西の山間に黒井城を遠く見やった秀香は、肺で温めた息を全部吐き出して長い溜息をついた。吐く息は白く立ちのぼってやがて霧散する。ここのところ気候はますます寒くなる一方で、三日前に降った雪は秀香の心中に降り積もったわだかまりと一緒に、このまま年を越す根雪となるに違いなかった。
京から西に真っ直ぐ伸びてきた西京街道が篠山川にぶつかると、山陰道を目指す道は二つに分かれる。その二道は比較的なだらかで開けた道を往ける玉巻方面へ迂回する道と、金山を越える狭矮で険しい山道で、これらが再び出会う小野寺山を頂とする連山の先に黒井城は佇立する。その城を西に見通す高台に秀香は陣を張ってもう三ヶ月にもなる。陣を出れば黒井城の麓まで見渡す限り明智勢の旗指物ばかり。水をも漏らさぬとばかりにそこかしこが明智の兵で覆われていた。このあたり一帯を支配していた赤井氏の軍兵は残らず黒井城に収容されており、低地にある国領館や朝日城砦といった赤井勢の居館は明智軍に接収されている。秀香の居城である大路城砦にも明智勢の兵卒が我が物顔で闊歩しており、すっかり最前線の兵站基地と化している。
秀香が見るともなしに眼下の光景に呆けていると、背後から近寄るものの足音がした。小瓜だろうか、と瓜実顔の女武士を思い浮かべて振り向いたが、身の丈七尺はくだらない大男がいつも通りの無精髭で、あきれるくらい銃身の長い種子島を、天秤の支柱のように肩に引っ掛けて立っていた。
「なんだ、弥十郎か」
「利とでも思ったか」
つまらなさそうに言う主人に、鉄砲を担いだ弥十郎は無遠慮に言った。年齢は弥十郎の方が五つ六つかさんでいるだろう。不機嫌そうに腕を組んだ秀香は二十四、五といったところか。それなりに大人びてはいたが少年とも青年とも言えぬあどけなさが面に残っている。
「利坊は福住まで後詰の要請に出だぞ。綱重の親父殿がまるで動かんからな。病だかなんだか知らんが出られんのなら弟の綱正を出せばいいと言ってな」
「小瓜に発破をかけられれば綱正も動かんわけにはいかんかな。どこも弟の身は姉を前に弱いものだ」
「御三人衆の職にあるおぬしも結を前にしては形無しだからな」
そう言って大嗤いする手下の男に秀香は腕を組んだままふんと鼻を鳴らした。弥十郎は秀香の手下ではあるが姉の夫でもある。血のつながらぬ義理の兄弟だったが、腕の立つ密偵であるこの義兄を言葉以上に秀香は頼りにしていた。
「しかし巧く運ぶだろうか」
「何がだ」
「この策謀がだな」
「おぬしの危惧はどこにある?」
義理の弟の焦りを察せられない弥十郎ではない。この一隊の将である秀香が何に焦れて何を待ち侘びているかは問わずとも判る。だが今はこの義弟の無聊を慰めてやろうという、弥十郎としては珍しく殊勝な気分であるようだった。それに気付いたか不貞腐れたようだった秀香の表情は少し和らぎを取り戻した。
「弾正忠の野郎は本当に来るのか、ということだ」
これまで三ヶ月の間、何度となく問われた言葉だ。それでも口にせずにはいられない、というのもよくわかる話である。しかし秀香は否定してほしいのだろうか。織田弾正忠は来ない、と。来ない方がよいと考えているのだろうか。誰のためにそれを思うのだろうか。
担いでいた種子島の銃底をどんと足元に落として弥十郎もため息をついた。巨大な煙のような蒸気がもくもくと上がる。それが消え散るのを目で追いながら弥十郎は口を開いた。
「さてなあ。しかし直正の旦那はそれをこそ待っておられるのだろう? そもそもあの御仁が城に引き籠る戦をするなんてことが妙ちくりんな話だからな」
「…………」
「直正の旦那と義兄上が、どれほど待つ必要があると言われたか忘れたわけでもあるまい」
弥十郎が義兄上と言ったことで、秀香の脳裏に長兄の秀治の顔が思い浮かんだ。まだ九月の末、明智勢が口丹波の亀山城に一万の兵を結集したと弥十郎が報せてきた夜のことを思い出す。秋の終わりにしてはひどく冷え込む夜で、寒がりの秀治がさっそくとばかりに火鉢を出させていたのを憶えている。秀治は火鉢の炭と灰をかき回しながらぼんやりとした目で言った。
「弾正忠殿を黒井で討つ」
それはまったく決意めいた一言ではなかった。うすぼんやりと、秀治にしては鈍い口調で言ったものだった。それもそのはずで、秀治は織田信長と言う人物を好ましく思っていたはずだ。稀代の政略家だと日頃から誉めそやしていたくらいで、当時思うところのあったらしい直正を説得して、丹波衆一同の臣従をまとめたのも秀治たってのことだった。
「直正様のご指示でありましょうや?」
淡々とした声音で口を挟んだのは姉の結だった。その言葉を機に弄んでいた火箸を灰に突き立てるなり、秀治はぐっと背を伸ばして眠たげな眼を公家言葉の抜けない妹に向けた。
「そうだ。直正様のご意向だ」
「しかし兄上は反対のご様子じゃ」
「反対などせぬ。義昭公を放逐したのだ。今の弾正忠殿に大義はない」
信長が足利将軍を庇護しているというのは、彼らが臣従をする第一の根拠だった。それが反故になった今、弾正忠の指図に従ういわれはないのだ。だからこそ挑発と蠢動を繰り返す山名氏に対して直正は軍事行動を起こした。丹波衆よりも信長に誼の深い山名を攻撃すれば、遠からず征伐の理由になることは明らかだったにも関わらず。そしてそれは現実のものとなりつつあった。
昨年の三月、但馬守護の山名祐豊は、赤井氏の傘下にある国人衆の一人足立基助が拠る山垣城を再三に渡って攻撃した。理由はいろいろあったようだが到底開戦理由として容認できるものではなく、直正は即刻援兵を出し、これを撃退すると兵を退くことなく山名勢の後を追った。そしてその勢いで但馬竹田城を一夜で陥落せしめたのだ。それで山名が詫びれば直正は兵を退いただろう。詫び方によっては竹田城をも返還したかもしれない。しかし祐豊は詫びるどころか織田弾正忠に直正の横暴を訴えたのだ。そのことを直正は弾正忠からの書状で知った。すなわち山名と和解し竹田城の返還と戦後の補償をせよと。
直正の怒りは頂点に達した。何より山名祐豊に。そして織田弾正忠に。直正は兵を収めることなく、一躍し此隅城を包囲、支城である出石城を瞬く間に落としてしまった。このことにより信長の赤井氏討伐の意思は決定的になったのだった。
その当時秀治は、推移していくことの次第をただ見守ることしかできなかった。安寧と調和、発展の時は終わって、再び戦火に領民をさらすことになるのだ。もはや織田氏との対決は避け得ぬ。影の盟主たる直正が決戦を望むのだ。いかに表向き丹波衆の領袖であろうと秀治の取るべき道は他にはない。何より、一族の安寧を望んで直正を見殺しになどしては、おのれのよって立つ名分すら失う。
だが……、とわだかまるものの正体は何であるのだろうか。それを見極めようと秀治が視線を伏せたとき、低く落ち着いた結の声が秀治の鼓膜に触れた。
「いかに兄上の仰せでも、世迷言に命を賭すわけにはいきませぬわえ。ご決意をお聞かせくりゃれませ」
秀治は妹の言葉にふっとだけ息を漏らした。嗤ったようだ、とその場にいた秀香は思った。そして秀治は持ち前の人を食ったような柔らかい表情になって顔を上げた。
「そうだな。どうせ生きて在ってもいずれ我らは弾正忠殿の邪魔になろう。ここで直正様を見殺しにしては二重三重の罪を背負うことになるだけだしな。いっちょうやるか」
そう決意すると波多野家の頭領は手元の書状をぱっと広げた。それまで黙っていた次兄の秀尚が絵地図を広げたので簡単な評定となった。
「実は今回のことは既に直正様と相談済みでな。直正様が山名領を侵せば、いずれ弾正忠殿が討伐軍を出すだろうと」
「竹田城出兵の時分にでしょうか」
秀香が緊張して口にすると、それに答えたのは次兄の秀尚だった。
「その頃にはこたびの計略は定まっていた。ご慧眼……と言うよりは願望、でしょうなぁ」
後ろ半分は秀治に同意を求めたもので、一族の頭目である長兄は不敵な微笑を浮かべ、その様子に結が楽し気に喉元で嗤う。兄妹で何やら悪企みをしているような気分になるから度し難い。
「織田勢が侵攻の予兆を見せたなら、これをいち早く直正様に報せ、赤井一族を除く丹波衆は一旦弾正忠殿の侵攻軍に与力として参陣する」
「なるほど。機を見て城方と呼応し、侵攻軍を覆滅するわけですね。なんと大胆な」
秀香は緊張の面持ちのまま感嘆を口にした。精神の昂ぶりが理性を凌駕しそうな興奮だった。思わず立ち上がりかけたとき、秀香は膝立ちになった右足を隣席の結にしたたかに打たれた。見ると鞘ごと小柄で打たれている。
「たわけ、このうろたえものが。まだ続きがあろうわえ」
「あ、姉上、それで打っては骨が折れます……」
激痛に秀香は打たれた部分をさする。幸い折れてはいないようだ。
「秀香、黒井で誰を討つと言ったか」
「……では、機と言うのは」
「弾正忠殿が黒井の攻囲陣に着陣した時だな」
絵地図の黒井城を火箸で指し示して秀治は「まずは三ヶ月」と言った。秀香はその時、自分の喉元がごくりと鳴ったのを思い出して、そっと喉ぼとけに触れた。
「そうだ。三ヶ月と申された。年を越せば弾正忠が黒井まで出張るだろうと」
「年を越せばねえ。そいつにはどんな根拠があるんだ?」
「さて判らぬ。だが兄上には根拠というより確信がおありのようだった」
腕組みを解いて秀香は顎に手をやった。兄妹四人、いや五人、みなよく似た尖った顎をしている。そう思いながら弥十郎は口元だけで嗤った。
「あと三日ばかりで今年も終わるが……」
手下の言葉に秀香は軽く頷いた。身震い一つ。寒い寒いと言って手をこすり合わせると、彼は火の近くに寄って行った。取り残された弥十郎は、さっきまで秀香が眺めていた黒井城に視線を投げた。夕暮れの雲間から薄い月がのぞいていた。