彼女は生まれつき『稀血』と呼ばれる特殊な血の持ち主。『稀血』は鬼にとってごちそうであり、一人食べれば通常の人間五十人、あるいは百人分の栄養を得ることが出来る。
また、その血が珍しければ珍しいほど、鬼にとっては効果が高い。
桜花の体を流れる血は『稀血』の中でも一等珍しく、一滴でも舐めた鬼は彼女の血に対して強い依存性を持つことになる。
さらに性格もより凶暴になる。
仮に強い自我を持つにいたった十二鬼月であったとしても、桜花の血の魅力には勝てないだろう。
『仇散華』の血は、『狂戦士』を産む蜜である。
大正○○年 ●月 ■日
桜花はひたすらに走ります。
この廃寺が入り組んだ作りになっていたことは、不幸中の幸いでした。
曲がって曲がって、そしてぎりぎりあの鬼の視界に入り続ける。
少しでも、数珠坊君と菊ちゃんから遠ざけるために。
「まぁあああああてぇえええ!」
鬼は涎を垂らして追ってくる。
両足で走りながら、時に転び、四つん這いで追ってくるその姿からは、もはや人間だったころの尊厳など欠片もありません。
やっぱり、桜花の血は鬼を狂わせる。
兎さんに出逢うまでずっと、この体質を呪ってきました。
けれど今だけはこの体質に産まれたことに感謝しましょう。
おかげで刀を握ることが出来なくても、人を守れる。
しかし、ずっと逃げてばかりという訳にもいきません。
相手は鬼。桜花は人間。
持久戦になれば、鬼に軍配が挙がります。日の出まで逃げる、と言うのも手ではありますが、鬼がそれを嫌って寺の奥に引っ込めばあの子たちと鉢合わせしてしまうかもしれない。
やはり、やるしかありません。桜花がこの鬼を倒すしか。
しかし、相手は十把一絡げの雑魚鬼といえども、日輪刀が無ければ完全に倒すにはいたりません。
日輪刀は今、兎さんが持っています。その兎さんがどこに行ってしまったのか桜花は知りません。
一体どうすれば。
そこまで考えた時、ぐおん、と大きな音が寺に響きました。
聞いたことのある、まるで虎の唸り声のような音。
兎さんの『虎』の呼吸。
兎さんが、近くで誰かと戦っている!
桜花はこの時、一瞬迷いました。
兎さんの所に行くべきか、否か。
兎さんの所に行けば、兎さんを危険に巻き込むことになる。でも現状、鬼を倒すためには兎さんに頼るしかない。今ここに居る、日輪刀を持った鬼殺の隊士は兎さんだけなのだから。
その一瞬の油断を見逃さない程度には、鬼は酩酊しておらず。
その事実に頭が回らない程度には、桜花は愚かでした。
「血だ、血だァ!! お前の血だだだだっ!」
追ってきた鬼の手が、桜花の首筋を狙っていました。
早い、さっきまであれだけ距離を保っていたのに。
桜花の血で、鬼が強化されている!
けれどまだ間に合う。一気に背後に跳んで、また距離をとればいい。
全集中の呼吸を――――――――――
じゃき、と音がして、鬼の爪が桜花に向かって飛び出しました。
それは血鬼術にも満たない、鬼としては当たり前のような再生力の応用。
指にある五本の爪を瞬時に伸ばして、相手を貫く。
狙うのは桜花の体の中心、心臓―――
とっさに体をひねって躱そうとしました。
でも。
ズグリ、と鋭利な爪が桜花の左肩を貫きました。
う、ぐッと口から声が出ます。
爪は深々と刺さっていて、簡単には抜けてくれそうにありません。
「うひ、うひひほほほほほ、血、血、血」
鬼が感極まった表情で、嬉しそうに笑っています。
ニタニタ。ニタニタ。
「どうだぁ痛いよなななァ」
痛い。
「鬼ごっこはお終いだァ、オマエは俺が喰うんだ、旨そうなんだァ、オマエの血ィ」
喰われる。
鬼は嗤って、するすると爪をしまいながらこちらに迫ります。
このまま近づいて桜花を食べるつもりなのでしょう。
桜花の血を飲んだ鬼は強化状態。
日輪刀は手元にない。
血が、止まらない。
ああ、このまま食べられてお終い?
鬼殺隊最恐とまで言われた桜花が?
ここで、お終い?
鬼の顔が眼前に迫る。
今にも牙を突き立てて、桜花の首筋に喰らいつく。
どうしよう。
悔いがいっぱいある。
桜花はたくさん、たくさんの人達に謝らないといけないのに。
心無い事を言って傷付けた人達。
迷惑ばかりかけたお館様。
こんなダメな妻を、ずっと愛してくれた兎さん。
兎さん。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
桜花は、桜花は最後まで。
『桜花』
誰? 桜花を呼んでいるのは、誰?
『呼んで無いわ。呼んであげるもんですか』
『桜花がここに来るのはお婆さんになってから。兎と一緒にたくさんたくさん幸せになった後』
『それは絶対、今じゃないわよね?』
…ああ、幻聴ですね。いよいよ最後です。
『失礼ねぇ、もう』
『兎も桜花も、強いのに簡単に諦めちゃうんだから。やっぱり私がお姉さんしてあげないとダメかしら』
嘘。そんな。
だって、だってこの声。
『…前を見て。十二支 桜花。今、貴女がしなくてはならないことは何?』
忘れる筈ない。
桜花に、私に心をくれた、花のように可憐なこの声。
親友の、声。
『頑張れ、桜花。モタモタしてたら、私が兎、貰っちゃうよ?』
「アアアアアアアアアアアアッ!!」
目の前に迫った鬼の顔。
私はきっ、と顔をあげ。
その憎たらしい顔にむかって、思い切り握り拳を叩き込んだ。
「うぎあッ!?」
予想もしていなかった反撃に、鬼の体は仰け反り、私の肩を貫いていた爪も抜け落ちる。
どくっ、と肩から血が流れ落ちるけれど、もう気にしてなんていられない。
「て、てめえええっ!」
鬼がのた打ち回っている。正確に顔面を、しかも目の部分を思い切り殴りぬいてやったので、それなりに痛いのかもしれない。
「ふざけるなふざけるなふざけるなよ! 諦めてオレにくわれりゃいいんだだだだだ!」
諦める? そっちこそふざけないで!
気が付けば私は、半ば八つ当たりのように叫んでいた。
私は諦めたりなんかしない!
まだやりたいことが沢山あるのよ!
冨岡さんに鮭大根作ってあげたい!
しのぶちゃんがちゃんと昔みたいに笑えるようにしてあげたい!
蜜璃さんともっと恋のお話したい!
霙さんが全快するまでちゃんとお見舞いに行きたい!
煉獄さんに、宇随さんに、兎さんといつも遊んでくれてありがとうって言いたい!
みんなに、みんなにもっと言いたいことがあるのよ!
兎さんにだって、カナエにだって!
だから、だから絶対諦めたりなんかしません!!
「なんだなんだ、何言ってんだァ? 意味がわかんねぇなぁ!!」
鬼はそう言ってふらふらと立ち上がります。
こうなったら、殴れるだけ殴ってやります!
普段の私なら絶対言わないようなことを思いながら、私は腹を決めました。
「いいから黙ってェ、血を寄越せぇぇええ!!」
鋭い爪を振りかぶりながら、鬼は桜花に向かって飛びかかりました。
「ふむ、御婦人。あなたの勇には感服せざるを得ないが、拙僧から1つだけ助言をしてしんぜよう」
鬼の背後の暗闇から聞こえた声、そして、発射された丸太のような拳と風切音。
鬼の頭蓋が砕ける音。
「殴るときは、もっと力いっぱいするべきだな。相手がこういう手合いなら、特に」
ぎぇ、と一声あげる暇もなく、桜花の横を殴られた鬼が飛んでいきました。それはもう、ものすごい勢いで。
つい、きゃ、と声が出てしまいました。恥ずかしい。
暗闇から現れたのは、一匹の鬼。けれど今相対していた鬼とは違い、その瞳には優しさと、理性的な光が宿っていました。
「しかし、『諦めない』、か。貴方たちは揃って同じことを言うのだな」
「そうだな。…拙僧も、諦めるには早いか」
僧の鬼、懺戒さんはそう言って、慈しむような目を桜花に向けていました。
場所は変わって、芒の丘。
血を吹きだして倒れた十二支 兎は、這って寺に向かっていた。
残った僅かな力で日輪刀を握りしめながら、それでもなお、愛する妻の為。
「途中で、流れてきた、血の、味‥。まちがい、ねぇ・・」
十二支 兎は戦いの途中で寺から流れ出る人間の血の味を感じ取っていた。
人並み外れた味覚を持つ十二支 兎は、流れる風を舌先に充てることで、周囲の状況を『味』によって知ることが出来る。
「桜花、桜花・・・・」
十二支 兎は大量に失血している。
アバラが折れた状態で、さらに禁じ手の『酉』の呼吸を乱発。
その状態で空から落ちて地面を転がった。
普通の人間なら三回死んでいた。
立ち上がれるはずがない。動けるはずがない。
それでも十二支 兎は 諦めない。
きっと桜花だって、諦めていないのだから。
「桜花、お、うか・・」
「たまたま近くにいたから、あなたの鎹鴉の知らせを受けてきたんだけど」
十二支 兎の頭上で声がした。
顔をあげる体力はない。
それでもその声は、兎が聞いたことがある声だった。
それは、あまり思い出したくない思い出。
『ねぇ、いい大人が恥ずかしくないの?』
長い黒髪の先端は薄い若草色。穏やかなその表情は整っているが、一切の感情を感じさせない。
彼は黒い鬼殺隊服と日輪刀を持って、兎を無感動に見下ろしていた。
「たくさん血が出てるね。もう死ぬかな」
霞柱『時透 無一郎』は、少しも悲しくなさそうにそう言った。
大正コソコソ噂話(偽)
香川でうどんも食べず、ふろふき大根を食べる時透君。
決死の飛行で助けを求めたねぎまにより呼び出され、若干不機嫌。