でも人の手のひらって小さいからあんまり詰められない。
鬼の手のひらには、穴が開いてるんだって。
医者を呼んでくるなど、体の良い方便だった。
一刻も早く、貴女の傍を離れたかっただけなのだ。
すまぬ、桜花殿。
拙僧はそうでもしなければ、貴女の血の臭いに耐えられそうもなかったのだ。
貴方は拙僧をなにか特別なものを見るような目で見ておられたが、何のことはない。
拙僧は飢えていた。それを隠して誤魔化して、子どもたちには嘘を重ねた。
拙僧は、悪鬼だ。
拙僧が初めて人を殺したのは、鬼になる前だった。
山間の小さな村に住んでいた拙僧は、生まれついて両親がいなかった。
二人とも体が弱く、母は出産のときに、父は物心つく前に病気で死んだ。
唯一の肉親である祖父が拙僧を引き取った。
祖父は村にある寺で住職をしていて、お伽草紙や絵物語の代わりに、拙僧によく経典を詠んで聞かせた。
意味はさっぱり解らなかった。意味が解らないのにすごく長いから、さながら拷問のようだった。さらには途中で本人の思い出語が始まれば、自分は何の咎でこんな目に合っているのだろうかとさえ思った。心の中でこの一連の行事を拙僧は、『お経の刑』と呼んでいた。途中で寝ると、後頭部を叩かれた。
信心深い祖父だった。
旅人が村によれば進んで食べ物を分け与えた。人に対して思いやりにあふれていたし、御仏の前での祈りも、一日だって欠かしたことが無かった。
雨の日も風の日も、いつだって。
お堂の中央には祖父の小さな背中があった。
なんの突然変異か、両親や祖父と違って体格に恵まれた拙僧が隣に座れば、祖父は周りからいっそう小さく見えただろう。
祖父を見下ろすと、祖父は必ず「なまいきな」と言って拙僧を力強く叩いた。
少しも痛くなかった。
痛くなかったけれど、心地が良かった。
相も変わらず仏の教えはいまいちわからなかったけれど、それでも祖父の隣で経を読んで生きていこうと、そう思った。
だから祖父が物盗りとして捕まった時には、きっと何かの間違いなのだと、そう思った。
祖父を捕えに来たのは、かつて食べ物を分け与えられていた旅人達だった。
町でかつて騒がれていた盗人と祖父の人相が一致すると主張し、官吏を引き連れやってきた。
拙僧はなんども祖父の無実を主張したが、寺の地下からかつての盗品類が大量に発見されて、祖父の有罪は決定的になってしまった。
それでも拙僧は信じられなかった。信じたくなかった。
村中駆け回って助けを求めたが、祖父を擁護する声は皆無だった。
皆、あれほど祖父の世話になっていたのに、罪人であると官吏が村に触れ回ってからは酷く冷たくなった。
拙僧はもうなにも出来なかった。
罪というものは、積み上げて来た大切なものを、いとも簡単に奪い取る。
いつしか何も残らなくなって、何も得られない。
祖父は獄中で死に、拙僧は天涯孤独となった。
祖父の死を悲しむ者は、村には誰もいなかった。
その事実に言いようもなく腹が立った。
わかっていたはずだ。悪いのは祖父だ。盗みを働いたのも、その罪から逃げるために仏門に入ったのも。
だから何一つ正しくなかったのだ。
祖父の悪口を言っていた村の若衆を拙僧がなぐり殺してしまったことを正当化する理由など、何処にもない。
若衆を殺したとき、自分から何かが欠け落ちていくのを感じた。
人間は生まれるとき、裸で生まれてくる。
そこから与えられて、与えられて、両手の中一杯に幸福を得ていく。
でも、一度でも罪を犯したら、両手からぽろぽろと何かが落ちていく。
経を読んでいた拙僧の手は、何時しか空っぽになっていた。
ふらふらと村を出て、山の中に逃げ込んだ。
人が来て、捕まるのが怖かった。
祖父のように、まるで初めからなにも持っていない者にされてしまうのが怖かった。
拙僧は体格こそ良くても、山の中で生き抜く術など知らなかった。
水もなく、食料もない。
試しに食べた茸は口の中がしびれた。
ふらふらと歩いて、そのまま山中で行き倒れた。
ああ、自分はこのまま死ぬのだと、そう思った。
そしてそれを心の底から望んでいた。
そんな時だった。唐突に、声をかけられたのは。
『すばらしい。何の修業もなく、これだけの力を持つ人間がいるとは』
『なぁ、お前。鬼にならないか? そうすればもっと強くなれるぞ』
生きたかったわけではなかった。
死ぬのが怖いわけではなかった。
ただ、その紅梅色の鬼の誘いに乗り、言葉の通りに強くなれば、取り戻せるのではないかと。
失った物を、罪によってこぼれ落ちた物を、再びこの両腕に。
拙僧は、彼の者の血を受け入れた。そして鬼となったのだ。
そこから先は地獄のような毎日だった。
拙僧は取り戻すために鬼になった。
人を喰い、罪を重ねることは本意ではない。
飢えて、飢えて、飢えて。
そんな時は必死になって意味も解らない経典を唱えた。
どうしても我慢が効かないときは、自分の腕をちぎって食べた。
ほんの少しだけだが、それで飢えは誤魔化せる。
拙僧を鬼にした十二鬼月は、拙僧にその気がないと知ると、見限って拙僧から離れた。
そんな生活が七十年ほど続き、拙僧は芒の丘近くの廃屋で自らの腕を喰っていた。
衝動に駆られるときはいつも足を何かで縛る。
この廃屋には罪人用の足かせがあったので、それを使わせてもらう。
どうやらこの小屋にはかつて、流刑にあった罪人が暮らしていたようだった。
今の拙僧にはふさわしい場所である、と感じていた時だった。
あの女、上弦の零に襲われた。
『上弦の零』。
存在だけは、拙僧も十二鬼月に聞いて知っていた。
零というのは、鬼からも人間からも全てを取り上げる存在。
主な仕事は、原初の鬼の意思に添わぬ者、裏切り者を始末するための鬼。
鬼と鬼の戦いで、決着がつくことはない。
鬼は陽光と鬼狩りの刀、どちらかでしか死なないからだ。戦ったところで、お互い疲れるだけだ。
だが、零は違う。
零だけは、鬼舞辻無惨から特殊な改造を施されているが故、『鬼を殺す』ことが出来る。
零は、鬼を処刑する鬼。
そう聞いていた。
故にあの赤い月の夜、廃屋から吹き飛ばされた拙僧は思ったのだ。
このまま拙僧はこぼれ落ちた物が何かもわからないまま、殺されるのだと。
『ねぇ、懺戒ぃ? 一度だけぇ、機会をあげましょうかぁ?』
『もし私の言う通りにしてくれたらぁ、そうねぇ?』
『アンタのジジィの秘密を教えてあげるってのはぁ、どうぅ?』
拙僧は耳を疑った。祖父の秘密など、なぜこの悪鬼が知っているのか。
口から出まかせに決まっている。なんの確証もない。
でももし、祖父に、拙僧の知らない真実があるのだとしたら。
憎まれながら死んだ祖父を、もう一度拙僧が信じることが出来る理由があるのなら。
気が付けば、拙僧は頷いていた。
『そうそぉう、いい子ねェ』
『あと一月もすればここに鬼殺隊の柱がやってくるのぉ。十二支 兎っていうすごぉおく強くてぇかっこいい人とぉ、十二支 桜花っていう糞雌ぅ。探し出して見つけ出してぇ、十二支桜花をアンタが始末しなさぁい。その間にわたしぃはぁ、兎ちゃんにぃ・・』
ふふ、ふふふふ。
そう言って笑う悪鬼の誘いに乗ってしまったこと。
これもまた罪なのだと、拙僧は気付くべきだった。
そして拙僧は十二支 兎なる人物を探して四国を歩いた。
あと一月で現れる。なぜそんなことが奴にわかるのか不思議ではあったが、それでも拙僧はその柱を探した。
そしてある夜、芒の丘近くの廃寺に身を置いた。
目を瞑り、今後の動きを考えていると、拙僧の荷物を狙って動くコソ泥の姿を捕えた。
殴って縛り、天井からつるして反省させる。まだ、子どもだった。
『うわぁああ、離せよ入道坊主! 山へ帰れ妖怪!!』
…そこそこ的を射ていた。
子どもは善悪の分別も無ければ未来への確固たる意志もない。
かつての拙僧がそうだったように、一時の感情で何もかも失う。
そう思った。
だが彼らは、数珠坊と菊は兄替わりの男を助ける為、拙僧から薬をくすねるつもりだったらしい。
訳を知り、鈴と言う男が住む部屋に向かってみると、中からは同族の気配がした。
二人はそれに気が付いていないようだった。
ああ。駄目だ。
無理なんだ。その男はもう助からないんだよ。
そう言ってしまうのは簡単だった。簡単だったはずなのに。
『兄ちゃん、ごめんな。次はちゃんと薬見つけてくるからな』
『大丈夫だよ。私たちが何とかしてあげるからね』
拙僧は気が付けば嘘をつき、彼らと共に廃寺に住みついていた。
そして何かに導かれるように。
十二支 兎はここへきて。零は目論見通りの展開にほくそ笑んだ。
祖父の秘密を知るために、彼の妻には犠牲になってもらう。
その約束だった。
芒の丘におびき寄せて、零が柱を殺し、そしてその間に拙僧が女を――
『諦めるな!!』
どうしてだ。
どうして彼の言葉が耳に焼き付いたのだろう。
事情など何も知らないはず。彼の目には、拙僧は憎むべき鬼としてしか映らなかったはずだ。
あれほどまでに妻を愛した男が、なぜ拙僧にそんな事を言う。
いや。拙僧は知っている。
十二支 兎。
あの男の持つ、あの瞳こそが。
子供たちが兄に向けたあの瞳こそが。
拙僧の手放した物だったのだ。
真実などさして重要ではなかった。
拙僧は、あの時、祖父を信じるべきだったのだ。
たとえ山ほどの盗品が出て来たとしても。たとえ皆が祖父を指さし責め立てても。
拙僧だけは揺らがずに信じるべきだった。最後まで信ずることをあきらめず。
芒の丘を降りるとき、もう迷いはなかった。
拙僧は、悪鬼だ。こぼしたのではなく、捨てたのだ。
ならばせめて、明日あるものたちを守るため、この呪われた命を使おう。
寺に入ると、御婦人が戦っていた。血を流している。恐ろしいほど甘い香りのする血だった。拙僧の口から涎がこぼれる。
正気を失いかけた拙僧の理性を揺り戻したのは、彼女の叫びだった。
『私は諦めたりなんか、しない!!』
諦めない。
本当によく似た夫婦だった。
拙僧は思い切り鈴を殴りつけ、気絶させた。
自分の命が、初めて役に立った気がした。
子供たちには嘘をついて寺を離れた。
真実は何時か、彼女が時期を見て話してくれるだろう。
もう、悔いはない。悪鬼として、今夜拙僧は地獄に堕ちる。
丘に登れば、見たことのない少年がいた。随分若い。十二支 兎と対等に話しているところを見ると、彼も柱なのだろう。
彼は拙僧と言う鬼を見つけると、刀を抜いてこちらに突進してきた。
抵抗する気はなかった。
ここで死ぬ気だったのだ。拙僧は自らの過ちに気が付いた。
もう、悔いはなかった。
なかった、のに。
拙僧と少年の間には、十二支 兎が立っていた。
刀を抜いて、少年とつばぜり合いをしている。
なぜだ、なぜなのだ。
拙僧とお前は友人ではない。
それどころか、鬼殺隊の柱と鬼だ。
もう、お前が戦う理由などどこにもないのに。
なぜ。
貴方の妻は負傷しているが無事だ。はやくそっちに行ってやれ。
そう言葉をかけようとした時、彼は――。
日輪刀は『鬼』を斬る刀だよ。『人』を斬る殺し包丁じゃない。
拙僧は、息をのんだ。言葉が詰まる。胸がいっぱいになる。
あの日、祖父が捕まったあの時、お前がいてくれたら。
お前は何と、言ったのだろうな。
少年が構えに入る。兎も、それを迎撃する構えを取る。
その景色だけで、もう十分だった。
兎を投げ、少年の刃を受け入れる。
拙僧は、強い鬼ではない。あっさりと首は斬れる。
最後に見たのは、十二支 兎の表情だった。
もういい。もういいのだ。
十二支 兎。そんな顔をするな。お前はお前の守らなくてはならない物を守れ。
それは妻だ。家族だ。無辜の人々だ。
彼らの手から信頼が、幸福がこぼれぬように守るのだ。
ありがとう。貴方に会えて、本当に良かった。
気が付くと拙僧は、真っ白な空間に居た。
ここはどこだ。前も後ろも、右も左も全く見えない。
「なんじゃ、『国綱』。神妙な顔をして」
振り返ると、そこには祖父が立っていた。
自らの恰好を見ると、もう鬼の姿ではなくなっていた。
「…じいちゃん、僕、僕は・・・」
「なにもいわんでええ。すまんかったな。さぁ、こっちじゃ」
祖父の小さな背中が、光の道に向かう。僕はそれを追いかけた。
「じいちゃん、ごめん! 僕、最後までじいちゃんのこと信じてあげられなくて」
「大丈夫。大丈夫。さぁ、そんなことより聞かせておくれ。経はちゃんと覚えておるかの?」
「うん、覚えてる・・。覚えてるよ」
小さな背中を見下ろす。するとじいちゃんは昔のように僕を叩いた。
なんだかすこしも、痛くなかった。
大正コソコソ噂話(偽)
懺戒の祖父はたしかにかつては有名な盗人でした。
しかし盗んだ金品は全て貧しい人々に分け与えていたため、証拠は一切残っていませんでした。
懺戒の祖父の寺から発見された物は通報した旅人の盗品であり、官吏も抱き込まれた仲間でした。つまり懺戒の祖父は騙されて投獄されたことになります。
懺戒は最後まで信じてあげることが出来ませんでした。
ちなみに懺戒の人間だった時の名前は『国綱(くにつな)』と言います。