「自分で産んだわけでもない子を育てるというのか。」
問いかけたロイエンタールを、まるで事情が飲み込めないという顔をして彼女は見返した。
それから一瞬のあと、「ああ」とようやく合点がいった様子で頷いて、笑う。
「私の生まれた国では、様々な家族の形が定着しているんですよ。」
誇らしげに祖国の美点を語る眼差しが輝く様子を見れば、命よりも重いと思ったかつての誇りや矜持さえ霞んで見えるのだから不思議だった。
総督府を訪ねてきた女性から託された子どもがハイネセンの施設に預けられていると聞いた時のジーンの反応は、迷い一つない素早いものだった。
出生の届け出はどうなっているのか、では戸籍はと、民政府勤務のキャリアに相応しい機敏さであちこちに問い合わせ、付随して発生したいくつかの問題にも明瞭な意見をもって対処していった。
よく言えば寛容であり、ともすれば情緒に欠けるとも言えるジーンの様子に半ば呆気に取られていたロイエンタールがようやく発した言葉が、冒頭の一言である。
しかし、それさえも彼女は笑って受け流し、「行政権が総督府にあるおかげでいくらか手続きも簡単に済みそうです」とささやかな嫌味さえ言って寄越したのだ。
どんな時も前向きな明るさを絶やさない彼女のまぶしさを、今また感じている。
部下であった時のジーンは、聡明ではあるが常に折り目正しい姿勢と上司への遠慮を堅持していた。
しかし、今の彼女はロイエンタールにも臆せずに物を言い、意見を述べるに際しても遠慮というものをしない。
そして、よく笑った。
愛しいと思ったし、変わらずにいて欲しいと思ったし、この無遠慮で快活な女性を決して手放したくないと真心から思った。
ほんの数カ月の間に失ったものは、あまりにも多い。
元帥の地位も帝国騎士の称号も返上してしまったし、当然ながら「新領土総督」からもとうに外れている。
凍結された財産は自由にならず、ようやく居住地を移る権利を得て、ジーンが父親から相続した湖畔の別邸に移り住んだのもごく最近のことだった。
銀河帝国の軍人としてのすべてと半生をかけて築き上げた誇りとを投げ出して手に入れたものは、ただ一人の女性だけだ。
しかし、それこそがかけがえのないものだと思える。
自分の持てるすべてを差し出したとしても、彼女だけが欲しかった。
「手続きが終われば……二週間もあれば済むはずですが、そうすれば赤ちゃんもこちらに移れるそうですよ。」
ジーンはそう言って微笑むが、それを聞いていたロイエンタールのほうが苦虫を嚙み潰したような顔になる。
「なんて顔をするんです。」
呆れ顔をつくるジーンだったが、「当たり前だろう」と腕を引かれると吹きだすように笑い出した。
「なぜ笑うんだ。」
「だって、」
「だってなものか。ここに移ってまだひと月やそこらというのに、もう子持ちの夫婦になるのかと思えば当然だろう。」
自分の子どものことだというのになんとも無責任な言い方ではあったのだが、ジーンはそれを咎めなかった。
「少なくとも夫婦という自覚があるのだから及第点でしょう」と、長年の独身主義をあっさりと翻した男に合格点を与え、知的な眼差しをそっと細めてみせた。
「ナニーを探さないといけませんね。そう、メリー・ポピンズみたいな素敵な女性がいいわ。」
「忙しくなりますね」と人生における初めての休暇を満喫中である夫をからかいながら、彼の胸にその頬を寄せる。
「あなたの血を引く子だもの、きっと賢い子だわ。」
夢を唄うような美しい声音で彼女は言い、自分を抱く男の怜悧な眼差しを覗きこんだ。
「聡明で、気高く、物事を成し遂げる力をもっている……だけど、少し我が儘かしら。」
溢れる愛しさを隠さずに見つめる眼差しに引き寄せられるように、抱きしめていた手を彼女の頬に触れさせると、ロイエンタールはそっとジーンの目蓋に口付けを落とした。
「聡明で、気高く、物事を成し遂げる力をもっている、母を見習うことができればきっとそうなるだろう。」
自身のすべてを受け入れ、躊躇うことなく子の母となると告げた彼女こそ、その言葉に相応しいと思う。
この美しいひとを母にもてる息子を羨ましいとさえ思ったほどだった。
狭い道しか選べずにいた自分の手を引いて、世界は可能性に溢れていると教えてくれた人だ。
ひたむきに向けられた恋心も惜しまずに与えられる愛情も、すべてがあたたかく美しい。
遠き日に諦めて以来、望むことさえ忘れてしまった祝福を、彼女は無条件に与えてくれた。
幾千の言葉さえ足りないほど愛しく、どれほど愛しても尽きることがない。
初めて、その感情を知った。
子をもつことは、ロイエンタールにとって正直なところ受け入れがたいことだった。
自分と血を分けた存在であればこそ余計に愛せるはずがないと思ったし、自分と同じ性質をもった人間が育つのかと思うとまるで化け物を生み出したようで恐ろしい。
けれど、彼女が「我が子」と呼んでくれるのなら──赤ん坊の運命はきっと違うものとなるだろう。
自分の子を愛しいと思えるかはわからない。
しかし、彼女が慈しんでくれるのならば、きっと自分も慈しめるはずだと思っている。
彼の心音を感じ取るように、そっと左胸に添えられた手。
大丈夫だからと安心させるようなその仕草に、胸の奥から溢れるものがある。
「ジーン。」
これが愛かと、知らなかったはずの感情が湧きあがるのを感じていた。
愛しい、愛している、あたたかい、こんなにも──。
「我が妻、ジーン。ジーン・ロイエンタール。」
憎いとさえ思った家名も、彼女の名に添えれば美しい。
そして、その名は継がれていくのだ。
「俺はおまえにいくつものものをもらったが……。」
腕の中の妻の髪を梳いてから、再びその細い背を抱く。
「その中の一つを息子の名に与えたい。」
生きるために駆け続けたはずの自分が、足を止めたそこで見つけたもの。
彼女がいなければきっと、立ち止まることも、「それ」を見つけることもなかった。
美しく、尊ぶべきただ一つの真実。
「俺の人生にはきっと存在しないと思っていたが。ジーン、おまえが教えてくれたのだ。」
静かな眼差しがロイエンタールを見つめる。
答えを待つジーンの口唇にはそっと微笑みが浮かんでいた。
「……フェリックス。フェリックス・ロイエンタール。」
──幸福。
どれほどの成功よりも、幾たびの勝利よりも、ただ愛され、満たされることの充足を知った。
あたたかく、穏やかで、ただそこに在るだけで十分だと思える感情。
「……ああ、これが……”幸せ”ということなのだな。」
吐息と鼓動とを共有する距離で微笑み合い、静かに口唇を重ねる。
同じだけの愛と同じだけの幸福を、愛しきひとへ。
与え合い、慈しみ合う限り、この幸せは途切れずにつづいていく。
目を閉じれば鳴り響く祝福の鐘──それは厳かに、そして晴れやかに彼らの胸に響く。
その手に希望を、胸には愛を。
時代が再び彼らを求めるまで──今は、しばしの休息のとき。
【あとがき】
昨年の12/16、botさんが荒ぶる様子を見て、これは自衛せねば!と思って書いた限定公開作品です。一年経ちましたので、通常公開いたします。
同じ気持ちの方を励ませたら幸いです……!