ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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「ハリー・ジェイムズ・ポッター゠エヴァンズ゠ヴェレスと最後の敵」編
86章「多重仮説検定」


◆ ◆ ◆

 

(一九九二年四月七日の世界各地の新聞一面より)

 

『トロント魔法界新聞』抜粋:

 

 英国ウィゼンガモート激震

 『死ななかった男の子』が

 ディメンターを怖がらせる

 

 魔法生物専門家談「うそつけ」

 

 仏独両国は英国政府のでっちあげにすぎないと主張

 

『ニュージーランド魔導日報』抜粋:

 

 英国議会・妄言の原因

 我が国政府にも通じる病理

 

 我が国も発病ずみだと指摘する専門家

 その二十八の理由

 

『アメリカン・メイジ』抜粋:

 

 人狼族がワイオミングの先住民として認定

 

『ザ・クィブラー』抜粋:

 

 マルフォイがヴィーラとして覚醒

 同時にホグウォーツを去る

 

『デイリー・プロフェット』抜粋:

 

 “マグル生まれの狂女”無罪のからくり

 ポッターがアズカバン襲撃を予告し

 魔法省を脅迫

 

◆ ◆ ◆

 

仮説——ヴォルデモート

(一九九二年四月八日、午後七時二十二分)

 

◆ ◆ ◆

 

四人はまたホグウォーツ総長室の古い机をかこんでいる。この机のいくえにも重なる引き出しには、この学校の歴史上の文書すべてが格納されている。そればかりか、シェーラ元総長はこのなかで行方不明になり、書類の整理が終わるまでそのまま閉じこめられて、いまだにそこで整理をつづけているのだという。 いつかは自分がこの机を受け継ぐ時期がくるのかと考えると、ミネルヴァは気が重い。それよりも生きのびることが先決だが。

 

机のぬしアルバス・ダンブルドアは、おごそかな顔で席についている。

 

セヴルス・スネイプは、灰だらけで火のない〈煙送(フルー)〉のとなりに立っている。ときどき生徒から言わているように、ヴァンパイアめいた不気味な立ちすがたである。

 

凶眼(マッドアイ)〉ムーディもここにくわわる予定だが、到着はまだだ。

 

そしてハリーは……

 

……椅子の肘かけに腰をかけている。ふつうの座りかたでは、その小柄なからだから出てくるエネルギーを椅子が受けとめきれないとでもいうかのように。 かたい表情、汗に濡れた髪、まるい緑色の目、そしてなによりも、いなづま型の癒えることのない傷あと。 わずか一週間まえとくらべても、表情は暗くなっているようだった。

 

ミネルヴァは一瞬、ダイアゴン小路にハリーを連れていったときの記憶に襲われた。いまとなってははるか昔のように思える記憶だった。 ()()()()()()()()()()()()()、すでにこの陰鬱な少年の一端はあった。 すべてがミネルヴァのせいで起きたのではないし、アルバスのせいでもない。 それでも、ミネルヴァがはじめて会ったときのハリーと、魔法界が彼に()いた苦難を経たいまのハリーをくらべると、その落差の大きさを悲しまずにはいられないのもたしか。 ハリーはもともとふつうの子どものように育ってはこなかったと聞かされている。養父母の話によれば、マグルの子どもたちと話すことも遊ぶこともあまりなかったという。 この学校に入学してほかの子どもたちと肩をならべて遊ぶことができたが、それもわずか数カ月で、せまりくる戦争に奪われてしまった。 ハリーも子ども同士のあいだで、ウィゼンガモートを睥睨していないときなどは、別の表情を見せているのかもしれない。 それでもミネルヴァはつい、自分とアルバスがハリー・ポッターの子ども時代を焚き木として一本一本、一枝一枝、炎にくべている様子を想像してしまう。

 

「予言というのは奇妙なもの。」  アルバス・ダンブルドアの目は疲れからか、半分とじている。 「その意味は水のようにとらえどころがなく、つかもうとすれば指と指のあいだをすりぬけていく。 それは重荷以外のなにものでもない。そこに答えはなく、問いがあるのみ。」

 

ハリー・ポッターははりつめた表情をしている。 「ダンブルドア総長、今回標的にされたのはぼくの友だちです。 ハーマイオニー・グレンジャーはもうすこしでアズカバン行きでした。 あなたが言うように、戦争はもうはじまっています。 ぼくが各種仮説を吟味して事件の真相を究明するためには、トレロウニー先生の予言がかかせません。 それ以上に——〈闇の王〉がその予言の内容を知っていて()()()()()()()という状況がいかにバカバカしいかは——そして危険かは——言うまでもないでしょう。」

 

アルバスはミネルヴァに陰鬱な目で問いかけ、ミネルヴァはくびを横にふった。 ハリーはなぜか、予言をしたのがトレロウニーであること、予言の内容が〈闇の王〉に知れたことを知っている。どんな方法で知ったのか想像もつかないが、すくなくともミネルヴァはなにも言っていない。

 

「この予言の成就をとめようとしたヴォルデモートの行為そのものが、ヴォルデモートの命とりとなった……」とアルバスが言う。 「彼にとってこれを知ることは災い以外のなにものでもなかった。 そのことをよく考えなさい。」

 

「ええ、わかっています。 ぼくの出身文化にも予言の自己成就や予言の誤読にまつわる話はいろいろあります。 予言を解釈するにあたっては慎重にやるつもりです。 ぼくはその予言のかなりの部分を推測できています。このままだとぼくは不完全な推測だけをもとに動くことになりますが、それは余計危険じゃありませんか?」

 

無言の時間。

 

「ミネルヴァ、たのむ。」とアルバス。

 

「闇の……」  おずおずとした声がでた。演技は得意ではない。 低く冷たい予言のあの声を再現する技量はない。それでもどこか、自分の調音のしかたにも()()があるようだった。 「闇の王を倒すちからの持ちぬしが来る…… 彼を三度しりぞけた親のもとに生まれ…… 七番目の月が死ぬときに生まれ……」

 

「『闇の王がみずからにならぶ者として印をつける』」というセヴルスの声に、ミネルヴァは飛びあがりそうになった。セヴルスは暖炉のまえに立ちふさがっていた。 「『ただし彼は闇の王の知らぬちからを持つ』…… 『一方が他方のかけらのみを残して滅ぼさなければならない』…… 『その二つの異なるたましいは同じ世界に共存しえないから』」

 

セヴルスは最後の一行をとりわけ不吉な声で言い、ミネルヴァは背すじが冷たくなった。まるでシビル・トレロウニー本人の声を聞かされたようだった。

 

ハリーは眉をひそめてそれを聞いていた。 「もう一度おねがいできますか?」

 

「闇の王を倒すちからの持ちぬしが来る/ 彼を三度しりぞけた親のもとに生まれ/ 七番目の月が死ぬときに生まれ——」

 

「いや、それより……紙に書いてもらえますか? ()()()分析したいので——」

 

羊皮紙に文言が書きあがるまで、アルバスもセヴルスも食いいるように見ていた。何者かの手がこの貴重な情報をかすめとりにくるのではないかと警戒しているかのようだった。

 

「では……。ぼくは男で七月三十一日生まれ。これは一致。 〈闇の王〉を倒したのも事実。 二行目の『彼』がだれのことなのかは曖昧ですが……まだ生まれていないぼくを両親がしりぞけたというのは考えにくい。 『印』としてすぐに思いつくのはこの傷あと……」  ハリーはひたいをなでた。 「〈闇の王〉の知らぬちから、というのはおそらくぼくの科学知識のことでしょうか——」

 

「いや。」とセヴルス。

 

ハリーはおどろいたようにそちらを見た。

 

セヴルスは目をかたく閉じ、集中して考えている。 「科学の知識は本を読めば知ることができる。 予言にあるのは『〈闇の王〉が持たぬちから』ではなく、 『闇の王が持ちえないちから』でもない。 『闇の王の知らぬちから』……これは〈闇の王〉にとってマグル製品以上になじみのないものにちがいない。 その目で見ても、まったく理解できないようなもの……」

 

「科学は技術上のトリックのよせあつめじゃありませんよ。杖のマグル版みたいなものでもない。 周期律表を記憶すればすむものでもない。科学は()()の方法です。」

 

「ふむ……」 セヴルスはそう言いはしたが、納得していないように聞こえた。

 

「たとえ直接耳にした予言であれ……」とアルバスが言う。「深読みは禁物。明快な解釈をこばむのが予言というもの。」

 

「でしょうね。」と言ってハリーは手でひたいの傷あとをなでた。 「でも……その、分かっているのが()()ですべてだとしたら……。はっきり言いますね。どうしてこれで、〈闇の王〉が死なずに生きのびたと分かるんですか?」

 

「なんですって?」 ミネルヴァは声をあげたが、アルバスはただためいきをついて、大きな椅子に背をあずけた。

 

「予言の当時の状況で考えてみましょう。 〈例の男〉がこの予言のことを知った。ぼくが成長していずれ彼を失脚させるという風に読めた。 二人が最終決戦をして、どちらかがどちらかのかけらのみを残してすべてを破壊しつくす、というように読めた。 なので〈例の男〉は〈ゴドリックの谷〉を襲撃して、()()()()倒され、()()()()()残骸を残した。それは魂だったかもしれないし、 〈死食い人〉の組織だったかもしれない。 つまり、予言はすでに成就しているのかもしれない、ということです。 ああ、もちろん——この解釈はちょっと強引に聞こえますよね。 トレロウニーがつかった表現からして、予言が一九八一年十月三十一日に起きたできごと()()()指しているとはたしかに考えにくいです。 赤んぼうを攻撃したら呪文がはねかえってきた、という状況を指す表現として『倒すちから』は不自然ですし。 ただ、この予言は可能な未来の状況を()()()()述べたものであり、そのうち()()()()()ハロウィーンの日に実現した、と考えれば、それはもう成就しているのかもしれません。」

 

「しかしそうだとしたら——」  ミネルヴァは思わずくちをはさんだ。 「このあいだのアズカバンの襲撃はだれが——」

 

()()生きていたとすれば、〈闇の王〉がアズカバン脱獄事件の犯人としてうたがわしいのはたしかです。 あの脱獄事件が〈闇の王〉が生きている世界で起きる可能性は、生きていない世界で起きる可能性よりも高い……ということは、事件が起きたことが〈闇の王〉が生きている可能性へのベイズ的証拠だと言ってもいいかもしれません。 でも()()証拠ではありません。 〈闇の王〉が生きていないかぎり起きようがない事件とまでは言えない。 クィレル先生は〈例の男〉が生きているという仮定をせずに、なんの苦もなく別の説明を思いつくことができました。 クィレル先生にとって、どこかの実力ある魔法使いがベラトリクス・ブラックを手にいれたがるのはごく自然なことでした。〈闇の王〉が彼女だけに秘密を、なんらかの魔法の知識を聞かせていたなら、それをほしがる人がいることに不思議はありません。 人間が肉体の死のあとにまで生きのびることは魔法的に不可能ではないにせよ、その先験確率は非常に低く、 ()()()()()()()発生しません。 なので、根拠がアズカバン脱獄()()だったとしたら……意味のあるほどのベイズ的証拠とは言えませんね。 仮説が成立しない場合に観測される確率が低い証拠が現に観測されたとはいえ、それ以上に仮説の先験確率が低すぎます。」

 

「いや、予言はまだ成就していない。していれば、わたしがそう察知できている。」とセヴルスが断言した。

 

「まちがいないですか?」

 

「ああ。もし予言が成就していたなら、わたしはそのことを()()できている。 わたしはトレロウニーのことばを……声を直接聞いた。予言に適合するできごとが起きたなら、わたしはそう()()できている。 まだ一度も……()()()()できごとは起きていない。」  セヴルスはそう確信している口調だった。

 

「そう言われても、どう解釈すればいいのか。」  ハリーはぼんやりとひたいの傷あとをさすった。 「あなたが認識したかぎりでは合致していないように思えたとしても、実際にはあなたの認識と異なるできごとが起きていたという可能性もある……」

 

「ヴォルデモートは生きている。」とアルバスが言う。 「そう示唆する証拠はほかにもある。」

 

「たとえば?」 ハリーは即座に質問した。

 

「……人間を死からよみがえらせる忌まわしい儀式はいくつかある。 伝説ではなく、現におこなわれた実績のある儀式であることははっきりとしている。 そしてその儀式をしるした本がなくなっているのじゃ。ヴォルデモートが持ちさったにちがいない——」

 

「あなたは不死についての本がなくなっているのに気づいた。それだけで〈例の男〉に盗られたと判断するんですか?」

 

「そのとおり。以前、とある古文書が——その題名をここで言うことはできんが——ホグウォーツ図書館の〈禁書区画〉にあった。ボージン&バークスで売られるようなそれがいまは一巻ぶんの隙間をのこして棚からなくなっている——」  つづけて、アルバスは独りごとを言うように言った。 「と言っても、きみを満足させることはできないのじゃろう。たとえヴォルデモートが不死の術を実践しようとしたとしても、成功したという証明はされていないと思うのじゃろう……」

 

ハリーはためいきをついた。 「証明なんて、どこにもないですよ。すべては確率です。 不死の儀式についての本がいくつかなくなっているとすれば、だれかがその儀式を実践しようとした確率が高まります。 すると〈闇の王〉が死をのりこえて生きているという先験確率も高まります。 ぼくもそこまでは認めます。情報提供に感謝します。 問題はそれで先験確率が()()高まったかどうかです。」

 

「ヴォルデモートが生きている()()()があるというだけでも、警戒しておく理由にはなるとは思わないかね?」

 

「たしかに。 といっても、その確率が十分低くなった時点で、気にしすぎるべきではないと思いますが……。 不死についての本がなくなっていて、〈闇の王〉とぼくが将来決戦をすると解釈したほうが自然な予言があるとなると、〈闇の王〉が生きている可能性が無視できないのはたしかでしょう。 でも()()()()()()()()()考慮からはずすことはできません——〈例の男〉が()()()()()()世界では、ほかのだれかがハーマイオニーに罪を着せたんですからね。」

 

「話にならん。」とセヴルスが小声で言う。「〈闇の紋章〉はまだ消えていない。ならば術者も消えていないとしか考えられん。」

 

「不十分なベイズ的証拠っていうのはそういうことですよ。 気味が悪いと思う気持ちはわかりますけど、術師が死んだあとも消えない刻印というのはそんなに考えにくいですか? 〈闇の王〉の意識が生きているかぎり〈闇の紋章〉も百パーセント確実にそのままだとします。いっぽう、死んでいる場合は紋章が消えない先験確率が二十パーセントしかないとします。 『〈闇の紋章〉が消えていない』という観測結果があったとき、その尤度を考えてみると、〈闇の王〉が生きている世界での尤度は死んでいる世界での尤度の五倍です。 でもそれは、ある人間が不死であるという先験確率の低さを乗りこえるほどの差ですか? 紋章の有無を観測するまえの時点で、〈闇の王〉が死亡しているかどうかの賭け率(オッズ)比が百対一で死亡説が生存説より優勢だったとします。 仮説が偽である可能性が真である可能性より百倍大きいという前提で、仮説が真であれば五倍生じやすい事象を観測したなら、仮説が偽である可能性と真である可能性の比を二十対一に更新すべきです。 もとの賭け率の比が百対一で、尤度比が一対五であるなら、〈闇の王〉が死んでいる可能性は死んでいない可能性の二十倍に変化する——」

 

「百倍やら二十パーセントやら、その数字はどこからでてきた?」

 

「この手法の難点はそこですね。 でもぼくが主張しようとしているのは、()()()()言って、『〈闇の紋章〉が消えていない』という観察結果では『〈闇の王〉は不死である』という仮説を十分支持できていないということです。 特異な仮説に必要なだけの特異な証拠がまだないということです。 ……それと言うまでもないことですが、たとえ〈闇の王〉が生きていたとしても、ハーマイオニーに罪を着せた人物がほかにいないということにはなりません。 ある人が目ざとく言っていたように、二人以上の人間が同時に策謀をめぐらせることもあります。」

 

「〈防衛術〉教授もその一人だろうな。」とセヴルスが薄ら笑いをして言う。 「彼が容疑者の一人になるということにはわたしも同意する。 昨年も、犯人は〈防衛術〉教授だったのだから。二年まえも、三年まえも。」

 

ハリーはもう一度、膝の上の羊皮紙に視線をおとした。 「つぎの論点ですが。 この〈予言〉が正確であるという()()はありますか? だれかがマクゴナガル先生の記憶をいじって、予言の一部を改竄したり消したりしたという可能性は?」

 

アルバスがしばらく待ってから話しはじめた。 「この国の全土にかけられた巨大な魔法により、国内で発せられた予言はすべて記録される。 ウィゼンガモートの〈元老の会堂〉の地下深くの、〈神秘部〉が所管する場所にその記録がある。」

 

「〈予言の間〉。」とミネルヴァはつぶやいた。 その場所のことは本で読んだおぼえがある。広い空間に立ちならぶ棚に、光る水晶玉が陳列されている場所。水晶玉は時を経て増えつづけているのだという。 〈運命〉へのせめてもの反抗として、大魔法使いマーリンがみずから置き土産として建造したのだと言われている。 予言は善をなすものばかりではない。だからせめて予言で言及された人たち自身だけでもその内容を知ることができるようにとマーリンは考えた。 なにも知らないまま外から〈運命〉に操縦されるばかりが人間ではないと考えたマーリンが人間の自由意志に手向けた贈りものである。 予言で言及されている人がそこに行くと、光る水晶玉が一つ手に飛びこんできて、予言者の肉声を聞かせられる。 それ以外の人が水晶玉に触れようとすると、発狂する——あるいは頭部が爆発するだけだとも言われているが、この部分についてはっきりした伝承はない。 マーリンの本来の意図は不明だが、その場所は〈無言局〉が管理していて、この数百年のあいだ立ち入りが禁じられているという。 『古代の魔術の遺物』という本によれば、対象者に予言の内容を知らせることで予見者が解放する時間の圧への干渉が発生することを〈無言者〉が発見したため、マーリンの子孫たちがその場所を封印したのだという。 そのことを思いだすとミネルヴァは(ハリー・ポッターと過ごして数カ月たったいまでは)、そんなことを()()()()などあるのだろうか、と思いたくなる。アルバスにたずねてしまいそうにもなるが、たずねればうっかり答えを聞かされてしまうかもしれないので、たずねてはいない。 〈時間〉のことを心配するのは時計にまかせておけばいい、というのがミネルヴァの信念だった。

 

「そのとおり。自分についての予言がある人たちが〈予言の間〉にいくと、その内容を聞くことができる。 このことがなにを意味するか分かるかね、ハリー?」

 

「ぼくも聞く権利があるということですね。〈闇の王〉も……ああ、そうか、ぼくの()()()。 彼を三度しりぞけた親、という部分に該当しますから、二人も録音の内容を聞くことができたんですね?」

 

「仮にジェイムズとリリーが聞いた内容がミネルヴァの報告と一致しなかったとすれば、気づいたにちがいない。二人から、そういう話はなかった。」

 

「では、ジェイムズとリリーをあそこに連れていったのですか?」とミネルヴァはアルバスにたずねた。

 

「フォークスはさまざまな場所に行くことができる。このことは秘密にしてもらいたい。」とアルバス。

 

ハリーはまっすぐにアルバスを見つめた。 「()()()その〈神秘部〉とやらにある予言の録音を聞いておきたいんですが。本人の声や口調も手がかりになるようですし。」

 

アルバスはゆっくりとくびを横にふった。半月形の眼鏡がきらりと光る。 「それはやめたほうが賢明じゃ。 言うまでもない理由をおいても、 マーリンがつくったあの場所は危険じゃ。ある種の人にとってはとくに。」

 

「なるほど。」と平坦な声で言ってハリーはまた手もとの羊皮紙に視線をおとした。 「いまのところ、予言は正確だという仮定を受けいれることにします。 そのつぎの部分は、〈闇の王〉がぼくに対等な者としてのしるしをつける、と言っていますが。これはどういう意味でしょう?」

 

「きみが彼のやりかたをすこしでも模倣するという意味でないことは請け合おう。」とアルバス。

 

「ぼくもそのくらいのことは分かりますよ。 マグルも時間のパラドクスのことを多少は知っています。マグルにとっては理論的な研究にすぎませんがね。 なにかを予言する未来からの信号があったからといって自分の倫理観を完全に無視するようなことはしません。そうすることではじめて予言が成就することになったりするんですから。 それで、けっきょくその部分の意味はなんですか?」

 

「わたしは解釈しかねている。」とセヴルスが言った。

 

「わたしもです。」とミネルヴァ。

 

ハリーは杖をとりだして、手のひらの上でまわし、考えにふけるようにそれをながめた。 「十一インチのヒイラギの杖。芯は不死鳥の尾の羽。そのおなじ不死鳥の尾の羽を芯にしてもう一度だけ……名前が思いだせないんですが、オリなんとかさんが作っていたのが〈闇の王〉の杖。 それに、ぼくは〈ヘビ語つかい〉でもある。 偶然にしてはちょっとできすぎですね。 そこへきて、〈闇の王〉と対等になるという予言もあった、と。」

 

セヴルスは思案げな目をしているが、アルバスの視線からはなにも読みとれない。

 

「もしかして……」とミネルヴァはすこしずつ話しだす。 「〈例の男〉は——ヴォルデモートは——ミスター・ポッターに傷あとをつけたとき、自分の能力の一部を移しかえたのでは? 意図してのことではないと思いますが。 そうだとしても……ミスター・ポッターが魔法力の点で劣るとすれば、到底『対等』と言うには……」

 

ハリーが杖を見つめたまま話しだす。 「うーん、必要なら魔法なしでも対決しますよ、ぼくは。 ホモ・サピエンスは爪の切れ味や甲羅の堅さで地球の頂点に立ったんじゃありませんからね——そのあたりがちょっと魔法族には通じにくいのかもしれませんが。 とにかく、ぼくは自分よりかしこくないものを怖がるのは人間としての尊厳にもとる行為だと思っています。話に聞くかぎりでは、〈闇の王〉もその方面で大して怖い相手だとは思えません。」

 

セヴルスがふだんの皮肉な口調にいくらか近い言いかたで言う。 「つまり、知力でなら自分は〈闇の王〉に勝てる、とでも思っているのかね?」

 

「思っていますよ。」と言ってハリーは左手のローブの袖を引き、シャツの袖をまくり、前腕を見せた。 「そうだ! せっかくですから、全員でこうやって見せ合って、だれでも簡単にチェックできるありがちな位置に、スパイのしるしである分かりやすい入れ墨がはいっていないことを確認しておきましょうか。」

 

セヴルスがなにか毒毒しいことを言おうとしたが、アルバスが止める手ぶりをした。 「ハリー……きみならどのように〈闇の紋章〉を設計する?」とアルバス。

 

「ありがちな部位は避けます。ふつう恥ずかしくて見せることのないような部位にします。もちろんセキュリティを重視する人には、それでも検査されると思いますが。 大きさを小さくできるならそうしますね。 あとは、魔法性のない入れ墨を上からかぶせて、もとの模様が分からないようにします——いや、それよりも、皮膚を模した薄膜で隠すほうがいいでしょう——」

 

「なかなか巧妙じゃ。 もう一歩すすめて、仮に好きな条件を事前に設定して紋章を消したり浮かばせたりすることができるとしよう。 きみならどうする?」

 

「どんなときも完全に消えるようにしておきます。」とハリーは当然のことのように言う。 「スパイかどうかを判定できる手がかりはないにこしたことはないですから。」

 

「では、もっと巧妙なこともできるとしよう。 きみは欺瞞や偽装の名手であり、その技能を思う存分使うことができるとしたら、どうじゃ。」

 

「そうですね——。 それは不必要にややこしい、実世界の戦争ではなくロールプレイングゲームに登場する悪人がつかいそうな戦術のように聞こえますが。 まあ、やるとすれば、〈死食い人〉ではない人の腕に偽の〈闇の紋章〉をつけさせて、ほんものの〈死食い人〉の紋章は目に見えないようにします。 でもそうなると、そもそもだれにも〈闇の紋章〉が〈死食い人〉のしるしであると思わせられそうにありませんね……。 この問題に真剣にとりくむなら、考える時間が五分間はほしいところです。」

 

「こんなの質問をしたのは……」とアルバスはまだおだやかな口調でつづける。 「わしも戦争初期に、きみが言ったような検査をするという失敗をおかしたからじゃ。 〈騎士団〉が生きのこれたのはすべて、アラスターが腕の検査を信用しなかったから。 その後、〈紋章〉は当人の意思で隠したり見せたりできるものなのではないか、とも考えた。 しかしイゴル・カルカロフをウィゼンガモートの審判の場に連れだしたとき、その腕にははっきりと〈紋章〉があった。カルカロフは無実を訴えようとしたにもかかわらず。 〈闇の紋章〉が実際どのような規則にしたがっているのかは、まだ分からぬ。 セヴルスもいまだに、腕の〈紋章〉をつけている。そしてその秘密をまだ知らぬ人に伝えることができないという縛りを受けている。」

 

「なんだ、それなら話は簡単ですよ。 ……いえ、それよりも——あなた、〈死食い人〉だったんですか?」  ハリーはセヴルスに視線をむけた。

 

セヴルスは薄ら笑いをしてみせた。 「あちらがわが知るかぎりでは、いまもそうだ。」

 

「ハリー……」とアルバスがハリーだけを見て言う。 「『話は簡単』、というと?」

 

「情報理論の初歩ですよ。 観測変数Xが別の変数Yについての情報を伝達するのは、Yの状態によってXの確率分布が変化するときであり、かつそのときにかぎる。 スパイとそうでない人とのあいだにすこしでもなにか差があることに気づけば、それを利用した判別法を考えるのが当然です。 同様に、事実と虚構を判別するには、事実に対するときと虚構に対するときで振る舞いが変化する手続きを用意する必要があります。『信心』に識別能力がなく、『予測をしてその正否を実験的に検証する』にはあるのもおなじことです。 〈闇の紋章〉がついている人はその秘密をだれにも明かすことができないんでしたね。 なら、〈闇の紋章〉のしくみを突き止めるには、〈闇の紋章〉のしくみである()()()()()()ものをすべて書きだしたものをスネイプ先生に見せて、その内容をだれかに伝えさせたときの様子を観察すればいい——伝えさせる相手には実験のことを知らせずにおいたほうがいいでしょう——〈二十の質問〉式のやりかたで二分探索をして候補をしぼる方法があるんですが、それはあとで話すとして——こうすれば、スネイプ先生に()()()()ものが正解だと分かります。 言えるか言えないかという振る舞いの差が〈闇の紋章〉についての真の言明と偽の言明を識別する手段になるということです。」

 

ミネルヴァは自分がずっと口をあけていたことに気づき、あわててとじた。 アルバスでさえ、おどろいたように見えた。

 

「あとは、くりかえすようですが、スパイとそうでない人とのふるまいの差がすこしでもあれば、スパイを見つける手段としてつかえます。 〈闇の紋章〉についての秘密が検閲される例を最低ひとつ見つければ、うたがわしい人から別の人にその秘密を明かさせてみることで、〈闇の紋章〉の有無を判定できます——」

 

「ありがとう、ミスター・ポッター。」

 

セヴルスの声に、全員がそちらを向いた。セヴルスはまっすぐに立ち、歯をむきだして獰猛な勝利の表情らしきものをしていた。 「総長、わたしはもう〈闇の紋章〉について自由に話すことができます。 その人が〈死食い人〉として捕えられたことを自覚している場合、腕を直接見られたことのない相手のまえで、この〈紋章〉は浮かびあがります。その人の意思とは無関係に。 しかしすでに見られていた相手に対しては、消えたままです。 はっきりした疑いなしに検査された場合も同様。 このため、〈闇の紋章〉は〈死食い人〉であることを示す証拠であるように見える——が、実際には既知の〈死食い人〉に対してしか役に立たないというわけです。」

 

「そうか……ありがとう、セヴルス。」と言ってアルバスは一度、目をとじた。 「そういうことなら、ブラックがピーターにもつかまらずに逃げおおせたのも説明がつく……それはともかく、 ハリーが提案した検査方法については?」

 

セヴルスはくびを横にふった。 「ポッターがどう考えようとも、〈闇の王〉も愚かではありません。 〈闇の紋章〉はそのような検査をされそうになった瞬間に、その人の舌を束縛するのをやめるようになっています。 そう分かっていながら、わたしはほのめかすこともできず、だれかが気づくのをひたすら待っていたというわけですがね。」  また薄ら笑い。 「ミスター・ポッターにはそれなりの寮点をつけてあげたいところだが、それではわたしの偽装が台無しになる。 しかし〈闇の王〉が狡猾であったことはこれでミスター・ポッターにもよく分かったと思う。」  そう言ってすこしずつ遠くを見るような目をした。 「ああ……実に狡猾な男だった……。」

 

ハリー・ポッターはそれからかなり長く座ったまま動かなかった。

 

やがて——

 

「いえ、それはありえませんよ。 第一、これはレイモンド・スマリヤンの本の第一章にでてくる程度の論理パズルです。マグル科学者なら、これとくらべものにならない複雑なパズルを仕事としてやっています。 もうひとつ、〈闇の王〉は五カ月をかけてこのパズルをつくったという話じゃないですか。それをぼくは五秒でといたんですから——」

 

「おまえにとって自分と同程度に知性のあるだれかというのは、それほど想像しがたいことなのか?」  セヴルスのその言いかたは、不愉快というより興味を感じているような言いかただった。

 

「これは『基準率』と言うんですがね、スネイプ先生。 〈闇の王〉がこのパズルをつくるのに五カ月かけたのか、五秒しかかけなかったのか。あたえられた証拠では、どちらの仮説も却下されません。しかしどんな母集団においても、五カ月でできる人のほうが五秒でできる人より多いわけですから……」  ハリーは片手をひたいにあてた。 「ああもう、どう説明すればいいのやら。 まあ、あなたたちの視点からは、〈闇の王〉は巧妙なパズルを思いついた、ぼくは巧妙なやりかたでそれを解いた、だから二人は『対等』、ということになるんでしょうね。」

 

「〈薬学〉の初回授業でのあのふるまいをしておいて……あれでは到底対等などとは言えないだろう。」とセヴルスが乾いた声で言った。

 

「セヴルス、言っておくが、おぬしはハリーの実績をすべて知らない以上、ハリーの能力を判断する立ち場にない。 しかしハリー——きみは〈闇の王〉は自分以下の実力だと思っているようじゃが、()()そう思える? なるほど、彼はいろいろな意味で傷を負っている。 しかしわしに言わせれば、こと狡猾さの点では——きみはまだ彼と対決する域に達していない。 きみのこれまでの実績をすべて知る者として、そう言わせてもらう。」

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーにとって、この話はやりづらい。というのも、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()から。正直に話せないというのは、協調的な対話の基本原理をいくつかやぶることにあたる。

 

まず、ベラトリクスが実際どのようにしてアズカバンから連れ出されたかを言うことができない。あれは〈例の男〉がなんらかの偽装をして侵入したのではなく、ハリーとクィレル先生が知恵をだしあった結果だった。その事実をハリーはあかすことができない。

 

ハリーはマクゴナガル先生の目のまえで、『脳損傷というものの存在する以上、魂は存在しない』という話をする気はない。 そして魂がない以上、不死を達成する儀式などというものは……まあ()()()ではないか。ハリー自身、()()()()魔法で不死を達成しようと思っている。けれどそれはそう簡単ではないし、()()()()()()()()()がなければ達成できない。すでにある魂を巫妖(リッチ)の呪符にむすびつけるだけですむなどという甘い話はない。 ついでに言えば、不滅の魂を信じている人がそんな呪符を使おうとすること自体、大まちがいであることは、ちょっと考えれば分かりそうなものだ。

 

そして〈闇の王〉が()()()()聡明ではなかった、ということがなぜハリーに分かるのか。そのほんとうの理由は……どういう言いかたで言っても誤解されてしまいそうなのだが……

 

ハリーはウィゼンガモートの評議の現場を目撃し、 〈魔法省〉の最奥部の防御のしかたがとても『セキュリティ』と呼べない程度のしろものでしかないのを目撃した。 そこには、ゴブリンがグリンゴッツで〈変身薬(ポリジュース)〉と〈服従(インペリオ)の呪い〉対策として使っている〈盗人おとし〉すらなかった。 政府を乗っ取る方法は簡単だ。〈魔法省〉大臣と長官級の何人かに〈服従(インペリオ)〉をかけて、〈服従〉が通じない相手にはフクロウ便で手榴弾を送りつければいい。 あるいは、フクロウ便でガス弾を送りつけて相手を行動不能にしてから、生けどりにして〈生ける屍〉の状態にして髪の毛をとって〈変身薬〉の材料にしてもいい。 〈開心術〉、〈偽記憶〉、〈錯乱(コンファンド)〉——魔法界には不正(チート)する手段が笑えるほどにある。ありすぎて過飽和しているくらいだ。 ハリー自身がブリテン政府を乗っ取るときに(〈倫理〉的な制約にしばられて)そういう手段をつかわないとしても……いや、小さなことなら、一時的に〈錯乱(コンファンド)〉をかけたり改竄をともなわない〈開心術〉なら、アズカバンへの投獄期間を一日増やすよりましな程度のことだろうから、やってみてもいいかもしれないが……それでも……

 

もしハリーに〈倫理〉的な制約がなかったとしたら、あの日ウィゼンガモート内の邪悪な議員の集団を一掃することもできていた。たった一人で、一年生一人の魔法力だけで、ディメンターの謎を解くための知力のおかげで。 もちろん、そうしていれば自分の政治的立ち場があやうくなっていたかもしれないし、生きのこった議員は自分たちのイメージ戦略を考えて安易にハリーの行為を糾弾することをえらんだかもしれない(よく考えれば、より大きな善のためになる行為だったと理解する人もいただろうが)……()()()()

 

なにひとつ倫理的な制約を持たない人が、サラザール・スリザリンの残した古代の秘密をたずさえ、ルシウス・マルフォイなど有能な支持者数十人に支えられて、ブリテン魔法界の政府を転覆しようとして十年以上もかかって()()()()のだとしたら、その人は愚かだ。

 

「いい表現方法が思いつかないんですが…… 総長には倫理観があるから、そのおかげで、邪悪すぎて使えない戦術がいろいろあるでしょう。 あなたが戦った相手は〈闇の王〉というとてつもない実力がある魔法使いで、しかもそんな制約がなかった。()()()あなたは負けなかった。 それにくわえて〈例の男〉がすごく聡明でもあったとなると、つじつまがあいません。もしそれが事実だったら、あなたたちはとっくに死んでいます。()()()殺されていますよ——」

 

「ハリー……」とミネルヴァはささやくような声で言う。「わたしたちは実際、全員が殺される寸前だったのですよ。 〈不死鳥の騎士団〉は団員の半数以上をなくしました。 もしアルバスがいなければ——直近二百年で最高の魔法使いと言われるアルバス・ダンブルドアがいなければ—— まちがいなく全滅していました。」

 

ハリーは片手でひたいをなでた。 「すみません。みなさんの苦労を矮小化するつもりはないんです。 〈例の男〉がものすごく邪悪で強力な〈闇の魔術師〉であったことも、実力者数十人をしたがえていたことも知っていますし、それはたしかに……大変だったとは思います。 ただ……」  それでも、かしこい敵を相手にする場合にくらべれば、恐れるに足りない。敵がボツリヌス毒素を〈転成〉して、それをコップ一杯の飲みものにつき〇.〇〇一ミリグラムだけ混入させる作戦にでていればどうなっていたことか。 詳細は伏せたままこの可能性を理解してもらう方法はあるだろうか。思いつかない。

 

「ハリー、どうか……どうか〈闇の王〉のことを()()()()()()()()()()! 〈闇の王〉は——」  マクゴナガル先生はなかなかいい表現が思いつかないようだった。 「……〈転成術〉よりもはるかに危険です。」

 

ハリーは思わず両眉をあげてしまった。 セヴルス・スネイプがいる位置から陰気な笑い声がした。

 

うーん——とハリーのなかのレイヴンクローの声がする。 マクゴナガル先生の言うとおりだね。いまのぼくらには科学の問題にとりくむときのような真剣さが足りていないと思う。 新しい情報がきたとき、それをそのまま窓からほうりだしたりせずに()()()()()()()()()ようにするのはむずかしい。 ぼくらはいま予想外の重要情報に遭遇したのに、自分の信念を()()()()()()()変更しようとしていない。 ヴォルデモート卿が脅威である可能性を却下していたのは、もとはといえば〈闇の紋章〉というのがどう考えても愚かしい手法に思えたからだ。 その仮定がまちがっていたなら、一度初期状態にもどって、仮定の上にきずかれた推論すべてを見なおすことに労力をそそぐべきなのに、いまぼくらは()()()()()()()

 

「そうですね。」とハリーはマクゴナガル先生がまたなにか話しだしそうなのを見て言った。 「……真剣に考えてみますから、五分待ってもらえますか。」

 

「もちろん。」とアルバス・ダンブルドアが言った。

 

ハリーは両目をとじた。

 

ハリーのなかのレイヴンクローが三体に分かれた。

 

〈闇の王〉が生きていて、ぼくらと同程度の知性があって、純粋な脅威である確率を推定しよう——と、司会者となったレイヴンクロー一号が言った。

 

そんなやつを相手にして戦ったがわが全員死んでいないのはなぜだ?——と、反対論者となったレイヴンクロー二号が言った。

 

その論理はもう使用ずみなのをお忘れなく。おなじことをいくら言っても、これ以上信念の更新は発生しない。

 

でも、この論理のどこに問題がある? 知的なヴォルデモート卿が存在する世界では、戦争がはじまって五分で〈不死鳥の騎士団〉は全員死ぬ。 この世界にはそういう結果が生じているように見えない。だからここはそういう世界ではない。証明終わり。

 

そう言いきれるかな?——と賛成論者となったレイヴンクロー三号が言う。 ヴォルデモート卿は当時、なにか理由があって()()()()()()()()()()()()のかもしれない——

 

たとえばどんな理由がある? どんな理由をつけるとしても、つけたぶんだけ、そちらの仮説は複雑度が高くなるのだから、確率にペナルティがつくぞ——とレイヴンクロー二号が言った。

 

まだ三号が発言する番だ——と一号が言った。

 

そうだな……まず……マインドコントロールの能力だけで〈魔法省〉を乗っとれるとは、まだ決まっていない。 ブリテン魔法界は実は寡頭制なのかもしれない。それなら、有力家すべてを屈服させるだけの軍事力をちらつかせる必要があることになるし……

 

そいつらにも〈服従(インペリオ)〉をかければいいさ——とレイヴンクロー二号が割りこんだ。

 

……そういう家はかならず入りぐちに〈盗人おとし〉があるのかもしれないし……

 

それも複雑度ペナルティだ! 周転円につぐ周転円じゃないか!

 

——いや、よく考えれば、だれかが適切に〈服従(インペリオ)〉をつかうことで〈魔法省〉を乗っとるところをぼくらが()()()()()()わけでもないんだから。 実際そんな簡単に乗っとれるかどうかは、わからない。

 

でも——と二号が食いさがる。その点を考慮しても……()()()方法はあってよさそうなものだ。十年間、よくあるテロリストの戦術しかやらずに、失敗をくりかえすなんて。それじゃ成功しようという気すらないように見える。

 

ヴォルデモート卿にも発想力がなかったわけじゃないのかもしれない。ただ自分の手ぐちを()()()()()政府に知られたくなかっただけなかもしれない。ほかの国は、自分たちの〈魔法省〉の脆弱性に気づいて〈盗人おとし〉を設置するだろうから。 この国を基地として十分な数の従僕をそろえてから、()()()()()()()()()()同時に攻略するつもりだったのかもしれない。

 

おまえはヴォルデモート卿が世界征服をたくらんでいると仮定している——と二号が指摘した。

 

三号が返事する。トレロウニーの予言には、ぼくらとヴォルデモート卿は対等になるとあった。だから、ヴォルデモート卿も世界征服をしようとするだろうと考えられる。

 

対等と言えば、いずれ戦うんだという話を忘れるなよ——

 

ハリーの脳裡に一瞬だけ、()()()()()()魔法使い二人が全面戦争をしている光景がよぎった。

 

ハリーは一年次の教科書に書かれている魔法術や調合術のうち、工夫すれば殺人につかえそうなものをすべてメモしてあった。そうせずにはいられなかった。 実際、脳がそういう風な発想をしそうになるたび、とめようとはしたのだが、魚を目にした人に魚のことを考えるなと言うようなもので、効果がなかった。 七年次の知識、あるいは〈闇ばらい〉の技能、あるいはヴォルデモート卿が知っている失われた古代魔法をもとにそういう工夫をできる人がいれば、どんなことになるか……考えたくもない。 魔法面で飛びぬけた実力があり天才的な発想力もあるサイコパスは『脅威』などではない。絶滅級の災厄だ。

 

ハリーはくびをふって、暗い方向にすすむ推理を打ち切ろうとする。 それよりも、そもそも〈闇の合理主義者〉などという災厄に直面する可能性を吟味して、それが無視できない程度の大きさなのかどうかを考えるべきだ。

 

事前確率として、だれかが不死化の儀式をして成功する可能性はどれくらいあるのか……

 

魔法使いのうち千人に一人が死んだあとにも生きつづけたという事実はない。百歩ゆずって、失敗対成功が千対一の比だったとしよう。それにしても、不死化の儀式をした人の人数についてはデータがない。

 

ヴォルデモート卿が()()()()()()()()()()かしこかったとしたら?——とレイヴンクロー三号が言う。 トレロウニーが言ったように、『対等』だったとしたら。それなら、ヴォルデモート卿も()()()()()()不死化の儀式を成功させるに決まっている。追伸。『一方が他方のかけらのみを残して滅ぼさなければならない』という部分もお忘れなく。

 

それだけの知能の持ちぬしであるという仮定をしなければならないとなると、推定はさらにやっかいになる。 母集団から無作為に抽出した一人にそれだけの知能がある事前確率はというと……。

 

けれどヴォルデモート卿は、無作為抽出された一人ではない。母集団から抜きんでて目だつことをした一人だ。 あの〈紋章〉の謎をつくるには、一定水準の知性が必要なはずだ(仮につくれるまでに多少時間がかかったのだとしても)。 それにしても、マグル世界では、ハリーが知っている範囲で歴史上きわめて知能が高かった人のうち、邪悪な独裁者やテロリストになった人はいなかった。近い例をあげるならヘッジファンド屋がそうかもしれないが、それでさえ第三世界の国の政府を乗っとろうとした例はない。彼らが悪をおこなうにも善をおこなうにも、そのあたりが限界だったということだ。

 

〈闇の王〉が知的でありかつ〈不死鳥の騎士団〉が即死させられないような仮説もあるが、そういう仮説はさらに複雑なので、複雑度ペナルティがかかる。 複雑度ペナルティをかけることで『〈闇の王〉は一瞬で戦争に勝たなかった』という観察結果を説明したとして、『〈闇の王〉は知的である』仮説の尤度と『〈闇の王〉は知的でない』仮説の尤度とには大差がある。 おそらく『知的』仮説が十対一で負けるくらいの尤度比になる……とはいえ百対一まではいかないかもしれない。 〈闇の王〉が知的だった場合に『一瞬で勝つ』確率が九十九パーセントを越えるとまでは言えない。 いろいろな説明の方法をかきあつめれば一パーセント以上にはなるだろうから。

 

つぎの問題なのは〈予言〉だが……。()()()()()〈予言〉にはヴォルデモート卿がポッター家を襲ったとき()()()死ぬという一文があったかもしれないし、なかったかもしれない。 あったのを、ヴォルデモート卿の自滅を誘う目的で、アルバス・ダンブルドアがマクゴナガル先生の記憶をふくめて改竄したのかもしれない。 実はそんな部分はなかったのだとすれば、〈予言〉の文言は()()()()()()()()〈例の男〉と〈死ななかった男の子〉がいつか将来的に対決するのだというように読める。 ただしその場合、ダンブルドアがハリーを〈予言の間〉に連れていかないためのもっともらしい口実を用意する可能性は下がる……。

 

この調子でベイズ確率の計算などできるのだろうか、とハリーは思った。 もちろん、こうやって適当な数字を用意して主観的ベイズ確率の計算をするのは、正確な計算結果を期待してのことではない。 この手法の真価は、数値であらわすための作業の()()()()()関係する事実をあつめてそのひとつひとつの重みを考えされられる、というところにある。 ちょうど、()()〈例の男〉が死んでいるとしてその場合〈闇の紋章〉が消えていない確率はどれくらいかを()()()と、消えていないという観測結果が十分有意な証拠ではない、と分かるように。 やりかたによっては、仮説と証拠を列挙して、適当な数字をいれて計算をしてから、最終的な計算結果は捨ててしまうこともある。一度あらゆる要素の()()をしっかり考えることを自分に強制してから、あとは勘で判断するのである。 やっかいなのは、いまある証拠どうしのあいだには条件つき独立性がなく、たがいに相互作用をする背景情報が複数あるということ……。

 

……まあ、すくなくとも()()()、たしかなことはある。

 

仮に計算ができるものだとして、そのためには紙と鉛筆が必要だということ。

 

総長室内の壁の暖炉で突然、炎が燃えあがった。オレンジ色だった炎は毒毒しい緑色にかわった。

 

「ああ!」とマクゴナガル先生が、ぎこちない非沈黙をやぶって言う。 「そうでした。〈凶眼(マッドアイ)〉ムーディが来るのでした。」

 

「この件は一旦おいておくことにしよう。」と総長はいくらかほっとしたように言って、マクゴナガル先生につづいて〈煙送(フルー)〉のほうを向いた。 「……ここまでの話題に関連する情報も、これからの話で聞かされるだろうと思う。」

 

◆ ◆ ◆

 

仮説——ハーマイオニー・グレンジャー

(一九九二年四月八日、午後六時五十三分)

 

◆ ◆ ◆

 

そのころホグウォーツの大広間では、総長との秘密の会議に呼ばれていない生徒たちが四つの長卓にわかれ、にぎやかな夕食の時間を過ごしていた——

 

「言われた当時は本気にしてなかったんだけどさ……」とディーン・トマスが思案げに言う。「ほら、司令官が言ってただろ。『ここで学ぶことには、きみたちを永遠に変えてしまうほどのちからがある。ぼくとおなじものの見かたを身につければ、二度と通常の生活にはもどれなくなくなる。』って。」

 

「そうそう!」とシェイマス・フィネガンが言う。 「おれも冗談だと思ってた! 司令官が言うことはだいたいいつもそうだったし。」

 

「でもこうなると——」とディーンがさびしそうに言う。 「たしかに、もどれないよな。 ホグウォーツに一度来てからマグルの学校にもどるみたいなものだし。 こうなるともう……おれたちだけでやっていくしかないんじゃないか。 正気でいたいなら。」

 

となりにいるシェイマスはなにも言わずにうなづき、ヴェルドビーストの肉をもうひとくち食べた。

 

そのあいだにも、まわりではグリフィンドール生たちの会話がつづいていた。 昨日ほど()()()様相ではなかったが、折りにふれてその話題が持ちあがっていた。

 

「まあ、()()()()()三角関係があったことはまちがいないと思う。」と二年生女子サマンサ・クロウリーが言う。(その名前から想像される親族関係についての質問をされるたびに、彼女は回答を拒否する。) 「問題は、破綻するまえにどういう方向の関係ができてたかっていうこと。 だれがだれを好きだったのか——両思いだったのか片思いだったのか——これってなんとおりの可能性になるのかな——」

 

「六十四とおり。」とセアラ・ヴァリアビルという女子が言う。将来美人になりそうな女子だが、グリフィンドールよりレイヴンクローかハッフルパフに〈組分け〉されるべきだったように見える。 「いや、ちょっと待って。まちがえた。 マルフォイを愛する人がいない場合とマルフォイが愛する人がいない場合にマルフォイが三角関係の一角だとは言えないから……これは〈数占術(アリスマンシー)〉でやってみないと。ちょっと待っててくれる?」

 

「わたしに言わせれば、グレンジャーはポッターにとっての弟妹愛(モイレイル)相手で、マルフォイとグレンジャーのあいだをポッターが仲結び(オースピスティス)している、としか思えないね。」  その女子は、複雑な問題をみごとに解決して見せたかのような表情で一人深くうなづいた。

 

「思いつきで単語をつくるなよ。そんなの聞いたことないぞ。」と男子が言った。

 

「できあいの単語じゃ表現できないものもあるんだからしょうがないでしょ。」

 

「かわいそうだよねえ。」  シェリス・ンガスリンは本気で泣いているように見える。 「どうみても——どうみても運命でむすばれた相手同士なのに!」

 

「ポッターとマルフォイが?」と二年生のコリーン・ジョンソンが言う。 「やっぱりそうだよねえ——おたがいの家は心底いがみあっていて……そんな出自の二人が、恋に落ちないわけがない——」

 

「じゃなくて、あの三人がいっしょに、っていうこと。」とシェリスが言った。

 

そのまわりで顔を寄せあって話していた面々がしばし無言になった。 ディーン・トマスがレモネードにむせたのを音をださずにこらえようとしたが、レモネードは口からこぼれてシャツに落ちた。

 

「へええ……」とナンシー・ファーという黒髪の女子が言う。 「シェリスってずいぶん……()()()だったのね。」

 

「ちょっと待って、現実的な範囲で考えましょう。」と模擬戦の司令官をしていたエロイーズ・ローゼンが上官っぽい口調で言う。 「まずグレンジャーは——あのキスの一件でわかるとおり——ポッターに恋していた。 グレンジャーがマルフォイを殺そうとする理由はというと、そのポッターをマルフォイに横取りされそうになったからとしか考えられない。 ほら、なにもややこしく考える必要はないでしょう——これは現実で、お芝居じゃないんだから!」

 

「でも仮にそういう恋心があったとしても、グレンジャーがあんなキレかたをするなんてねえ。」とクロエが言う。濃い黒肌に黒ローブを着たそのすがたはシルエットのように見える。 「うーん……恋愛小説ならそういうバッドエンドもありがちだけど、これはもっと複雑なのかも。 みんなそれをよく分からないまま話してるだけじゃないのかな。」

 

「そう! よく言ってくれた!」とディーン・トマスが割りこんで言う。 「ほら、以前からハリー・ポッターが言ってたように——事前にまったく予測できなかった、予想外のできごとが起きたときは、それまでの自分が世界について信じていたことだけで説明しようとしても説明しきれないんだと……」  そのあたりでディーンはだれも聞いていないことに気づき、声をとぎれさせた。 「やっぱりもう()()()()()()()()()()()んじゃないの、これ?」

 

「いまごろ気づいたの?」とラヴェンダー・ブラウンが言った。元〈カオス〉軍のラヴェンダーは現〈カオス〉兵の二人の向かいがわの席にいる。 「それでよく士官になれたわね?」

 

「そこの二人はだまってて!」とシェリスが言う。 「そうやってあの三人を自分たちのものにしたいだけなのは分かりきってるから!」

 

「やっぱりこれだよ!」とクロエが言う。 「みんなが言ってる()()()()()なことじゃないなにかが、実は起きていたんだとしたら……? 何者かが——グレンジャーを()()()()いたんだとしたら? ポッターが何度も言っていたみたいに?」

 

「ぼくもクロエの意見に賛成。」と、いつも『エイドリアン・ターニップシード』と名乗る生徒が言う。外国人らしい男子で、両親からもらった名前は『マッド・ドロンゴ』である。 「きっと実は最初から……」  一度声が低くなる。 「影でだれかが……」  また声が大きくなる。 「すべてをあやつっていたんだと思う。 だれか一人が()()()()動かしていた。 ちなみにそれはスネイプ先生でもないよ。」

 

「それってもしかして——」とセアラが驚愕して言う。

 

「そう、実はすべてをあやつっていたのは——()()()()()()()()()()()だったのさ!」とエイドリアン。

 

「わたしもそうだと思った。だって——」と言ってクロエがさっとあたりを見まわす。 「いじめの件で、天井のあれがあってからは—— ホグウォーツのまわりの森の木々でさえ()()()——()()()()いるみたいだったし——」

 

シェイマス・フィネガンは思案げに眉をひそめ、ラヴェンダーとディーンにだけ聞こえるように声を落とした。 「なんか、ハリーが……ほら、ああいう風に……したりする気持ちが分かるような気がしてきた。」

 

「分かる分かる。」  ラヴェンダーは声を落とさない。 「とっくにそれだけじゃすまなくなって、我慢の限界になってみんなを殺しはじめても不思議じゃないと思ってたわ。」

 

「それよりも……」とディーンも小さな声で言う。 「もっと怖いのは——ぼくらもああなっていたかもしれないっていうこと。」

 

「たしかに。わたしたちだけでも完全に正気でいられて助かったわね。」

 

ラヴェンダーのことばに、ディーンとシェイマスは厳粛そうにうなづいた。

 

◆ ◆ ◆

 

仮説——G.L.

(一九九二年四月八日、午後八時八分)

 

◆ ◆ ◆

 

総長室の〈煙送(フルー)炉〉に白緑色の火が燃えあがり、それが一度くるくる収縮して、またひときわ明るく燃えた。そこから人間が一人空中にはきだされ——

 

そのまま〈煙送(フルー)〉の火の回転の余勢に乗って、目にも止まらない速度でバレーダンサーのように回転しながら杖を手にし、その動きで火の円弧が一周してつながった。かと思うと、急にその人間は停止した。

 

男についてまず最初にハリーが認識したのは目ではなく、傷だらけの両手と傷だらけの顔だった。手と顔以外の隠れた部分にも、全身に火傷(やけど)と切り傷があるかのようだった。 そのからだを覆うのはローブではなく、革の服というより鎧のように見える装束。濃い灰色の革で、男のくしゃくしゃの白い髪の毛に似合っている。

 

そのつぎにハリーが気づいたのは、きらりと光る青色の目が、男の顔の右がわに座していることだった。

 

ハリーの精神の一部は、マクゴナガル先生が『〈凶眼(マッドアイ)〉ムーディ』と呼んだ人物と、ダンブルドアがハリーに見せた記憶のなかで『アラスター』と呼んだ人物が同一人物であることにも気づいた。あの記憶の時点ではまだ、全身をおおう傷もなく、鼻をえぐられてもいなかったが——

 

別の一部は、自分のなかでアドレナリンがどっと流れたことに気づいた。 ハリーは完全に反射的に、男が〈煙送(フルー)〉から飛びでた瞬間に杖をとりだしていた。その出現のしかたはどこか()()と似ていたので、ハリーは杖を持ちあげて『ソムニウム』をかける寸前までいった。が、そこでなんとか踏みとどまった。 男はいまも、だれに向けるのでもなく部屋全体を射程にいれるように杖を持ちあげたままの姿勢をとっている。銃の照準器に目をおく兵士のように、杖の高さと目の高さを完全に一致させている。 その足のかまえかたと革の長靴、革の鎧と光る青色の目が男の危険さをものがたっている。

 

男は総長に話しかける。その声にはとげがあった。 「この部屋のセキュリティは万全だろうな?」

 

「ここには味方しかおらん。」とダンブルドア。

 

男はハリーのほうに向けて一度くびをひねった。 「その坊主もか?」

 

「もしハリー・ポッターが味方でなければ……」とダンブルドアが重おもしく言う。「われわれの望みは断たれたも同然。よって味方であると仮定してもよかろう。」

 

男の杖は持ちあがったままだが、とくにハリーの方向をむいてはいない。 「こいつ、おれに杖をむけようとしおったぞ。」

 

「あ……」  ハリーは自分がまだ杖を手にしたままだったことに気づいて、意識して手の緊張をゆるめ、からだの横につけた。 「すみません、つい。ちょっとあなたが……臨戦態勢に見えたので。」

 

男の杖の向きがハリーからほんのすこしだけ遠ざかったが、仰角はかわらなかった。 「ハッ。油断大敵、ってわけだな?」

 

「狙われる理由があるときに警戒するのは疑心暗鬼(パラノイア)じゃない、と言いますから。」

 

男はハリーと正対する位置についた。傷だらけのその顔からハリーが読みとれるかぎりでは、男は()()()()()()ようだった。

 

ダンブルドアの両目に、アズカバン脱獄事件以前のきらめきがいくらか戻ったように見えた。銀色のひげの下の笑みも、あたりまえのようにそこにあった。 「ハリー、こちらはアラスター・ムーディ。別名は〈凶眼(マッドアイ)〉。わしのあとを継いで〈不死鳥の騎士団〉を率いることになっている——わしになにかあったときには、ということじゃが。 アラスター、こちらはハリー・ポッター。 おぬしたち二人には()()()()()()良好な関係をきずいてもらいたいと思う。」

 

「話にはいろいろ聞いている。」  マッドアイ・ムーディの自前の黒い片目はハリーをじっと見ている。光る青色の目はソケットのなかで自由に回転できるらしく、休みなく動きつづけている。 「……悪い話もふくめて。 〈法執行部〉ではおまえさんに〈ディメンターの天敵〉という名前がついとるそうだ。」

 

すこし考えてから、ハリーは『でしょうね』という笑みをした。

 

「聞くが、あれはどういう手を使った?」  男は小声で言う。こんどは青い目もハリーをじっと見ている。 「あのディメンターをアズカバンから連れてきた〈闇ばらい〉の一人から話を聞いた。 ベス・マーティンが言うには、ディメンターは奈落からあそこまで来るあいだ、寄り道も指示を受けたこともなかったそうだ。 もちろん、ベア・マーティンがおれにうそを言っていた可能性はある。」

 

「あの件については、小細工はありません。 正面からやっただけです。 もちろん、ぼくもうそを言っている可能性はあります。」

 

ダンブルドアは椅子にもたれて背景に引きさがり、総長室そなえつけの装置類の一つになったかのようにして、くっくっと笑っている。

 

ムーディの顔がダンブルドアのほうを向いた。杖はハリーがいるあたりに向けて低くかまえたまま、 ぶっきらぼうな声で話しだす。 「ヴォルディの直近の宿主かもしれない人間についての情報をつかんだ。 あんたはそれがホグウォーツのなかにいると言うが、たしかか?」

 

「いや、()()()とは——」とダンブルドアが言いかけた。

 

「いまなんて言いました?」とハリーは割りこんだ。 自分のなかではほぼ存在しないという結論をだしかけている〈闇の王〉について、さも当然のようにこういう話をされるのは衝撃的だった。

 

「ヴォルディの宿主だ。グレンジャーに憑依するまえのな。」とムーディ。

 

「伝承にまちがいがなければ……」とダンブルドアが言う。 「ヴォルデモートの霊を現世に束縛することのできる装置が実在する。 となれば、ヴォルデモートがだれかと取り引きをして、その身体の支配権とひきかえに、自分の能力と誇りの一部をあたえたということもありうる——」

 

「まずあやしいのは、ここ最近で不自然なまでに急速に実力を身につけた人間だ。」とムーディが言う。 「実際、そういうやつがいた。一度消息をたってから、バンドンのバンシーを退治して、アジアの乱暴な吸血鬼の一族と一人で対決し、ワガワガの人狼(ワーウルフ)を捕まえて、グールの群れを茶漉しで全滅させたというやつがな。 しかもそれでちゃっかり名声を確保して、巷じゃ〈マーリン勲章〉の話まででてきた。 魔法の実力だけじゃなく、人にとりいって操る技も身につけたようだ。」

 

「それは……彼自身の実力でなしとげたのではないという確証は?」とダンブルドア。

 

「昔の成績を調べておいた。 ギルデロイ・ロックハートの〈防衛術〉のO.W.L.sの成績は〈悪鬼(トロル)〉。N.E.W.T.sは受ける気すらなかったらしい。 いかにもヴォルディとの取り引きに応じそうなたぐいの小物だよ。」  青い目がソケットのなかで動きまくっている。 「ロックハートが自力でそれだけのことをしでかしそうな学生だった、というおぼえがあるんなら別だが?」

 

「いいえ。」とマクゴナガル教授が眉をひそめて言う。「ありえません。わたしの記憶では。」

 

「残念ながらわしも同意見じゃ。」とダンブルドアがどこか痛ましげな声で言う。 「ギルデロイ、なんと愚かなことを……。」

 

ムーディは一段とにやりとして獰猛な表情になった。 「しかけるのは今夜午前三時でどうだね? ロックハートは自宅にいるはずだ。」

 

そこまでの話を聞いていてハリーはどんどん悪い予感がしてきた。この世界では、〈魔法省〉の捜査員でさえ治安判事(マジストレイト)の令状なしに実力行使ができてしまう規則だったりするのではないか——非合法の自警団なら、言うまでもなくそうだろう。ハリー自身がいつのまにかその自警団に加入してしまっているらしいのだが。 「すみません。午前三時に、具体的になにをするんですか?」

 

口調で真意がつたわってしまったらしく、それを聞いて男はくるりとハリーのほうを向いた。 「文句でもあるのか、坊主。」

 

ハリーはすぐに返事せず、初対面の人にでも通じる言いまわしを考えようとする——

 

「自分にやらせてくれ、と言いたいのか? 両親の(かたき)討ちってわけか?」

 

「いえ。」  ハリーは丁寧な言いかたをつとめる。 「あのですね——その人が自分の意思で〈例の男〉の宿主になっているという()()があるならともかく、はっきりしないうちに襲撃して殺そうとするのは——」

 

「殺すだと?」  マッドアイ・ムーディは鼻で笑った。 「ロックハート(そいつ)のあたまの中身だよ……」  そう言って自分のひたいをたたく。 「おれたちがほしいのは。 ヴォルディも、生きていたころのようにたやすくそいつの記憶を消しおおせているとはかぎらんからな。ホークラックスがどういう見ためだったかを、ロックハートがおぼえていてくれりゃあ助かる。」

 

ハリーは『ホークラックス』という単語をあとで調べるためにしっかり記憶してから反応した。 「ただぼくは、無実の人を——話を聞くかぎりでは、いいことをしているらしい人を——傷つけてしまうことになりはしないかと思っているだけです。」

 

「〈闇ばらい〉は人を傷つける。 うまくいけば、悪人をな。 しかし、うまくいかない日もある。たったそれだけの話だ。 言っておくが、〈闇の魔術師〉のほうがはるかに多くの人を傷つけているんだからな。」

 

ハリーは一度深呼吸をした。 「誤認だった場合に備えて、傷つけないように()()するくらいのことはできませんか——」

 

「なんの用があって一年坊主がここにいるんだ? アルバス。」  ムーディはまたぐるりとダンブルドアのほうに顔を向けた。 「赤ん坊のころの功績で、なんて言うんじゃないだろうな。」

 

「彼は尋常な一年生ではない。 彼はわしにも不可能としか思えなかったことを実現した。 〈騎士団〉のなかでいつかヴォルデモートにならぶ知性があるとすれば、それはおぬしでもわしでもなく、彼じゃろう。」

 

男は総長の机に身をのりだした。 「いいや、足手まといだね。戦争のセの字も知らん素人だ。 こいつをここから出してもらおうか。〈騎士団〉についての記憶も消去してくれ。さもなきゃ、いずれヴォルデモートの従僕のだれかに記憶をかっさらわれるのがオチ——」

 

「〈閉心術〉ならつかえますよ。」

 

マッドアイ・ムーディはするどい目で総長を見る。総長はうなづき返す。

 

ハリーに向きなおったムーディとのあいだで二人の視線が交錯する。

 

突然猛烈な〈開心術〉に襲われてハリーは椅子から転げ落ちそうになりながら、自分の表層にある想像上の人格が白熱する鋼鉄の刃で切開されるのを感じた。 ミスター・ベスターの訓練を受けて以来、これまで〈閉心術〉の練習をする機会がなかったので、深層の自分がつくりだす想像上の人格をあやうくとぎれさせそうになってしまった。その人格はいま、燃えたぎる溶岩にかこまれ、怒涛の質問責めにあっている。幻覚にとらわれ突然の苦痛に悲鳴をあげそうになる想像上の人格になるふりをするが、それがふりだけではなくなりそうになる。ムーディの〈開心術〉の攻撃で自分の思考がばらばらにされ、自分が火にかけられているという思考へと強制的に再構成される——

 

ハリーはやっとのことで目をそらし、ムーディのあごに視線を落とした。

 

「なっとらんな。」  そう言われても顔を見ることはしなかったが、無慈悲さは声で分かった。 「二度は言わんからよく聞け。 歴史上知られているかぎり、ヴォルディのような〈開心術師〉はこれまでどこにもいなかった。 やつは相手の目を見るまでもなく、気づかれずにすっと侵入してのける。そんな錆ついた盾ではなんの役にも立たんぞ。」

 

「おぼえておきます。」  視線はあごに向けたまま、ハリーは自分でも認めたくないほど動揺しているのに気づいた。ミスター・ベスターとは段違いの強力さだった。それにミスター・ベスターは()()()手を一度も使わなかった。 あれだけのやりかたで痛めつけられるふりをするというのは……どう表現していいか分からないが、それだけの苦痛を感じている想像上の人格を自分のなかに持つということは、()()ではない気がした。 「〈閉心術〉ができたことは認めてもらえますか?」

 

「だから大人あつかいされて当たりまえだと言うんだな? おれの目を見ろ!」

 

ハリーは自分の防壁を強化してからもう一度、濃灰色の目と光る青色の目をのぞきこんだ。

 

「ひとが死ぬのを見たことはあるか?」とマッドアイ・ムーディが言った。

 

「両親が死ぬのを見ました。 一月、〈守護霊(パトローナス)の魔法〉の練習でディメンターのまえに立ったとき、その当時の記憶をとりもどしました。 〈例の男〉の声の記憶も——」  寒けが全身をかけぬけ、手のなかで杖が震えた。 「戦術上意味のある情報としては、〈例の男〉は〈死の呪い〉を〇.五秒以下で発音できるということが分かりましたが、多分もうそれはごぞんじでしょうね。」

 

マクゴナガル先生のいるあたりで、息をのむ音がした。セヴルスの表情がかたくなった。

 

「わかった。」  マッドアイ・ムーディの傷だらけの顔のくちもとがわずかにゆがみ、奇妙な笑みをする。 「じゃあ、〈闇ばらい〉訓練生とおなじやりかたで試してやろう。 一度でいいからおれに——呪文一発でいいから——当ててみろ。それができれば、くちごたえする権利をやる。」

 

「アラスター!」とマクゴナガル先生の声が飛んだ。 「そんな試験は無理があるでしょう! ほかの面の能力はともかくとして、ミスター・ポッターには百年の実戦経験などないのですから!」

 

ハリーの視線が電撃的な速度で部屋のあちこちに向かい、さまざまな装置群やダンブルドアやセヴルスや〈組わけ帽子〉などをかわるがわる見ていく。 いまいる位置からだとマクゴナガル先生を見ることはできないが、それはどうでもよかった。 ほんとうに見たいものはただひとつ。それがなんであるかをさとられないように、ほかのものをたくさん見ることにしただけだった。

 

「いいですよ。」と言ってハリーは椅子を飛びおりた。マクゴナガル先生が息をのみ、セヴルスが『本気か』と言うように鼻で笑うのが聞こえたが無視した。 目のまえでは、ダンブルドアの両眉があがり、ムーディがトラのように歯をむきだす笑みをしている。 「ぼくがやられた場合は、かならず四十分後に起こしてください。」  決闘術の立ちかたで、杖は低くかまえる。 「じゃあやりましょうか——」

 

◆ ◆ ◆

 

目をあけると、あたまのなかに綿(わた)を詰めこまれているような感じがした。

 

総長室の来客者はもういなくなっていた。〈煙送(フルー)炉〉の火も消えている。一人、ダンブルドアだけが席について待っていた。

 

「起きたか、ハリー。」

 

「目にもとまらない早業でした、あれは。」  ハリーは身を起こしながら、あちこちの筋肉が痛むのを感じた。

 

「きみの失敗は、アラスター・ムーディから二歩の距離に立っていながら、彼の杖から目を離してしまったこと。」

 

ハリーはうなづき、〈不可視のマント〉をポーチからとりだした。 「いや——ぼくはただ、そのへんのバカの真似をして決闘術のかまえをすることで、相手の油断を誘うつもりだったんですが——さすがにあそこまでとは。」

 

「つまり、これもきみの計画の一部というわけかね?」

 

「もちろん。 だからこそ、起きてすぐに動きはじめられているんですよ。考える時間をかけるまでもなく。」

 

ハリーは〈マント〉のフードをかぶり、こっそり一度確認してあった壁の時計をもう一度見た。

 

前回見たとき、その時計は八時二十三分を指していた。今回は、九時五分。

 

◆ ◆ ◆

 

ミネルヴァはハリーが杖を低くかまえて決闘術の姿勢をとりだすのをじっと見て、 一瞬だけ、もしかすると、と思った。——いや、どう考えても不可能だ。相手が〈凶眼(マッドアイ)〉ムーディでは、不可能でも言いたりない。 たしかに部分〈転成術〉のときも実際に見るまでそう思えたのだが、それにしてもこれは……。

 

「じゃあやりましょうか。」とハリーが言い、倒れた。

 

セヴルスが一度だけ軽く笑った。 「ミスター・ポッターにも見るべきところはある。もちろん、わたしは彼が起きているときにこんなことは言わないし、言ったと証言されれば断固否定しますがね。彼の自我はそれでなくとも十分肥大化している。 ミスター・ポッターにも見るべきところはあるにせよ、決闘術はそのひとつではない。」

 

それとくらべて、マッドアイ・ムーディは弱く冷たい笑いかたをした。 「そうとも。 決闘なぞ愚か者がやることだ。 あんな立ちかたでは攻撃してくれと言っているようなものだ。なにがしたかったのやら。 せっかくだから傷の一つも残しておくか。この一件が忘れられなくなるように——」

 

「アラスター!」とアルバスが声をあげ、同時にミネルヴァも「やめて!」と言い、セヴルスは前に駆けこむ。マッドアイ・ムーディは狙いをすまして、倒れたハリーに杖をむけた。

 

「ステューピファイ!」

 

マッドアイのからだが木製の義足を支点に、明滅するほど高速に回転した。ミネルヴァは魔法ぬきでこれほど高速に動く人間を見たことがなかった。同時に赤色の〈失神呪文〉は、ハリーがいなくなった空間を通りぬけ、セヴルスをかすめて奥の壁に衝突した。急いでマッドアイのほうへ目をやると、十七の光の玉が〈魔法の射手(サギタ・マギカ)〉の配置でならんでいた。布陣はすぐに消え、そこから光の奔流が生まれた。流れでた光は()()()に当たり、それが音をたてて床に倒れ——

 

◆ ◆ ◆

 

「おかえり、ハリー。」とダンブルドア。

 

「信じられない反応速度ですね、あの人は。」と言って、ハリーは過去の自分から見えないように透明になって倒れていた床のその場所から立ちあがり、〈マント〉をぬぐ。 「動作の速度もですが。 詠唱ありの呪文だと気づかれるだろうから、なんとかして詠唱なしに一発あてる方法を考えないと……」

 

◆ ◆ ◆

 

——それからマッドアイは機敏にかがんで、両手をぱっと床につけた。 その頭上をうっすらと細い糸が二本飛んでいくのを、ミネルヴァは見のがしそうになった。糸が総長室内の装置のどれかにあたって青色の閃光をあげるのに気をとられていると、いつのまにかマッドアイはすっと立ちあがり、目に見えないほどの速度で杖を振っていた。またドスンとなにかが倒れる音がして——

 

◆ ◆ ◆

 

「おかえり、ハリー。」

 

「ちょっとお願いがあるんですが。一度階下に行ってからここに戻らせてもらって、それから最後にもう一度飛ぶことにしたいんですが、いいですか? 準備に一時間以上かかってしまいそうなので——」

 

◆ ◆ ◆

 

ミネルヴァは杖をおろす気配すらないままそこに立つマッドアイ・ムーディを見て愕然とした。セヴルスは動揺の表情にかぎりなく近い表情をしていた。

 

「どうした、坊主。それでおしまいか?」

 

見えない手が不可視のマントのフードをめくるとともに、ハリー・ポッターの頭部が空中にあらわれた。

 

「その目は……」と言うハリー・ポッターの目には奇妙な光がやどっている。 「なにか特別な装置ですね。 この不可視のマントのなかを見とおせるような。 ぼくが電撃銃(スタンガン)を〈転成〉してかまえた瞬間に、あなたはよけようとした。声にだす詠唱はしていないのに。 今回もそうだった。ということは—— 〈煙送(フルー)〉で到着した段階で、もう気づいていたんじゃないですか。この部屋に〈逆転時計〉を利用したぼくの分身が何人もいるということも、その居場所も。」

 

マッドアイ・ムーディは歯をむきだしにして笑っている。ヴォルデモートを押しとどめた戦いのときに見せたのとおなじ笑みだった。 「闇の魔術師どもを相手に百年やりあっていれば、たいがいの小細工は目にするもんだ。 おれが逮捕したなかにも、それとおなじ小細工をやろうとした日本人の若者がいた。 影分身の術だそうだが、おれのこの目に通用すると思ったのが命取りだったな。」

 

「全方向が見える目なんですね。」  ハリー・ポッターはまだ奇妙に光る目をしている。 「目がむいている方向とは関係なく、周囲全体が見える目なんだ。」

 

ムーディはいっそうトラに似た笑みをして口をあける。 「分身はもうなくなったようだな。 あとはもう坊主の負けと決まっているからか。それとも勝つからか。 ひとつ、賭けてみるか?」

 

「これが最後なのは、のこっていた三時間ぶんを一発に賭けることにしたからですよ。勝つか負けるかについては——」

 

総長室全体の空気ににごりが生じたように見え、 またたく間にマッドアイ・ムーディが壁にとんだ。つぎの瞬間にハリーの頭部がとびすさり、「ステューポファイ!」とさけんだ。

 

光線が三本ハリーの頭部をかすめ、同時にハリーのいる位置から赤い稲妻が発射された。それがかすめようとするとき、ムーディはまた別の方向にとび——

 

そして、もしまばたきをしていたとしたら見のがしたかもしれないほど速く——赤い稲妻は空中で曲がり、ムーディの耳に直撃した。

 

ムーディは倒れた。

 

空中に浮かぶハリー・ポッターの頭部が、一年生のひざの高さまで下がり、それから床に落ちた。急に疲弊した表情をしていた。

 

ミネルヴァ・マクゴナガルは自分が目にしたものを信じられなかった。 「いったいどうやってこんなことが——」

 

◆ ◆ ◆

 

「フリトウィックに相談したということか。」  椅子に腰をおろしたムーディは、ベルトにつけてあった小瓶(スキットル)から気つけ薬を飲みつつそう言った。

 

ハリー・ポッターはうなづいた。いまはひじかけではなく椅子本体に腰をおろしている。 「最初は〈防衛術〉教授のところへいったんですが——」  そう言って顔をしかめる。 「……協力が得られなかったので。 まあ、寮点を五点うしなうくらいの覚悟はしてましたし、覚悟があると言っておきながら実際うしなって文句を言うことはできないですよね。 とにかく、ほかの人に見えないものを見ることができる目がある人が相手なら、アイザック・アシモフの『第二ファウンデーション』にもあったように、強烈な光が有効な武器になるだろうと思いました。 サイエンスフィクションをある程度読んでいれば、たいていのものに一度は遭遇しますからね。 とにかく、フリトウィック先生からは、目に見えないものを大量につくりだす〈魔法(チャーム)〉を教えてもらってきました。強い光をだして点滅しながら透明で、あなたの目だけに見えるようなものを部屋全体を一気に充満させる呪文です。正直、幻影を投射してからそれを透明にするというのは意味がわからないんですが、そこにつっこまないでいれば、やってみせてもらえるだろうと思って。実際やってみせてもらえました。 ぼくにはつかえない難度の呪文ばかりだったんですが、かわりに、使い切りの魔法装置を用意してもらって——ずるをするためじゃない、ということを説明する必要はありましたけどね。退職する年齢まで生きのびた〈闇ばらい〉が相手なら、なにをしてもずるじゃありませんから。 でも、あれだけ速く動けるあなたにどうやって呪文をあてればいいのか、という点は解決していなかったので、 標的(ターゲット)指定つきの呪文とかはないのかをたずねてみると、フリトウィック先生が教えてくれたのが〈曲行失神弾〉——ぼくが最後につかったあの呪文です。 フリトウィック先生が発明した呪文だそうです——フリトウィック先生はチャームズの専門家であると同時に決闘術大会優勝者でもあるので——」

 

「知っているとも。」

 

「すみません。とにかく、フリトウィック先生はその呪文をつかう機会がないまま決闘術から離れたそうです。防壁がない対戦相手をしとめるための最後の一発としてしか意味のない呪文なんですよね。 これは、標的にぎりぎりのところまで接近する段階ではもとの軌跡のまま飛びますが、そこから標的が離れる方向に動くのを検知すると、空中で方向転換してそちらに直進します。 曲がれるのは一回だけですが——『ステューピファイ』と詠唱が似ているし、色もおなじ赤色なので、相手は通常の〈失神弾〉だと思って通常どおりに回避しようとします。この弾はそこをついて方向転換することで相手をしとめます。 あ、そうだ。この話をするときは全員に口止めするようにと言われているので、お願いしますね。いつか決闘術に復帰することがあったら、試合でつかってみたいんだそうです。」

 

「それでも——」と言いかけてからミネルヴァはマッドアイ・ムーディに目をやり、無言でうなづくのを見る。セヴルスは無表情を決めこんでいる。 「ミスター・ポッター、あなたは()()()()()()()()()()をしとめたんですよ! 〈闇ばらい〉局の歴史上もっとも名高い〈闇の魔術師〉ハンターを! ありえないにもほどがあります!」

 

ムーディは暗い声で笑った。 「坊主、どう答える? おれも興味がある。」

 

「その……まず、ぼくら二人とも真剣に戦ってはいなかったんですよ、マクゴナガル先生。」

 

「二人とも?」

 

「当然です。 仮にこれが真剣勝負だったら、ミスター・ムーディは攻撃されるのを待たずにぼくの複製を一網打尽にしていたでしょうし、 ぼくももし()()()()()〈闇ばらい〉局の歴史上もっとも名高い〈闇の魔術師〉ハンターを倒す必要があったとしたら、ダンブルドア総長にやってもらいますよ。 それ以上に……真剣勝負でなかったからこそ……」  そこでハリーは一度言いやめた。 「どう説明すればいいんですかね。 魔法族はある程度長い時間呪文でやりあう形式の決闘に慣れているようですが、 銃を持つマグルが二人、せまい部屋で撃ちあったとしたら……一発目にあてたほうが勝ちです。 もし片ほうがわざと狙いをはずして撃ちつづけることで、もう片ほうに何度も何度もチャンスをあたえていたとしたら——ミスター・ムーディはぼくにそうしていたわけですが——そこまでされて負けるのは、相当みじめですよ。」

 

「そこまでみじめとは思わんよ。」とムーディが多少威嚇的な笑みをして言った。

 

ハリーは気づいたそぶりもなく話をつづける。 「ある意味で、ミスター・ムーディはぼくが()()()()()()のか()()()()()()のかをたしかめるつもりだったのかもしれません。 つまり、勝つという()()が見えないまま、知っている範囲の標準的な呪文を撃ちつづけることで、戦う人を()()()のか。それとも、ふつうではありえない作戦を検討していって、勝つ()()()がある方法をひとつでも見つけようとするのか。 ちょうど、授業があれば席につくことになっているから席につくだけの生徒と、ほんとうの意味で学ぶためにはなにをすればいいかと自問して、そのために必要なだけの練習をする気概のある生徒とが大ちがいであるように——分かりますよね、マクゴナガル先生? そういうわけで、ミスター・ムーディがわざとぼくに攻撃の機会をあたえていて、ぼくは勝てる見こみがないかぎり攻撃すべきではなかったという前提で考えれば——ぼくはあまり大きな顔はできません。三回目にやっと当てられただけなんですから。 それにさっき言ったとおり、これが実戦なら、()()()()()()()()()()透明になったり防壁を用意したりできていたはずで——」

 

「防壁を信用しすぎるなよ、坊主。」と言ってマッドアイは小瓶(スキットル)をかたむけ、また気つけ薬を口にする。 「学校の一年目にならうようなことは、いずれ役に立たなくなる。実力のある〈闇の魔術師〉を相手にするようになればな。 どんな防壁にも、かならずひとつはそれを貫通する呪いがある。そのときは対抗呪文(カウンター)の速度しだいで勝負が決まる。 あらゆる防壁を貫通する呪いというのもある。〈死食い人〉はかならずその呪いをつかう。」

 

ハリー・ポッターは真剣そうにうなづいた。 「そうか、防御できない呪文もあるんですね。 〈死の呪い〉をもう一度当てられそうになったときのために、おぼえておきますよ。」

 

「そうやって軽口をたたくやつが決まって死ぬ。いいな、坊主。」

 

〈死ななかった男の子〉はがっかりしたようなためいきをした。「はい。すみません。」

 

「じゃあ話をもどす。アルバスとおれがロックハートを襲うことについて、なにか文句があるんだったか?」

 

ハリーは口をあけて、一息おいてから言った。 「あなたたちの戦争のやりかたについて口出しするつもりはありませんよ。ぼくはその方面の経験がないですから。 ただ、いろいろな代償があるかもしれないということはぼくにも分かります。 ぼくが見るところ、ロックハートは無実である可能性があります。もしロックハートを傷つけることもなく、あまりリスクを上げることもないような方法があるなら——」  そこで一度肩をすくめる。 「手間や代償の大きさにもよりますけどね。ただ、相手が無実である場合にそなえて、危害をくわえないですむやりかたがあれば、そうしてほしい、ということです。」

 

「あればな。」

 

「それと——その人をつかまえたら、精神のなかをのぞいて、〈闇の王〉の存在を証明するものを探すんでしたね? ブリテン魔法界では証拠能力についてどういう規則があるのか知りませんが—— 法律はおぼえきれないほどたくさんあって、だれでもひとつくらいは法律に違反しているものです。 だから調べて()()()()()()()()()()なにかに行きあたったとしても、〈魔法省〉に引き渡さずに〈忘消〉(オブリヴィエイト)してそのまま帰してやってくれませんか?」

 

ムーディは眉をひそめた。 「うしろめたいことをしていないやつが、あれだけの速度で実力をつけるのはありえんぞ。」

 

「そうだとしても、〈闇ばらい〉にまかせればいいんです。彼らが通常の手段で証拠をつかむのを待ちましょう。 お願いします。マグルそだちの人間独特の変な発想に聞こえるかもしれませんが、()()それが戦争関係でない犯罪だったら、ぼくらが出る幕はないはずです。真夜中にかってに人の家を襲撃して精神を読んでアズカバン行きにさせるような邪悪な自警団を演じるのはやめましょう。」

 

「おかしな発想だとは思うが、まあいい。今回は頼まれてやってもいい。」

 

「アラスター。ロックハート以外に、思いあたる人物は?」とアルバス。

 

「ある。おたくの〈防衛術〉教授についてだが——」

 

仮説——ギルデロイ・ロックハート——終

 

◆ ◆ ◆

 

仮説——ダンブルドア

(一九九二年四月八日、午後五時三十二分)

 

◆ ◆ ◆

 

クィレル先生がカップを持ちあげたとき、空中でそれがぴくりとして、透明な黒い茶がほんのわずかにこぼれた。こぼれたといっても三滴カップの外にたれただけで、 たまたまじっと見ていなかったとしたら見のがしていただろう、とハリーは思う。クィレル先生の手のうごきはその一瞬をのぞいて完全に安定していた。

 

これが小さな痙攣(けいれん)のような反応ではなく継続する震えにまで悪化したとしたら、クィレル先生は無杖魔法しか使うことができなくなる。 杖のうごきには精密さが要求されるため、指の震えは命とりだ。 それが実際クィレル先生にとってどのくらいのハンディキャップになるかは、なんともいえない。 クィレル先生は不自由なく無杖魔法をつかうことができるようだが、大きなことをするには杖をつかうことが多い——といっても楽だからそうしているだけなのかもしれない……。

 

「狂気は……」と言ってクィレル先生は慎重にカップにくちをつける——そしてカップから目を離さず、ふだんとはちがって、ハリーを見ていない—— 「それ単体で人を特定するにたる手がかりとなりえる。」

 

〈防衛術〉教授の居室は無音だ。防音結界のかけられたこの部屋の静けさは総長室の騒々しさと対照的である。 相対する二人の呼気と吸気のタイミングが一致して、そのあとに音響的空白の時間が生じることがときどきあるが、それすらも音といっていいかもしれない。

 

「それはある特定の意味でなら同意できますがね。 もし『みんなが自分を見ている』『下着に思考制御の薬をしこまれた』と言っている人がいたら、その人は精神病です。典型的な精神病の症状ですから。 でも、妙なことがあったらすべてアルバス・ダンブルドアを疑えというのは……いきすぎじゃないですか。 ぼくがある行為の目的を見つけられないからといって、目的が()()()()()とはかぎりません。」

 

「目的が存在しない? いや、ダンブルドアの狂気は目的がない狂気ではない。目的が多すぎる狂気だ。 総長はルシウス・マルフォイがきみへ報復するためにゲームを放棄するよう、しむけたのかもしれない——それ以外にもありうる謀略の種類は十をくだらない。 彼のなかで理由のある行為と理由のない行為がなんであるかなど、われわれには知りようがないだろう? 彼はあれだけいくつもの奇妙な行為に理由があると思っているのだから。」

 

ハリーはこの席についたときすすめられた茶をことわっていた。それがなにを意味するかをクィレル先生に知られることも承知で。 ソーダ缶を持参することも考えたが——それもやめておくことにした。二人の魔法力が直接接触できないとしても、クィレル先生にとって少量の水薬(ポーション)を転移させることはわけもないだろう、と判断して。

 

「ぼくはダンブルドアの人柄をすこしは見てきました。 そのすべてが嘘だったのでないかぎり、あの人がホグウォーツ生をアズカバン送りにするような謀略を実行するとは考えにくいですね。」

 

「ああ。」  〈防衛術〉教授は小声でそう言った。淡い水色の目のなかに小さくカップが映っている。 「しかし、それもダンブルドアがやりそうなことだとは考えられないかね。 彼のような人間がものごとをどう考えるかをきみはまだ理解できていない。 彼がやむをえず生徒を犠牲にするなら——生徒一人を犠牲にするに足る尊い目的がどこかにあったなら——みずからヒロインを宣言した一人をえらばない理由があるだろうか?」

 

そう言われてハリーは考えた。後知恵バイアスでそう思えるだけかもしれないが、たしかにそういう理屈で、ダンブルドア仮説の確率質量がハーマイオニー個人をおとしいれる方向に多少かたむくとはいえそうだ。 おなじように、クィレル先生は以前、ダンブルドアがドラコを標的にする可能性を指摘してもいた……。

 

でももしあなたがこの事件をしくんでいたのだとしたら、総長に罪を着せようとして、総長がうたがわしくなる要素をいれこんでいた可能性もありますね。

 

『きみのひとつ上の段階』でゲームをプレイしていると言ってはばからない人が相手となると、『証拠』という概念の意味がかわってくる。

 

「そういう考えかたもありますね。」  ハリーはほかに自分が考えたことはおもてに出さず、それだけですませた。 「つまり、ハーマイオニーに罪を着せた人間としてもっとも有力なのは総長だということですか?」

 

「いや、そうでもない。」  クィレル先生はのこっていた茶を一息で飲みほし、カップをテーブルにおろした。こつりと音がした。 「まず、ほかにセヴルス・スネイプがいる——しかし彼だったとすれば、なにが狙いなのか、わたしには分からない。 したがって彼もわたしから見て第一の容疑者ではない。」

 

「じゃあだれですか?」  ハリーはいくらか困惑した。 クィレル先生にかぎって、『例の男』と言うわけもない——

 

「〈闇ばらい〉には、『被害者を疑え』というルールがある。 アマチュア犯罪者のなかには、自分が被害者であるように見せれば疑われないにちがいない、と考える者が多くいる。 一定以上の位階の〈闇ばらい〉ならみな、都合十回はそういう犯罪者を見かけているくらいだ。」

 

「いくらなんでもそれはないでしょう。なぜ()()()()()()()()——」

 

〈防衛術〉教授は『きみはバカか』という意味の薄目をつかった。

 

ドラコが?—— ドラコは〈真実薬〉を投与されて証言した——が、ルシウスなら〈闇ばらい〉に影響力を行使することができるかもしれない。……そうか。

 

()()()()()()()()()()()わざと()()()()()()犠牲者に仕立てた、ということですか?」

 

「可能性はあるだろう?」  クィレル先生の口調がやわらいだ。 「今回の証言文を見せてもらったが、きみはミスター・マルフォイの政治的見解をある程度かえることに成功したようじゃないか。 そのことがルシウス・マルフォイにもっと早い時点で知れていたとすれば……その時点で彼は、自分の()相続人が負債と化してしまったと判断していたかもしれない。」

 

「無理があると思います。」

 

「その態度は危険なまでに甘い。 歴史をひもとけば、家族内の些細な不和が殺人に発展する例は数知れない。ミスター・マルフォイが父親にあたえた脅威よりはるかに小さな脅威でさえ殺人の理由になる。 きみがつぎに言いそうなことは想像がつく。〈死食い人〉の一員たるマルフォイ卿が息子にそんな非道なことをできるはずがない、と言いたいのではないかね。」  強い皮肉が隠れた口調だった。

 

「はっきり言って、そうですね。 ……愛は実在します。観測可能な効果をともなう現象です。 脳も感情も実在する以上、愛はリンゴや木とおなじくらい現実世界の一部です。 親から子への愛が予測の根拠からはずしてしまうと、説明に困ることが多いと思いますよ。たとえば、〈理科課題事件〉があったあとに両親がぼくを孤児院に送らなかった理由をどう説明するんでしょうね。」

 

〈防衛術〉教授はハリーのこの発言にいっさい反応しなかった。

 

「ドラコから聞いた話では、ルシウスはウィゼンガモートでの重要な投票よりもドラコのことを優先したそうです。 これは強い証拠です。愛情があるように見せかけたいだけなら、もっと安くすむ方法もありますから。 親が子を愛するということへの先験確率が低いとも言えませんし。 ルシウスは子を愛する父親を()()()()()だけで、ドラコがマグル生まれとつきあっていると知ってからその演技を捨てた、という可能性はゼロではないとしても、 可能性にも大小がありますからね。」

 

「その人がやったと思われない犯罪ほどよい犯罪はない。」  クィレル先生の口調はまだやわらいでいる。

 

「じゃあそもそもルシウスはどうやってハーマイオニーに〈記憶の魔法〉をかけたというんですか? 教師でない人がやれば、結界が起動することは避けられない——ああ、そうか。そこでスネイプ先生が。」

 

「不正解だ。 ルシウス・マルフォイなら、その任務を他人にやらせることはない。 だが、〈記憶の魔法〉をかける技術を持ちながら、戦闘能力のないホグウォーツ教師が一人いたとしよう。その教師がホグスミードにでかけて、 暗い裏道にはいる。そこへ黒衣のマルフォイがちかづき——これには彼本人が直接手をくだすだろう——一言ささやく。」

 

「『服従(インペリオ)』と。」

 

「むしろ『開心(レジリメンス)』だろうな。 〈服従(インペリオ)〉をかけられた状態の教師に対して結界が発動するかどうか、わたしは知らない。 わたしが知らないなら、おそらくマルフォイも知るまい。 しかしマルフォイは完全な〈閉心術師〉ではあるし、 おそらく〈開心術〉もつかえよう。 標的となるのは……オーロラ・シニストラというところか。〈天文学〉教授なら、夜に歩きまわっても疑われる心配はない。」

 

「それよりスプラウト先生じゃありませんか。 だれも疑わない人物ということなら。」

 

〈防衛術〉教授はごくわずかに返事をためらった。「それも考えられる。」

 

「そういえば……」と言ってハリーは思案げな顔つきになる。 「もしすぐ分かるようだったら教えてもらいたいんですが、現在の教授陣のうち、ミスター・ハグリッドの冤罪事件があった一九四三年ごろにもホグウォーツにいた人はだれでしょう?」

 

「当時はダンブルドアが〈転成術〉教師だった。ケトルバーンは〈魔法生物〉、ヴェクターは〈数占術〉だ。」  クィレル先生はすぐさま答えた。 「いま〈古代ルーン文字〉教師のバスシバ・バブリングはたしか、レイヴンクロー監督生だったと思う。 しかしミスター・ポッター、〈例の男〉以外のだれかが()()事件に関係したと考える理由はないぞ。」

 

ハリーは芝居がかった動きで肩をすくめた。 「念のため、たしかめておいたほうがいいかと思っただけですよ。 ともかく、外部犯がホグウォーツ教職員のだれかに〈開心術〉をかけて——かけられた人が忘れるはずはないので、事後に〈忘消〉(オブリヴィエイト)でその記憶を消した、ということならたしかにありえます。 でもルシウス・マルフォイがその首謀者であるという可能性はほとんどないと思います。 ルシウスのドラコへの愛情らしきものは義務感から生じていただけで、あっさり消えてなくなってなるようなものだった、という可能性もなくはないですが、まずないと思いますね。 ルシウスがウィゼンガモート全議員のまえでやってみせたことすべてが演技だったという可能性についてもそうです。 人間の外見と内面は似ていないこともある、という点には同意しますが、 その仮説ではまったく説明できない証拠がひとつあります。」

 

「というと?」  〈防衛術〉教授はなかば目を閉じている。

 

「ハーマイオニーを救う対価として提示された十万ガリオンを、ルシウスは拒否しようとしました。 ルシウスが名誉を汚すこともいとわず拒否したとき、議員はみなおどろいていました。 あれはほかの議員の()()に反した行動だったということです。 あなたが言うとおりだったとしたら、ルシウスはあのおかねをそのまま受けとって、ただ憤懣やるかたない顔をしていればよかったんじゃありませんか? どうしてもハーマイオニーをアズカバンに行かせたいという理由もなかったということですから。」

 

「……。きっと彼も、演技にのめりこみすぎたのではないかな。 もののはずみで、ということはままある。」

 

「あるかもしれません。でもそれも確率を下げる要因のひとつですから——これだけいくつも説明すべき点がある仮説は、第一の候補ではありえません。 なにかほかに考えておくべきことはありますか? それ以外の可能性すべてのなかで。」

 

長く沈黙がつづき、 〈防衛術〉教授の目は下にあるカップに向いていて、いつになく遠くを見ているように見えた。

 

「……しいて言えば、もう一人だけ思いあたる人物がいる。」

 

ハリーはうなづいた。

 

〈防衛術〉教授はそれに気づいた様子がないまま、話をつづけた。 「総長はもうきみに——ほのめかす程度にでも——トレロウニー教授の予言についての話をしたか?」

 

()()()」  ハリーは思わずそう言った。内心のショックを隠したいなら、いずれにしろこの反応が精いっぱいだったろうと思う。 クィレル先生をだませる水準の偽装ではないと思うものの、返事をせずにいる時間が長びけば余計わるいことになる——いや、というよりクィレル先生はどうやって()()のことを知ったんだ—— 「トレロウニー先生の予言? なんですかそれは?」

 

「きみ自身がその場にいて、前半部分を聞いた予言のことだが。」と言ってクィレル先生は眉をひそめる。 「きみはそれが自分についての予言ではありえない、ということを全校生徒にむけて言ってもいた。すでにここにいる自分が『やってくる』ことはないからと。」

 

彼がやってくる。彼が引きさくのは——

 

そこまで言ったところでトレロウニー先生はダンブルドアにつかまえられて消えたのだった。

 

「ああ、()()予言ですか! すみません、ぱっと思いだせなくて。」

 

最後の一言を強く言いすぎたような気がした。 クィレル先生なら八割がた、『きみがそこまで否定しようとする、()()()()()()謎めいた予言について聞かせてもらおうか』とでも言うだろう——

 

「それは愚かだ。きみがうそを言っていないと仮定すればだが。 予言は無視していいものではない。 わたしは自分が聞いた小さな断片についてあれこれ考えたが、やはり情報がすくなすぎた。」

 

「やってくるそのだれかが、ハーマイオニーに罪を着せた犯人だと言いたいんですか?」  ハリーのなかでこれがまたひとつの仮説として配置された。 ()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ミス・グレンジャーを悪く言うつもりはないが……」と言って〈防衛術〉教授はまた眉をひそめる。 「彼女個人の生き死にに大きな意味はないように思える。 しかしだれかが来ることになっていたのなら——それが、きみの解釈では、まだここにいなかっただれかであって——未知の有力なプレイヤーだとしたら……()()()()()()()もしていておかしくはないだろう?」

 

うなづいてから、ハリーはこころのなかでためいきをついた。この要素を組みこんでから、もう一度、各種のヴォルデモート卿確率の計算をやりなおさなければならない。

 

クィレル先生の閉じかけたまぶたから、細い切れこみのような目がのぞく。 「予言の内容にある人物だけでなく——予言を()()()()人物はだれだったのか。 通説では、予言は語られた運命を引き起こす能力がある者、防ぐ能力がある者にむけて語られるのだという。 ダンブルドアか、わたしか、きみか。その三人にはおよばないが、セヴルス・スネイプか。 ただしその四人のうち、ダンブルドアとスネイプがトレロウニーと同席することはめずらしくなかった。 きみとわたしはあの日曜日までトレロウニーと顔をあわせることが少なかった。 あの予言は()()()()()()()()()()()が聞くべき予言であった可能性は高いと思う——ダンブルドアが闖入して彼女をさらうまでは、そうなるはずだった。 ほんとうにきみはダンブルドアからなにも聞いていないのか?」  クィレル先生ははっきりと要求する口調になった。 「それにしては熱心な否定のしかただったな。」

 

「ええ、聞いていません。ほんとうに、さっきのはただの度忘れです。」

 

「そうだとすれば、なんのつもりだったのだろうな、ダンブルドアは。気がかりだ。 いや、怒りをおぼえるくらいだ。」

 

ハリーは返事せず、汗もかかなかった。 そうしていられたのは立派な理由があってのことではなく、この点についてだけはたまたま隠しだてすることがなかっただけだった。

 

クィレル先生は分かったというように一度うなづいてから言った。 「ほかに話すべきことがなければ、面談はここまでだ。」

 

()()()()調べておくべき人物がいると思います。 あなたが言及さえしなかった人物が。 その人についての分析を聞かせてもらえますか?」

 

音と言えそうなくらいの無音の時間がまたしばらくあった。

 

()()人物については、きみ一人でわたしの手を借りずに追及すべきだろう。 以前もそのような依頼を耳にしたことはあるが、経験上わたしはことわることにしている。 引き受ければ、自分自身の疑惑を的確に追及しすぎて、有罪だと思われるか——そうでなければ、追及に手抜きがあると言って有罪だと思われるかのどちらかだ。 ひとつだけ自己弁護しておくとすれば——わたしはよほどのことがないかぎり、きみとマルフォイ家継嗣とのあいだの脆弱な同盟関係にひびをいれようとする立ち場にない。」

 

◆ ◆ ◆

 

仮説——〈防衛術〉教授

(一九九二年四月八日、午後八時三十七分)

 

◆ ◆ ◆

 

「……であれば、悪いがわしは席をはずさなければならん。」  ダンブルドアはまじめな声で言う。 「クィリナスとの……いや、〈防衛術〉教授との約束で……わしは自分自身の手であれ他人を通じてであれ、彼の正体をあばこうとしないことになっている。」

 

「ふざけた約束をするもんだ。よほどの理由があってのことだろうな?」とマッドアイが言った。

 

「彼の雇用中なにがあってもこの条件は取り下げられない……と彼は言っていた。」  ダンブルドアはマクゴナガル先生にむけて、ちらりと苦笑いをして見せた。 「ミネルヴァも、今年はなんとしてでも有能な〈防衛術〉教授をこの学校に確保する必要があると言った。わしがグリンデルヴァルトをヌルメンガルトから連れだして、昔の仲を利用して丸めこんで教師にするくらいのことをしてもやりすぎではないと。」

 

「わたしはそんな表現をしたおぼえはありません——」

 

「それくらいの剣幕ではあったよ。」

 

それから間もなくこの四人は——ハリーとマクゴナガル先生と〈薬学〉教授と『凶眼(マッドアイ)』ことアラスター・ムーディは——総長室にのこされ、それぞれ席についた。

 

不思議と総長のいない総長室は……()()()()()()()()()ように見えた。 室内におかれたさまざまなからくりは、老賢者がついていれば()()()()()見えたりするが、真剣な会議をしようとする四人がいるだけではそうならず、ただへんてこでうるさい装置群でしかなかった。 椅子の肘かけに座るハリーの位置からはっきりと見えるのは、頂上を切った円錐のかたちをしたなにかがゆっくりと回転し、そのなかに脈動する光源がおかれた装置だった。その内部の光源が脈うつたびにヴーッヴーッという音を発してもいる。妙に遠くから聞こえるような、四方の壁の外からとどいているかのような音だった。ここから回転半円錐とでもいうべきそれまでの距離は一メートルか二メートルしかないのだが。

 

ヴーッ……ヴーッ……ヴーッ……

 

それだけでなく、部屋のすみにもう何人か、まだ息のあるハリー・ポッターの分身もいて、いろいろな意味で自業自得の顛末の尻ぬぐいをしている。 (そのうち〈不可視のマント〉に隠れて()()()のは一体だけだが、そのほかの見えない分身を知覚するにはごく小さな労力しか必要ない——といっても、ハリーは知覚しないように注意している。本体であるハリーの現在の意思決定に未来の情報が影響することがあってはならないので。) 残念ながらこの時点で、自分自身のからだが一つ部屋のすみに横たわっているというのは、さほどおかしなことには感じられない。 そういうことも……ホグウォーツでは起きるものだ、と思えてしまう。

 

「じゃあ、はじめるか。」とムーディがどこか不服そうな顔で言い、 革の鎧のなかから黒いファイルをとりだした。 「これはアメリアの下の部局がまとめたものだ。 これがおれたちの手にわたったということはほぼまちがいなくアメリアにも知られているだろうが、 むこうがおもてだって許せることではない。いいな?」

 

ムーディが言うには、〈魔法法執行部〉の見解では『クィリナス・クィレル』の正体はこういう人物だという—— 学校時代は一見平凡なホグウォーツ生(とはいえ、もうすこしで首席男子になる程度の有能さはあった)で、卒業後の旅行でアルバニアへ行き、それから消息をたち、二十五年後に帰り、以後〈魔法界大戦〉に深くかかわるようになり——

 

「モンロー家の虐殺事件で、ヴォルディは名前を知られるようになった。 それまでは、自尊心が肥大化した〈闇の魔術師〉一人とそのおともベラトリクス・ブラックがいるというだけのことだった。それが、あの事件があってからは——」  ムーディはフンと鼻をならした。 「国じゅうの愚か者がこぞってやつの配下につこうとした。 ヴォルディがウィゼンガモート議員にも牙をむけたとなれば、議員連中も重い腰をあげて真剣になる……と思ってしまうところだが、実際には連中自身がおなじことをした。つまり、別のだれかが真剣になるのを待つだけだった。 前にでようとしない臆病者ばかりだったよ。 例外はモンローとクラウチとボーンズとロングボトム。 〈魔法省〉の連中のうちで、すこしでもヴォルディの気分を害するようなことを口にする気があるのは、その三人くらいのものだった。」

 

「そういう経緯があって、ミスター・ポッター、あなたの一族が貴族になったのです。」  マクゴナガル先生が厳粛な声で言う。 「古い法律で、だれかが〈元老貴族〉家を断絶させたとき、その血の復讐を果たした者は〈貴族〉になることになっています。 ポッター家はそもそもいくつかの〈元老貴族〉家より古いくらいの家系だったのですが、 貴族家と認定されたのは戦争が終わってからのことでした。ポッター家は殺されたモンロー家の復讐を果たした、という理由で。」

 

「衝動的な感謝というやつだな。」とマッドアイ・ムーディが渋い顔で言う。 「長つづきはしなかったが、おかげで見栄えのする称号と無意味なメダルをジェイムズとリリーに手向(たむ)けるくらいのことはできた。 しかしそこに行きつくまでの八年間は、どん底の八年間だった。モンローはいなくなり、レギュラス・ブラックは——こいつはモンローに〈死食い人〉内部の情報を流していたスパイだったとおれたちは見ている——ヴォルディに処刑され、 堤防が決壊して、血が国じゅうにあふれた。 アルバス・ダンブルドアがおでましになってモンローのかわりをやってくれて、それでやっとおれたちは生きのびることができた。」

 

その話を聞くと、妙に現実離れした感覚がした。 部分的には観察と符合する話ではある——とくにクリスマスまえにクィレル先生がした演説とよく合致する——けれど……

 

これがクィレル先生のこととなると、考えてしまう。

 

「……ここの〈防衛術〉教授の正体について、〈魔法法執行部〉はそう考えている。 で、坊主の意見は?」

 

「そうですね……」  ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()() 「まずすぐ思いつくのは、『デイヴィッド・モンロー』という人物は戦争中にやっぱり死んでいて、別のだれかがクィリナス・クィレルになりすましたデイヴィッド・モンローになりすましている、という可能性です。」

 

()()()()()()のがそれですか……?」とマクゴナガル先生。

 

「ほう?」  マッドアイ・ムーディの青い目はいそがしくまわっている。 「それはいくらか……疑いぶかい考えかただな。」

 

あなたはクィレル先生がどういう人であるかを知らない——ということばをハリーはのみこんだ。 「その可能性を検証(テスト)するのは簡単ですよ。 ほんもののデイヴィッド・モンローなら知っている戦争関係のなにかを〈防衛術〉教授が知っているか、質問してたしかめてみればいいんです。 といっても、あの人がいまだれかになりすますデイヴィッド・モンローになりすましているのなら、なんの話か分からないというふりをしているだけだという言いわけも十分できることになりますが——」

 

()()()()疑いぶかいとは言ったが、まだまだ足りん! 油断大敵! 考えてもみろ——もしほんもののデイヴィッド・モンローがそもそもアルバニアから帰らなかったのだとしたらどうなる?」

 

沈黙。

 

「そういうことか……。」とハリーは言った。

 

「どういうことか分かりませんが……」とマクゴナガル先生が言う。 「どうぞおかまいなく。わたしはここで一人で静かに狂うことにしますので。」

 

「この稼業をしていると、〈闇の魔術師〉には三種類あることに気づく。気づくまえに自分が死んでなければだが。」  ムーディは暗い声で言う。杖はだれにも向けられず、すこし角度が下がってはいるが、手のなかにある。この部屋に来てから一度もムーディの手を離れていない。 「名前が一つある〈闇の魔術師〉。 名前が二つある〈闇の魔術師〉。 そして服を着替えるように軽がると名前を変える〈闇の魔術師〉。 おれは『モンロー』が〈死食い人〉三人を手玉にとるのを見た。 四十五歳であれだけの手練はそうそういない。 いるとすればダンブルドアくらいのものだ。」

 

「それはそうかもしれない。」と〈薬学〉教授がおもむろに話しだす。 「だとして、どうなると? モンローの正体がなんであれ、彼が〈闇の王〉の敵であったことはたしかだ。 〈死食い人〉が何人も、モンローが死んでいなかったことを知って毒づいていましたよ。それくらいやつらはモンローを恐れていた。」

 

「過去の〈防衛術〉教授のことを思えば……」  マクゴナガル先生がきっぱりと言う。 「十分ほりだしものの人材だと思います。」

 

ムーディがふりむいてマクゴナガル先生をにらみつけた。 「で、その『モンロー』はこの十数年どこをほっつき歩いていた? 前回は、この国でヴォルディに対抗すれば名をあげられると思ってやってみたが、目論見がはずれてとんずらした、というところか。 それがなんでまた、()()帰ってくる? ()()()なにをたくらんでいる?」

 

「いや、本人は……」とハリーは逡巡しながらも言う。 「本人は、昔からホグウォーツの〈防衛術〉教授になりたかったんだと言っていましたよ。歴代の優秀な魔法戦士はみんなそうだったからと。 実際あの人は〈防衛術〉教授としてものすごく有能ですし…… もしただの偽装にすぎないのなら、もっと手抜きしていてもよかったはず……」

 

それを聞いてマクゴナガル先生も深くうなづいた。

 

「甘いな。 どうせあんたらはモンロー一族の抹殺自体がやつ本人のしわざだったかもしれないと思ったこともないんだろう?」

 

()()()()()()?」とマクゴナガル先生。

 

「謎めいた男が、ブリテンの〈元老貴族家〉の子デイヴィッド・モンローの失踪を聞きつけて……」 「まんまとすりかわり、ほんもののモンロー家の面々とは距離をおいて暮らした。 だが一族のだれかが異変をさとるのは時間の問題だ。 そこでこのにせものは、なんらかの方法でヴォルディをつついて——結界の合言葉を漏らしでもすることで——一族を根だやしにする。そうやってウィゼンガモート評議員(ロード)の座を射止める!」

 

ハリーのなかでハッフルパフ一号とハッフルパフ二号のあいだに対立が生じた。一号はもともと〈防衛術〉教授を信用していない。二号はハリーの友人であるクィレル先生に忠実なあまり、ムーディがそう言っているというだけでは信じようとしない。

 

言われてみれば、そう不思議なことじゃないな——とスリザリンが言う。 考えてもみろ。自然な条件下で、ある人が〈元老貴族〉家の継嗣(あととり)であって、同時にヴォルデモート卿に一族全員を殺されて、また同時に格闘術の恩師の仇討ちをする理由がある、なんてことがあると思うのか? ぼくには、あの人が理想的な英雄の設定をつくりだそうとしてやりすぎたように見えるね。 実社会でこんな偶然はない。

 

そう言う自分だって、生まれを知らずにそだった孤児のくせに——とハリーの〈内的批評家〉が言う。 しかも予言つきの。 そういえば、英雄らしい運命にある二人が設定の陳腐さで競いあって悪を倒そうとする、っていう話はまだ読んだことがないかもしれないな——

 

そのとおり——と言うハリー本体の声が背景のヴーヴー音に重なる。 ぼくらは不幸な生い立ちなんだ。だからすこしは役に立つことを言ってほしいんだが

 

こうなったら、すべきことはひとつしかない——とレイヴンクローが言う。 それがなんなのかはみんなもう分かっているはずだ。なら言いあらそうこともないだろう?

 

でも——とハリーが言う。 どんな実験をすればクィレル先生がほんもののデイヴィッド・モンローだったかどうかを検証できる? つまり、本人なのかなりすましなのかによって変化するはずの変数なんてどこにある?

 

「それでわたしになにをしろと?」とマクゴナガル先生がムーディに言う。 「まさか——」

 

「まさかなものか。」と言ってムーディは目をぎらつかせる。 「単純だ。やつを解雇してくれ。」

 

「あなたは()()そう言いますが。」

 

「毎年それが正解なんだよ!」

 

「『油断大敵』もけっこうですが、この学校には教師が必要です!」

 

「フン! そうやってあんたらが毎年の〈防衛術〉教師を惜しむほど呪いは悪化する。 グリンデルヴァルトが変装したにせものだった、とかでもないかぎり、大切なクィレル先生を手ばなすことはできんのだろう!」

 

「そうだったりしませんか?」とハリーは思わず質問する。 「つまり、実際グリンデルヴァルトの変装だったという線も——」

 

「グリンデルヴァルトが牢獄にいることは一カ月おきに確認しに行っている。この三月にも確認した。」とムーディ。

 

「それが替え玉だったりということは?」

 

「血液検査で本人だと確認しているよ。」

 

「比較対象にする血液はどこに保管してありますか?」

 

「安全な場所に保管してある。」  傷のある口もとに笑みのようなものが浮かんだ。 「……卒業後の進路として〈闇ばらい局〉を考えたことはあるか?」

 

「アラスター……」とマクゴナガル先生が不本意そうに話しだす。 「クィレル教授はたしかに……健康上の問題をかかえています。 あなたはそのこと自体が疑わしいと言うのでしょうが—— われわれが雇用契約を更新しないほどに確固たる嫌疑とはなりえません。」

 

「例のおねんねか。 アメリアは高度な呪いを被弾した後遺症だろうと言うが、 おれには〈闇〉の儀式を自分でやりかけて暴発させでもしたようにしか見えんがね!」

 

「そうだという証拠はないでしょう!」

 

「その調子じゃ、やつが『闇の魔術師』と書いた緑色の看板をあたまにのせて歩いていたとしても、見のがしかねん。」

 

「あー……」  このタイミングで『いけにえを必要とする儀式のなかには邪悪じゃない儀式もある』という考えかたについて質問してみるのはやめたほうがよさそうだ。 「すみません。クィレル先生が——いや、もとのデイヴッド・モンローが——いや、七〇年代当時のモンローが——とにかくその人が、〈死の呪い〉をつかったという話でしたね。それがなにを意味するんですか? その呪文は〈闇の魔術師〉でないとつかえないんだとか?」

 

ムーディはくびを横にふった。 「おれもつかったことはある。 十分な魔法力とある種の()()()()さえあれば、だれにでもできる。」  ひん曲がった口から歯が見える。 「おれが最初につかった相手の名前はジェラルト・グリス。そいつがホグウォーツを卒業してからなにをしていたかは、知りたきゃ教えてやる。」

 

「それならなぜ〈許されざる呪い〉と言われているんですか? 〈切断の呪文〉でもひとは殺せますよね。 『レダクト』なんかと比べて、どういう点で『アヴァダ・ケダヴ——」

 

「そのさきを言うな! その気がなくとも、言うだけで人に誤解をあたえかねない。 見ためには子どもでも〈変身薬(ポリジュース)〉というものがあるからな。 ……質問にもどるが、〈死の呪い〉の悪名には、理由が二つある。 一つめは、〈死の呪い〉が魂を直接攻撃する呪文であること。魂にあたるまで盾も()()通過して止まらないこと。 〈闇ばらい〉が〈死食い人〉を相手に撃つことさえ認められていなかったのも理由があってのことだった。 〈モンロー法〉が成立するまでは。」

 

「ああ、そういうことなら禁止されるのも分かります——」

 

「まだだ。理由はもうひとつある。〈死の呪い〉には十分な魔法力も必要だが、 それ以上に()()()()()()()()()()気持ちが必要だ。より大きな善のために死んでくれ、というのじゃない。 グリスを殺しても、死んだブレア・ロシュやネイサン・レーファスやデイヴィッド・キャピトがもどるわけじゃない。 正義のためでもないし、それ以上犠牲者を増やしたくないからでもない。 純粋に()()()()()()()()ことで、おれは〈死の呪い〉を撃った。 これで分かったな? 〈死の呪い〉をつかうのに〈闇の魔術師〉である必要はない——だがアルバス・ダンブルドアであってはだめだ。 この呪文をつかった殺人で逮捕された人間に、弁護の余地はない。」

 

「そう……ですか。」と〈死ななかった男の子〉がつぶやいた。 つまり、その人の死によって将来的によいことが起きるという道具的価値の観点で死を願ってもだめ。その殺人は必要悪だと思うのもだめ。効用関数中の終端値の一つとしてその人の死を願わなければならない、ということ。 「生を嫌い死を願う気持ちを魔法的に実体化したものが、純粋な生命エネルギーの次元で撃ちこまれる……。たしかに防御しにくい呪文でしょうね。」

 

「防御しにくいんじゃない。()()()()()だと言っとるだろう。」

 

ハリーは深くうなづいた。 「でもデイヴィッド・モンローは——とにかくそういう名前でいた人は——〈死食い人〉に一族を虐殺される()()に、〈死食い人〉数人を相手に〈死の呪い〉をつかっていたんでしたね。 その時点で彼は〈死食い人〉を憎んでいたということですか? なら、格闘術道場の話はおそらく事実だったということになりますか?」

 

ムーディは軽くくびをふった。 「〈死の呪い〉の怖いところはな、一度つかえば、二度目からはさほどの憎悪なしにつかえるようになる、ということだ。」

 

「そういう精神的な副作用があるんですか?」

 

ムーディはまたくびをふった。 「いや、原因は殺人だ。 殺人は魂を引きさく——それは〈切断の呪文〉で殺す場合でもかわらない。 〈死の呪い〉をつかうと魂にひびがはいるんじゃない。ひびのある魂をもってしか、つかえないというだけだ。」  ムーディの傷顔に悲しい表情がよぎったのかどうか、ハリーには判断できなかった。 「しかしそうだからといってモンローについてなにが分かるわけでもない。 ダンブルドアのような連中は、何十年たっても〈死の呪い〉をつかえない。なにがあっても壊れない——だがそういう連中はごくまれにしかいない。 必要なのは小さな割れめひとつだけだ。」

 

胸のなかに重くのしかかる奇妙な感触があった。 リリー・ポッターは死のまぎわにヴォルデモート卿にむけて〈死の呪い〉を撃った。そのことにはどういう意味があったのか、ということは以前にも考えた。 撃つことは許されるはずだろうと思う。母親はわが子を殺しにきた〈闇の魔術師〉を憎む()()()()()。なすすべもないだろう、と相手が揶揄してくるならなおさらだ。 そういう状況で『アヴァダ・ケダヴラ』が()()()()親のほうがおかしい。 〈闇の王〉の防壁をつらぬく呪文はほかにない。となれば、親は純粋に〈闇の王〉の死を願うことができる程度に()()()()()()()だろう。そうする以外にわが子を救える方法がないなら。

 

必要なのは小さな割れめひとつだけ……

 

「もうけっこう。」とマクゴガナル先生が言う。 「それで、わたしたちになにをしろと?」

 

ムーディがゆがんだ笑みをした。 「〈防衛術〉教授をくびにしろ。それでおかしなできごとがぱたりと止まるかどうか。 止まるほうに一ガリオン賭けるね、おれは。」

 

マクゴナガル先生は苦悶の表情になった。 「アラスター——それでは——それなら、()()()()〈防衛術〉の職を——」

 

「ハッ! もしおれがその質問に『はい』と言ったら、〈変身薬〉の検査をするんだな。そいつはにせものだ。」

 

「あとで実験をしてみます。」とハリーが言うと、 全員の目がむけられた。 「ほんもののデイヴィッド・モンローなら答えを知っているはずの質問をクィレル先生にしてみます——たとえば一九四五年卒業のスリザリン生の名前を言ってもらうとか——できるだけ、それと気づかれない方法でさぐりをいれてみます。 演技のために調査ずみだったかもしれないので、決定的な証明にはなりませんが、一定の根拠にはなります。 でも、クィレル先生がモンロー本人でなかったとしても、くびにするとそれはそれで損があるかもしれませんよ。 ぼくは彼に二度いのちを救われたんですから——」

 

「待て、なんだと? いつだ? なにがあって?」

 

「一度目は、ぼくを地面に引き寄せようとする魔女の集団をなぎたおしたとき。二度目は、ディメンターが杖を経由してぼくに食らいついていたのを突きとめたとき。 そして()()今回ドラコ・マルフォイを罠にかけたのがクィレル先生でなかったのなら、ドラコ・マルフォイの命を救ったことにもなります。ドラコ・マルフォイが無事でなければ、もっと大変なことになっていました。 ()()クィレル先生がこの件の首謀者でなかったとすれば——やめてもらって困るのはぼくたちです。」

 

マクゴナガル先生がそれを聞いて深くうなづいた。

 

◆ ◆ ◆

 

仮説——セヴルス・スネイプ

(一九九二年四月八日、午後九時三分)

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーはマクゴナガル先生を連れだって、下降しない回転階段に乗っている。といっても正確には、乗っているのは()()()()()()()()()であり、ほかの七人は総長室にのこされている。

 

「立ちいった質問をひとつしてもいいですか?」  盗み聞きの心配がない距離になったと判断してから、ハリーは話しはじめた。 「総長がいるまえではできない質問ということですが。」

 

「どうぞ。」  マクゴナガル先生は思ったほどのためいきをしなかった。 「ただし、念のため言っておきますが、わたしの職責上、優先しなければならないのは——」

 

「ちょうどその点をはっきりさせておきたかったんです。 ウィゼンガモート全議員のまえで、ポッター家の一員でないハーマイオニーについての取り引きには応じないとルシウス・マルフォイが言ったとき、あなたはあの誓約のやりかたをハーマイオニーに教えましたね。 では、もしおなじようなことがまたあったとき、あなたはどうしますか。ホグウォーツ生ハーマイオニー・グレンジャーに対する職責と、〈不死鳥の騎士団〉の長であるアルバス・ダンブルドアに対する職責のどちらを優先しますか。」

 

マクゴナガル先生は鉄のフライパンでなぐられるときのような表情をした。しかも数分まえにおなじことをされたうえ、今度はなぐられてもひるむな、と言われたときのような表情だった。

 

ハリーもすこしだけ自分がひるむのを感じた。もうすこし攻撃的でない話しかたも身につけなければ、と思った。

 

周囲の壁が回転し、後方にうごいていく。なぜかそれで、二人は下降する。

 

「ああ、ミスター・ポッター……。」と言ってマクゴナガル先生は弱く息をはく。 「あなたは……どうしていつもそういう質問を……。ハリー……わたしはあのとき、なにも考えていなかったのです。 ただ、あれでミス・グレンジャーを救うことができるかもしれないと思うあまり……。 わたしもグリフィンドールに〈組わけ〉された身ですからね。」

 

「いまなら考えられますよね。」  適切な言いまわしができていないが、それでも()()()()()()()()()()()()()ことではある。というのも—— 「()()()()()につくのか、という質問はしていませんからね。 聞きたいのは——もし無実のホグウォーツ生をとるか〈不死鳥の騎士団〉をとるかの選択がまたあったとき、あなたはどうするのか。あなたのなかでその答えは決まっているのか……」

 

マクゴナガル先生はくびを横にふった。 「……いいえ。」と小声で言う。 「いま考えて、あのときの行動がただしかったのかどうかも分かりません。 すみません。 とにかく、そんなおそろしいことは判断できません!」

 

「でも、またおなじことがあれば、()()()しているはずじゃありませんか。」 「どちらつかずでいるということも一種の選択です。 あなたは自分が猶予なしにそういう判断をせまられる場面を()()()()()()()()()だけじゃありませんか?」

 

「いえ。」と言うマクゴナガル先生の声がすこしだけ強くなった。ハリーの最後の問いかけが、逃げみちを用意してしまったらしい。つづきの一言でそのことは裏づけられた。 「そのようなおそろしい選択をせねばならない場面があるとして——判断はそのときになってからすべきだと思います。」

 

ハリーは内心でためいきをついた。 そもそも、マクゴナガル先生にこれ以上のことを期待するのに無理があるのかもしれない。 どの選択をしてもなにかが犠牲になり、どの選択にも()()()()()がつきまとう倫理上の二律背反の状況では、判断を拒否することで精神的苦痛をしばらく避けることができる。 その反面、先まわりして用意することができなくなるという代償、なにもしないことへの巨大なバイアスが生まれ、手おくれになるまで待ちつづけてしまいがちになるという代償もあるのだが…… 魔女にそういう知識を期待するのがまちがいだろう。 「わかりました。」

 

実際には、解決していないことだらけだ。 ダンブルドアはハリーの債務をなくしたいと思っているかもしれないし、 クィレル先生もその点ではおなじかもしれない。 それにもし〈防衛術〉教授がデイヴィッド・モンローであったなら、あるいはデイヴィッド・モンローとして()()()()のであれば、厳密にはモンロー家はヴォルデモート卿に断絶させられていなかったことになる。 それなら、その気になればウィゼンガモートのだれかがポッター家の〈貴族家〉認定をとりけす決議を通すこともありうる。〈元老貴族〉モンロー家の仇討ちを果たしたのがその根拠だったのだから。

 

そうなれば、ハーマイオニーが〈貴族家〉に対して奉仕の誓約をしたことが無効になることもありうる。

 

そうはならないかもしれない。 ハリーは法的な詳細を知らない。 だれかがハーマイオニーをアズカバン送りにすることができたとき、ハリー・ポッターの債務が()()()()()()のか、というあたりはさっぱりだ。 対価を支払って得たものをなくしたとき、払い戻しがあるとはかぎらないと思うが、法的にはどうだろうか。 魔法界の代訴士(ソリシター)に聞きにいくわけにもいかない……。

 

……こういうことがまた起きそうになったとき、ダンブルドアでなくハーマイオニーにつく確証のある大人が一人くらいいてくれればいいのに、と思ってしまう。

 

階段が回転を終えて、二人は両脇の大ガーゴイルの背が見える場所に立った。ガーゴイルは音をたてて道をあけた。

 

ハリーがそこに踏みだすと——

 

肩をつかむ手があった。

 

「ミスター・ポッター。」とマクゴナガル先生が小声で言う。 「あなたはスネイプ先生の様子に注意しろと言いましたね。あれはなんのためですか?」

 

ハリーはふりむいた。

 

「スネイプ先生の様子にかわったことがないか注意してほしいと。」  マクゴナガル先生の口調には緊迫感があった。 「()()あんなことを言ったのですか?」

 

いまとなっては、自分自身なぜそんなことを言ったのか、思いだすのにすこし時間がかかった。 いじめられていたレサス・レストレンジをハリーとネヴィルで助けたあと、ハリーは廊下でセヴルスと対面した。ハリーはそこで(セヴルスのことばを借りれば)『死にかけた』。

 

「……すこし気がかりな情報があったからです。 その情報をくれた人がだれであるかは話せない約束になっています。」  ハリーはあの会話があったことをだれにも明かさないとセヴルスに約束した。その誓約はいまも有効だ。

 

「あなたはそうやって——」とするどい声で言いかけて、マクゴナガル先生は一呼吸した。声のするどさはすぐになくなった。 「いえ、忘れてください。言えないならそれでけっこうです。」

 

「あなたはなぜそれを知りたがるんですか?」とハリー。

 

マクゴナガル先生は返事をためらっているようだった——

 

「じゃあ、もっと具体的に言いかえます。」  ハリーはクィレル先生にこういう言いかたをされたことが何度もあるので、 だんだんこつがつかめてきていた。 「あなたは()()()スネイプ先生の変化に気づいているけれど、そのことをぼくに教えていいかどうか迷っている。どんな変化ですか、それは?」

 

「ハリー——」と言ってマクゴナガル先生はまた言いやめた。

 

「言うまでもなく、ぼくはあなたが知らないなにかを知っています。 二律背反の選択をいつでも先おくりできると思わないほうがいいのは、こういうことがあるからですよ。」

 

マクゴナガル先生は目をとじて、一度深く息をついてから、指で自分の鼻すじを何度かつまんだ。 「いいでしょう。 ……はっきりした変化ではないのですが……気がかりなことがありました。 どう表現すればいいか……。 ミスター・ポッター、あなたは子どもが読むべきでない本を読んだりしていましたか?」

 

「手あたりしだい読みました。」

 

「そんなことだろうと思いました。 では言いますが……わたしにはよく理解できないのですが、セヴルスがこの学校に着任して以来、あの陰気な汚れた外套を着て歩くすがたに、()()()()()()()()熱い視線をおくる例が何度かあり——」

 

「それがよくないことだと? ぼくがあの手の本を読んでなにか理解したとすれば、他人の好みをとやかく言うべきではない、ということですね。」

 

マクゴナガル先生は()()()奇妙そうな目つきでハリーを見た。

 

「いえ、その。ぼくが読んだ本によれば、ぼくももう何歳か歳をとれば、統計的には一割くらいの確率でスネイプ先生に魅力を感じる可能性があるらしいですし、そうなったときにはありのままの自分を受けいれるのが大切だと——」

 

「そのことはいまはおいておきましょう。とにかく、セヴルスはそういった生徒の視線をまったく意に介していませんでした。 それが最近では——」  マクゴナガル先生はなにかに気づいたような表情になり、あわててつけくわえようとした。同時に、両手が口をおさえる位置にむけて動く。 「……誤解しないでいただきたいのですが、スネイプ先生はもちろん生徒をもてあそぶようなことはいっさいしていません! わたしが知るかぎり、そういった生徒に笑顔をかえしたことすらありません。 見つめてくる生徒がいればやめるようにと言い、それでもやめなければ目をそらすようにしています。 そうしているところを、この目で見ました。」

 

「ええと……。 すみません、ぼくはその手の本を読んではいますが、理解できているとはかぎりません。 いまの話にはどういう()()があるんですか?」

 

「セヴルスは()()()()()()ようになった、ということです。 その様子をこの目で見ました。分かりにくい変化ではありますが、変化はあったとしか思えません。 それが()()するのは……この推測ははずれていてほしいのですが……セヴルスをアルバスの大義に束縛していたものが……弱まったかもしれないということ。ことによると、壊れたかもしれないということです。」

 

2+2=……

 

「ダンブルドア×スネイプ……!?」  思わずそう言ってしまったのに気づいて、ハリーはあわててつけたす。 「いや、仮にそうだとして、ちっとも問題はないんですけど——」

 

「ちがいますよ! ミスター・ポッター——どう言えばいいのか——これ以上はもう説明できません!」

 

いまさらのように、ある考えが浮かびあがる。

 

セヴルス・スネイプは()()()()リリー・ポッターを愛している?

 

美しく悲しい話だと見るかあわれな話だと見るか、と五秒ほど思ったところで、()()()()()()考えが襲いかかる。

 

そうじゃない。ぼくの余計な恋愛指南の一言を耳にするまでは愛していた、ということだ。

 

「なるほど。」とハリーはしばらく時間をかけてから慎重に口にした。 人生には『うっかり』ですまない失敗もあるものだと思う。 「……たしかにそれは気がかりですね。」

 

マクゴナガル先生は両手を顔と口にあてた。 「あなたがいまなにを考えているのか知りませんが…… それもきっとはずれだと思いますが、とにかくその話は聞きたくありません。」

 

「それで……」とハリーは言う。 「()()スネイプ先生を総長に束縛していたものが壊れたのだとしたら…… そのとき彼はどういう行動をとると思いますか?」

 

しばらく返事はなかった。

 

◆ ◆ ◆

 

そのとき彼はどういう行動をとるか。

 

ミネルヴァは両手をおろして、〈死ななかった男の子〉の顔を見おろした。 これは単純な問いであり、そこに絶望を感じるべき理由はない。 セヴルスのことは、奇妙な因縁によりともにあの予言を聞いて以来、長く知っている。 ただ、予言の法則に関する自分の知識がただしければ、自分は予言を()()()()()()()()()()にすぎない。 予言が実現するきっかけは、セヴルスの行動だった。 その行動からうまれた罪悪感と悲嘆が、長年にわたって彼を苦しめた。 それがなくなったとき、セヴルスはどうなるのか。いくら想像しようとしても想像できず、ミネルヴァのあたまのなかは、まっさらな白紙のままだった。

 

セヴルスはもう、あのころの怒れる浅はかな若者ではない。〈死食い人〉の列にくわわるためにヴォルデモートに予言を渡しにいったころの彼ではない。長年この目で見てきたとおり、彼は変わった。変わったはず……。

 

自分はほんとうに彼を理解していたのだろうか。

 

いや、真のセヴルス・スネイプを知る人など一人もいなかったのでは?

 

◆ ◆ ◆

 

「分かりません。」とマクゴナガル先生はしばらくしてから答えた。 「想像しようとしてもできないのです。 あなたはなにか分かりますか?」

 

「そうですね…… ぼくがもっている証拠はあなたの推測と合致していると思いますね。 証拠というのは、スネイプ先生がぼくの母親を愛さなくなった確率を上昇させる証拠ですが。」

 

マクゴナガル先生は目をとじて言った。「もういいです。やめましょう。」

 

「ぼくが知るかぎり、スネイプ先生に妙な動きがあるとすればそれだけだと思いますけれど。 ……あなたがこの話を持ちだしたのは、総長の許しがあってのことですね?」

 

マクゴナガル先生はハリーから目をそらして、壁をじっと見ている。 「もうやめてください、ハリー。」

 

「わかりました。」と言ってハリーはマクゴナガル先生に背をむけ、足ばやに廊下を歩いていく。うしろから、マクゴナガル先生のゆっくりとした足音が聞こえ、そのあとにガーゴイルがもとの位置へと動く音が聞こえた。

 

◆ ◆ ◆

 

翌朝の〈薬学(ポーションズ)〉の授業で『冷気耐性の(ポーション)』をつくっていると、加熱していた溶液が緑色になって泡だち、軽い悪臭をだした。スネイプ先生は不快というよりあきらめの表情でハリーに居残りを命じた。 なにかありそうだと考えながら、ハリーはほかの生徒が教室をあとにするのを見おくった——ハーマイオニーはここ数日どの授業でもまっさきに教室をでていて、今回もそうだった。ほかの生徒がみないなくなると、ドアがぴしゃりと閉じ、施錠された。

 

「ミスター・ポッター、さきほどの溶液については申し訳ない。」とセヴルス・スネイプがぽつりと言った。 奇妙に悲しげなセヴルス・スネイプのその表情をハリーは一度だけ見たおぼえがあった。しばらくまえの廊下で。 「わたしがやったことだから、きみの成績には影響しない。 座ってくれ。」

 

ハリーは自分の席に座り、木製の机の上の緑色の染みをけずって時間をつぶし、〈薬学〉教授がプライヴァシー強化呪文をいくつか詠唱しおわるのを待った。

 

それが終わると、彼は話しはじめた。 「この話はどう切りだすべきか…… いっそ単刀直入にいくことにしようと思う……。きみはディメンターのまえに立ったとき、両親が死んだ夜に見たことを思いだしたのだったな?」

 

ハリーは無言でうなづいた。

 

「できたら……思いかえすのも不快だろうとは思うが……できたら、そのときの様子をわたしに教えてくれないか……?」

 

「なぜですか?」  セヴルス・スネイプが懇願する表情を見ることになるとは思いもしなかったが、ハリーはもちろんからかうつもりはなく、まじめに答えようとした。 「あなたにとっても、聞くだけで不快なことだろうと思いますが——」

 

〈薬学〉教授の声はほとんどささやき声になった。 「わたしはこの十年間、毎晩その様子を夢で想像しつづけてきた。」

 

やっぱり——とハリーのなかのスリザリンが言う。——彼にこころの整理をつけさせるようなことはやめたほうがいいんじゃないか。彼の忠誠心の根幹が罪悪感であって、その罪悪感がすでに薄れつつあるのだとしたら——

 

だまれ。却下。

 

答えないことなど到底考えられないが、 スリザリンからの提案は一点だけ取りいれることにした。

 

「どういう事情でその〈予言〉のことを知ったのか、具体的に教えてもらえますか? 交換条件にしてしまってすみません。()()()()()あなたの質問にもちゃんと答えますから。ただその事情はとても重要な情報かもしれないので——」

 

「事情というほどのことはない。 わたしは〈薬学〉教授の職に応募して、副総長と面接することになっていた。そのために〈イノシシの頭(ホグズヘッド)〉亭で待っていると、〈占術〉教授の職に応募したシビル・トレロウニーが来た。トレロウニーの声が終わるとすぐにわたしはそこを飛びだし、面接を捨てて〈闇の王〉のもとへ向かった。」  〈薬学〉教授はやつれた顔をしている。 「そしてなぜ自分があの謎かけを聞かされたのかを考えることもなく、売りわたした。」

 

()()? トレロウニー先生とあなたはたまたま同時に応募していて、マクゴナガル先生に面接されることになっていたと? それはすこし……偶然にそうなったとは考えにくいような……」

 

「予見者は時間のゲームの駒であり、 予言は偶然の範疇にない。 わたしは予言を聞かされ、愚者を演じる役割にあった。 ミネルヴァがいたことで最終的な帰結が影響されることはなかった。 〈記憶の魔法〉が関係したことも考えられん。きみがそう考えた理由は知らないが、とにかく関係していたはずがない。 予見者の声には〈開心術〉ですらこじあけられない秘匿性がある。偽記憶で改竄するなど論外だ。 〈闇の王〉が、わたしの言うことをただ真にうけたとでも思うか? 〈闇の王〉はわたしの精神に侵入し、そこに見とおせないものがあるのを見て、内容を確認することはできなくとも、予言はほんものであると知った。 その時点でわたしは用済みであり、〈闇の王〉はわたしを殺すこともできた——なのに行ってしまったわたしが愚かだったと言わざるをえない——しかし彼はわたしのなかになにかを見いだした。それがなんであるにせよ、わたしは〈死食い人〉の一人として受けいれられた。わたしの意思というより彼の意思でだが。 こうやってわたしは予言を実現させた。実現させてしまった。最初から最後まで、すべてわたしのせいだった。」  セヴルスの声はかすれ、顔は苦痛に満ちていた。 「わたしの話はもういい。頼む、教えてくれ。リリーはどういう風に死んだ?」

 

ハリーは二度ごくりとしてから、記憶をなぞって話しはじめた。

 

「ジェイムズ・ポッターは必死な声でリリーに言いました。『ハリーを連れて逃げろ』『ここはおれが食いとめる』と。」

 

「〈例の男〉は——」  ハリーは全身の肌に寒けを感じ、一度言いやめた。発作の前ぶれのように筋肉が緊張する。 記憶が強くぶりかえすとともに、冷気と暗黒がやってくる。 「……〈死の呪い〉をつかってから……上の階へのぼってきました。足音のようなものはなかった気がするので……飛行したんじゃないかと思いますが……それから母は『ハリーだけは見のがして!』というようなことを言って、 〈闇の王〉は——沸いたやかんの音のように甲高く、けれど()()()声で——」

 

どけ、女! 狙いはおまえではない。その子だ。

 

その声はハリーの記憶のなかで、とてもはっきりと聞こえた。

 

「——道をあけろと言いました。子どもにしか用はないから、と。母は彼に慈悲を乞い、彼は——」

 

今回は特別に逃げる機会をやろう。

 

「——戦闘するのも面倒だ、逃げたければ逃げるがいい、と言いました。おまえが死んでもその子は助からないぞ——」  ハリーの声がぐらついた。 「——だから道をあけろ、と。そこで母はぼくのかわりに自分の命をとってくれと言いましたが——〈闇の王〉は——こんどは低い声で——演技をやめたかのように——」

 

よかろう。その取り引きに応じよう。

 

「——その取り引きに応じよう、おまえが杖をおろせば殺してやろう、と言いました。 〈闇の王〉はそれからただ待っていました。 リ……リリー・ポッターはそのときなにを考えていたのか、ぼくには分かりません。そもそも無意味ですから、そんな取り引きは。〈闇の王〉が彼女を殺して、なにもせずに去るわけがない。もともとの標的はぼくだったんですから。 リリー・ポッターは返事をせず、〈闇の王〉はそれを見ておぞましい声で笑いはじめ——母はのこされた唯一の手段をとりました。ぼくを見捨てるのでもなく、あきらめて死ぬのでもない、唯一の手段を。 成功する見こみもなかったんじゃないか、ちゃんと撃つことはできなかったんじゃないか、とも思いますが、あの状況では、母はやってみるしかなかった。 母が最後に『アヴァダ・ケ——』とまで言いましたが、〈闇の王〉はその『アヴ』のあたりで詠唱をはじめていて、〇.五秒もたたないうちに言い終えて、緑色の閃光が飛びでて——あとは——そのあとは——」

 

「もういい。十分だ。」

 

水中から水面に浮かびあがる死体のようにゆっくりと、ハリーは別世界のようなところから戻ってきた。

 

「もう十分だ。」と〈薬学〉教授はかすれた声で言う。 「彼女は……リリーは苦しまずに死んだのだな? 〈闇の王〉は……ただそのまま死なせたのだろう?」

 

彼女は、〈闇の王〉をとめることができなかった、つぎにわが子が殺される、と思いながら死んだ。それも苦しみだ。

 

「拷問を——してはいませんでしたね——そういう意味でおっしゃったのなら。」

 

ハリーの背後で、ドアが解錠され、音をたててひらいた。

 

ハリーは退室した。

 

これが一九九二年四月十日金曜日のできごとだった。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 

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