目の下に隈ができた。たぶん簡単には消えないし、とるつもりはない。
部屋のすみにはエナジードリンクの缶が山を作っている。流石にゴミ袋の中には入れようかと思う。独特の臭いが部屋に充満していて、集中力を削がれる気がする。
一日の睡眠時間は今や三時間ほどになった。世の中には一日三時間だけで全快する人間もいるようだが俺はそちら側では無かったようだ。疲れは溜まっていき、日に日に体はだるくなった。近頃は常にまぶたが重いし、なんだかしぱしぱしている。
あの事件のせいでクラス対抗戦が中止になった。クラス対抗戦に向けた一夏の特訓が、一時なのかどうかはよくわからないが、中断された。お陰で、俺はまた放課後に一人訓練を行えている。
主として機体制御の練習。試合の動画を見て学んだ体の角度、スラスターを吹かすタイミングなどを我が物にせんと再現しようとして行く。機体が出せる最高速度が遅いので、高速移動も練習した。瞬時加速も身に付けようとした。
俺はその練習すべてを録画しておいて、部屋に帰ると一人で反省会をした。練習しているときにはできていると思っていたことも、他人として眺めてみると無駄な動作が多かったり、そもそも成立さえしていない技術ばかりだった。
それでも少しずつだが改善はされていった。すべて頭に入った教科書の内容の三分の一くらいは、そのできばえは置いておいて、できるようになった。成長は過去の自分の動画を見ると明らかだった。
それでも、あの日のオルコットと一夏と戦ったとき、凰と一夏が戦ったとき、そしてそのあとの事件での三人の共闘。彼らの動きにはまだ遠く及ばない。ISを展開するのにも、流石に名前を呼ばずにできるようにはなったが、まだまだ時間が必要で、オルコットが一秒でできるのに対して、俺は四秒かかる。
自分には向いてないことを自覚する度、全て投げ去りたい気持ちに駆られるのだった。皮肉なことに、俺を踏みとどまらせたのは繰り返し見るあの事件の夢だった。
今日もまたその夢を見た。朝起きて、洗面台に向かい、鏡を見ると顔面蒼白の自分が疲れきった目でこちらを眺めていた。髪にまとまりはなく、肌も荒れている。少し痩せたようで頬骨が目立つようになってきていた。
顔を冷たい水で洗う。以前ならこれで眠気が全て飛んだのに、ほとんど変わらない。両頬を頬を手のひらで何度か叩いて自分を奮い立たそうとした。
廊下に出ると、ちょうど一夏が俺の部屋に歩いてきているところだった。挨拶を交わす。俺たちは毎朝こうして合流して朝食に向かうのだ。
一夏は俺を見ると心配そうな顔をして俺の体調について聞いてきた。最近よく眠れないのだと受け答えをした。その理由が自分とは夢にも思っていないであろう彼は自分にできることがあったら頼ってほしいと言った。
頭のなかで彼にやめてほしいことを列挙しようとした。しかし不思議なことにひとつも見つからなかった。彼の行動は大衆が良しとする道徳にすべて基づいていた。
俺が彼を責めるためには、俺が悪人にならねばならないことに気づいた。
ありがとう、とだけ言った。
ISの実技授業では回避行動のパターンを教わり、実践した。教わったと言っても、あの分厚い教科書を半分も読み進めないうちに出てくる内容であるから、たった一人以外にとっては復習にあたるものになった。言うまでもなく、その一人というのは織斑一夏の事である。彼は教科書の暗記を先生に口うるさく言われ続けたのに怠っていたようだ。
俺は自主訓練の成果を発揮し、オルコットには及ばずとも、先生からねぎらいの言葉をいただく程度の動きを見せた。問題はそこからである。一夏は授業の始めはもちろん俺の足元に及ぶかどうかの腕前であったが、短時間でみるみる腕をあげ、授業が終わる頃には俺を追い越すほどまで急成長した。
「すげぇな一夏」
授業が終わると俺は彼の肩を叩き、歯を見せて笑った。たまたまだと言って謙遜する一夏に無性に腹が立った。
その怒りは喉元を下りていき、体の中心でぐるぐる回って、ぎゅっと収縮したかと思うと、嫌な色の液体みたいなものになって、放射状に飛び出してからだ全体を回った。それは俺を脱力させた。
今日の授業はそこから全て上の空で受けていたようでふと思い立ったときにはもう放課後だった。
何となく自主訓練をする気にもなれなくて一人、部屋に戻る。
部屋に入ってベッドに腰かけてぼんやりしていた。頭のどこかから、勉強しろと声が聞こえて来るが、それは今日に限ったことではない。初めて俺はその声を無視した。徹底して無視するために、何か本でも読もうかと思って、入寮してすぐに組み立て、実家の本を詰め込んだ本棚を物色する。
純粋理性批判、方法序説、パンセ、人間知性論、悲劇の誕生、自我とエス。本棚はそういった何の役にもたってくれなかった本に埋め尽くされていて、いま必要としている感傷にただただ浸ることのできる小説は置いてなかった。
なんだかどうでもよくなって、本棚を引き倒した。
音をたててばらばらと本が落ちる。全部落ちてその上に本棚がのし掛かった。ふと視線をやると、机の上の散らかった勉強道具が目に入った。開いたまま置いてある字をたくさん書き込んできたノートとしわしわの教科書、試合の映像から得たものをまとめたノート、散らばっている筆記用具。
それら全てを両手で掃くようにして机の上から落とした。きれいに立てて並べてあった教材も手に触れ次第床に投げつける。投げられるものがなくなると一歩、二歩と後ろ歩きに下がって、ふくらはぎにベッドの柔らかさを感じたのでそのまま仰向けに寝転んだ。
母が死んでから初めて泣いた。
○
キッチンから食器を重ねる音と水の流れる音が聞こえる。
俺は自分の部屋から階段を降りて音の鳴る方へ向かった。柔らかい青色の服を着て、黒髪を肩まで伸ばした人がこっちに背中を向けて食器を洗っている。
俺はその背中に抱きついた。お母さんは水を止めてこっちに向き直って俺の頭を撫でた。
いつの間にか俺はお母さんの身長を追いこしていたようで、なんだか撫でにくそうだった。
何で泣いているのかとお母さんは言って、俺の涙を拭った。それがきっかけになって、涙がとめどなく溢れ出す。それを見られるのが情けなくなって少しうつむいた。
「なにかあったの?」
お母さんの顔を見ずとも、そこにはあの柔和な笑みがあることを確信できた。何か言葉を発しようとしても嗚咽が邪魔してなかなか出てこない。感情の高ぶりを落ち着かせて、短い言葉に区切って何とか紡ぐ。
「俺、頑張ったんだよ」
「全部見てたよ。えらいえらい」
お母さんは俺の頭をぽんぽんと叩いた。
でもさ、と続けようとしたときお母さんはそれを遮った。
「確かに努力はいつか実を結ぶわ。けどね、努力は、量より質だと思うの」
「量より、質?」
俺は聞き返した。お母さんは頷く。
「でもそれって、量をこなすことのできない人の、言い訳じゃないの?」
お母さんは笑った。
「質のいい努力をたくさん重ねればいいのよ」
そうか、と思った。たしかにそれも一理あるだろう。けどね、お母さん。
「それじゃ、一夏に勝てない」
俺は呟くように言った。
お母さんはうつむいた俺の顔を覗きこんだ。俺の大好きな笑顔を浮かべていた。
「大丈夫よ」
それは全く根拠のない言葉。他人からそれを言われたならば絶対に俺は信用しないもの。しかし、彼女は俺の母親である。
俺は頷いた。
「でも、どうやれば?」
「あなたも実はわかってるんじゃない?お父さんに似て頭が良いからね」
俺はしばらく考え込んだ。お母さんは静かに待ってくれた。やがて答えが出て、でもそれを言うことは自分がいかに愚かかがお母さんに伝わってしまうことも意味していた。
それからもう少し考えて、お母さんはきっと俺が愚かだってことくらいもう知ってるだろうと思い直して、それでも小さく呟くように言った。
「自尊心」
「うん、気づけてるなら大丈夫よ」
お母さんは俺の頭から手を離した。かわりに俺の手をとった。庭に出ようとお母さんは言った。
するといつの間にか庭にいた。お母さんの趣味でヨーロッパのそれのような庭がうちにはある。緑のなかに鮮やかな花が咲いている。お母さんと手を繋いでそのなかをゆっくりと歩き、少し高くなったところにあるベンチに腰かけた。
右の方にある池に鳥がやって来た。二人でそれを眺めながら静かに座る。やがてお母さんが口を開いた。不安かと聞かれた。俺はすこしと答えた。
お母さんは笑った。
「大丈夫よ。あなたならできる」
私の子だから。お母さんの付け加えたその言葉は再び俺の心を揺すった。お母さんが俺を信頼してくれているという事実を知れたのは最近で一番嬉しいことだった。
そしてまた俺は少し泣いて、お母さんの手を強く握った。お母さんも俺の手を強く握った。そこから意識がぼやけ始めた。
「眠いの?」
俺は頷くとゆっくりとお母さんにもたれかかった。お母さんは俺を抱き寄せて膝の上に頭をのせると優しく撫でてくれた。
「寂しいよ、お母さん」
お母さんの手のひらが暖かかった。
「そばにいるよ」
○
清々しい気分で目覚めた。床に散らばった本や教材を見ると少し憂鬱になったが、それでもまだ晴れやかな気分だった。
時刻が気になって端末で確認しようとしたが、どうやら充電が切れている。充電プラグをさし込んで、ベッド横の時計を見る。時刻は授業が終わって一時間も経たないくらい。問題は時刻ではなく、日付だった。俺がヒステリックになって本棚を荒らしたくらいの時間から丸一日経過していた。つまり、無断欠席をしてしまったようである。
玄関の扉を叩く音が聞こえた。開くと副担任の山田先生がいた。
「すみません、無断欠席しちゃって」
「体調不良ですか?」
頭をかきながら答える。
「そうですね、とても疲れていたようで寝て起きたら今でした」
彼女は納得したように相づちを打つ。
「そうだったんですか。大田くん、目に見えて疲れてましたから心配してたんです。もう大丈夫なんですか?」
「ええ、元気です。お陰さまで」
話が一段落しても彼女は全く帰る素振りを見せない。真剣な面持ちでじっと俺の顔を見てくる。
「失礼ですが、何か?」
彼女は一度大きく頷くと表情を崩した。
「ごめんね、最近なにか悩んでるみたいだったから」
他人にわかるくらいに外側に出てしまっているのは自分でも薄々気がついていた。
「でももう平気そうですね」
俺はそんなに表に出る人間なのだろうか。気に止めておこう。
「すみません、心配かけて」
「いえいえ、私にできることがあったら相談してくださいね」
優しい顔をする山田先生に礼を言ってドアを閉めようとしたが、ふと思い付いたので先生に声をかけた。
「さっそく、お願いしたいことができたのですが」
「はい、聞きますよ」
「時間がある時でいいんです、訓練に付き合ってもらえませんか?」
俺は自尊心を捨てる、第一歩を踏み出した。
○
夢を見た翌日の放課後。
俺はアリーナを借り、山田先生に稽古をつけてもらっている。
「うーん、機体の動作はなかなかいいんですけど」
「武器の扱いが未熟、ですか」
先生は銃撃を基本とした戦闘スタイルにも関わらず、わざわざ剣を装備して俺の手伝いをしてくれている。専門ではないから剣については深くは学べないだろうが、俺はとても感謝していた。先生としては担任より副担の方が優秀だなと思ってしまった自分を、ブリュンヒルデを慕う俺が批難する。
専門でないとはいえ物を教える立場の山田先生はなかなかの腕をもち、俺を徹底的にやり込めた。
「未熟というよりか、その、そんな大きい剣では難しい立ち回りをしているというか、なんというか」
ぎくりとした。これは俺の拘りというか、そう、やはり自尊心から来るものでできることならこのままの戦闘スタイルで一夏を下したい。俺はふうっと息を吐いた。
「どう動けばいいんでしょうか」
うーん、と先生は唸る。
「重い一撃ですから攻撃の度に隙が目立つのが難点ですね。うーん、速さで翻弄するというのもその機体では難しいかなぁ」
俺の機体は遅い。一夏やオルコットと並走したらまず間違いなくおいてかれる。
山田先生があっ、と声をあげた。
「浮遊剣!クラス代表を決めるときに出たやつです!使わないんですか?」
彼女の言うそれはこの機体独特の物だが使いにくくてどうにもならなかった。六枚もの刃を同時に操作しながら自らも動かなければならないのだ。
「後回しにしてます。使いにくいので」
「でも大田くんにあわせて発現したものだから伸びやすいかもしれませんよ?」
「そういうものですかね」
先生はにこやかに頷いた。よく笑う人だ。
「大田くん、すごく頭いいでしょ?浮遊剣を操作しながら自分も動けるんじゃないかな?すぐにはできないと思うけど、やる価値はあると思います」
そこまで言うならやってみよう。いまは素直に人のアドバイスを聞くことが成長する一番の方法だろうから。
俺は六枚の刃を展開した。とりあえず俺の近くを浮かばせる。それだけならまだ簡単だった。
「えっと、じゃあそれを使って攻撃してみてください」
やるからには全力でやらねば。
俺は六枚全てを出来る限り速く先生に向けて飛ばした。
しかし、五本は山田先生に掠りもしないで、明後日の方向に飛んでいって、まともなコースを飛んでいるのは一本だけだ。もちろんその一本は簡単に防がれる。
そして、難しいのは飛んでいった剣を自分の近くに戻すことで、勢いよく戻ってきたそれに危うく貫かれかけた。
浮遊剣は一本ずつ増やしていって最終的に六本使えればいいという方向で練習することが決まった。先は長そうだ。
○
俺は両手にスナック菓子の袋をもって廊下を歩き、一夏の部屋を目指している。もうみんな揃っているだろうかと考えつつ、随分生活がかわったなぁと思いながら歩いていた。
山田先生との練習が始まってから何日かが過ぎた。
ISの腕は以前に比べれば上達しているし睡眠時間も増えた。そして一番の変化は、自分で言うのも変だが、やや社交的になったというところだろう。
たまに一夏の部屋にいくように行くようになった。今日だってそうだ。放課後にみんなで菓子を持ちよって談笑するのだ。
ちなみに今日のは俺が主催のものだ。箒と一夏が同室でモヤモヤするとセシリアから相談されたからこういう場を定期的に開く取り決めを一夏と作ってきたのだ。あくまで恩を売っておこうという打算的な発想から生まれた行動であるが。
そう、セシリアも箒も、よく話してみると案外いい奴で気がつけば互いに名前で呼ぶようになった。そんな俺をみて一夏が嬉しそうにしている気もする。
一夏と俺は友達だ。でも俺は、もしここに別の男がいたならそいつとの方が仲良くなれるんじゃないかと思っている。つまり、俺は一夏がこの学校唯一の男だから友達に選んだけれど、他にいたなら果たしてどうだっただろうか、ということだ。だが彼は友達だ。
しかし、いくら友人と言えどセシリアも箒も一夏も、俺は訓練に誘うつもりは無い。くだらない自尊心であることはわかっていても、譲ることはできなかった。それに、一夏が授業で活躍する度に心の中の暗い色をした蛇が首をもたげるのだ。やはりどこかで俺は彼を妬み、少し嫌っていた。
とはいえ、それを除けば彼らはいい友達である。
ただ、凰、あいつだけはどうも気に障る。みんなで楽しく話していてもあいつがいるとどうも心からは楽しめない。相変わらず凰だけが俺を名字で呼んでいたし、俺もあいつを名前で呼ぶことは一切なかった。
廊下の窓から見える桜は全ての花を落とした後だった。