ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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91章「それぞれの役割(その2)」

ほどなくして、また収納庫区画の扉をたたく音があった。

 

「ぼくの精神状態を気にしているなら……」と少年は下をむいたまま言う。 「こないでください。ひとりにしてください。あとで夕食は食べにいきますから。逆効果ですよ。」

 

扉がひらき、外で待っていた人物が入室した。

 

「本気ですか?」と少年が無感動に言った。

 

扉はとじ、カチリと音がした。そこに立っているのはセヴルス・スネイプ。

 

〈薬学〉教授はふだんまとっている傲慢な表情をしていない。総長室にいるときの冷めた顔つきですらない。奇妙な視線でもうひとつの扉の番をしている少年を見おろすその表情は読みとりがたい。

 

「わたしも副総長がなにを考えているのか分からない。 そうやって彼女の死の責任を背負おうとすれば、きみも将来こうなるぞ、という警告の意味でつかわされたのでないとすれば。」

 

少年は一度、口をかたく結んだ。 「そうですか。じゃあ議論の手間をはぶいて、結論をさきどりしましょう。 スネイプ先生の勝ちです。 リリー・ポッターの死に対するあなたの責任はハーマイオニー・グレンジャーの死に対するぼくの責任より重い。ぼくの罪悪感はとてもあなたの罪悪感におよばない。 ぼくはそれ以上話すことはないと言って話を終わらせた。だからあなたはしばらくほっておいたほうがよさそうだと報告する。 それでいいですね?」

 

「ああ。だがもう一点だけ。 ……ミス・グレンジャーの枕の下にメモをおいて、いじめが起きる場所を教え、介入させたのはわたしだ。」

 

少年はなんの反応も見せず、しばらくしてから言った。 「あなたはいじめがきらいだからですか。」

 

「それもあるが。」  〈薬学〉教授に不似合いな悲痛さのこもった声だった。手くびを吹きとばされたくなければそれ以上かきまぜるな、と子どもたちに命令するときのとげとげしい声とは似ても似つかない。 「もっとずっと早く……気づいているべきだったように思う。が、わたしには見えていなかった。わたしには自分のことしか見えていなかった。 わたしをスリザリン寮監に任じたということは……アルバス・ダンブルドアがスリザリン寮をもはや救いようのないものと見なしていたということを意味する。 きっとダンブルドアも一度は救おうとしたにちがいない。ホグウォーツの運営をまかされて、一度は試みたにちがいない。 にもかかわらず、幾人ものスリザリン生が〈闇の王〉の呼びかけに応じた。ダンブルドアはそれで打ちのめされたにちがいない……そしてスリザリン寮は救いようのない集団だと考えるようになった。そうでもなければ、わたしを寮監とし、あのようなふるまいをさせたはずがない。」  〈薬学〉教授はしみだらけの外套のなかで肩をおとした。 「それでもきみとミス・グレンジャーは手を打とうとした。そしてミスター・マルフォイとミス・グリーングラスを味方につけまでした。あの二人なら、新しい模範を見せてくれるかもしれない……。そう思ったわたしが愚かだったのだろうな。 総長はあれがわたしのしわざであったことを知らない。きみも秘密にしてほしい。」

 

「なぜそれをぼくに?」

 

「わたし一人の秘密にしておくには状況が深刻になりすぎた。」  セヴルス・スネイプの口元がゆがんだ。 「壊滅的な謀略をはたらかせようとした人間がときにどういう末路になるか。わたしもスリザリン寮監になって以来、そういう例はさんざん見てきた。 いつかすべてが露見したあかつきには——わたしはすくなくともきみにこうやって打ち明けていた。よければそう証言してくれ。」

 

「いい心がけですね。おかげで謎がひとつとけました。話はそれだけですか?」

 

「きみはもう自分の人生に絶望した、のこされた仕事は復讐だけだ、と宣言するつもりか?」

 

「いいえ。ぼくにはまだ——」と少年は言いかけてやめた。

 

「ならばわたしから助言できることはないに等しい。」

 

少年はうわのそらでうなづいた。 「いじめ退治の件については、ハーマイオニーにかわってお礼を言わせてください。 彼女なら、あなたがしたことは正しかったと言うだろうと思います。 それでは、あの人たちには、『一人にしてくれ』とぼくが言っていたと伝言しておいていただけますか。」

 

〈薬学〉教授は扉のほうへもどる動きをし、少年から顔が見えなくなったとき、そっと小声で、 「こころからお悔やみもうしあげる。」

 

そう言ってセヴルス・スネイプは去った。

 

いなくなったあともそのまま少年はその方向を見つめ、しばらくまえに聞かされた、いまとなっては遠いことばを思いだそうとした。

 

おまえは本に裏切られた。 おまえが知るべきたったひとつのことを、本は教えてくれなかった。 本を読んでも、愛した人をうしなうというのがどういうことかはわからない。 それは自分自身で経験するまでわからない。

 

思いだせるかぎりでは、そういう言いかただったと思う。

 

◆ ◆ ◆

 

閉ざされた扉の奥に遺体が安置されている医務室の一区画。その場所で、数時間が過ぎた。

 

ハリーはかわらず、座ったまま足の上の杖をみつめている。 十一インチのヒイラギの杖には細かな傷や汚れがある。こうやってしげしげと見るまで気づかない傷や汚れだった。 といっても簡単な暗算をしてみれば、六、七カ月でこの程度の損傷しかないのなら標準的な耐用年数が経ってもぼろぼろになることはないだろうから、気にする必要はない。 仮に大広間であの当時、『だれか〈逆転時計(タイムターナー)〉を持っていませんか』と公然と呼びかけたりしていれば、自分自身の〈逆転時計〉が没収されるのではないかという心配があったとは思う。だが、昼食時間がおわってから、だれかに頼んで二時間過去のフリトウィック先生にメッセージを送るように自分をしむけることなら、簡単にできたはずだ。そうやって、トロルが来るまえにフリトウィック先生にハーマイオニーを直接迎えにいってもらうか、先生のレイヴンの〈守護霊〉で通信してもらう余裕は十分あったはずだ。 いや、その場合、手遅れになってしまったという情報が自分のもとに来ていたのだろうか——昼食のあと、過去へのメッセージを送る間もなく、ハーマイオニーが死んだことを知ることになっていたのだろうか。 過去にもどる時間旅行するにあたっては、手遅れになったという情報を知ることにつながりかねない行為を避けるようにしておくのが基本手順だと思ったほうがいいのかもしれない。 杖の先端に小さく薬品で溶けた跡がある。多分、トロルの脳を部分〈転成〉してつくった酸に触れたせいだろうが、杖はごく一部が欠けても問題なく動作するらしい。 だいたい、『魔法の杖』が必要だというのは考えるほどに奇妙だ。 なにか謎めいた方法であらたな呪文が発明されていき、魔法という未知の機械にあらたな儀式が部品として組みこまれていくなら、杖を利用する儀式ばかりが発明されるのも、『ウィンガーディウム・レヴィオーサ』などといった語句ばかりが発明されるのとおなじように、ただみながそうしているというだけのことかもしれない。 魔法はある意味ではほとんど万能のように思えてならない。ほかの人には〈あらゆる問題を完全解決せよ〉という呪文を発明できない概念的制約があるとして、ハリーだけはそれに直面せずにすむ抜け道があったりすれば便利なのだが、こと魔法に関してはその手の近道がどこにもないらしい。 ……ハリーはまた機械式時計に目をやった。まだ時間ではなかった。

 

ハリーはすでに、〈守護霊(パトローナス)の魔法〉を試した。自分の〈守護霊〉をハーマイオニー・グレンジャーにとどけようとはしてみた。〈偽記憶の魔法〉やそのたぐいのどんな魔法的な手段をつかって、事実でないことを信じさせられていないともかぎらない。感覚を封じて夢を見させられていないともかぎらない。 ほんもののハーマイオニーは生きて、どこかにとらわれていないともかぎらない……ハーマイオニーのからだから生命力が抜けていく感覚をハリー自身が感じていたとしても。 あるいは死後の世界が実在していて〈真の守護霊〉ならそこに到達できるということも、ありえないとはいえない。

 

だから試そうとはしたものの、呪文を成功させることができなかった。そのため、なんの証拠も獲得できず、もとの不本意な先験確率分布にもどらざるをえなかった。

 

時間は着々とすぎてはいく。 外から見れば、これは考えにふけった様子で自分の杖を見つめる少年がだいたい二分ごとに時計を確認している光景にすぎない。

 

医務室のその区画へ通じる扉が()()()()()ひらいた。

 

床にすわった少年は顔をあげ、殺気だった冷たい目でそれをにらみつけた。

 

そして一転して愕然とした表情になり、あわてて立ちあがった。

 

「ハリー。」とボタンダウンのYシャツに黒のベストを羽織った男性が話す。 その声はかすれている。 「ハリー、どういうことなんだ? これは。 この学校の総長が——あのふざけたいでたちでぼくの大学の部屋にやってきて、ハーマイオニー・グレンジャーが死んだと言うんだが!」

 

それを追ってすぐにもう一人、女性が入室する。男性とくらべて困惑と驚嘆は小さく、かわりに恐怖を感じているようだ。

 

「パパ。ママ。」と少年はかぼそい声で言う。 「たしかにハーマイオニーは死んだ。 それだけしか聞いてないの?」

 

「そうだよ! だから教えてくれないか?」

 

沈黙。

 

少年はへたりと壁に寄りかかった。 「む……無理だ。これは無理だよ。」

 

「なんだって?」

 

「いまは子どものふりをしようとしても、そ……そんな余裕がない。」

 

「ハリー。ねえ、ハリー——」という女性の声がゆらぐ。

 

「パパなら、自分の両親になにも話すことができない主人公がでてくるファンタジー小説を知っているんじゃない? 主人公が話しても親は納得しない、むしろ見当外れの反応をして邪魔をするだけ。これはもちろん、主人公が親を巻きこまずに自力で問題を解決するようにしむけるために、作者が用意した道具立てにすぎない。 パパも、ママも、そういう……そういう親を演じないでほしい。 そういう納得しない親にならないで。 親だからといって、ぼくが応じられない命令をしようとしないで。 ぼくは実際、むちゃくちゃなファンタジー小説に迷いこんでしまっていて、こんどはハーマイオニーが——と……とにかく、ぼくはいま、そういうことにかかわる余裕がない。」

 

ゆっくりと、手足がなかば動かなくなったかのようにして、黒のベストを着た男性がハリーのまえの床にひざをつき、父子の視線の高さがあうようにした。 「ハリー。なにが起きたのか、すべて話してくれ。さあ。」

 

少年は深呼吸して、ごくりとつばをのんだ。 「まず、ぼ……ぼくを倒した〈闇の王〉がまだ生きているという話があるんだけど。まるで陳腐な本の筋書きみたいだよね? それで、世界最強の魔法使いでもあるこの学校の総長が狂人かもしれなくて、 ついこのあいだハーマイオニーが殺人未遂の罪を着せられて、もちろんハーマイオニーの両親にはそのことは一言も伝えられなかった。 その殺人未遂の被害者にしたてられた子どもの父親はルシウス・マルフォイで、ブリテン魔法界一有力な政治家で、〈闇の王〉陣営の二番手でもあった。 この学校の〈防衛術〉教授職には呪いがかけられていて、だれが来ても一年以上その職をつづけることができない。事件のたびに〈防衛術〉教授は容疑者の一人になると言われている。 今年の〈防衛術〉教授の正体は前回の大戦で〈闇の王〉に立ち向かった謎の魔法使いで、邪悪かもしれないしそうでないかもしれない。 それと〈薬学〉教授は何年もまえからリリー・ポッターに惚れていて、なにかねじれた心理的理由で一連のできごとをしかけた張本人かもしれない。」  少年は苦い表情で口を真一文字にむすんだ。 「このめちゃくちゃな筋書きを簡単にまとめると、そんなところ。」

 

男性はその話を静かに聞き終えると立ちあがり、 少年の肩にそっと手をおいた。 「わかった、もういい。 それだけ聞けばじゅうぶんだ。 ハリー、いますぐこの学校を離れよう。いっしょに行こう。」

 

女性は少年のほうを見ている。表情でなにかを問いかけている。

 

少年は視線をかえして、うなづいた。

 

女性は弱よわしい声で話しだす。 「()()()()()()許さないのよ、マイケル。」

 

「むこうにどんな法的権利があってぼくたちを——」

 

「権利? パパたちは()()()だよ。」  少年はゆがんだ笑みをした。 「ブリテン魔法界の法制度上、マグルにはネズミと同等の地位しかない。 ()()()()()がどうこうという話をマグルがしても、魔法族のだれ一人、聞く耳をもつわけがない。 マグルは魔法族に手がだせない。だから魔法族はマグルを無視できる。 だいじょうぶ、ママ、ぼくは彼らのマグルの取り扱いに同意しているから笑っているんじゃなく、ママたちの子どもの取り扱いに同意していないから笑っているだけだよ。」

 

「それなら……」とマイケル・ヴェレス゠エヴァンズ教授がきっぱりと言う。 「()()()()()政府がどうでるか、見せてやろう。ぼくも議員の一人や三人に顔がきく——」

 

「狂人と判断されて隔離施設に案内されるだろうね。 それも〈魔法省〉の忘消官(オブリヴィエイター)につかまって記憶を消去されなければの話。 マグル相手には日常茶飯事らしい。 ぼくらの政府の高官とはきっと裏ですでにそれなりの取り引きが成立しているんじゃないかな。 一定の重要な人が癌にかかったりしたら治癒してもらえることになっている、とか。」  少年はまたゆがんだ笑みをした。 「そういうことなんだよ、パパ。ママはもう知っている。 二人をここに連れてきたのも、どんな手だしもされる心配がないと分かっているからこそ。」

 

男性の口がひらいたが、声はでなかった。それまでは子を思う親がこういう状況でどう話すかを記した台本のとおりに話していたが、その台本が突然空白になったというかのように。

 

「ハリー。」という女性の声がゆらぐ。

 

少年はそちらを見る。

 

「ハリー。なにかあった? 以前のあなたとは……ちがって見える……」

 

「ペチュニア!」と男性が声をとりもどして言う。 「なんてことを言うんだ! ストレスのせいだよ、そんなのは。」

 

「うん、ママ、それは——」  少年は声をつまらせる。 「ほんとにいきなりぜんぶ話してもいい?」

 

女性はうなづいたが、声にはださなかった。

 

「ぼくは……ほら、学校の精神科校医の人が、ぼくは怒りをうまくコントロールできていないと言っていたよね? それが——」  少年は一度ごくりとつばをのんだ。 「ママにどうやって説明すればいいのかな。 あれは精神科じゃなく魔法が関係していたんだ。 多分、ぼくの両親が死んだ日に起きたなにかが。 ぼくには……自分では謎の暗黒面(ダークサイド)と呼んでいるものがある。……というと冗談みたいに聞こえるだろうけど、そうじゃない。念のため、その……古代のテレパシー能力つきの魔法性の帽子にたずねて、〈闇の王〉の霊がぼくの傷あとのなかに住んでいたりするんじゃないかということもたしかめておいた。その帽子は、そのとき帽子の下にいたのは一人の人間だけだと言っていた。といっても、ぼくは魔法族に魂があるとは思わない。魔法族も脳損傷を受けることがあるから。それでも——」

 

「ハリー、もっとゆっくり!」と男性が言った。

 

「——ただ……ただ、ぼくのなかにあるなにかはそれでも()()()()で、ぼくがやられそうになったときにそれは意志力をくれる。それでぼくは怒っているあいだは、スネイプでもダンブルドアでもウィゼンガモートの全員でも、なにを相手にしても負けずにいることができる。この暗黒面が怖がるものといえばディメンターだけ。 でもぼくはちゃんと、暗黒面をつかうことには代償があるかもしれないと気づいていたから、それらしいことが起きないか注意していた。 魔法力に変化はなかった。基本の属性(アライメント)が変化することもなかった。ぼく自身を友だちから遠ざけようとしたりすることもなかった。だからぼくは必要になるといつも暗黒面をつかっていて、手遅れになるまでその代償に気づかなかった——」  少年の声はほとんどささやき声になった。 「今日になるまで気づかなかった……ぼくは暗黒面に頼るたび……子ども時代をうばわれていた。 ぼくはハーマイオニーを死なせたやつを殺した。 暗黒面がやったんじゃなく、ぼくがやった。 ごめんね、ママ、パパ。」

 

しばらくだれもしゃべらず、仮面の割れる音だけがした。

 

「ハリー。」  男性がまたひざをついて言う。 「もう一度、最初から、もっとゆっくり説明してもらおうか。」

 

少年は話した。

 

少年の両親はそれを聞いた。

 

時間がすぎ、やがて父親が立ちあがった。

 

少年はこのさきの苦しい展開を予期したような表情で、父親を見あげた。

 

「ハリー。ぼくはペチュニアと二人で、すぐにでもきみをここから連れだせるように準備する——」

 

「やめて。まじめに言って、〈魔法省〉はパパが手出しできる相手じゃない。 〈魔法省〉は税務署や学部長みたいなもので、自分の権威をすこしでも揺るがそうとするものに容赦しない。 ブリテン魔法界では、マグルは政府が許した範囲のものしか覚えていることができない。魔法の存在やハリーという名前の息子がいたことを覚えていられるのは特権であって、権利じゃない。 むこうがそうしたら、ぼくは暴走して〈魔法省〉を巨大な爆発跡(クレーター)にしてしまうかもしれない。 ママならそういうことがよく分かっているよね。だからパパがばかなことをするまえにかならず止めてほしい。」

 

「あのな——」と言って男はあたまの上に手をやる。 「いま言うと逆効果かもしれないが……それはほんとうに魔法的な暗黒面(ダークサイド)なのか? こういう年ごろの正常な男の子に起きることなんじゃないか?」

 

「正常……」 少年は丁寧にさとすような口ぶりで言う。 「正常というと、どのあたりが? たしかめてはいないけれど、『チャイルド・クラフト:親のための子どもの医学・心理ガイド』にもそんなことについての説明がなかったことは、かなり自信をもって言える。 ぼくの暗黒面は感情的な変化だけじゃない。そのときの()()()()()()()()()()()()()。 どうやってそんなことが起きるかはともかく。 だれも()()()()()()()なんてできるわけがない。」

 

男はまたあたまの上に手をやった。 「いや……ちょうどそういう現象がよく知られていたりするね。子どもはこの生物学的なプロセスを通過するとき、怒りやすくなったり陰鬱になったりする。ついでに知性と身長が大幅にのびる時期でもある——」

 

少年はまた壁に寄りかかった。 「そうじゃないよ。これは思春期じゃない。 確認してみたけれど、まだぼくの脳は女の子に触りたくもないと思っている。 でも、そういうことにしたいなら、それでもいい。 信じてもらえないほうがまだましかもしれない。それなら——」  少年は声をつまらせた。 「それなら無理してうそをつかなくていいから。」

 

「思春期といってもいろいろだからな。 ハリーが女の子を気にしだすのは、もうすこしあとなのかもしれない。 まあ、実はもう気にしていたりするのかも——」 そう言いかけて男ははっとする。

 

「ぼくはハーマイオニーのことをそういう意味で好きだとは思わない。」  少年は小声で言う。 「……なぜかみんなそうだと決めつけるみたいだけど。 本人に失礼だよ。そういう意味以外でしか好かれるはずがないと決めつけるのは。」

 

男は分かりやすく息をのんだ。 「とにかく、身の安全を第一にしていてくれ。そのあいだ、ぼくらがきみを連れだす準備をする。いいな? 自分が暗黒面に落ちたとかなんとかいうことは、考えちゃいけない。 きみはまた……その、ぼくが昔よくつかった表現で言えば、エンダー・ウィッギン的経験をしたんだろうとは思うが——」

 

「エンダーのところはとっくに過ぎていて、もうヴァレンタインをバガーに殺されたエンダーの段階じゃないかと思う。」

 

「やめなさい、そんなことばづかいは!」と女が言い、すぐにあわてて手を口にあてた。

 

少年はうんざりしたように言う。 「そういう種類の『バガー』じゃないよ。 ただ、そういう名前の昆虫型エイリアンが——やめとこう。」〔訳注:「バガー (bugger)」は卑語でもある〕

 

「ハリー、だからそういうことは考えちゃいけないと言っているんだが。」とヴェレス゠エヴァンズ教授がきっぱりという。 「自分が邪悪になりつつあるとかいうことは考えるな。 だれにも危害はくわえないこと。自分が危害を受けそうなこともしないこと。黒魔術的なものにも、いっさい手をださないこと。そのあいだにぼくらがきみをこの状況から脱け出させる方法を考える。 いいな?」

 

少年は目をとじた。 「これが漫画だったら、それもいい考えだと思うんだけどね。」

 

「まだそんなことを——」

 

「警察にも兵士にもそんなことはできない。世界最強の魔法使いがやろうとしても、できなかった。 バットマンの真似をするつもりで、バットマンとおなじように罪のない通行人全員を守ることができていないなら、通行人がかわいそうだ。 そしてぼくにもそんなことができないということは、今日証明された。」

 

マイケル・ヴェレス゠エヴァンズ教授のひたいに汗が粒となって光る。 「待てよ、ハリー。 どういう本を読んだのか知らないが、きみがだれかを守る必要はない! すこしでも危険なことに身をさらす必要もない! あってたまるか! とにかくこの魔窟じみた学校で起きている()()()()()()()首をつっこまずにいてくれ! ぼくらが一刻もはやくきみを連れだす方法をみつけておくから!」

 

少年は深く見とおすような目で父親と母親を見た。 それから自分の腕時計にまた目をやった。

 

「いいこと言うね、パパ。」

 

少年は出口の扉へまっすぐ歩いていき、思いきり扉をあけた。

 

◆ ◆ ◆

 

扉がばたんとひらき、ミネルヴァはその場で飛びあがった。考える間もないうちに、ハリー・ポッターがそこから出てきて、ミネルヴァをにらんだ。

 

「ぼくの両親を()()()連れこんだんですね。」と〈死ななかった男の子〉が言う。 「この()()()()()()()。 〈例の男〉、あるいはそれ以外の()()()()ぼくの友だちを標的にしてうろついているこの場所に。 なにを考えてこんなことをしたんですか?」

 

ハーマイオニーの遺体がおかれた収納庫の扉のまえを動こうとしないハリーのことを考えていた。という答えもあったが、ミネルヴァは答えない。

 

「ほかにこのことを知っているのはだれです? あなたといっしょにあの二人がいるのを見た人は?」

 

「お二人をここへ連れてきたのは総長ですが——」

 

「いますぐここを離れさせてもらいましょう。だれかに気づかれるまえに。とくに〈例の男〉に気づかれてはなりませんが、クィレル先生とスネイプ先生もそうです。 〈守護霊〉をつかって総長にそう連絡してください。すぐに返事するように、とも。 ぼくの両親の名前は言わずに……いや人間のことであるとも言わずにおいてください。だれかが盗聴しているかもしれませんから。」

 

「そのとおり。」とエヴァンズ゠ヴェレス教授が厳しい表情で同調した。一歩奥のペチュニアとともに、少年のすぐうしろに立っている。 「息子との話はつづきは自宅に帰ってからにします。」

 

「少々お待ちください。」とミネルヴァは反射的に丁重な表現をした。 一度目の〈守護霊〉は失敗した。ある種の状況下ではこうなるのがこの〈魔法〉のやっかいなところ。こういう状況でつかうのもはじめてではないが、以前ほどすんなりとできなくなっているようでもある——

 

ミネルヴァはそういう風に考えるのをやめ、集中した。

 

伝言を送ることができると、向きをかえてヴェレス゠エヴァンズ教授とまた正対する。 「申し訳ございませんが、息子さんに当校を離れる許可はだせないと——」

 

やっとアルバスが到着したとき、会話はどなりあいになっていた。ヴェレス゠エヴァンズ教授はもはや体面をかえりみていなかった。 すくなくとも両者のうち一方にはどなる声があったが、 ミネルヴァはうわのそらだった。 正直に言えば、確信をもって話せる気がしなかった。

 

ヴェレス゠エヴァンズ教授が議論する相手をかえようとして総長のほうを向くと、それまで沈黙をたもっていたハリー・ポッターが話しだした。 「パパ、ほかの場所ならともかく、ここでその人と話すのはやめようか。 ママ、パパが〈魔法省〉に目をつけられそうなことをしないように注意しておいて。」

 

マイケル・ヴェレス=エヴァンズの表情がゆがみ、 うしろを向いてハリー・ポッターと対面する。 そして声をだしたとき、目は湿り、声はかすれていた。 「ハリー——なにをするつもりだ?」

 

「ぼくがなにをするつもりかはよく分かっているはずだよ。 ぼくにくれた漫画(コミック)をずっと昔から読んでいたんだから。 ぼくはバカげた経験をいくつもして、多少成長して、その結果、いま家族を守ろうとしている。 いや、もっと簡単に言えば、これはパパ(あなた)がやろうとしたことと同じでもあるね。 ぼくは自分の家族を一刻もはやくホグウォーツの外に送ろうとしている。 総長、この二人をここから連れだしてください。ここにいることを〈例の男〉に知られて殺すべきだと判断されるまえに。」

 

マイケル・ヴェレス゠エヴァンズがハリーに飛びかかろうとして動きだしたが、途中で一切の動きが空中で静止した。

 

「申し訳ない。」と総長が静かに言う。 「近いうちにまた話はさせていただく。 ミネルヴァ、おぬしが呼んだとき、わしはもう一組の人たちのところに行っていた。彼らはいま、おぬしの居室で待っている。」

 

総長はすべるように前にすすんで、凍りついたように動かない男と女のあいだに立った。そしてぱっと炎が燃えた。

 

静止していた動きが再開した。

 

ミネルヴァはハリーのほうを見た。

 

なにも言えなかった。

 

「考えましたね、あの二人をここに連れてくるとは。 これでぼくたち親子の関係に修復できない傷ができたかもしれません。 ぼくは夕食まで一人にしてくれとしか言っていないのに、たったそれだけのことすら許されないんですかね。といっても……」  腕時計に目をやる。 「もうその時間ですが。 これからハーマイオニーに別れのことばを言ってきます。これは二分以内に終わらせますし、終わればここを出て食事をとりにいきます。もともとそのつもりでしたから。 その二分のあいだくらいは邪魔しないでくださいよ。でなければぼくはキレてだれかを殺そうとするかもしれません。いいですね。」

 

少年はこちらに背をむけて、ハーマイオニー・グレンジャーの遺体がおかれた小部屋に通じる奥の扉をあけ、ミネルヴァがなにかかけることばを思いつくまえに、そのなかにはいっていった。 あいた扉の隙間から一瞬だけ、どんな子どもも見るべきでない光景が見え——

 

扉はばたりと閉じられた。

 

ミネルヴァは無意識のうちに、そちらへ歩みをすすめた。

 

そして中間地点で立ちどまった。

 

ミネルヴァの精神はまだ思考の速度が遅く、傷ついていた。そしてハリー・ポッターに『厳格な規律主義者のイメージ』と呼ばれた部分の自分は、ハリー・ポッターが子どもにあるまじきふるまいをしたと言おうとして、ちからなく声をだそうとしていた。 そのほかの部分の自分は、たとえそれがハリー・ポッターであれ、子どもを血まみれの親友の死体がおかれた部屋で一人きりにさせるべきではないと考えていた。 それでも、扉をあけるという行動も、どんなやりかたで権威を示すことも、得策ではなさそうに思えた。 いまここには、とるべき行動もかけるべきことばもない。仮にすすむべき道があったとして、ミネルヴァには見えていない。

 

長い長い一分半がすぎた。

 

◆ ◆ ◆

 

扉がまたひらいたとき、ハリーは変化したように見えた。一分半で何人ぶんもの人生をすごしたかのように。

 

「この部屋を封印してください。」とハリーが静かに言う。 「それが終わったら行きましょう。」

 

ミネルヴァは収納庫の扉のまえへ歩いていった。 なかに目をやることをとめることができなかった。乾いた血と下半身にかぶせた敷布と、青白く人形のようになった上半身とが見え、最後にちらりとだけ、ハーマイオニー・グレンジャーの、閉じた目が見えた。 自分のこころの奥でまた、泣く声が聞こえはじめた。

 

ミネルヴァは扉をとじた。

 

指が杖のうえを動き、口が自動的にことばを発して、結界と魔法がかけられ、部屋は外にむけて封鎖された。

 

「マクゴナガル先生。」とハリーが奇妙な声で、せりふをそらんじるように話す。 「あの岩は回収しましたか? ぼくが総長にもらった岩のことです。 あれは今回役に立ったので、また宝石に〈転成〉しておいたほうがいいのではと。」

 

無意識に目がハリーの左手の小指にむかい、くだんの宝石があるべき位置にそれがないことを確認する。 「総長にそのように伝えておきます。」

 

「こういうのは一般的な戦術ですか?」  ハリーは奇妙な声で話しつづける。 「大きなものを小さなものに〈転成〉して持ち歩くことで武器にするというのは。 あるいは、〈転成術〉の練習方法として一般的ですか?」

 

ミネルヴァはうわのそらのまま、くびをふった。

 

「そうですか。じゃ、行きましょうか。」

 

「わたしは——」  一度声がつまる。 「これからわたしは別の仕事をしなければなりません。ミスター・ポッター、あなた一人で行けますか? 寄り道をせず大広間へ行って、なにか食べると約束してくれますか?」

 

少年はそう約束し(例外的で予測不可能なことが起きればそのかぎりではないという、彼がつけた条件にミネルヴァは反対しなかった)、部屋を出ていった。

 

つぎの仕事も……これに劣らず困難であることはまちがいなく、これ以上に困難でさえあるかもしれない。

 

◆ ◆ ◆

 

足ばやに居室へと向かうミネルヴァ。この場合ゆっくり歩くのは非礼にあたる。

 

マクゴナガル教授が居室のドアをあける。

 

「マダム・グレンジャー、ミスター・グレンジャー。このたびは、こころからお悔やみを——」

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 

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