平塚先生が書きたいから書きました。以上。

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僕はあの人の名前を知らない。

 僕は今日、伯父の手伝いに行った。伯父はバーの経営者で、何でも、務めているバイトが体調不良で休みを取ってしまったらしく、人手が足りないんだそうだ。

 最初は少し悩んだけれど、僕は伯父の誘いに乗ることにした。貯金も心許なかったからだ。お金には余裕があった方が良い。これから先何かとお金がかかる場面も増えてくるはずだ。

 

 店のロッカールームで制服に着替え、ワックスで髪を整えてからフロアに出る。月末に加えて週末でもある今日は普段以上に客入りが良かった。まあ、こちらからすれば忙しい訳だが、暇で時計の針を眺めているよりかはよっぽどマシだ。

 僕は注文を受け、カクテルを作ったり、お客さんの愚痴を聞いたり、皿を洗ったり、また愚痴を聞いたりを繰り返す。夜が深まるにつれ客も出入口の鐘を鳴らしながら出て、減っていく。代わりに洗い物は増えたけれど、この量なら店を閉めてからやったっていい。

 ほっと一息ついて改めて店内を見渡す。もう客は数えるほどにしかいない。その中で思わず目を留めてしまった人物がいた。

 

 仕事帰りなのかスーツ姿で煙草を吹かすあの女性。

 

 いや、別にこの店が禁煙だからという訳ではない。むしろここでは喫煙も許可されている。

 ではどうして目を留めてしまったのか。他の客と何が違うのか。それは、彼女のいる場所だけまるで映画館のスクリーンから切り取って来たように、絵になっていたからだと思う。

 煙草を口元に運ぶ手。色っぽく煙を吐き出す唇。聞きなれたグラス中で揺れる氷の音でさえ、あの女性の周りでは別物の様に感じてしまう。

 

「かっこいいですね」

 

 気が付けば声をかけている自分がいた。

 普段はこんな事はしない。話しかけられたら答えるだけ。そんなゲームのNPCみたいな店員なのだ。でも何故か今は自然と口が動いてしまっていた。

 女性はこちらを振り返る。腰まで届く髪が揺れ、初めて正面から顔を合わせた。

 その表情はまあ、なんというか「目を丸くしている」なんて表現がぴったりだ。

 ああ、やってしまった……。そりゃそうだよ。ほとんど会話した事のない奴が急に話しかけてくるなんて嫌に決まってる。しかも会話の内容も業務的なものだったらよかったのに、個人的な感想だからなぁ。

 体の表面に熱を帯びる恥じらいを誤魔化す様に言葉を続けた。

 

「あ、あの、すいません、急に話しかけてしまって」

「構いませんよ。実際、ちょっとカッコつけてましたから」

 

 そう言って彼女は微笑んで返してくれた。対応に余裕があって、やはり大人な女性ってすげえなぁ、と大人になり切れていない自分は思う。

 彼女は灰皿に短くなった煙草を押し付けて手放した。目を閉じて、懐かしむように話を始める。

 

「……でも、ちょっと前。生徒に同じことを言われたことがありまして、その子の事を思い出しました」

「生徒、先生だったんですか」

「ええ。まだ駆け出しの、若輩者ですけどね」

 

 彼女は妙に若々しさをアピールする単語を強めて言った。年、気にしているのだろうか。気にするほど年を取っているようには見えないけれど。でも、実年齢と見た目はまた違うのだろう。それに触れないように話を続けた。

 

「どんな生徒だったんですか? 思い返すって事はそれなりに記憶に残る生徒だったんですよね」

「ええ、生意気で、可愛げが無くて、不器用で、短所を上げればいくらでも出てきますけれど、面白い生徒でしたよ」

 

 彼女はグラスを手に取って、琥珀色の液体を一口あおるとその生徒について語り始める。 

 反省文に始まり、部活、職場体験。体育祭。修学旅行。クリスマス……。

 彼女は一つ一つのエピソードを噛みしめながら語った。それらを聞いているうちに彼女がどれだけその生徒を思いやっていたのかが伝わってくる。これだけの女性にここまで考えさせる生徒は、どのような人間だったのだろう。

 そんな疑問を抱えながら僕は話を聞いた。

 

「でも、あんなだった彼でさえ、最後にはちゃんと答えを出して、卒業していくのだからあの年頃の人間は本当にすごい」

「そうですねぇ。怖いものなし、という訳でも無いでしょうけど、エネルギーに満ちてますよね」

「私にもあんな時期があったのかと思うと、感慨深い」

 

 頬杖を付く彼女はため息をつく。そしてだらっと、カウンターに上体を預けた。お酒が回って来たのだろうか。彼女曰く『かっこつけ』のメッキがはがれて来たのかもしれない。

 

「私は、どうなんでしょうね。ずっと、成長できていない気がする。中身はずっと高校生、みたいな……。あっ、なんか言ってて悲しくなって来た」

「だ、大丈夫ですって。お姉さんまだ若いですし、そこまで深刻に考える必要ないですって」

「それを私よりも若そうなお兄さんに言われるのは、なんだかなぁ……」

 

 グラスを指で弾く彼女は、じとっとした目付きで僕を見返す。

 しまった。これは地雷だったか。最初の方に言わないようにして置こうって自分で考えていただろうに。何とかフォローしないと嫌な気持ちのままにさせてしまう。

 焦りながら俺は口を動かした。

 

「いや、お姉さん。そこまでメガティブに捉える必要もないと思いますよ。僕みたいなのからすれば、お姉さんみたいな女性は魅力的で、下手な同い年の女性とは比べ物になりませんから」

 

 早口で、反論も許さぬようにそう述べた。お姉さんは顔を伏せていたが、少し顔を上げる。

 

「……ホントに?」

「……ええ、バーテンダーは嘘を付きません」

 

 僕は頷く。嘘だ。バーテンダーは優しい嘘を付くことが多い。ばれないように自信満々に目を合わせて見せる。

 彼女は勢いよく上体を戻し、僕の手を取った。予想外の刺激に肩が跳ねた。温かくてすべすべとしている。きっと普段から丹精込めて手入れされているのだろう。

 

「いやー照れちゃうなぁー。そう言うこと言われちゃうと本気にしてしまいそうになるよ。お兄さんはお世辞が上手い」

 

 彼女は頭をかきながら、ぶんぶんとハンドシェイクした。

 お世辞とお姉さんは言ったけれど、あれは僕の本心だ。偽りも脚色も無い。でもそれを強調するのも、何か違う気がした。

 

「お兄さん、注文いいですか?」

「ええ、でもだいぶ酔ってませんか?」

「大丈夫です。これで最後にしますから」

 

 そう言って最後にする人はあまりいない気がする。

 

「ご注文は?」

「『XYZ』で」

「承りました」

 

 XYZ。アルファベット最後の文字三つを取る事から「もうこれ以上の物はない」なんて意味や「今夜は終わり」なんてメッセージを込めたりもするカクテルだ。彼女は恐らく後者の意味でこのカクテルを選んだのだと思う。

 

 僕の後ろにある瓶の数々からラムとキュラソー、そしてレモンジュースを持ってくる。そしてそれぞれを決められた分量でシェイカーに入れて、氷と共にシェイク。殆ど人がいなくなった店内に音が響く。手を止めて、静かにグラスに注ぐ。グラスの縁ギリギリまで注ぎ終えて、スッとテーブルの上を滑らせて彼女に差し出す。

 

「お待たせしました」

「ありがとうございます」

 

 グラスを口で迎え、少し量を減らす。髪を耳にかける仕草は女性らしさを感じさせた。グラスを手に取り、三口でほどで飲み干すと、笑顔でグラスを返した。

 

「ごちそう様でした。美味しかったです」

「ありがとうございます。お姉さんもお世辞が上手いですね」

「いいや、酔っぱらって、本音が出やすくなってるだけですよ」

 

 彼女はここまで座って来た席を立つ。会計を済ませてからコートを羽織った。そしてドアの目の前で振り返る。「ごちそうさまでした」と礼をすると扉に手をかけた。

 

 本来であれば俺はマニュアル通りに「ありがとうございました」と返すのだけれど、僕は気が付くとまた、意思とは別の言葉を口にしていた。

 

「また、いらして下さいね」

 

 彼女は頷くと、この場を去る。入口のベルが寂しさを際立たせた。

 どうして僕は「また、いらして下さい」なんて言葉を口にしたのだろうか。この店には年に数回しか来ることは無い。だから彼女にまた会えるとは限らない。なのに……。

 その疑問の答えを、帰ってからもずっと考えていたけれど、一晩の間に求めることはできなかった。



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