宇宙戦艦作品の技術考察(銀英伝中心)   作:ケット

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 まだ書名だけメモした本の何分の一かわからないほど少ししか読めていませんが、今覚えていることだけでも少しまとめましょう。


人格3、翻訳、尊厳

「人格」という漢語、漢字二文字の語は、近代日本で作られた和製漢語です。

 井上哲次郎という東大教授が「パーソナリティ」を訳した言葉。以前には「人品」「自身ノ情」などがあったそうです。

 

 また「哲学」も、西周という思想家が訳した近代和製漢語、そういうことも多いので、西洋の概念を近代の、著名な学者が訳した語が多い、という印象になります。

 ですが実際には、とても多くの西洋の語が、大航海時代になってしばらくして西洋が中国や日本を訪れるようになってから、中国で作られてきて、日本もそれを輸入したそうです。

 特に重要なのが、漢訳『万国公法』、1864年。ヘンリー・ホイートンの著書が中国語、漢文に訳されたもの。幕末、海外に関心を持つほうの志士たちが熱心に手に入れて読んだことで知られます。

 今の日本で使われる法に関する言葉のかなり多くが、この漢訳本によります。

 またロバート・モリソンの英華字典も重要です。

 江戸時代でも、そのような漢籍を輸入したり、また蘭学として様々なことを学んだりして、少しずつ言葉を積み上げていたのです。

 もちろん、明治維新後のある時期は日本人がとても熱心に多くの西洋語を漢字で表現し、それは中国にも輸出されました。中国ではそれを批判する声もありましたが、それこそ中華人民共和国憲法の多くは日本由来の語でできています。

 

 もとより、翻訳というのは困難な試みです。

 たとえば「学名=Sus scrofa domesticus/ブタ/豚/英語=pig」なら、中国にもイギリスにも「その動物」は昔からいたはずです。

 絵を描いても、生きている・あるいは内臓を抜いて塩漬けにした実物を指さしても、両方の頭に正確なイメージがあり、両方が持つイメージはほぼ同じです。ただし品種、利用法、善悪や不潔などのイメージ、ことわざ、神話など違いはあるでしょうが。

 しかし、ヨーロッパにカンガルーはいませんでした。嘘と言われていますが俗説があるほどに。逆に、オーストラリア先住民には「護民官」「三審制」は意味不明でしょう。

 そのように、中国・日本の、漢文で考える人たちにとっては根こそぎ存在しないことも多くありました。

 たとえば中国や日本には、古代ギリシャ・ローマのような、自由人が対等に集まって話し合って都市国家の方針を決める、というやり方、共和制・民主主義が徹頭徹尾ありませんでした。……郷村・土一揆はありましたが、何かが異質だったようです。

 日本では特に、『解体新書』、蘭学における翻訳の苦闘が知られています。

 固有の地名のように、漢字にするのが無意味であることもあるでしょう。その場合今の日本はカタカナにします。それを思いつかなかったうちは、国名や地名に暴走族のように漢字をあてはめたりしていました。米国、英国などは亜米利加、英吉利の短縮です。

 考えてみれば、昔の日本が中国の文化を受け止めた時も、万葉仮名として耳で聞いた音、日本人が自然に口から出す音を適当な漢字で丸写ししていたものです。

 アイヌ語にほかならない地名も多く見られます。

 また、般若心経の最後のギャーテイギャーテイ、は呪文だから訳すな、ということでインドの言葉の発音をそのまま漢字で表現しています。中国人も仏教を学んだころからそういうことはしていたのです。

 

 日本語での「人格」と「パーソナリティ」「ペルソナ」のギャップは大きく、「パーソナリティ」とカタカナにする方がいいことも多いようです。

 

 翻訳の困難……多くのヒューマン・ユニヴァーサルズを持つ同じ地球人でもこれほど困難なのです。

 まして異星人、あるいは知能強化犬と「話す」ことがどれほど難しいことか。

 だからこそ多くのSFは、上述ですが都合のいい翻訳装置を用います。

 それでも、理解不能であれば……『三体』では、三体人は地球人の、当たり前である「嘘」がものすごく長いこと理解できず、理解したときに震え上がってEOTとも交流を断ちました。

 そのようなことはまさに無数にあります。

 地球人同士の場合、完全に相互理解不可能、ということはなかったそうです。

 

 地球人同士の中でも、そのような言葉、生物種が伝播するかどうかも厄介な話です。

 たとえば前にも書きましたが、中国に『ユークリッド原論』が初めて入ったのはものすごく遅い、大航海時代以降です。

 とても不思議なことです。

 古代ローマの貨幣や陶器はアジアでも出土します。中国産の絹などはローマでとてつもない価値がありました。

 アレクサンダー大王のおかげでインドにかなり近いところまでギリシャ文化は広がっています。

 それこそギリシャの影響があるガンダーラ美術、仏像の作風は日本までも広がっています。

 ゾロアスター教・ネストリウス派キリスト教・イスラム教はそれなりの人数が中国にいました。

 聖徳太子が厩戸皇子と呼ばれるのもネストリウス派キリスト教から幼子イエスの飼い葉桶伝説が伝わったから、という説もあります。

 モンゴル帝国は中国から中東まで広く支配し、南の海にも交易ネットワークを築き、人と貿易、伝染病を行き来させました。中国から東南アジアへの海のネットワークも強いものでした。

 それなのにギリシャローマの史書、思想書、『原論』さえも、中国にまったく入っていないのです。

 逆に中国で盛んだった絹・紙・磁器などの技術も、長くヨーロッパに至りませんでした。

 逆に、インドに、またイスラムやヨーロッパに、中国の歴史や思想、物語が伝わっているともまったく聞きません。

 インドと中国を分けるヒマラヤ山脈と砂漠は、インドから中国に仏教を通すだけで、それ以外の本は徹底的に防いでしまう壁のようです。

 

 さらに言えば、特に近代化に関して、「翻訳」はそれ自体が暴力でもあります。特に今手に入る、ポストコロニアリズムの雰囲気が強い本から見れば。

 まったく別の概念を無理に注入することでもあります。強制改宗の手段でもあります。

 実際問題、一方の言語に一方……進んでいるとされる側の高等概念が足りなければ、まるまるそちらの言語の語を入れるか、強引に訳すか、どちらかしかないのです。

 日本語は特に西洋の概念の多くが語彙として翻訳されており、西洋の神学や物理学の相当大きな本でも翻訳できています。それができていない、西洋や日本に圧迫される諸語も多くあるのです。

 

 翻訳の歴史で特に重要なのは宗教聖典です。

 西洋であればキリスト教聖書の翻訳。カソリックの聖書自体が、ラテン語の聖書というのは旧約・新約ともに翻訳されたものです。

 そこから英語、ドイツ語などへの翻訳は、最初は禁じられて火あぶりになった人も出、それから宗教改革と同時に進みました。それは宗教改革の主役であるルターがドイツ語に聖書を訳した、それ自体が国語としてのドイツ語を作った、ということでもあります。

 イスラム教のコーランは、少なくとも宗教儀式に使う上では翻訳禁止です。だからこそチグリス・ユーフラテス河地域、エジプトなどでは、それまで話され書かれていた言語をかなり長い時間はかかりましたが駆逐したほど。ただしペルシア語はいろいろな形で残っていますし、近代になってからトルコ語というものも生じました。あのあたりは昔から宗教・言語・文字ともに何度も入れ替わります。古代エジプトのヒエログリフと神々、ギリシャ語とキリスト教、そしてアラビア語とイスラム教……楔形文字、アラム文字、ギリシャ文字、ペルシア語、アラビア文字、と。

 中国の歴史でも、仏典漢訳はとても大きな事業です。

 そして日本は中国から漢籍を輸入し、漢字を学び、それを仮名にしながら日本語を再構築していきました。漢文を返り点などで読んだり、経典は漢文をあえて訳さずそのまま読んだり。また素読という学び方もあります。

 素読と言えば、ユダヤ教徒も子供にかなり強引に(旧約)聖書を暗記させて脳のメモリを増やしてきたそうです。

 

 

「人格」という言葉に近いところに、「尊厳」「所有」「市民」「(同胞という意味の)兄弟」「内心(の自由)」「アイデンティティ」などが転がっていると思います。

 筆者より賢い人はもっと多く知っているでしょう。

 それ以前に、言葉をネットワークとして考える、ということ自体が恐ろしい、どれだけ学んでも足りないです。

「人格の尊厳」という言葉も、カント思想の重要な要素です。

 

「尊厳」という言葉も恐ろしい。

 以前筆者は、人間の死体をどう扱うか、医学実験台や食料にするか、で尊厳という言葉を使いましたが、特に生命倫理に関して他にも多くの意味があります。

 

 まず尊厳は、西洋と比べると三つになります。

1英語、dignity/キケロdignitas(ラテン語)~プラトンaxia(ギリシャ語)

2ドイツ語、W【u:】rde|カント

3英語では神学レベルで違う、日本の生命倫理学の文脈で起きた超訳、Sancity of Life(生命の神聖>生命の尊厳)

 

「尊厳」という語に今の日本人が深くかかわっているのは、日本国憲法13条の、個人の尊重。

 さらに「尊厳」は近代啓蒙哲学者のカント、ヒュームとも深く関わってしまいます。それ以前のキリスト教神学、トマス・アクィナスにも。またボエティウスという名も出ます。

 国連憲章や、戦後作られた各国の憲法を通じて、ナチスドイツを否定する文脈で、戦後の法・世界秩序・公認道徳の根幹とも言えます。

 根本的には、筆者は「すべての人間に、平等に、とても尊敬され尊重される地位・身分という感じの尊さがある」という感じを覚えました。

 

『東アジアの尊厳概念』で、中国が尊厳という西洋の概念をどう消化したか、尊厳に似た概念が古来の儒教にあったか、という問題もかなり掘り下げられていました。まだ入り口をのぞいただけでしょうが。

 中国伝統思想……儒教もある程度多様性があり、仏教・道教・法家も、さらに墨家……と人権概念、さらに近代中国が人権などの西洋思想をどう受容し消化したか、だけでもとんでもないテーマです。

 たとえば筆者は、日本は「近代の超克」など失敗したにしても伝統を利用して西洋思想を消化しようとして苦闘したとは知っていました。中国も同じようなことはあったろう、でも全て毛沢東が消し去り、中国共産党という鬼子だけが……と思っていました。台湾や香港をきれいに忘れて。

 台湾の多くの知識人が、中国伝統思想と西洋思想を付き合わせて考えることはたくさんしていたのです。

 そして中国本土、共産党政権下の知識人も、毛沢東の死後も膨大に育ち研究しています。共産党政権の下とはいえ、膨大な研究の蓄積はあるのです。

 

 ずっと前の『荀子』『史記』から中国で、「尊厳」という漢字集は、「天から授かった」特に尊い存在についてのことや、威厳や威信の意で、全人類平等、はない。ただし近現代の憲法などでは日本に近い、西洋のdignityの訳語としての用法も多くなっている。

「人間の尊厳」という言葉自体は儒教の文献にはないが、「人間の卓越した生来固有の価値」「人間は生来価値があるから尊重に値する」はある(李亜明)。

 

 ヨーロッパでの尊厳は、「人間は神の似姿である」ことと、ギリシャからの、人間・動物・植物・鉱物、という地位・身分の階段の複合のようです。だからこそ人間中心主義だと批判されもします。

 また、理性がある自由民、というのも、特別な尊敬に値する、尊厳、ということにもなるようです。

 

 ギリシャ・ローマは根本に自由人・奴隷の区別があります。

 ではそれは中国では?インドは?ペルシャは?

 インドは輪廻転生が全ての前提になりますが、ユダヤもギリシャもそれはありません。

 では中国の死後は?古来の日本の死後は?となります。

 

 生命の尊厳、というと日本では「尊厳死」、生命倫理の話が多いようです。

 SFでも多くの話があるでしょう。スタートレック歴代シリーズには、死と尊厳に関わる話は膨大にあるでしょう。本当に、死後の生もなく死ぬことでこそ高くなる、が『ピカード』にはあります。

 思い出されるのが、『ヴォルコシガン・サガ』でタウラは治療の可能性のための冷凍睡眠ではなく、友や恋人に看取られる死を選びます。結果論ですがアラールも同じ選択をしています。

 悲惨な状態になって殺してくれ、というのもとても多くあります。

 

 

 西洋で人格、尊厳が重んじられるのは、西洋は人を個人として扱い自由人を重視するからで、東洋はそうではない、とも考えられます。

 プロトタイプ的な考えかもしれませんが。

 東洋では族滅・連座が普通で、西洋はそれほどではないのも、個人の有無にかかわるのでしょうか。

『銀河英雄伝説』でゴールデンバウム朝が、ルドルフの時代から族滅が普通なのは、核戦争などで相当大きな変化があったからでしょうか。

 

『WEIRD「現代人」の奇妙な心理(ジョセフ・ヘンリック)』〔われわれWEIRD人は、現代世界に生きている大勢の人々や、過去に生きていた大多数の人々とは違い、極めて個人主義的で、自己に注目するとともに、自制を重んじ、集団への同調傾向が低く、分析的思考に長けている。人間関係や社会的役割よりも、自分自身をーーつまり自分の本来の性質や、業績、目標をーー重視する。~まさか、空間をまたぎ、過去にまでさかのぼる社会的ネットワークの単なる結節点だとは思っていない〕〔人類史を通してほぼずっと、人々は、遠縁の親族や姻族をもつなぐ、緊密な一族のネットワークの中で育ってきた。このような親族関係に統制された世界においては、人々の生存も、アイデンティティも、安全も、結婚も、成功も、親族ベースのネットワークの安定と繁栄にかかっており〕氏族、系譜や祖先がわかっている血縁集団、家、部族を単位とする社会と、個人を単位とする社会。

 

 人格、尊厳という言葉が、ユダヤ・キリスト教と個人を単位とする文化を前提にしているなら、中国にはそれがなくても不思議ではありません。

 だとしたら本質的に翻訳は不可能……「パーソナリティ」とカタカナにしたほうが正しかった?今多くの文脈でそうしているように。

 

 また、アウシュビッツ生存者などでいわれること、人がただ生きるだけ、すべての自尊心・文化・物語を破壊され、良心や恥を持たない、人間ではない存在のように生きることは尊厳を破壊されている、ということもあるそうです。

 そうみると尊厳、人格は、「恥」という、罪より一般的だと文化人類学が語るモノサシとのつながりも深いようです。

 ただ、SFでは「世界は厳しい」のはあたりまえです。『三体』では智子が、ひいては三体人が、宇宙は現実は厳しいんだ、それを直視しろ、と地球人を怒鳴りました。ルオ・ジー、ウェイド、ジャン・ベイハイにとってそれは自明でしたが、チェン・シンおよび彼女と同じ心である一般地球人は最後まで直視することを拒みました。『三体』の根本は道徳を捨てても生きるべきか、尊厳、の問題でもあるのです。

『ヴォルコシガン・サガ』でマイルズは、殺す殺されるの世界しかないというのも間違いだ、と諭したことがあります。

 また、戦いだけが生の実感になる、道徳などを全捨てして生きるためだけに戦っている状態こそが真実だ、平和の世界でのんきに生きている連中は偽りで軽蔑すべき……となってしまうのも、常に闘争とかかわるSFや戦争系冒険小説ではよく見かけます。

 

 

 あと……『人格の哲学(稲垣良典)』は何とかページめくって目を滑らせましたが……手も足も出ない、が正直なところです。

 やはり、人格の「ペルソナ」の面は非常に重大で、それはトマス・アクィナス神学と深く結びついており、神なくして人格はない……近代が、神学と哲学を切り離したのも間違っている……

 まあどこを読んでも、「じゃあイエスを知らない、キリスト教が本格的に伝播する前の中国人に人格は、愛や理性はなかったの?なんだったの?本当に人ではなく獣以下の何かだったの?」「これや『神学大全』を孟子や朱子や林羅山、李斯、玄奘三蔵や空海が読んだらどう思う?」と思ってしまいましたが。

 人間のペルソナにとって人と人の交わりが重要、というのは人としての孟子も合意しそうですけど。

 

 ……本気で「人格」という言葉に立ち向かうには、以前借りてめくることはした『神学大全』や、『ローマ書講解』『知解を求める信仰』『教会教義学』(カール・バルト)、カント、ヘーゲル、ホッブス、アリストテレス、パーフィットなども絶対必要になりそう……無理にもほどがありますが。

 

 

 さらに、それらは「内心」という問題につながることも気がつきました。

 人格の高低を問うなら、それは内心を評価すること。

 日本国憲法でもある「内心の自由」、思想・良心の自由とも関係して、さらにその内心の高低を問題にしてしまう。

 

「目的」という、探求したい言葉にも「人格」「尊厳」は強く関係しそうです。

 人格そのものを目的にせよ、手段にするな、がカント哲学のようですし。

 

 

〔なにか〕。

 本当に実在しているなら、それは孔子の時代の中国人にも、シャカの時代のインド人にも、コロンブス以前のインカ人にも、同じようにあるはず。

 人間の体の構造は同じ。精神にも多くのヒューマン・ユニヴァーサルズがある。「指を折る拷問」「目を潰す刑」はどの時代のどの民族も、完全に理解できるはず。

 では「人格」は?「民主主義」は?「人権」は?そして人間には本質的に理解できないといわれる量子力学は?

 日本人は、漢籍の中に「パーソナリティ」と完全に同じになる語が見つからず……人品、としたことも……漢字を組み合わせて訳した。

 他にも多数の、西洋の思想で使われる語をそうした。

 そんなこと、翻訳すべきことが多くある。

 

 もちろん、西洋哲学でも神学でも、「実在」というのは巨大なジャンルでしょう。日本語でも大きい本棚を満たし、欧米語なら普通の小学校図書館を満たすでしょう。

 でもそこまでではなく、できるかぎり考えて……

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