この幸せはずっと続くのだと。
そう思っていた。
◆
彼女と出会ったのは高校一年の夏だった。
何気なく訪れた洋菓子店。商品の並んだショーケースの向こうに佇む一人の少女。
非常に整った容姿で、すっと通った鼻筋はなかなかに高い。形のいい耳が髪の隙間からひょっこり覗いている。緩くウェーブした黒髪は長く、後ろでポニーテールにしていた。
僕は初めて見るその少女を、ただただ美しいと思った。
「いらっしゃいませ」
そして極めつけに、僕に向けられたひまわりのような笑顔。
まるで突風を叩きつけられたかのような衝撃が全身を襲った。
たった一瞬だった。
彼女の愛らしい笑顔を目にした瞬間、僕は恋に落ちた。
▼
それから僕は、毎日のようにその洋菓子店に足を運んだ。
そうして一年も経った頃にはかなり親しい関係を築けたように思う。
「先輩、よかったら夏祭りに行きませんか」
夏休みを前にして、僕は思い切って彼女を夏祭りに誘ってみることにした。
彼女は僕とは高校は別だけど、歳が一つ上なので先輩にあたる。彼女のことは店での会話でしか知り得ていない。だから、僕は彼女のことをもっと知りたいと思った。
僕は彼女が好きだ。ライクではなくラブの方で。好きな人のことを際限なく知りたいと思うのは、いたく自然なことだった。
「キミ、私が受験生だってこと忘れてない?」
言われてハッとした。
彼女は高校三年生なのだった。
当たり前のように毎日店番をしていたので、そんなことは露ほども考えていなかった。
この時の僕は高校二年生だったから、彼女が受験生だということは認識していたのだけれど、実感としては捉えられていなかった。
迷惑だろうか、という考えが一瞬頭をよぎる。
だけど僕は、なおさら彼女と夏祭りに行きたくなった。
夏が明けたら本当に出かける暇もなくなるのだと思う。ならばきっと、これがラストチャンスなのだ。
「でも、ほら、気分転換になるかもしれません」
「確かに。一理あるね」
でもな、どうしよっかな、と彼女は垂れた髪を指先でくるくると遊ばせながら悩んでいた。
どこかいたずらっぽい表情。けれど優しさの篭った微笑み。吸い込まれそうになる黒い瞳と、銀の鈴を転がしたみたいに心地よい声音。
思わず見惚れている自分がいた。
この人と一緒に夏祭りに行けたらなと、改めてそう思わずにはいられなかった。
「でも私、毎年友達と行ってるんだよね」
「そう……なんですか」
「なぁにそのガッカリした顔」
「今年もお友達と行くんですか?」
「いつもだったら、だけどね」
「……そうですか」
僕の淡い恋心はひどく繊細で、遠回しに断られたと認識して、胸の奥がちくりと傷んだ。肩は落ち、背中は丸まり、僕の視線は自然と下がった。
そもそもの話、脈が無いのではないか、こんな誘いをするべきではなかったのだと、下を向きながら後悔ばかりが胸中で渦巻いた。
「言っておくけど、まだ決まったわけじゃないし。なんなら誘われてすらいないよ」
その言葉で俯いていた僕の顔は徐々に上がっていった。
そして彼女の表情を見ると、どうにも何か僕からの言葉を待ってくれているように思えた。
これは、もしかすると、もしかするかもしれない。
「あの、なら、僕が最初に誘ったということでいいですか。えっと、その、予約……みたいな」
「え、予約? あはははは! キミ、面白いことを言うね」
彼女は僕の言葉がツボに入ったみたいで、予約、予約ねぇ、と繰り返し呟きながらけらけらと笑っていた。なんだかそれがやけに子どもっぽく見えて、初めて彼女の年相応な一面に触れられた気がした。
「うん、わかった。夏祭りの日、キミに予約されました」
笑って目に溜まった涙の粒を白く細い人差し指で掬いながら、彼女はたしかに了承した。
▼
夏祭りの日、集合場所で彼女を待ちながら考えていた。
そういえば、これが僕にとっては初恋であった。であるから、どうしても彼女の気を引きたかった。ありていに言えば、交際をしたいと願っていた。
だからだろう、この日はやけに気合が入っていた。緊張していたとも言える。
「お待たせ」
しかし、目の前に現れた彼女の姿があまりにも魅力的で、頭の中で考えていた夏祭りを回るプランや、意識すべき己の心持ちなど、僕の中にあった思考の全ては無残にも吹き飛んでしまった。
白地に青い朝顔の柄の大人っぽい浴衣。水色の帯が清廉さを醸し出している。髪型はいつものポニーテールではなくカジュアルアップにしていて、その髪も相まってなおさら大人っぽく見えた。そして、ナチュラルに薄く施された化粧は、彼女の女性としての魅力を存分に引き出していた。
なんて綺麗なのだろう。
そう思いながら、僕は彼女にただただ見惚れていた。
「おーい、どうしたの。もしかして……見惚れてた?」
「あ、はい。すみません。あまりにも綺麗なので……つい」
「そ、そっか……冗談のつもりだったんだけど」
「いえ、あの、ホント、よく似合ってます。月並みなことしか言えませんけど……とても」
「あー、わかった。わかったから! あんまり褒めないで……恥ずかしい……」
羞恥に顔を染める彼女はとても新鮮だった。そしてそんな彼女の姿を見られたことで、僕は少なからず満足感をおぼえた。
しかしニコニコと笑う僕が気に入らなかったのか、彼女は拗ねたように唇を尖らせた。
「もう。ほら、行くよ」
そうして僕たちは、祭りの喧騒に加わった。
お面をかぶった少年。わたがしを頬張る少女。浴衣姿の大人たち。
ソースの焦げるいいにおいがした。出店のテントの上には、白くもやのような煙が漂っていた。
僕は彼女にラムネを買った。彼女は僕にかき氷を買ってくれた。お互いに好きなものを買ったり、相手の欲しいものを買い合ったりした。祭りの熱に当てられて、先輩との距離がいくらか縮まったような気がした。
「もうすぐ花火が上がるって。ねぇ、座れる場所探さない?」
彼女が歩くたびに、手に持つラムネの瓶のビー玉がからんと鳴った。それは風鈴の音に少し似ていた。
「その前に、空の瓶捨てたらどうですか」
片手は巾着、片手はラムネの瓶と、両手がふさがっているのは煩わしいだろうと思い、そう提案した。
しかし彼女は首を振って、瓶を顔の高さまで掲げてちらちらと振った。また跳ねたビー玉がからんと鳴った。
「この音が気に入っちゃって」
「そうですか」
「うん、そう」
そう言ってはにかむ姿がなんだか切なくて、僕は彼女の実像を確かめるために、その白くほっそりとした腕を掴んだ。細いけれど柔らかくて、か弱そうなのに熱があって、それはとても不思議な感触だった。
「ど、どうしたの?」
「あ、いや、えっと」
衝動的な行動だったから、気が付くとそうしていた。そうとしか言いようがない。他になんと説明すればいいのだろうか。そもそも手を放した方がいいんじゃないだろうか。
そういったことを考えているうちに、突如として背後から音の爆弾が僕達に襲いかかってきた。
「あ、花火! ね、始まったよ」
振り返って夜空を見上げれば、暗いキャンバスに色とりどりの花火が咲いていた。一滴一滴が息を呑むほど煌めいて、大輪の雫はたちまち消えていく。ざらざらとした音の尾を引く残響が、蝉時雨のように空に溶け込んだ。
「わぁ、綺麗……」
彼女の顔を盗み見た。瞳の水面に幾粒もの空の閃光が走っている。豊かな色彩が彼女を濡らした。浴衣の朝顔が目についた。
朝顔は、早朝に美しい花を咲かせ、昼過ぎにはしぼんでしまう。午前中にしか咲かない儚い花。
けれど僕の隣には、世界に一つだけの美しい朝顔が見事に花を咲かせていた。
▼
夏祭りの日以降も、二人で出かける機会が増えたように思う。
行先は大抵が図書館で、彼女の勉強に付き合うだけなのだけど。
それでも、確実に以前よりは彼女との距離を縮められたはずだ。
また、僕は彼女を見習って勉強を始めた。
そうすることで、復習になるからと彼女が勉強を見てくれたりした。
それに、これは早めの準備だ。
来年は僕が受験生になる。
僕はできることなら彼女と同じ大学に行きたい。
そんな思いがあった。
▼
あっという間に秋が過ぎ去って、冬がきた。
この時期にもなれば、もう彼女は実家の店番はしなくなった。
受験勉強もひとりで自室に籠って集中するようになった。
僕はといえば、相変わらず彼女の家の洋菓子店に通った。
僕にできることは応援することだけなので、店に行ったときは決まって彼女の部屋を訪れた。
本当は勉強の邪魔をしたくなかったので彼女の親御さんを通じてエールを送られたらそれでいいと思っていたのだが、いつもその親御さんに部屋に行ってやってと言われた。
控えめなノックが、僕が来た合図。
彼女は僕のノックを聞くと、休憩の合図と言って笑って出迎えてくれた。
▼
三学期も終わりが近づいた。
この頃には大きな変化があった。
とりあえず、彼女は無事に志望していた大学に合格した。
受験が終わった後に大学名を聞いたのだが、その大学の名は中々に有名な地元の私立大学だった。彼女に追いつくためには、もっと勉強を頑張らねばならなかった。
それと、もうすぐ彼女は高校を卒業する。
彼女は大学生になる。
高校生と、大学生。
一つしか年が変わらないのに、その肩書の間には大きな隔たりがあるように思えた。
縮められたと感じていた彼女との距離が、また開いたような気がした。
▼
卒業式。
僕は自分の学校の卒業式など一欠片も興味がなかった。
一刻も早く、彼女に会いに行きたかった。
じれったい時間をひたすら我慢した。
在校生として同じ高校の卒業生には申し訳なかったが、部活にも入っていない僕は知り合いの先輩などいないので、やっぱり彼女に会いたいのだった。
卒業式が終了した頃に彼女から連絡があった。うちに来るなら夕方に、とのことだった。
多分クラスや友人たちとの集まりがあるのだろう。
それにしても、何も言っていないのに僕の行動を読んでいるなんて。
それだけ分かってもらえるくらいには、僕は彼女に知ってもらえているということなんだろうか。
だとしたら、それは大変嬉しいことだった。
僕は学校の図書館で勉強をしながら待っていた。
日の暮れる間際に彼女から、いつでも来ていいよ、と連絡があった。
すぐさま勉強道具を鞄に仕舞い込んで、彼女の家へ向かった。
「いらっしゃいませ」
入店すると、いつものように彼女がそこにいた。
まるで初めて会ったあの日から変わらないように。
けれど、彼女が身に纏っている制服は、今日限りで着納めだった。
「先輩、ご卒業おめでとうございます」
「うん、ありがとう」
ただ、会いたくて。
それだけでここへ来たのはいいけれど、これ以上話すべき言葉が見つからなかった。
「私、卒業しちゃった」
「はい……そうですね」
「春から大学生だ」
「ですね」
「周りは知らない人だらけだよ」
「きっといろんな出会いがありますよ」
「キミだってあるかもよ」
「そうかもですけど。僕は、先輩さえいれば別に……」
「……あの、急に恥ずかしいこと言ってくるの、やめて」
「本心なので」
「そ、そうなんだ」
頬をうっすらと赤く染めて視線を下げる彼女が愛おしいと思った。
彼女の傍に居たいと思った。
けれど、彼女は高校を卒業してしまった。
高校生と大学生。
年が一つ離れているだけでも遠いのに、このままでは彼女がさらに遠くなってしまうような気がした。
「あの、先輩」
「は、はい」
「大学生になっても、お店の手伝いをしていますか」
「あ、うん。多分だけど」
そうか、なら、また会いに行けばいい。
でも、それだけじゃ足りない。
彼女と一緒に居たいのなら、僕はもっと勇気を出さなければならない。
「勉強、また見てくれますか」
「いいけど……私でいいの?」
「先輩がいいんです」
「でもそんなに時間取れないかもよ? 私、大学生になったらバイトを始めるつもりだから」
「バイト、ですか」
「うん。さすがにもう、親に甘えてばかりじゃいられないからさ」
彼女の言うことはもっともだ。
彼女の家は五人家族で、彼女には弟と妹がいる。それに家は自営業ときた。家庭の懐事情は正直言って厳しいものがあるだろう。
そういうことならば、僕はこれ以上彼女に縋ることは出来ない。これ以上はみっともないと思った。
「……すみません、迷惑でしたね。忘れてください」
「あ、でもいいこと思いついた」
僕の言葉に被せるようにして彼女はそう言った。
パン、と手を叩いて彼女は続けた。
「キミのとこで家庭教師、とかどう?」
得意げなドヤ顔が眩しい。
なんという名案なのだろう。
文句のつけようのない素晴らしい提案に、僕は強く頷いた。
▼
季節は巡り、春。僕は高校三年生になり、彼女は大学の新入生になった。
四月の間はお互いに忙しくて、彼女が家庭教師として家に教えにやって来るようになったのは、五月の半ば頃からだった。
「そういえば、もう志望校って決めてるの?」
「あー……実は、まだ」
「ふーん、それなのによく熱心に勉強するね」
「まぁ、勉強して損はしないですから」
もちろん嘘だ。
僕の志望する大学は彼女と同じところだと以前から決めている。
でも、まだ黙っている事にした。
野心として秘めていた方が頑張れる気がした。
▼
また、夏がきた。
同級生は部活を引退し、誰もが受験生としての意識を持ち始めるようになった。
僕は部活に所属していなかったし、ずっと早くから勉強していたから、周りに比べて良い成績を残せていた。
そして、今日は夏祭りの日。
去年は彼女と一緒に回った。
今年はというと、僕は家で勉強をしていた。
「今年は行かないんだね、夏祭り」
自作の小テストの採点をしながら、彼女はそう零した。
たしかに行きたい気持ちはあるけれど、それよりも受験まで一日も無駄にしたくないという気持ちが強かった。
「先輩こそ行かないんですか」
「私? いや、私はてっきり……」
「てっきり?」
聞き返すと、彼女にキョトンとした顔で見つめられた。
しかしそれも束の間、次いで彼女は頬を淡く朱に染めると、眉根を寄せて唇を尖らせ不満げな様子をあらわにした。
「ほら、続きするよ」
「いや、これ終わったら休憩って言ったの先輩じゃないですか」
「むむむ……」
僕は立ち上がり、クーラーを停止させて、部屋の窓を開けた。
外から生ぬるい風が入り込み、カーテンレールにぶら下げている風鈴がしずしずと鳴った。去年の夏祭りで彼女に買ってあげたラムネの瓶を思い出した。
「もうすぐ花火が打ち上がる時間じゃないですか」
「本当だ。休憩にちょうどいいね」
花火が打ち上がるまでの間、空を見上げながら、時折揺れる風鈴の音を楽しんで待っていた。
「あ! 始まった!」
遠くで控えめにパッと光って、それから大きく遅れて炸裂音がやってくる。
去年、現地で目の当たりにした時は、視界を埋め尽くさんばかりに咲いていたので、ここから見るといささか迫力不足だった。
けれど、隣の彼女は、下手をしたら去年以上に楽しんでいるように見受けられた。
どうしてだろう。
もう知り合ってからずいぶんと長い時間が経っているけれど、未だにわからないこともあった。
「ね、来年はまた一緒に夏祭りに行こうね」
「あの、僕はまだどこの大学に行くか決めてないので、近くに居るかも分からないんですけど」
「あぁ、そうだったね。ごめんごめん忘れて」
「……でも、行かないとも、言ってないです」
「ん。待ってるね」
相変わらず彼女には敵わないのだった。
年上のお姉さんっていうのは、ズルい。
▼
センター試験が終わり、二次試験の対策が始まった。
家庭教師の彼女は自身の経験に基づき的確な指導をしてくれた。
そういえば、僕の志望校はずいぶん早い段階からバレていたようだ。
そりゃあ、模試の判定に書いていたのだから当たり前のことだった。
「ねぇ、合格したら何かご褒美をあげよっか」
「これはまた唐突ですね」
「まあまあ、いいじゃん。その方が頑張れると思ってさ」
それは、確かに。
僕は少し考えてから、やがて口を開いた。
「では、話を聞いてほしいです」
「話? どんな?」
「それはその時に」
ふむ、と彼女はなぜか考え込む仕草を見せた後に、うん、わかった、待ってるね、と返事をくれた。
▼
前期の合格発表で僕の受験は終わった。
案外すんなりいったのであまり実感が持てず、嬉しいという感情よりも、嗚呼、終わったのか、とどこか他人事のような心持ちだった。
「合格おめでとう!」
でも、合格の報告を自分のことのように喜んでくれた彼女を目にした途端、やりきった感触が得られた。
じわじわと込み上げてくる喜びが、僕の表情を自然とほころばせた。
「好きです」
そして改めて思うのだった。
この人が好きだな、と。
断っておくが、僕にとってはこれが初恋だ。
だから、とんでもなく青臭く、稚拙な告白だったように思う。
「やっと言ってくれた」
いや、それ以前に、アプローチの時点から上手な駆け引きがあったわけでもなかったので、僕の気持ちはバレバレだったわけだ。
だからだろう、そんな言葉を苦笑で返された。
それでお互い黙ってしまったので、僕はそわそわと落ち着かなくなり、終いには、先輩が好きですと、同じ告白を繰り返していた。
さすがの彼女も、二度も好意の言葉を寄せられて平常心ではいられなかったのか。
「……わ、分かってるから。二回も言わないで……恥ずかしい……」
と顔を赤くした。
再び沈黙が訪れた。
それを今度こそ破ったのは、彼女だった。
「うん。私も、キミのことが好き」
彼女はうつむきがちに、けれど上目遣いに僕の目を見ながら、そう言ってくれた。
嬉しすぎてか、はたまた緊張の糸が解けたからか、理由は定かではないが、足の力が抜けた僕は目の前の彼女に向かって倒れこんでしまった。
わ、わっ、と慌てて僕を抱きとめてくれた彼女を、僕は両手で抱きしめた。いきなりで嫌がられるかと思ったが、彼女もまた、おずおずと抱きしめ返してくれた。
その時僕は、溢れんばかりの幸福と彼女の微熱を、たしかにこの両手で抱きしめた。
▼
それからはとても幸せな日々が続いた。
よって、特筆するべき点しかないため割愛させていただく。
あぁ、でも、ひとつだけ。
僕が大学三年生で、彼女が大学四年生の夏の日。
彼女の就活も終わっていたので、二人でひまわり畑に行った。
空は青く澄み渡り、その夏空を飛行機が駆動音を響かせながら駆けていた。消えていく飛行機雲の儚さをその時に初めて知った。
広大な農地に数え切れないほどのひまわりが咲き誇っていた。背の高い花や、足もとに生える小さな花まで、様々なひまわりが太陽に向かってその大輪を掲げていた。
汗ばむ陽気に誘われて、畑の中央に臨んだ。中央は小さくなだらかな丘になっていて、畑中のひまわりを見渡せた。
「結婚してください」
僕はそこで彼女にプロポーズをした。
ずいぶんといきなりだったので、彼女はその若干吊り気味な大きな目を、珍しく丸くして驚いていた。
また、周りには僕たちだけでなく、ひまわり畑に来場した人々が大勢いたので、この光景を目の当たりにした誰もが固唾を呑んだに違いない。
「……バカ」
彼女から返ってきたのは、熱い抱擁と、涙に濡れたキスだった。
▼
僕も彼女も地元で就職した。
そういえば、てっきり彼女は実家のお店を継ぐのかと思っていたのだが、若いうちは他の職をやってみたいと言ってOLをしていた。
ちんけな安アパートでの二人暮らし。
しかし驚くほど毎日が充実していた。
それから結婚四周年の年、僕は社会人三年目で、彼女は社会人四年目。
その頃に彼女の妊娠が発覚した。
舞い上がった。幸せの絶頂だった。
彼女のために仕事を頑張った。仕事が終わればすぐさま彼女のもとに駆け付け、家事から何まで全てこなした。日に日に大きくなっていく彼女のお腹を見て、僕は父親になるのだと感慨深い気持ちになった。
▼
やがて彼女に陣痛が始まり入院することとなった。
彼女と病院へ向かう。
僕はできるだけ彼女の傍に居た。
事前に、初めての出産は一〇時間かそれ以上かかる、と説明を受けていたので、必要以上に焦ることはなかった。
着替えや検査など諸々の準備が終わってから、彼女に陣痛食を食べさせていた。
そういえば、ずっと彼女の傍に居て何も食べていなかったことを思い出した。それと同時に腹の虫が元気よく鳴った。緊張感のある部屋に場違いな間抜けな音が響いた。
それを聞いて緊張が弛緩したのか、彼女はクスクスと笑みを零した。
「長丁場になるだろうし、キミも何か食べてきなよ」
できるだけ傍に居たかったが仕方がない。すぐに帰って来るからと伝え、近くのコンビニまで飲食料を買いに病院を出た。
外に出ると一気に汗が噴き出てきた。
夏だった。
日が差す方向から生暖かい風が体を撫でつけてくる。
見上げた空はそこまで青くなくて、むしろ白っぽかった。浮かぶ雲は朧気で、輪郭がはっきりとしなかった。
そんな淡い空を、飛行機が駆けている。
遠いはずの駆動音が、間近で聞こえた。
体が軋むような衝撃を自覚した頃には、浮遊感をおぼえていた。
暗くなる意識の中で、微かに見えた消えていく飛行機雲は、やはり儚げだった。
▼
まるで、静かに幕が下りるように。
私たちの幸せは、そこで終わった。
◆
あの日、私は夫を亡くした。
どうやら夫は運悪く歩道に突っ込んできたトラックに轢かれたらしい。トラックの運転手は運転中に心臓発作で亡くなっていたようだった。
誰も悪くなかった。
強いて言うなら、私が悪かったんだ。
あの時、キミにずっと傍に居てもらっていたら。
……いや、そもそも出会ったこと自体が間違いだったのかもしれない。
私はキミと付き合わず、結婚もしない。
そうすれば、こんな哀しみは生まれなかったのに。
あれから五年が経った。
現実を見つめてしまわないように、とにかく働き続けた。お金は実家へ仕送りするくらいしか使い道が無く、貯まる一方だった。
仕事が終わった後の時間や休みの日は苦痛で仕方がなかった。虚無感だけが胸の奥で燻っていた。
毎日を何も考えないように生きていた。
全てが間違いだったと、いつしか私はそう思うようになっていた。
▼
また、夏がきた。
働き過ぎて上司からお盆くらいは休みを取るように言われた。休みを取ったって、家で呆とするしかないというのに。日曜と合わせて四連休。上司に無理やり休みを取らされた。
仕事を終え、不満を抱えたまま帰宅した。
安アパートの一室は玄関扉を開けても真っ暗だ。そこにはもう、誰も居ない。
靴を脱いですぐの所に布団が敷いてある。いつからか、私は玄関で寝ている。仕事から帰ると、くたくたの体をそのまま布団に潜り込ませる。
私は毎晩そうやって寝ている。
▼
インターホンの鳴る音で目を覚ました。
ぼさぼさの髪と崩れたメイク顔、昨日のままの服装。寝ぼけ目をこすりながらインターホンの対応をした。
『母さんです』
また、か。
母はこうして時々様子を見に来る。
「ちょっと待ってて」
そう返して、インターホンを切った。
サッとシャワーを浴び、適当に着替える。
濡れた髪はそのままで玄関の扉を開けた。
「あら、その様子だと今起きたのね」
立っているのは母一人。視線を下げたが、母さんの膝丈スカートから覗くスラリと伸びた足があるだけだった。
「……何しに来たの」
ぶっきらぼうな態度の私に、母はにこりと微笑んだ。
「ちょっとお茶しない?」
たぶん、私の人生の中でも類を見ないほどに嫌がる顔をしたと思う。それでも母には通じなかった。
夏は眩しい。
私はなるべく下を向いて歩く。黒いアスファルトを見ていると落ち着くから。
歩くたびに、足が上がったタイミングでサンダルの隙間から小石が紛れ込む。そのまま踏み下ろすと足の裏がちくりと痛んだ。けれど私は気にも留めずに歩き続けた。
転がって来る思い出のように、小石は私を痛めつける。
「あれ、この時期ってお祭りやってなかったっけ」
「知らないの? 二年くらい前に無くなったのよ」
「そう、なんだ」
何事も変わらずにはいられない。人だってそう。
たぶん私も変わった。どう変わったかはわからない。ただ無為に過ごしているだけの日々が、けれど確かに私の何かを変えていた。
きっと私たちは、そうやって大切だったものを忘れていく。
「そこのカフェでいい?」
「どこでもいいよ」
アスファルトの上に虫の死骸が横たわっていた。おそらくアレはカマキリだろう。断定できないのは、頭部がまるで潰れた卵のようにぐちゃぐちゃになっていたからだ。自転車にでも轢かれたのだと思う。
率直に、無残な死に方だと思う。不幸だな、と同情もする。
けれど、不幸なんてそこら中に散らばっていて、いくらでもあるものなのだ。
母さんに連れ立って入店する。昼間のカフェには意外と人がいた。
そうか、夏休みだ。でも多いのは親子連れだった。
とりあえず紅茶とケーキを頼んだ。
何年ぶりだろう、久しぶりの母とのカフェは新鮮だった。
『かごめかごめ、籠の中の鳥は、いついつ出やる』
窓際の席に座ったから、外で遊んでいる子ども達の声が聞こえる。
窓越しに空を見渡すと、晴れ渡る夏空に鳥は一羽も飛んでいなかった。
「あんた、お盆休みは取った?」
「上司に無理やり取らされた。今日から日曜まで四連休」
「そう。ならよかった」
「全然よくない。休みがあっても、私は……」
窓から見える人通りの多い通路を子どもが駆けていく。パパ、ママ、と子供が叫ぶ。私くらいの年の両親が子どもを追いかけて、周りにぺこぺこと頭を下げている。でも彼らは全然申し訳なさそうに見えなくて、むしろ腹立たしいほどに幸せそうな感情が読み取れた。
「そろそろ出よっか。ここは母さんが払っとくから」
「いや、いいよ。お金ならあるし私が」
「あんたねぇ。いつも多すぎるくらい仕送りしてくるじゃない」
「……でも」
「相変わらず頑固ね。たまには甘えときなさい」
まったくこの母と言ったら、どれだけ私に優しくしたら気が済むのだろう。
ただでさえ私は、何もかも甘えているというのに。
席を立つ直前、母は、あ、そうだ、と思い出したように口を開いた。
「明日、また行くから」
暇だから、別にいいか。
私は特に深く考えず了承した。
▼
今日は扉を叩く音で目が覚めた。
確かに昨日、母が来ると言っていたけど、今までこんなに方法で訪問を知らされたことは一度もない。いつもインターホンだし。
寝ぼけ目のまま玄関扉を開けると、そこに母は居らず、いつもと変わらない風景が広がっているだけだった。
先ほどの乱暴なノックは一体何だったのだろう。誰かの悪戯だったのかもしれない。
まぁ、誰もいないのなら、どうでもいいか。
もう一眠りしようと思い、扉を閉めようとすると、服の袖を引っ張られる感覚があった。
つられて視線を下げた。
「おはようございます」
そこには、私の娘がいた。
蝉時雨が陽炎を濡らしている。
ゆらゆらと揺れる視界の中央で、忘れたかった面影をそっと重ねた。
「……何しに来たの」
昨日、母に返したものと一言一句まったく同じ言葉が零れた。
娘は背負っていたリュックを下ろして、その中から一枚の紙きれを取り出した。
「これ」
読め、ということらしい。
ため息をついて、それを受け取る。
二つ折りのそれを開いた。
『一家全員夏風邪で倒れてしまいました。治るまでこの子のことをよろしくね』
母らしい達筆な字でそう書いてあった。
そして、色々と察した。
思惑は知れないけれど、母は私と娘の関係をどうにかしたいと願っているに違いない。
ただ、強引だな、と思った。
ここで突っぱねることはできる。でもそれは裏切りの行為だ。
この五年間、娘のことは実家に預けて世話から何まで任せきりにしていた。時々母が連れてきたり、行事ごとの日には顔を合わせていたけど、私はなるべく娘の顔を見ないようにしてきた。
顔を見ると、思い出さずにはいられないから。
「とりあえず、上がりなさい」
「おじゃまします」
娘は玄関前で綺麗なお辞儀をしてみせた。すました顔をして意外に行儀がいい。舌たらずなところにまだ幼さを感じる。
玄関をくぐり、靴を脱ごうとして動きをピタリと止めた。すぐそこに敷いてある布団を指差した。
「おふとん」
「あぁ、邪魔だよね」
細い通路を陣取っていた布団をベランダに干しに出た。
戻ると、娘はリビングに正座でちょこんと座っていた。小さな手をキュッと丸めて、無垢な目は頼りなさげに震えていた。
「そんなに緊張しなくていいから」
思えば、これまで娘と会う時は必ず実家の誰かが居た。二人きりになるのはこれが初めてだ。
昨日、母がしてきた休みの確認。そして、このタイミングでこの子を寄越してきたのを考えると、連休の間は預かれということだろう。
明後日に帰すとしても、今日合わせてあと三日か。母が何を考えてるかは知らないけれど、適当にやろう。
とりあえず、私はいつものようにシャワーを浴びた。娘のあの様子なら大人しくしているだろう。
浴室から出て伺うと、案の定正座のままでいた。放っておいたらずっとあのままな気がする。
着替えた頃にはもう一〇時を回っていた。朝食には遅くて、昼食には早い。
「ねぇ」
と娘を呼ぶ。顔だけが私の方に振り向いた。
「朝は食べてきたの?」
「うん」
「そう」
なら、私は朝抜きでいいや。昼はどうしようかな。考えながら冷蔵庫の扉を開ける。
うわ、何もない。買いに行かないとダメか。
「買い物行くけど、昼何食べたい?」
「おかいもの」
「いや、だから何が食べたいのかって」
聞いてるんだけど。
続けようとした言葉に、娘の元気な声が重なった。
「わたしも行く!」
あぁ、そうなのね。
とくに返事は返さず、洗面所で適当に化粧をして、買い物に行く準備を済ませた。
「ほら、行くよ」
呼びかけるも、女の子座りの体勢から動かない。何してるんだろ。
「足、しびれた」
そりゃ、ずっと正座してたらそうなるよ。
声には出さなかった。
それから少しして家を出た。
そういえばこの子、幼稚園は行かなくていいのかな。そう思ったけど、すぐに夏休みだと気が付いた。
五歳児に合わせて歩くのは、ひどく緩慢に動くロボットにでもなった気分だ。
今日はスニーカーを履いているけれど、ふとした拍子に足の裏がチクリと痛む。昨日の夜に気付いたが、足の裏に黒い小石が皮膚の下に沈んでいたのだ。取り除くことは出来なかった。違和感はなかったけど、そう、ふとした拍子に痺れるような痛みを感じた。
取り除くことも忘れることもできない異物の存在を感じつつ、スーパーに向かう。
娘は大人しく育ったのか、同年代の子らよりも落ち着きがあった。ふらふらとどこかへ行く心配もない。
この子ってどんなものが好きなんだろう。私はこの子のことをよく知らない。まったくダメな母親だな。まぁ、血が繋がっているというだけで世話なぞはしてこなかったから、いいところ生みの親というだけなんだけど。
「お昼何食べたい?」
さっき答えてもらえなかったことをもう一度尋ねた。
娘は長いこと考えて、スーパーに到着した頃に口を開いた。
「おばあちゃんのご飯」
あぁ、そう。
別にムカついたりはしない。
この子が生活してきたのはあの家で、これまでずっと食べてきたのだって私の母の料理だ。
だから私は、胸に芽生えた僅かなモヤモヤから目を逸らした。
カートを押しながら適当に食材を積んでいく。娘は後ろをちょこちょこと付いてくるだけで何もねだったりしてこない。
せめて欲しいものとかないのかな。
「お菓子とかいらないの?」
尋ねると、娘は驚いたような表情。
「……いいの?」
おそるおそるといった伺い様。
いや、なにその反応。
「別にいいわよ」
応えると、娘はそのすました瞳を若干キラキラと輝かせて、お菓子が売っているコーナーへ控えめに駆けていった。
見送って、食材選びを再開する。
少し進んだところで娘が戻ってきた。
「これ!」
ポテトチップスが入った小さな袋を突き出してきた。
なんでそんなにテンション上がってるの?
よく分からない。
それを受け取ってカートのカゴに入れる。
「一個だけでいいの?」
「……まだ、欲しい」
「持ってきなさい」
また、娘は瞳を輝かせて駆けて行った。
あの子の喜ぶ琴線が分からない。
お菓子が好きなのかな。でもあの家で暮らしてたら洋菓子なんていくらでも作ってもらえるだろうに。あぁ、こういうジャンクなものは無いか。
ややあって戻ってくる。心無しかさっきよりも早い。
「ん!」
今度はグミの袋だ。
ていうか、これなら一緒にお菓子のコーナーまで行った方が早いな。
受け取ってカゴに入れ、カートをお菓子のコーナーまで押した。娘は後ろをアヒルの子供のようにちょこちょこと付いてくる。
お菓子のコーナーで立ち止まった私を、娘はキョトンとした表情で見上げた。
「他にも欲しいのがあったら入れていいよ」
すました顔がみるみるうちに笑顔になる。
そういえば、この子が笑ったところを初めて見たかもしれない。
買い物を終えて家に帰るともうお昼時で、私は早速調理に取り掛かった。
しかしここで困ったことが。
この年頃の子って、何を食べるんだろう。
あの子に聞いてもまたおばあちゃんの料理なんて言われそうだったから、スマホで検索した。親として情けないような気がするけれど仕方がない。
検索した結果、出てきたのはほとんどがお弁当。うん、これ参考にお子様ランチっぽいの作ろう。
……というわけで、完成したんだけど。
これ、ただのキャラ弁だ。
参考にしたの間違えちゃったな。
なんか無駄に気合い入れたみたいで恥ずかしい。
おそるおそる食卓を囲む。親子揃って休日のお昼ご飯がキャラ弁って、なんだかとてもシュールだ。
娘は不思議なものでも見るように、弁当の中身を覗き込んでいる。その様子じゃミッ◯ィー知らないのね。軽くカルチャーショック。
「いただきます」
やはりここでも行儀がいい。
合唱すると、スプーンを手に取って食べ始めた。子ども用の食器なんて置いていなかったから、代わりにティースプーンを用意した。
私はいつの間にか娘の一挙手一投足に注目しており、なぜかひどく緊張していた。
娘はおかずが多くてどれから手をつけようかと迷っていたが、まずは玉子焼きを口に運んだ。咀嚼し、嚥下する。じっと見ていた私に気付いた。
「おばあちゃんのと同じ味がする」
「……そう」
「でも、ちょっと違う」
そりゃそうだ。
私が食べてきたのはあの玉子焼きで、あの味がもっとも慣れ親しんでいる。でも作ったのは私だ。全く同じという訳にもいかないだろう。
苦笑いが浮かんだ。
同時に、どことなく気分が沈んでいた。
どうしてかな。私は、別の言葉を期待していたのだろうか。何かと聞かれると分からないけれど。
途端、娘のすまし顔がほどけた。お菓子を選んでもいいと言った時ほどじゃないけど、それでも僅かにはにかんだ。
「違うけど、おいしい」
私は久しく見なかった感情と再会した。
これはおそらく、喜びというのだ。
娘に肩を揺すられて目が覚めた。
女独りの家に子どもの遊び道具があるわけでもない。本棚のものを適当に読んでて、と言いつけたが、意外にそれで満足できているようだった。
私は呆とそんな娘の様子を眺めていたが、いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。
外はもう日が暮れ始め、薄い橙色が窓から部屋に射し込んでいた。
「ねぇ」
「どうしたの」
寝起きのかすれた声で応える。
娘はどこか興奮した様子で手に持つ一枚のそれを指さした。
「ここ行きたい」
娘が見せつけてきたのは、一枚の写真。
目にした途端、急速に目が覚めていく。動悸は加速し、指先が微かに震えた。
それは、本棚の深いところに仕舞ったはずの、アルバムに残した最も輝かしい記憶の欠片。
写真の背景には埋め尽くさんばかりのひまわり群。黄色の大輪に囲まれて、幸せそうに微笑む男女が一組。写真の中の私は婚約指輪を見せつけるように左手の薬指をこちらに向けていた。
「ねぇ、ここ」
急かされるように肩を揺すられる。
胸の奥で黒い感情が渦巻いていた。
「だめ!」
静かな部屋に私の声はやけに響いた。
乾いた余韻はひぐらしの鳴き声に塗りつぶされた。
縋るような娘の双眸が私を捉えている。
「そんなに行きたいのなら、一人で行きなさい」
苛立ちを顕にそれを一蹴する。
娘は立ち上がり、駆けていく。
俯いていた私は、頼りなさげに閉まる玄関扉の音を聞いて弾けるように顔を上げた。
あの子、どこへ行く気だ。
サンダルを足に引っ掛けて家から飛び出す。路に出て見渡すと、左に見覚えのあるリュックを背負った小さな後ろ姿を見つけた。
走る。必死になる意味もわからないまま、必死になって駆け寄った。
「馬鹿! どこ行くのよ!」
住宅街に私の声が響いた。まるで怒声だ。私は怒ってるのだろうか。わからない。自分でも分からない。自分が、分からない。
振り返った娘は瞳を濡らしていた。鼻をすすっていた。しゃっくりのような喘ぎが耳に刺さる。ズキンと胸が痛んだ。何故かとても痛かった。
「だって、一人で行けって、言ったから」
それでも娘は泣かなかった。
決して泪を流さなかった。
ただ精一杯こらえるように、己の矜持で堰止めているようだった。
「あぁ……」
そんな娘を見て私は、自分の愚かしさを突きつけられたような気がした。
血色のいい茜色が夕陽に絡みついて沈んでいく。
ひぐらしが鳴いている。
どこかで風鈴の音が聞こえた。
足の裏に痺れるような痛みがあった。違和感はまだ拭えない。
私は娘を抱きしめた。たぶん、これが二回目だ。一回目は産んですぐに。二回目は、今だった。ようやく、今なんだ。
「ごめん……ごめんね……」
懺悔は祝詞のように重い。
私はそれを知らなかった。
夜の帳が落ちて、凛とした静けさが舞い降りていた。
寝室で寝るのはいつぶりだろう。
娘が一緒に寝たいと言ったので、私達は一つの布団にくるまっていた。
「ねえ」
「ん?」
「いっしょのお布団、あったかいね」
どうしてかな。
今日はこんなにも感情を揺さぶられる。
「……今まで、寂しかった?」
「うん」
そうか、この子はずっと耐えて待っていたんだ。
嗚呼、だとしたらこの子は強い子だ。
例えば幼稚園。私は入園式にも行かなかったし、ましてや送り迎えなんてしたこともない。この年頃でそんな境遇の子は珍しいだろう。それが原因で虐められたりしたかもしれない。少なくとも、周りから嬲られるような視線で見られたことは間違いないはずだ。それでも泣かずに耐えてきた。
だから、この子は強い。
私なんかよりもずっと強い。
ただ逃げ続けていただけの私より。
「今日、私と居て嫌じゃなかった?」
「うん」
娘を腕の中に収めながらこの五年間のことを考えた。
まず浮かんだのは、後悔。
子どもにとって大事な時期をほとんど一緒に居てやれなかった。
そして、次に浮かんだのは、後ろめたさ。
娘に父親の話を一度もできなかったのは単に私の心の弱さが原因だ。
最後に浮かんだのは、自身への不甲斐なさ。
これら全部ひっくるめて私の至らないところだから。今まで私が本当に許せなかったのは、私自身だから。
「明日、行こっか。一緒に」
「うん」
あそこに行けば、答えが見つかる気がした。
▼
玄関は人が入ってくる場所だ。
きっと私は夢の中でもいいから会いたかったんだと思う。
私は待っていた。玄関で寝ることで、帰りを待っていた。
それは耐え忍ぶことではない。哀しいほどに現実逃避だった。
しかし当たり前だけれど、いつまでもキミは帰ってこなかった。おんぼろの扉を叩く聞き慣れたノック音は遠い昔に取り残され。やがて記憶と共に薄れていった。
でも、昨日。
ようやく扉を叩く音がした。
▼
ぐっすり眠れた。玄関以外の場所で熟睡できたのはずいぶんと久しいように思う。
娘を起こして、朝食の用意をした。トーストとお味噌汁。和洋折衷。
寝ぼけ目をこする娘を対面に、朝食を済ませた。いつもより味がはっきりとした気がした。
それから外出の準備をそれぞれする。メイクを施す際に鏡に映った自分は、心なしか微笑んでいるように見えた。
昼前に、小さなリュックを背負った娘と家を出た。
「いってきます」
部屋の中には誰もいないのに、玄関の扉を閉めながら、私たちはそう呟いた。
例のひまわり畑は、電車で二時間ほどの場所にある。
一度だけ乗り換えを挟むが、問題なく向かえるはずだ。
はぐれてしまわないように娘と手を繋いで改札を抜ける。
昨日は後ろを付いて来ていたのに、今は手を繋いで隣に居る。それだけのことが、どういうわけかひどく感慨深い。
「電車に乗るのは初めて?」
「うん」
そうなんだ。
なら尚更、娘とはぐれないようにしっかり隣に居ないとな。
「でも、ぶーぶーは乗ったことある」
「ぶーぶー……あぁ、車ね」
そんな会話をしながら目的地行きの電車に乗り込んだ。
入れ違いに手ごろな席が空いたので二人並んで座る。
発車します、というアナウンスで電車が動き出す。
娘は窓の外を眺めている。私もつられて外を見やった。見慣れた街が流れていく。激動の日々に呑まれるように、景色が通り過ぎてゆく。
「はやい……」
「そうかな」
「うん、すごい」
見慣れた私にとってはこんなものでも、娘にとって初めて乗る電車から見る景色はきっと素晴らしいものなんだろう。娘はまるで流れ星でも見ているかのように忙しなく瞳を動かしている。
電車の速さ。日々の早さ。子供の頃はきらきらしていたはずなのに、大人になって見慣れたその感覚を、私は忘れてしまった。
「新幹線はもっと速いよ」
「なにそれ」
「新幹線。えっと……こんなやつ」
スマホで画像を検索して見せる。
私たちが乗っている電車よりも滑らかで白いフォルムのそれを、娘は食い入るように見つめた。
「どのくらいはやいの?」
「んー、ものすごく?」
「すごいんだ」
「うん、凄いよ」
二人してすごいすごいとはしゃいでいた。乗り物の話をしているだけなのに、どうしてだか心が踊っていた。乗り物なんて興味ないから普段はこんな話絶対しないのに。
「でもね、飛行機はもっと速いよ」
「飛行機?」
私はさっきと同じようにスマホで検索した画像を見せる。空を飛ぶ鉄の塊の画像を、娘はしげしげと見つめた。
「わたし、見たことある」
「そう」
「うん。でも、そんなにはやくなかった」
「遠くから見ると遅く感じるのよ。あと飛行機は空を飛ぶから、電車とかみたいにレールの上を走らなくていいの。まっすぐ行けるの」
「……よくわかんない」
「そっか」
「でも、お空を飛べるのすごい」
「そうだね、凄いね」
また、すごいすごいとはしゃぐ。
窓越しに空を見上げた。いつもよりその青は煌めいているような気がした。
「ひこうき、乗ってみたい」
「そうなんだ」
「うん。そしたら、わたしもお空飛べる」
「そう、だね。でも、行先がなきゃ」
「いきさき?」
「そうだよ。どこか行きたいとこ」
「……わかんない」
「そうだよね」
行くべきところがあるから人は乗り物に乗る。だから、行先を決めなければならない。乗りたいだけでは乗れない。行為としては実行できても、現実としてその選択はできない。
……子どもにはちょっと難しかったかも。
空には一筋の飛行機雲がある。それは飛行機の通り過ぎた痕。
飛行機は速い。けれど、乗るまでに時間がかかることを私は知っている。空港までの交通、発着時間のロス、荷物検査など、乗るまでが大変なのだ。
ひとたび乗れば速いけれど、乗るまでが億劫。
だから飛行機に乗るには、勇気がいる。
私はそう思う。
一時間半ほど電車に揺られて、乗り換えの駅に着いた。
すっかり寝てしまった娘の肩を揺すって起こす。
「降りるよ」
こくりと頷いた娘の手を引いてホームへ。
時刻表を見ると乗り換えの電車が来るまで二〇分くらい時間があった。
大人しくベンチに腰掛ける。
だいぶ田舎の方まで来たからか、自然の溢れるところだった。強い既視感、胸の内から溢れる懐かしさ。私はそれらから目を背けるように空を見上げた。窓越しではなく、今度こそ直視した太陽は眩しかった。
「ねぇ」
呼ばれて目を向ける。娘はすっかり目が覚めたようだ。
「どうして降りたの?」
「乗り換えるためだよ」
「……?」
「えっと、さっきの電車に乗ったままだと、行きたいところに着かないから」
「そうなの?」
「うん。だから、乗り換えるの」
「じゃあ、しょうがないね」
「そうね」
「もっと乗っていたかったけど……行きたい所にいけないならしょうがない」
娘のその一言が突き刺さった。
きっと、何気なく漏らした呟き。けれど、確かに私の胸を打った。
私たちには行先がある。そこに行くためには、ずっとそのままではいられない。
大げさかもしれない。でも、生きている限りそうなんだ。
私たちの行先は──
広大な農地に数え切れないほどのひまわりが咲き誇っていた。背の高い花や、足もとに生える小さな花まで、様々なひまわりが太陽に向かってその大輪を掲げていた。
──そのはずだった。
少なくとも私の記憶ではそうだった。
でも、たとえば、今ではもう開かれなくなった夏祭りみたいに。それはただ記憶にだけ焼き付いた亡霊のように。
「……うそ」
かつては花畑だったであろうその場所は、記憶の影だけを遺して、雑草生い茂る跡地へと変貌していた。
「痛い!」
娘が握られた手を振って抗議の声をあげる。知らず知らずのうちに強く握りしめていたようだ。
一本一本丁寧に指を解く。己の理性を確かめるようにゆっくりと娘の手を離した。
「ねぇ、ここ?」
私は答えない。否、答えられない。
「写真の場所、ここ?」
風が吹いた。爽やかな風。汗ばむ体に心地がいい。けれどじりじりと照り付ける太陽は風の心地よさをすぐに忘れさせる。
娘を見た。娘は不安そうに私を見上げていた。私は娘を見下ろしていた。私は一体どんな顔をしているのだろう。
きゅう、と可愛らしい音が鳴った。娘がお腹を押さえた。
そういえば昼前に家を出てここに着くのに二時間以上かかったから、もうお腹がすいていても不思議じゃない。
「おなか減った」
「そうだね」
けれどあいにく、この辺りにご飯を食べられる店などはない。探すなら駅前まで戻らなければならない。
それに私は、空腹を感じてはいなかった。それとは別に重たい感情がお腹の底にどっしりと溜まっていた。
ぼんやりとした返事を返したきり動かない私とは違って、娘は背負ったリュックを下ろして中からお菓子の袋を取り出した。それらは昨日私が買ってあげたものだった。
娘はその場に腰を下ろして袋を開ける。その中から取り出した一枚のポテトチップスを愛おしそうに見つめて、かじりついた。ポテトチップスの三分の一が小さな口の中で砕かれる。
「おいしい」
感動的なものでも見たかのように娘は目をキラキラと輝かせた。ただのポテトチップスにそこまで感動できるなんて、子どもは無邪気だなと思う。
「おいしいよ」
「……はは」
何が可笑しいのか、笑いが漏れる。自分で自分を制御できない。
ここへ来れば答えが見つかるような気がした。でもそれは浅はかな考えだったようだ。
眼前に広がるのは鬱蒼とした雑草群。雑草はまるで肥大化した思い出のようにやたらと背が高い。記憶の中の向日葵とどっこいどっこいだ。
忘れたいと願った。それなのに、私はいつまでも思い出に縋っていた。なんとも稚拙な矛盾。幼子がだだをこねるようなものだ。みっともない。こんな自分が嫌になる。けれど、それでも、私にとってキミはすべてだった。
キミに恋をしてから、キミと一緒に生きてきた。いつも当たり前のように隣に居た。それなのに、ある日急にいなくなった。半身を失ったかのような喪失感を味わった。拭っても拭いきれない立てないほどの哀しみを浴びた。そうして、在りし日に沈んだままの私はいつまでも動けないまま。乗り換える勇気も、新たに乗り込む勇気もない。
率直に思う。
私は、一体これまで何のために生きてきたのだろう。
キミの居ない世界なんて、何の意味があるのだろう──
「ママ!」
それは涙に濡れた声。
昨日、私があれほどきついことを言っても泣かなかった娘が、今、涙を流している。
いや、それよりも、この子は何と言った。
私のことを、なんと呼んだ。
「あのね、おいしいの」
娘は泣きながらポテトチップスを頬張る。たかがお菓子を、そうまでして食べようとする。
「ママが、はじめて買ってくれたから」
「……え?」
「私に、はじめて買ってくれたから」
雷に打たれたような衝撃が体を駆け抜けた。
私はこれまで、極力娘の顔を見ないようにしてきた。キミの面影を宿した娘の顔を私は直視できなかった。私にはそれが、キミの偽物に見えたのだ。
でも、違う。
娘は、娘だ。この子は私の娘で。同時にキミの娘だ。そう、この子は、私とキミの娘なんだ。
視界が滲む。涙が流れそうだ。でも、堪えなきゃ。今までこの子は堪えてきたのに、私が涙を流していいはずがない。
しっかりと、前を向いて。
私には足がある。座り込むためじゃない、前へ進むための足が。
私には手がある。目や耳を塞ぐためじゃない、何かを掴むための手が。
雑草群へ向かって歩き出す。向かうは中央。記憶通りなら、小さいがなだらかな丘があるはず。そこから見渡せば、見つかるかもしれない。
「ママ!」
娘に手を掴まれる。目を合わせた。うん、と頷きが返って来る。
背の高い草をかき分けて一緒に進む。ただがむしゃらに、そこへ。
ピリッと足の裏が痛む。小石は皮膚の裏でその違和感を主張する。でも、関係ない。私は娘とふたりで歩き続ける。
深く進んで、途端、視界がひらけた。
私の背よりも高い雑草はなく、娘の身長ほどの草しかない。
ここが、思い出の丘。思い出の、と言うには見るも無残な光景だ。やはり青々とした雑草が広がっているだけの場所。
けれど私はここに立っている。
娘と共になだらかな丘の頂きへ。
そこから、見渡す。見渡す。見渡す。
──けれど、いくら見渡しても、あの輝かしい黄色の大輪は見えない。もしかしたら背の高い雑草に混じっているかもなんて考えたけど、現実は非情にも私の期待を容易く打ちのめした。
……泣くな。勇気を出せ、私。諦めない勇気を。
「あ!」
後ろで娘が声を上げた。勢いよく振り返ると、娘の指差したその先に小さな花。
背の低い向日葵が咲いていた。
「……あぁ」
忘れていた。向日葵は背の高い花だけじゃない、背の低い花もあるのだ。
そう、生きていると、些細なことは忘れてしまう。
たとえば、キミと過ごした日々の些細な思い出が薄れていくように。
でも、キミの存在を忘れることはできない。
忘れようと思っても、どうせ忘れられないから、残ったものを大切にしなくちゃいけない。
生きることは忘れることだ。
忘れることはひどく恐ろしいことだ。
それでも、私の中にキミがいて、キミと遺したものが確かにあって。
きっと、それでいいんだ。
キミと残したもの。残せたもの。
あるかな。あったらいいな。
「ママ、ひまわり」
娘がまた、うっそうと茂った雑草の根元を指さしている。
嗚呼、あったね。
ここにも、小さなひまわり。
その時私は、自分の中で縛り付けていた何かをようやく手放したような気がした。
ふと、玄関を思い出した。
玄関は人が入ってくる場所だ。
けれど同時に、人が出ていく場所でもある。
大きな風が吹いた。
駆動音にひかれて天を仰いだ。
白く輝く太陽に向かって飛行機が駆けている。
飛行機雲は無かった。
眩しかったけど、私は飛行機を見送った。