「おっ」
昼食を求めて大学の購買をうろうろと物色していた夏紀は、惣菜パン売り場の前で足を止めた。そこには焼きそばパンを始め、クリームパンやソーセージといった様々な種類のパンが並んでいたが、彼女の視線はコロッケサンドにのみ注がれていた。
コロッケサンドか。呟きを噛み締め、夏紀は腕を伸ばして手に取った。白く柔らかなパンに挟まれた、緑色のキャベツに分厚いコロッケ。カバー越しに匂い立つソースの香りが夏紀の鼻腔を突いた。特に何か述べることもない、普通に美味しそうなコロッケサンドだ。昼食はこれでいいかもしれない。
手元のコロッケサンドをまじまじと見つめる夏紀。そのとき、彼女の脳裏にある人物の影が過ぎった。そういやあいつ、これ好きやったな、と。
あいつというのは、夏紀の(一応)友人の吉川優子のことだ。高校の同級生にして同じ吹奏楽部に所属しており、三年生では部長副部長の間柄だった。そんな彼女と夏紀は自他共に認める犬猿の仲であるのだが、どういうわけか同じ大学に進学し、学部は違えど何やかんやで今も付き合いが続いている。そういえば、そもそもの出会いのきっかけはコロッケサンドだった。夏紀は再びコロッケサンドを眺め、当時の様子を思い浮かべた。
それは吹奏楽部に本入部した日のことだった。親睦を深めるために昼ご飯は一年同士で食べるよう指示されたものの、昼には終わると思っていた夏紀は弁当を用意していなかった。そんなわけで高校の売店で昼食を探す羽目になったのだが、優子と出会ったのはその時。何となくコロッケサンドを手に取ろうとした夏紀に優子が待ったをかけたのが始まりだった。曰く――「うち、それ食べたいねんけど」。
いきなり何言ってくるんだこいつ、と思ったのをよく覚えている。当時はお互いの名前すらよく分かっていなかったのだ。そんな状況でいきなり「コロッケ、めっちゃ好きやねん。譲って」と言われたら、そりゃあ渡したくなくなるというもの。別にそこまでコロッケサンドが好きなわけではなかったが、先に手に取ったのは自分である。それなのに「コロッケがめっちゃ好きだから」と言って譲って貰おうとするのはどういうことか。そんなに好きなら先に取ればよかったじゃないか。こういうのは早いもの勝ちなのだ。仮に性格の良い人が手に取っていたならば素直に渡したのかもしれないが、生憎と夏紀はそうではなかった。
そんなわけで優子のお願いを一蹴した夏紀だったが、当然と言うべきか、優子は不満を露わにした。
「好きちゃうんやったら譲ってくれてもええやんか」
「取る前に、待ってって言ったやん」
言葉の端々から滲む当然譲ってくれるものだという考えに、譲ってやるものかという思いが強固になっていく。が、拒絶を重ねる夏紀に優子の方も思いに火がついたらしい。どんどんヒートアップしていく会話は最早口論と言って差し支えなく、結局それは夏紀の付き添いとしてその場にいた梨子がとりなしてくれるまで続いたのだったか。
……今思い返しても最悪な出会い方だ。実際、第一印象も最悪だった。それこそ、当初は関わらないようにしようとするくらいだった。初対面からいきなり口論を起こしたのは後にも先にも優子一人だけだった。あれほどまでに馬が合わないと思った人物に夏紀は今まで出会ったことがなかった。それは多分、優子も同じだっただろう。むしろそんな出会い方をしておいて、よくもまあ今まで付き合いが続いているものだ。高校生活三年間を経て優子はいい奴だと分かっている今なら納得がいくものの、あのときの自分に「あの最悪な奴とはこれからも度々首を突き合わせては盛大に口論を引き起こし、なんやかんやで同じ大学に進学するのだ」と伝えても絶対に信じないだろう。ましてや、部長副部長の関係になっても部活が円滑に回るくらい相性が良かったことについては況んやと言ったところだ。
しかし実際、今の夏紀は初対面からは考えられないくらい優子に好感を持っている。多分、優子も同じ――というか、こちらに関しては夏紀は確証を持っているのだが。夏紀は自室に安置されている、卒業式に優子本人から受け取った手紙の内容を思い返そうとした。
「夏紀!」
が、聞き覚えのある声が購買内で鳴り響いたことで中断した。声の出どころの方に振り向くと、案の定見知った顔がそこにいた。
「何や優子。どうしたんいきなり大きい声出して」
夏紀が言うと、優子の眉間に皺が寄った。
「どうしたんじゃないやろ。アンタ、うちがコロッケ好きなの知っとるやんな?」
「そらそうやろ、何年付き合ってると思ってんねん」
「なら分かるやろ、そのコロッケサンド譲って」
こう言っておけば譲ってくれるだろうという考えが滲み出ている台詞である。夏紀はすうっと目を細めると自分の手の中の商品を一瞥し、それから優子に視線を戻した。
今の彼女達はお互い名前を呼びあう仲であるし、初対面時とは天と地くらい印象に差がある。
しかしながら、夏紀は言った。
「そっちこそ分かるやろ、普通に嫌や」
「はあ?」
不満を隠そうともせず、優子は頬を膨らませた。
「何それ。アンタ、別にコロッケ好きちゃうやろ」
「そう言われても、人に欲しいって言われると無性に食べたくなるねんなあー」
「アンタほんま性格悪いな」
「はあ? 先に取ったのはうちやん」
「別にコロッケパンじゃなくてもよかったやん、アンタうちがコロッケ好きなの知っとったやろ」
「別に何取ろうがうちの自由ですー。めんどくさい彼女か」
「か、彼女? はあ!?」
二人の口論はいつものように騒々しく、既に購買中から生ぬるい視線を向けられて久しいのだが、肝心の二人はそのことに気づいている様子はない。どんなに距離が縮まっても、印象がいくら回復しても、犬猿の仲は犬猿の仲だ。きっとこれからも彼女達はコロッケサンドを取り合って口論になるし、下らないことでも衆目を気にせず自分の意見を真っ直ぐにぶつけ合うのだろう。
「誰が誰の彼女やねん」
「うるさいわ、彼女発言一つに突っかかりすぎやろ」
尚、この口論はたまたま購買に入った希美が仲裁に入るまで続いたという。