丹波戦国年代記   作:盤坂万

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病巣

 けぶったような粒の細かい雲が、山頂をほんのわずかな間握りしめたあと、冬の風に霧散させられ空にまぶされていく様を、城兵たちはおのおのの持ち場でぼんやり眺めていた。冴えたような上空では、トンビが高い声で啼きながら、ぐるぐるといつまでも旋回している一方で、黒井城の麓には山裾を埋める人の群れがあった。

 時折起こる鬨の声や散発的な銃声が氷上の山々にこだまするのだが、最初の頃こそ緊張していた城兵らも、山道を詰められて二ヶ月も経つ今どきではいちいち怯えるようなこともなく、時を報せる程度にしか感じなくなっている。戦況は膠着しているというよりは弛緩していると言った方がいいだろう。

 裾野をぐるりと包囲された山砦から下界を見下ろせば、木立の隙間からそこかしこに敵兵がひしめいている様子が見えるが、城に籠った兵たちは色とりどりの旗指物を指さしては、やあアレは波多野の丸十字だ、明智の桔梗紋だなどと物見遊山気分で騒ぐ始末である。他にも寄せ手に与する荒木、籾井、塩見ら名だたる国人衆のものがちらほら見え、農兵たちは敵兵の数を数えては賭けまでしていた。

 物見が数えたところ、麓に集まった攻囲軍兵は一万五千を超え、いまも続々と増えているという。朝夕は麓の布陣からたち昇る煮炊きの煙で人工の雲が湧き立つくらいだった。幸い城側の糧秣の蓄えは潤沢で、城外からの秘匿した補給線もなんとか機能しており、向こう一年ほどの抗戦は可能との見通しで、それが気楽さの理由のひとつなのだろう。

 場内の方針は籠城の一手のみで、猛将と名高い悪右衛門直正が一見消極先に見えるこの方策を採ったとき、居並んだ諸将は唖然としたものだ。緊急的に出石から舞い戻った直正は、但馬に一切守兵を残さず、奪い取った城砦をすべてほっぽりだして帰って来たのだ。子細を知らされていない大半の者はそのあまりの早さと思い切りのよさに驚嘆したが、籠城の下知に今度は空けた口が塞がらなくなった、というのは誇張があるだろうが実際のことだった。誰もが一気呵成の決戦を想像していたからである。

「直正様はどうかしておしまいになったのではないか」

 波多野兄弟が猪と揶揄する足立基助は、後日主だった配下の者に漏らした。彼の知る悪右衛門直正は戦陣において待つことをせず、常に先の先を獲る戦巧者である。無論、直正も待つ必要があれば待つ法を獲る。単にそうする必要が少なかっただけのことだろうが、直正の疾風が如き戦ぶりは支配下にある国人衆たちには余りに苛烈、あまりに豪放だったため、その実にある柔軟さや繊細さに目が向かないのも仕方のないことだったろう。

 

 散発的にぱらぱらと響く銃声を眼下にしながら、直正は大儀そうに首筋をひとなでした。少し前から妙に首が痛む。何か小さな石榑のようなものが首筋の中にあって指で触ると鈍い痛みを発する。寝違えかと思い数日様子を見ていたが一向におさまる気配がない。四十の坂も下り始めて半ば。若いころからそこそこ無理をしてきた身体だから、いたみがきていてもおかしくはないだろう。同じ年頃のものに比べるとはるかに頑強な直正であるが、それでも二十や三十の頃のことを思えばさすがにその差は歴然としていた。

「元秀殿、用があるとか」

 家老の吉見に呼ばれて表に出たところで、直正は初めの妻の父にあたる初老の男の出迎えにあった。その妻とは死別して暫くたっていたが、元秀は間にできた娘の面倒をよく見てくれる好々爺である。妻と死別したことでかえってこの人物との関係性は深まったように思えるから人と人とのことは往々にして判らないものだ。

 年はとっくに五十を過ぎているにも関わらず、この義父の健康そうな色つやはさながら三十代のもので、足腰は驚くほど達者であった。恰幅よく張り出した腹をしているが、山野を駆ける様は俊敏で、声はふた山を越えるほどに響く。酒を呑めばうわばみで、その底なし加減はそのまま大蛇か何かのようだった。

「これは悪殿」

 元秀の姓は波多野という。麓で明智の陣中に与力している秀治・秀尚兄弟の伯父にあたる。その元秀が困り果てた様子で直正が出てくるのを待ち構えていた。

「基助のあほうが国住を唆して霧山方面に出張りおった」

「さようですか。光永らも?」

「なんじゃ落ち着いておられるの。光永はさすがに分別がある。知らせて寄越したのも彼の者じゃ。今は下に控えて追う準備をしている」

「忠家へは?」

「無論お伝えした。そのうえで悪殿に相談するようにと」

「まあ、放っておいてよいだろう」

 さして深刻ぶるでもなく言ってのけた直正に、元秀は「悠長な」と唾を飛ばした。

「たった二百ばかりじゃ蹴散らされるのがオチぞ。光永らはもうでられる頃合いじゃが」

「いかに基助が猪武者と言えどただでは負けて帰らぬだろうし、少しは憂さを晴らさせてやるのも必要な頃合いではないかな」

 それはそうだがと二の句を呑んだものの、苦労人の舅としては一言口を挟まずにはいられないようでなおも食い下がる。

「しかし守兵が乏しいのは事実じゃ。決戦を前に無駄死には出しとうない」

「そうは言っても扇動されて好きでついて行った者どもだ。それに増援を出せば損害はそれだけ増える」

「ふん。少しは痛い目に遭えとでも言うことかね」

 そう言うわけでもないが、と言葉を濁らせた直正は思い出したように顔をあげる。

「霧山方面の敵将は誰だったか」

「あっちは細川じゃな。幽斎の倅で何たらと言ったはずじゃ」

「ははあ忠興か。忠興の女房は惟任殿の娘と聞く。何とはなく親近感を感じますな舅殿」

 ははは、と嗤うのに元秀は困ったような顔を更に歪ませた。普段能天気な老人が、いつもは無表情の主人の崩した相好に辟易している妙な図が現れていた。元秀の娘を娶った自分と重ねたのだろうが何やら突拍子もない。最近の直正が妙に浮ついて見えるのはなにも元秀の目に映るばかりではなかった。主だった重臣たちもひそひそとその様子を噂しているほどだ。

「せっかくの機会だ。少し小細工でもしておくとするか」

 言うや直正は書院に引き返し、小机っで紙を広げると筆を湿らせ黒々とした達筆で文を書き始めた。すぐさま書状を書き終えた直正は、まだ乾ききらぬそれを乱雑に畳んだかと思うとひょいと元秀に寄越した。

「基助らの戦ぶりを督戦してきてくだされ。そのついでにこれを幽斎の子倅の目につくところへ」

「これは?」

 受け取った書状を陽に透かすようにしたり裏返したりして元秀は首をかしげた。

「言うた通りの小細工じゃ」

「中身を聞かせてもらおうか」

「なに、毛利に宛てた書状だ。城内物資乏しく至急来援を頼む、とまあそんな内容だ」

「……心得た」

 では行って参る。と言い残して駆け去る元秀を見送りながら無意識に首に手をやる。ちょっとずつ大きくなっているように思えるそのしこりは、直正の心のうちに巣食った自覚ある野心のようにも思える。織田弾正忠をここ黒井で討つ。その思いは日々肥大する病巣のように、彼自身にも手に負えないほど育っていた。そしてそれに伴う痛みを和らげるには、やはり野心を成就させるしかないのだろう。

 

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