ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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88章「時間の圧(その1)」

◆ ◆ ◆

 

一九九二年四月十六日。

 

正午から七分後。

 

昼食の時間。

 

ハリーは重い足どりでグリフィンドール寮のテーブルへとむかう。そのほとんどの部分が空席だ。ちらりと見ると、今日のメニューがブリーンとルーポ肉の団子であることが分かる。 聞こえてくる会話はクィディッチがらみ。さびたチェインソーの音より不愉快なくらいの背景音だが、レイヴンクロー寮のテーブルの生徒たちがいまだにつづけているハーマイオニー関連の妄言よりはましだ。 グリフィンドール寮はそもそもドラコ・マルフォイにあまり同情的ではなく、グリフィンドール寮的に不都合なできごとの記憶を皆に引きずってほしくないという政治的動機もあって、 その話をしない。前提の部分がまちがっているとはいえ、話をしないこと自体はいい。 ディーンとシェイマスとラヴェンダーは休暇で家に帰っているが、さいわい帰っていないのが……

 

「〈主テーブル〉が大騒ぎになってたみたいだけど、なにかあった?」  ハリーは皿に食べものをよそいつつ、ウィーズリー兄弟二人の集合精神にむけて問いかける。「ぼくが来たころには、もう終わりかけていたみたいでね。」

 

「うっかり者のトレロウニー先生が——」

 

「……スープを入れ物(チュリーン)ごとひっくりかえして自分にかけちゃって——」

 

「……おかげでミスター・ハグリッドもごらんのありさま。」

 

〈主テーブル〉をちらりと見ると、たしかにトレロウニー先生が杖をふりまわし、ミスター・ハグリッドは自分の服をたたいているところだった。 ほかの人たちはだれもそれに目をとめていない。マクゴナガル先生でさえそうだ。 フリトウィック先生はいつものように椅子の上に立っている。ダンブルドア総長は今日も欠席らしい(この休暇中ほぼずっと不在だった)。スプラウト先生とシニストラ先生とヴェクター先生はいつものように席を寄せあって食べている。そして——

 

「ぼくはあれを見ると……」と言ってハリーは視線をそらし、頭上の見せかけの青空を見つめる。「いまだにぎょっとしたりするんだよね。」

 

「あれって?」とフレッドかジョージがたずねた。

 

謎の実力者である〈防衛術〉教授はそこで『休息中』……か、とにかくなにか奇妙な状態にあり、 左右の手でたどたどしく骨付き鶏肉をつかもうとするが、うまくつかまえることができていない。

 

「いや、なんでもない。 まだホグウォーツには慣れないなって思っただけ。」

 

ハリーはそのまま比較的静かに食事をつづけようとした。そのあいだ、ウィーズリー家の面々がつぎつぎやってきては、チャドリー・キャノンズという名の謎の精神作用物質の話をしていた。

 

「今日はどんな複雑な謎のことを考えてるの?」と近くにすわっていただれかが言った。一見して低学年の、短めの髪の女子だった。 「ちょっと気になって。 わたしはブライエニー。よろしくね。」  その女子がむけてきた視線は、以前からハリーがもっと大人になるまで無視しようと決めていたたぐいの視線だった。

 

「ごく単純な〈人工知能〉プログラムの一種で、イライザっていうのがあるだろう? 内容をまったく理解できないまま文法的に正しい英語の文を出力できるようなやつだけど、知ってる?」

 

「もちろん。そういうのなら、わたしのトランクのなかに十個くらいある。」

 

「多分ぼくが女の子について理解していることもだいたいその程度だと思う。」

 

突然あたりがしんとした。

 

数秒経過してからやっとハリーは大広間の全員の注目が()()()むけられているのではないことに気づき、左右を見わたした。

 

そのとき大広間にころがりこんできた人影はミスター・フィルチのようだった。獰猛な飼い猫ミセス・ノリスとともにホグウォーツの廊下を監視する用務員ということになっている人物だ。どちらもランダムエンカウントするキャラクターとしては低級な部類で、〈死の秘宝〉という伝説級アイテムをもってすれば軽くやりすごすことができる相手だった。(ハリーは以前、この男はいたずらの格好の標的だと思って、なにかやってみないかとフレッドとジョージに相談したことがある。すると二人のどちらかが小声で、あの仕事に便利な呪文はいくらでもあるだろうに、だれもミスター・フィルチが杖をつかうところを見たことがないのは変だし、ダンブルドアがそういう人をホグウォーツの職員にえらぶのにはなにか事情がありそうなものだ、と言った。そう聞いてハリーはいたずらの話をやめることにした。)

 

ミスター・フィルチの茶色の服はみだれ、汗でびっしょりの状態で、息をするたびに肩が上下している。いつもとなりにいるあのネコはいない。

 

「トロルが——地下洞(ダンジョン)に、トロルが——」

 

◆ ◆ ◆

 

ミネルヴァ・マクゴナガルはすぐに〈主テーブル〉の椅子から立ちあがり、そのいきおいで椅子はうしろに倒れた。

 

「アーガス! どうしたのです?」

 

アーガス・フィルチは大扉からよろよろと歩いてきた。その上半身に、ちらほら赤色の点々が見えた。まるでだれかにステーキのソースを顔に浴びせられたかのようだった。 「トロルが——灰色の——わしの倍ほどもある背丈の——そいつが——」  アーガス・フィルチは顔を両手でおおった。 「そいつがミセス・ノリスを——ぱくりと一口で——丸呑みに——」

 

ミネルヴァは裏の自分に痛烈な衝撃を感じた。あのネコのことは好きではなかったが、それでもおなじネコどうしではあった。

 

あちこちから大声が飛びかいはじめるなか、 セヴルスが〈主テーブル〉の席から、不思議とだれの注意も引かないやりかたで立ちあがり、無言のまま大扉から出ていった。

 

ああ、たしかに——とミネルヴァは内心で思う。三階の通廊——これはそのための陽動かもしれない——

 

ミネルヴァはその方面のことを全面的にセヴルスにまかせることにし、杖をとりだし、高くかかげて、紫色の火花を五回爆発させた。

 

その音で生徒たちはしんとなり、アーガスのすすり泣きだけが残った。

 

「この城に危険な生物がはいりこんだようですね。」とミネルヴァは左右の教員にむけて言う。 「われわれで手分けして廊下を捜索しましょう。」  そして生徒たちが呆然としたまなざしをむけてきているのに気づき、声を大きくして言った。 「監督生——各自の寮へ生徒を先導しなさい! ただちに!」

 

グリフィンドールのテーブルで、パーシー・ウィーズリーがすぐさま立ちあがって声をあげた。 「いくぞ! 一年生、かたまってついてきて! いや、そっちの一年生には言ってない——」  といっても、ほかの寮の監督生ももう呼びかけをはじめていた。また大きくなったざわめきに負けないよう、監督生たちは声をはりあげた。

 

そのなかに、はっきりとした冷ややかな声がひとつあった。

 

「副総長。」

 

声の方向をむくと、〈防衛術〉教授が静かにナプキンで手をぬぐいながら立ちあがっていた。 「失礼ながら……」と身元不明の男が話しはじめる。 「あなたは戦場で人を動かす専門家ではない。 状況をかんがみて、ひとつここは——」

 

「いえ、せっかくですが。」と言いつつミネルヴァは大扉にむけて動きだす。 フィリウスとポモナがすでにそのあとにつづき、彼らをおおいかくすほどの巨漢ルビウス・ハグリッドも席を立っている。 ミネルヴァは何度となくこれに似た経験をしたことがある。 「残念ながらわたしの経験上、こういう状況が発生したとき、〈防衛術〉教授現任者の助言を受けいれるべきではないということが分かっています。 というより、あなたはわたしと組になって捜索していただくべきでしょうね。あらぬことが起きてしまった場合にも、あなたに嫌疑がかかることのないように。」

 

〈防衛術〉教授はなんのためらいもなくグリフィンドールのテーブルのほうを向き、一度手をたたいて床が割れるときのような音をだした。

 

「ピニーニ隊副官のグリフィンドール生ミシェル・モーガン。」  しんとした空間にむけて〈防衛術〉教授が落ちついた声で話す。 「きみの寮監に助言をしてさしあげなさい。」

 

小柄なミシェル・モーガンは長椅子の上にのぼって話しだした。今年のはじめに見た時点の彼女よりもずっと自信に満ちた声だった。 「生徒に廊下を歩かせると、保護すべき対象が分散し、保護できません。 全員をこの大広間から出さず、中央の一カ所にかたまらせるべきです。……まわりのテーブルはどけておいたほうがいいでしょう。トロルはテーブルを飛びこえることができますから……。周縁部分は七年生に守らせましょう。 ただし模擬戦で同士撃ちを避ける動きかたを学んだ者にかぎります。()()に秀でた人もその点では劣ります。」  ミシェルはそのさきを一度ためらった。 「悪いけれど、ミスター・ハグリッドは—— 外にいては危険なので、生徒といっしょにいてもらいましょう。 トレロウニー先生も、単独でトロルと遭遇させないようにすべきです。」  この部分はあまり申し訳なさそうではなかった。 「といっても、クィレル先生との二人組にしておけば、トレロウニー先生もそれなりの戦力になるかもしれません。 分析は以上です。」

 

「いきなり振られたにしては、悪くない回答だ。 クィレル点を二十点進呈する。 しかしきみはもっと単純な要素を指摘しそこねた。()()()()()()を意味するとはかぎらないということ、トロルには肖像画を強引に壁からはがす程度の腕力があるということ——」

 

「もうけっこう。」とミネルヴァは割りこんだ。 「ミス・モーガン、ありがとうございました。」  そう言ってから、各寮のテーブルの生徒たちが見つめてきているのに答える。 「全員、彼女が言ったとおりになさい。」  そしてまた教員席へ。 「ではトレロウニー先生、あなたは〈防衛術〉教授と組になって——」

 

「その……」と自信なさげに言うシビル。化粧とぐちゃぐちゃのショールの下の顔はかなり青ざめている。 「わたしは——今日、ちょっと体調が悪くて——目まいがしそうなくらいでして——」

 

「あなたに戦闘しろとは言いません。」  いつもながら忍耐を試してくる人だと思いながら、ミネルヴァはぴしゃりと言った。 「〈防衛術〉教授から一瞬たりとも目を離さず、そばについていていただければ、それでけっこう。彼はあなたの隣を一度も離れなかったと、あとで証言していただきたいだけです。」  そしてルビウスを見て、 「ルビウス、ここはあなたに任せます。生徒たちの身の安全を守ってください。」  それを聞いてルビウスは高い背をまっすぐにのばし、いつものさえない表情を捨てて、誇らしげにうなづいた。

 

それからミネルヴァは生徒たちを見わたして、大きな声で言った。 「言うまでもないことですが、()()()()()()()()()()()()以後大広間から出た者は退学とします。弁解は受けつけません。よろしいですね?」

 

ミネルヴァはそう言いながらウィーズリー兄弟に目と目をあわせていたが、二人は聞き終えたところで丁重にうなづいた。

 

その後、ミネルヴァは口を閉ざして扉にむかい、ほかの教師たちもそのあとを追った。

 

部屋の奥のだれも見ていない壁の時計は昼の十二時十四分をさしていた。

 

◆ ◆ ◆

 

……ハリーはその時点でまだ、気づいてない。

 

——カチッ——

 

するどい目つきで教師たちが出ていくのを見おくったあと、ハリーはいまなにが起きているのか、それにどんな意味があるのか、考えた。その横で、生徒たちは防御しやすいようにかたまり、杖を振ってテーブルを浮遊させて通路をつくっていた。そのときになってもまだ、ハリーは気づかない。

 

——カチッ——

 

「先生たち()()()二人組でいくべきだったんじゃないの?」と年長のグリフィンドール生が言う。ハリーが名前を知らない生徒だった。 「まあそのぶん時間はかかっちゃうだろうけど、安全を重視するなら——」

 

——カチッ——

 

ほかのだれか(女の子だった)がそれに返事した。内容を完全には聞きとれなかったが、だいたいのところ、『山トロルには強い魔法耐性と怪力と再生能力があるけれど、近づいてくるときに()()()()から、ホグウォーツの教師なら〈ヴァディムの束縛なんとか〉で簡単に拘束してしまえる』、というような話だった。

 

——カチッ——

 

ハリーはまだ気づかない。

 

——カチッ——

 

騒々しかった話し声は落ちつき、だれもが小声で話しあうようになった。話しながら、ちらりとあたりを見たり、耳をすませたりして、扉がやぶられる音や雄叫びが聞こえないか注意していた。

 

——カチッ——

 

なかには、もし〈防衛術〉教授がトロルを忍びこませたのだとしたら、なにが目的なのだろう、と考えようとする人たちもいた。陽動をしかけようとしていたのをマクゴナガル先生に止められて怒っていたようにも見えたが、そうだとしたらなにを隠すための陽動だったのだろう、という声もあった。

 

——カチッ——

 

しばらくすると、全生徒がおそらく百人ずつくらいのかたまりとなって、そのまわりを七年生が重おもしい顔つきで杖をそとに向けながら巡回するようになった。そこでだれかが点呼をとったらどうだと言い、別のだれかが皮肉げに「ふだんならそれもいいかもしれないが、いまはほとんどの人が春の休暇でいなくなっていて、だれとだれがここにいるはずなのか分からないし、だれが行方不明なのかも調べようがない」とこたえた。そのときになって、ハリーはようやく気づいた。

 

——カチッ——

 

ハーマイオニーはどこにいるのだろう。

 

——カチッ——

 

レイヴンクローの集団のあたりを見ても、ハーマイオニーは見あたらない。けれどみんな狭く肩を寄せあっているから、小柄な生徒が上級生のあいだにうもれて見えなくなっているとしても不思議はない。

 

——カチッ——

 

つぎに、ネヴィルを見わけることができるかどうかたしかめるため、ハッフルパフの集団を見てみる。ネヴィルはほかの背の高い生徒のあいだにいたが、ハリーの脳の視覚処理はほぼ即座にそのすがたを認識することができた。 見たかぎりでは、ハッフルパフ集団のなかにもハーマイオニーはいない——もちろんスリザリン集団に行っていることもないだろう——。

 

——カチッ——

 

ハリーはたがいに肩を寄せあうほかの生徒を押しのけたり、年長の生徒をよけたり、ときには足の下をくぐったりもしながら、レイヴンクローの集団のまんなかに来た。やはりそこにハーマイオニーはいない。

 

——カチッ——

 

「ハーマイオニー・グレンジャー! いたら返事して!」

 

返事はなかった。

 

——カチッ——

 

こころの奥のどこかで、恐怖がつのる。同時に別の部分の自分は、どのくらいパニックになるべきかを考えようとしている。 今年最初の〈防衛術〉の授業でのできごとはあまりはっきりと思いだせないが、なぜかひとつだけ思いだせることがあった。トロルは、孤立していて無防備な獲物をかぎわけることができる、という話だった。

 

——カチッ——

 

別の思考過程は、芽生えつつある可能性の空間を必死に探索し、自分にいまなにか具体的にできることはあるか、と考える。 いまの時間はまだ午後三時にならない。ということは()()()()は〈逆転時計〉で到達しえない時間だ。 仮にこの部屋からこっそり出られたとして——なんらかの方法で注意をそらしつつ、〈マント〉に隠れて脱出することはできるはず——しかし、ハーマイオニーはどこにいるのか、ハリーにはまったくこころあたりがない。探そうにも、この城は広すぎる。

 

——カチッ——

 

ハリーの精神の別の部分は確率モデルを立てようとする。ほかの生徒の話によれば、トロルという捕食者は()()ではなく、音をたてるという——

 

けれど、ハーマイオニーは侵入者がトロルであるとは知らない。だから、自分でその音の発生源を調べようとする。そうするのがヒロインだと思って。

 

——だが、ハーマイオニーのポーチにも、不可視のマントとホウキはある。ハーマイオニーとネヴィルのためにハリーがそう要求し、マクゴナガル先生はそのとおりにしたと話していた。 それだけあれば逃げるのには十分なはずだ。ハーマイオニーはホウキ乗りが不得意かもしれないが、 屋根の上に出れさえすればそれでいいのだから。今日は快晴だし、トロルは日の光に弱い。それをハリーが覚えているなら、ハーマイオニーはまちがいなく覚えている。 いくらもう一度実力を示したいと思っているハーマイオニーでも、自分から山トロルに戦闘をしかけるほどバカではないはずだ。

 

——カチッ——

 

そのはずだ。

 

——カチッ——

 

そんな行動をするのはハーマイオニーらしくない。

 

——カチッ——

 

そこでハリーは、すこしまえに何者かが〈記憶の魔法〉をつかってハーマイオニー・グレンジャーに罪を着せようとしたのだということを思いだす。 ホグウォーツ城のなかで、警報を作動させることもなく、 ドラコが結界にひっかからないやりかたでゆっくりと死ぬように仕組んだだれかがいたということ。発覚するまで六時間以上かかるようにして、〈逆転時計〉をつかって調べられることがないようにした何者かがいたということ。 そして古代結界に検知されて総長を呼ばれることのないようなやりかたでこの城にトロル一体を忍びこませようとするくらいかしこい人間であれば、ハーマイオニーの魔法アイテムに細工(ジンクス)するくらいのことは当然考えているだろう……。

 

——カチッ——

 

ハリーのなかのどこかで、パニックがだんだんと大きくなっていく。ネッカーの錯視立方体のように、一度見る方向をかえてみると……自分はいったいなにを考えていたのだろう。くだらないおもちゃを二、三もたせただけで、ハーマイオニーとネヴィルとホグウォーツ城のなかに、そのままいさせたなんて。そんなことをしても、本気で()()()()()()()()相手はとめられない。

 

——カチッ——

 

別の部分が、その可能性は()()ではない、と異論を言いだす。問題は単純ではなく、それが実現する確率は五十パーセントを下まわることも十分ありうる。 自分がみんなのまえで大騷ぎをしていると、ハーマイオニーが大広間の脇のトイレから帰ってくる、という状況は容易に想像できる。 そうでなくとも、トロルはハーマイオニーとはまったく別の場所にしかいなかった、ということも……。そうなれば、オオカミが来たと叫ぶ少年の話のように、次回実際に助けてほしくなったとき、だれにも信じてもらえなくなってしまう。資産としての名声をここで使い果たしてしまっては、あとで別のことに使いたくなったときに困ることになる……。

 

——カチッ——

 

ハリーは自分が恥をかくことを恐れるルーチンにはいりはじめたことに気づいた。たいていの人はこうなると、不確実な状況下でどんな行動をとることもやめてしまう。そう気づいたので、恐れをきっぱりとはねのけることにした。が、それでもなぜか、みんなのまえで大声をだそうと決めるには大変な意思力が必要だった。もし自分がたまたまハーマイオニーを見落としていただけだとしたら、恥ずかしいことになる、と考えてしまう……。

 

——カチッ——

 

ハリーは深く息をすって、ちからいっぱい声をだした。 「ハーマイオニー・グレンジャー! いたら返事して!

 

全員がふりかえってハリーを見た。 そのうち何人かはきょろきょろとまわりを確認した。 部屋じゅうで会話がとまり、話し声が静まった。

 

「だれかハーマイオニー・グレンジャーをけさの——けさの十時半以降に見ていませんか? だれか、彼女の居場所にこころあたりは?」

 

背景の雑音がいっそうしんと静まった。

 

どこからも声はあがらなかった。とくに、『心配しないで、わたしはちゃんとここにいるから』という声はなかった。

 

「マジかよ。」とだれかが近くで言った。それから、背景の雑音の音量がまたあがった。音は新鮮な活気をおびていた。

 

ハリーは下をむいて自分の両手を見ながら、雑音を遮断して考えようとした。()()()() 考えろ——

 

——カチッ——

 

——カチッ——

 

——カチッ——

 

群衆をかきわけてスーザン・ボーンズがハリーのもとにやってきた。同時に、くたびれた杖をもつ赤髪の男の子もやってきた。

 

「どうにかして先生たちにこのことを知らせないと——」

 

「ぼくらで探さなきゃ——」

 

「ちょっと待って。」とスーザンがいきりたって言う。 「わたしたちがどうやって探すっていうの? ウィーズリー隊長。」

 

「自分の目と足で探すんだよ、そりゃ!」とロン・ウィーズリーも言いかえす。

 

「バカじゃないの? 廊下の捜索はもう先生たちがやってる。わたしたちがやったら、先生たちよりはやくグレンジャー司令官を見つけられる理由でもある? ()()()()()()トロルに食べられて、 それから退学させられるのがオチよ。」

 

悪い案を耳にすると、その対比でいい案を思いつける、ということがある。

 

「みんな、聞いてくれ!」

 

何人かがふりかえった。

 

静かに! 全員、だまれ!

 

そこまで声をはりあげると喉が痛んだが、注意を引くことはできた。

 

「ここにホウキがある。」  のどの痛みで声をだしにくいが、ハリーはできるかぎりの大声をだした。 このホウキを支給するよう要求したのは、アズカバンで二人乗りのホウキしかなかったことを思いだしてのことだった。 「これは三人乗りだ。 模擬戦参加者の七年生一人に協力してほしい。 任務は全速力で廊下を飛行してハーマイオニー・グレンジャーを探して、まっすぐにここに連れ帰ること。 これに協力してくれる人は?」

 

それを聞いて、大広間全体が沈黙した。

 

◆ ◆ ◆

 

気まずそうにおたがいを見あう生徒たち。 年少の生徒は年長の生徒に期待の目をむけ、年長の生徒は周縁部を巡回する生徒に目をむける。 巡回の生徒たちの大半は杖を手にし、まっすぐ前を見たままでいる。たまたまこの瞬間を狙ってトロルが突入してくるかもしれないとでも言うかのように。

 

だれも動こうとしない。

 

だれも話そうとしない。

 

ハリー・ポッターがまた話しだした。 「トロルと()()しようとは言わないよ。 トロルを見つけたら、ただ飛んで回避するんだ。むこうは飛行するホウキに追いつけるわけがない。 学校とは、ぼくが責任をもって話をつける。だから、だれか。」

 

だれもが、ほかのだれかを探して視線をさまよわせた。

 

◆ ◆ ◆

 

無言の群衆。かたくなに外を見つづける七年生たち。それを見て、ハリーは自分のなかに冷たさが満ちるのを感じた。 こころの奥のどこかで、嘲笑するクィレル先生の声がする。凡庸な愚か者が自分の意思で有意義なことをしてくれるとでも思ったか、自分に杖をつきつけられなければ動くわけがない、と……。

 

——カチッ——

 

傍観者効果をやぶりたければ、一個人を名指しするのが標準的な手段だ。 「よし。それじゃ……」とハリーは意識して、相手が服従することをうたがわない〈死ななかった男の子〉の声で言う。 「ミス・モーガン。いっしょに来てほしい。さあ。時間がもったいない。」

 

名指しされた魔女はじっと周縁部を見るのをやめて、ふりかえった。一秒だけ恐怖の表情がよぎったが、すぐにかたい表情になった。

 

「ここから全員でるな、というのが副総長の命令だったわよね。」

 

歯をくいしばるのをやめるのに努力が必要だった。 「でもクィレル先生はそう言わなかった。あなたもそう言わなかった。 マクゴナガル先生は戦術眼がない。行方不明の生徒がいるかもしれないという可能性を考えられず、生徒に廊下を歩かせてもいいとさえ思っていたくらいだ。 でもマクゴナガル先生は、まちがいを指摘されれば()()()()()。あなたやクィレル先生の指摘をちゃんと取りいれた。ハーマイオニー・グレンジャーが()()()()()()()()()()()となれば、きっとあの人もそれを放置しろとは言わない——」

 

——カチッ——

 

「いいえ、マクゴナガル先生ならきっと、廊下をうろついている生徒を増やすようなことは認めない。 どんな理由があろうとここを離れれば退学処分だっていう命令なのよ。 あなたは〈死ななかった男の子〉だからいいのかもしれないけれど、わたしたちはそうはいかない!」

 

——カチッ——

 

こころの奥のどこかで、クィレル先生の高笑いが聞こえる。 戦術的な明快さもない状況で、はっきりとした責任を負わされてもいない凡庸な人間に、行動を期待するのがまちがいだ。()()()()()()()()への立派な口実まであるならなおさらだ……。 「これは人命にかかわる問題だ。」とハリーは平静な声で言う。 「ハーマイオニー・グレンジャーはいままさにトロルと戦っているかもしれない。 そう言われれば、すこしはなにか思うところがあるんじゃないかい?」

 

——カチッ——

 

ミス・モーガンの表情がゆがんだ。 「あ——あんたこそ、〈死ななかった男の子〉のくせに! そんなに助けたいなら、一人で行って、指を鳴らしでもすれば!」

 

——カチッ——

 

ハリーはほとんど意識すらしないまま返事した。 「あれは、ちょっとした小細工とはったりでやっただけのことで、 ああいう能力が実際ぼくにあるわけじゃない。さあ、どこかに助けを待っている女の子がいるんだ。()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「なんでそれをわたしに言う? ここの責任者はわたしじゃなくて ミスター・ハグリッドなのよ!」

 

ぎこちない沈黙が室内全体を支配する。

 

ハリーはぱっと、飛びぬけて背の高い半巨人のほうを向いた。そのまわりの生徒たちも一斉にそちらを向いた。

 

「ミスター・ハグリッド。」とハリーはやはり服従を要求する声で言う。 「許可してください。いまぼくが言ったとおりのやりかたで捜索をしていいと。さあ。」

 

ルビウス・ハグリッドは葛藤しているようだった。毛むくじゃらのひげともみあげに隠れた顔は読みとりにくいが、目にはたしかに生気があった。 「いや……おまえさんたちの身の安全を守れっちゅうのが、マクゴナガル先生の命令——」

 

「そうですね。じゃあ、ハーマイオニー・グレンジャーの身の安全も守りませんか。 ()()()()()()()()()()()を着せられた生徒が、()()()()()()()()()んですよ?」

 

半巨人はハリーのことばにはっとしたようだった。

 

ハリーはその様子をじっと見ながら、このほのめかしがこの人にだけ通じて、ほかのだれにも悟られなければいいのだが、と思っていた。——腕力だけじゃないはずだ。ジェイムズとリリーがこの男とつきあったのは、同情心以上のなにかがあってのことだろう——

 

「罪を着せられた?」と、どこからか声がした。スリザリンの集団のあたりから話しているようだった。 「まだそんなこと言ってたのか。トロルに食べられるのがお似合いだよ、あいつは。」

 

何人かが笑った。同時に別の場所から非難の声もあがった。

 

半巨人は表情をかたくした。 「おまえさんはここにいな。」 よくひびく声で、おそらくなだめるようなつもりの口調。 「その子のことは、おれがみてくる。 トロルっちゅうのは、ちとやっかいなところもある生きものでな——かかとをつかまえて、ひっくりかえしてやるといいんだが、へたすりゃ、こっちがまっぷたつにされる——」

 

「あなたはホウキに乗れますか?」

 

「いや——乗れん。」

 

「それじゃ時間的に間にあわない。 六年生の人たち! 一人くらいは臆病者でない六年生がいてもいいんじゃないんですか?

 

沈黙。

 

「五年生は? ……ミスター・ハグリッド、ぼくを守るために同行したい人はそうしていい、と指示してやってくださいよ! ()()()()()()()()()

 

半巨人は手と手を組みあわせ、苦しそうな表情で言う。 「うむ——そりゃあ——」

 

なにかがぷつりと切れた感じがして、ハリーは大広間の入りぐちの扉へむけて歩きだした。道をあけようとしない人がいれば、粘土の像を相手にするようにして手でおしのけた。(走れば止めようとする人がでるだけだろうから、走りはしなかった。) 自分は機械じかけの人形が立ちならぶ無人の部屋のなかを一人で動いている、もうその人形の口から出る雑音に気をとられることもない、というようにも思え——

 

そこで巨大な人影が道をふさいだ。

 

ハリーは人影を見あげた。

 

「いや、よりによっておまえさんが行っちゃあならん。 この城ではいま得体の知れないことが起きとる。狙われているのはミス・グレンジャーか——それとも、ハリー・ポッター、おまえさんかもしれん。」  ルビウス・ハグリッドは申し訳なさそうに、しかしきっぱりとそう言い、左右の巨大な手をフォークリフトのように下げた。 「悪いが、ここは通さんよ。」

 

「ステューピファイ!」

 

赤い稲妻がハグリッドの側頭部にあたり、ハグリッドはその衝撃で飛びあがった。 巨大な顔が思いのほかすばやく旋回し、「乱暴なことするんじゃねえ!」とスーザン・ボーンズにむけて咆哮した。

 

「ごめんね! 『インセンディウム』! 『グリッセオ』!」

 

ハグリッドは燃えだしたひげの火を両手でつかんで消そうし、同時に転びかけるのを踏みとどまることもできず、床に倒れていった。そのころにはもう、ハリーはその横を通りすぎていて——

 

行く手にネヴィル・ロングボトムが立ちふさがった。苦渋の表情だが決心をかためた様子で、すでにハリーに杖をつきつけている。

 

完全に反射的に杖へ手がのびる。ハリーがぎりぎりのところでそれを止めていなければ、ネヴィルは撃っていたかもしれない。自軍の士官でもあるネヴィルのその様子を目にして、ハリーは世界が狂ったかのように感じた。

 

「ハリー! ミスター・ハグリッドが言うとおり、きみは行っちゃいけない。これは罠かもしれない。狙われているのはきみかもしれない——」

 

全身の筋肉が硬直して棒のようになり、ばたりと床に倒れ、動かなくなるネヴィル。

 

その背後から、青ざめた顔のロン・ウィーズリーが一歩でて、ネヴィルに杖をつきつけたまま言った。「行けよ。」

 

ロン、おまえってやつは、またなにを——」と遠くから声がした。たしかミス・クリアウォーターの彼氏だったかと思う。が、ハリーはすでに前だけを見て大扉に突進していた。背後では、ロンとスーザンがつづけて詠唱する声と、 それをかきけすような一人の怒号、それにつづいてハリーの知らない声がつぎつぎにあがっていた。

 

扉を通過すると、すぐにポーチに手がのび、口が「ホウキ」と言う。背後の大扉はまだ閉まりきっていない。

 

そのまま走りつづけて玄関前の広間まで来ると、ポーチから三人乗りの長いホウキがあぶみのところまで出かかっていた。ハリーのなかには、いくつもの罵倒語をあたまのなかで唱え、『話が通じない人を説得しようとするからこうなるんだ』という声もあったが、大半はハーマイオニーがいそうな場所をたどる捜索ルートを考えようとしていた。 図書館は三階にあり、この位置からだと城の逆がわといっていいくらいだ……。 大理石の大階段の一歩手前まで来たところで、ホウキが手のなかにおさまり、ハリーは「あがれ!」と言った。そして空中に飛びあがり、二階にむけて加速する——

 

「グアッ!」  ハリーは間一髪でホウキを旋回させ、階段の上に突っ立っている人影に突っこまずにすんだ。 あやうく自分がホウキから落ちそうになり、ほとんど墜落しかけたところで、のこりわずかな空間でなんとかしてからだをひねり、足があぶみからずり落ちないようにしてみると——

 

()()()()()()()()()()

 

「探す方法が分からない!」とウィーズリー兄弟の二人のうちのどちらかが、左右の手を組みあわせ、悩ましそうに言った。 「おれたちならミス・グレンジャーを見つけられると思ったからぬけだしてきたのに—— ホグウォーツ城のなかにいる人を簡単に見つける方法が、ぜったい()()()()—— だけどそれがどんな方法か分からない!」

 

ハリーはホウキから落ちかけた結果さかさまにぶらさがった状態になっていたが、そのまま二人をじっと見た。口が勝手に、完全に反射神経でうごいた。 「それで、それだけ確信が()()()()()は?」

 

「それも分からない!」

 

「きみたちは以前、ホグウォーツ城のなかにいる人の居場所を見つけることができたということ?」

 

「そう! それは——」  二人のうち話していたほうが話すのをやめて、もう一人といっしょに遠くを見つめて呆然とした表情になった。

 

なにかが衝突して爆音をたてた。ちょうど、両開きの扉がものすごい腕力で力まかせにあけられたような音だった。

 

ハリーは空中で回転し、ホウキについた残りのあぶみ二つを、無言でウィーズリー兄弟に見せた。必要もなく声をだせば、こちらの居場所を知られるだけだ。 二人があわててあぶみに足をのせるあいだ、時間がのろのろと進んだ。計算では、ミスター・ハグリッドが走って追ってきても、こちらがいなくなるまでには階段下に到達することさえできない。そう思いながらも、心臓の鼓動が激しくなる。 三人が乗るとホウキは()()()加速し、手近な横道にむかう。床の敷石の模様が見えなくなり、壁をかすめるとそこからヒュッと音がしたように聞こえた(実際には自分の耳にあたる風の音だった)。これは三人乗りのホウキで、それだけ長さがある。ということは、つぎの角がくるまでに()()()()()()()()()()()。すんでのところでハリーはそれを思いだした。

 

これで席は三席とも埋まってしまった。ハーマイオニーを見つけることができたら、そのときは——ハリーが〈不可視のマント〉を着れば、トロルから隠れることができる。そうやってハーマイオニーのぶんの席をつくればいい——

 

ハリーはかがんで、アーチ門に自分の首が飛ばされそうになるのを回避した。

 

「たしか、ジェシーの居場所を見つけたりもした!」と、うしろのウィーズリー兄弟が言う。 「フィルチがジェシーをつかまえようとしているのを教えるために!」

 

「どうやって?」と言いはするが、ハリーの脳のほとんどの部分は飛行事故による死を回避する任務にいそがしい。 安全のため速度をおとすべきだと分かってはいるのに、緊張と得体の知れない恐怖がつのり、速度を()()()()()()()()()と思う。おとせば、恐ろしいことが起きる……。

 

「そ——それが思いだせないんだよ!」

 

ホウキはまた急な角度のコーナーへ、ハリーの推測では光速の〇.三パーセントほどの速度で突入し、くねくねとした通路を進む。これはいつもハリーが大広間から図書館へいくときの経路だが、ホウキに乗っている場合の()()()()()()()()()()。〈西の通廊〉をつかうべきだった——

 

操縦桿をにぎっていない部分のハリーの頭脳がようやく現実を認識した。

 

「だれかがきみたちの記憶を改竄したんだ!」  そう言いながらハリーは道なりに曲線をたどって飛ぶが、飛行技術がホウキの長さに対応しきれていない。そのせいで最後部にいるウィーズリー兄弟は壁に軽く衝突したりした。

 

「え!?」とフレッドかジョージが言った。

 

「ハーマイオニーの記憶をいじっただれかが、おなじことをしたんだよ、きみたちにも!」  〈忘消〉(オブリヴィエイト)かもしれないし、〈偽記憶〉を植えつけようとして失敗したのかもしれない。とにかく、いまはそんなことを考えてはいられない——

 

角をまがると螺旋階段がある。ホウキはその横を飛びあがり、三人はぴったりホウキにくっついて、天井の小さな隙間から上の三階へ通りぬける。そこが図書館の正面だった。ホウキが減速して停止する瞬間、摩擦で止めているわけでもないのにキキッと音がした。 ハリーはちらりと二人のほうを見て、目で『ここで待て』とつたえ、ホウキをおりて図書館の扉を押しあけ、呼吸をおちつかせようとしながら、なかをのぞいた。

 

ハーマイオニー・グレンジャーのすがたはない。

 

司書席でサンドウィッチを食べているマダム・ピンスが、ぱっとにらみつけてきた。 「閉館中ですよ!」

 

「ハーマイオニー・グレンジャーを見かけませんでしたか?」とハリー。

 

「閉館だと言っているでしょうが! 昼食の時間です!」

 

「とてもだいじなことなんです。 ハーマイオニー・グレンジャーを見かけませんでしたか。彼女の居場所にこころあたりはありませんか。」

 

「ありません。さあ、出ていって!」

 

「マクゴナガル先生にいますぐ緊急の連絡をする手段はありますか?」

 

「え?」  マダム・ピンスはおどろいた様子で、 席から立ちあがる。 「それはどういう——」

 

「あるかないかだけ、言ってください。いますぐ。」

 

「そうね——〈煙送(フルー)〉ならそこに——」

 

「マクゴナガル先生はいま居室にいません。 それ以外になにか連絡手段は? ありますか。ないですか。」

 

「あのね、そもそもあなた——」

 

この段階でハリーの脳は『この人もNPCだった』というフラグを立て、ハリーはきびすを返してホウキのもとへ駆けていった。

 

「待ちなさい!」と言ってマダム・ピンスも扉から飛びだしたが、すでに発進していたハリーとウィーズリー兄弟のすがたはそこになかった。 ハリーのこころのなかの(プレッシャー)が高まり、物理的にだれかの手で胸を締めつけられているように感じる。()()()()()()()()()()()()()()()、と思うが、ほかにいそうな場所のこころあたりといえば、レイヴンクロー寮の女子寝室くらいしかなく、ハリーはそこにはいれない。 ホグウォーツ城全体を捜索するのは数学的に不可能も同然。あらゆる部屋を一度以上通過する単一の飛行経路はおそらく存在しない——こんなことなら、〈闇ばらい〉が使うあの便利そうな通信鏡をハーマイオニーとネヴィルと自分に持たせておくんだったと後悔する——

 

いや——。それ以上に、自分の愚かな見おとしに気づき愕然とする。鏡などなくても通信はできる。ハリーには一月からその手段があった。 廊下をいくホウキの速度をおとし、空中で静止させ、すでに手にのっていた杖をにぎり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という意思を精神の前面で燃えあがらせ、その銀色の太陽の炎を腕に流しこむと同時に

 

エクスペクト・パトローナム!」

 

白くかがやく人形がぱっと新星のように生まれ、その横でウィーズリー兄弟は驚愕の声をあげていた。

 

「ハーマイオニー・グレンジャーへ伝言をたのむ——トロルが城内をうろついている——狙いはきみかもしれない——いますぐ日の光がある場所に行け、と——!」

 

銀色の人影は去るようなそぶりで向きを変えてから消えた。

 

「なんだよこれ……」とフレッドかジョージが言った。

 

銀色の人影が再来し、他人にはいつもそう聞こえているのであろう、奇妙なハリー自身の声で話しだした。 「ハーマイオニー・グレンジャーの返事は……」  そこで声が高くなった。 「『アアアアァァァアア!』」

 

時間の層が剥離し、すべてが高速に動くと同時に低速に動いているように見えた。 躍起になってホウキを最大速度にまで加速しようとするが、そのまえに目的地を知らなければ——

 

「ハーマイオニーの居場所が分かるなら……」  ハリーは太陽のように燃える人影をまっすぐに見て、大声で言う。 「案内してくれ!」

 

銀色の炎が動き、ハリーはそのあとを追って加速する。弾丸のように飛ぶホウキ上でウィーズリー兄弟は甲高く悲鳴をあげる。すでに常識的な速度ではなくなっているが、ハリーは速度のことも、壁をかすめそうになることも気にせず、ひたすら銀色の光を追って飛ぶ。廊下を抜け、階段を飛びこえ、フレッドかジョージが必死な声で開錠呪文をかけようとする扉をぶちあけるが、()()()()()()()()()()()()気がする。窓や肖像画をつぎつぎと通りすぎるあいだ、ハリーはこころの奥で、自分がいま蜜のなかを沈降していっているように思えた。

 

また一度(かど)を曲がって、ホウキが悲鳴をあげ、ウィーズリー兄弟のどちらかが壁にあたったが、ブラッジャーに衝突されるのにくらべれば大したことはなかった。光る〈守護霊(パトローナス)〉を追って、天井にぽっかりとあいた隙間を通って、数階ぶんを一息で急上昇する。

 

〈守護霊〉が停止するのに応じてハリーが急ブレーキをかけると、そこは広く平らな空間だった。先を見ると、途中で天井がなくなっていて、外部へ張り出すバルコニーがある。大理石のタイルが敷かれたバルコニーに屋根はなく、(そら)が見えている——

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 


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