陣外に物々しさを感じて視線を上げた秀治の目に、汗みずくで湯気を立てながら向かってくる弟の姿が映った。ずいぶんかっかとしている様子に笑いが漏れる。
「兄上いま戻った。……何か可笑しなことでもありましたか」
「何やらいらいらしている様子だったのでな」
「苛々もしますよ。戦況は埒が明かないわ基助どのはやる気がないわ、この戦の重要さがまるで判っていない」
「基助は猪武者だ。こういう策謀めいたことは向いていないから仕方がないだろう」
秀治が言うと、鉄兜の緒をほどきながら秀尚は盛大にため息をついた。この弟は今年二十五になる。美少年と謳われた頃の面影を充分に残した端正な細面を歪ませて、秀尚は皮肉たっぷりに声を搾った。
「仕方がないでは済みませぬぞ。直正様も少し人選についてお考えくださってよさそうなものじゃ」
「そう言い立てるものではないよ。そもそも赤井衆は猛者ばかりで、城に籠っての戦など誰もやりつけていないのだからね」
「ではせめて光永どのあたりを擬態にあたらせればよいのに、よりによって基助どのとは。こんな拙いことをやっていては惟任殿に知れるのも時間の問題ではありませんか」
「直正様は常に最善手を打つお方だ。光永には別な務めがあって、こちらには基助が最善だというだけのことだな」
「煎じ詰めるような話ではないと思いますがね」
秀尚が言い捨てたところで秀治は組んでいた腕をほどいた。いつまでも弟の愚痴ばかり聞いているわけにもいかず、戦果を訊ねると秀尚は憮然としたままだが「上々」と答えた。脱いだ鉄兜を両手で弄びながら視線だけ兄に向ける。
「国住どのが小室から討って出て、明智秀満殿の部隊と小競り合いを始めたのと同時に、北側から基助どのが侵入、いつもの手筈通り戦闘の痕跡を残して城へ糧秣を運び込ませた。惟任殿の陣には撃退したと報せてあります」
「ご苦労。これであわせて二百石ほどは運び込めたか」
「城兵は二千余です。籠城前からの蓄えを合わせればト月ほどは持ちましょう」
「もう少し運び入れたいところだな。あと百石ほども入れればさらに半年もつだろう。越年すれば弾正忠殿の来援も現実味が濃くなるが、やはり余裕はあるにこしたことがない。じっくりやれる算段がほしい」
「……来ますかな。弾正忠殿が、この丹波に」
じっとりとした目つきになった秀尚を、彼の兄は心情の読めない表情で見返す。
「弾正忠殿は柔軟な御方と聞く。こうして膠着していれば必ず一軍をもって来援するだろうとな」
「直正様のお考えでしょう」
「俺も直正様に同意だよ」
無表情に応えた兄の眼差しを見つめて、秀尚はついつい舌打ちを漏らしてしまった。聞き咎められはしなかったが、兄の心情を慮ってか弟は取り繕うように視線を外す。
「それにしても一年とは。大いに領地が荒れましょうな。せめて天候にだけは恵まれてほしいところじゃ」
秀尚は嘆くように言って右手を汗のひき始めた額にあてた。せっかく進めてきた農地の改良や治水の工事なども領内が平和であればこそ完成に向かうのだ。秀尚が丹精してきた農政はこの一年停滞を余儀なくされるだろう。もともと戦働きが苦手なこの弟は、この仕事が中断されることに大変な憤りを感じている。このまま丹波が戦場になるのであれば、来年の収穫は最低限を見積もらねばならないだろう。
「戦がはよう終わればよろしいですな」
「さて……」
弟の実直な呟きに秀治は言葉を濁した。弾正忠を仕留め損ねれば波多野一族には破滅の未来しかない。だが、この策略がうまく運びこの地で信長を斃せたとして、そののちに平和が到来するとは彼には到底思えぬ。時代は担い手を失って混迷を極めるだろう。
強者とはいえ毛利や武田、上杉がいかほどのものか。秀治の目に彼らは旧弊としか映らない。新しい意志と同じく新しい手法によってこそ世の中はささやかな平和へと向かう。これまでの世とは違った新しい平和が到来する。信長のする戦は旧弊を打倒するものであり、戦いによって流される血はこの国を治癒するため外科手術で吐き出される膿だ。その彼に挑むということは膿として切り捨てられることに他ならない。
ここで直正に従って信長を討つことは、収束へと向かいつつある乱世を確実に逆行させるものになるだろう。己の小さな正義を満足させて、得られるものの小ささに秀治は戦慄すら感じるのだ。
後戻りをするにはもういくらも猶予はなかった。より甘美な味わいはいずれにあるか。表向き決していたはずの秀治の意思は、彼の気付かぬところで未だ揺れ続けていた。