わたしが——わたしが怒りにまかせて攻撃したという話は事実ではないと——ハリーも言っています——」

 

「そうらしいな。」  クィレルは乾いた口調でそう言い、星にむけてくびを振る。 「ミスター・ポッターにはまったく手を焼かされる。なにをそんなに自滅したがるのかとうんざりさせられたが、あそこまでいくといっそ、つぎはなにをしでかしてくれるのかという興味のほうが優る。 しかし事実認定に関しては、わたしも彼の判断を支持する。 今回の殺人劇には、ホグウォーツ城の結界と総長の監視の目を巧妙にかいくぐるだけの用意周到さがある。 それだけ気がきく犯罪者なら、無実のだれかに罪を着せることも朝飯前だろう。」  やはり視線はよそに向けられたまま、口もとに皮肉な笑みが浮かぶ。 「きみが実際に犯人だという可能性については——いくら有能な教師を自認しているわたしでも、きみのように頑固で才能がない生徒に殺人の極意を教えられるほど万能ではないよ。」

 

ハーマイオニーのこころのなかに、むっとして反論しようとする声があったが、口を動かすほどのちからはなかった。

 

「そう……わたしがここに来た理由は別にある。 ミス・グレンジャー、きみはわたしを嫌っていて、そのことを隠そうともしなかった。いつわりのないその態度にわたしは感謝している。 わたしはいつも、うわべだけの愛よりも本気で憎まれるほうがいいと思っている。 それでもきみはわたしの生徒だ。きみさえよければ、わたしから一言、助言してあげたいことがある。」

 

さきほどのアドレナリンの余波がおさまらないなか、クィレル先生に目をやる。 クィレル先生はただ暗い空を見あげているようだった。空には星が見えはじめていた。

 

「わたしは昔、英雄になろうとしていたことがある。……信じられるかね、ミス・グレンジャー?」

 

「いえ。」

 

「今回も率直な返事をありがとう。 しかしこれは事実なのだ。 ずっと昔、きみやハリー・ポッターが生まれる何年もまえに、救世主とうたわれた男がいた。 名門一族の出身で、正義と復讐を両手にたずさえ、強大な宿敵に立ちむかう、物語の登場人物のような男だった。」  クィレル先生は空を見あげたまま、小さく苦笑いした。 「その当時でさえ、わたしは自分のことを冷笑家だと思っていた。その実、どうだったかというと……」

 

冷気と夜気のなか、沈黙がつづいた。

 

「正直に言って……」と言ってクィレル先生は星を見あげる。 「いまだにわたしには不可解だ。 彼ら全員の命が、男の成功如何にかかっていた。そう分かっていながら、彼らはありとあらゆる方法で男の邪魔をし、男の人生を()()()にした。 わたしも、権力者たちが簡単になびいてくれると思うほど、うぶではなかった。そのためにはなにがしかの見返りが必要だろうとは思っていた。 しかし当時は、彼らの権力そのものが危機に瀕していたのだ。にもかかわらず彼らは前線に出ようとはせず、すべての責任を男に負わせた。わたしにはそれがおどろきだった。 彼らは男の成果がかんばしくなければそれを笑い者にし、自分たちが本腰をいれればずっと大きな成果をあげられると吹聴した。その実、だれも自分の手をくだそうとはしなかった。」  分からないと言うようにくびをふる。 「なにより奇妙なことに——男の宿敵たる〈闇の魔術師〉と呼ばれた男のほうでは、そういったことはなかった。熱心に主人の命令にしたがう部下ばかりだった。 〈闇の魔術師〉が部下に残酷な仕打ちをすればするほど、部下はいっそう熱心に、 さきをあらそって奉仕した。かたやもう一人の男は、自分に命をあずけているはずの者たちに邪魔されてばかりだったというのに……。それがわたしには不可解だった。」  クィレル先生の顔が上をむき、影に隠れた。 「男は貧乏(くじ)を引いて戦場に身を投じたばかりに、そうしない人たちから疎外されてしまったのだろうか? 彼らはそのせいで——自分たちが隷従の憂き目にあいかねないのも忘れて——〈闇の魔術師〉と戦うその男をいくらでも妨害する権利があるように思ってしまったのだろうか? わたしは人間は利己的に行動するものだと思っていたが、そう思うのは冷笑ではなかった。とてつもない楽観主義だった。 現実には、人間は利己的にすらなれない生きものだ。 そこまで分かればあとは簡単な話だ。そんな人間たちを率いるよりは、一人で戦うほうがまだましなくらいだ、と思えてくる。」

 

「それで——」  夜気のなかにひびく自分の声には違和感があった。 「あなたは安全な場所に仲間をのこして、たった一人で〈闇の魔術師〉に戦いをいどんだ、ということですか?」

 

「いや、まさか。 わたしは英雄(ヒーロー)になろうとすることをすっぱりやめて、もっと快適な人生をおくることにした。」

 

「え……? 最低じゃないですか!」

 

クィレル先生は空をあおぎ見るのをやめて、ハーマイオニーのほうを向いた。室内からもれる明かりでクィレル先生の顔が——すくなくとも顔の半分が見えるようになった。笑顔だった。 「ミス・グレンジャー、きみはわたしのことを、ひどい人間だと思うか。たしかにそう言ってもいいかもしれない。 しかし英雄になろうとすらしない人たちと比べればどうだ? わたしとて、彼らとおなじように最初から手をださず傍観したままでいるという選択肢はあった。そうしていていれば、きみから『最低』とまでは言われずにすんだのかな?」

 

それに答えようと口をひらくが、こんどもまた、言うべきことが見つからない。 英雄であることをやめて、ほかの人たちを見捨てる行為は、どう考えてもまちがっている。かといって、英雄でない人は無価値だとも思いたくはない。それはそれでクィレル的な考えかただから……。

 

クィレル先生の顔(の半分)から笑みが消えた。 「英雄(ヒロイン)を名のってだれかを守ろうとするのもけっこうだが、守られた人たちはいずれ恩を忘れる。きみはそんなことも分からないでいたのだろう。 だからこそきみはその男が英雄であることをやめたと聞いて『最低』だと言ったのだろう。……何千人といる傍観者のことをさしおいて。 彼らにとって、きみがいじめ退治をするのは()()()()()だった。 領主は民が納めた税金を手にすることを当然の権利だと思い、期日に届いていなければ嫌味を言う。彼らもまったくおなじだ。 きみもその目で見たことだろう。一度はきみを持ちあげていた人たちも、風向きが悪くなればたちまち顔をそむけるようになる……」

 

クィレル先生はバルコニーに身をのりだす姿勢をすこしずつ変えて、やがてほとんどまっすぐに立ち、ハーマイオニーと対面した。

 

「しかしきみが英雄(ヒーロー)でありつづけるいわれはない。いつやめようが、きみの自由だ。」

 

そんな風に考えたことは……

 

……実はあった。この二日間のあいだにも、何度か。

 

『人間は正しくあろうとすることで、ほんとうの自分になる』とダンブルドア総長は言っていた。 やっかいなことに、いまここには二通りの正しさがあるように思える。 こころのなかのどこかで、『ホグウォーツから逃げださないことは()()()、わけがわからない状況でも踏みとどまるのが英雄(ヒロイン)だ』、と言う声がする。

 

しかしもう一つ、『子どもは危険に近寄るべきではない』、『そういうことをするのは大人の仕事だ』、という良識を語る声も聞こえる。『知らない人からお菓子をもらってはいけません』という標語とおなじ種類のもので、これはこれで正しい。

 

ハーマイオニー・グレンジャーはバルコニーに立ったまま、だんだん明るくなる星の光にふちどられるクィレル先生のすがたを見て、やはり理解できなかった。 よりによってなぜクィレル先生が心配げな顔をしてこちらを見ているのか。なぜその声を聞いて痛ましさを感じてしまうのか。クィレル先生は()()わざわざこんな話をしているのか。

 

「あなたはわたしのことが嫌いですよね。」

 

クィレル先生は一度小さく笑った。 「わたしとしてはまず、この件に貴重な時間を使わされたおかげで〈防衛術〉の授業に支障がでてしまったことに我慢がならない。 しかしそれ以上に、きみはわたしの生徒だ。過去の職業のことはおいておくとして、わたしはこの学校ではよい教師であったつもりだ。きみもそれは認めるだろう?」  そう言ってクィレル先生は急に疲れた目をした。 「教師として、きみにはぜひ、この学校以外の進路を考えてみてもらいたい。きみをわたしとおなじ目にあわせるのはしのびないのでね。」

 

ハーマイオニーは息をのんだ。 予想だにしない一面を見せられて、自分のなかにあったクィレル先生のイメージが塗り替わっていくようだった。

 

クィレル先生はしばらくハーマイオニーをながめて、それから顔をそむけ、また星空をあおいだ。そしてもう一度、声をおさえて話しはじめた。 「ミス・グレンジャー、きみはこの学校にいるだれかに狙われている。わたしはミスター・マルフォイを守ることはできたが、おなじようにきみを守ることはかなわない。 総長が——理由があってのことだとは言うが——そうさせないのだ。 きみはホグウォーツに愛着がわいていることだとは思う。無理はない。わたしもそうだ。 しかしフランス人の〈元老貴族〉に対する態度はブリテン人のそれとは一線を画している。ボーバトンもきみに悪いようにはしないだろう。 ほかのことできみにどう思われていようとも、わたしは頼まれれば、全力をもってきみをボーバトンに安全に送りとどけると約束する。」

 

「そんな勝手なこと、わたしには——」

 

「いや、勝手にしていいのだよ。」  淡い水色の目がハーマイオニーをじっとのぞきこむ。 「きみがどんな将来の夢を思いえがいていたにしろ、ホグウォーツでそれがかなうことはもはやありえない。 たとえ危険を度外視したとしても、この学校にいつづけることはきみにとってなんら利益がない。 きみからハリー・ポッターに頼んで、『ボーバトンに転校して一生平和に暮らせ』と命令してもらえばすむ話だ。 この国にとどまるかぎり、社会的にも法的にもきみはハリー・ポッターの従僕だということを忘れるな。」

 

そういうことは、ディメンターに食べられることを思えばはるかに小さな問題に見えて、すっかり忘れてしまっていた。以前は大切にしていたのに、いまはもう子どもじみた、くだらないことのように感じられる。それでいて、なぜか目が熱くなってしまう。

 

「まだ納得できないかね。ではもうひとつ。ミスター・ポッターは今日、ルシウス・マルフォイとアルバス・ダンブルドアとウィゼンガモート議員全員を脅迫した。すべてはきみの安全をおびやかすものをまえにして、冷静に考えることができなくなったから。 そんな彼がつぎになにをするか、想像するだけで怖くはないか?」

 

それはよく分かる。恐ろしいまでによく分かる。

 

()()()()()()いる——

 

なにがその理解をもたらしたのか、言語化しようとしてもうまくいかない。もしかするとクィレル先生が発している()()()()()がそうさせたのではないだろうか。

 

仮にクィレル先生がこの件の首謀者だったとしたら——クィレル先生はハリーになにかをさせようとしていて、わたしはその邪魔になったから排除されたのではないだろうか

 

無意識のうちに身体が動き、体重を足から足へ移動させ、クィレル先生から距離をとろうとする——

 

「わたしが真犯人だと思うのかね?」  クィレル先生は多少悲しげにそう言った。ハーマイオニーは心臓がとまりそうになった。 「そう思われても無理はない。 わたしはホグウォーツ〈防衛術〉教授なのだから。 しかしミス・グレンジャー、()()わたしがきみの敵だったとして、その場合も()()()()わたしのもとを離れるべきだとは言えるのではないか。 きみは〈死の呪い〉をつかえない。だから正しい戦術は〈現出(アパレイト)〉して逃げることだ。 それできみの気がすむのなら、わたしのことはいくらでも極悪人だと思うがいい。 極悪人のことはしかるべき人たちの手にゆだねて、この学校を去れ。 きみが人望のある一族の手を借りて移動できるようにとりはからおう。ミスター・ポッターにも話は通しておこう。もしきみが無事に到着しなければ彼はわたしを責める権利がある。」

 

「そ——」  ハーマイオニーは寒けを感じた。夜の空気が肌に冷たい。いや、肌のほうが冷たいのか。 「それは、一度よく考えさせてください——」

 

クィレル先生はくびをふった。 「いや、そんな時間はないよ、ミス・グレンジャー。 きみを送りだす準備には時間がかかる。わたしに残された時間は、おそらくきみが思うより少ない。 苦しい決断になろうとは思う。しかし曖昧な返事は受けいれられない。 多くのものごとがきみの選択如何にかかっている。しかしそのなかでも軽重の差は歴然としている。 ここを出るのか、とどまるのか。返事はこの場で聞かせてもらいたい。」

 

もし拒否すれば——

 

クィレル先生はいま、警告の意味でこう言っているのだろうか? とどまれば、第二段の攻撃が待っているぞ、と?

 

なにがそこまで重要なのか。クィレル先生はハリーとなにを()()()()()()()()のか。

 

『ハーマイオニー・グレンジャー、ここからは謎の老魔法使いらしからぬ、すこしはっきりとした物言いをさせてもらう。もしハリー・ポッターを中心に展開されるできごとがまちがった方向に進めば、どれほどの災厄を招くか。その悲惨さはだれにも想像することすらできない。』

 

以前ハーマイオニーは世界最強の魔法使いにそう言われた。くれぐれもハリーの友だちであることを()()()()()()()と忠告された。

 

ごくりと息をのむ。すこしからだがふらつく。魔法の城の石のバルコニーに立つ自分はいま、あまりに深刻な状況におかれている。その事実がおもむろに、自分の喉もとをつかんでくるような気がした。十二歳の女の子は本来危険に晒されるべきではない。こういうことを考えさせられるべきでもない。ママに聞けば逃げる選択の一択だろうし、お父さんは娘がそんな選択をさせられていることを思うだけで心臓がとまりそうになるだろう。

 

そう考えたところで、ハリーとダンブルドアがなにを警告しようとしていたのか、以前の自分がヒロインについてどうまちがっていたのかが、やっと理解できた。 ヒーローなどというものは物語のなかにしか存在しない。 現実にいるのは、危険と恐怖を経験し、〈闇ばらい〉に逮捕され、ディメンターのいる監房にいれられ、痛めつけられる人たち——

 

「ミス・グレンジャー?」と〈防衛術〉教授が言った。

 

ハーマイオニーは答えない。どんなことばもでてこない。

 

「……返事を聞かせてもらおうか。」

 

それでもハーマイオニーは口をかたく閉ざす。

 

やがて〈防衛術〉教授はためいきをついた。二人をつつんでいた白い光がだんだんと消えていき、塔への扉がひらいていく。また黒いシルエットとなった〈防衛術〉教授は 「さようなら、ミス・グレンジャー。」と言って、こちらに背をむけて城のなかへともどっていった。

 

それから呼吸が落ちつくまでにはしばらくかかった。 たったいま起きたことがなんであったにしろ、すくなくとも勝利のようには感じられなかった。 ハーマイオニーは必死にたたかって、ぎりぎりのところでやっと、『行く』と答えるのを思いとどまることができたにすぎない。〈防衛術〉教授が発する圧力はそれくらい強く、断ることがほんとうに正解だという自信もなかった。

 

しばらくしてハーマイオニーも屋内の光にむけて歩きだした(全身に充満する疲労のおかげで、ようやく眠れるような気がしはじめた)。扉をくぐりかけたとき、遠くから——背後の(そら)のどこかから、カーという鳴き声が聞こえた気がした。

 

けれど呼ばれているのが自分でないことはたしかだから、そのまま階段をのぼり、共同寝室へむかった。

 

同室生はみんなもう眠っているだろうから、見られることも、目をそらされることもない——

 

ハーマイオニーは目から涙があふれていくのを感じたが、今回はかまわず、流れるままにした。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 

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