アッシュ・カーバイドには己が目に焼き付いて離れない光景が存在する。
それは己が生まれ故郷が畜生共によって蹂躙され、焼き尽くされる光景。
それはハーメルの悲劇と呼ばれる帝国史には決して残すことの出来ない帝国の汚点。
以来たまたま命を拾ったアッシュ・カーバイドの頭の中では常にある声が響いていた。
イチバンワルイヤツヲコロセ
と。しかし、一番悪い奴とは一体誰だ。
村を襲った実行犯である猟兵たちは既に皆殺しにされて首謀者も全員処刑されている。
実行犯と首謀者、真っ先に浮かんだ悪い奴らは既に死んでいるのだ。
だというのにその囁き声は止まらないーーーつまりはイチバンワルイヤツはほかに居るという事になる。
そしてアッシュの脳裏に浮かぶのは二人の人物だった。
鉄血宰相ギリアス・オズボーンとエレボニア帝国皇帝ユーゲント・ライゼ・アルノール。
事件の真相を公にする事もなくハーメルを地図から消し、その後も第二第三のハーメルを作り続けているこの国の頂点に君臨するこの二人の男ーーーそれこそがアッシュの頭に浮かぶイチバンワルイヤツであった。
故にこそ皇太子の友人として招待されたこの千載一遇の好機に気が付けばアッシュ・カーバイドは弾かれたように動き出していた。
それは常の彼であればやらないであろう理性が居眠りしているとしか思えない衝動的な行動。
そして本来ならば警備を務める衛士隊にすぐに見つかるはずのその余りにも短慮な行動は
まるで
「カーバイド、貴様こんなところで何をしている」
そんな運命が微笑んでいたアッシュの耳に余りに慣れ親しんだ声が聞こえる。
リィン・オズボーンが皇帝と宰相の下へ往く道へと立ちはだかるように仁王立ちしてアッシュを睨みつけていた。
もはや貴様お得意の
「アンタは……そうだな……宰相の息子で皇帝の騎士であるアンタもそうかもしれねぇよな……なぁアンタ、ハーメルって村について知っているかよ?」
「ーーーああ、知っているとも。かの地で起きた悲劇も。お前がかの地の生き残りであるという事もな」
「そうかいやっぱり知っていたのかよ……知っていて黙っていたわけだ……つまりアンタもアイツらと同罪ってわけだ」
「呑まれたか。未熟者めが」
明らかに正気を失った教え子の様子それを確認するとリィンは失望したかのような視線をアッシュへと送る。
しかしそれも一瞬の事。すぐさま心に過ったその感情を
「今のお前に届くとは思えんが一応言っておこう、ハーメルの件で皇帝陛下と宰相閣下を恨んでいるのだとすればそれは余りにも筋違いな八つ当たりだ。
被害者であるお前が憎む権利を有するのは事件の首謀者たちと実行犯である猟兵共。そしてその者たちは既に尽く死んでいる。今頃は地獄でその罪を贖うための責め苦を味わっている頃だろうよ。
そしてその首謀者共を唆したのが今お前の頭の中でうっとおしくわめいているであろうそいつだ。精神を律さず衝動の赴くままに行動すれば喜ぶのはハーメルの悲劇の真の黒幕だぞ」
「皇帝と宰相への恨みは筋違い……テメェは何を言ってやがる!あの二人はハーメルの事を知っていた……知っていてそれを公表する事無く黙っていたんだぞ!それが罪じゃなかったら一体何が罪だって言うんだ!」
「良いかカーバイド、国や社会というものは人々の
全ての人間が己が私欲のみに基づき動けば秩序は容易く崩壊する。そしてその私欲を抑える為に人は社会や国家という機構を作り上げた。
国民を守る為に存在する軍の高官があろうことか己が地位と権勢の維持のために自国民を虐殺するーーーそれは多くの民の国と軍への幻想を冷ましかねない爆弾だ。
そうして混乱が起きれば結果として多くの人間が犠牲になる。だからこそ宰相閣下と皇帝陛下は公表しなかった。
それを罪と呼ぶ権利が犠牲者であるお前には確かにあるのだろう。だがだからといってこちらがお前のその意見に同意する義務はない。
何の犠牲も出さずして国家という巨大な機構を動かすことが出来るほどこの世界は甘く出来ていないのだから」
「テメェは……ああ、よく分かったぜ。あの二人に落とし前をつけるためにはまずはテメェをどうにかしないといけないって事がな!」
リィン・オズボーンの語った内容は紛れもない正論だったのだろう。
だが正論を受け容れるという行為は痛みを伴う行いであり、それを為すには己を律する強固な意志が必要だ。
当然その理性が吹き飛び心の中に存在する感情の赴くままに行動しているアッシュがそれで踏みとどまれるはずもない。皇帝と宰相へと向けようとしていたその矛先をその走狗たるリィンへと移す。リィン・オズボーンの狙い通りに。
「皆伝にも至っておらず、己の心を律する事さえも出来ていない未熟者がこの私を?身の程知らずも大概にしておくことだな。まあ良いかかってこい、言葉でわからんのならその身に刻んでやろう。己を律する事が出来ん狂犬が社会からどう扱われるのかをな」
しかし目論見通りでありながらもリィンの心に過ったのは憐憫の情であった。
リィン・オズボーンがアッシュ・カーバイドに対して抱いている期待は生徒の中ではそれ程に大きくはない。
能力こそ高い者の根本的な部分で国家に対する不信感が存在し愛国心などというものを持たず、規律や秩序を軽視する傾向のある彼では自身の跡を託す後進足りえないからだ。
そんな彼をあえて皇太子と同じ班にしたのは偏にそれがこうした不良生徒に出会う機会のなかった皇太子及びクルト・ヴァンダールのような優等生の成長に寄与すると思えばこそ。
Ⅶ組第一班の中で一番リィン・オズボーンから期待されていない人物、それこそがアッシュ・カーバイドだ。
だがそれでもそれは相対的に評価すればであり、絶対的に評価するならば
少なくとも普段のアッシュならば
それが出来るだけの胆力と知性を目前の教え子を有していた。
だというのに今のアッシュにそれらは微塵も感じられず、ただ荒れ狂う心の赴くままに暴れる獣も同然の有様。
全く以て嘆かわしい、巨イナル黄昏とやらが万人をこんな状態に変えてしまう物だというのならば何としても阻止せねばならないのだろう。
そんな世界はもはや人の世ではない、獣共が闊歩するこの世の地獄だ。
そんなものを断じて認めるわけにはいかないのだから。
「オオオオオオオオオオオオオオオ」
正気を失ったアッシュ・カーバイドが徒手空拳で殴り掛かる。
皇太子殿下の級友という事以外に特別性を有していない一士官学院生でしかないアッシュに宮中での武器の持参は当然認められておらず、今のアッシュは丸腰だからだ。
一方獅子心十七勇士筆頭にして皇帝直属の騎士足るリィン・オズボーンは宮中に於いて武器を携えたまま歩くことが出来る特権を与えられている。
故に今この時も己が愛刀たる双剣をその身に携えている。
しかし当然それを抜き放つような真似はしない。リィンにアッシュを殺す気はないからだ。
純然たる現実として仮にアッシュが獲物を用いたとしても無手のリィンにかすり傷一つつけられないーーーそれだけの力量差がこの二人の間には存在するのだから。
武器を使う必要などリィンの側には一切ないのだ。
呪いで身体能力が強化されていようとそんなものリィンにとっては脅威でも何でもない。
故に順当な結末としてアッシュ・カーバイドはリィン・オズボーンへとあっさりと叩きのめされて地を這いつくばる。
「マダダ……ワルイヤツラニサバキヲ……」
だが呪いに操られた状態のアッシュは痛みも感じず気を失う事もない。
幽鬼のように立ち上がり死ぬまで戦い続けようとーーーしたところでその額に懐から取り出した札をぴたりと張り付ける。
それはハーキュリーズの掃討の際にローゼリアに渡された肉体と霊力の接続を一時的に遮断する霊的な道具。
魔女の長たるローゼリアが帝国の“呪い”に対抗するために用意した物だ。
「ア………」
自らを操り人形として操っていた呪いという糸、それを断ち切られた事でアッシュはその場に倒れこむ。
そして倒れたアッシュの身体をリィンは担ぎ上げ、その場を離れ始める。
隠れて飲酒を行い酔っぱらって迷い込んだ愚かな教え子に鉄拳制裁を行ったーーー理由としてはまあそんなところで良いだろう。
記念すべき式の真っ最中、それも皇城に招かれると栄誉に預かりながらそのような乱行に及んだとなれば無論学院側としても相応の処罰を改めて与えなければならないが、それでも明確な犠牲者なり被害を出す前に済ませられたのだからまあ退学処分にまではする事無く済ませられるはずだとリィンは一安心する。
「リィン教官……一体何があったんですか?」
そうしてアッシュを担ぎ上げて庭園と戻る最中リィンはセドリックとすれ違う。
顔に青痣を作り気絶した状態でリィンに担ぎ上げられて貨物か何かのように運ばれる悪友の姿を見てセドリックはあからさまに驚いた様子を見せる。
「この阿呆、貴官の忠告も虚しくどうやらこっそり飲酒を行っていたらしい。己が酒量も弁えず飲み過ぎたせいで酔っぱらってこんなところにまで迷い込んでいた。故に教官として然るべき制裁を施した。正式な処罰はまた学院に戻ってから教官会議の上改めて決められるだろう」
「はぁ……なるほど?」
リィンの説明にセドリックは釈然としない思いを抱く。
アッシュ・カーバイドは確かに自分のああした忠告を聞くほどに殊勝な男ではない。
だが己が酒量も弁えず泥酔する程に考え無しの人物ではない。
ルールを把握した上でそのルールの抜け穴を突く、そういう強かさを持ち合わせているはずであった。
何よりもそんな泥酔状態で迷い込んだというのであれば警備の兵士たちがすぐに気が付くはずだ。
何せ今セドリックが歩いているのはこの国の最高権力者たる皇帝の居室に向かうための道。
当然そこを警備しているのは衛士隊の中でも選りすぐりの精鋭達。
ただの酔っぱらいがその警備網を掻い潜ることなどまず以て不可能なはずなのだから。
「そういう貴官は陛下と親子水入らずの話し合いと言ったところかな?」
「ええ、せっかくの機会ですから。色々と積もる話もあるだろうからそういう事ならばと父上に部屋に招かれたのです」
釈然としない思いを抱きながらも特に深く追求する事無くセドリックはあからさまな話題転換へと応じる。
下手に追求すればそれはむしろこの悪友にとっては余りいい結果にはならないだろうという事、己が教官が悪友の未来を慮ったからこそ、そういう強引な説明で押し通そうとしている事を朧気ながらも察して。
「そうか、大事にすると良い。貴官の御父上は何といってもこの国の皇帝、そうした時間を設けるのも一苦労という立場なのだからな」
「ええ、承知しておりますよ。それでは」
リィン・オズボーンは気がつけない。
何故ならば
その若さゆえに聊か焦りは見られるがそれでも次代の皇帝として申し分ない人物としてその成長に
ハーメルの遺児という立場に起因する国家に対する帰属意識の薄さ故に
何より皇太子であるセドリックが父である皇帝と親子水入らずで話し合いの場を設けようとする事は何ら不自然ではない事だったが為に。
そしてそれは皇帝の警護を務める衛士隊の面々も同様だ。
何故ならば彼は皇帝の実の息子にして次の皇帝となる皇太子セドリック・ライゼ・アルノールなのだから。
皇帝ユーゲントとの間に不仲の噂がこれまで経った事は皆無で在り、その関係は良好そのものであったから。
式の最中に披露した見事な剣舞も相まって、帯剣したまま入室しようとする彼を咎める事もなく素通りさせるのであった……
黒「お、こっちは気づかれたかやるやん流石はドライケルスの息子。じゃあそっちは囮にしてこっち使おう」