ハリー・ポッターと合理主義の方法   作:ポット@翻訳

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95章「それぞれの役割(その6)」

第三の会合(一九九二年四月十七日、午前十時三十一分)

 

春とはいえ、昼まえの空気にはまだ冬の朝のような清涼感がなくなっていない。 森の下生えのなかに咲いたスイセンの黄色い花びらと内がわの黄金色の部分とが、枯れた灰色の茎からぶらさがっている。四月の急におりる霜により、花はこうやって痛み、枯れることがある。 〈禁断の森〉のなかに行けば、もっとめずらしい生物が見つかるという。ケンタウロスやユニコーンはもとより、人狼がいるという話さえある。 ただし、実世界の人狼についての本を読むかぎりでは、どう考えてもありそうにない。

 

わざわざ危険をおかす意味もないので、ハリーは〈禁断の森〉の周縁に近づきもしていない。 透明になったまま、禁断でないほうの森の比較的めずらしくない動植物のあいだを歩いていく。念のため、杖は手にはもち、ホウキはすぐに乗れるよう、背なかにくくりつけてある。 そうしていて、不思議なほどに恐怖感がない。 つねに周囲を警戒し闘争/逃走の態勢にあることが、重荷だとも非日常的だとも感じられない。

 

禁断でない森の周縁部を歩くあいだ、発見されにくいよう意識して、踏みならされていない道をたどり、同時にホグウォーツ城の窓を見うしなわないようにする。 昼食の時間になれば、事前にかけておいた機械式腕時計の目ざましが知らせてくれる。透明になっていると、見て確認することもできないのである。 となると、この〈マント〉を着ている状態で眼鏡がどう機能しているのかが気になってくる。 〈排中律〉的な言いかたをするなら、光子はハリーの網膜中のロドプシンに吸収され神経発火に変換されるか、ハリーの身体をそのまま通過するかのどちらかであり、両方ではありえない。 不可視のマントを着ると、自分が他者から見えなくなる。そのいっぽうで自分が外部を見ることはさまたげられない。そうなっているのはどうも、根本的な部分で、使い手が不可視化をそういうものに——()()()()()()からではなく、そういうものだと()()()()()()()()()()()からだというように思えてくる。

 

そうなると、だれかに〈錯乱(コンファンド)〉か〈開心(レジリメンス)〉をかけてやり、その人に一年生水準の簡単な呪文のなかに『ナンデモカイケツ』というのが当然あってしかるべきだと思いこませたうえでそれを発明させる、という手を試した例があってもいいのではないかと思ってしまう。

 

あるいは、マグル生まれが見つかるようになっていない国で有望なマグル生まれを探して、その人に嘘八百を教えて、背景設定とそれに対応する証拠とをでっちあげてやる、という手もあるかもしれない。そうやって最初から、魔法でできること、できないことについて、ほかの人たちとは異なる理解をさせるのだ。 といっても、いろいろな呪文をまなんでからでないと、独自の呪文を発明することはできないようだが……。

 

いや、どうだろう。勝手に狂っただれかが自分は神になると信じこみ、なれなかったという例もあってよさそうなものだ。 とはいえ、そんな狂人でさえ、神格化の呪文には大がかりで劇的な儀式があるべきだと思うはずで、繊細な杖のうごかしかたと『カミニナレ』という文句だけですむとは思わないはずだ。

 

そう簡単なことではないだろうということは分かっている。 では、()()そう思うのか。 ハリーの脳はどんなパターンを学習して、そう思ったのか。 事前に予想できるような理由があって、そう判断したのか。

 

この問いについて考えはじめたとき、ハリーのこころのなかにごく小さく不穏な影が浮かんだ。 名状しがたい不安が徐々に形をもち、大きくなっていく——

 

クィレル先生?

 

「ミスター・ポッター。」と、背後からささやく声があった。

 

ハリーはぱっと振りむき、マントの下の〈逆転時計〉に手がのびる。 いつでもすぐに逃げられるよう準備しておくという原則が、やはり当然のことのように感じられる。

 

クィレル先生がからっぽの両手をまえにだし、ホグウォーツ城のほうから森の外縁部にむかって、ゆっくりと歩いてくる。

 

「ミスター・ポッター。そこにいるのは分かっているぞ。これが当てずっぽうで言っているのでないことは、きみにも分かっているはずだ。 話がある。」

 

ハリーはまだ返事をしない。 クィレル先生はまだ本題を明かしていないし、太陽に照らされた森のまわりを散歩していたせいでハリーは無言のままでいたい気分になっていた。

 

クィレル先生は小さく左に一歩、前に一歩、右に一歩と動いた。 そして一度計算するようにくびをかしげてから、ほとんどまっすぐに歩き、ハリーのいる場所の数歩手まえで止まった。わきおこる破滅の感覚は耐えがたいほどになっていた。

 

「きみの決心はゆるがないか? 昨日言っていたとおりの道をたどる気か?」

 

ハリーはやはり返事をしない。

 

クィレル先生はためいきをついた。 「わたしはきみのためにこれまで手を尽くしてきた。 わたしのことをどう思っていようが、きみもそれだけは否定できまい。 その借りをいまいくらか返してもらいたい。だから返事をしてくれ、ミスター・ポッター。」

 

いますぐにはそういう気分になれない——ああ、そうか。

 

◆ ◆ ◆

 

ハリーは〈逆転時計〉を一度まわし、正確な時刻を記録し、正確な位置を記憶し、もう一時間散歩してから城内にはいり、(自分になにかあったときにそなえて)マクゴナガル先生に自分がいまホグウォーツ城の外の森のなかで〈防衛術〉教授と話しているということを告げ、もう一時間散歩した。出発してから二時間が経過したとき、ちょうど一時間後の時点にもとの位置にもどり、もう一度〈逆転時計〉をまわした——

 

◆ ◆ ◆

 

「いまのはなんだ?」と言ってクィレル先生が目を白黒させる。 「まさか——」

 

「なんでもありません。」と言いつつ、不可視のマントのフードはおろしたまま、手は〈逆転時計〉にのせたままでいるハリー。 「決心はゆらいでいません。 正直に言えば、秘密にしておくべきだったという気がしてきました。」

 

クィレル先生は軽く首肯した。 「立派なこころがけだ。 きみにその決心を曲げさせるようなことがあるとすれば、それはなんだろうか?」

 

「あのですね、もし自分に別の判断をさせるような材料があると知っているなら、そもそも——」

 

「たしかにそうだな、きみやわたしのような人間なら。 だが、どんな知らせが待ちうけているかを知りながら、その知らせに接するときを待たねばならないということも案外あってしまうものだ。」  クィレル先生はそこでくびをふる。 「きみの流儀で言うなら…… ある事実をわたしは知っていてきみは知らない。これからその事実をきみに認めてもらいたいと思う。」

 

ハリーは両眉をあげた。が、すぐにそれがクィレル先生に見えていないことに気づいた。 「たしかにぼくの流儀ですね。つづきをどうぞ。」

 

「きみがなした決意はきみが思うよりはるかに危険だ。」

 

意外な主張ではあるが、ハリーとしてはさほど考えずに応答できる。 「『危険』を定義してください。自分がなにを知っていると思っているか、なぜ知っていると思っているかを言ってください。」

 

「ある人に危険の存在を告げると、告げたこと自体が原因でその人が危険に直行してしまう場合がある。 わたしは今回、その状況を起こすつもりはない。 きみがなにをしてはいけないか。わたしがなにを恐れているか。わたしがそれをここではっきり言うと思うか?」  くびを横にふる。 「きみも魔法族生まれだったなら、実力者から気をつけろと言われただけでも真剣に受けとめるべきだということが理解できるだろうに。」

 

そう言われて不快ではないと言えばうそになるが、ハリーもばかではないので、ただこう応じた。 「なにか言える範囲のことはありませんか?」

 

クィレル先生は慎重に草のうえに腰をおろし、杖を手にして、ある(かま)えをとった。それがなんの構えであるかが分かって、ハリーは息をのんだ。

 

「きみにこれをしてあげられるのは今回が最後だ。」  クィレル先生は小声でそう言ってから、 奇妙な言語を発しはじめた。ハリーの知っているどんな言語でもないそれは、人間離れした抑揚でとなえられた。ハリーの精神に入ってはすぐに出ていき、いくらつかまえようとしても記憶をすりぬけていくようだった。

 

前回よりも時間をかけて、その呪文は効果を発揮していった。 すこしも視界のゆがまないサングラスをかけたかのように光が退潮していき、木々は黒くなり、枝と葉は色あせていく。 青い(そら)の半球が後退し、脳の錯覚で有限の距離に見えている地平線が奥へさがり、灰色がさらに暗い灰色へ変化する。 雲はつぎつぎに透けて透明になり、やがてふっと薄れ、かわって闇が(おもて)にでてくる。

 

森は徐々に色をうしない、暗黒のなかへとりこまれていく。

 

目が暗さに順応すると、あの天河がまた見えはじめた。点以外のものとして人間の目に映る最大の物体、〈天の川銀河〉。

 

そして深遠から投げかけられる、明るくも遠い星ぼしの刺すような光。

 

クィレル先生は一度深く息をつき、 また杖を持ちあげ(その動作は太陽も月もなく星の光しかないこの場所では見えにくいが)、自分の頭部をたたいた。卵が割れるときのような音がした。

 

〈防衛術〉教授のすがたが徐々に消え、ハリーとおなじように透明になった。

 

だれも乗っていない小さな円形の草地の切れはしが、ごくわずかな光しかない空間に浮かんでいる。

 

二人はしばらく話をしなかった。 ハリーは自分のからだをふくめ一切の邪魔がない状態で星を見ることができて幸せだった。 クィレル先生がなんのためにハリーをこの場所に招いたにせよ、やがて話ははじまるだろうと思った。

 

やがて声が聞こえた。

 

「ここには戦争というものがない。」  虚空からささやき声がわきおこる。 「紛争も戦闘も、駆け引きも裏切りも、死も生もない。 それらはすべて人間の愚かしさのたまもの。 天空の星ぼしはそのような愚かしさを超越している。 ここには永遠の平和と静寂がある。 そういう風に、わたしは思っていた。」

 

ハリーは声のする方向に顔をむけたが、星しか見えなかった。

 

「思っていた、というと?」  声はそこでとぎれたままだったので、ハリーはそう聞きかえした。

 

「何者も人間の愚かしさを越えることはない。 何者も十分な知性をともなう愚行の破壊力を上回ることはない。星ぼしでさえも。 わたしは大変な苦労をして、例の黄金の板がいつまでも朽ちることのないようにした。 あれを破壊するような人間の愚行があるとすれば、わたしはそれを見過ごせない。」

 

ハリーの目はまた反射的に声のした方向へむかうが、そこにあるのはやはり虚空だけ。 「その点については、杞憂だということを保証しますよ。 核兵器の火球の大きさではどうがんばっても……パイオニア十一号はいまどれくらい遠くにあるんでしたっけ? きっと十億キロメートルくらいでしょう? マグルは核兵器が世界を破壊すると言いはしますが、それは実際には地球の表面の一部を少しあたためるという程度のことです。 太陽はそれこそ巨大な核融合反応のかたまりですが、その太陽でさえ遠くの宇宙探査機を蒸発させることはできません。 核戦争は最悪のシナリオでも、太陽系すらびくともしない程度の破壊力しかありません。だからといって、大したなぐさめにもなりませんが。」

 

「マグルについて言えば、そのとおり。 しかし破壊力についてマグルが知ることはたかがしれているだろう? いまわたしが恐れているのは彼らではなく、きみだ。」

 

「言っておきますが、たしかにぼくはこれまでに何度か致命的な失敗をしてしまったことがありますが、それと爆発の半径にパイオニア十一号がはいるほど派手に抵抗回避判定(セーヴィングスロー)に負けることとをいっしょにしないでもらいたいですね。 そんなことは太陽を吹きとばしでもしないかぎり、事実上ありえません。 聞かれるまえに言っておくと、太陽系の太陽はG型主系列星なので爆発()()()()()。 いくら太陽にエネルギーをそそいでも水素プラズマの体積が増えるだけ。太陽には縮退中心核がないし、 寿命が尽きた段階でも超新星になれるほどの質量がありませんから。」

 

「マグルはよくそこまで調べあげたものだ。彼らは、星が生き、死をまぬがれ、そして死ぬまでのありようを知っている。驚嘆させられる知識ではあるが、彼らはその知識が危険かもしれないとは夢にも思わない。」

 

「正直その知識に関しては、ぼくも危険だと思ったことはないですね。」

 

「きみはマグル生まれだ。 血統ではなく生いたちについて言えばそうだろう。 そこにたしかに一種の思想の自由はある。 いっぽうで魔法族も無闇に用心深くあるのではない。 三百二十三年まえにシチリアの魔法族領は一人の男の愚行により廃墟と化した。 その手の事故はホグウォーツが建造された当時にはもっと頻繁に起きていた。 マーリンの死後の時期には、いっそう頻繁だった。 マーリン以前の時代については、調べるべき遺物自体がほぼのこっていない。」

 

「それの威力と太陽を吹きとばす威力とには、三十桁ほど差があります。」  ハリーはそう言いはじめてから思いとどまった。 「でも本質はそこじゃありませんね。すみません。国ひとつが吹きとぶのも惨事ではあります。 とにかく、ぼくはそんなことをするつもりはありません。」

 

「いや、きみ自身の選択は必要とされない。 読書をするにしてもマグルの小説より魔法族の小説にしていれば、きみにも分かっていたはずだ。 子どもむけの本ならいざ知らず、真剣な文学の登場人物が愚かなあまり〈骸骨男〉の封印をとこうとするとき、そうすること自体が目的であることはない。 それは、いずれ自分に名声をもたらす事業をなしとげようとしていながら、その名声を手にすることなく無名のまま終わることを恐れるあまり、自国を崩壊させる未知の可能性を見すごしてしまうという危険さかもしれない。 あるいは、すでにだれかに成功を約束していて、その人を失望させるわけにはいかないという思いからかもしれない。 負債をかかえた子どもがいるのかもしれない。 そういう物語には学ぶべきところが多々ある。 過酷な経験と灰燼に帰した都市からの教訓だ。 災厄をもたらすものとしてまず考えるべきなのは、警告が見えてもなぜか止まることのできない魔法使いだ。 自分は気をつけていると公言しながらも実際に手をとめることができない。そういう人間がいる。 ミスター・ポッター、きみはハーマイオニー・グレンジャーならやめろと言ったであろうことを一つでも試すつもりになってはいないか?」

 

「はい、その点はおっしゃるとおり。 別の二人の人間の命を代償にしてハーマイオニーを救ったとしたら、功利主義的観点では差し引きで損失が生じる、ということはぼくもよく分かっていますよ。 それ以上に、ハーマイオニーは一国を滅ぼしてしまうようなやりかたで救われたくはないだろうということも、よく分かっています。 あたりまえのことじゃないですか。」

 

「ディメンターを破壊するきみに言っておく。 国ひとつを滅ぼすだけのことなら、わたしもそこまで危惧することはない。 わたしも最初は、マグル科学とマグル流の方法についてきみが知る知識が大きなちからの源泉とはなりえないと思っていたが、 その判断はいまや変わった。 わたしは切実に、あの黄金の板が無事でなくなるのではないかと危惧している。」

 

「ぼくがサイエンスフィクションから学んだことがひとつあるとすれば、太陽系を破壊することは倫理的に看過できない、ということです。人類がまだほかの星系へ植民していない段階では、とくに。」

 

「だとすれば、きみは今回の決意を取り消す用意が——」

 

「それはありません。」  考えるまえにそういう返事がくちをついた。しばらくして、もう一言。 「ただ、あなたがおっしゃることは理解しています。」

 

沈黙。 星は地球の夜空でのわずかな動きすらすることなく、最初の位置をたもっている。

 

かさり、と人間が体勢を変えるときの音がした。 ハリーは自分がしばらくおなじ場所で立ったままだったことに気づいた。足もとの円形の草地はほとんど見えなくなっているが、まだそこにある。呪文の有効範囲からはみでないように注意しながら、腰を落とす。

 

「それで、きみはなぜあの子をそれほど大事に思う?」とささやき声が言った。

 

「友だちだからです。」

 

「『友だち』という単語は、通常の用法では、あらゆる手をつくして死者をよみがえらせるということを意味しない。 きみには彼女のことが運命の恋人のようなものに見えているのか?」

 

「はあ。よりによって、あなたまでそういうことを。 親友だというところまではいいですが、それだけですからね。 それで十分でしょう。 友だちが死んだら、なにもしないではいられないものです。」

 

「一般人は、友だちと呼ぶ相手に対してそこまでのことをしない。」  声は、遠くを見ているような声に変わった。 「愛で結ばれていると称する相手に対してさえそうだ。 彼らは伴侶が死んだとき、その伴侶をよみがえらせるすべを求めようとはしない。」

 

ハリーはまた思わず、無意味なことと知りながら、声の方向を見た。見えるのはまた、星ばかり。 「きっとあなたがそこから推論するのは……人間は友人を大切にしているようなふりをしていながら実際にはそれほど大切にしていない、ということでしょうね。」

 

みじかい笑い声。 「実際以下のふりをしてもしかたあるまい。」

 

「ふりだけじゃありませんよ。相手が運命の恋人である必要はありません。 味方を救うために手榴弾にとびかかる兵士はいます。わが子を救出するために燃える家にとびこむ母親もいます。 ただ、マグルは魔法というものがあって人間をよみがえらせることができるのを知らないし、 ふつうの魔法使いは……そういう()()()()()をする習慣がない。 たとえば、ほとんどの魔法使いは()()()()()不死にするすべを求めることすらしませんが、 だからといって、彼らが自分自身のいのちを大切にしていないと言えますか?」

 

「まさしく。 わたしに言わせれば、彼らはなんの意味もなく生きていて、その人生にはいささかの価値もない。 もしかすると隠れた本音を探れば、彼ら自身わたしの意見の正しさを受けいれているかもしれない。」

 

ハリーはくびを横にふり、それからいらだたしげにフードをめくり、もう一度くびをふった。 「それはすこしものの見かたが()()()()()()()()()んじゃないですか。」  星にかこまれた暗い円形の草地の上にぽつんと浮かぶ、薄明かりに照らされた少年の頭部。 「ふつうの人はそもそも復活の呪文を発明してみようとは思わないだけですよ。 ふつうの人がそれを実践していないということから推論できることはなにもありません。」

 

すると、草地に腰をおろした男の輪郭も薄明かりに照らされて見えるようになった。

 

「その愛情や友情とやらがほんものであれば、思いついていてしかるべきでは?」

 

「脳はそういう風にできていません。 うしなうものが大きいからといって、脳の出力は急にあがりません——あがったとしても限度があります。 ぼくの計算にだれかの生死がかかっているとしても、ぼくが円周率を千桁目まで計算できるようにはなりません。」

 

男は軽く首肯した。 「しかしそれ以外にも説明のしようはある。 人間は友人という()()()()()()のであって、 人間は役割のうえで要求される以上の行動も、以下の行動もしない。 するときみと彼らのちがいは、きみが彼らより友人思いだということではないように、わたしには思えてしまうがね。 魔法族のなかできみ一人だけが、死んだハーマイオニー・グレンジャーをよみがえらせようと決心するほど特別に強い友情心をもって生まれたなどということがあるだろうか。 いや、もっとも可能性のたかい回答は友情心の強さではないと思う。 きみは彼らより論理的だった。〈友人〉を演じるならそういう行動が要求される、と考えるのはきみだけだったのだ。」

 

ハリーは星をじっと見た。 いま自分が震えていないと言えばうそになる。 「そんなこと……はないでしょう。 いま言えるだけでも、死んだ友人をよみがえらせようとするマグル小説の登場人物の例が十以上ありますよ。 そういう小説の著者はぼくのハーマイオニーに対する感情を理解していたはずです。 あなたはそういう小説を読んだことがないんでしょうけど……。でもオルペウスとエウリュディケーならどうです? ぼくは読んではいませんが、内容は知っています。」

 

「そういう物語なら魔法族にもある。 たとえばエルリック兄弟の物語。 あるいは母親のドーラ・ケントを保護した息子ソールの話。 無謀にも〈時間〉に反抗しようとしたロナルド・マレットの話。 滅亡するまえのシチリアにはプレシア・テスタロッサの戯曲があった。 ニッポンにはアケミ・ホムラの悲恋の物語が伝わっている。 これらに共通するのは、どれも()()だということ。 魔法族にも想像できる者がいることはたしかだが、だれも現実世界でそのような行動をとろうとはしない。」

 

「実際できるとは思わないからでしょう!」

 

「ではきみがミス・グレンジャーをよみがえらせる方法を探すつもりだということをマクゴナガル先生に言って、反応を見てみようか? 彼女もただ思いつかなかっただけかもしれない……。 ほう、ためらうのだね。 きみはすでに彼女がどうこたえるかを知っている。 なぜ知っているのかは分かっているか?」  冷たい笑みを思わせる声。 「うまい論法だな、これは。ありがとう。いいものを教えてもらった。」

 

自分でも顔に緊張があらわれていることが分かる。ハリーは吐き捨てるような声になる。 「それはマクゴナガル先生はマグル的な増大する科学という概念を知らずに生まれ育っていて、友だちの生命の危機にこそ()()()()()()()べきときだということを周囲のだれにも言われたことがなかったというだけのこと——」

 

クィレル先生の声も大きくなった。 「彼女は()()()()()()()()()()。それだけだ! 台本には、思いやりのある人間であることを周囲に示すために死を悲しめ、と書かれていた。 凡人は台本にないことをやれと言われても、ろくなことができない。 きみも知ってのとおり!」

 

「そうは言いますがね、つい昨日、マクゴナガル先生は夕食の場で台本にないことをしていたように見えましたよ。 もう十回台本をはずれてくれたら、ハーマイオニーをよみがえらせる件について話してみてもいいかもしれませんが、いまのあの人はまだ練習不足です。 けっきょくあなたは愛とか友情とかいったものをうそだと見なすことによって、()()()()()()()()ということから目をそらそうとしているだけです。」

 

クィレル先生の声が高くなる。 「もしあのトロルに殺されたのがきみだったとしたら、きみがいまやろうとしているようなことをしようという発想などハーマイオニー・グレンジャーにあろうはずがない! ドラコ・マルフォイにも、ネヴィル・ロングボトムにも、マクゴナガルにも、きみが大事にしている友だちのだれにもそんな発想はない! 彼女に対するきみの思いやりに相当するものをきみに返す人間は世界中に一人もいない! なのに()()。なぜきみはそうする?」  その声は妙に余裕をうしなって聞こえた。 「世界じゅうでそこまでの労力を割いてその見せかけを維持しようとするのはきみ一人であり、ほかのだれも、きみに同じことをして報いようとはしない。なのになぜその一人であろうとする?」

 

「あなたはいくつもの点で事実を誤認していますよ。 すくなくとも、ぼくの感情についてのあなたのモデルには欠陥があります。 仮にあなたがいま言ったことすべてが正しかったとして、それでぼくをとめられると思うなら、あなたはぼくをまったく理解していません。 どんなことにも最初のひとつがあり、起きるべきできごとすべてに最初の一回がある。 地球上の生命も、泥の池のなかの小さな自己複製分子ひとつではじまった。 もしぼくが世界ではじめて……いや——」

 

片手をぐるりと動かし、周囲のとてつもなく遠い光の粒を指す。

 

「——もしだれかのことを思いやる()()()()()()一人がぼくだったとして……それは事実に反しているわけですが……もしそうだったなら、ぼくはその一人になることを光栄に思います。しっかりやりとげようとしますよ。」

 

二人は長く沈黙した。

 

「きみはほんとうにあの子のことを気にかけているようだ。」  仄暗い男の輪郭から小さな声がする。 「()()のだれ一人として、なにかをそれだけ気にかける能力を持っていない。自分自身の命に対しても、無論他人に対しても。」  クィレル先生の声は奇妙な、読みとりがたいなんらかの感情に満ちたものに変わっていた。 「わたしには不可解だが、きみがこれからそのために大変な労力をささげるであろうことは分かった。 きみは彼女のために死そのものと戦う。 なにがあってもきみはその道を歩むことをやめない。」

 

「意味のある努力をする程度に気にかけている、とは言えます。」

 

星空がしだいに壊れ、割れ目から明るい世界が見えはじめる。夜空に切りこみがはいり、そこから日光に照らされた木々の幹や葉が見えてくる。 暗さに順応していた目にとっては強烈な明るさで、ハリーは片手をあげ、強く目をしばたたかせた。 同時に目は無意識にクィレル先生のほうをむく。目がきかないうちに攻撃がはじまる可能性にそなえて。

 

星はすべて消え、日光だけがのこった。クィレル先生は草のうえに腰をおろしたままだった。 「さて……」 通常の声になっている。 「そういうことであれば、わたしはきみにできるかぎりの手助けをしてあげようと思う。そうしていられるあいだは。」

 

「え……なんのことです?」

 

「昨日わたしがきみに申しでた援助はいまも有効だ。 質問があれば答えよう。 ミスター・マルフォイに適しているときみが思った科学の本を見せてくれれば、目をとおし、気づいたことを教えよう。 そうおどろくことはない。これをきみの勝手にしておくわけにはいかないのだから。」

 

ハリーの目の涙腺は急な明るさのせいでまだ湿っている。

 

クィレル先生はハリーに目をあわせてきた。 淡い水色の目に奇妙な光がやどっていた。 「わたしにできることはここまでだ。悪いがわたしはこれで失礼させてもらう。では——」  一度そこで言いよどんでから、 「さようなら、ミスター・ポッター。」

 

「さよ——」

 

ハリーがそう返事しかけると、男は倒れて地面に軽くあたまを打った。 同時に、破滅の感覚がさっと引いていくのを感じ、思わずハリーは立ちあがった。急に心臓がのどにつまる思いがした。

 

しかし倒れた男はゆっくりと身を起こして四つんばいになった。 こちらを見るうつろな目。くちはだらしなくあいている。 立ちあがろうとするが、また地面に倒れる。

 

ハリーは完全に本能的に一歩まえにでて、手を貸そうとした。いっぽうで、貸すべきでないとも感じられた。わずかではあれ恐怖がわき、危険がまだ去っていないことを告げていた。

 

しかし倒れた男はハリーから飛びのき、ゆっくりと遠い城の付近へむかって這っていった。

 

ハリーは森のなかに立ちどまったまま、そのあとを目で追った。

 

◆ ◆ ◆

 

原作品の著者:J. K. Rowling

ファンフィクションの著者:Eliezer Yudkowsky

 


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