届かなかったとしても、報われなかったとしても。
ただひたすらに前を向け。
死したときのみ、刀を離すことを許す。
大正○○年 ●月 ■日
ぎりぎりと頭を押さえつけられる。
芒が何本か口に入って気持ちが悪い。
オレの頭を押さえつけている鬼の醜悪な味に比べればマシだけど。
くそ。嫌な再会もあったもんだな! 過愚夜!
「もぉおう、て、れ、や、さんねぇ。うさぎちゃぁああん」
オレを押さえつける上弦の零、過愚夜は黒い着物にぶら下げた目玉を左手で弄びながら、オレの頭から足をどけようとしない。
くそ、離せよ! 桜花の所に行くんだ!
「その必要はないわぁ。ねぇぇ? ざぁんかぁい?」
過愚夜は背後の鬼――、懺戒に声をかける。
懺戒は目を伏せたまま口を開かない。その味は、何かを迷っているようにも、決断しているようにも、怒っているようにも――諦めているようにも感じた。
「私とのお約束。忘れてないわよねぇ?」
「…。うむ」
懺戒は錫杖を手に持ち、ゆっくりと歩きだす。
やがてオレと過愚夜の横を通り過ぎる。
一歩一歩。 一歩一歩くたびに、諦めの味が強くなる。その先にあるのは、廃寺。
中に居るであろう鬼の味がきつい刺激臭に変わる。飢えた鬼の味だ。
懺戒は、そこに向かって歩いて行く。
懺戒!
呼びかけても、彼は答えてくれない。
聞こえていないのではなく、届いていない。
過愚夜との約束ってなんだ。
お前はどうしてコイツの事を知ってるんだ。
オレの前に現れたのは、偶然じゃなかったのか。
裏切られた訳じゃない。オレ達は家族でもなければ、友達でもない。
それどころか、彼とは今夜出会ったばかりだ。
交流だってほとんどない上に、それはきっと互いに打算に満ちた交流だった。
オレはまともに話ができる鬼と出会って、いろいろなことを聞きたかった。
冨岡君の行動の正しさを、正しくない衝動の正しさを証明したかったから。
懺戒は、オレを過愚夜に差し出したかった。
きっと、何かを欲していたから。
オレ達は互いに互いを利用していた。
いや、それ以前に寺から鬼の味がしなければ、オレ達は互いに斬り結んでいたのだろう。
だから、懺戒がオレに背を向けて寺に向かうことは何も不思議なことじゃない。
オレのすべきことは弱いなりに全力で抗って桜花の元を守る事。
ただそれだけだ。
諦めるな!
どうして、そんな言葉が口をついて出たのだろう。
オレは気が付けば懺戒の小さくなった背に向かってそう叫んでいた。
懺戒の歩みが、ぴたりと止まった。
「? んぅ?」
オレの頭上で過愚夜が訝しげな声を上げる。
それでも足はあげてくれないようだった。
懺戒は、ほんの少し、ほんの少しの間だけその場に立ち止まっていた。
しかしややあって、懺戒は芒の丘を降りていく。
「うふふふっ、いったわねぇ、懺戒。 さぁうさぎちゃん、これで私たちぃ、二人きりぃ」
過愚夜はそういって押さえつけていた足を退ける。オレはとっさに身をひねって悪鬼から距離をとった。全力で走っても逃げられないのは解っている。
ゆっくりと立ち上がって、腰の日輪刀に手を伸ばす。ちり、という音が腰から聞こえた。
オレの手の震えが、刀に伝わっている。
なぁ、今すぐ帰ってくんない、ねぇってば。
今お前の相手なんかしてられねぇんだよ。
「んふふふふっ、うさぎちゃあぁん、震えてるぅ…かわいそうねぇ‥」
喜色満面。顔中に喜びを張り付けながら過愚夜はすっ、と弄んでいた目玉を自分の口元にあてた。
「わたしねぇ、ずぅううっとかんがえてたのよぉ?」
ぺろり、と手に持った眼球を舐める。眼球がてらてらと、月明かりに当たって光った。
「どうすれば、兎ちゃんと一緒に居られるかなぁ? どうしたら邪魔な糞雌共を始末できるかなぁ?考えたのよォ」
次の瞬間、過愚夜はあーん、と声に出しながら、眼球を口の中に放り込んだ。
桜花のあーんの五万倍悍ましい。
ごりゅ、ごりゅ、ごりゅと音を立てて、過愚夜は口の中の眼球を噛み砕く。
彼女はそれを、ごくりと呑みこんだ。
「うさぎちゃぁん、私と一緒になりましょうよぉおお、この中で」
そう言って過愚夜は自分の腹を指さして、怪しげに笑った。
冗談じゃない。
オレはそう言って彼女の要求を突っぱねる。
手に力を込めて、日輪刀を引き抜く。白い刃が、月の光を浴びて光った。
悪いけど、死ぬなら桜花の膝の上だ。
お前なんかお呼びじゃない。
帰った方がいい、帰って。
「桜花、桜花、桜花…」
「おうか、おうか、おうか」
「ダメよォ、うさぎちゃぁん?」
「私以外を見る余裕なんて、もぉうないわぁ」
過愚夜の体が黒く染まる。あの夜と同じだ。奴が来ている着物よりも、どす黒く、一点の白色さえ存在できない程の『黒』。
銀色の髪が映えて、月明かりの元に立つ様は、悔しいが1つの芸術品のようだった。
「今夜はだぁれも来ないわよぉ。間違いなく二人っきり」
「さぁ、おいでぇ。喰ってあげるぅ」
血鬼術 『天羽・忘失』
真っ赤に染まった羽衣のような肉が背中から飛び出した。
その数、六。
うわぁ…。蜘蛛みたいな奴。
「蜘蛛は八本よぉ、うさぎちゃぁん、あと二本足りないわぁ」
過愚夜がケラケラと笑った。
生き汚いオレは、そんな見え見えの好機は逃さない。
足に力を込めて一気に接近し、シィィィ、と息を吐く。
日輪刀に力を込める。
集中しろ。相手が手数で攻めてくるなら、こっちも手数で勝負する。
『虎』の呼吸!
『肆虎・肆填』!
あの夜と同じ展開。四本の斬撃を過愚夜に向けて叩き込む。
あの時、過愚夜は血鬼術を使ってこの技を防御した。防御すると言う事は、まともに入れば効果があると言う事。
防いだ瞬間に、『あの呼吸』に切り替えて――
スパンっ、と間の抜けた音がした。
四本の斬撃が斬り落としたのは――、芒。
「遅いわ、兎ちゃん」
背後から声がした。
悪寒、殺気の味。
とっさにその場から飛びのいて、刀を構える。
飛びのいている間にも思考ができるだけ、大したものだとオレは自分をほめて伸ばしながら、次の作戦を考える。
あいつの言う通り、今のままの『虎』じゃ遅いんだ。
落ち着け。なら次はこうだ。
重ねて、四刻。
『午』の呼吸、『掛馬――
廃寺から鬼の味がさらに強くなった。
それに混じって、舌先にちりちりと刺激が走る。
それは今一番感じたくなかった味だった。
そんな。
嘘だ。
この味。この鬼の味に混ざってくるのは。
嫌だ。『この血』の味は。
「だぁからぁ? 遅いのよぉ、うさぎちゃあぁん」
耳元から、ぶぅん、と音がして。
オレは肉の羽衣に薙ぎ払われた。
大正コソコソ噂話(偽)
懺戒さんは現在こそ絶食していますが、人間だったころはそばが好物でした。
それも一般的なかけそばばかりを好んでいたそうです。
蕎麦屋が間違えて揚げを乗せた時にはついお椀を握りつぶしたそうです。