アビゲイルはウォルターと共に裏路地の奥を進んでいく。
表通りではあんなに人が居たはずが今ではすっかりひとの姿が見えなくなってしまっていた。喧騒から切り離されたこの道は薄暗く、まるで異界に通じる道へ迷い込んでしまったような錯覚さえ覚える。
道を右へ曲がり、次は左へ曲がり……もはやここまでどうやってきたのか、その道順さえ覚えていない。
アビゲイルは少しずつ、そして確実に違和感を覚えた。
頼れるのはこの目の前にいるウォルターだけであったが、男との会話もいつのまにか途絶えてしまった。
こちらからウォルターに「どんなお店をしているの?」等と質問をしたりしていたのだが、あいまいな返事のままはぐらかされてしまった。
「……ね、ねえウォルターさん。 道はこっちであっているの?」
「ああ、間違いないよ。 大丈夫、こっちだから」
にこり、と笑うウォルター。 その顔は今でも柔和で――そしてべったりとそれを貼り付けただけのような、そんな表情だった。
いやな予感がし、引き返そうとアビゲイルは言い出そうと思ったが、しかし彼の言っている事が嘘だと言う保証も無い。 彼を頼らなければまた一人迷子で彷徨う状態に逆戻りするだけなのだ。
それに、急に彼を怪しい人物だと決めつけ此処で別れても、もう帰り道などとっくに分からなくなってしまっている。
もはや自分には彼について行く以外の選択肢は無いのだ。
更に暫く歩き、たどり着いたのは廃墟のような寂れた地区。
床の舗装は剥がれ、そこから見える土には雑草が無秩序に生えている。
その道の端には一頭立ての馬車が一台止められていた。
一般的なその馬車の荷台部分は外からは中が見れないようにしっかりと密閉されており、出入り口には南京錠が開きっぱなしで掛けられている。
「……こんな所に迷子用の施設があるの? なんだかとっても寂れていて……まるで廃墟みたいだわ」
「はは、心配要らないよ。 あそこに馬車があるだろう。 あれに乗るんだ」
「え……?」
「此処からまた少し離れた所にあるからね」
ニコニコと笑みを崩さないウォルターはいつのまにかアビゲイルの後ろに立ち、馬車へと乗りこむように促す。
ここでようやくアビゲイルはどう考えてもおかしい、と認識した。
迷子を集める場所だというのにこんな裏道を通っていたこと自体が既に怪しかったが、そこからさらに遠くへと馬車で移動しなくてはならないなど考えにくい事だ。
ぴたり、とアビゲイルが足を止めると、ウォルターが怪訝そうな表情をする。
「どうしたんだい?」
「……私乗らないわ」
「ほう……なぜ?」
ウォルターの目が鋭くなる。 先ほどまでの柔和な表情を浮かべていた男とは思えない、恐ろしい顔だ。
アビゲイルはじわじわと恐怖心が湧きあがり、数歩後ずさりをした。
「それは……と、とにかく乗らないわ。 本当にごめんなさいっ!」
とにかくこの場から離れたい、という一心でアビゲイルは言い訳を思い浮かべる事もなくウォルターにから逃げ出す事にした。
この男は、間違いなく自分を騙している。
あの馬車はおそらく誰かを誘拐するために用意した馬車なのだろう。
かけっぱなしの南京錠が何よりの証拠だ。
今にして思えば、『店をやっている』というのも自分を安心させるための方便だったのだろう。
店をしている、という社会的地位によって与える安心感は非常に大きい。
事実、自分の警戒心を解く事に効果的な力を発揮してしまったのだから。
もっと早くに気づくべきだった、と後悔するが―――それはあまりにも遅かった。
どん!と逃げ出そうとする身体に強い衝撃が走りアビゲイルは姿勢を崩して転倒する。
―――突きとばされた。
そう認識しながらも、転んだ際に擦った膝と手の痛みを我慢して急いで浮かべて立ち上がろうとすると、後ろから羽交い絞めをするようにウォルターが組み付いてきた。
「逃がすわけ無いだろう? こっちへくるんだ!」
「いやぁっ! 離して!! だ、誰か助けて!!」
「ははは! こんな廃墟に人なんかこないよ!」
もはや取り繕うこともせず、悪意に満ちた表情で笑い、身動きをふさいでくる。
ウォルターの身体は戦士のように鍛え上げられた筋肉を蓄えているわけではなく、中肉中背。
しかし今争っているのは大人の男と子供の女。 ここに生まれる圧倒的な力の差は大きく、無慈悲にもアビゲイルの抵抗を許さない。
「---ッ!!」
あの馬車に入れられたら、どうなってしまうのだろう。
先の見えない恐怖からアビゲイルは必死になり、思い切り頭を振った。
するとゴン!と鈍い音がし、アビゲイルの頭に鈍痛が走ったと思えば拘束が緩み、振り返ってみればウォルターが苦痛の声を漏らしながら鼻を押さえてうずくまっていた。
アビゲイルの頭頂部が思い切りウォルターの鼻頭にクリーンヒットしたのだ。
ウォルターの鼻を抑える手の隙間からは抑えきれない鼻血がボタボタと垂れおち、ふらふらと身体をよろめかせてなかなか立ち上がれずにいた。
逃げるなら今しかない!
あの様子なら立ち上がり、急いで走って来れるようになるまで少し時間がかかるだろう。
アビゲイルは震える足に強引に力を入れて再び走り出し――ウォルターから数メートル離れたところで急に背筋が寒くなり、咄嗟に振り返った。
刹那、右腕に焼け付くような痛みが走り、じわじわとそこから服を赤く染めあげる。
ナイフだ。
ナイフが
まるでナイフが意識を持ったかのように宙に浮かびあがり、アビゲイルの右腕を切り裂いたのだ。
不幸中の幸いか、咄嗟に振り向いた動作でナイフは殆ど深く切り裂く事なく、肌の上を滑るように切り裂いた程度で済んだ事だろうか。
「っ、痛……!」
「このガキ……綺麗な状態で運んでやろうと思ったのに、ゆ、ゆるさねえ」
男は鼻から血をたれながし、憎悪を滾らせる。
しかしその口元を釣り上がげて笑った。
「おお、お前を生かして送ってやるつもりだったが辞めだ! こ、ここで、ここで殺してやる」
「なっ……」
「へ、へへ、悪く思うな。 お前が悪いんだからな。 お前が抵抗さえしなければ、お前は此処で死なずに済んだんだ! この俺に刃向かうから……!」
「い、言ってる事がめちゃくちゃだわ……!」
「俺に逆らえる奴なんて居ないんだ……そ、そうだよ、俺はもっと強くなれる……貴族なんかよりも……俺は神に選ばれたんだ……お前を殺して連れて行けば、もっと、もっと」
男はギラギラとした目をし、口から涎を垂らしながら笑う。
こちらを向いてはいるが、その瞳にはとうにアビゲイルの姿など映していない。 白と黒の絵具をひたすらに混ぜたような、深い狂気で彩られたその瞳は、見ているだけでこちらまでおかしくなってしまいそうだ。
アビゲイルは目の前の男の言葉が全く理解できず、床に膝をついたままゆっくりとこちらへ掌を向けてくるのをぼんやりと眺めていた。
頭では逃げなくてはならないという事は分かっている。 しかし身体が全く動かないのだ。
敵意を向けられる恐怖。
それはギーシュと戦ったあの時に感じていたものだ。
しかし今回の場合はそれだけでは済まない。
殺意だ。
男の持つ狂気が、見えざる刃となってアビゲイルを突き刺し、その場に縫い付けているのだ。
ゆっくりと宙に浮いたナイフがこちらへと向くのが見える。
喉はカラカラに乾き、 それでいて目はギラギラと妖しく光る銀色の刃に釘付けになっている。
酸素を求める身体とは対照にひきつけを起こしたように呼吸が上手くいかない。
助けて。
誰でも良い、誰か……!
心の中でそう叫んだ瞬間―――ふと、自分の右手に
いつそれを握り込んだのかは分からない。 だが、この感覚に覚えがあった。
そして直感的にこれをどうやって使えば良いか、アビゲイルには分かっていた。
「死ね……!!!」
「いやあああああ!!!」
宙に浮かんだナイフがアビゲイルの心臓を貫かんと真っ直ぐに飛来する。
アビゲイルは右手に握り込んだそれを無我夢中で
ぐちゃり。
という音と共に宙に浮かんだナイフが勢いを失い、アビゲイルの頰を掠めてから床に転がる。
ウォルターの目の前にはいつのまにか名状し難い触手の様なものがゆらゆらと揺れ動いていた。
何が起きたんだ、と理解が追い付かないまま自分の腕を見ると、そこにはぐしゃぐしゃに潰した布の塊がぶら下がっていた。
―――ああ、これは自分の腕か。
「あ……あ?あああああ!?? 俺の腕……腕が……!!」
それを認識した瞬間、痛みが爆発する。 それは耐え難い痛みとなって全身に走った。
触手が腕に直撃した瞬間、その余りにも強力すぎる衝撃に耐えられず、熟れたトマトのようにぶちゅりと肩ごと潰れてしまったのだ。
ウォルターは悶絶し、何度も失神しそうになりながら地面にのたうち回る。
肉塊の詰まった布袋からは夥しい量の血が流れだし、転げまわるのと同時に辺りを赤く染めあげた。
そしてこの状況を作り上げた少女は―――
「―――え?」
ただただ、呆然としていた。
アビゲイルはあの瞬間、自分の力を行使した。
そしてウォルターをギーシュの時と同じように吹き飛ばし、この場をやり過ごそうとしただけだったのだ。
気絶はしなくとも、少なくとも逃げる時間は稼げるはずだ。 そう考えて
それがまさか、恐怖のあまり
「っ、ち、違うの…そこまでするつもりじゃ…」
早く助けないと、あの男は間違いなく失血死する。
アビゲイルは慌ててウォルターに近付こうとして―――触手が未だゆらゆらと揺れ、ゆっくりと弓形にしなりだし、ウォルターに狙いを定めている事に気が付いた。
「……!」
自分が恐怖して、力加減を間違えた?
それは違う。
この触手はもとより自分の制御下になど居なかったのだ。
今は唯、この触手が意志を持ち、目の前の男を殺さんといきり立っているのだ。
「駄目……駄目!! 逃げてぇっ!!」
必死に叫ぶが、地面に倒れ込むのウォルターは潰れた右腕を抑えて蹲ったままだ。
これでは猛り狂う触手の一撃から逃げ出す事等到底できない。
もう駄目だ、とアビゲイルはこの後起こるであろう更なる凄惨な光景を予想して、目をぎゅっとかたく瞑る。
直後、ごきごき、ぐちゃぐちゃと音を立て、ウォルターは右腕がそうなったのと同じように全身を潰されて死んでしまうのだろう。
(ごめんなさい……!)
心の中で謝罪をした次の瞬間、
「ラグーズ・ウォータル・イス・イーサ・ハガラース」
少女の声が聞こえてきたかと思えば、何処からともなく飛来した氷の槍、《ジャベリン》が触手目掛けて幾つも降り注いだ。
そこにあるだけでぶるりと身体を振るわせてしまう程に氷は冷たく、周囲の温度を急速に奪っていく。
幾つもの氷の槍に貫かれ、地面に縫い付けられた触手は徐々に凍り付き、動きを鈍らせる。
一体誰が、と声のした方を見てみれば、青色の髪、眼鏡を掛け、大きな杖を持つ小柄な少女―――タバサがそこに立っていた。
「タバサさん?! どうしてここに……」
「話は後。 それより、早くここから離れて」
「え、ええ……」
触手がいつ再び暴れ出すか分からない。
アビゲイルが頷くとタバサは《レビテーション》を使ってウォルターを浮かせる。いつのまにかウォルターは気を失っていたため、なんの反応もなくふわりと宙に浮かび、二人は急いでこの場を離れる事にした。
二人は気づかなかったが、背後ではいつのまにか触手が消えていた。
「(#^ω^)」
「(´ω`)ノシ」
触手さんおこ
タバサのお陰でアビーは人殺しという心の傷をぎりぎり負う事なく、ウォルター氏も生存。
因みにタバサは《ジャベリン》を結構本気で撃ちました。
触手が二本出ていたらヤバかったと思います。
●空を飛ぶ魔法のナイフ
・命中率:MP*5
・1d4+2+db
いわゆるマジックアイテム。
ルールブックでも出てきますが、これを反射的に掴み対抗ロールをした時の緊張感はかなかのもの……
因みにぼくにはしっかり刺さりました。