ヤンデレな彼女と、攻撃を飄々躱していく超人彼氏のショートラブコメ。

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全13話の連作ショートラブコメを1つの短編にまとめたものです。
個人サイトに載せていたものの移設になります。


ただし超人に限る

1.

「キューさんの携帯、連絡先に女の子の名前多すぎませんか?」

 その声に、レポートを作成していた九斗(きゅうと)は作業を止めて振り返った。

 ベッドに腰かけた綾が、膝においた携帯をどこか思いつめた様子で見つめているところだった。

「普通くらいだと思うけど」

 苦笑しながら言うと、綾が携帯から顔をあげてじっと九斗を睨んでくる。

 九斗は両手をあげて、わかった、と立ち上がった。

「いいよ。全部消せばいいのか?」

「男の人も、全部です」

 試すように、綾が九斗の瞳を覗きこんでくる。九斗は露骨に嫌そうな顔をして、綾から携帯を取り上げた。

「あ」

 綾の口から意味のない言葉が漏れる。

 九斗はそれを無視して携帯を操作し、連絡先に登録されているデータを全消去した。

「ほら」

 そう言って、携帯を綾に差し出す。

 おずおずとそれを受け取った綾は、画面を見つめて幸せそうに笑った後、何かに気付いたように叫び声をあげた。

「って、私の連絡先まで消えてるじゃないですかー!」

「全部消せって言ったのは綾じゃないか」

 

◆◇◆

 

「で、本当に全部消したの? 俺のも? ゼミの人の皆?」

「ああ、消したよ」

 ゼミ室のコンピュータに向かいながら、九斗は答えた。

 ディスプレイには建造物によってもたらされる地盤変形の高精度予測法についての論文が並んでいる。九斗はそれぞれの数式の意味を解釈しながら、友人の言葉に耳を傾けた。

「消したってお前、え、お前、どうすんの? 不便すぎだろ」

「大丈夫。必要な連絡先は全部記憶してるから」

 数式の意味を解釈し終えると、次はそれを実現するプログラムとして打ち込んでいく。

「は? 覚えてた?」

 友人が怪訝そうに聞き返す。九斗は至極真面目な顔で答えた。

「何を隠そう、俺の趣味は連絡先の暗記だ」

「俺、時々お前が何考えてるのかわからなくなるわ」

 

 

 

 

 

 

 

2.

「うす」

 九斗は研究室に入ると、先にいた友人に挨拶して、真っすぐと奥のパソコンへ向かった。

「おう。ナイスタイミング。今からコンビニ行ってくるけど、なんかいる?」

「板チョコ二つ頼む。後、サンドイッチ」

「わかった」

「待て。先に金を渡しておく」

 九斗はそう言って、鞄を漁った。しかし、財布が見当たらない。

「む」

 鞄を逆さまにし、中身を机の上に広げる。細かいものが散乱し、友人が呆れた顔をする。

「お前、もうちょっと整理しとけよ」

 そう言いながら近づいてくる友人が、散乱した中身を見て不思議そうな顔をする。

「なあ、このアイマスク何に使うんだ? 通学中に寝てんの?」

 九斗は財布を見つけ、中から小銭を取り出しながら、何気なく答えた。

「ああ。彼女が、他の女の人をあまり見ないで欲しいと言っててな。それに応えようとアイマスクを用意してみた」

「は? 電車の移動中、これつけてんの?」

「いや、歩いてる時もだ。建築学科は男しかいないからつけてないが」

「歩いている時も? いやいや、他の女どころか道まで見えないと思うんですけど」

 九斗は特に表情を変えず、小銭を差し出しながら当然のように言った。

「ああ、だから心の目で見るんだ。意外と何とかなるもんだ」

「お前、いつか死ぬぞ」

 

 

 

 

 

 

 

3.

「ただいま」

 靴を脱ぎながら言うと、奥の部屋から綾が顔を出し、笑顔を見せる。

「おかえりなさい」

 ワンルームでの、半同棲生活。毎日繰り返すこの会話は、九斗にとって心地良いものだった。

「今日は、バイトなかったんですか?」

「ああ。休みだ」

 短く答えて、ベッドへ向かう。少し、疲れていた。

「悪い。少し、寝る」

「はい。おやすみなさい」

 綾がそう言って、ベッドに潜り込んでくる。いつものことだった。

 九斗は何も言わず、綾を抱くようにして目を瞑った。

 綾には、居場所がない。少なくとも、綾はそう思っている。

 だから、せめて、俺が。

 九斗は途中で思考を手放し、そのまま眠りに落ちた。

 

 目を覚ます。暗い部屋が広がっていた。夜のようだった。

 寝過ぎた。起きようとして、違和感を覚える。腕が、動かなかった。

「またか」

 呟いて、腕を動かそうと試みる。ロープのようなもので拘束されているようで、動かない。

 九斗は溜め息をついて、それから思った。

「やばい。漏れそうだ」

 

◆◇◆

 

「帰りました。これからおいしいご飯つくりますからね」

 玄関のドアが開く音とともに、綾の声が響く。

「ああ、おかえり」

 パソコンに向かっていた九斗はモニタから目を離した。

「はい、ただい――――って、何で抜け出してるんですか! どうやったんですか!」

 床に落ちているロープを見て、綾が悲鳴をあげる。九斗は至極真面目な顔で答えた。

「何を隠そう、俺の趣味は縄抜けだ」

「キューさんの趣味、おかしいものばっかりじゃないですか!」

「そうかもしれないな」

 笑いながら、思う。

 綾がこうした拘束を行うのは、初めてではない。九斗がこうして縄抜けするのも、初めてではない。綾は、九斗が抜け出すのをわかっていて、こうした拘束を繰り返す。

 不安、なのだろうか。あるいは、試しているのだろうか。

 わからない。

 ただ、綾がこうした行動を繰り返す必要がなくなる時が来ればいい、と思う。

 その時までは、少し騒がしいこの彼女に付き合おう。

 

 

 

 

 

 

 

4.

「今日もバイトあんの?」

「ああ、夜勤がある」

 全ての講義を終え、友人とともにエントランスを出る。

「お前、バイトやりすぎじゃね?」

「生活がかかってるからな」

 そこで、九斗は足を止めた。

「まずい。彼女がいる」

「え? どこ?」

「ゲートの方だ。待ち伏せされてる」

「あれ? 可愛いじゃん。何あれ。あれがお前の彼女? 聞いてたのと全然印象違うんだけど。つーか、何でまずい訳?」

「今会うと、仮眠がとれない。すまん、俺は少し回り道していく」

 九斗はそう言って、駆けだした。

「え? 待て、お前、そっち塀が……」

 友人の声を振り切って、そのまま塀に向かって走り、一気に跳躍する。塀にへばりつくことに成功すると、九斗はそのまま塀を駆けあがった。

「え、何お前、何でナチュラルに塀を駆け昇ってんの? 常習犯?」

「何を隠そう、幼い頃の俺の夢は忍者だった」

「お前、マジですげえな」

 

 

 

 

 

5.

「キューさんは、私のことどれくらい好きですか?」

 九斗の膝の上に乗った綾が、覗きこむようにして九斗の瞳を見上げてくる。

 大学もバイトも休みで、珍しくゆったりとした時間が流れていた。

「どれくらい? 難しい問いだな」

「例え、です。私はキューさんのこと、いっぱい愛しています」

「そうか。なら俺はそれ以上に愛している」

「なら私はもーっと、いっぱい愛しています」

「それなら俺は……」

 そこで九斗は言葉を切ると、少し考え込むように虚空を見つめ、至極真面目な顔で言った。

「……いや、やめておこう。あまり大きく設計すると保守性に問題が出てくる。コスト増やクオリティコントロール上の問題はもちろん、潜在的な瑕疵(かし)が出てくる危険性もある。それならこじんまりとしながらも、長年質が落ちないような――」

「キューさんって、時々凄くめんどくさいです」

 

 

 

 

 

 

 

6.

「キューさん、キューさん、見てください」

 綾がそう言って、親指を立てる。

 何をするのだろう、と九斗が彼女の親指を注視すると、えい、と可愛らしい掛け声とともに綾が無理矢理親指を逆に曲げた。

「おい。折れてる。確実に折れてるぞ。パッキパッキだぞ」

「大丈夫です。昔から、逆の方にも曲がるんです」

 綾はそう言って、親指を元に戻す。

「痛くないのか?」

「全く痛くないです。ちょっとしたストレッチみたいな感じです。キューさんは、こういう微妙な特技ないですか?」

「む。特技か」

 九斗は少し考える素振りを見せた後、そうだな、と呟いた。

「短時間だけだが、影分身ができる」

 僅かな沈黙。

「冗談だ」

「あはは。そうですよね。何故か一瞬信じてしまいました。何ででしょう」

 

 

 

 

 

 

 

7.

 その日、九斗は珍しく朝早く目を覚ました。

 物音がする。顔を起こすと、タンスを漁る綾の姿があった。

「何をしてるんだ?」

 声をかけると、ビクンと綾の肩が震える。

「キュ、キューさん! 今日は早いですね」

 そう言いながら、綾がタンスの中に何かを隠すのが見えた。

「探し物か?」

「そ、そうです。探しものです。え、えーと、あれどこに置いたっけなあー」

 わざとらしく呟きながら綾が部屋中を漁り始める。不審に思ったものの、眠気の為に九斗はそのまま枕に顔を埋めた。

「俺はもう少し寝る」

「は、はい。おやすみなさい」

 

◆◇◆

 

 再び起きた時、既に綾の姿はなかった。大学に行ったのだろう。

 九斗は時計を確認し、バイトまでまだ時間があることを確かめると、真っすぐタンスへと向かった。朝、綾が何かを隠したところを調べる。

「小箱……?」

 衣類の中に長細い入れ物を見つけ、取り出す。『キューさんコレクション2』とテープでラベルがつけられていた。中身が気になって、そのままフタを開ける。

「……随分と趣味が悪いコレクションだな」

 中には髪の毛と爪のようなものが入っていた。ラベルから考えて、九斗のものなのだろう。

 九斗は暫く小箱を見つめた後、ふむ、と頷いた。

「仕方ない。サービスしてやろう」

 そう言って、無造作に自分の髪をむしりとり、小箱に詰める。小箱から少しはみでたが、九斗は気にせずそれを元の位置へ戻した。

「あいつ、喜ぶだろうな」

 

 次の朝、ワンルームに綾の悲鳴が響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

8.

「蚊に刺された」

 九斗はそう言って、赤く腫れた指を綾に見せた。

「うわあ……嫌なところ刺されましたね」

「迂闊だった。いつもなら接近に気付くんだが」

 指を撫でる。少し、血が滲んでいた。それを見た綾がゴクリと喉を鳴らす。

「きゅ、キューさん。知っていますか? 怪我って、舐めて唾液をつけると治りが早いとか何とか」

「唾液で思い出したが、蚊が吸血するのは子どもを産むためのたんぱく質を得る為らしいな。それに噛んだ時に唾液を出して血小板の凝固反応を邪魔するとか。メスの唾液でベトベトだと考えると酷く気持ち悪いものがある。ああ、話の腰を折ってすまなかった。唾液をつけるとなんだって?」

「何でもありません。早く熱湯消毒してきてください」

 

 

 

 

 

 

 

9.

 夜。寝苦しさに目を覚ますと、綾が抱きついてきていた。

「暑苦しい」

 呟いて、そっと綾の拘束をほどく。それからトイレに行こうと身を起こした時、隣の綾が静かに呻き声をあげた。

「置いて、いかないで」

 九斗は、動きを止めた。あまりにもか弱い呟きだった。

 振り返る。丸まって眠る綾の目尻には、涙の跡があった。

 九斗はじっと綾の寝顔を見つめた後、そっと髪を梳いた。綾が小さく身じろぎする。

「すぐ戻るから」

 小さく告げて、立ち上がる。暗闇の中で丸まる綾の姿が酷く小さく見えた。

 九斗は目を離し、そのままトイレへと向かった。嫌に頭の中が冷え切っていた。

 

 

 大学受験というものが人にどれほどの影響を与えるものなのか、九斗にはよくわからない。

 建築学科の留年率は、低くない。理工系の留年率というものは、往々にして高いものだ。浪人生も多く、同じ学年でも年齢が違うということは珍しくない。自主退学する者も、それなりにいる。

 大学とはそういうものだ、と九斗は思っていた。

 受験の合否など、特別尾を引くものではない。失敗すれば、またやり直せばいい。道は、一つではない。

 ただ、そうした認識というものは、既に受験を終えた九斗だからこそ客観的に考えられるものであって、当人や家族にとっては別の一面を見せるだろう、ということも理解できていた。つまり、綾とその父親にとって、受験とはもっとナイーブな問題だったのだろう。

 綾の父親は過度な期待を持っていて、綾はその期待に応える事ができなかった。毎年、数えきれない受験生が経験するありふれた出来事。ただ、それは当人達にとっては無視できない出来事で、綾は、その挫折に潰れそうになっていた。

 当時の綾は、逃げ場を求めていた。その逃げ場が、このワンルームだった。

 トイレから戻った九斗は、音を立てないように注意して布団の中に潜り込んだ。すぐに綾が抱きついてくる。

 ロープの拘束なら、簡単に抜ける事ができる。しかし、綾のこうした拘束を回避する気にはなれなかった。

 一方で、こうやって綾の逃げ場になり続けるのは、やめるべきではないか、とも思う時がある。綾の依存が強くなっているのは、自分のせいではないか、とも思う時がある。いつかは、自分の足で立たねばならない。

 ぬるま湯につかり続けて、その先に何がある? 一時の感情に巻き込まれて、お前は成長の可能性を摘むつもりか?

 何度も繰り返した自問自答。答えは出ない。

 九斗は、無力なただの大学生でしかなかった。

 思考がまとまらないまま、意識は混濁し、失われていく。抱きついてくる綾の温かい肌触りだけが、最後まで残っていた。

 

 

 

 

 

 

 

10.

「視線を感じる」

 シャワーを浴びていた九斗は、唐突にポツリと呟いた。

 バスルームの中に視線を走らせると、給湯器の奥に小さなレンズがあった。盗撮用のカメラのようだった。

 九斗はじっとカメラを見つめた後、シャワーを止めてバスルームから出た。そして、キッチンに置いてあった害虫ホイホイへ向かい、中の人を素手で取り出す。

 九斗はそのまま無言でバスルームに戻ると、カメラの前にそれを設置し、満足げに一人頷いた。

 

 その夜、綾の悲鳴がバスルームに響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

11.

「む。視線を感じる」

 夜道を歩いていた九斗は、不意に視線を感じて足を止めた。

 それからガバりと後ろを振り返り、猛スピードで走りだす。奥の曲がり角から誰かの悲鳴があがった。

「誰だ」

 誰何の声をあげ、曲がり角を覗く。そこには、女子高生の制服を着たおじさんが腰を抜かしてへたりこんでいた。

 沈黙。

 九斗は無言で反転し、猛スピードで逃げ出した。

 

◆◇◆

 

「おかえりなさい。そんなに息を切らしてどうしたんですか?」

「いや、先入観の恐ろしさというものを味わったところでな。外出するときは変質者に気をつけるんだぞ」

「はい。よくわかりませんけど、心配してくれてありがとうございます」

 

 

 

 

 

 

 

12.

「最近の綾は、いつも音楽を聞いているな」

 ディジタル音楽プレイヤーから伸びたイヤホン。その先には頬を緩めて幸せそうな表情を浮かべる綾の姿があった。

「良いアーティストでも見つかったのか?」

「はい。聞いているだけで幸せです」

 綾がベッドの上でゴロゴロしながら答える。

 ここまで音楽にはまる綾を見るのは初めてだった。どんな音楽だろう、と興味が出てくる。

「綾、そろそろ風呂入ったらどうだ」

「え? あ、もうこんな時間なんですね」

 綾が立ち上がり、脱衣所へ歩き始める。

「覗いてもいいですよ!」

「ああ、気が向いたらな」

 綾が脱衣所のカーテンを閉めると同時に、九斗は行動を開始した。

 ディジタル音楽プレイヤーに飛び付き、電源をオン。そのまま再生ボタンを押す。

『綾、愛してる』

 イヤホンから聞こえてきたのは、九斗の声だった。

 どうやら、電話の会話を録音したものらしい。

「相変わらず趣味の悪い奴」

 九斗は少し考え込むと、パソコンを起動した。

「黒板をひっかく音……この世のものとは思えない叫び声……いや、お経も……中々シンプルでいいな」

 よし、と一人呟いて、適当に探り当てたフリーの音楽データをディジタル音楽プレイヤーの件のファイルに上書きする。

 作業を終えてイスから立ち上がろうとした時、世界が霞んだ。立眩みを覚え、九斗は思わずデスクに手をついた。

 すぐに平衡感覚が戻ってくる。一瞬の出来事だった。

 九斗は無言で額を抑えた後、ゆっくりと顔をあげた。いつも通りの世界が広がっていた。

 そっとマウスを操作して、マシンをシャットダウンする。それから、九斗はベッドへ向かい、そっと腰を下ろした。静かな部屋にシャワーの音が響く。

 少し、眠たかった。ベッドに腰かけたまま、うとうとと眠気に襲われる。

 

「キューさん?」

 綾の声で、意識が覚醒する。髪の濡れた綾が目の前で顔を覗きこんでいるところだった。

「少し、ウトウトしていた」

「キューさん、明日から夜勤入り入りですよね。もう少しお話したいです」

「ああ、そうだな」

 九斗は穏やかな笑みを浮かべて、だが悪い、と短く言った。

「少し、寝かせてくれ。すぐに起きるから、それまで音楽でも聞いて待っててくれないか」

「わかりました」

 綾が頷いてディジタル音楽プレイヤーを取りに行く。九斗はそれを見て、ベッドに横になった。

 綾の悲鳴が響く。九斗は小さく笑って、そのまま眠りに落ちた。酷く身体が重たかった。

 

 

 

 

 

 

 

13.

 人格というものは、環境が特異であればあるほど、後天的な要素によって形作られるものだと、九斗は思う。だから、綾が今のような偏執性を獲得したのは当然の成り行きだと思っていた。

 綾の名字は、時之宮(ときのみや)という。古くから政界と深い繋がりを持つ名家だった。綾の父は現職の議員で、二人の兄は外務省に入省している。当然、綾にも強い期待が寄せられることになり、そして、綾はその期待に応える事ができなかった。

 受験に失敗した後の綾の姿が、今でも九斗の脳裏に焼き付いて離れない。

 当時から交際していた九斗の元に現れた彼女は、ひどく弱々しい笑みを浮かべて、今にも消え入りそうな声で呟いた。

「私、ほんと、だめです。何やっても上手くいかなくて。親の七光なんてよく言われたけど、本当、その通りなんだって思い知りました」

 かける言葉が見当たらなかった。

 ただ、九斗はこの二つ年下の彼女を守らなければ、と思い、その華奢な身体を抱きしめた。腕の中で、綾は幼子のように泣きじゃくっていた。綾が弱音を吐くところを見るのは初めてで、胸が締め付けられた。

 だから、九斗は、言ってしまった。

「ここで一緒に住まないか」

 落ちつくまで綾を家から離すべきだと思った。大学受験など大したものではないことに気づくまで。綾が自信を取り戻せるまで。

「キューさんは、なんで、そんなに優しいんですか」

 綾は泣きじゃくりながら顔をあげる。

「知っていますか。私、キューさんのこと尊敬しています。同時に、妬んでもいるんです。何でも簡単に、そつなくこなして。才能の塊で、私にないものをいっぱい持っていて」

 綾は脈絡もなく、溜まっていたものを吐き出す。

 九斗は、ああ、何度も頷いて、ただ綾の背中を擦り続けた。どうすればよかったのか、わからなかった。

 

「疲れているのかな?」

 落ちついた男の声がした。

 眠っていた事に気づき、身を起こす。いつもの研究室。

 すぐそばに柔和な笑みを浮かべる老教授がいた。

「昨夜もバイトしていたようだね」

「……すみません」

 九斗はそう言って、スクリーンセーバーのかかったディスプレイを見つめた。作業途中に寝てしまったようだった。

「君は、院への進学を希望していたね」

「はい。研究職を志望しています」

 九斗はそう言って、老教授に向き直った。

「以前は、設計を望んでいたと記憶している。設計は、つまらなかったかな?」

「いえ、設計には依然として強い興味があります。しかし、この三年間で自分にはセンスがないことを痛感しました。努力では越えられない壁を、感じたんです」

 九斗の言葉に、老教授が小さく息をつく。

「毎年、君と同じような学生を何人も見るよ。設計は狭き門だ。夢を叶えられる者は少ない」

 老教授はそれから、じっと九斗の目を覗きこむ。

「何故、設計を志したのか聞いてもいいかな」

「中学生の時、一枚の写真を見たんです。初期のバロック建築でした。言葉ではうまく説明できないんですが、惹かれました。それからテレビや雑誌を見てると、建築物に目がいくようになりました。今まで気にもしなかった細かな装飾の一つ一つがとても凝っていることに気付いたんです。街を歩いていても、建築物が気になるようになりました。特に、古い建築物は目に見えて様々な工夫がされていて、見た目だけじゃなく、技術的な視点からも建築物を観察するようになりました」

「そのうち、自分で創りたいと思うようになったと?」

「はい。でも、駄目でした」

 九斗はそう言って、ディスプレイに目を向けた。マウスを操作し、スクリーンセーバーを解除する。

「創るだけならば、仕事にする必要はない。趣味で設計をしている者もいるし、実際に一から自分で建てる者もいる。自分好みの建築物を建てたいなら、お金を貯めてプロに設計を頼めばいい。設計は激務で、薄給だ。仕事としてではなく、それ以外の方法で夢を叶える方法を考えると良いだろう」

「はい」

 九斗は頷いて、ディスプレイの向こうに広がる数式を見つめた。

「研究職か。君は数学に強いが、研究職は設計と同様に狭き門だ。本気で研究職を目指すなら、もう少しバイトを減らして学業にも力をいれなさい。そうしないと、後には何も残らないよ」

「……はい」

 老教授は最後に忠告を残して、研究室から出ていく。

 一人になった九斗は輝きを放つディスプレイをぼんやりと見つめた。

 ふと、綾の言葉を思い出す。

 ――知っていますか。私、キューさんのこと尊敬しています。同時に、妬んでもいるんです。何でも簡単に、そつなくこなして。才能の塊で、私にないものをいっぱい持っていて。

「一番欲しかった才能には全然恵まれなかったな」

 呟いて、立ち上がる。バイトの時間だった。

 

 猛暑日だった。

 うだるような暑さの中、九斗は大学を出た。

 長期休暇が近い。前期が終われば綾と海に行こう、と思った。親から車を借りなければならない。久しぶりに家にも帰ろう、と予定を立てていく。

 最寄りのバス停には、同じ大学の学生が既に列を作っていた。最後尾に並び、携帯を開く。照りつける太陽のせいで画面がよく見えなかった。

 すぐにバスがやってきて、列が動き出す。九斗は携帯を閉じると、そのまま列に従ってバスに乗り込んだ。席は全て埋まっていて、前方の吊り革を掴んでぼんやりと外を見つめる。冷房が心地よかった。

 ガスが抜けるような音とともに扉が閉まり、バスが動き出す。

 そこで世界が揺れた。

 気付いた時には、遅かった。

 九斗は足元から崩れ落ち、倒れた。

 一瞬の出来事だった。

 身体に力が入らなかった。頭が酷く重たかった。

 ざわめき。小さな悲鳴。

 誰かが近づいてくるのがわかった。大声で何かを叫んでいる。言葉の内容を理解できなかった。頭が働かない。

 九斗の意識は急速に薄れ、そして呆気なく途切れた。

 

◇◆◇

 

 綾との同棲をめぐり、綾の父親と顔を会わせた事があった。

「それで、娘は戻る気がないと?」

 中肉中背の男だった。彼は少し苛立った目を九斗に向けた。

「はい。戻りたくないと」

「受験に失敗した挙句、男の家に転がり込むとはな。どこで教育を誤ったか」

 九斗は何も言わず、男の瞳をぼんやりと見つめていた。

「仕方ない。同棲を許す。娘の生活費はもちろん、私が負担する」

 九斗は視線を固定したまま、淡々と口を開いた。

「大学は、どうなりますか。浪人なさるつもりですか?」

「滑り止めには合格していただろう。そちらへ進んでもらう」

 そこで初めて、九斗は表情らしい表情を浮かべた。苦痛の表情だった。

「綾さんの意思はどうなりますか?」

「意思。意思か。本人に自主性が存在するなら、私はそれを尊重しただろう。だが、娘は将来にビジョンを持っていない。君は、建築を専攻しているそうじゃないか。やりたいことがあるんだろう?」

「はい。中学生の時からの、夢でした」

「立派なことだ。夢の為に努力できる人間は少ない。夢すら持っていない人間が大半だ。普通という理由で高校へ進学して、何となくという理由で大学へ進学する。やりたいこともなく、ただ日々を浪費する。それが子どもという生き物だ。綾も、そうだった。だから、やりたいことが見つからないうちは進学させてやりたかった。出来る限りの選択肢を与えてやりたかった」

 話を聞きながら、これは家の問題だと思った。綾の問題でも、父親の問題でもない。

 綾には、やりたいことがあったのかもしれない。ただ、それを表に出す事を、この父親は許しただろうか。そして、綾はもしやりたいことがあったならば、正面から父親と話し合おうとしたのだろうか。

 全てが手遅れの問題。

「私の妻は、自分の足で立つ事ができない人間だった。顔だけが取り柄の、弱い人間だった。守ってやらなければ、と若い頃の私は思ったよ。それが間違いだった。妻は弱い人間ではなかった。男に依存して、寄生することに長けていた。今は他の男に寄生しているだろう。娘にはそうなって欲しくなかった。一人でも生きていけるように、教育に力をいれた。娘は、どうやらそれを勘違いしているようだが」

「議員のアクセサリとして?」

 九斗の問いに、彼は忌々しそうに答えた。

「そうだ。娘は子どもだ。親の気持ちを理解できていない。娘を仕事の道具にする親がどれほどいるというのか――」

 人間関係というものは、特に家族間の関係というものは複雑なものだ。

 一度起こったすれ違いを正す事は難しい。

 話し合いを終えて、九斗は一つの決意を固めた。

 綾の絶対的な味方であろう、と。

 綾が挫折から立ち直るまでは、全てを肯定し続けようと。

 冷えた親子関係の修復には時間が必要で。

 準備が整うまでは綾を家から切り離してやろうと思った。

 だから、綾の生活費は自分で稼ぐ事にした。毎月振り込まれるお金には手をつけなかった。

「何でキューさんが! 自分の生活費くらい自分で稼ぎます!」

 当然、綾は反対した。しかし、九斗はそれを押し込めた。

「一年の前期は、大学で好きなことをやれ。勉強はもちろん、好きなサークルに入って、自分の世界を広げろ。バイトはそれからだ」

 九斗は、譲らなかった。

 大学生活に劣等感を引きずって欲しくなかった。勉強と遊び。両方が必要だと思った。

 綾には時間が必要だった。

 必要だと思ったから、九斗はずるずると引き摺ってしまった。

 もう手遅れだった。

 

 意識が浮上する。

 身体が酷く重たかった。

 寝過ぎた。バイトに遅れたかもしれない、と思った。

「キューさん?」

 声がした。綾の声だった。

 薄らと目を開けると、滲んだ世界が見えた。

 ひどく喉が渇いていた。

「キューさん? キューさん?」

 綾が上から覗きこんでくる。九斗はぼんやりと綾の顔を見つめて、それから辺りを見渡した。病室のようだった。点滴を打たれている事に気づいて、ああ、と一人頷く。

「熱中症か?」

「違います。過労です」

 綾が真剣な表情で言う。泣いた跡があった。

「過労? 体力には自信あったんだが」

「キューさん!」

 綾が声を荒げる。九斗は口を閉ざした。

「バイト、減らしてください。もう約束の前期は終わりです。私もバイトします」

 九斗は何も言わなかった。

 綾が言葉を続ける。

「私、もう大丈夫です。前期だって、全部の単位とります。キューさんがバイトに行ってる間、ずっと勉強してきました。もう、大丈夫です。転ばないです。転んでも、キューさんがそばに居てくれるなら、すぐに立ち上がれます」

 だから、と綾は不意に泣きそうな顔を浮かべて九斗に抱きつく。

「だから、キューさんは休んでください。キューさんがいれば、他は何もいらないです。お願いです。私のこと、もっと信じてください」

「……他は何もいらない、か」

 九斗は目を瞑った。

 ずっと考えていた。どうすれば綾の依存を緩和できるか。

 恐らく、綾は不安なのだろう。日常的なすれ違いが続いて、まともなデートもできず。

 その不安を解消する術を、九斗は知っていた。

 ただ、それが正解かはわからなかったし、まだ早すぎると思った。

 しかし、今の綾ならわかってくれる気がした。既に挫折の痕は見えず、薄れつつある。

「綾、俺達はいつまでも子どもじゃいられない」

 ポツリと、九斗は言葉を選びながら口を開いた。綾の肩が小さく震える。

「他は何もいらない? 俺たちは社会で生きていかなければならない。俺達は子どもの立場から、親の立場になっていく。いつまでも、そんな事は言ってられない」

 九斗は綾の肩を掴み、正面からその瞳を見つめた。

「綾。卒業したら結婚してくれないか」

「え?」

 突然の言葉に綾の目が見開かれる。

「あいにく、婚約指輪は用意してないが」

「いえ、そんなこと、あの、結婚?」

 混乱したように綾が呻く。九斗は綾の理解を待たず、だから、と言った。

「だから、そんな事は言うな。お前もいつかは親になる。他は何もいらないなんて、言うな。世界を広げろ。そして、これから生まれてくるであろう子どもの為に、伝えるんだ」

 九斗はふと点滴に目を向けて、それから呟いた。

「邪魔だな」

 点滴をひっこ抜く。

「ちょ、キューさん?」

 綾が悲鳴じみた声をあげる。九斗はそれを無視して立ち上がった。

「回りくどいことは、俺に向いてない。似合わないことをするから、ややこしいことになるんだ。綾。お前の父親と話をしに行こう」

「い、今からですか?」

「そうだ。結婚の話と、今までの話をしに行く。互いに頭も冷えただろう。いつまでも引きずってられない」

「キュ、キューさん! 突然すぎます!」

「後回しにすると面倒だ。今日、全部片付ける。大丈夫だ。何とかなる」

「何とかって、そんなに上手くいきませんよ。そういうのは、キューさんみたいな超人に限ります。上手く何でもできる人だから言えるんです!」

「綾、俺は超人でも何でもないよ。幼い頃の夢は忍者だったが、叶わなかった。中学生の時からの夢も挫折したばかりだ。俺はまだ何も成していない」

 でも、と九斗は綾の手を握って、ベッドから下りた。

「それで良い。賢く立ち回る必要なんてない。俺達の子どもはきっと何度も転ぶことになるだろう。その予行演習だと思えばいい」

「うぇ? わ、私達のこども?」

 綾が上擦った声をあげる。九斗は綾を抱き上げると、窓に向かって歩き出した。

「きゅ、キューさん?」

「掴まってろ。面倒だから窓から脱走する。後でお詫びの連絡入れないとな」

「え、何を言って――」

「さあ、今日中に全部片付けるぞ」

 そう言って、九斗は綾を抱えて窓を飛び越えた。

 青空に綾の悲鳴が響き渡る。九斗は不敵な笑みを浮かべ、大空を舞った。

 

 

ただし超人に限る 完結



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