紗夜が新しい物事を始めて、あとから始めた日菜に抜かれ、日菜がより多くの称賛を受けるというのはよく見る話ですが、日菜よりも紗夜を高く評価する人は結構居たのではないかと思って書いた掌編です。

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水面の向こう側へ

「ねぇ、紗夜。頼みがあるんだけどさー、センター代わりに踊ってくれない?」

 

 放課後、体育館の隅っこで振り付けの確認を行っていると、クラスメイトからそう話しかけられた。

 近づいてきたクラスメイトは三人。

 ジャージ姿の私と同様に、彼女たちもまた学校指定のジャージに身を包んでいる。練習を始めて一時間も経っていないとはいえ、うっすらと汗が滲んでいる私とは対照的に、彼女たちから疲労の色は見受けられない。部活動には所属しているだけで熱心に打ち込むつもりは無いらしい。

 私は再生中だった音楽プレーヤーの停止ボタンを押した。

 

「代わりって……センターの子はどうしたんですか? 文化祭で歌とダンスがしたいと言ったのは彼女でしょう?」

「いやー、それがさ、陸上の部活中に足首ぐねっちゃったみたいでさー。なんか、結構派手にやったらしくて、いま病院行ってるんだってー」

「……本番まで日がありませんけど、治りそうなんですか?」

「さぁ? それはわからん。けど陸上部の顧問―――ていうかウチの担任が言うには数日は安静にして激しい運動はNGだって」

 

 素人目で見てもそれほどなら、専門的知識を有する医者から見れば、さらに期間が延びる可能性は高そうだ。

 文化祭当日までは両の手の指で数えれるほどしかない。ドクターストップがかかれば、本番直前まで練習はできないだろう。

 回復を待つよりも代役を立てた方がいいのはわかりきってる。どうしようもないことだ。ただ運が悪かった。

 事情はわかった。わかったが、何故私に白羽の矢が立っているのかが理解できない。

 

「貴女たちはやられないんですか? センターの子と仲が良いですし、たしか、出し物についても初めから賛成派でしたよね?」

 

 困ったように彼女は曖昧な笑みを浮かべた。もごもごと口の中で言い淀んだあと、はっきりとした言葉を口にする。

 

「あー。まぁ、できたらしたいっていうのはあるけど、ほら、黒板にいろいろ役割書いて適当にやりたいやつ決めてた頃とは違ってさ、ダンスの腕前とか? 誰がどれだけ上手いのかってもうみんな理解してるじゃん。で、一番目立つポジションが空いちゃったから上手い人から声かけてるんだけど、紗夜はやりたくない? センター役の振り付けだって覚えてるんでしょ?」

 

 今度は私が返答に困って眉根を寄せた。

 やりたいか、やりたくないか。他に希望者がいないのであれば、折角の機会なのでやりたいとは思う。彼女の言うセンター役の振り付けも覚えてはいる。大部分は他のポジションと大差ない。ただ少し異なる部分があって、格段に注目を浴びるだけの差だ。

 しかし、上手い人順というのならば―――

 

「日菜にはもう聞いたんですか? 一番上手いのはあの子ですよ」

 

 妹の顔を思い浮かべる。

 聞いたものの答えはわかりきっていた。彼女たちは日菜と話していない。ここ最近、放課後における日菜の行動はおよそ二つ。

 一つは私と一緒に帰るために、私の練習が終わるのを傍で待っている。もう一つは私を待たずに帰るかだ。

 今日日菜は居ない。なら放課とともに帰ったのだろう。

 日菜はダンスの振り付けなんて欠片も覚えてはいないだろうが、たとえ本番十分前に初めて振り付けを目にしようと完璧に踊りきってみせるだろう。

 しかし、彼女たちが返してきた言葉は私が想像していた返事とは少しばかり違っていた。

 

「いやーでも、日菜だしさー……」

「うん。上手いのはわかるよ。まともに踊ったところ見たこと無いけど、まぁ、これまでの実績というか……」

「紗夜にこんなこと聞くのもアレなんだけどさ、個人の競技じゃなくてチームで何かするってときに日菜をチームの中心にやるのって大丈夫なの?」

 

 出てきたのは、言葉にはしない―――されど、明確な拒絶。

 言いたいことはわからなくもない。

 実際、日菜がセンターをやるとしたら、士気は日に日に下がるだろう。この文化祭の催し物を一番どうでもいいと思っている人間が一番の重責を担うのだ。その歪な関係性は練習の最中や本番に何かしらの影響を与えるだろう。

 けれどそのときは、私が日菜の手綱を握ればいい。

 

「引き受けるかどうか、返事は待ってもらってもいいですか? 一旦、日菜にやる気があるか聞いてみます。日菜にやる気がなければ私が引き受けます」

 

 私の回答を聞いて、彼女たちは安堵したように頷いた。日菜のこれまでの反応を鑑みて、やりたいとは言わないだろう。

 彼女たちにとってはおよそ期待通りの結果に収まったことになる。

 

「オーケー。お願いねー」

 

 にこにこと談笑しながら、彼女たちは体育館を去っていった。

彼女たちの後ろ姿が見えなくなると、私は大きく息を吐いた。

 私もこれ以上練習する気にはなれず、音楽プレーヤーを職員室に返し、帰途についた。

 気に食わない。ここまで大きな燻りを胸に抱えたまま帰路を歩くのは久しぶりだった。

 

 

       ◇

 

 

 来年は受験で忙しいし、今年の文化祭は何か派手なことをやりたいね。

 それが文化祭の出し物を決める話し合いの場でいの一番に言われたことだった。

 二年に進級した面々の半数は去年やったことを思い返し、残りの半数は中学生活二度目の来る未来に思いを馳せた。

 派手にやろう。この言葉に反対意見を言う人はいなかった。というよりも、発言者がトップカーストに位置する女子グループだったので、自然と反対意見は封殺されたのだろう。

 その辺りの力関係は、実はよくわかっていない。

 前触れなく何をし始めるかわからない災厄がクラスにひとり居るおかげで、特段他の誰かと深い仲になっていないからだ。

 触らぬ神に祟りなし。しかし神様は往々にして気まぐれであり、祟り神が現れてしまったらそれを鎮めるのが私の役目。

 さながら政教分離が唱えられる前の特権階級に私たちは位置していた。

 だからというわけではないが、今回の話し合いの場において、私は漫然と事の成り行きを眺めていた。自分から発言はしなかった。決を採るときに一度だけ挙手をしただけ。

 何に決まろうとも、手を抜かず全力で取り組む。私にとってはそれだけが決まっていればよかったから。

 会議の結論としてはアイドルの真似事をすることになった。衣装作りや振り付けを考え、お客さんの前で歌って踊る。ただ実際に客の前に立つのは気後れする人が多かったのか、ダンスグループの立候補者は少なかった。なので自然と人数合わせのために私がそちらのグループへ入った。そして私がやるならと日菜もまた同じグループになった。

 トップカーストグループと特権階級組が一堂に会する形になったが、特に大きな問題も起こることなく順調に進んでいたのだ。自ら言い出したこともあってか、彼女たちの成功を目指す熱意は本物で、見ているだけで身を引き締めさせられこちらも練習に熱が入った。

 本当に順調に進んでいたのだ。今日までは、と注釈が付いてしまったが。

 

 夕食と入浴を終え、私は自室で日々の習慣に成りつつある柔軟とマッサージを行っていた。

 筋を一本一本丁寧に伸ばすことを意識しながら、身体を伸ばす。やり始めた頃は多少の痛みを伴っていたが、その痛みも不快なものではなく。身体を曲げた際、届かなかったところに指先が届くようになるなど、身体が柔らかくなっていく過程を実感できるのは思いの外面白かった。

 

「おねーちゃん。いまいい?」

 

 唐突にドアが開き、呼んでもいない来訪者が現れる。

 

「……日菜。勝手に入らないでって何度言えばわかってくれるの?」

 

 長く呼気を吐きながら身体を起こす。これはため息ではないつもりだが、断言できる自信は無い。

 私の不在中に私の部屋に入り浸り、ベッドで寝そべりながら本を読み漁っていた頃に比べれば、声をかけるだけ成長したのだろう。

 

「せめてノックくらいはしなさい」

「はーい」

 

 反省が微塵も感じられない返事を聞いて、今度こそ本心からのため息をついた。私はストレッチを再開する。

 日菜は膝を抱えながら椅子に座り、にこにこと私の一挙一動を眺めている。別に面白くもないだろうに、飽きもせず、ただじっとこちらを見ている。この十三年で慣れてしまった視線を背に受けながら、一通りのストレッチをこなし終わった。

 

「それで、どうしたの?」

「うーん? 別になんにもないよー?」

 

 立ち上がった私と相対するように、日菜も椅子から立ち上がる。そして私を正面に据えると、彼女は両腕を広げて何かを待ち構えた。

 日菜の意図が読めず、私は小首を傾げる。

 ただこうして向き合っていると、やはり私と彼女は似ている。元になった遺伝子情報が同じなのだから当たり前ではあるのだけれど。鏡合わせとまでは言えなくとも、凪いだ湖面を覗き込めば、そこには日菜の顔が映るだろう。その程度には私たちは似通っていた。

 視線が交わる。十三年間私の背中を見続けてきた双眸が私の瞳を覗いている。

 彼女の視線は慣れたものだ。しかし、この胸の奥を焦がす燻りに慣れたことなど一度として無い。

 

『怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ』

 

 底の見えない冥く深い水底を覗き込もうとしている不思議な錯覚は、私に哲学者の一説を思い出させた。

 怪物を倒そうとする者はいずれ怪物になる。

 ならば。

 なら―――天才を超えようとするものは、いずれ天才に成れるのだろうか。

 愚にもつかない妄想が頭をよぎる。

 その一線は水面なのだ。越えれば沈む。目に映る景色も住む世界もまるで違う異界。たとえ越えたところで、息が続かず死んでしまう。適応するために声と両足を失うような痛みを伴ったとしても、欲しい物は何も手に入らず、最期は泡になって消えるのだ。

 それでも、この燻りを消せるなら、私は魔女にだって縋るのだろうか?

 

「もー、おねーちゃん。なんで来てくれないの?」

「なんでって、そもそも何がしたいのよ」

「ハグだよハグ! こうしておねーちゃんを抱きとめる気満々で腕を広げてるんだから、あたしの胸に飛び込んできてよ!」

「いやよ」

 

 頭が考え事をする前に脊髄が答えてくれた。

 えー、と日菜は拗ねたような声を出す。

 

「大体、年中ところ構わず抱きついてくるのは日菜の方でしょ。今日に限ってどういう心境の変化よ」

「おねーちゃんから甘えられたらるんっ♪ ってするかなーって。だからほら」

「しないわよ」

 

 すげなくあしらい、私はベッドの縁に腰を下ろした。むー、とむくれた日菜が頬を膨らせながらまとわりつく。興味がないときはフラッとどこかへ消えるくせに、構ってほしいときは目一杯身体を摺り寄せてくる。随分と大きな猫もいたものだ。

 そろそろちゃんと相手をしてやらないと暴発するかもしれない。そう思った矢先「ひゃんっ」と私の口から到底私が出したとは思えぬ声が出た。日菜が前触れなく脇腹を撫でたせいだ。

 

「あはっ。いまのおねーちゃんの声、すーっごく、るんっ♪ ってしたよー」

「日菜」

 

 からからと笑みを浮かべる日菜にじっとりとした目を向ける。声音にはイラついた波長がくっきりと浮かんでいた。

 

「ち、違うよ。いまのはイタズラとかじゃなくて、あたしもおねーちゃんをマッサージしようかなーって思っただけで」

「マッサージなら今しがた自分でやり終わったんだけど」

「ごめんなさい……」

 

 珍しくしゅんとした日菜の顔を見ると、小さな罪悪感がちくちくと胸を刺激する。甘いなぁ、と自分でもつくづく思う。「いいわよ別に」自然と水に流すような言葉が零れ落ちていた。日菜の顔に笑みが戻る。

 しかしそれはそれとして。私は日菜の脇腹を鷲掴み、細かく指を揺り動かした。

 

「あははははっ! だ、ダメおねーちゃっ、やめっ!」

 

 制止の懇願は彼女自身の笑い声によってかき消された。やられっ放しのまま終わるのはなんとなく癪だった。我ながらあまりの器の小ささに呆れかえる。それでも笑い転げる日菜に追い打ちをかけるのはやめなかった。

 ひーっ、ひーっ、と尋常ではない呼吸音が漏れている。まさしく息も絶え絶えといった様子で、日菜はぐったりとベッドに横たわっていた。もう日菜の身体を触ってはいないのに、時折引き攣った笑い声を出している。やりすぎたと思わなくもない。

 

「敏感すぎるのも大変ね」

「おねーちゃんのせいだよっ!」

 

 あまりにも他人事感あふれる独り言が癇に障ったのか、日菜は声を荒げた。恨みがましく睨んでくるが、笑いすぎて潤んだ瞳に迫力なんてものはない。「悪かったわ」一言だけ簡素に謝って、乱れた日菜の髪を整えてやる。

 うー、と日菜は言葉にならない呻き声を上げた。言い足りないことをすべて呑み込んだのか、日菜はずいっと頭をこちらに突き出してくる。今度は悪ふざけなしで、優しく日菜の頭を撫でた。満足そうに日菜は目を細めた。

 

「日菜。今日何かあったの?」

 

 深い意味はない問いかけだ。ただいつもよりも関わり方がしつこかったから。それだけ構ってほしいのかと思ったけど、そういうわけでもなさそうだったから。

 

「何にもないよ。つまらないくらいに。でもいつもよりおねーちゃんからるんっ♪ って来ないなーって思って」

 

 おねーちゃんの方こそ何かあった? 日菜はそう問いを返してきた。私の顔色を窺うような上目遣い。これでも彼女は私を気遣っていたらしい。私は日菜に気遣われてしまっていたらしい。脇が甘いのはどちらなのか、わかったものではない。

 

「日菜にとっては退屈な話だと思うけど―――」

 

 そうして私は今日あった出来事を日菜に話した。私が回答を保留にした問いを、改めて日菜に問うた。

 怪我をした子の代わりにセンターに立つつもりはある―――?

 

「うーん。どうでもいいかなー? おねーちゃんがやってほしいならやるよ?」

「そうよね。あなたなら、そう言うと思ったわ」

 

 周りの士気を考えると、やはり私が引き受けた方が良さそうだ。私の中で引き受けることは確定した。あとは私の精神衛生の問題であり、どちらかというともう一件の方が本題だった。

 

「ねぇ日菜。あなたダンスの練習中センターの人と言い争っていたわよね?」

 

 

       ◇

 

 

 翌日の放課後のことだ。センターを務めていた子は学校を欠席した。歩けないほどに痛みが酷いらしい。この分では文化祭に向けた練習などできるはずもないだろう。引き受けることをトップグループの彼女たちに告げようとしたが、今日は移動教室が多かったり、先生から急な頼まれ事をされたせいで、気づけば放課後になってしまったいた。

 ようやく彼女たちを捕まえて、昨日保留にした回答を答えなおすことができた。

 

「あの、ひとつだけ確認したいんですけどいいですか?」

「紗夜ってばどしたの? なんか改まって」

「いえ。引き受けると言った以上、どうでもいいことなんですが、聞いておきたいことがあります。まずはじめに私に話を持ってきたのは、日菜と口論したからですか? 口論したから一番上手い人を除け者にしたということはありますか?」

 

 無論、日菜の方に口論をしたという認識は無い。ステップが間違っていたからそれを指摘し、目の前で完璧なステップを実演して見せ、「あなたのステップはこうなってるんだよねー」と相手のミスを完コピする無自覚な煽りで相手を殴りつける、いつも通りのよくあることだ。

 耐性が無ければ怒りを自制するのは難しい。日菜の相手に慣れていない人が突っかかってしまうのはしかたのないことだと思う。それが理由で私が第一候補になったのなら、やはりしかたのないことなのだろう。

 彼女たちは目を瞬いたあと、すぐに大声で否定の言葉を口にした。

 

「いやいやいや違うって! 別に日菜に当てつけとかするつもりはなくてさ!」

「紗夜にこんなこと言うのもアレだけどさ、相手日菜だよ? 熱くなった方が悪いっていうか……アレはああいうものじゃん」

「それにわたしたちも代わりにセンター踊るか? って聞かれたとき躊躇っちゃったし……。それとなく紗夜に聞いてみてくれって言いだしたの、担任だしね」

 

 本当に他意は無いようだった。あまりにも正直すぎてどうかと思う発言も混じってはいたが、悪意が混じった選択ではなかったようだ。

 

「ごめんなさい。急に答えにくいことを聞いて」

「あーいいよいいよ。直球過ぎて焦ったけど」

「そうだよ! あの聞き方はビビるって! どんだけ日菜のこと好きなん!?」

 

 彼女たちは快活に笑った。私も笑顔を作り、後腐れなく別れる。

 

「先生にも一言伝えておこうと思うんですが、どこにいるかわかりますか?」

「まだ部活には顔出してない時間だから、フツーに職員室に居るんじゃない?」

 

 ありがとう、と礼を言って、私は職員室を目指した。

 胸中の燻りは依然として大きなままだった。

 放課後の校舎は閑散としていた。教室に残っている人は疎らで、各々帰るなり部活に行くなりしているらしい。職員室には誰ともすれ違うことなく到着した。そういえば、今日もまた日菜はひとりで帰っているようだ。

 職員室の扉を開け、二年に上がってから最も顔を合わせている先生のところまで足を運ぶ。

 こちらに気づいた先生はコーヒーの入ったマグカップを机に置き、「文化祭の話かな?」と訊ねてきた。

 

「はい。センターの話ですけど、引き受けることにしました」

 

 私がそういうと先生は子供のように破顔した。

 

「そっかぁ。良かった良かった。急な怪我で踊れなくなった子が居るのは本当に残念だけど、代役を頼むなら絶対紗夜さんしか居ないって思ってたのよ」

「どうしてですか? ほかにもやりたがる人も居たでしょうし、私よりも上手い人だって居ますよ」

「それは貴女が一番真面目に練習してたからよ。誰よりも熱心に取り組んで、指示されたわけでもないのに誰よりも遅くまで残ってたから。だから、紗夜さんなら絶対に任せられるって思ったの」

「―――それが、先生が私を選んだ理由なんですね」

「ええ。そうよ。……あっ、このあとも練習していく?」

「……そうですね。振り付けも少し変わりましたし、確認しながら身体を動かします」

「わかったわ。音楽プレーヤーは勝手に持って行っていいから。練習がんばってね」

「はい。ありがとうございます」

 

 はい?

 ありがとうございます?

 愛想笑いで返事をする自分自身に反吐が出る。燻りはとっくに私を焦がす炎に変わり、焼かれるような痛みが私の心を苛んでいた。「失礼しました」職員室の扉に手をかけたとき、手が異常な熱を持っていることに気がついた。血で滲んでいる。爪が掌を食い破るほど固く強く拳を握り込んでいたことに私はようやく気づいたのだ。

 痛かった。とても痛かった。痛くて痛くて、もうどこが痛いのかさえもわからなかった。

 放課後の自主練はまるで身につかず、私は逃げるように学校を去った。

 

 

       ◇

 

 

 自室に着くや否や、私は通学カバンを投げ捨てた。次いで、衝動のまま壁を殴りつけた。衝撃が肉を通り、骨に響き、脳を震わす。

 笑い出したい気分だった。

 泣き出したい気分だった。

 とても愉快で、いっそ死んでしまいたかった。

 とても惨めで、だから輝きに固執していた。

 センターポジションなんて初めからどうでもよかったのだ。私も日菜のことを言えた義理ではない。

 誰が中央に立つかなんてどうでもよかった。私は―――頂点に立ちたかったのだ。

 センターではなく―――トップに、なりたい。

 あの子に、負けたくない。

 日菜に勝ちたい。

 日菜の凄さはみんなが理解している。怖さもみんなが感じている。近づかなければいいだけなのに、意識せずにはいられない。遠巻きに眺めるだけの不自然な輪が出来上がるほどに。

 翻って、私は何?

 日菜のストッパー? 真面目な努力家? それで今回のダンスで私が得た評価は何?

 

 ―――誰よりも遅くまで残って熱心に練習している人、だ。

 

 別に私にセンスがあるわけではない。人を惹きつけるような光るものがあるわけでもない。

 私だけのものなんて、ここにはない。

 知っている。わかっていたことだ。それでも―――この悔しさを、この胸を焦がす苦しさを、私は手放すことができない。

 息が詰まる。

 胸を裂いて、肺の中に石を詰め込んだよう。

 苦しくて、辛くて、悔しくて、痛いのに、私はまだ諦めきれない。

 日菜に―――勝ちたい。

 

「おねーちゃん!? どうしたの!? 大丈夫!?」

 

 またノックもなく日菜が部屋に飛び入ってきた。立て続けに大きな音を立てたからだろう。

 焦った日菜を見るのは少し愉快なのに、視線に憎々しさが混じることを防げなかった。

 ねぇ、どうして? 私たちは双子でしょ。元になった遺伝子情報は同じで、同じ環境で育って、顔の造形だって似通うような成長をしているのに、どうして私だけが『そっち側』へ行けないの?

 天才なんだったら答えてよ。天才なんだから連れて行ってよ。

 

「あなたさえ……」

 

 ギリリッと砕くつもりで奥歯を噛みしめる。怨嗟が喉からあふれようとした。それだけは絶対に言ってはいけない言葉なのに。

 

「ごめん。今日の夕飯いらないから、独りにして」

 

 ズキズキと痛む手で、弱々しく日菜を部屋から押し出そうとする。

 ごめんなさい。明日にはちゃんと、いつものおねーちゃんに戻るから。だから今夜だけは独りで居させて。

 なのに日菜は両手を広げて私を待ち構えたまま、外に出ようとはしなかった。

 そして私は日菜に抱きとめられた。日菜を振り払う気力もなく、されるがままになっている。

 

「大丈夫?」

「大丈夫じゃないわ」

「お風呂は入らないの?」

「明日の朝でいい」

「ストレッチとかは? 毎日やってたのに」

「もう、()()()()()()()()

「……そっか。じゃあ、今日はあたしがマッサージしてあげるよ!」

 

 独りにしてと言っているのに、まるで聞く耳を持っていない。私は『いいよ』とも『いやだ』とも告げなかった。

 私の中の最も醜い部分を曝け出してしまいそうになったのが、殊の外ショックだったのだろう。

 抵抗する気力はすでにない。日菜にすべてを委ねてしまう。

 日菜に押し倒されるように、私たちはベッドの上で横になった。

 そのとき私を見下ろす日菜の顔が瞳に映る。にまにまとチェシャ猫のような笑みを浮かべていた。

 楽しそうに日菜は笑う。

 

「―――ねぇ、おねーちゃん。あたし、ずっと待ってたんだよ。おねーちゃんの生の激情に触れられてとーってもるるるんっ♪ ってしてるの! おねーちゃんが我慢できなくなって、あたしを『そっち側』に受け入れてくれるの、ずっとずっと待ってたんだから」

 

 知らなかった。日菜もまた私と同じように隔たりを感じていたのか。空と海を隔てるような水面が、私たちの間にもあると思っていたのか。

 

「――――――っ!」

 

 私に覆いかぶさった日菜が野薔薇を摘むかのような繊細さで私の身体に指を這わせた。

 水面をなぞるように亀裂を入れる。

 けれど、天才と凡人が交わることはない。

 私はそれが、たまらなく――――――気に食わなかった。

 



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