「――だから多分、香取さんはそう動くと思うんだよね。となると自然、他の2人も連動して動くから」
「初動が肝心ってことだよな。できればそこで香取先輩の動きを確定させておきたい、と」
「そういうこと。……だけど多分、今の感じだと」
「ああ……負けるな、多分」
2人してその結論に達し、肩を落とす。
作戦室を目指して廊下を歩く犬彦と小夜子。
梅雨の時期に差し掛かり、空気はじとりと重く生暖かい。5月の爽やかさも消えて、本来であれば半袖シャツ1枚で過ごしたいところを、その上に1枚パーカーを着て背中に小夜子をくっつけている。周囲の視線も慣れたもので、今ではまたあの姉弟かとばかりにほとんど視線も集まってこない。
背中にかかる重いため息を払うように距離を取ると、逃すものかと裾を掴んで再びくっつかれる。犬彦はもう1つ別のため息をついた。
「やっぱダメなの? どうしても?」
「そう、だなあ。こればっかりは気合いでどうにかなるものでもないし」
「何があったかってのは昨日も聞いたし、ついでに色々言ったけどさ。仕方なかったと思うよ? 14歳の子供に、入って一月ちょいで自覚を持てって方が無茶なんだしさ」
くぐもった声で小夜子がフォローを入れてくる。
犬彦とて、それはわかっているのだ。だからこそ深刻な状況にも陥っていないし、こうしてボーダーに来ることもできている。昼間の学校は心ここに在らずというやつでさっぱり記憶に残っていないが、登校もできた。最悪には至っていない。
だから、これはそれとはまた別の話なのだ。
苦い顔で犬彦は言った。
「なんて言うのかなぁ、失敗した後の気まずさって言うかさ。やらかしたり迷惑かけた後って、その人に会うと気まずくなるだろ」
「え、そう?」
「素で聞き返してくるのやめろよ……悩んでる俺が馬鹿みたいじゃねーか」
「うーん、私はそういうのあんまり気にしないけどなぁ」
「わかった、お前に聞いた俺が馬鹿だった」
失礼なー!とか抗議の声が背中から聞こえてくるが、無視して志岐隊作戦室の扉をくぐった。
着くなり、背中から離れた小夜子が自身のデスクではなくソファの上にダイブする。
今はボーダーの制服姿ではなくラフな私服だから止めはしないが、その動きは年頃の女としてどうなのだろう、という思考が脳裏をよぎった。
――くそ、雑念多すぎだな。
思考がすぐに余所見をする。集中できない。何をしていても、あの時の失敗と後悔、香取先輩の冷たい目が脳裏をちらつく。
こんな状態ではとても勝つことなどできはしない。
ただでさえ相手は前回と違い、自分より経験も長く技術もある集団である。全身全霊をもって挑まなければ勝てはしないし、何より失礼だろう。
作戦室に足を踏み入れた犬彦だったが、再びその足を反転させた。
「ん? どこか行くの?」
「自販機。なんか買ってくるわ」
どの道ここでじっとしていても塞ぎ込んだままだ。気分転換でもしなければ落ち着かなかった。
「犬彦」
「ん? ああ、なんかいるものあったか?」
「絶対勝つ。そう言ったよね」
「――ああ」
「それを思い出しても、難しい?」
脳裏をよぎるのは、黒江の顔と、触れた温もり。
拳を握る。それでも、言葉は出てこなかった。
自販機の前に立つ。
今甘いものを飲むと、どこまでも甘い気分に浸りそうで嫌だったので缶コーヒーを選んだ。ブラック。とても好んで飲むようなものとは思えなかったが、気分を変えてくれるだろうか。
缶が底にぶつかる音がした時、ふと声が溢れた。
「先輩?」
「え?」
振り向く。
先程思い浮かべていた黒江が、目を丸くしてこちらを見ていた。
思わず、缶コーヒーを手に取った姿勢のまま固まってしまう。
「……よう、お疲れ」
「えっと、はい。お疲れ様です」
犬彦は元より、黒江もどこか心ここに在らずといった様子で挨拶を交わした。互いに、予期せぬタイミングで遭遇したことが丸わかりであった。
――気まずい。
犬彦は内心で渋面を作った。
最後に言葉を交わしたのが、断った時のあのやりとりだった。
あれから特に連絡を取り合っていたわけでもなく、加えて先程思い浮かべた顔。表情が強張るのが嫌でもわかる。
一方、黒江もそうなのだろうか。そっと犬彦が自販機の前を空けると、ぎこちない様子で自販機の前に立つ。
ちらりと、その視線が犬彦の手元を見た。
「先輩、コーヒー好きなんですか?」
「ん? まあ、微糖ならな。ブラックはあんまり」
味を楽しむのではなく、気分転換が目的である。
しかしそれを素直に吐露するのも憚られて、自然と言葉尻を濁した。
コインを投入しながら、意外そうに黒江が言った。
「そういえばこの前も飲んでましたっけ。なるほど、先輩ってコーヒー派だったんですね」
「あまり自覚はなかったけど……そうだな。徹ゲーの時とかどうにも眠かった時に飲んでたし、確かによく飲んでるわ」
ふむ、と頷いて黒江が言った。
「ちなみに私は緑茶派です」
「ん? ええと、そうなのか」
「はい。だから先輩、次会う時は戦争ですね」
「切り返しが物騒すぎる」
「安心してください。刺し違えても先輩を緑茶派に引き込んでみせますよ」
「お前そんなに情緒不安定だった?」
コーヒー派を代表したわけでもなければ緑茶が嫌いなわけでもないので切実にやめてほしいところだった。
ふふ、と小さな笑みが零れた。
黒江の柔らかな表情。少し肩の力が抜けたのだろうか。
「今日はどうしたんだ?」
「私はその、訓練です。先輩は」
「俺はランク戦」
「確か夜でしたよね。それにしては早くないですか?」
「……ちょっと落ち着かなくてな。早く来ちゃったんだよ」
「緊張して、ですか?」
「いや、緊張はしてないんだけど……」
「え? 違うんですか? 先輩は緊張してこそだと思ってたのに」
「ストレートに心を抉ってくるなあ」
久々に会話したはずなのに黒江が冷たい。それともやはり時間とともに悪感情が溜まってきたのだろうか。
「今は違うんだよ。ちょっとそれどころじゃなくって……」
「それどころじゃない、とは?」
ペットボトルが自販機の底を叩く音。
不思議そうな表情で首を傾げる黒江に、しまった、と口を噤む。
自分1人ではどうにもできないもやもや。
確かに、黒江に話せば何か良い方向に転がることもあるのかもしれない。そう思う一方で、こんなことで誰かに頼りたくない、と意地を張る気持ちもあった。まして、黒江には。
「その、ですね。何か悩んでいるなら話してみませんか? 私では頼りにならないかもしれませんけど、話して楽になることもあるかもしれないですし」
屈んで手に取ったお茶を玩びながら、おずおずと遠慮がちに黒江が言った。
犬彦は黒江に同じように言葉をかけた時のことを思い出す。
あの時と同じような顔を自分もしているのだろうか。
だけれど、あの時と今では状況が違う。
黒江の話を断り、自分の気持ちを尊重して、その結果がこれだ。
勝たなければいけない。勝つと決めた。なのにB級中位で躓きそうになっている自分に嫌気がさす。
「……なんでもないよ。ありがとな、心配してくれて」
ダメだ。やっぱり話せない。
唇を引き結んで背を向けると、小さく声が漏れた。
「ま、待ってください。やっぱり何か変ですよ、せんぱ――」
「っ!」
思わず、だろう。
引き止めようとしたのか、黒江が肘を掴んできた。手も小さく、力も弱い。
けれど今の犬彦にとっては、女性が触れるということはそれ以上の意味を持つ。
「あっ」
咄嗟に振り払う。
目と目が合う。
黒江を通して見えていたもの。
それがズレてようやく黒江とピントが合って、初めて意識を取り戻す。
「わ、悪い! そんなつもりじゃ」
ない、と、言いかけたその時。
じっと、黙って振り払われた手を見ていた黒江が――すん、と鼻を1つ啜った。
「えっ」
「……そう、ですよね。すみません先輩。変に気を回してしまって。そもそも異性恐怖症の先輩が私と話すのだって大変だってこともわかってたはずなのに」
目が潤む。声が湿る。
犬彦はもはや呻き声しか出せない。
「いや、ちょっ」
「それでも、それでも、先輩に救われた私だから……なんとかしたい、と思ったんですけど。すみません。出すぎた真似でした。もうしません」
「待て、待って。なんでお前、泣いて」
「だから――また、落ち着いたら、でいいですから。話を、してもらえませんか。役に立たない私ですけど、それでも私は、こんな形で先輩と――」
「ああああああっ!! わかった、話す! 話すから! 頼むから泣くのはやめてくれぇっ!!」
「泣いてる女の子を連れ込むとか、事案? 事案なの? 110番しよか?」
「お願いですからやめてください」
場所が場所なだけに、流石にあれ以上あの場で話すのは危険すぎた。
話をする上でもっとも適した場所はラウンジだったが、人目は避けられない。そんな場所へなかなか泣き止まない黒江を連れ込んだ上で話をしようものなら、あらぬ疑いをかけられたりしてそれこそランク戦がどうこうという話ではなくなりそうだった。
となると、犬彦が連れ込める場所は志岐隊作戦室以外にない。
先の台詞はぐずる黒江を認めた小夜子のものだったが、その小夜子は今はここにはいない。
「何があったのか知らないけど、ちゃんと話してあげなよ? 私は席外しててあげるから」
そう言い残してささっと出て行った。と言っても小夜子の行ける場所なんて限られているから、恐らくは那須隊の作戦室だろう。
気を利かせたつもりだろうか。それはありがたいが、泣く女の子なんてどう扱えばいいというのだろう。どうせならそれも教えて行って欲しかった、とほとほと情けない顔で犬彦は頭を抱えた。
「……すみません、取り乱しました」
ソファに黒江を座らせて、しばらく。
ようやく落ち着いたらしい黒江がそう言って頭を下げた。
「いや、俺の方こそすまん」
差し向かいのソファで、困ったように眉を寄せて犬彦も頭を下げた。
目尻の赤い黒江を見ながら、慎重に言葉を探す。
「えーっと、その、な。悪気があったわけじゃないんだ、本当に。お前に相談したくなかったのも……まあその、ただの意地だ。すまん」
「いえ、私も……その、泣いてしまったのはすみません。わからないんです。あれから連絡も取ってなかったですし、もしかしたら本当に嫌われてしまったのかも、と思っただけで……何故か。その、すみません」
黒江の呟きに、犬彦は顔を覆った。
自分はいったい、どれだけ黒江を傷つければ気が済むのか。本当に、犬彦は自分が大嫌いだった。
「本当に、ほんっとうにすまん。連絡をしなかったのはただ気まずかったからで、お前のことを嫌いになったとかそういうことじゃ一切ない。だからそんなに気に病まないでくれ」
「いえ、私も……本当はこの前のランク戦の時に行けば良かったんですけど、同じです。なんとなく気まずくて。だから本当は私のせいなんですよ」
「いや、黒江が謝ることじゃないだろ。悪いのは俺だ。勝手だった」
「それこそ、先輩が謝ることなんてないですよ。もともと異性恐怖症なんですし」
「いや俺だって。そんなの言い訳にもならないんだから素直に受け入れてくれよ」
「いやいや私ですよ。勝手に考えて勝手に泣いてしまったんですから、譲ってください」
そんな、他愛もないやり取りをいくらか繰り返した後。
どちらからともなくふっと表情を綻ばせた。
「……悪い。ありがとな。心配してくれたのは本当嬉しいよ」
「……ええ。私も、ありがとうございます」
黒江は多くは語らなかった。
けれど犬彦もそれ以上を聞かなかったし、それでいいと思えた。
どこかこそばゆい空気を払うように、さて、と腕を組む。
話をするといった以上、犬彦にとっては恥ずかしい話であるあの話をしなければならないのだが、やはり抵抗があるのも事実で。言葉はどこか遠慮がちに告げられた。
「でも、黒江には悪いんだが、本当にたいしたことないんだよ。次の対戦相手と昨日一悶着あって、それでどうしようかって悩んでただけなんだし」
「一悶着、ですか?」
首を傾げながらペットボトルのお茶を口に含む黒江に、犬彦は昨日の防衛任務のやり取りを話して聞かせた。
恥であり、人によっては怒りを覚える内容だろう。話しながら黒江の反応が怖かったが、仲直りしたばかりの相手である。隠し事はしたくなかった。
「ってわけ、なんだけど……その、黒江?」
話を終えた犬彦は、恐る恐るといった風情で黒江に声をかけた。
というのも、話を終えてようやく黒江のそれに気付いたからである。
「――なんですか、それ」
不機嫌そうに。低く猫のような唸り声を上げて黒江が呟いた。
――やっぱり、そうなのか。そりゃそうだよな。
黒江の怒りも、香取先輩の話を聞いた後ならもっともだと思えた。
多分、本当なら誰もが抱いて然るべきもののはずで。それを抱くどころか、気付きもしなかった犬彦に憤慨しているのだろう、と。
処刑台に赴く死刑囚のような面持ちで口を開いた。
「悪い。ちょっと軽く考えてたかもしれん。香取先輩の話を聞いて納得もしたから、今後は気をつけるよ」
粛々と頭を下げる犬彦に、しかし黒江は訝しげに首を傾げてみせた。
「? いえ、違いますよ先輩。先輩は多分勘違いしてます」
「勘違いって、何が?」
「私が怒っているのは、先輩にではなく香取先輩にです」
「え? なんで?」
失敗をしたのは犬彦で、それに注意をしたのが香取先輩である。なのにどうして黒江が香取先輩に憤慨するのか、犬彦にはまるでわからなかった。
しかし、それこそわからないとばかりに黒江は首を振る。
「何故って……私にしてみればその質問こそおかしいですよ。香取先輩は先輩が異性恐怖症だって知ってたんでしょう? だったらそれ相応の対応があったはずです。なのに香取先輩ときたら先輩のことをガン無視で、そんなの誰だって萎縮するに決まってるじゃないですか。冷静な判断ができるわけないですよ」
「え……い、いや、そんなことないんじゃないか。状況はどうあれ緊張してたのは間違いないし、香取先輩はあまり関係ないんじゃ」
「確かに先輩が緊張に弱いのは知ってます。でもよく考えてください。最初の任務ですよ? 当真先輩が言ったように失敗なんて当たり前です。だからこそ周りの人がフォローして然るべきなのに、それを放棄しておいて挙句に先輩1人を悪者にするなんて、そんなの許せないですよ。ありえないです」
矢継ぎ早に不満を吐き出す黒江を、犬彦は唖然として馬鹿みたいに見つめていた。
犬彦が覚えている限り、こんなに感情的に、こんなに饒舌に、こんなに怒りを露わにする黒江を見たのはこれが初めてだった。
犬彦の中で黒江はあまり感情を表に出さない少女だったし、犬彦をからかっている時でもその感情表現は随分控えめなものだと思っていた。
なのに今。黒江は縄張りを荒らされた猫のように眉を立てて、怒りに拳を震わせている。
――こんな風に怒る奴なんだ、こいつ。
そのことが、どうしようもなく犬彦の心をかき乱す。
「いや、そんなこと……緊張してトチったのも俺だし、馬鹿なこと考えたのも俺だ。香取先輩だって、間違ったことは言ってないし」
震える声で呟く。
黒江は訝しげに目を逸らす犬彦を見た。
やがて何かに気付いたのか、まるで痛ましいものを見るような目で口を開いた。
「……先輩。先輩の過去に何があったのかは聞きません。けど、私は今回のことについては絶対に先輩だけのせいじゃないと思っています。きっと私だけじゃなくて、小夜子先輩や、那須先輩だって同じことを言うはずです」
優しい声だ。開いた傷を癒すような声。
自分よりも幼い少女からの励ましに、羞恥はなかった。それは偏に、異性恐怖症の犬彦でもわかるほどに黒江が真摯に労ってくれているからだ。
けれど、犬彦は弱々しく首を振った。
「違うんだ」
「何がですか?」
「違うんだよ、黒江。そういうことじゃないんだ」
犬彦が真に許せなかったもの。
犬彦が真に失望した理由。
論理では溶かせない、犬彦の心に未だ消えずに残っているしこり。
「前に、小南に言われたことがあった。俺に足りないのはきっかけだって。だから防衛任務とか、市民を守るために戦う時、その時に感じたことをよく覚えておけって。そう言われたことを思い出したんだ」
聞いた時には、どんなことを思うのだろうと首を傾げ、しかしその一方で期待していたことを覚えている。俺にも、何かそういう尊い想いを抱くことができるのだろうと、想いを馳せたことを覚えている。
けれど、実際に蓋を開けてみれば。
「何もなかった。何も、なかったんだ。香取先輩に言われて気付いた。俺は何も考えていなかったし、感じてもいなかった。家を壊されたら、住んでた人が、周りの市民がどう思うかなんて、そんなことこれっぽっちも考えてなかったんだ」
犬彦の頭は、ただただ合理的だった。
打ち捨てられた建物は所詮建物でしかない。障害物でしかない。ゲームの環境設定でも見るような目で見てしまっていた。許可を得ているからと思考停止して、そんな発想にさえ至らなかった。
恐らく誰にも止められなかったら、犬彦は自身の作戦を平気で実行していたし、
そこまで容易に想像できるからこそ、犬彦は自己嫌悪に陥っている。
失敗からくる後悔と、自分の心の内を覗かれたかのような香取先輩の目から逃れられないでいる。
――こんなヤツが、ここにいていいのか。
「隙ありです」
顔の前で合わせた手。
それが、不意に黒江の小さな手に挟み込まれた。
「――えっ」
「ううん、久々に触りましたが本当にすべすべな手ですね。女の子って言われても納得できそうです」
「なっ、ちょっ」
呟く言葉など半分も頭に入ってこない。触れる感触。女の子の手。
身を強張らせ、反射的に手を引こうとしたところで、
「先輩。少しだけ私の話を聞いてくれませんか」
懇願するような黒江の声。
ぐっ、と踏みとどまることができたのは、先程の涙を見たばかりだからだろうか。
現状維持を決めると、自然と手に意識が向く。
ひやりとした感触。細い指。上がる熱はどちらのものか。
「1つ目。先輩が色々なことを考えられることは知っていますし、凄いとも思っています。話を聞いていても私では思いもしなかったことがあったりしますし、きっと私には同じように考えることはできません」
「お、おう」
「ただ、先輩はそのせいで自分の首を絞めてしまっています。……正直なところ、私は先輩のそういうところは嫌いです。凄く考えられるんですから、もっと堂々としているべきです。私の時もそうでしたけど、本当に先輩はそういうところは不器用ですよね」
「アッハイ。そうですね」
視線が痛い。自覚はしているが、器用に立ち回る方法など今の犬彦には皆目検討つかないのだから平謝りである。
もっとも、改善できるならそもそもこうはなっていないことだろうが、それは藪蛇にもほどがあるだろう。
こほん、と咳払いして黒江が言った。
「と、すみません。話が逸れました。私が言いたいのはですね、多分みんな、先輩が考えるほどには使命感とか、街とか住人への配慮とか、そんな小難しいことは考えていないだろうということです」
「……そうか? 小夜子も似たようなことは言ってたけどさ」
「はい。みんながみんなそうだとは思いませんけど、多分先輩が考えるよりはずっと少ないと思いますよ。かくいう私だってここに入る時には面白そうくらいにしか考えてませんでしたし、それは先輩も知っているでしょう?」
今まではそんなに面白くなかった、と以前に黒江が語ったことを思い出す。犬彦と出会う前、刺激が足りず、先に入った幼馴染と比べて、やる気をなくしていた黒江のことを。
犬彦にだって、黒江の言いたいことはわかる。
歳は違えど、犬彦と大差のない少年少女である。ならば犬彦と同じような考えしか抱けなくても不思議ではない。
しかしそれでも、何かを得たかったと思うのはやはり高望みが過ぎたのだろうか。
「まだ晴れないみたいですけど、やっぱり気になりますか?」
「……まあ、そうだな。夢を見すぎたのかもしれない、って気はしてきた」
「そもそも私は、先輩がこの世の終わりって顔をしてるのがどうしてもよくわからないんですよ」
首を捻りながらの言葉。犬彦とは違い、何かを掴みかけているようなそれ。
「それは、どういう」
「先輩、1つ確認なんですけど。先輩は先輩にとって最初の任務で何も感じなかったから凹んでいるわけですよね? 小南先輩の言うところの、『その時に感じたこと』がなかったから」
「あ、ああ。初めての任務なのに、何も感じなかったから――」
犬彦の言葉に、ようやく合点がいった、というように頷いて、黒江が言った。
「先輩。それって最初じゃなければいけないものなんですか?」
「え?」
「小南先輩は『その時に』って言ったかもしれませんが、それって別に重要ではないと思うんですよ。大事なのは先輩が何を感じたか・考えたかであって、それは別にその時でなくてもいいことだと思うんです。最初はあんまり美味しくないなって思ったご飯も、何だか忘れられなくて、また食べちゃったりして、気付いたら好きなものになってることとかあるじゃないですか。それと一緒で、別にいつ気付いてもいいことのように思えるんですけど」
「あ――うん」
さらっと言われた言葉に、犬彦は思わず目を逸らした。
盲点だった。正直な思いはまさにそれだ。
気付いてしまえば何でもないことだし、何故わからなかったと思いもするのだが、「その時に」という言葉に囚われてしまっていた犬彦は任務失敗の後悔だったり、理想を高く持ちすぎたためについぞ気付くことはなかったのだ。
問題は解決した。しかし同時にこの反応も必然である。
犬彦にとっては真実、神から齎された啓示にも等しい言葉ではあったが、理解が及ぶにつれて湧き上がってきた感情は喜びではなく、身悶えするほどの羞恥であった。
――うわ、恥ずかしっ……!
包まれていた手を振りほどいて、思わず顔を覆い隠したのもむべなるかな。
あんなにシリアスにモノを語って、後輩に慰められて、挙句勘違いだったと気付かされるなんて恥ずかしいにもほどがある。恥ずかしすぎて、黒江の顔などとても見られないほどだった。
1人で急に悶え出した犬彦に、黒江はスマホを取り出しながらさらりと追撃を重ねた。
「まあ、香取先輩にショックなこと言われたことだったり、初めての任務で失敗したりだとかが尾を引いて良い方向に物事を考えられなかったんだろうなってのは想像がつきます。だからそんなに恥ずかしがることはないと思いますよ――パシャリ、と」
「えっ待ってなんで撮ったの今」
したり顔で語りながらさらりと行われた犯行に犬彦は戦慄して言った。
しかし黒江は被害者の追求にも平然としている。
どころか、さりげなくスマホをポケットに忍ばせながら爽やかな笑顔でこう言った。
「いえ、先輩と私の大切な思い出を記録しておこうと思いまして、ええ。――他意は何もありませんよ、勿論ですとも」
「目ェ逸らしながら言っても説得力ねーよ他意ありまくりじゃねーか今すぐ消せ!」
「そんな、先輩は私との思い出を残すのが嫌だって言うんですか?」
「思い出を選ぶ権利くらいあると思うんだ」
「私忘れっぽいんです。だから映像に残して、バックアップを取って、チャットで共有して、SNSに流さないと覚えられなくて」
「こえーよ! お前は俺のことどうしたいの? ちょっと距離を置こうか真剣に悩み始めたんだけど」
「ああ、いつもの先輩節ですね。安心しました」
「このタイミングで言われても反応に困るんだが!」
しばらくして。
小一時間ほど経過した頃、さてどうなったかな、と小夜子が志岐隊作戦室に戻ってきた。
ドア付近に近寄りつつ、ふと思う。
自分はどういうテンションで入るべきかと。
――そんな深刻そうな様子でもなかったし、多分大丈夫だとは思うけどなぁ。
犬彦自身が言っていたとおり、犬彦自身も最悪の状況には至っていない。
泣いている黒江を連れて戻ってきた時には流石に瞠目したけれど、大人しく連れてこられたところを見るに拗れに拗れたというわけでもないらしい。ならばきちんと腹を割って話していれば今頃は和解できているだろう、と結論づける。
となると、だ。
仮に失敗していたとしても、沈んだ空気の中に同じ調子で入っていっても仕方ないし、中の様子がわからないからと慎重に探りながら行くのもそれはそれで何の解決にもならない気がする。
というかそれはむしろ私が恥ずかしいな、と小夜子は1人頷いた。
やっぱりハイテンション安定だよね、と結論づけた小夜子は柔軟を開始した。身体を解し、呼吸を整え、楽になったところで、いざ吶喊。
「いぇーい2人とも、盛り上がってるぅー!?」
「いいなお前、わかってるよな? 負けたらあのデータ削除だぞ?」
「ええ、わかっていますよ」
「後でやっぱナシとかそんな卓袱台返し御免だからな」
「勿論ですとも。そんなつまらないことはしませんよ。それより先輩こそ、私が勝ったらあのデータはきちんと残させてもらいますからね? わかってますか?」
「さっきから不思議なんだが、お前のそのよくわからない自信はなんなの? これゲームよ? 俺の十八番よ? 俺の土俵で勝とうなんて言っちゃあなんだが自惚れがすぎるんじゃないか?」
「何言ってるんですか、勝つ気満々ですよ。勝算だってちゃんとあります」
「勝算?」
「必殺・おっと手が滑った」
「ヒェッ!」
「隙ありです!」
「な、っちょ! てめ、まさかお前の勝算って!」
「フフフ、いくら先輩がゲームに強くてもこの状況で私に勝てると思うんですか? この隣り合って座った状況なら私の手は確実に先輩を逃しませんよ」
「こ、この外道……! そこまでするか!?」
「おっと立ち上がりましたね。だけど先輩、私が何のためにわざわざ有線コントローラーにしたと思ってるんです? 無線ならともかく有線なら、ほら、こうするだけで」
「うひぃ!? 擦り寄ってくるな猫かお前は!」
「にゃーん?」
「そんなあざとい鳴き真似で俺が釣られると――ああやめろ寄るな触るな! ぎゃあ!」
「やっといてなんですけどその反応は地味に傷つきますね。バケモノですか私は。もっとフレンドリーな反応を要求します」
「無茶振りにもほどがあんぞこの悪魔後輩!」
「めっちゃ盛り上がってる……!」
自身のテンションすら上回る場の空気に、小夜子は瞠目して慄いた。
確かに、高確率で仲直りしているだろうとは予想していた。
それでも小1時間である。さめざめと泣いていた黒江と、悩みを抱えた犬彦の2人を見ていた小夜子としてはいいとこ仲直りして談笑しているくらいにしか考えていなかったのに、何がどうしてこうなったのか。
モニタを前に、コントローラーを握りしめた2人がぎゃあぎゃあと騒ぎながらゲームしているこの光景。
何らかの賭けをしているのだろうことは2人の会話ですぐにわかる。
一見して喧嘩しているように見えるものの、額面通りに受け取る人はいないだろうな、と小夜子は思う。
口の端に隠しきれない笑みを浮かべた黒江と、テンション高く騒ぐ犬彦。黒江への遠慮ない言葉も2人の関係性があったればこそだ。そも、本当に嫌であれば相手が女性である時点でこうはならない。
「まあ色々と解決したみたいなのは良かったけど――ねえ」
それはそれである。
小夜子なりに心配し、気を配り、部屋に入る時などは蓋を開けたらどうなるかとほんの少し緊張していたところへ、まるで何もなかったかのように繰り広げられるバカップルの如き大騒ぎである。
小夜子は激怒した。訴訟も辞さない。
小夜子は再び吶喊した。
「私も混ぜろリア充どもめ!」
「ゴフッ! 小夜子お前、いつの間に!」
「ナイスアシストです小夜子先輩!」
「あっ! ちょ、おい離れろ小夜子! 何か知らんが後で混ぜてやるから、今は!」
「こうした方が絶対面白いって私のカンが囁くからね、仕方ないね」
「捨てちまえそんな傍迷惑なカン! 黒江、ストップだ! これは予期せぬアクシデントだ! 休戦を要求する!」
「先輩先輩。――外道で悪魔な私がそんな言葉に耳を貸すと思いますか?」
「こ、この野郎しっかり根に持ちやがって……! あ、やめろやめろ! それはやめっ、アッ――!!」
※この後めちゃくちゃ保存した。
うじうじタイム終了。
今度こそ次からROUND2です。
書いてて死ぬほど思ったけど、黒江泣かせるとか各方面から怒り買いそう。どう足掻いてもギルティ(無慈悲
黒江ガチ勢(キャラ的にもファン的にも)があっちこっちから湧いてくる未来しか見えない……この作品詰んだのでは……?(震え
多分次はちょっと時間かかります。
今回は理屈こねくり回すのが死ぬほど大変だったからですけど、次回はリアルが忙しいので……(白目
余談。
前話の感想ですが、たくさんのご感想を頂きありがとうございます。
念のため申し上げますと、作者は香取が嫌いなわけではなく、また貶める目的で書いたわけではありません。
状況から作者がそう解釈しただけですので、解釈違いの可能性は十分にあります。
それだけご了承頂ければ幸いです。