新刊執筆完了しましたので、こちらも投稿。
……では明後日より紅魔郷リメイクを遊び倒してきます。明治十七年の上海アリスアレンジが楽しみすぎる。もし蓬莱人形verが混ざっていたら泣いて喜ぶ自信があります。
次回投稿は10月頃予定です。
天鳥船神社。
私はその名前を知っている。何を隠そう、昨年その神社を訪れているのだから。
去年の連休、私たちは近畿地方を巡る旅に出た。数日かけて、気になる場所を片端から回るという計画である。
言い出したのは例によって私だ。廃寺の跡地に無人の社、地図から消えた寺、由緒の怪しい祠。事前に候補を三十ほど挙げ、そこから時間と相談し絞りに絞って十箇所を選抜した。
天鳥船神社はその内の一つだ。今回訪れた中では唯一京都府内にある神社である。祀られているのは、航宙安全を司る神だ。
この国にはあらゆる神様がいる。交通安全に商売繁盛、学業成就に縁結び。人間が不安を抱く領域には必ず神が配置されてきたわけで、宇宙開発が現実の産業となった以上、そこに神が求められるのは当然の帰結だろう。科学がどれだけ進歩しようと、最後の一歩は神頼み。実に人間らしいではないか。
しかもこの社、建立されたのは数百年前などではない。数十年前である。
かの宇宙ステーション、衛星トリフネの打ち上げに際して建てられたものなのだ。
トリフネというのは、一種のテラフォーミングのための生物実験のため我が国が威信をかけて打ち上げた人工衛星である。
特筆すべきはその大きさで、内部に閉鎖生態系を丸ごと抱え込んでいる。植物が植えられ、土壌があり、水が循環する。その箱庭の中で動物たちが生活を行い、生態系が回り続ける……将来の宇宙移住に向けた実証実験というのが公式の目的だった。
そのトリフネのために、神の社が二つ用意された。
一つは、この地上に。
もう一つは、船の中に。
最初にこの記述を見つけたとき、私は思わず資料を二度読み返した。何しろ相手は宇宙船である。重量制限が厳しいなどという話ではない。グラム単位で切り詰められる世界に、わざわざ鳥居と社殿を積み込んだというのだから正気の沙汰ではない。
読み進めた結果、当時の技術者たちが押し切ったという文が目に入った時、私は思わず笑ってしまった。
乗っているのは動植物だけである。祈る主体は船の中に一人もいないというのに。それでも最終的に社は建てられた。地上に一つ、船に一つ。同じ神を分けて祀り、こちらから願い、あちらで受ける。そういう理屈だったらしい。
打ち上げたのは、寸分の狂いも許さない計算を積み上げてきた人々である。その同じ手で、鳥居を方舟に括りつけた。この矛盾を矛盾と思わないのが、この国の人間の面白いところだと思う。
……といった話を、私は道中ずっと喋っていた。
電車の中でも、駅からの坂道でも、境内に着いてからも。日本の神様の分業体制がいかに合理的かとか、宇宙飛行士の何割が出発前に参拝するかとか、そういうことを延々と。
メリーは呆れ顔で、それでも最後まで聞いてくれた。
結局、散々語った割には結界の綻びは無かった。境内を一周し、社殿を眺め、鳥居を見上げ、彼女は静かに首を横に振ったのだ。何も無いわ、と。彼女がそう言う以上、そこには何も無い。
もっとも、あの旅で成果らしい成果は一つも上がっていない。十箇所回って、全部空振りである。
それでも楽しかった。
安宿に泊まって、名物を食べて、道に迷って、方角を巡って言い合いになって、最終的にどちらも間違っていたことが判明して二人で笑った。三日間ずっとそんな調子だった。あれは秘封倶楽部の活動というより、ただの二人旅だったと思う。
あれから優に一年が経っている。
「もちろん覚えてるわ。私が連れて行ったんだもの。でもあそこ、何も無かったでしょう。メリーだって首を振っていたじゃない」
「そうね。あの時は、何も無かった」
メリーが紙コップの縁を指でなぞった。この動作をするときの彼女は、大抵、言いにくいことを口にする直前である。
「あのね、蓮子。怒らないで聞いてほしいのだけど。私、あそこに何度か行っているの。一人で」
足が、止まりかけた。彼女は前を向いたまま歩き続けるので、私は半歩遅れてその背中を追うことになる。休日の歩道は人が多く、私たちの間を自転車が一台すり抜けていった。
「いつ頃から?」
「……夏くらい、かしら」
夏。その一言で、この数ヶ月の光景が順番に頭を通り過ぎていった。
私たちの間に、初めて壁ができた日々である。互いが互いを思うがために踏み出しきれなかった、あの奇妙に静かな時間。すれ違えば挨拶はするし、顔を合わせれば笑いもする。それなのに、お互いがお互いに言いたい一言を口に出せない。あの頃の私たちの会話は、いつも半歩手前で終わっていた。
その空白の時間に、彼女がどこで何をしていたのか。私は今日まで一度も知らなかった。
「一人で歩いていたの。予定もなかったから、行く宛もなく、ね。オシャレに色んなカフェを回ろうかと思ってたけど、気づいたら神社やお寺に足が向いているの」
メリーの声は淡々としていた。感傷も自嘲も混ぜず、天気の話でもするような調子である。だからこそ、その景色が妙に鮮明に浮かんでしまった。
休日の昼下がり、参拝客のいない境内。石畳を歩く彼女の靴音。賽銭箱の前で立ち止まって、お参りをした後に黙って本殿を見上げている姿を想像の中で垣間見る。
私が隣りに居ない日に、彼女は結界を探していたのだ。
私と彼女を繋いでいる事象。結界に関する何かを見つけるたびに私たちは連絡を取り合い、日を決め、二人で暴き続けてきた。秘封倶楽部という活動の全部が、彼女のその瞳から始まっている。私から離れようとしていた数ヶ月、彼女はずっと私たちの活動の入口を探して歩いていたことになる。
……それを聞いて、私の中に湧いたのは責める気持ちではなかった。むしろ、腑に落ちたと言ったほうが近い。
彼女は逃げるのが下手なのだ。距離を置くと決めても、その距離の取り方が分からない。だから足だけが勝手に、いつもの場所へ向かってしまう。カフェを回ろうと思ったのに、気づけば鳥居の下に立っている。
「偶然だったわ。その日は目的地も決めずに歩いていたら、いつの間にかあの神社の近くまで来ていて。せっかくだからもう一度参拝していこうと思って寄ったの」
「それで」
「綻びがあったのよ。鳥居のところに」
メリーが立ち止まった。振り返った顔には、うっすらと笑みが浮かんでいる。
思わず息を呑んだ。去年の時点では欠片もなかった。彼女が見間違えたとは考えられない以上、その間に生まれたということになる。
「小さいものだったわ。手のひらくらい。正直、見間違いかとも思ったの。あんな場所で、しかも以前には何も無かったんですもの」
彼女は自分の掌を広げて、それから軽く握った。
「それでね。気になって、この前もう一度行ったの。そしたら人一人が余裕で通れる大きさになっていたわ」
「……入ったの?」
訊いた声が、自分でも思ったより硬くなった。
彼女は綻びを見つけると必ず私に連絡してくる。深夜だろうと構わず、写真も撮れないから言葉だけで場所を説明してきて、私がそれを聞いて笑って、日を決める。この数年、その手順が崩れたことは一度も無い。
今回、彼女は二度黙っていた。覚悟はしていたのだ。一人で入ったと言われても仕方がない。あの頃の私たちは、そういう距離にあった。連絡を取ることそのものが難しくて、彼女が一人で先へ進んでいたとしても、私にそれを責める資格は無い。
……でも。ふと、頭の中で何かが繋がった。
おかしいのだ。一度目に見つけたのが夏の頃。二度目が昨日。その間、彼女には何ヶ月もの時間があった。手のひら大の亀裂がいつ閉じてしまうかも分からない状況で、彼女はそれを放置している。
いや、放置ではない。二度行っているのだ。わざわざ、あの神社まで。
もし本当に入る気があったなら、一度目でとっくに入っている。メリーは私基準なら慎重な人間に入るけど、秘封倶楽部活動時は別である。目の前に開いた綻びを何ヶ月も見送るほど淡白ではない。マエリベリー・ハーンは、未知に対して誰よりも身を乗り出す人間だ。
それを、していない。
……もしかして。
心臓が、勝手に跳ねた。
もしかして彼女は、入らなかったのではないだろうか。入れなかったのでも、入る気がなかったのでもなく。
……待っていて、くれたのではないだろうか。
馬鹿げた願望だと分かっている。都合が良すぎる。私に会いたくないと言った人間が、私と行くための場所を数ヶ月も取っておくなど、そんな話があるものか。
それでも、一度浮かんでしまった希望は消えなかった。あの鳥居の前で、彼女が二度立ち止まる姿を想像してしまったのだ。二度とも綻びを見て、二度とも引き返して、そのたびに私のことを考えていたのだとしたら。
「入ってないわ。二度行って、二度とも入っていない」
メリーは少しだけ首を傾げ、当たり前のことを口にするように答えた。
「だって、蓮子と一緒じゃないと嫌だから」
彼女が微笑む。目を細めた、いつもの顔だった。その表情から、しばらく目を離せなかった。
秋の日差しに透ける金色の髪も、往来の雑踏も、全部が急に遠のいていく。私の視界には、当たり前のことを言っただけという顔で首を傾げている彼女しかいなかった。
数ヶ月。その間ずっと、彼女はあの場所を私のために取っておいてくれた。私たち二人の場所として残しておいてくれた。顔を合わせても半歩手前で会話が終わってしまうような日々の中で、それでも一人では開けなかった。
私が渡した言葉に対する返事を、彼女はこういう形で用意していたのだ。
「……ありがとう、メリー」
声が掠れた。
「あら。何のお礼かしら」
「全部よ」
我ながら雑な答えだったが、それ以上うまく言える気がしなかった。彼女もそれ以上は訊かなかった。
代わりに、手を差し出してきた。私はその手を取る。指先が少しだけ冷たくて、それでも握り返す力は確かだった。
繋いだまま歩き出す。行き先は既に決まっていた。
午後七時を回った境内に、人影は無い。
それは当然のことだ。天鳥船神社は決して有名な社ではない。航宙安全などという極めて限定的なご利益を掲げている以上、参拝客は宇宙開発関係者とその家族、あとは私達のような物好きに限られる。
しかも数年前、この神社は決定的に面目を失っている。
衛星トリフネが、事故を起こしたのだ。原因不明の機械トラブルにより船は人類の制御を離れ、地上からの停止命令を一切受け付けないまま、勝手に軌道を変えてどこかへ行ってしまった。
当時は連日大騒ぎだった。何日間も全国ニュースの冒頭を飾り続ける程度には、この国にとって痛い失敗だったのだろう。有事の際の内部制御システムが作動し、現在は地球と月の間にあるラグランジュポイントにとどまっているが、回収の目処は立っていない。
我が国の宇宙開発史上、最大の失敗例。航宙安全の神様は、見事に守り損ねたわけだ。
知名度のない神社が悪い意味とは言え大々的に取り上げられたことで、参拝客は一時的に伸びたとは言われている。しかしこんな経緯で長続きするわけもなく、半年後には以前と同水準に、いやそれ以下に落ち込んでしまった。それは仕方のないことだ。ご利益が無いことを、これ以上ないほど分かりやすく証明されてしまったのだから。
昨年の旅の際、参拝時にメリーもその事故について触れていたので、多くの人々の記憶に残っているのは間違いない。
……もっとも、私はこの騒動で神様に少しばかり同情している。
考えてみればこの神様、日本で一番暇なのではないだろうか。
祀られている領域には人間が年に数えるほどしか行かず、その数少ない出発を見送ったあとは、誰も来ない境内でただ待っている。しかも祈る対象は、地上から遥か遠くを飛んでいるのだ。守るべきものが目の届かない場所にあって、それでも祈られ続ける。……随分と、報われない仕事である。
石畳を踏みしめながら、私は黙って空を見上げた。
「……蓮子?」
「何でもないわ。それより、あるの?」
「ええ」
メリーの返事は短かった。彼女は鳥居の前で立ち止まり、その内側をじっと見つめている。朱塗りの、さほど大きくもない鳥居である。二本の柱に木を一本渡しただけの、原始的とすら言える構造物。人の領域と神の領域を隔てる、最も単純な境界線。
繋いでいた手を、一度離す。鳥居の前で立ち止まり、二人並んで頭を下げた。神域に入る際の作法である。
顔を上げた瞬間、それは視界に入った。鳥居の内側、宙に浮かぶ黒い線。輪郭がぼやけて、揺らめいて、しかし確かにそこにある。石畳も社殿も、その一部分だけが塗り潰されたように欠けていた。
手を離していても、見える。これほどの大きさになると、私の目でもその裂け目は認識ができる。
「……ねえ、メリー」
「見えているのね」
彼女はこちらを見ずに答えた。
石畳を踏んで境内に入る。敷石なので足音はほとんど立たない。差し出された手を、私はもう一度取った。
その瞬間、視界が切り替わった。
ぼやけていた輪郭が、刃で断ち切ったような鋭さを持つ。揺らめきが止まり、黒がその濃度を増した。奥行きが無い。向こう側が見えるのではなく、向こう側が存在しないという事実だけが、そこに露出している。
鳥居の高さを優に超えていた。幅も、大人が三人並んで通れるほどある。
触れ合っている時のみ共有される異能。これがメリーの見ている世界なのだと、改めて実感する。
「……また大きくなってる。前回より広いわ。人どころじゃない。もう、鳥居をゆうに越す大きさになってるわね」
「分かったわ。……行きましょう」
「あら。悩まないのね」
メリーが小さく笑って、私を握る手にわずかに力を込める。
手の平同士で伝わる体温。未知の全てを求めて一歩を踏み出す行為は、この数年で何度も繰り返してきた。
だというのに、この瞬間だけは何度やっても慣れない。心臓が跳ねる。掌が汗ばむ。喉の奥が乾く。
この感覚に名前を付けるとすれば、たぶん恐怖が一番近いのだろう。近いのだが、それを打ち消して余りある興奮が同時に来る。次の一歩で何が見えるのか、誰も知らない。世界中の誰も知らないことを、私たちだけが数秒後に知る。その一点だけで、私はここまで来てしまったのだ。
もし、この活動が終わる日が来るとすれば、それはこの世界に何の魅力も感じなくなった日だ。鳥居の向こうに何があっても構わないと思った日、知らないままでいいと思えてしまった日。その時に初めて、私たちは手を離すことになる。
……もっとも。そんな日が来るとは、露ほども思っていないのだが。
「行くわよ、蓮子」
「ええ」
繋いだ手に、力がこもる。
一歩を、踏み出した。黒が視界を覆い尽くす直前、私は隣の彼女を見た。
メリーは前を向いていた。その横顔に、迷いは一片も無い。
足の裏から、地面が消えた。
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