「おはよーございます! おばさん!」
朝、今日も下階からの一際通る声が聞こえてくる。
「あらみっちゃん、今日もありがとねぇ。うちの子ったらまだ降りてこないのよ。そろそろ出ないと間に合わないのに……」
二人の会話は俺の部屋まで全部筒抜けになっている。起きたのがつい五分前で、大絶賛身支度中につき返事は省略。しばらくすると、下からは「いつも悪いわねぇ」とか、「いえいえ、いつものことですよ」とか、「うちの子のことなんて放って置いていいのに」とか、「もう慣れっこですから」とか、井戸端のおばさん同士らしい会話が聞こえてきていた。
「よー! ほら、みっちゃん来てるわよー!」
「あーはいはい分かったから!」
「ほらでっかいの! 早く降りてきなさーい!」
母親の声だけでもうるさいと言うのに、幼なじみの声まで重なると姦しいことこの上ない。
「うるせぇ二人して呼ぶんじゃねぇ!」
ズボンに足を通して、ハンガーに掛けてあるワイシャツを羽織る。いつも通りであればもう少し正確にできるのに、急かされるとどうにも上手くボタンが留まってくれない。
ああもうもう面倒だ、自転車に乗りながら留めてしまえ!
階段を一段飛ばしで降りて一階へ。
玄関に座り込み、膝の上に学校指定の鞄を載せた俺の幼なじみ――美智は、俺の姿を見るやいなや、肩で揃えた黒髪を揺らし、にっこりと笑った。
「おはよう。――五分遅刻だね」
◇◇◇
「ルーズなのは背だけにしておきなさいよねー。わたしが起こしに来なきゃ毎回遅刻だよ?」
「はいはいいつもありがとうございますー」
「あー、心がこもってない」
「込めてるよ、一応な。いちおう」
「人に伝わらなきゃ、込めても意味無いんだよ?」
そう言って俺を見る美智の頬はぷくりと膨らむ。高校生にもなってその仕草はどうなのか、と思わなくも無いが、それこそ幼稚園に入る前から見ているのだから、それはそれと言うものだろう。
自転車で併走しながら、他愛も無い話をして学校へ向かうのも小学生から続くやりとり。
美智は家も幼なじみで、親同士も交流があることもあって物心ついたときには一緒に遊ぶようになっていた。
どうにも朝が弱い俺を起こしてくれるのはいいこと――なのだが、そろそろ年頃なのだからそこらへんのことは考えてもらいたくもある。――俺の前で見せないだけで、ちゃんとしているのだったらそれでいいのだけれど。
「だいたい、夜更かししてるから起きれないんだよ?」
「お前が夜遅くにライン送ってくるからだろうが。大体、俺と同じくらいの時間に寝たとしたら睡眠時間は同じな筈だぞ。なんでお前は平気なんだよ」
「ふふん、わたしは睡眠時間足りなくても平気ウーマンだから大丈夫なのです!」
「……だから背が伸びないんじゃ」
「……なんか言った?」
ないか、と言う前に美智の声が割り込んでくる。声がやけに涼しいものになった、気がした。
隣では、満面の笑み。顔は笑っているはずなのに、空気が全然笑っていなかった。
「いや、なんでも」
「な、ん、か、言、っ、た?」
「……ごめんなさい」
「よろしい」
背が低いこと。自分から言っても平気なくせに、他人から言われると怒るんだよなぁ、こいつ。
こちらは身長190㎝越え。一方で美智は140㎝行くかどうか。自転車に乗っていると、それがなおさら顕著に見える。
実際、今俺は目線を下の方に向けていて、美智の方は見上げるような視線になっている。
「わたしはもうすこーししたら成長期が来るんですっ」
何年か前にも聞いた言葉を聞きながら、俺たちは学校の正門をくぐった。
夜。
ぽんっと軽い着信音で目が覚めた。
バスケ部の練習が終わり、家に帰ってそのままベッドに倒れ込んでいたようで、外は真っ暗になっていた。
枕元にあったスマホは緑色の光を放っていて、見ると白い吹き出しの中に顔文字が一つだけ描かれていた。
【⁽⁽◝( ˙ ꒳ ˙ )◜⁾⁾】
表示される名前も、アイコンも、見飽きるほど見たもの。
幼なじみからのラインが飛んできていた。
【何?】
【( ・ㅂ・)و ̑̑】
顔文字と共に送られてきたのは、黄色い鼠のキャラクターの編みぐるみ。手芸部で作ったのだろう、顔文字は「よくできたから褒めて」と言っているように見えた。
【上手いじゃん】
【ヽ(゜∀゜*)ノ】
反応はおおよそ当たったようだ。
その後はスタンプの応酬が続いて、しばらくして携帯から着信音は鳴らなくなる。
美智はこうやって夜になるとラインを送ってくる。しかもそれなりに遅くに。返すのは嫌じゃ無いし、反応を見たいから返すのだけれど、そのせいでいつの間にか寝る時間を過ぎているのもしばしばあった。
【早めに寝なよー】
ぽんっという音と共に、文字のみの受信。
夜十一時までラインを送っておいてそりゃあないだろう、と心の中でだけ悪態をついて、文字だけは平静を装って文字を打ち込む。
【そうする。おやすみ】
【おやすみー】
ぽんっという音と共に文字が表示される。
隣家の一角の部屋の電気が消える。
それを見て、電灯の線を引っ張った。
◇◇◇
ある日の晩。
――そろそろラインが送られて来るかな、とふと携帯を見た瞬間。
ガシャン
何かが、割れる音が聞こえた。
家の中から聞こえたような近いものではなく、でも決して遠くで割れたような音でも無かった。
ここはまわりに飲み屋街があるわけでもない、それなりに閑静な住宅街。家に子どもが居れば、隣くらいであれば走り回る音が聞こえるほど静かな住宅地。
聞き慣れないガラスの割れる音に、ふと胸がざわつくのを感じた。
【そっちで何か割った?】
美智にラインを送ってみる。いつもは数分もしないで既読が付くはずなのに、画面を見ている間は既読マークが付くことは無かった。
「……寝てるか?」
窓を開けて隣の家を見てみると、電気は付いていない。おそらくもう寝たのだろう。それ以来何も聞こえないのだから、もしかしたら聞き間違いだったのかもしれない。親も何も言っていないし。
とすれば、今日は早めに寝ることにしよう。明日美智が来たときに聞けばいい。
充電器のプラグを携帯電話に差し込み、布団を被った。
次の日。
物音も何も無く、自然にぱちりと目が覚めた。
「なぁんだ、俺もやればできるじゃん」
やけに頭がすっきりして、気分もいい。早寝をすればこんなにも気持ちよく早起きができるのだ、と目覚まし時計を見て――――
「こらぁ! よー! 遅刻するよ!」
時計が8時10分を差しているのに気づいた瞬間、下階から母親の声が聞こえてきた。
八時も過ぎれば美智が来ている筈なのに、今日は何も聞こえていない。美智の声がすれば間違いなく起きていたのだから。
――とすれば、今日、美智は来ていない?
階段を降り、台所へ。
バターロールを掴んで口に。用意されていた牛乳で流し込む。
「美智は?」
「あれ? そういえば今日は来てないわねぇ。いつまでもみっちゃんに起こしてもらおうなんて思ってるからそうな――」
「あぁわかったわかった。それじゃ行ってくる!」
母親の小言を中断し、玄関のドアを開ける。
道路にも、車庫の前にも、美智は来ていなかった。
学校に着いたのは始業数分前。担任の小言を聞き流しながら美智の席を見る。
そこに美智は居なかった。
その日、美智は学校を休んだ。体調不良らしい。数日後には来るので、プリントなどはまとめて机に置いておいてほしいと親から伝言があったとのこと。
部活を終え、家に帰る。夕方にもかかわらず、電気は点いていなかった。
――見舞い、した方がいいのかな。
――いや、でも寝ているのを起こすのは迷惑か。
二つの自分の葛藤の末、今日は自分の家にまっすぐ帰った。
◇◇◇
次の日、彼女は家に回らなかった。学校にも来なかった。
その次の日も、そのまた次の日も来なかった。
今日こそ家に寄ろうと思った日の夕方、部活後に携帯を見るとラインのアイコンの右上に複数の数字が表われていた。
――なんだ、連絡取れるじゃん。
送ってきた相手の名前を見て、ほっと胸が安らぐのを感じた。
見慣れたアイコン、見慣れた名前。白い吹き出しに、いくつもの文章が続いていた。
【たいへんだったよ】
【すぐに来てくれなんて言われちゃって】
【けど今のところは落ち着いたかな】
【て言っても、まだ忙しいのは続くみたい】
【こまわりが聞く背で助かった】
【わりと大変なとこもあるけど】
【いい感じだよ。うん。】
【ばすけの方はどう?】
【しゅーとは決まってる?】
【よーちゃんの活躍するところ、早く見たいな】
【わたしは元気だよ】
最後の【わたしは元気だよ】がいかにも美智らしく、ほっとした。
だけど、普段デカブツだの、でっかいのだの言うくせに、親をまねたのか、このラインでだけは「よーちゃん」って呼ぶのが何というか……少しくすぐったさを覚えた。
【そっちも元気そうでなにより】
【落ち着いたら連絡ちょうだい】
既読は付いているので、読んだ事はあちらにもわかるはず。
追加で二つのメッセージを送った。
いつもはすぐに既読になるのに、自分の二件のメッセージは、すぐに既読になることはなかった。
次の日、ラインは未読のままだった。
その次の日も、そのまた次の日も、ラインは未読のまま。
それから何ヶ月が経った。
俺のメッセージは、まだ宙に浮いたまま。