それなのに。
その日のことは、よく覚えている。
私、仇散華 桜花は単独の指令にあたっていた。
任務の内容自体は、そう複雑なものじゃない。
夜な夜な、村の近くに流れる川からうめき声がする。
様子を見に行った村人も帰らない。
別の指令の帰り道、その村の近くにいた私が派遣される運びとなった。
夜、件の川に行ってみれば、そこには河童のような姿の鬼がいた。
水の中を主戦場とするその鬼は、川から子供のようなうめき声を出して村の大人を誘い出し、川に引き摺りこんで食べる。
狙いは母親だった。子供を心配する母親は、悲鳴をあげながら子供の名前を呼ぶから面白い。
そう言った鬼の頸を私は斬りおとす。
それ以上の言葉を聞くのが、ひどく不快だった。
チン、と刀身をしまうとふぅ、と息をつく。
すると、私の鎹鴉が私の近くに降り立った。
カァ、カァと口を開く。
私たち柱は様々な任務を与えられる。それぞれが担当する地区も広い。極めて多忙な立場にある。
だから、この鴉の言葉も、次の任務についての伝令だろう。
この時、私は、本気でそう思っていた。
「カァ―! 胡蝶カナエ、花柱、胡蝶カナエ、死亡! 上弦ノ弐トノ戦闘後、死亡ォ!!」
息が苦しい。
視界がかすむ。
任務先からここまで、少しの休みもなく全力で走って来た。
何かの間違いだ。鎹鴉の伝達のミスだ。
そうに違いない、確かめるんだ。
蝶屋敷へ戻ればきっと居る。
襖をあけて、病室に入れば、すこし怪我をしているかもしれないけれど、きっと彼女はそこに居る。
驚き顔で目を丸くする私に向かって、「なぁに桜花? そんなに慌てて」なんて言葉を投げかける。
そこには兎さんもいる。
しのぶちゃんもいる。
兎さんは安心したように笑いながら、しのぶちゃんは心配したんだから、と怒りながら病床のカナエを叱っているに違いない。
雨が降ってきた。
隊服が濡れ、血濡れの羽織が濡れる。
それでも前に、前に足を動かし続けた。
蝶屋敷へ、一刻も早く蝶屋敷へ!
私が屋敷にたどり着いたのは、訃報から約一日経った後だった。
雨はまだ降り続いていたが、ここまで濡れ鼠になりながら走って来たのだ。そんなことは気にならない。
蝶屋敷の入り口にたどり着くと、そこに人影が見えた。
白い髪に、白い羽織。
業柱、十二支 兎が立っていた。
蝶屋敷の前で、呆然と、魂が抜け落ちてしまったかのように立ち尽くしている。
雨に体中が濡れているけれど、そんなこと少しも意に介していないようだった。
というよりは。
何もかもが、空っぽになっているようだった。
「兎さん・・?」
「・・・あ、桜花さん」
声をかけると、兎さんはちらりとこちらを見た。
瞳に生気がまるでない。
こんな彼を見るのは初めてだった。
「兎さん・・・その、鎹鴉の報告」
「うん」
「な、なにかの間違いですよね? そうでしょう?」
「桜花さん」
「だって、だって。カナエは強いんですよ?」
「桜花さん、落ち着いて」
「わ、私なんかよりずっとずっと」
「桜花さん!」
兎さんが、唐突に大声を出した。あまりに悲痛な叫び声に、私はびくッ、と彼を見つめる。
雨のせいで気が付かなかった。
それなのに、そんな質問をした自分は、なんて愚かなんだろう。
泣いていた。
十二支 兎はその日、初めて私の前で泣いていた。
彼の赤い瞳から、透明な雫がこぼれ落ちている。
私は、理解した。
彼女はもう、この世に居ない。
行ってしまったのだと。
瞳が熱くなる。
心がクシャクシャの紙になったように握りつぶされる。
こんなのずるい。
まだ、返事してないですよ。
約束しようと思ったのに。
ちゃんと約束して安心させようと思っていたのに。
もっとたくさん、話したいことがあったのに。
ちゃんと、ありがとうって言いたかったのに。
「う、あ」
口から嗚咽が漏れた。
こんなふうに泣くことがあるなんて、思ってもみなかった。
琳が死んだときから、泣いたことなどなかったのに。
『私、胡蝶カナエ。あなたは?』
『むぅ、無視するなんてひどいわ。せっかく桜の精みたいにきれいなのに、そんなにむすっとしてたらもったいないわよ』
『ほら桜花、笑って!』
カナエからもらった心で、私は泣いている。
「ああ、あああああッ」
「うわぁあああああああああああああッ!!」
私たちの涙は、雨にながれて消えて行った。
死んだ命は回帰しない。
失われた物は戻らない。
行ってしまった者に、会うことなど二度とない。
それでも、想いはきっとこの世に残る。
私たちが誰かからそうしてもらったように。
「ん…」
うっすらと目を開ける。そこには、よく知った蝶屋敷の天井が見えました。
「おや、気が付かれましたか、桜花さん」
声のした方を見るために、上体をゆっくりと起こす。寺で鬼に襲われた傷がまだすこし痛みますが、彼女、胡蝶しのぶちゃんの治療のおかげで最初に比べれば随分と痛みが引いてきました。
「さすがに元『柱』ですね。傷の治りが、非常に速い」
それでもまだ安静にしておいてくださいね。と桜花の寝台の横に座る彼女は心配そうに、
相変わらずの『笑顔』で言いました。
医者の言葉は絶対。彼女の言葉に従い、姿勢を戻します。
ふと隣の寝台に目を向けると、数珠坊君と菊ちゃんが毛布にくるまって眠っていました。
「あの子たち…」
「離れないと言ってきかないんですよ。ずいぶんと懐かれましたね、桜花さん」
すやすやと眠る二人を見て、ほっと息をつく。
「夢を、見ました」
「夢、ですか? どんな?」
「…カナエの夢です」
しのぶちゃんから、表情が消えます。
「たわいない話の事から、大事な話をしたことまで」
「…そうですか」
「ねぇ、しのぶちゃん」
「はい、なんですか、桜花さん」
しのぶちゃんはためらいがちになりながらも、返事を返す。
今、話すべきなのだろうか。
屋敷に来てもらって、あの夜、手を離してしまったあの夜にカナエから渡された、手紙と一緒に話すつもりだった真実を。
いえ、きっと。
今話してほしいって事なんですよね、カナエ。
兎さんは私に全てを話した時に、しのぶちゃんには言わないでほしいと、そう言っていたけれど。
今彼女がそれを知っても辛いだけだからと、オレを恨むのなら、それでもいいと。
けれど。
今、夢の中にあなたが出て来たと言う事は。
そう言う事なんですね、カナエ。
「今。ここで話してもいいですか?私が聞いた、あの日の事」
「…お体に障りますよ?」
「今、聞いて欲しいんです。我がまま言って、ごめんなさい」
しのぶちゃんはしばらく黙っていました。
決心がつかないのでしょう。
彼女は、ちらり、と後ろを振り向きました。
視線の先には、数珠坊。
『兎、悪い奴じゃねーよ』
『誰かを必死で守ってくれてる奴が、悪い奴なわけねーもん』
しのぶちゃんは、桜花に向かって向き直りました。
「…続けてください」
「‥ありがとう、しのぶちゃん」
そして、桜花は口を開きました。
「あの日、兎さんとカナエは確かに合同任務にあたっていました」
「はい、それであの人は姉さんを見捨てて」
ぎり、と歯をならし、手を握りしめるしのぶちゃんに、桜花は首を横に振ってこたえました。
「違います、そうじゃないんです」
「兎さんは、カナエに頼まれて、その場を離れたんです」
その日の事を、十二支 兎はよく覚えている。
その日は兎とカナエの合同任務の日だった。
任務の内容は、昨今不自然な人間の出入りがこの町で起きている、とのこと。
極楽の在り方を謳ったり、妙な勧誘を行ったりする人間が、ちらほら町中に現れ始めたと言う。
ただそれだけでは鬼殺隊の任務と言うには不十分だが、偵察・調査を行っていた隠や下位の隊士がこぞって行方不明になったとあればただ事ではない。
そこで柱二人が派遣される運びとなった。過剰戦力、という意見もあったけれど、警戒しすぎてしすぎることはない。
任務は、鬼が動き出す夜から。
昼の間の調査はまだ鬼が活発でないこともあり、隠の皆さんが行っている。
「やっぱり、鬼の仕業なのかしら」
調査を続け、夕刻。町を歩きながら。隣のカナエがそう呟いた。
「…わからないけど、隠や隊士が居なくなっているんだとしたら、可能性は高いよなぁ」
やだなぁ、もう。とつぶやくと、カナエがすっ、とオレの手を握った。
「大丈夫よ、兎。私が一緒だもの。二人なら何があっても大丈夫」
「カナエ」
「ほら、怖くない、怖くない」
にぎにぎと手を握るカナエ。
手のひらだけでなく、心も共にあたたくなる。
昔から、怖いときには必ず隣に居てくれる人だった。
だから、どんな相談も気軽にできて、オレはカナエに甘えていたのだろうと、今は思う。
だから気付けなかった。
彼女の気持ちを、すこしも考えていなかった。
「なぁ、カナエ」
「ん? なぁに? 兎」
「相談があるんだ」
「? なんでも言って、私は兎の味方だから」
「桜花さんに、櫛を送ろうと思うんだ。どんなものがいいか、任務の後、一緒に考えてくれないかな?」
「…うん」
「わかった、私は兎の味方だから、ね」
だから、見落とした。
いつだってそうだ。
オレは何時だって、人の苦しみを見落として生きている。
その夜。
オレ達は町を歩きながら、鬼の捜索をしていた。
オレは舌が敏感だから、空気に舌をさらすと鬼の味がよくわかる。
鬼の味は、生き物としてどこか歪で、血の味が濃い。
その日感じた味は、いままで感じたどの味よりも味が濃かった。
「っ!? カナエ! 構えて、近くにとんでもない鬼がいる、多分、上弦だ!!」
「っ、ええ!」
それぞれ互いの日輪刀を抜く。
幸い夜も深いからか、人の往来は少ない。
味を辿ってオレ達は、町の裏路地まで入り込んだ。
ここは言うならあまり金を持たない人たちが暮らす区域で、とても失礼な話ではあるけれど、表町の町並みに比べたら簡素な家が多い。
だから、道の真ん中でニコニコと笑うその男の姿が、より異様に見えた。
「おや、おやおやおや」
男は屈託なくニコニコと笑っていた。頭には血を被ったような模様が付いていて、おもしろそうに両手に持った扇をバチン、とならした。瞳にはそれぞれ文字が刻まれていた。
上弦の、弐。
「思ったより、早く来ちゃったね。ああ、そっか、そっちの彼。俺たちの居場所が味でわかるんだっけ? 聞いてるよ、あの子から」
「そうすると、隣の子があの子の言ってた女の子だね。綺麗な子だなぁ。オレは童磨。名前を教えてくれるかな?」
けらけらと笑いながら、語りかけるその鬼と相対して、オレはかつてないほど恐怖した。
鬼の味が濃いからじゃない。
目の前のコイツからは、鬼の味以外、何の味も感じない。
通常、鬼であろうが人間だろうが、少なからず気持ちの味を感じ取れる。
喜びだったり、楽しみだったり、悲しみだったり、憎しみだったり。
けれどこいつにはそれが無い。無味だ。
心が、無い。
「う、げぇええっ!」
「兎っ!?」
思わず手で口を覆う。
気持ち悪い。気持ち悪い。
こんな生き物が居るのか、居ていいのか?
こんなにも、こんなにも哀しい生き物がいていいのか!?
「ど、どうしたの彼。急に吐いたりして。心配だなぁ…。男はあんまり好きじゃないんだけど、特別に君も救ってあげようか?・・あ、駄目だ。君には手を出さないってのがあの子との約束だったんだ。ごめんよ、君は食べてあげられないよ」
「うる、さい」
息も絶え絶えに返すと、鬼はすこしむっ、とした表情をわざわざ作って言い返してくる。
「疑うのも無理ないけど、俺は本気で君を心配したんだぜ。あの子に気に入られてるってだけで心配だけど、人間はどうせ何を頑張ったって限界ってものがあるんだ。無理して何かにしがみつく必要はないんだよ、俺が皆食べて幸せにしてあげるから」
「だまれっ・・」
「つれないなぁ。お互い立場があるから難しいのかもしれないけど、俺は本気だよ。君となかよくしたいんだ。そうだ、あの子には後で謝ってあげるから、やっぱり君も隣の彼女と一緒にオレの中で一つに」
「黙れって言ってんだろうがァァァ!」
『十二の呼吸』
『子』 の呼吸、『鼠惨死鬼』
「兎っ!?」
制止するカナエの声も無視して、発生した分身が一斉に目の前の鬼に斬りこんでいく。
「へぇ、すごい! いままで沢山鬼狩りも柱も見て来たけど、こんなことが出来る奴はいなかったよ!」
ケタケタ嗤う鬼は余裕を崩さない。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
この状況でも、まったく空気の味が揺るがない。
なんだ、なんだ、目の前にいるコイツはなんだ!?
「でも、人間が増えるわけはないからね。どんなに頑張ったって、君は一人きりなんだ。その点、俺は違うよ?」
そう言って鬼は鉄扇を開いて呟いた。
血鬼術――【散り蓮華】
ブワッ、と蓮の花びらを象った何かが辺りに散布された。酷く冷たいそれを見た時、オレの本能は警鐘を鳴らした。
まずい、近づくのは不味い!
『午』の呼吸 『掛馬』!
体の速度を倍にして、とっさに距離をとる。凍てつく花弁は、一瞬でオレの本体がさっきまで居た場所ごと、あたりを凍りつかせた。
「おや?」
鬼はまた、面白そうにオレの方を見て言った。
「さっきと全然速さが違ったね。すごいなぁ、君、一体どういう使い手なんだい?気のせいか、さっきと呼吸の音が違ったように聞こえたけど。増えたり跳んだり、けど刀自体の型って感じじゃない。めずらしいなぁ、それじゃまるで『呼吸』というより【血鬼術】だね」
「随分と、喋る奴だな。疲れないのかよ?」
「疲れるよ。鬼だって気疲れぐらいするよ、たぶんね」
「じゃあ、すこし休ませてあげるわ」
『花』の呼吸 肆ノ型
『紅花衣』
今度は踏み込んだカナエがオレに目を向けていた鬼に斬り込んだ。大きく円を描くかのような、美しい剣戟。
カナエだって柱だ。その速度は並の隊士の比じゃない。
「おっと」
それを、鬼はたやすく躱して見せる。
「すごいすごい、頑張れ頑張れ、次は当たるかもしれないよ?」
「くっ…」
危険だと判断したカナエが、オレと同じように飛んで距離をとった。隣に並び立つ形になる。
「そっちの子も柱なのかな。隣の彼程じゃないけど強いんだね」
「あなたは…十二鬼月、上弦の弐ですね」
「うん? そうだよ? 驚いた?」
「まぁそうね。こんなに喋る方とは思わなかったわ」
「あはは、そうかな。俺からすればみんなの口数が少ないんだよ。会話ってのは大事だよ。何度も何度も言葉を重ねることで仲良くなっていくものさ」
君たちだってそうだろ? と鬼は鉄扇でオレたちを示した。
「オレは仲良くなりたいんだ、人間だろうと、鬼だろうとね」
鬼は屈託なく笑いながら言った。
「言うな、それ以上言うな」
オレは日輪刀を構えなおして言った。
カナエの夢を、侮辱された気分だった。
「お前からは、感情の味がしない」
「ん?」
「喜んだことも、悲しんだこともない。言葉を重ねて仲良くなるだって? 誰かを自分の友人だと思ったことがあるのか? 本当の意味で、慈しんだことがあるのか?」
「・・・」
「感情の味が全然しないのに、血の味だけ誰よりも濃い。お前今迄、何人食ってきたんだ?」
「そうだなぁ。すぐには出てこないけど、時間をくれれば教えてあげるよ。救った人間の事は出来るだけ覚えておくようにしてるんだ」
「…やっぱり」
『十二の呼吸』
『午』の呼吸『掛馬』。
オレは思い切り地面を踏みこみながら呟いた。
「お前とは、仲良く出来ない」
「そう? 俺は君が結構好きだけどな」
直後、刀と鉄扇が空中でぶつかった。
なんどもなんども、鉄と鉄がぶつかる音が聞こえる。
その中に、空気の凍てつく音や、虎の咆哮のような音さえ混ざる。
とある町の片隅で、二人の超越者が死闘を繰り広げていた。
(すごい。早すぎて、割って入れない‥)
胡蝶カナエは剣戟をなんとか目で追いながら、二人の戦いをみていた。
無論、気を抜いている訳ではない。
なんとか兎の援護に回りたいが、下手に割って入ってしまえば邪魔になる。
けれど、このままでは。
「すごいねぇ、君。ここまでついてこられた柱は君が初めてだよ」
「口を、閉じてろって、言ってんだよ、ねぇってば!」
(互角に見えるけど、兎の方が徐々に押されていってる・・!)
体力が無限に続く鬼、そして広範囲にわたる氷の血鬼術。
鬼殺の隊士にとって最悪と言える相性。
それはいかに十二支 兎だとしても例外ではない。
「くっ!?」
『申』の呼吸 『猿利口』
キィィ、という呼吸音の後、鬼の左腕が吹き飛んだ。
「あれ? いま正面から受けたと思ったのに、反対側から。不思議な技だなぁ」
ずるり、と鬼の左腕が再生した。
「くそっ」
再び兎が距離を取りカナエの元に戻る。
「うーん…ちょっと時間がかかり過ぎてるな」
鬼はこまったように笑いながら言った。
「あ、そうだ。あとはこの子に任せようかな。ごめんね、君ともっと遊びたいんだけど」
そう言って鬼は対の扇を重ねあわせた。
「俺も目的があってここに居るからね」
血鬼術――【結晶ノ御子】
扇の間から、現れたのは氷の人形。主である鬼の姿を象ったそれは、地面に降りるとしゃらん、と音を立てた。
「そんなもの出して、何を‥」
カナエが呟いた時だった。
血鬼術――【散り蓮華】
その人形から、本体と同じ技が放たれた。
「きゃっ!?」
「嘘だろっ!?」
カナエと兎は、互いに技を出し、氷の花弁を弾き飛ばした。
「なにこれ、さっきとほとんど同じ…」
「驚いた?」
ニコニコと笑いながら、鬼は言った。
「この子、俺と同じくらいの威力の技を出せるんだよ。すごいでしょ」
はーい、それじゃあきみ。
そう言って鬼は言葉を繋いだ。
「町に向かって、適当に殺しておいで」
「なっ!?」
「そんなっ!?」
主の言葉を受けた氷人形走り出した。一目散に、町に向かってかけていく。
「お前、なんてことを!?」
怒りのあまり兎が怒号をあげる。それにも鬼はけらけらと笑うだけ。
「どうするの? このまま俺と君で遊ぶのもたのしそうだけど。このままじゃ大勢死ぬよ?」
「てめぇっ・・」
「あ、でも心配しないでおくれ。御子はちゃんと殺した後死体を持ってくるから、俺がきちんと皆救済してあげるから」
鬼の煽るような言葉を聞きながら、隣の兎の怒号を聞きながら、カナエは考えていた。
本体と同等か、それ以下の強さを持つ人形が町に向かってしまった。
鬼はいまだ健在。
それどころか、十二支 兎をしてやっと対応できるほどの強敵。
カナエの心はもう、決まっていた。
「行って、兎。この鬼は私が相手をします」
「カナエ!?」
「私では町の人を守りながらあの氷人形の相手は無理よ。人々の安全も保障できない。でもあなたなら」
「だ、駄目に決まってるだろ! 相手は上弦だぞ、それをカナエ一人でなんて」
「…兎」
カナエは優しく微笑みながら、兎に言った。
「お願いよ、兎。皆を、守ってあげて」
「皆今は眠ってるけど、明日になれば家族と一緒につつがなく、幸せな毎日を送るの」
「子供を育てて、兄妹で笑って、両親の美味しいご飯を食べて」
「そんな当たり前の幸せが、奪われていいわけないのよ」
「今それを守れるのは、あなただけなのよ、兎」
それでも、十二支 兎は迷っていた。
おいていけない、君は大切な人だから。
そう思った。
けれど、それを口にする前に、カナエは言った。
「兎、私ね、あなたの事―――」
そこまで言って、少しカナエは口をつぐんだ。
彼女もまた、なにか言葉を紡ごうとして、迷っているようだった。
「オレの事・・・?」
「――信じてるから」
カナエは静かにそう言った。
「私は、貴方を信じます。だから」
「だから行きなさい! 業柱、十二支 兎!!」
兎は、目を見開いて、それでもまだ迷った。
迷ったけれど。
やがて日輪刀を握りしめ、氷人形が走って行った方向に足を向けた。
「カナエ、必ず戻る」
「うん、信じてる」
そしてカナエは最後に、兎に向かって聞こえないように呟いた。
「…桜花をちゃんと幸せにしてね、兎」
『掛馬』。
そして、十二支 兎はその場から消えた。
二人の、今生の別れだった。
「あーあ」
その場から消えた兎の方向を見て、鬼――童磨はさも哀しげな声を作って呟いた。
「だめじゃないか、あんなこと言っちゃあ」
「人間には、みんな限界ってものがあるんだよ。確かに彼は強いけど、御子から人を守りながら戦うなんて、しかもその後ここに戻って君を守るなんてできっこないよ」
「どんなに強くたって、なるようにしかならないんだよ。哀しいけど」
そう語る童磨に向かって、カナエは言った。
「―――可哀相に」
「え?」
圧倒的な強者を前にして、それでも最後まで伝えられなかった少女は言い放つ。
本当に言いたかったことは、『信じてる』ではなかった。
けれど、それを口にしたら優しい彼は苦しむだろうから。
もう大切な人に苦しんでほしくなかったから。
「残念だけど、きっとあなたには一生わからないのね」
「? なにがかな?」
「人を好きになるって、本当に素晴らしい事なのに。きっとあなたにはそれが死ぬまでわからないんだろうな、って思って」
「急に何の話かな?」
カナエは日輪刀を構えながら言った。
「さぁ、私にもわからないわ。口づけもまだしたことない小娘だからかしら」
「なんだって。それは可哀相に」
童磨も、バチっ、と扇を開いて言葉を返した。
「やっぱり君も、俺が救ってあげないとね!」
「貴方に救えるものなんて、何もない!」
目の前に迫る鉄扇と押し寄せる氷の血鬼術。
まぶたにそれを焼きつけながら、カナエは心の中で呟いた。
兎、桜花、しのぶ、みんな。
ごめんなさい、大好きよ。
そして、鮮血は花弁のように飛び散った。
大正コソコソ噂話(偽)
今回 童磨はまったく本気を出していません。
今回彼はある鬼に頼まれてカナエだけを殺しに来ていたからです。
友達思いの彼は、その上弦の零の願いをあっさり聞き入れたのです。