丹波戦国年代記   作:盤坂万

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赤井悪右衛門尉直正

 赤井直正と言う人物はなかなかつかみどころのない歴史上の人物であるように思います。

 そもそも正確性に欠ける歴史資料の中にあって、誰がつかみどころのある人物かと言えばむしろそうした人は皆無に近いようにも思うのですが……。

 

 さて、件の人物は丹波国氷上郡の朝日城に生を受け幼名は才丸と言いました。赤井氏は荻野氏の一族とされており、次男に生まれた才丸(直正)は本家であり主家の荻野氏へ養子に出されます。実際に当時の両家の関係性は不詳です。荻野氏が赤井氏を支配下に置いていたような節もあり、逆転が興っていたとする説があり。ただ共闘する関係ではあったようで盟主としての荻野氏の立場は守られていたようです。

 この時の荻野氏当主は荻野秋清。氷上郡を本拠とする国人衆です。この頃はお隣多紀郡の領主である波多野稙通がかなりの隆盛で、荻野氏は一時期波多野氏に押されて播磨に逃げていた時期があると、一部資料では示されています。

 丹波は京に近いこともあって、たびたび政争戦乱の地となります。秋清がどういった人物だったか、詳細を伝える資料は乏しいですが、厭戦家であったような振る舞いが見られます。というのも、波多野氏に侵された自勢力の国人を見捨てるようなことがあり、それが一度限りだったか何度かあったのかはやはり不明ですが、配下の国人衆たちの信望を失っていくのです。

 そんな中注目されたのが養子に入った才丸です。後々多くの逸話の残る才丸ですから、幼少青年の頃から人の上に立つ器はその片鱗を見せていたのでしょう。家中に押されるように養父である秋清を排する行動に出ます。この事件により秋清は排され、才丸は悪右衛門の通名をとどろかせることになりました。甲斐武田家に伝わる甲陽軍艦に「名高キ武士」と称され、徳川家康、長曾我部元親、松永久秀らとともに評価されるようになります。

 1554年(天文23)城を乗っ取ると、直正は瞬く間に家中を取りまとめます。そして結束力を手にした荻野氏は黒井城のある氷上郡だけではなく、近隣に支配の手を伸ばし始め、五年ほどの短期間で天田郡、何鹿郡を手中に収めていくのでした。

 

 余談ではありますが、直正の通り名である悪右衛門について。もともと直正は右衛門尉を名乗っていたとする資料があります。これをもとににくらしいほど強い、というような意味から悪右衛門と呼ばれるようになったようです。逸話のひとつには、七つの頃に妖怪退治をした(妖怪騒ぎを暴き鎮めた)というものがあります。これによって、悪右衛門と、とする話もありますが七歳ではおそらく元服前。官途名を称することも先のことのはずで、いろいろと話が前後するのではないかと想像できます。いずれにしろ、子供時分から剛勇豪胆を備えた人物であったようです。

 

 これだけの手腕を見せた直正ですが、彼がいったいどこまでの野心を持っていたのか、それが大きな疑問です。応仁の乱以降、足利幕府は確実に滅亡へと向かっています。十三代義輝がわずかばかり持ち直す風を見せますが、当時多くの大名家が戦乱にかこつけて自領を押し広げにかかっていました。直正も同様に支配地を増やしていきますが、他の大名が幕府要職に着いたり朝廷に官途されたりする中、直正が任官や叙勲した記録が出てこないのです。波多野氏最後の当主である秀治も左衛門大夫(尉)だとか侍従だとかに叙勲された記録があるにも関わらず、丹波国において随一の実力者である直正にはそうした話が見つけられません。右衛門尉を名乗ったという資料はあるようですが、朝廷や幕府との接触はどの程度かあったのでしょうか。各地へ勢力を伸長させていた様子から、領地としての支配意識は非常に顕著です。ところが政治的野心に結び付く行動が見られません。いったい直正は何のために戦を繰り返したのでしょうか。単なる自衛だったのでしょうか。かの人物に対する謎は深まります。

 

 話は少し戻りますが、1557年(弘治3)に直正は生家赤井氏の当主だった長兄の家清を、当時の丹波守護代だった内藤宗勝(松永長頼)との戦いで失います。家清の子である忠家を赤井氏当主に立て、自身は後見に着くのですが、この頃に荻野姓を赤井姓に改めた気配があるようです。これについて資料を確認できていませんので憶測ではありますが、直正は実際に家清亡き後幼少の忠家を名実ともに立て、形式上だけにせよその配下に収まったことは間違いないようです。

 かつて養父を斃してまで当主の座を得た直正が、こうした行動をとる理由は何でしょう。もちろんどのようにも解釈でき、整合性を感じることができるのですが、直正の野心のサイズが垣間見られる一事ではないかと考えています。

 

 そうした直正の行動ですが、隣国の領主波多野秀治に説かれた上でなのかどうか、定かな資料には出遭っていませんが、波多野氏をとりまとめとし赤井氏を含めた丹波国人衆の臣従が織田信長に申し入れられたのは1570年(永禄13)のこととされています。この時赤井氏は奥丹波の三郡安堵を受けています。波多野氏が多紀郡ひとつの安堵なので、実としては赤井氏の方が格上です。ところが後世において、赤井氏は波多野氏の風下に立てられる風があります。先の叙勲が関係しているのか、より協力的で他の国人衆に影響力を持っていたのが秀治だからなのか、いろいろと想像の余地を残します。

 結局、最終的に直正は信長に反旗を翻します。ただ、錯綜する資料を探っていくと、積極的に反攻したのではなく、そうなるように仕向けられた、もしくは直正の性向を利用されたかのような印象を持ちます。

 丹波侵攻を招くのは但馬守護にある山名氏との小競り合いからです。どちらが先に手を出したか、何を発端とするかは判断に難しいところですが、直正は山名氏の挑戦を真っ向から受け叩き伏せました。山名当主の祐豊は本拠である此隅山城まで直正に押し込まれると、とうとう信長に泣きつきます。また当時丹波国人衆連名の訴状が信長に上奏されていたことが事態を決定づけました。実際この訴状があったのかどうか、あったとして事実に即していたのか、何らかの策謀の材料なのかわかりません。訴状の内容は、直正が丹波国人衆の足並みを乱すので成敗してほしい、といった内容だったとされているのです。

 信長は明智光秀を総大将に、ついに丹波侵攻を開始します。この動きを見て直正は、侵攻していた但馬の城や砦を全部放り出して黒井城に戻ると、一転して城に籠ってしまいます。この時を待っていたかのような展開ではないでしょうか。

 

 赤井直正の野心がどこを向いていたのか。丹波国人衆が滅亡へと向かうこのエピソードに、どんな思惑があったのか。読み解けるのであれば、この命題の回答を目指したいと思います。

 


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