今回は少し小さな話、閑話。
この文章で何度か使っている「紙一枚」について。
この考えは、『ホーンブロワー』(セシル・スコット・フォレスター)が大元です。
ナポレオン一世がヨーロッパで暴れ、イギリスが戦っていたころの、イギリス海軍の貴族出身でない艦長、ホレイショ・ホーンブロワー。
他にもジャック・オーブリー、最低の強制徴募兵出身のトマス・キッドなどいくつものシリーズがあります。
それは宇宙戦艦作品にも大きい影響を与えています。
その艦長たちの特徴は、紙一枚であること。国に任命され、兵器を預かる。自分の物ではない。
今の日本人は、当たり前だというでしょう。
どこの世界に自分で潜水艦を購入して、それで海上自衛隊の艦隊に参加して戦ってる人などいるか、と。
艦長になりたければ、防衛大学に行って勉強し、海上自衛隊を志望し、出世する。それが唯一の道です。
ですが、戦国時代の水軍の多くは、そうではないというでしょう。
船は、先祖代々の家の財産。名刀と同じく。
陸の農村でも、領土、領民兵は当然、その領主の私有物と言える……厳密には戦国武将の土地所有は実に多様なのですが。
それと同じく、船も、時には港さえも財産。
そんな社会から、国家の軍隊に変化する過渡期がナポレオン戦争だったのです。
対岸のフランスも、騎士たちの戦争から大砲を基盤にした絶対王政になり、さらに市民を徴兵する国民軍が生じました。それはまさに無敵でした。傭兵と違って逃げないのです。さらに大砲も使いこなし、その費用も払えるのです。
過渡期だからこそ、確かにホーンブロワーも艦をもらい、水兵の割り当てを受け、乾パン・塩漬け肉・水・樽・蒸留酒・帆布・タール・弾薬など膨大な補給物資を海軍からもらえます。
しかし、それは最低限。金持ちの同僚は、艦を金箔で飾り、自分の金を見せて自分でも水兵を募集します。親戚を訓練生として乗せている提督もいます。代々の執事を従卒として置いている人もいます。艦長用のごちそうの食材は自費で持ちこみます。
また、敵艦を沈めずに拿捕したら、持って帰って母国の海軍政府に売ることができます。それが巨大な収入源になります。
キャプテン・ドレイクなど少し前の英国海賊たちの名前を思い出す人もいるでしょう。彼らは半分以上英国政府に所属し海賊行為にいそしんでいました。その延長の制度があるのです……私掠船制度・免状もまだ残っていました。
日本でも水軍は海賊も同然でした。
紙一枚。ホーンブロワーが、トマス・キッドが新しい艦に向かうとき意識すること。
自分が持っている、英国海軍の辞令……英国海軍の艦、なんとか号の艦長に就任せよ、とかなんとか。
巨大な大砲があり、訓練された下士官たち、水兵たちが合計何百人、千人以上武器を持っている船にあがり、その紙を開いて見せつけ読み上げたその瞬間から、艦長は船の独裁者、神になります。
南極に行けと言えば皆、南に漕ぎ出さなければならない、無理だとか嫌だとか言ったら死刑。
誰にでも、どんな命令でもできる。殺せる。ここにとどまって全滅するまで敵を食い止めろ、と命令できる。死刑にできる。
生殺与奪。生命を握る。絶対の支配者。
艦の司祭、国教会の最高峰である国王の代理人でもある。毎日曜日、礼拝を主宰する。場合によっては結婚式を挙げることもできる。
神の代理人。何が正しいかは艦長が、海軍が決める。聖書の解釈も。海軍から間違った楽譜が届いても、絶対に海軍が正しい、否と言えば死刑あるのみ。
絶対の権威。絶対の権力。
そのすべては、紙一枚。
別の海軍の偉い人が合法的に「この紙一枚はなかったことにする、新しい艦長はコイツだ」といった瞬間、絶対の権力を持つ生ける神だった艦長は、ただのおっさんと化す。
それが「紙一枚」です。
同様のことが、項羽と劉邦であります。
韓信は処刑されかけた脱走未遂兵から、劉邦によって一夜にして大将軍に任命されました。
まさに紙一枚……当時は紙が発明されておらず木や竹の板に書かれたにせよ。
そしてそれで軍を率い、数々の大勝利をしました。兵たちも、昨日まで一番低いところでぼろを着た兵だった男の命令に従ったからこそです。
勝利のたびに兵は増え、巨大な軍を手足のように動かしました。
しかしある夜、敗れた劉邦がほんの数人でやってきて、ハンコを押さえました。
その瞬間、韓信の大軍に対する命令権は失われました。
韓信は苦労して育て、ともに勝利を分かち合った兵を取り上げられ、少数の兵でまた転戦しました。兵たちもふざけるなと反乱を起こすことはせず劉邦に従いました。
紙一枚、命令権、権威という……文化、フィクションが浸透していたのでしょうか。
その後も韓信は勝利を続け国を得ましたが、結局は劉邦の命令ひとつで国も兵も取り上げられ、処刑されました。
後の呂公の一族が滅ぼされたときも、同じように軍を率いていた人がハンコひとつを持たなかったために、城に入ることも許されずに処刑されたものです。
海洋冒険小説、帆船と前装式大砲の時代を舞台にした小説は英米でとても人気があります。
それは、宇宙戦艦作品にも多くの影響を与えています。
当時は、船が最速の交通手段。何か月もかかる。
大砲が発達している最中だったので、76門とか多数の砲を、舷側に並べる。船が向かう正面ではなく、横向きに放つ。
大砲だけで瞬時に敵船を沈めるほどの威力はなかったし、手持ち機関銃もなかったので、よく「舷々相摩し」「帆桁(ヤード)を絡ませ」て、船と船がぶつかり合い、舷側から敵の船の甲板に飛び移り、カットラスや斧を振り回して戦う。海賊のように。
帆で動く風任せ。風の変化をとらえ方向転換して有利な位置を占めたほうが勝つ。そして何よりも訓練と規律、信号旗でアルファベットを表現して艦隊を操る。
『銀河の荒鷲シーフォート』
核戦争の影響で神が絶対の、人権のない権威主義社会になった世界。
超光速の船が最速の通信手段であることも、ナポレオン戦争と同じ。
船の上では船長が神。昨日まで最低の士官候補生の一番上だった少年が。自分よりずっと優れた人が何人もいるのに……自分よりずっと軍隊を知っている機関士。自分より強い次席の士官候補生。……
絞首刑を命じる。戦いを命じる。礼拝を主導する。……どれほど辛くてもやらねばならない。
『紅の勇者 オナー・ハリントン』
敵の政治トップがロブ・ピエール……ロペスピエールのもじりという笑える世界です。
宇宙戦艦同士の戦争で帆船を再現する……それに才能を全部投入していると言っていいでしょう。
宇宙で、高次元に広げる帆で超光速航行。いくつかの方向は絶対破れないシールド、だからこそ接近して、方向を制御して撃ち合う。さらに奇襲し、乗り移って白兵戦。
『ヴォルコシガン・サガ』
これもかなり海洋冒険小説の影響を受けています。
一隻しか通れないジャンプ点を用いているので、大軍の押しがない。
そして防御が発達しており、シールドを破れるのが小型化できず射程が短い重力内破槍のみ……というわけで接近戦、乗り移っての白兵戦も多い。
『レンズマン』も乗り移っての白兵戦から始まります。
『銀河英雄伝説』の斧をふるう装甲擲弾兵・ローゼンリッターもその子孫でしょう。
絶対王政・教会が強い、要するに古い権威主義体制。
接近戦・乗り移っての白兵戦が有効な兵器体系。できれば風を読み、風にもてあそばれる航海技術。
『ホーンブロワー』の宇宙版をやりたい、という英米SF作家たちの情熱はとんでもないとしか……
『タイラー』の吉岡平氏が太陽帆で、弾を真っ赤に焼いて撃つとかをやりたいとか何かのあとがきで読んだ覚えもありますが、それはどうなったのやら。
数々の宇宙戦艦作品に、宇宙海賊の概念があるのも海洋冒険小説の影響と言えるかもしれません。
ホーンブロワーなども、海賊との戦いもないわけではないですし。
それこそ名前を挙げきれない……
ルドルフが海賊との戦いで出世した『銀河英雄伝説』、敵が海賊だった『レンズマン』、文字通りの『敵は海賊』、海賊が主人公である『宇宙海賊キャプテンハーロック』『クイーンエメラルダス(松本零士)』、変わった形の海賊である『ミニスカ宇宙海賊(笹本祐一)』『再就職先は宇宙海賊(鷹見一幸)』、海賊との戦いが多くある『クラッシャージョウ』『ロスト・ユニバース』『タイラー』……