もうほかにすべきことはない。
もう計画すべきことはない。
もう考えるべきことはない。
ぽっかりとあいたその空間に、あらたに自分の最悪の記憶となった記憶がやってくる——
〈自分の親友が死んだのに死ななかった男の子〉は大広間への、靴音のひびく長い道のりをとぼとぼと歩く。 思考する気力がついえると、ハーマイオニーの幻影が自分のとなりに歩いている様子が勝手に想像される。同時に『もう二度とそういう経験はできない』という言語化されない概念も生まれ、別の部分の自分は大声でそれを打ち消し、彼女を生きかえらせるという決意を通そうとする。ただし、その部分の自分は疲れていて、相手がわは疲れを知らないらしい。 もうひとつの部分の自分は、自分がマクゴナガル先生とパパとママに言ったことを再検討する必要がある、と言う。あれは両親をすこしでもはやくこの学校から離れさせたいがために言ったことであり、そのときの自分は精神的エネルギーが足りなくなっていたというのに。 あの傷ついた意志力しかない状態で、もっとうまくやれたとでも言うのか。 自分と両親とのあいだにはまだなにがしかの関係が残っているだろうかと自問するが、答えはない。
ハリーは緑色のえりの黒ローブを着た上級生男子の待つ交差点に到着した。相手は無言で教科書を読んでいる。そこは癒師の部屋から大広間へ行くだれかを途中でつかまえようとする人ならまずえらぶであろう道だった。
ハリーは当然ながら〈不可視のマント〉を着用している。医務室を出てからすぐにそうしていた。このマントを着ていれば、ほぼどんな種類の魔法的な検知手段も通用しない。 自分を見つけて殺そうとしているだれかがいるとすれば、その助けになるようなことをする意味はない。 なにがあってこのスリザリン生がここにいるのかは知らないが、知る必要もないことだと思い、ハリーはそのまま通りすぎようとした。そのとき相手の顔が見えて、それがだれだか分かった。
そしてその意味が徐々に分かってくる。 考えてみれば当然のことだが、
「ぼくを待っていたんだね。」とハリーは声にだして言った。マントはつけたまま。
スリザリン生は飛びあがり、背後の壁にあたまを打ちつけた。その手から五年次の
「あなたは——」
「そう、透明になっている。 なにか言いたいことがあれば言って。」
レサス・レストレンジはあわてて立ちあがり、気をつけの姿勢をとり、話しだした。 「ご主人さま、わたしはあれでよかったのでしょうか—— あの場でほかの人たちを差しおいてわたしが手をあげれば、いったいこの二人のあいだになにがと、怪しまれる——そうなることをお望みではないだろうと——ご主人さまにそのつもりがあれば、わたしを名指しするはずだからと——」
自分のバカさ加減のために親友を死なせる方法がこんなにいくつもあることにはおどろかされる。
「わ——」 レサスは一度言いよどみ、小声でつづけた。 「わたしの考えちがいだったんですね?」
「きみは当時の状況下では適切な行動をした。 愚かだったのはぼくのほうだ。」
「すみませんでした、ご主人さま。」
「仮にきみがぼくについてきていたとして、トロルを殺すことができたと思うかい?」 問うべき部分はそこではない。問うべきなのはハリー自身がレサスで十分だと判断し、出発を六十秒はやめることができていたかどうかだ。それでも……
「わ……わかりません……。 スリザリン寮の決闘術の練習にはあまり参加させてもらえず、〈死の呪い〉の動作もまだ知らないので——ご主人さまによりよくお仕えできるよう、練習しておくべきでしょうか?」
「まえにも言ったように、ぼくはきみのご主人さまじゃない。」
「はい、ご主人さま。」
「それでも……これは命令じゃなくただの意見だけれど、だれでも自衛の方法は身につけておくべきだと思う。とくにきみはそうだ。 一般論として〈防衛術〉教授は頼めば助けになってくれると思う。」
レサス・レストレンジはあたまを下げてから言う。 「わかりました。できるかぎりご命令のとおりにします。」
それは誤解だと言いたいところだったが、実はすこしも誤解ではなかった。
レサスは去った。
ハリーは壁を見つめた。
ハリーは半日かけて自分がどうバカであったかを考え、自分のバカさの種類をごまかしなく数えつくしたつもりでいた。
それもまた自信過剰であったらしい。
ぼくらがどこでまちがえたか、分かっているか?——とスリザリン面の自分が言った。
分かっている。
きみが感じている倫理的葛藤は筋がとおらない。 きみはレサスをだましていない。 きみはまさにレサスが言ったような考えかたをしていた。 レサスがなぜ手を貸そうとするのかの言いわけなど、用意するまでもなかった。いじめから助けてあげたことでの負債を返済してもらっているだけだと言えばすんだ。いじめの件では目撃者が六人いたんだから。 きみの手元にはとても貴重な資源があったのに、きみがそのことを忘れたせいで、ハーマイオニーが死んだ。そして忘れた理由というのは……なんだ?
レサス・レストレンジを子分にするというのは〈闇の王〉っぽいと思ったから……かな?——とハッフルパフが小声で思考する。
ハリーのスリザリン面は言語で返事するかわりに、軽蔑の思念を放射し、ハーマイオニーの遺骸の映像を見せた。
やめてくれ!——とハリーはこころのなかで叫んだ。
次回は——とスリザリンが冷ややかに言う。どうするのが効率的で効果的かを気にする時間を多くして、〈闇の王〉っぽいかどうかを気にする時間を少なくすることを提案したい。
異議なし。そうする。
いや、できないね。 きみは次回もまた、くだらない葛藤を合理化する言いわけを思いつく。
ハリーは自分が変になりつつあるのではないかと心配になった。 あたまのなかの声との対話はいままでにもあったが、こうなることはあまりない。
〈死ななかった男の子〉、
痛い
ハリー・ヴェレスは一人、重い足どりで
苦しい
ハリーは音のない廊下を歩きつづけた。
「ミスター・ポッターはどうなりましたか。」とクィレル教授が問いつめてきた。 見ると、その立ちふるまいにはどこか緊張が感じられた。
「ミスター・ポッターはミス・グレンジャーの遺体の見張りをするのをやめました。」 ミネルヴァは自分が感じさせられている冷たさをいくらか声にこめた。 〈防衛術〉教授はあきらかにミネルヴァほど打ちひしがれてはいない。ハーマイオニー・グレンジャーについてまだ一言も言っていないくらいだ。 そんな彼から問いつめられるというのは—— 「いまはもう夕食にいっているはずです。」
「
「いえ、とくには。」 あと三十秒ほどつつけば退室を命じようと思った。
クィレル教授は狭い室内で行ったり来たりしはじめた。 「ミス・グレンジャーは彼が真の意味で気にかける唯一の人物だった—— 彼女がいなくなったいま——彼の無謀さには、なんの歯止めもない。 そのことがやっと分かった。 だれがかわりになる? ミスター・ロングボトムか? いや、ミスター・ポッターは彼を同輩と見なしていない。 ではフリトウィックか? ゴブリンの血がさわいで復讐をけしかけるのが関の山だ。 ミスター・マルフォイが籍をもどしたとすれば? 彼が、なんのために? ではスネイプは? 歩く災難だ。 ダンブルドアは? 論外だな。 事態はすでに破局へむかっている。それを曲げて、自然にまかせていては進まない方向に事態を展開させなければならない。 ミスター・ポッターが聞く耳をもつ者がいるとすれば? 通常話すことのない相手からえらぶとすれば? セドリック・ディゴリーは教師役をつとめたことがあるが、彼はどんな助言をするか。未知数。 ミスター・ポッターはリーマス・ルーピンと長く話しこんでいた。わたしはルーピンにあまり目をとめていなかった。 彼なら、あの少年の進路を変えるためにかけるべきことば、とるべき行動、支払うべき犠牲を知っているだろうか。」 そう言ってクィレル教授は急にふりむいた。 「〈不死鳥の騎士団〉時代に、リーマス・ルーピンが死を悼む者をなぐさめたり、自棄を起こそうとする者をとめたり、といったことはありましたか。」
「悪くない考えかただとは思います。 わたしの記憶では、ホグウォーツ時代、ミスター・ルーピンがジェイムズ・ポッターの無茶をたしなめることはよくありました。」
「ジェイムズ・ポッター。」 クィレル教授はするどい目をする。 「彼はジェイムズ・ポッターと似ているところが少ない。 あなたはこれが実際有効な策だと思うか。 いや、そう問うべきではなかった。単一の方策にかぎる理由はないのだから。 この策でまちがいなく
「申し訳ありませんが」 ミネルヴァは険のある声になるのを我慢しようともしない。 「わたしはもう今日は限界ですので。話はこれまでとします。」
「あなた自身……」と言って身をひるがえすクィレル教授。ミネルヴァはいつのまにかその冷たい青色の目をまっすぐのぞきこんでいた。 「あなた自身が、ミス・グレンジャーなきいま、彼に愚かなことをさせないための歯止めになりえるはずだ。 もうそのために手は尽くしたと言うのか。いいや、尽くしたはずがない。」
これは聞き捨てならない。 「それ以外に言うべきことがないなら、退室なさい。」
「あなたがたはもうわたしの正体を見やぶっていましたか?」 問いの内容とは裏腹に穏やかな言いかただった。
「ええ。それより——」
そのとき、純粋な魔法力のかたまりが雷光のように強引に部屋のなかに押し入り、雷鳴のようにミネルヴァの耳のなかで鳴りひびき、そのほかの感覚を麻痺させた。机の上の書類が、風の魔法ではなく謎のエネルギーそのものの圧によって、吹き飛ばされた。
魔法力はやがておさまり、あとにのこされたハーマイオニー・グレンジャーの死亡証明書がぱらりと床に落ちていった。
「わたしはヴォルデモートと戦ったデイヴィッド・モンローだ。」 男はかわらず穏やかな声で言う。 「よく聞くがいい。 彼をあのままの精神状態でいさせてはらならない。 彼は
「わたしはグリフィンドールです。恐怖によって動かされるほど落ちぶれてはいません。 あなたこそ失礼な態度をあらためなさい!」
「わたしは恐怖は有効な動機づけの手段だと思う。わたし自身がいま、恐怖に動かされている。 あれだけのことをしでかした〈例の男〉ですら、一定の限度は守っていた。 ダンブルドアや〈名前を言ってはいけない例の男〉にならぶほど博識な魔法使いの一人として専門的意見を言わせてもらえば、彼はいずれいくつもの国を墓碑に変えるような儀式魔術をうみだすかもしれない。 これは杞憂ではないよ。すでにわたしは深く憂慮すべき発言を彼の口から聞いている。」
「気はたしかですか? 本気でミスター・ポッターが——いえ、ありえません。どう考えても、ミスター・ポッターにそんなことができるはずが——」
一部がガラスとなった鉄の球の映像が、音もなくミネルヴァのこころをよぎった。
「——ミスター・ポッターがそんなことを
「彼本人が意識的にそうする必要はない。 みずからの破滅をまねこうと決心する魔法使いはそうはいない。 あなたはミスター・ポッターに悪意はないと思うのかもしれないが、 彼は一度目標を見さだめると無謀になる種類の人物だとは思わないか? くりかえすが、わたしは具体的な根拠があって、深く憂慮すべきだと言っているのだ!」
「……総長にはもうこのことを?」
「話しても意味がないどころか、逆効果だ。 ダンブルドアの声はあの少年にとどかない。 本人もそのことを自覚しているとすれば、事態を悪化させないようにはしてくれるくらいが精々だ。 わたしはこれに必要なこころのありようを有していない。 あなたならそれが——しかしあなたはここに至っても他人の助けを期待しているのだな。」 〈防衛術〉教授はミネルヴァに背をむけ、ドアへ歩いていく。 「セヴルス・スネイプに話してみよう。 あの男は歩く災難であるにせよ、事情を知っている。あの少年の感情をよほどよく理解しているかもしれない。 あなたについては……一生の終わりに、ブリテンという国が——いや、あなたはもともとこの国の出身ではなかったのでしたな? では一生の終わりに、暗黒がホグウォーツ城をむしばみ、生徒たちが自分の道づれになって死んでいく横でこの日を思いだして、もっと自分にできることはあったと気づくときのことを想像してみていただきたい。」
原作品の著者:J. K. Rowling
ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky