行きつけの蕎麦屋の店員さんに、お前ほど人間らしい奴はいないさ、と言われたことがある。
「お前は確かに妖怪だが、それでも人間よりも人間らしい」
人里の端の、誰も寄り付かないような寂れた場所でひっそりと佇んでいる蕎麦屋だ。未だかつて、ここに他の客が来ているところを見たことはない。その、何故潰れないか不思議な蕎麦屋を一人で切り盛りしている店員さんが、そんな突飛な事を言ったのだ。
「私は小人だよ。そもそも妖怪じゃないんじゃないのかな?」
「そんな小さな人間がいてたまるか」
中性的な声の店員さんは、くすくすと笑った。
正邪が死んでから、一年が経った。最初は悲しくて、むなしくて、霊夢のそばでわんわんと泣いたけれど、きっと正邪は、泣いている私なんて見たくないだろうと、そう自分に言い聞かせ、何とか立ち上がることができた。今でも無性に悲しくなるときもある。だけど、私は強くならなきゃいけない。なんていったって、あの指名手配犯だった鬼人正邪の下克上を止めたのは、他でもない私なのだから。
「どうしたの、急に黙って」隣で蕎麦をすする霊夢が、心配そうにこちらを見てきた。
「やっぱり、おいしくない?」
「やっぱりって、どういう意味だよ」店員さんが、大声でそれをとがめた。
正直に言えば、確かに蕎麦はそこまでおいしくなかった。きっと、夕飯時だというのに、私と霊夢以外で客がいないのは、そのせいだろう。だが、それ以外にも明らかにお客さんが来ない原因はあった。それは、私を馬鹿にしてくる店員さんの格好だ。
「ねえ、店員さん」
「なんだ?」
「どうして、顔中に包帯を巻いているの? 怪我をしているの?」
隣の霊夢が、ぶほぅと蕎麦を吹き出した。変な場所に入ったからか、ゴホゴホと咳をしている。
「なんでって、そりゃあ準備だよ」
「準備?」
「怪我をする前に、包帯を巻いといた方がいいに決まってるだろ?」
「よくないよ」
適当なことを言い、ケラケラと笑った店員さんは、おもむろに私の蕎麦に何かを入れた。黄金色をした、円状のそれは、香ばしい香りを放っている。
「ねえ、これ」
「おまけだ」
「いいの?」
「かき揚げってのは、こういうときにつけるべきなんだってよ」
「へー」
霊夢の生返事を横に聞きながら、私はそれを思いっきり口に入れた。私の体にしては大きすぎるそれを、必死に口へと運ぶ。ふらふらと体が震え、蕎麦の容器をひっくり返しそうになった。
「おっと、大丈夫? 針妙丸」
「あ、ありがとう霊夢」
ひっくり返りそうになった器を手で押さえた霊夢は、気をつけなさいね、と短くいい、また蕎麦を食べ始めた。今度こそ慎重に、食べる。
「お前は昔から何も変わらないな」
ほとんど会ったこともないにもかかわらず、店員さんはそう言った。反論しようとするも、口の中に溢れたかき揚げのせいで、もごもごとくぐもった声を出すことしかできない。急いで飲み込もうと必死に口を動かす。
「ねえ、聞きたいことがあるのだけれど」霊夢が、店員さんに向かって、囁いた。
「死んでも蕎麦屋はしないんじゃなかったの?」
「死んでからしないとは言ってない」
死んでないじゃない、と短く呟いた霊夢は、視線を店の奥の方へとずらした。塗装がはげた置き時計の隣、机の一番奥を見ている。いったい、そこに何があるのだろうか。気になり私もそこに視線を移す。
「あ!」
私は思わず叫んでいた。口に入っていたかき揚げが、ぽろぽろとこぼれ落ちるが、そんなのも気にならないくらいの衝撃だった。
写真は二枚あった。そのうちの、左には、とても綺麗な女の人が映っている。少し大人びた表情で微笑むその姿には、どこか引き寄せられた。私のお母さんも、こんな感じだったのかな、なんて考えてしまう。
だが、私が衝撃を受けたのは、その写真じゃない、右側の写真の方だった。そこには、楽しそうに満面の笑みを浮かべる一人の少女の姿が映っていた。見覚えのある少女だ。
「これ、私じゃん!」
いつ、どこで取られたのか分からなかったが、それは私の写真だった。それが、綺麗な額縁に入れられ、机に立てかけられている。
「よく撮れてるだろ」
店員さんは、自慢げに鼻をこすった。
「私が撮ったんだ」
「下手よ」
にべもなく、霊夢が否定した。
「烏天狗の誰かに撮って貰った方が、よっぽど綺麗に撮れるわ」
もう一度、私の写真を見つめる。確かに、どこかぼやけていて、いつも文お姉ちゃんが見せてくれる写真よりも、色が薄かった。
「素直に任せればよかったのに」
「分かってないな」
店員さんは、得意げに笑った。
「こういうのは自分でやることに価値があるんだよ」
そう言った店員さんは、愛おしそうに写真を見つめていた。自分の写真を飾られていると、少し気恥ずかしい。だが、嬉しいのも事実だ。思わず、にへりと頬が緩んでしまう。
蕎麦を口に入れ、食べる。確かにあまりおいしくない。だが、それでも私は幸せだった。理由は分からない。正邪と一緒に来たかったな、とそんなことを思った。
「ねえ、一つ聞いてもいい?」
包帯の裏側をいじくっていた店員さんに、声をかける。
「なんだよ」
「鬼人正邪って妖怪、知ってる?」
もう一度、霊夢が口から蕎麦を吐き出した。辛そうにこちらを見ている。大丈夫だろうか。
「鬼人正邪、ねえ」
顔が隠されているようで、表情は見えない。けれど、店員さんはどこか懐かしそうな顔をしているような、そんな気がした。
「一年前に死んだ悪い弱小妖怪だろ?」
「そうね」つまらなそうに、霊夢が答える。
「もし今生きていたら、もう一度私が殺してあげるわ」
「大丈夫だって」店員さんは、けらけらと、どこか聞き覚えのある声で笑い、霊夢に箸を向けていた。
「鬼人正邪は死んだよ。指名手配犯はもういない。だから、お前が殺す相手もいないし、必要もない。そうだろ?」
「そういうことにしてあげるわ」
よくわからないことを言った二人は、薄気味悪い笑みを浮かべていた。霊夢に向かい首をかしげるも、「なんでもないのよ」とはぐらかされてしまう。後でもう一度問いただそうと、心に決めた。
蕎麦を食べきり、つゆを飲み干す。小さな器だったが、私にとってはこれで十分だった。
「食べきったか?」
もごもごと口を動かしながら、店員さんは声をかけてきた。
「うん、おいしかった」
「そうか」
「ところで、あなたは何を食べているの?」
夕飯時だから、おなかが空いたのだろうか。懐から取り出した何かを、むしゃむしゃと咀嚼していた。おにぎりのようにも見えるが、色が違う。
「夕飯だよ。今日は赤飯だ」
「いいことがあったの?」
「責任を取ってるんだよ」
外の扉がカタカタと揺れた。きっと、春の暖かい風に揺すられたのだろう。ごちそうさま、と声をかけ、立ち上がる。霊夢と一緒に、その立て付けの悪い扉を開け、薄暗くなってきた外へと出た。奥の時計が、ポーンと音を立てた。振り返り、店員さんを見る。包帯まみれの口が、確かに、ただいま、と動いた気がした。
彼女たちが死亡するのは、きっと、もっと先のことだ。