重い足どりで、レイヴンクロー塔の頂上へつづく長い階段をいくハリー。 この階段はのぼっている人からはまっすぐに見えるが、外観としては螺旋型以外のなにものでもない。 レイヴンクロー塔の頂上に行く近道はなく、この石段を一歩一歩のぼるしかない。 疲れた足で一段一段を踏むたびに、重い靴音が鳴る。
ハリーはハーマイオニーが寝室にいくところを見とどけた。
そのあとレイヴンクロー談話室に居残り、数人ぶんの署名をあつめ、ハーマイオニーのためにとっておいた。 たいした数にはならなかった。 大半の魔法族は、『責任をもって自分の仮説だとどういう結果が出るかを言ってみろ、できないなら本気で信じていないということだから黙れ』というマグル科学的なやりかたの訓練をうけていない。 あとでハーマイオニーが犯人でなかったと分かったあかつきには一生嫌味を言われつづけるという約束を書面でする気はないいっぽうで、自信たっぷりに犯人あつかいをしつづける、というのは
それからすぐにハリーは談話室をあとにした。それまでなんとか維持できていた寛大な態度も限界になりつつあった。 ときどき考えるのだが、ハリーの人格が分裂しているとすれば、それは暗黒面のせいではなく、 利他的で寛大な〈抽象思考をするハリー〉と怒りやすい〈その場のいきおいで行動するハリー〉の対立なのかもしれない。
たどりついたのは、レイヴンクロー塔の屋上にある円形の展望台。レイヴンクロー塔自体はホグウォーツ城で一番高い塔ではないが、城本体から突き出ているので、この展望台は天文塔からも見えない位置にある。 静かに考えるのに適した場所だ——とくに考えるべきことが多すぎる場合は。 ほかの生徒はめったにここに来ることがない。人と会いたくないだけなら、もっと手ごろな場所があるから。
外は夜で、はるか下の城壁に
ハリーはローブが汚れるのもかまわず、展望台の中央に身をよこたえ、あたまを直接石畳にのせた。 視界のかたすみにある石の欄干と細く欠けた銀色の月をのぞいて、そこは星の海になった。
漆黒の平面にちらばる光の点がまたたいては消え、また光る。クリスマスの夜の冷たい輝きの星空とはまた違ったおもむきがある。
ハリーの視線は空の方向にあるが、精神は別のことを考えていた。
今日をもって、きみとヴォルデモートの戦争がはじまった……
ダンブルドアは〈ベラトリクス・ブラック救出事件〉の直後にそう言っていた。それ自体はダンブルドアの思いすごしだったのだが、事態の深刻さに見あう表現ではあった。
ハリーの戦争は二日まえにはじまった。しかし、
ダンブルドアは、よみがえったヴォルデモート卿との戦争だと思っている。一度は自分を倒した少年に、先制攻撃をしかけたのだと。
クィレル先生はドラコに警戒用の結界をかけていた。それは狂った総長がルシウスの息子の死をハリーの犯行と見せかけようとするのではないかと想定してのことだった。
それとも、実はすべてクィレル先生のしわざなのか。だからクィレル先生はドラコを最初に発見することができたのか。 セヴルス・スネイプによれば、〈防衛術〉教授は被疑者としてまっさきに考えるべき人物だという。
そのセヴルス・スネイプ当人が信頼していい人物なのかどうかはまったく不明だ。
とても勝利とはいえない。 ドラコはホグウォーツから連れだされてしまった。死ほどとりかえしのつかないことではないにせよ、どうやって修復すればいいのか、ドラコがもどることがあったとしてどんな状態でもどってくるのか、分からない。 いまやブリテン魔法界の住人全員がハーマイオニーのことを殺人未遂を犯した犯罪者だと思っている。そのせいでハーマイオニーはこの国を去るかもしれない。それは正しい選択かもしれないし、そうでないかもしれない。 ハリーは損失を埋めあわせるために全財産をついやした。一度しかつかえない切り札だった。
ハリーは未知の勢力に攻撃され、せいぜい部分的に回避できたにすぎない。回避してなお、傷は大きかった。
とはいえ、ハリーの暗黒面がハーマイオニーを救うことと引きかえになにかを要求することはなかった。 あの暗黒面はハッフルパフのような想像上の声
見あげると、星が夜空にちらばっている。なんの意味もないその光の点のならびのなかに、人間の脳は勝手に想像上の星座を見てとる。
……もうひとつ気になるのは以前した誓約のこと。
ドラコはハリーと協力してスリザリン寮を立てなおす。 ハリーは合理主義者としてできるかぎりのことをしてナルシッサ・マルフォイを殺した犯人をつきとめて、その人物を敵と見なす。 その誓約には条件があった。ナルシッサ自身が悪に手を染めておらず、焼き殺されたということが事実であり、実行犯がだまされてそうしたのでなければ——もっとあったと思うが、とにかくそういった条件で合意した。 どこかに書きのこすべきだったと思う。というより、そんなに条件が多い誓約はするんじゃなかったと思う。
それなりに正当な抜け道はある。抜け道をつかうことを自分に許せるなら。 今回ダンブルドアが言ったことは自白にはあたらない。『わたしがやりました』と言ったわけではない。 たしかに、ダンブルドアが実際に犯人だったという仮説に符合する言いかたではあった。とはいえ、あれは自分がやったことにしているだけで、実際には別のだれかがナルシッサを焼き殺したのだという可能性もある。その場合も、ダンブルドアがああいう言いかたをするのは自然だ。
ハリーが床の上でくびをふると、そのたびに髪の毛のふくらみが石畳に押しつけられて潰れる。 最後にもうひとつ、ドラコが望めばいつでもハリーを誓約から解放することができる、という抜け道もある。 すくなくとも、つぎにドラコと対面できたとき、状況を説明し、可能性をいっしょに吟味してみることはできる。 実際解放してもらえるとは考えにくいが——正直に話しあう用意があるだけでも、自分のなかにいる『誓約はかならず守れ』と主張する部分を納得させるには足りるように思える。 これは先のばしにすぎないかもしれないが、善人をまちがって敵と宣言してしまうのよりはましだ。
でもダンブルドアは善人かな?——とハッフルパフの声がする。 ダンブルドアがだれかを焼き殺したのだったとしたら……『善人なら、人殺しをすることはあっても、苦しませて殺すことはしない』という前提がそもそも崩れてしまうだろう?
いや、即死させたのかもしれない——とスリザリンが言う。 即死させてから、『焼殺した』という嘘をついて、ルシウスを騙したのかもしれない。 でも……もしナルシッサが死んだときの様子を死食い人が魔法で検証できる可能性がすこしでもあれば……そしてその嘘がばれれば〈光〉陣営の家族の身に危険がおよぶのだとしたら……
合理化のしすぎには注意しような——とグリフィンドールが言った。
またハッフルパフが言う。自分がなにかをしたことで、ほかの人からの見られかたが変わることは当然ある。 それなりの理由があってある女性を焼き殺すことにしたとして、それが第三者からは一線を越えたふるまいに見えて、そのために危険人物だと見なされることは容易に考えられる。 ダンブルドアもそれくらいのことは分かってやったんだろうから、あとになって文句を言う権利はない。
またスリザリンが言う。 ダンブルドアはぼくらなら理解するだけの能力があると思っているのかもしれない。 ここまで話が見えてきた段階で——その全容はどうであるにしろ——ぼくらはダンブルドアのことを敵にあたいする卑劣な人間だと思うことができるか? 血を血で洗う戦争のさなかに、ダンブルドアは敵陣営の民間人
ハリーは夜空をあおぎ、歴史上のできごとを思いだそうとした。
実際にあった、現実の戦争では……
第二次世界大戦のさなかに、ナチスの核兵器製造を妨害する作戦が遂行された。 その数年まえに、レオ・シラードたちの前史があった。レオ・シラードは核分裂連鎖反応の可能性にはじめて気づいた。フェルミは純化した黒鉛が安価で効果的な中性子減速材になることを発見した。シラードの説得で、フェルミはその発見を発表するのをあきらめた。 そのときまでフェルミは、国家主義を超越する科学の発展のために、この発見を発表したがっていた。 しかしシラードはもう一人の仲間であるラビを説得し、フェルミは多数決に負けて二人にしたがった。 このおかげでナチスは二重水素以外の減速材を知らなかった。
ナチスの支配圏にある唯一の二重水素の供給源は、占領下ノルウェーの施設だった。ナチスはその施設を爆撃と破壊工作で奪っていた。その際、民間人が二十四名死んだ。
精製された二重水素をドイツに運ぶために、ナチスはノルウェーの民間船SFヒュドロを使った。
クヌート・ハウケリードは部下とともに夜にまぎれてその民間船に潜入し、破壊工作をしようとしたが、船の警備員に見つかった。ハウケリードは自分たちは
つまり、クヌート・ハウケリードは罪のない人たちを殺した。 殺されたうちの一人である船の警備員は
それでも、ハリーの知るかぎり、『ハウケリードの行動はまちがっていた』というような主張をする本はない。
現実の戦争はそういうものだ。 ダンブルドアはナルシッサ・マルフォイを残酷に殺したかもしれない。ダンブルドアは予言を漏らすことでヴォルデモート卿がハリーの両親を攻撃するようにしむけたかもしれない。 それでも、犠牲の量でいうならダンブルドアよりもハウケリードのほうがずっと
ハウケリードが漫画のスーパーヒーローだったなら、民間人を全員下船させることができたかもしれない。ドイツ兵と直接対決できていたかもしれない。
……罪のない人を一人も死なせずに作戦を成功させられたかもしれない……
……けれどクヌート・ハウケリードはスーパーヒーローではなかった。
その点、アルバス・ダンブルドアもおなじだ。
ハリーは急に息がつまりそうになり、目をとじて、数回大きく息をした。 〈啓蒙〉的な理想を追求するハリーと対照的に、ダンブルドアは
ハリー・ポッター、おまえは自分がハウケリードやダンブルドアより優秀だと思っているのか。 漫画の世界でさえ、バットマンのようなスーパーヒーローが成功
疲労感から、ハリーはいったんこの難問のことを忘れて目をひらき、自分の判断とはかかわりなく動く天球へと視線をもどした。
視界の端のほうに、青白い三日月が見える。月から一.二五秒まえに発せられた光が同時性のある三十七万五千キロメートルの空間をへだてて、いま地球に到達している。
天頂からすこしくだると、〈
うっすらと光る煙のような〈天の川〉。直径10万光年の銀河面に何億もの星がかさなって一体となり、川のように見えるもの。 ハリーがそのことを
〈アンドロメダ座〉の中心星アンドロメダは実際には〈アンドロメダ銀河〉という銀河である。〈アンドロメダ銀河〉は〈天の川銀河〉と240万光年の距離をへだてた隣人であり、3兆個の星を内包しているという。
こういった数と比べると『無限大』はかすんで見える。『無限に』遠い星のことを考えるより、240万光年という距離をメートルに換算する作業をしてみたときのほうが、その巨大さをひしひしと実感する。 光子は1秒に3億メートル移動する。1年は3100万秒なので、3億の3100万倍の240万倍を計算すると……
それだけ遠いものへも到達
そして人間はまだ、魔法を成立させている法則をまったくと言っていいほど理解していない。魔法の法則が
一年まえ、パパがキャンベラのオーストラリア国立大学での会議に講演者として招かれ、ママとハリーも付いていった。 三人はもちろんオーストラリア国立博物館に行った。というのも、キャンベラにはほかに見るものがほとんどなかったからだ。 博物館では、アボリジニが作った木製の投石器が展示用のガラスケースにいれられていた。巨大な靴べらのようにも見えるが、よくみがかれていて、緻密な模様が刻まれた道具だった。 解剖学的現代人が四万年まえにアジアからオーストラリアに移住して以来、オーストラリアでは弓矢が発明されなかった。 このことを思うと、〈進歩〉という観念が
そういう人たちは、空を見あげて、太陽のまぶしい光を見て、宇宙には火より強力なエネルギー源が存在するという結論をみちびくことができるだろうか。 基礎的な物理法則でそういったことが可能ならば、いつか人類も太陽とおなじ種類のエネルギーを利用できるようになるという事実に気づけるだろうか。 投石器や編んだ袋をつかってできるどんなことにも——ひらけた草原を横切るときの走りかたの知識にも、動物を狩って手にいれられるものにも——どこにもそんなことを妄想させてくれる手がかりすらないとしても、気づけるのだろうか。
現代のマグルだって、マグル物理学が予測するすべてのことを実現しきる段階にはほどとおい。 それでいて自動車と電話機でできる範囲を限界にして生きている。これは狩猟採集民が投石器でできる範囲のことしか考えられないのとおなじことだ。 マグル物理学は明確に、ペンローズ過程によってブラックホールからエネルギーを取りだす方法や分子ナノテクノロジーが可能であると言っている。それでも、大半の人たちはそういう話をおとぎ話や歴史の話をしまってあるのとおなじ脳の部分にしまってしまい、個人個人の現実とむすびつけようとしない。 まるで、
狩猟採集民が太陽を見あげて、この宇宙は核エネルギーの存在を許容するようにできていると想像するときのように……。
そう思うと、二百万メートルの一億倍の一億倍の距離もそう遠いものではない気がしてくる。
〈抽象思考をするハリー〉の考えかたからもう一歩ふみだして、適切な状況に身をおいてじっくり気持ちを落ちつかせると、〈抽象思考をするハリー〉にも〈その場のいきおいで行動するハリー〉にも見えないものが見えたりすることがある。 星ぼしを見あげて、人類の遠い子孫たちが——一億年を経て、銀河の大運動によって恒星の配置が変わり、あらゆる星座があとかたもなく変貌したころの子孫たちが——この葛藤についてどう思うかを考えてみる。 確率論の初歩的な定理によれば、将来えられる証拠によって自分の判断がどう更新されるかをいま知っているなら、更新されたほうの判断にいますぐ乗りかえたほうがいい。 目的地を
その地点から見おろせば、数時間まえには魅力的だったウィゼンガモート議員の三分の二を殺すという発想が、それほど魅力的ではないように見える。 たとえ
ヴォルデモートはグリンデルヴァルトとはちがい、 人間性をまったくのこしていない。 その男をきみは滅ぼさねばならん。 怒りはその対決のときのためにとっておきなさい——
くびをわずかに横に振ると、視界の星が揺れる。石の床によこたわったまま、目は上へ、外へ、未来へとむかう。 あのときのダンブルドアが言うように、真の敵ヴォルデモートはだれの理解をも越えた悪なのだとしても……一億年後の視点からは、いまヴォルデモートとして知られる生命体も未熟な〈地球時代〉に生きた一人でしかない。 ヴォルデモート卿がおこなった〈暗黒〉の儀式が人類のものさしからすればどれほどとりかえしのつかないもののように思えるとしても、一億年の技術の発展をもってして治癒できないはずがない。 ほかの人間を死なせないためにその一人を殺す
いくつもの〈永遠〉にまたたく光の粒を見ながら考える。ハリーの三代さきの子孫は、ダンブルドアがナルシッサにしたかもしれないことについてどう思うだろうか。
とはいえ……そうやって、人類の末裔ならどう思うだろうか、という風に質問を言いかえたとしても、答えの源泉はその末裔ではなく自分自身の知識にある。 自分自身のなかから出てくる答えであることに変わりはなく、まちがいは生じうる。 自分が円周率の百桁目を知らなければ、それがどんなに単純なことであっても、自分の三代さきの子孫がする計算結果を想像することはできない。
ハリーはすこしずつ床から身を起こした——思っていた以上に長く、ここで星を見ていたようだった。 立ちあがろうとすると筋肉が悲鳴をあげた。レイヴンクロー塔の頂上にあるこの展望台のまわりの欄干は低い。 落下防止には役に立たない意匠にすぎないようだ。 危険をおかす意味もないので、ハリーは縁には近寄らなかった。 下の運動場を見おろすと、当然めまいがする。 ハリーの脳は地面からこれだけの高度があるのを見てぎょっとしたようだった。 実際、五十メートルはあるかもしれない。
そのことから分かるのは、脳は相手が
脳はふつう、空間的、時間的にすぐ手がとどく近さにあるものにしか、思いいれを持たない……。
以前ハリーは、アズカバンに行くには大人の協力者が必要だろうと想像していた。 ポートキー、ホウキ、透明化の呪文。 〈闇ばらい〉に気づかれずに最下層に到達し、〈死〉の影がいる奈落へ忍びこむ方法。
そういったものが必要だろうと想像するだけで、アズカバンに行くという考えを
それが今日になってはじめて、不死鳥フォークスをつかまえて、いまがそのときだと言えばいいだけのことかもしれない、と気づいた。
忘れようにも忘れることができなかった記憶がまた浮かびあがる。 いま足の下にあるのは金属ではなく石であり、まわりには月のあかるい空が見えている。それでもなぜか、ハリーはオレンジ色の薄暗い照明と金属の壁にかこまれた細長い通路に閉じこめられているときの自分にたやすくもどることができた。
周囲の闇に音はなく、記憶のなかからはっきりと声が聞こえてくる。
「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」
「そんなつもりじゃなかった。いや……死なないで……!」
いや……行かないで……ここにいて——
視界がにじんで見え、袖で目をぬぐう。
もしあの扉のむこうにいたのが
あれがハーマイオニーだったとしたら、ハリーは不死鳥を呼び、ディメンターを最後の一体にいたるまで焼きつくしていただろうと思う。いくらそれが正気の沙汰ではないとしても、それで自分の将来の夢が台無しになるとしても、 ただ——自然にそうしていただろうと思う。
そして実際にあの扉のむこうにいた女性も——どこかのだれかにとって大切な人だったのではないだろうか。 ハリーの脳がアズカバンに行って
一人もいない。待ちのぞむことは幸せを意味する。
やはりアズカバンはなくしてしまうべきではないのか。 フォークスをつかまえて、いまがそのときだと言えばいいだけのこと。 ホウキにのって見たディメンターの奈落の中心を思いうかべて、フォークスといっしょにそこへ行く。 あとのことはすべてほうりだして、至近距離で〈真の守護霊の魔法〉をかける。
フォークスをつかまえればいいだけのこと。
いや、ただフォークスの炎のことを思いうかべればすむのかもしれない——
夜空のどこかで星が光った。
流星群の観察をする経験があったおかげで、反射的にそちらに目がむく。そして同時に、問題の現象がまだ終わっていないこと、 その星の光がだんだんと強さをましていることにおどろく。 これはもしかすると流星ではなく、新星、いや超新星の爆発だったりはしないかと思ってはっとする——それにしても、これほど見る見る明るくなっていくものだろうか? 新星の第一段階の色はオレンジ色だったか?
その星が動き、光だけでなく大きさも増した。 距離の感覚がはたらかないほど遠く見えていたその星が急に
……よく見れば飛行機ではなく……
理解とともに、胸のなかがだんだんとざわつき、汗がふきだそうとする。
……それは鳥だった。
夜空を切りさくような鳴き声が、ホグウォーツ城の屋根屋根にひびく。
鳥が翼をはためかせるたびに羽と羽のあいだから黄金色の火花が散り、軌跡に炎をのこしつつ、大きな弧をえがいてハリーのまんまえの空中に舞いこむ。同時に、それを追う火の軌跡が消えていく。 しかし鳥自身の明るさはすこしもかわらず、見えない太陽に照らされているかのようだった。
翼は夕日のように赤く、白熱する真珠のような目のなかにも黄金色の火と決意の色がある。
鳥がくちばしをひらき、大きな声で鳴いた。ハリーはそれを言語のように理解した。
『
意識しないまま、ハリーは展望台のへりから一歩うしろにさがった。目は不死鳥をとらえたまま微動だにしないものの、体はこわばり、左右の手はそれぞれにぎっては閉じてをくりかえしている。一歩、また一歩と足が動き、後退する。
不死鳥はもう一度、懇願するようにカーと鳴いた。 それがこんどは言語としては聞こえず、かわりに感情として聞こえた。アズカバンについてのハリーのさまざまな感情。
いまだ、行こう—— そういう声が不死鳥からではなくハリーのなかの奥深くから聞こえてきた。『グリフィンドール』などという名前をつけられないなにかがそう言っていた。
必要なのは、一歩まえに出て、この不死鳥の爪先に触れることだけ。それだけで、ずっと行かなければと思っていたアズカバンのあの奈落のなかへ行くことができる。 そう思うと、そこに行った自分のすがたが目に浮かぶようだった。燦然とした光につつまれ、安堵のあまり笑顔になり、恐れを捨てて
「いや——」 小声で話しはじめるものの、なにを言いだすのか自分でも分かっていない。大きく翼を動かして滞空する不死鳥をまえに、目から涙が吹きだす。それを震える手でぬぐう。 「いや、ぼくにはまだ——救うべき人たちがいる——やるべきことがある——」
不死鳥はまた甲高く鳴き、ハリーは攻撃に反応するようにさっと身をすくめた。 その声は命令するのでも責めるのでもなく、
オレンジ色の薄暗い照明のともった通路。
それが目に浮かんで、胸をしめつけるような衝動……さっさとそうしてしまいたいという思いを感じる。 そうすることでハリーは死ぬかもしれないが、もし死ななければ
……それが善でないことに目をつむれば。
展望台にいる少年の視線が相手の燃える目から離れないまま、 銀河の運動で星座が変形しそうなほど長い時間が過ぎた。行くか、行かないか、悩みつづけて……
……答えは……
……変わらない。
少年の目が一度だけちらりと星空を見あげ、また不死鳥を見る。
「まだ……」 やっと聞こえるかどうかの声。 「まだ行けない。 そのまえにやっておくべきことが多すぎる。 もう何人か真の〈守護霊〉をつかえる人が見つかったころに——たとえば六カ月後にまた来てほしい——」
声も音もたてずに、白色と赤色の管がのたうつ球形の炎が出現した。それが不死鳥を吸収するかのようにつつみこみ、燃えあがると、灰色の煙だけをのこして不死鳥は消えた。
展望台がしんとなった。 少年は耳にあてていた手を頬にうつして涙をぬぐい、ゆっくりと下ろした。
そしてうしろを向いて——
思いきり泣き、その反動で塔から落ちそうになった。 とはいえ、足を踏みはずしたとしても心配はなかった。そこにはもう一人、魔法使いが控えていたから。
「こうなったか。」 アルバス・ダンブルドアはほんの小さな声で言う。 「……こうなったのか。」 その肩にはフォークスがいて、感情を読みとりにくい目つきで、もう一羽の不死鳥がいた場所を見つめていた。
「なぜあなたがここにいるんですか。」
「ああ……」 ダンブルドアは展望台の反対がわの場所から動かない。 「城が来訪者を感知すればわしも感知する。それを受けて、現場を確認しにきたまで。」 そう言いながら、震える片手で半月眼鏡をはずし、もう片手で目をぬぐい、ローブの袖で額をぬぐう。 「けっして——けっして声はだすまいと思っていた。きみがしたその選択は、なににもましてきみ一人で決めるべきこと——その邪魔はすまいと——」
ハリーは妙な胸さわぎがした。いやな予感をひしひしと感じた。
「あらゆる未来がその選択にかかっているということまでは分かっていた。 しかしどの答えが暗黒につながるのかは分からなかった。 ともかくこうして、きみが一人で選択してくれたことはよかった。」
「話が見えないんですが——」 ハリーはそこで言いやめた。
あるおそろしい仮説の確率がだんだん上昇する……
「
レイヴンクロー塔の展望台の両端で、ダンブルドアと相対するハリーは愕然として立ちつくした。
わしはグリンデルヴァルトとの決闘に勝つことができなかった。決闘を何時間も引きのばすことで、疲労の限界で倒れてくれるのを待つしかなかった。 わしもフォークスがいなければ、命をとりとめることはできなかったにちがいない——
自分でも気づかないうちに、口から声が漏れる——
「そうと分かっていればぼくも——」
「はたしてそうかな?」 ダンブルドアはふだんよりもずっと老いた声で話す。 「わしが教えたなかで、不死鳥に迎えられた生徒はこれで三人目になる。 一人目の生徒は誘いをことわった。彼女はそれをくやみつづけ、二度と立ちなおることができなかったようじゃ。 二人目の生徒は、きみも知っているラヴェンダー・ブラウンの
少年はその話がほとんど耳にはいっていない様子で、老魔法使いの肩にのる赤金色の鳥を一心に見ている。 「フォークス? もうぼくを見てくれないの?」
フォークスは少年のほうを振りむいて興味ぶかげな視線をおくったが、やがてまた主人を見る姿勢にもどった。
「このとおり、 フォークスはきみを拒絶していない。たしかに以前のようにきみに興味をもつことはなくなったかもしれん……それと——」 ダンブルドアはそこで苦笑いした。 「——きみがわしにさほど忠実でないことも知ってはいよう。 しかし不死鳥を迎える種類の人間が——ほかの不死鳥に嫌われることはない。」 また声を落としてつづける。 「ゴドリック・グリフィンドールの肩に鳥がとまっていたという伝承はない。 ごく私的な記録にすら書かれてはいないが、おそらく彼も誘いをことわり、それから赤色と金色を身につけるようになったのではないかと思う。 罪悪感でいっそう奮起したのだとも考えられる。 あるいはそのことで謙虚さ、人間のもろさ、敗北を教えられたのだとも……。」 ダンブルドアはそこであたまを下げた。 「きみが今回賢明な選択をしたのかどうかも、 それが正しい答えだったのかそうでなかったのかも、わしには分からない。 分かることがあれば、すでに言っている。ただ——。 わしはただ、愚かな少年が愚かな老人になっただけの人間。なにも教えてあげられることはない。」
ハリーはからだ全体から吐き気がして、胃が硬直し、息がつげなくなった。 そして突然、はっきりと実感した。自分が今日、ある意味で決定的に失敗したのだということを——。
ハリーは展望台の縁に舞いもどり、身をのりだして声をからした。 「もどって……もどってきて!」
最後の余波
彼女は恐怖で息をのみ、目がさめた。口は悲鳴のかたちをしているが、声にならない。自分がなにを見たのか理解できず、声にならない。
「いま何時?」と女は小声で言った。
黄金色の装飾時計が返事した。 「午後十一時くらいです。まだ寝ているべき時間です。」
シーツは汗で濡れている。寝巻きも汗で濡れている。枕の脇にある杖を手にとり、身をきれいにしてから、また眠ろうとした。そう努力して、最後には眠ることができた。
シビル・トレロウニーはまた眠りについた。
〈禁断の森〉では、ケンタウロスが一人、謎の悪寒を感じて目ざめ、夜空をにらんでいた。そこには問いしかなく、答えはなかった。フィレンツェは前足と後ろ足をくずし、また眠りについた。
そして遠くアジアでは、床に伏せる日々を過ごしていた、ファン・トンという名の年老いた魔女が目ざめた。横で心配する曾孫の曾孫には、悪い夢を見ていただけだから大丈夫だと言って、また眠りについた。
また別の、マグル生まれが手紙を受けとることもない場所で、まだ名前すらつけられていない赤子が目ざめた。しかたなさそうにほほえむ母親の腕にしばらく抱かれて揺られ、赤子はやっと泣くのをやめて、眠りについた。
それからの四人の眠りは浅かった。
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky
「タブー・トレードオフ」ならびに「ハーマイオニー・グレンジャーと不死鳥の呼び声」編が終わりました。
次章「多重仮説検定」は1〜3カ月くらいのうちに投稿する予定です。感想欄への反応を最近さぼってしまっていますが、励みになっています。ありがとうございます。
あなたはどのキャラクターに一番共感しますか?
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ハリー
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ハーマイオニー
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ドラコ
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マクゴナガル