青白い炎のかたまりが床の上に点在し、その中心に巨大な、熱をおびた青い炎の面がある。
床の一端には、大理石のタイルが焼け焦げて割れた小円状の爆発痕がひとつ。一年生女子がやった呪文だとすれば、特別早熟な生徒が最後のちからを振りしぼって放ったものとしか考えられない威力。
バルコニーの陽光のもとで、ずんぐりとした鈍い灰色の肌のその生物は
ウィーズリー兄弟が悲鳴をあげた。
ハリーの〈守護霊〉が壊れた。
トロルは鼻を鳴らして旋回し、ハリーたちに向きあい、片手から
■■■■■■■を足もとの赤い池に落とし、片手の棍棒を高くかかげた。
双子のどちらかが大声でなにかを詠唱すると、棍棒がトロルの手からもぎとられ、顔に殴りつけられた。トロルはその衝撃で一歩身を引いた。マグルなら一発で死にかねないほどの打撃だった。 鼻をつぶされ血まみれになったトロルは怒りの雄叫びをあげた。すると鼻はもとどおりに再生した。 トロルは両手で棍棒をとろうとしたが、棍棒はすんでのところで飛び去った。
「そのまま誘導して。こっちに来ないように。」
棍棒はトロルから遠ざかり、バルコニーを離れ、後方の屋根のある床の部分にむけて飛んでいく。 トロルは巨大な足で跳躍する。その手が棍棒にとどきそうになるが、 棍棒はそれをよけて飛び、トロルはまた跳躍する。 ハリーはそのあいだに前進していたホウキからとびおり、ハーマイオニー・グレンジャーのところへ走りこむ。……すでに大腿部から先を食いちぎられ、自分自身の血の海のなかにいる彼女のもとへ。
ハリーはポーチから取り出した治癒キットを開封し、自動巻き止血帯をひとつ引っぱりだし、それをちぎれた足の、歯型のある断面に巻いた。血で一度手がすべったが、震えることはなかった。震えさせているべきときではない。 ひと巻きさせると、止血帯は患部をしめつけた。ふとももの断面からまた血がでたが、やがて止まった。もう片ほうにも、おなじ処置をする。 ハリーの精神の一部はひたすら悲鳴をあげつづけ、もうひとつの自動巻き止血帯を手にとろうとする部分のハリーにもそれが聞こえていた。だが聞いているべきときでもない。
ウィーズリー兄弟の二人が大声で呪文を連射している。ハリーなら六十秒もつづければ意識不明になるくらいの速さで、ときには完全にタイミングを同期させて撃っている。しかし、その大半はトロルの皮膚のところで止まり、無害な火花となって散っている。 もうひとつの止血帯がしめつけ、また血がどっと出たところで、見あげると『ディフィンド』と『レダクト』がトロルの無防備な両目にあたり、両方の硝子体が粉ごなに吹き飛んだ。しかしトロルはすぐにまたひと吠えし、目は再生しはじめた。
「火か酸! 炎か酸で攻撃しろ!」とハリー。
「『フエゴ』!」「『インセンディオ』!」という声が聞こえるが、ハリーはそちらを見ていない。ポーチのなかの、オレンジ色に光る酸素供給ポーションの注射器を手にとり、それをハーマイオニーの首の頚動脈の(だと思う)位置に刺し、肺か心臓が停止しても脳が生きつづけられるようにする。脳が無事でさえあれば、ほかの部分は修復できる。修復する魔法がかならずある。修復する魔法はかならず、かならず、かならずある。首に刺した注射器をぐっと下げて液を注入すると、ハーマイオニーの白い肌の下でそれがうっすらと光る。 つぎに胸の心臓があるはずの位置を強く圧迫することをくりかえす。これでうまくいけば、酸素のはいった血液が脳にとどく血管にまで流れてくれるかもしれない。心臓がすでに止まっているとしても。もっとはやく脈をとって、止まっているかどうかを調べておくべきだった。
キットのなかにあるほかの機材に目をやる。ほかになにか利用できるものがそこにあっただろうかと考えようとするが、あたまが真っ白になる。 こころの奥に隠れた悲鳴がひときわ大きくなり、必死に動いていた両手はもうかたまっている。 いまさらのように自分のローブとズボンのひざ部分にびっしょりと血がしみこんできていることに気づく。
背後でまたトロルが吠える声がした。ウィーズリー兄弟が「『デリギトル・プロディ』!」と叫び、「助けてくれ! なにかないか!」と言っていた。
そちらを振りかえると、双子のどちらかがいつのまにか〈組わけ帽子〉をあたまにのせて立っていた。対するトロルは、巨大な石の棍棒に左右の手をかさねている。腕にある一、二カ所の長い切り傷から煙がでていて、多少弱っているようでもあるが、まだぴんぴんしている。
そのとき〈組わけ帽子〉が壁を揺らすほどの声で咆哮した。
「グリフィンドール!」
ドンと圧が生じて、空気が熱をおび、ハリーの未熟な感覚でも感じられるほど質感のある魔法力が出現した。トロルはうしろにとびのき、おどろいて鼻を鳴らした。 フレッドかジョージかが奇妙な表情をして、奇術師のようななめらかな動きで帽子をあたまからとり、そのなかに片手をいれた。抜かれた手のなかに、剣の柄が見えた。柄の端には光る
刀身には黄金の文字で『nihil supernum』と書かれていた。
双子の片割れは巨大な剣の重さをものともせず高くかかげ、絶叫して突進した。
ハリーの口がひらいて、『待て、剣のつかいかたなんて知らないだろう』というようなことを言いかけた。しかし最初の一音が発せられるまえに、剣はトロルの右腕のひじから先の皮膚と肉と骨をするりと切り落としていた。 突進した双子の片割れは、すでに軌道にのっていた石の棍棒になぐりつけられて空中を高く飛んでいき、ハリーたちがのぼってきた隙間のむこうの奥の壁にぶつかり、それきり倒れて動かなくなった。
光る剣は床の隙間に落ちて消え、遠くでこつりと音がした。
「フレッド!」とジョージ・ウィーズリーが言った。「『ヴェンタス』!」
見えないかたまりがトロルを襲い、横に押しのけた。
「『ヴェンタス』!」
それがまたトロルにあたり、トロルは床の端の隙間の直前まで吹き飛ばされた。
「『ヴェンタス』!」
しかしトロルはすでに無事なほうの手を床の大理石にのめりこませてつかみ、踏みとどまる土台としていた。 第三撃がトロルを襲い、そのからだを切り立った隙間の上まで飛ばせはしたももの、トロルの手はあと一歩のところで残った。 トロルは片手でぐいっと飛びあがり、咆哮した。
ジョージ・ウィーズリーは片手をおろして、ほとんど倒れそうになりながら、やっとのことで歩いている。苦しそうな声で話す。 「ハリー……逃げろ——」
ジョージ・ウィーズリーは一歩引いて壁に倒れこみ、そのままずさりと床に落ちた。
時間の層が剥離し、周囲の世界の動きが遅く、歪んだように思えた。いや、自分のこころそのものがねじれて折れているのかもしれない。 動いてなにかすべきときなのに、全身の筋肉が奇妙に麻痺したようで、動くことができない。 言語化する間もなく、いくつもの思考がハリーのあたまのなかをよぎる。 いま自分が逃げればウィーズリー兄弟とハーマイオニーがトロルに食べられる……魔法族はブラッジャーにぶつかられても死なない、ならフレッドも生きているはず……ハリーよりも呪文の実力があるウィーズリー兄弟でもこのトロルを押しとどめることはできなかった……いま持っていないなにかを〈転成術〉でつくっている時間はない……バルコニーの端におびきよせて下に落とそうにも、このトロルはおそらく俊敏すぎる……だれかが呪文で日の光への耐性をつけてこのトロルを殺人兵器にしたてたにちがいない……ほかの種類の強化もしているかもしれない……。 そこでハーマイオニーが追われている様子が思いうかんだ。トロルに追われ、日の光のある場所を探して、つかまりそうになりながら、ようやく明るいバルコニーにたどりついたそのとき、それもだれかの想定の範囲内だったと気づかされたときのハーマイオニーが。
ハリーのこころのなかに鳴りひびていた戦慄の声が、別の感情に押し流された。
ハリーは立ちあがった。
部屋の反対がわで、敵も立ちあがっていた。剣で切断されたほうの腕は再生せず、まだ血が流れている。
——殺意を——
トロルはのこったほうの手で床に落ちた棍棒をとり、大きく吠えて、棍棒を床にたたきつけた。大理石の破片が宙を舞った。
——殺すことだけを考えろ——
トロルはどすりどすりと、倒れたジョージのところへ歩きだす。口の端からは一すじのよだれが落ちている。
——そのためにつかえるものは見のがすな——
ハリーは五歩まえに出た。敵はまた吠え、ジョージのほうを見るのをやめて、その目にしっかりとハリーをとらえた。
——ためらうな、たじろくな——
自然界で三番目に完全な殺人機械が大きくハリーのほうに跳躍してくる。
殺せ
ハリーの左手にはすでに、指輪からはずした〈転成〉ダイアモンドがある。右手にはすでに杖がある。
「ウィンガーディウム・レヴィオーサ」
ハリーの杖に誘導されて、ダイアモンドの粒がトロルの口のなかへと運ばれていく。
「フィニート・インカンターテム」
岩がもとの大きさと外形をとりもどし、トロルの首が
敵の頭部は早くも再生しはじめ、ちぎれたあごと頚椎の断面がなめらかになり、口が完成し、歯が生えかわっていく。
ハリーはかがんで、床に落ちた頭部の左耳をつかんで持ちあげた。 杖をその左目にえぐりこみ、ゼリー状の硝子体をつらぬき、巨大な眼窩を
敵の再生がとまった。
ハリーは死体をバルコニーの外に捨て、ハーマイオニーのほうを振りむいた。
ハーマイオニーの目は動いていて、ハリーに焦点があった。
ハリーは急いでそこへ駆け寄り、すでに血でびっしょりの自分のローブがまた血で濡れるのもいとわず、話しかけようとする。 『だいじょうぶ、きっとだいじょうぶだから。』 かけるべきことばはもう分かっているのに、口が動かない。 『きっともとどおりに治せる魔法があるから、だから、もうすこしだけ——』
ハーマイオニーのくちびるが動くのが見えた。ごくわずかにだが、たしかに動いている。
「あなたの……せい……」
時間が凍りついた。 しゃべらずに酸素を温存しろと言ってやるべきなのに、ハリーの口はまだ、動こうとしない。
ハーマイオニーはもう一度息をすい、声をだした。「あなたのせいじゃ、ない。」
そう言ってから息をはき、目をとじた。
ハリーは口を半分あけたまま、ハーマイオニーを見ている。息をつぐことができない。
「そんな。」 あと二分早ければ間にあっていたのに。
ハーマイオニーのからだが痙攣し、震える両腕が上にむかって宙をつかむように動き、目がぱちりとあいた。 そして
——いや。
ハリーは遺体の横で立ちあがり、ふらついた。
——そんな。
炎がひとつ立ちのぼり、ダンブルドアがフォークスとともに出現した。愕然とした目をしていた。 「生徒が死んだという信号があった! なにが——」
老魔法使いの目が、床の上にあるものをとらえた。
「ああ、なんたること。」とアルバス・ダンブルドアが小声で言った。 フォークスが悲しげに追悼の声を発した。
「生きかえしてください。」
しんとするバルコニー。 ダンブルドアの杖のひとふりで空中に浮かばせられたフレッド・ウィーズリーが、たのもしげな桃色の光につつまれて、引き寄せられてきている。
「ハリー——」 老魔法使いは声をつまらせる。 「ハリー、それは——」
「フォークスを泣かせるとか、なんでもいいですから、はやく。」 完全に平静な声だった。
「そ……それはもう、手遅れじゃ。彼女は……死んでしまった——」
「情けないことを言わないでくださいよ。 もしここでやられたのがぼくだったら、あなたは帽子からウサギをとりだしでもして、救おうとするでしょう。物語が幕を引くまえに
「こうなってはわしにできることはない! 彼女の魂はもう旅だってしまった!」
ハリーは口をひらいて、怒りにまかせて絶叫しようとしたが、また口をとじた。 いま絶叫しても意味はなく、なにを達成できるわけでもない。 自分のなかで限界になりつつある圧をそのように放出してしまってはならない。
ハリーはダンブルドアを見るのをやめて、足もとの血の海のなかに横たわるハーマイオニー・グレンジャーの遺骸を見た。 ハリーの精神の一部は周囲の世界に対してむずがり、この悪夢を終わりにして、レイヴンクロー寮の寝室でカーテンからふりそそぐ朝の日の光のもとで目をさまそうとする。 しかし血は消えず、悪夢はさめない。別の一部はこれが現実であること……アズカバンやウィゼンガモートのある不完全な世界の一部であることをちゃんと認識していて
——認めない
時間がまだばらばらになっているように感じられ、なにかがはがれていく感覚とともに、ハリーはダンブルドアを見るのをやめて、足もとの血の海のなかに横たわる、両足の断面に止血帯が巻かれたハーマイオニー・グレンジャーの遺骸を見た。そして、結論として
認めない。
認めるものか。
この世界に魔法があるなら、手遅れだったではすまされない。
どれだけの調査が必要だろうとも。どれだけの発明が必要だろうとも。〈闇の王〉の精神からサラザール・スリザリンの知識を奪いとり、アトランティスの秘密を解明してでも。どんな門もこじあけ、どんな封印も解き、あらゆる魔法の根源にたどりついて、再設計してでも。
ハーマイオニー・グレンジャーを生きかえらせるためなら、現実を根本からバラバラにすることもいとわない。
「危機は去った。」と〈防衛術〉教授が言う。「もうおりてけっこうですよ、トレロウニー先生。」
それまでこの二人乗りのホウキが火となって壁や床に突入して城を縦断していくあいだ後部に座らされていたトレロウニーは、あわてて腰をあげ、床にぺたりと座りこんだ。その一歩となりの壁には、できたての赤く光る穴があった。 まだ息もたえだえに、自分より大きなものを吐きだそうとするかのようにして、背をまるめるトレロウニー。
〈防衛術〉教授は少年が戦慄をおぼえるところを感知していた。二人のあいだには以前から魔法力の共鳴によるつながりがあり、その経路を通じて感知できたのだった。 少年が捜索にでてトロルを見つけたことも感知していた。 〈防衛術〉教授は少年に、『退却したい』、『〈不可視〉のマントを着て逃げたい』という衝動を送ってみようともしたが、 それまでに共鳴を通じてそういった影響力を行使できたことはなく、そのときもやはり失敗した。
〈防衛術〉教授は少年が完全に自分の殺意に身をまかせるのも感知していた。 それに気づくやいなや、城の骨肉を突き破って、戦闘が終わるまえにその場にかけつけようとしたのだった。
〈防衛術〉教授は少年がものの数秒で敵を処理するところも感知していた。
少年が友人の死を目にしたときの絶望の感情も感知していた。
少年がなにかに——おそらくはダンブルドアに——いらだたせられて怒りをぶつけたことも、それから少年がなんらかの強い決意をしたことも感知していた。〈防衛術〉教授でさえ認めるほどのゆるぎない決意だった。 もしかするとこのことで、いままでのくだらない躊躇を捨ててくれたのかもしれない、とすら思えた。
だれにも見られないまま、〈防衛術〉教授のくちびるが薄ら笑いのかたちになった。 この一日、多少の運不運があったとはいえ、全体としてはおどろくほどよい結果になったと言える——
『彼は来た。彼がひきさくのは天の星ぼしそのもの。彼は来た。彼は世界の終わりなり。』
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky