一九九二年四月十六日、木曜日。
生徒たちはすでに九割がた〈
家に帰るという選択肢がないのなら——実際、帰ることは許されていないし、両親にむけては光痘という病気にかかったから帰れないということにしてある——ほぼ無人になったホグウォーツ城以上にいい居場所はない。
いまなら、他人にじろじろと見られる心配をせず図書館にいくこともできる。授業は休みだし、宿題をしようとする人もいないから。
ハーマイオニーは廊下のどこかで泣きくずれる毎日を過ごすような性格ではない。もちろん最初の二日間はたっぷり泣いていたが、二日もあれば十分だった。 ハリーから借りた本にも、自動車事故で四肢が不自由になった人も、六カ月もたてば、予想されるほど不幸な日々を送っていないということが書かれていた。おなじように、宝くじに当たった人たちは、予想されるほど幸せな日々を送らないという。 つまり、人間は適応するということ。個々人が感じる幸不幸の度合いは、いずれもとの水準にもどり、人生はつづく。
読んでいた本に影が差したのを見て、ハーマイオニーはぱっとふりむいた。同時に、ふとももの上に隠してあった杖を手にし、それを相手の顔にいきなりつきつけると——
「ごめん!」 ハリー・ポッターはあわてて両手をあげ、武器をもっていないことをアピールした。左手は手ぶらで、右手には小さな赤い
無言の時間が流れ、それが苦しくて心臓の鼓動が増し、手のひらに汗がにじむ。ハリー・ポッターはただ、こちらを見ている。 ハーマイオニーは人生が再開してからはじめての朝食の時間に、ハリー・ポッターに話しかける寸前のところまで行って、ハリーの表情がひどく暗いことに気づいて——となりの席につくのをやめた。かわりに一人で静かに、だれも近寄ろうとしない空間の中心で食べた。一人で食べたくなどなかったけれど、ハリーがこちらに来ることもなく……それ以来、こちらからも話しかけるタイミングが一度もなかった。(だれとも会わないようにするのはむずかしくない。レイヴンクロー談話室にはいかないようにして、教室では授業がおわってからだれかに話しかけられるまえに急いで退室すればいい。)
それからずっと気になっていたのは、いまハリーはわたしのことをどう思っているのか、ということ——自分の全財産を投げださせられたことで、嫌いになったのか——それともやはり、わたしのことが好きで、だからあんなことをしたのか——それとも、
そこで下のほうを見ると、ハリーの手が赤いポーチにはいり、そこから赤い包みにはいった
「きみのことはしばらくそっとしておこうかと思ったんだけど、こころのなかでハトを飼うことを教えるクリッチの快楽理論というのがあって、それによるとその場その場での小さな正負の
「息つぎしなさいよ。」とハーマイオニーは無意識に言った。
審判の日以来、ハリーにむけて言った最初の一言がそれだった。
二人はたがいを見つめあった。
まわりの棚の本たちが二人を見つめた。
二人はもうしばらく見つめあった。
「チョコレートを食べるといいらしいんだ。」と言ってハリーはチョコレートを突きだした。 それはヴァレンタイン用のようなハート型だった。 「チョコレートをもらうこと自体が十分な正の報酬としてはたらくとすれば食べなくてもいいんだけど。もしそうなら、ポケットにでもいれておいてくれればいいかな。」
ハーマイオニーはもう一度話しだそうとしても失敗するのが分かっていたので、話そうとしなかった。
ハリーはすこし下をむいた。 「やっぱりもうぼくのことが嫌いになった?」
「そんな! そんな風に考えないで! だって——
「なんとなくだけど分かった。……それはなんの本?」
止める間もなくハリーは机の上をのぞきこみ、この本を見ようとする。引き離そうとしても間にあわず、ハリーはさらにかがんで——
そこにひらいていたページを見た。
「『世界有数の魔法族資産家とその資産の源泉』。」 ハリーはページ上部に書かれた題名を読みあげた。 「六十五番、サー・ガレス。十九世紀の
「どうせまた、『そんなこと心配しなくていいから、ぼくにまかせておいて』、みたいなこと言うんでしょ?」 ついとげとげしい言いかたをしてしまって、 また自分はハリーにひどいことをしている、という罪悪感で胸が痛んだ。
「言わないよ。」と妙にあかるい声でハリーは言う。 「きみの立ち場になって考えてみれば……もしきみがぼくを救うために大金をつかってくれたんだとしたら、ぼくも返済しようとするだろうから。 考えようによっては意味がないことだと分かってはいても、それでも自力で返済しようとするだろうと思う。 ぼくだって、
自分の顔がゆがみ、目のかたすみに湿りけが感じられた。
「ちょっと注意しておくと……」とハリーはつづける。 「ぼくはいい方法を思いついたら、きみよりさきにルシウス・マルフォイへの負債を解決してしまうかもしれないよ。重要なのは解決することであって、だれが解決するかじゃないんだから。 ……なにかよさそうな方法は見つかった?」
ハリーがいま言ったことをどういう意味で言ったのか解釈しようとして、ハーマイオニーの自我の四分の三が堂々めぐりしては木に激突することをくりかえした(わたしはまだ
「これがけっこうよさそうだと思った。」
「十四番、『クラウジア』、本名は不明。」とハリーが読みあげる。 「うわあ。こんな……こんなぎらぎらしたチェック柄のシルクハットははじめて見たな……。資産、六十万ガリオン以上……つまりだいたい三千万ポンド。マグルなら名前を知られるほどの資産家でもないけれど、魔法族の人口の少なさを前提にすればそうなのかな。 ……『クラウジア』は六百年まえに生まれたニコラス・フラメルの現代における偽名だと言われている。彼はとてつもなく複雑な錬金術の調合を成功させて〈賢者の石〉を精製した。〈賢者の石〉は凡庸な金属を黄金や銀に変え……エリクサーにも変えることができる。エリクサーをくりかえし用いることで、使用者は若さと健康をいくらでも維持することができる……。 うーん……。これはどうみてもうそだね。」
「ニコラス・フラメルに言及している本はいくつもあったの。 『闇の魔術の興亡』には、フラメルがダンブルドアを特訓してグリンデルヴァルトに立ちむかわせたと書いてあるし、 この話をまじめにあつかっている本はほかにもあるし……。 そんな都合のいい話はないって思う?」
「いや、もちろん思わない。」 そう言ってハリーはハーマイオニーがいる机のとなりの、いつもとおなじ右がわに陣どった。最初からずっとそこにいたかのように。 それを見てハーマイオニーはまた息がとまりそうになった。 「『都合がいい』かどうかを考えても因果推論はできない。方程式の結果について、『都合がよすぎる』とか『都合がわるすぎる』とかいう判定を宇宙がくれることはない。 過去の人は、飛行機や天然痘ワクチンなんて都合がよすぎるものができるとは思わなかった。 マグルは魔法なしでもほかの星系へ旅する方法を見つけたし、きみやぼくは杖をつかって、マグル物理学者にとって文字どおり不可能なことをやれる。 魔法の
「だったら、どこがだめなの?」 自分で聞くかぎりは、ふだんの声にちかい声になってきた気がした。
「うーん……」と言ってハリーはハーマイオニーの腕の上に腕をのばす。ローブとローブがこすれ、ハリーの手が不吉に赤く光り緋色の液をたらす石の絵に触れる。 「まず第一の問題点。ある
「魔法にはもともと、おかしなことがいくらでもあるじゃない。」
「なるほど、たしかに。でも第二の問題点がある。いくら魔法族でも、『これ』が含意することをあっさり見のがすほど狂ってはいないはずだ。 もしこんな〈賢者の石〉があったら、
「これは
「じゃあ、フラメルを拉致しておなじ〈石〉を
「みんながハリーとおなじ考えかたをすると思わないでね。」 まあ、ハリーの言いぶんにも一理ある。とはいえ……ニコラス・フラメルに言及している本はいくつあっただろう? 『世界有数の魔法族資産家とその資産の源泉』と『闇の魔術の興亡』がそうだし、『少し古い時代の昔話』や『名声に見合うだけのことをした人たちの伝記』もそうだった……。
「わかった。じゃあ、
「それで? だとしても
(ハリーはごくみじかく返事をためらった。それはある人がマッドアイ・ムーディと戦闘して勝ったのがちょうど八日まえであった場合にためらってしまうくらいの長さの時間だったが、さいわいミス・グレンジャーはそのことを知らない。)
「いや、過去七日間にはなかったね。 あのね……不可能なことを実現する秘訣のひとつは、どの種類の不可能を相手にするかをしっかり吟味すること、そして自分に特別勝ち目がありそうな場合にだけ挑戦すること。 たとえばこの本に書かれているとある稼ぎかたが魔法族にはなかなかやれそうにないことで、 パパの旧式のマック・プラスをつかえばそれが簡単に実行できるとしよう。そういうのだったら、見こみがある。」
「言われなくても分かってる。」 ほんのすこしだけ声がゆらいだ。 「わたしも、なにか自分なりのやりかたでできそうなことがないか考えてみた。 〈賢者の石〉で大変なのは錬金術の円をものすごく精密にえがくところかもしれないから、マグルの顕微鏡をつかえば、もしかするともっと簡単に——」
「いいね、それ!」と言ってハリーは杖をとりだし、「クワイエタス」と言った。それで不調法な本の音がおさまってから、つづきを言いはじめた。 「……〈賢者の石〉は伝説にすぎないかもしれない。でもその手法でほかのむずかしい錬金術を攻略できるかもしれない——」
「いいえ、そうはいかなかった。」 これを調べるためにハーマイオニーは図書館じゅうをさがしまわり、〈禁書区画〉外にある錬金術の本を一冊だけ見つけたのだが、 その結果——とても失望することになった。わきでた希望をかき消される思いをしたのだった。 「錬金術の魔法円はどれも、『赤子の髪の毛の細さ』まで精密にえがかなければならないことになっているの。これはどの種類の錬金術でもおなじ。 そもそも魔法族にも
「ちょっといいかな。」と真剣な声で言ってハリーは赤い
「そうなんだろうとは思う。」 そうは言いながらも、チョコレートには手をつけない。 ハーマイオニーはそのまま本のページを百六十七ページまですすめて、ハリーが来るまで読んでいた部分のつづきを読もうとした。
(当然ながら、ハーマイオニー・グレンジャーに
ハリーはこちらにむかって首をのばし、それがハーマイオニーの肩にあたりそうになる。ひらいたばかりのページを読もうとしているようだが、四分の一秒見ただけで、価値ある情報を読みとれるとでもいうのだろうか。 朝食が終わってから、まだあまり時間がたっていない。ハリーの息のなかには、かすかなにおいがあって、最後に口にいれたものがバナナプリンであると分かる。
「そういうわけで……これは正の報酬として言っているんだと思ってほしいんだけど…… きみは本気で、
「ええ。」 また一段と声が小さくなった。 ハリーの考えかたを
ハリーは顔をしかめた。 「『だれがハーマイオニー・グレンジャーに罪を着せたか』という謎をとくための証拠をあつめようとしていた。」
「それは……」と言ってハーマイオニーはハリーの顔を見あげる。 「それは
「この件に関しては無理だね。 いま、ぼくとなら話をする人もきみとは話そうとしなかったりする……それに悪いけどもう、だれにも話さないという約束でぼくが聞いてしまった情報もある。 この件では、きみにできることはあまりないと思う。」
「ふーん、そう。」とハーマイオニーは精彩を欠いた声で言う。 「じゃあ、もうそれでいい。 手がかりをあつめるのも、犯人候補と話すのも、ぜんぶあなたがやる。わたしはそのあいだずっと、この図書館でじっとしてる。 調べた結果、犯人がクィレル先生だったってことになったら、そう言って。」
「ハーマイオニー……。 だれがやるかは二の次じゃないか? どうしてそこを気にする? 重要なのは、すべてを解決することであって、だれが解決するかじゃないだろう?」
「きっとそうなんだとは思う。」と言ってハーマイオニーは両手を目にあてた。 「もう気にしてもしょうがないのかもしれない。 こうなったら、もうだれが見ても——もちろん、ハリーが悪いんじゃないからね——ああしてくれたのは正しいし、とても紳士的なことだったと思う——けれど、こうなったらもう、わたしがなにをしても、わたしは所詮——あなたに救われるだれかだとしか思われない。」 一度言いやめると、声が震えた。 「……実際そうだったのかもしれない。」
「いやいや、急になにを——」
「わたしはディメンターを追いはらえない。チャームズの授業で〈優〉をとることはできても、ディメンターを追いはらうことはできない。」
「ぼくには謎の
「そうなのかな。」 そう言う声がゆらいでいる。両手をもう一度、目にあてる。 「ひとつはっきりしているのは——もしあなたが言うとおりだったとしても——わたしをわたしとして見てくれる人はもうだれもいない、ということ。」
「……そうか。」と、しばらくしてからハリーが言った。 「つまり、『ポッター゠グレンジャー研究班』ではなく、『ハリー・ポッターとその助手一名』になってしまうということだね。 うーん……じゃあ、こういうのはどうだろう。 ぼくはしばらく金もうけのことを考えない。実際、返済を請求されるのは卒業してからだから。 そのあいだにきみは自力でこの問題を解決して自分の実力を世界に証明してくれればいい。 そのついでに不老不死の秘密を解明しちゃったりすれば、一石二鳥だね。」
問題解決のために自分がハリーに
「考えがいろいろな方向に発散してまとまらないときに、よく効く合理的な対処法があったりする?」
「ぼくはそういうとき、そのいろいろに一つずつ名前をつけて、別個の個人だと思って、自分のあたまのなかで論争をさせることにしてる。 いまのところぼくのなかによく出てくるのは、ハッフルパフとレイヴンクローとグリフィンドールとスリザリンと〈内的批評家〉とハーマイオニーの分身とネヴィルの分身とドラコの分身とマクゴナガル先生の分身とフリトウィック先生の分身とクィレル先生の分身とパパの分身とママの分身とリチャード・ファインマンの分身とダグラス・ホフスタッターの分身だね。」
おなじことを自分でもやってみようかと思ったが、すぐに自分の〈良識〉から『精神の健康に悪そうだ』という声がとんできた。 「あなたのあたまのなかに、
「そりゃ、いるよ!」と言ってハリーは急にすこし不安げな顔になった。 「だったら、きみのあたまのなかにはぼくの分身がいないの?」
……いる。いままで気づいていなかったけれど、いるばかりか、ハリー本人とおなじ声で話してさえいる。
「あらためて考えるとあまり気持ちいいことじゃないんだけど、 たしかにわたしのあたまのなかには、あなたの分身がいる。 いまも本人とおなじ声で、『なにもおかしいことじゃない』って言ってる。」
「ならいい。……いや、ひととひとが友だちになるには、ぜったいそれが必要だと思うんだよね。」
ハーマイオニーは読書にもどった。ハリーはそれをうしろからながめるだけで満足しているようだった。
小動物をレモンタルトに変身させる方法を発明したという七十七番のキャサリン・スコットのページまで読んだところで、ハーマイオニーはやっと勇気をふりしぼって話しはじめた。
「……ハリー?」(ハーマイオニーは自分でも気づかないうちにハリーとすこし距離をとっていた。) 「あなたのあたまのなかにドラコ・マルフォイの分身がいるなら、あなたとドラコ・マルフォイは友だちだっていうことになる?」
「ああ……。うん、その話はいずれしておかないととは思っていたんだ。 もっとはやくしておけばよかったかな。 とにかくぼくはドラコを……どう言えばいいのやら……。転向させようとしていた、みたいな?」
「どういう意味? 『転向』って。」
「〈光のフォースの陣営〉に誘いこむっていうこと。」
ハーマイオニーはぽかんと口をあけたままになった。
「つまり、ほら、ダース・ヴェイダーと皇帝の関係みたいな。あれとは逆なんだけど。」
「なに言ってるの、ハリー。ドラコ・マルフォイが、どれだけひどいことを——」
「知ってる。」
「——
「それはいつ? 学校がはじまったころの話? ダフネはいつのことだって言ってた?」
「聞かなかった。いつだろうと関係ないから。 あんなことを——マルフォイが言ったようなことを——言う人は、善人ではありえない。 あなたが彼をなにに誘っていようが関係ない。 それでも救いようのない人間なのは変わらない。善人なら、なにがあってもあんなことを言うはずが——」
「それはちがう。」と言ってハリーはまっすぐにハーマイオニーの目を見た。 「ドラコがきみについてどんなことを予告したのかはだいたい分かる。ぼくが二度目にあったとき、ドラコは十歳の女の子にそういうことをするっていう話をしていたからね。 でも考えてみてほしい。ドラコ・マルフォイは生まれてからホグウォーツに来る日までずっと
ハーマイオニーはぶんぶんと首をふった。 「いいえ、それこそまちがってる。 ひとを傷つけてはいけない、なんていうことは、教師に禁止されるまでもなく分かっているはずのことでしょう。それは——相手が傷ついているかどうかは
……考えてみれば、
「きみも歴史の本をもっと読めば、それは狭い考えかたにすぎないと分かるようになるよ。 数百年まえまでは——たしか、すくなくとも十七世紀までは——各地の村でこういうものが娯楽として喜ばれていた。編みかごにネコを十匹ほど詰めて——」
「やめて。」
「——かがり火の上で焼いて楽しんでいたんだ。祭りの一部の、健全な娯楽として。 たしかに、女性を魔女あつかいして燃やすのとくらべれば健全だっただろうね。 これは、人間本来のしくみでは……人間にもともとそなわっている感情のしくみでは——」 ハリーは解剖学的に正確な心臓の位置に手をあて、それから頭部の耳のあたりまで手をもっていった。 「——
「そう思うのは……」 そう言う声がゆらぐ。 「そう
「いいや、ちがうね。 きみは第二次世界大戦後の社会の出身だ。『自分は命令にしたがっていただけ』というドイツ人のことを悪人だと思うのがあたりまえの世界でそだった。だからそんなことが言える。 これが十五世紀なら、そういう人も模範的な忠義者だと言われただろうに。 きみは自分が当時のどの人間とくらべても
ハーマイオニーは記憶力がいい。なので、こういうこともちゃんと思いだせてしまう。
自分が屋根から落ちかけたとき、ドラコ・マルフォイがこの手くびをつかんだこと。あとであざになるほど強く。
自分が謎の呪文をかけられてつまづき、スリザリン寮のクィディッチのキャプテンの食事の皿に倒れこんだとき、ドラコ・マルフォイが手を貸してくれたこと。
——そしてこの話題をもちかけたそもそもの理由でもある——ドラコ・マルフォイが〈真実薬〉を投与されて証言した内容を聞いたときに生じた気持ちのこと。
「どうして話してくれなかったのよ?」 思わず声が高くなる。 「そうと知っていればわたしも——」
「ぼくはその判断をする立ち場になかった。 話したことはドラコのお父さんの耳にはいるかもしれないし、それで危険になるのはドラコだったから。」
「その手は通じないわよ、ミスター・ポッター。
「……うん。そうだな……」 ハリーはハーマイオニーから目をそらし、図書館の机に視線をおとした。
「ドラコ・マルフォイはわたしと決闘することで、わたしを倒せるかどうかを『実験的に検証』しようと思ったと言っていた。 〈真実薬〉を投与された状態で、そうだと証言した。 〈闇ばらい〉が読みあげたとおりなら、彼本人が一字一句このとおりの表現でそう言った……。」
「ああ。」と言いながらハリーはやはり目をあわせようとしない。 「さすがはハーマイオニー・グレンジャー。一字一句おぼえているんだね。 椅子に鎖でしばられていようが、ウィゼンガモート全評議員をまえに殺人の容疑で裁判にかけられていようが、記憶力にはなんの影響もない——」
「ほんとはドラコ・マルフォイと二人でなにをしていたの?」
「多分、きみが想像してることとはちょっとちがうと思うんだけど……」
ハーマイオニーのなかでいやな予感がみるみるふくれあがり、決壊した。
「まさか科学してたんじゃないでしょうね?」
「えーと……」
「あなたが科学する相手は彼じゃなくてわたしでしょうが!」
「いや、そうじゃないって! あれは
「どうせ彼にも
「そりゃ言わないよ? ドラコ・マルフォイとの
自分は裏切られた、という行き場のない思いが胸のなかにどんどんつのり、それが大声や、するどい目つきや、きっとでているにちがいない鼻水となって、なによりのどの熱さとなって噴出する。 ハーマイオニーは机に手をついていきおいよく立ちあがり、一歩ひいて、裏切り者を見おろす姿勢をとった。つぎにでた声はほとんど金切り声になっていた。 「まちがってるでしょう、そんなの! 二人の相手と同時に科学するなんて!」
「あの……」
「というか、二人の相手と科学しながら
「その…… 知らせようかなとは思ったんだけど。きみとの研究が彼との活動に影響してはいけないから、いろいろ慎重にことをすすめる必要があって——」
「へえ。『慎重に』、ね。」 子音をやけに強調する発音になった。
ハリーは片手をあたまにあてて、ぼさぼさの髪をかきむしる。それを見るとハーマイオニーはなぜか余計にどなりつけたくなる。 「ミス・グレンジャー……。さっきからこの話は、ちょっとその、変な意味で
「ハア?!」 〈音消〉の障壁があるのをいいことに、思いきり声をだした。
それから事態に気づいて、顔が真っ赤になり、大人なみの魔法力があれば髪の毛が発火していたくらいの熱をおびた。
図書館のはるか奥のほうにぽつんと座っているレイヴンクロー生男子が、目をまるくしてこちらを凝視していた。本を顔の下においてそれを隠そうとしてはいるが、ろくに隠せていない。
「わかった。」と言ってハリーは軽くためいきをした。 「じゃあ、まず前提として、これは比喩として不適切だったということ、それに、ほんものの科学者にとって共同研究は日常茶飯事だということははっきりさせたうえで……やっぱり浮気には当たらないと思う。 科学者は、ある研究がひととおり終わるまでは、その情報を外部に公開しない。 きみとぼくはいっしょに秘密の研究をしている。そのことをドラコに教えるわけにはいかなかったのにはちゃんとした理由がある——きみとぼくがライヴァル関係ではなく仲良しだという話がドラコに伝わってしまえば、ドラコはぼくに近づこうとしなかっただろう。 ぼくとドラコとのことがだれかに知られれば、ドラコ自身に危険がおよぶことも分かっていた——」
「ほんとにそれだけ? 正直に言いなさいよ。 ドラコにもわたしにも、自分はハリーにとって
「それはまったくの誤解——」
ハリーは言いかけたまま口をとじた。
そしてこちらを見た。
全身の血液が顔にむかってあつまってきて、耳から湯気がでていてもおかしくない気がした。いや、その耳が溶け落ち、のこった粘液が頭部に逆流してくるかもしれない。それくらいのことを自分は言ってしまった、と気づいた。
こちらを見ているハリーの顔が驚愕の表情にかわっていく。
「その……」 ハーマイオニーはうわずった声で言う。 「ほら……なんていうか……! 比喩以上に、なにかあるんじゃない? 男の子が十万ガリオンを支払って女の子を窮地から救った。救われたほうは、その意図を知りたくなって当然だと思わない? 花を一束プレゼントされるだけでも、考えてしまうものでしょう。これはそれどころか——」
ハリーはテーブルに手をついていきおいよく立ちあがり、足をふらつかせて一歩さがり、躍起になって両手をふった。 「そういう意味でやったんじゃないよ、ぼくは! 友だちとしてやっただけ!」
「ただの友だち?」
ハリー・ポッターの息づかいがはげしくなり、過呼吸じみてきた。 「親友でもいい! 特別な友だちでもいい! 人生最高の友だちかもしれない! でも
「それ以上の関係は考えたくもないっていうこと?」 ハーマイオニーは一度声をつまらせた。 「これは別に——別に
「あっ、そう? ならよかった。」 ハリーはローブのそでで
ハーマイオニーは思わず身をひいた。
「——ただぼくの——
「え?
「いや、そうじゃなくて。なんというか、ぼくには謎の暗黒面があるし、ほかにも変な魔法的ななにかがありそうだし……とてもふつうの子どもとは言えないだろう——」
「ふつうじゃなくていいと思う。」 まだ話が見えず、すがるような気持ちになる。「わたしはそれでもいい——」
「いや、
「ヒッ」 高音でそういう声が出て、 足もとがふらついた。そこに一瞬遅れて駆けよってきたハリーに両手でささえてもらい、床に腰をおろした。
実はたしかに、この十二月、ハーマイオニーはそのことでマクゴナガル先生の教授室に駆けこんでいた。本で読んではいたからまったく予想外というわけではなかったものの、
「ごめん、いまのはただ、ちょっと変な言いかたをしちゃったけど、そういう意味じゃなくて! ここに外部の観察者がいたとして、ぼくの最終的な結婚相手をあてる賭けをしていたとすれば、きっとその人はきみに一番高い確率をわりあてるだろうとは思う——」
この時点でもうほとんど機能をうしないかけていたハーマイオニーの知能は、それを聞いて爆散した。
「——けれどそれも五十パーセントがせいぜいじゃないかと思う。外部の観察者にはほかにもいろいろと考慮すべき可能性が見えているだろうし、ぼくが思春期以前に好きだった人の種類は七年後のぼくの交際相手を予測する強い手がかりにはならないはず—— だから、ぼくはいまここでなにかを
自分の喉がなにか高音のノイズを発しているが、聞く気にもならない。いまハーマイオニーの宇宙にのこされたただ一つのものは、聞きたくもないハリーの声だけだった。
「——それに、進化心理学の本によると、その……一人の男と一人の女が一生しあわせに暮らしつづけるというありかたは標準的というより例外的なことだと言われていて、狩猟採集民の部族では子どもが生まれてからその子を守らなければならない最初の二、三年をいっしょに暮らすだけなのがむしろ普通だったらしい—— 事実、旧来の習慣での結婚をした現代のカップルの多くにはひどく不幸な結末が待っていたりするんだから、それをそのまま踏襲するよりも、なにかうまい修正方法があったりするんじゃないかと—— とくにぼくたちの場合は、不老不死を実現しようというんだから——」
レイヴンクロー五年生ターノ・ウルフは図書館で自席からゆっくりと立ちあがった。その位置からは、グレンジャーが泣きながら図書館を出ていくのがよく見えた。彼女ともう一人の口論の内容は聞きとれなかったものの、
ターノはひざをがくがくとさせながらも、〈死ななかった男の子〉のほうへ近づいていく。相手の視線のさきには、ぴしゃりと閉じられたあとの衝撃でいまだに震えている図書館の扉がある。
とくにやりたくてやるのではない。しかし〈死ななかった男の子〉ハリー・ポッターもレイヴンクローに〈組わけ〉された一人であり、 厳密に言えば同寮生ではある。 ならば、こういう場合にはしたがうべき〈作法〉がある。
近づいていっても〈死ななかった男の子〉はなにも言おうとしない。ただ、目つきは非友好的だった。
ターノは一呼吸してからハリー・ポッターの肩に手をのせ、すこしだけ震える声で儀礼をやりとげた。 「
「その手を外宇宙に転移させられたくなかったら、離せ。」
扉が音をたててひらき、また一人が図書館をあとにした。
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky
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